フレッド・アステアとバレエの因縁②「ヨランダと盗賊」をめぐって

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フレッド・アステア
Photo by Nihal Demirci Erenay on Unsplash
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 フレッド・アステアとバレエはどういう関係にあったか?

 フレッド・アステアが映画デビューしてから、RKO制作の映画でジンジャー・ロジャーズと共演していた時のことは、下の記事に書いた↓

 ここではフレッド・アステアがRKOから離れ、ジンジャー・ロジャーズから離れてからのことについて書く。

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ジンジャー・ロジャーズから離れて

 フレッド・アステアは1939年に公開された映画「カッスル夫妻」を最後に、RKOから離れ、ジンジャー・ロジャーズとも離れた。


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 それから各社でフレッド・アステア主演の映画が作られた。

 いずれもタップダンスを中心とした映画になっている。

MGM

 まず1940年、MGMの映画「踊るニューヨーク」( “Broadway Melody of 1940” )。


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 MGMのタップダンスのスター、エレノア・パウエルとフレッド・アステアが共演した映画で、見どころは二人のタップダンス。

コロンビア

 1941年、コロンビアで映画「踊る結婚式」( “You’ll never Get Rick” )。


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 共演はリタ・ヘイワ―ス。

 フレッド・アステアはリタ・ヘイワ―スと二人で、また一人でタップダンスをやっている。

パラマウント

 1942年、パラマウントで映画「スイング・ホテル」( “Holiday Inn” )。


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 共演はビング・クロスビー。

 ビング・クロスビーは歌を聞かせ、フレッド・アステアはタップダンスなどを見せる。

ジーグフェルド・フォリーズ

 フレッド・アステアはその後にMGMに所属することになった。

 MGMでの第一に作られた映画は「ジーグフェルド・フォリーズ」。(撮影は1944年。公開は1946年)


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 映画「ジーグフェルド・フォリーズ」でフレッド・アステアの出番は複数あるが、その中の一つでまたバレエに取り組むことになった。

 フィリップ・ブレーム作曲の「ライムハウス・ブルース」( “Limehouse Blues” )によるバレエである。

 フレッド・アステアは「ライムハウス・ブルース」をやるためにMGMと契約したとまで語っている。

私がメトロとの契約にサインした理由のひとつに、フィリップ・ブレームの「ライムハウス・ブルーズ」のようなナンバーを歌いたいというのがあった。この歌はずっと大好きな歌だったのだ。

「フレッド・アステア自伝」、341頁

フレッド・アステア自伝 Steps in Time

 原文。

One of my main reasons for signing the Metro contract was to get an opportunity to put on some kind of number to Phillip Braham’s “Limehouse Blues,” which had always been a favorite song of mine.

“Steps in Time” p.264

Steps in Time: An Autobiography

 「ライムハウス・ブルース」は、フレッド・アステアが自ら積極的にやりたいと言ったものだったのである。

 そういうフレッド・アステアの要望を受けて、監督ヴィンセント・ミネリと振り付けのロバート・オルトンが「ドラマティックでかなり入り組んでせわしない、バレエとパントマイムのコンビネーション」(a pretty busy and intricate dramatic ballet pantomime combination)を用意したのである。(「フレッド・アステア自伝」、341頁。原文 “Steps in Time” p.265)

 「ライムハウス・ブルース」のバレエは、フレッド・アステアの演ずる人物の夢を表現するというかたちになっている。

「オクラホマ!」

 「ジーグフェルド・フォリーズ」でバレエが取り入れられたことは、ブロードウェイ・ミュージカル「オクラホマ!」と関係があると思われる。

 リチャード・ロジャースがロレンツ・ハートと別れて、オスカー・ハマースタイン二世と組んで初めて作った「オクラホマ!」は、ミュージカルの歴史の中で画期的な作品であった。

 ミュージカルとバレエとの関係では、一幕終わりにヒロインの夢がバレエによって表現されているところが重要。

 それまでの話でヒロインが悩んでいたことがバレエによって表現されているのである。

 「オクラホマ!」がニューヨークで開幕したのは1943年3月。

 「ジーグフェルド・フォリーズ」のプロデューサーのアーサー・フリードは、「オクラホマ!」

 「オクラホマ」は1955年に映画化された。振り付けはブロードウェイ版と同じアグネス・デ・ミル( Agnes de Mille)。


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「ヨランダと盗賊」

 1945年11月に公開された映画「ヨランダと泥棒」(”Yolanda and the Thief”)は、フレッド・アステアとバレエとの関係で重要な作品。


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 「ヨランダと盗賊」が公開されたのは1945年。

 「ジーグフェルド・フォーリーズ」はそれより前、1944年に撮影されたが、公開されたのは1946年で、「ヨランダと盗賊」より後になった。

 「ヨランダと盗賊」の中には、大がかりなバレエがある。―劇中でフレッド・アステアの演ずる人物がみる夢(悪夢)がバレエで表現されるのである。

 「ジーグフェルド・フォーリーズ」の「ライムハウス・ブルース」を発展させたということもできる。

 監督は同じくヴィンセント・ミネリ。

 振り付けは変わってユージーン・ローリング(Eugene Loring)。

 「ライムハウス・ブルース」は中国風であったが、「ヨランダと盗賊」のバレエはシュールレアリスムを取り入れたものになっている。

 「ヨランダと盗賊」のバレエは、「ライムハウス・ブルース」以上に、その後のミュージカル映画の先駆けとなっているところがある。

後のミュージカル映画との関係

 劇中でフレッド・アステアの演ずる人物がみる夢がバレエによって描かれる。

 その人物の心の中にある問題がバレエによって描かれる。

 その後のMGMミュージカル映画で、「踊る大紐育」(1949年)、「巴里のアメリカ人」(1951年)は、夢ではないが、主人公の心の中にある問題がバレエによって描かれている。

 MGMではないがフレッド・アステアの「足ながおじさん」(1955年)では、夢(悪夢)というかたちで主人公の心の中にある問題がバレエによって描かれている。

美術

 映画「ヨランダと盗賊」のバレエにおいては、主人公の夢(悪夢)=心の中にある問題を表現するために、背景にシュールレアリスムが取り入れられている。

 背景にシュールレアリスムが取り入れられていることは、「巴里のアメリカ人」においてフランス印象派の画家の絵が取り入れられたことと通ずるところがある。

 地面に高いところと低いところがあることも「巴里のアメリカ人」と似ている。

 いずれも監督はヴィンセント・ミネリ。

フレッド・アステアの恰好

 「ヨランダと泥棒」のバレエでのフレッド・アステアの恰好は、後の映画「バンド・ワゴン」(1953年)の「ガール・ハント」バレエの時のフレッド・アステアの恰好―白のハット、青のシャツ、白のスーツ―と似ている。

 映画「トップ・ハット」以来の、トップハット、白の蝶ネクタイ、燕尾服という姿とは異なる姿が作り出されている。


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「ヨランダと盗賊」の興行成績

 「ヨランダと泥棒」は、ミュージカル映画の卓越した作り手たち力を結集させて作った作品であった。

 MGMで多くのミュージカル映画の傑作を制作したアーサー・フリードは、この映画のために自ら作詞を担当するほど力を入れていた。

 ところが映画「ヨランダと盗賊」は興行的に失敗した。

「ブルー・スカイ」

 「ヨランダと盗賊」が失敗した後、フレッド・アステアは映画「ブルー・スカイ」( “Blue Skies” )に出演した。(1946年)


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フレッド・アステアが「ブルー・スカイ」に出演した気持ち

 フレッド・アステアはそのことについて自伝で次のように語っている。

この上また軽量級の作品を重ねたくはない。「弱い作品」が二本続くと自分の価値も下がってしまう。

「フレッド・アステア自伝」、366頁

フレッド・アステア自伝 Steps in Time

 原文。

I don’t want to do another light-weght right on top of it. Two “weakies” in a row can reduce you.

“Steps in Time” p.282

Steps in Time: An Autobiography

 フレッド・アステアは「ヨランダと盗賊」の失敗から立ち直るために「ブルー・スカイ」に出演することを決めたというのである。

 フレッド・アステアは「ブルー・スカイ」に出演するために、MGMからパラマウントに貸し出されることになった。

 フレッド・アステアは「ブルー・スカイ」で引退することをも決めた。

わたしはこの映画の撮影中、これを最後に引退する気持ちを固めた。わたしが必要だと思う要件を『ブルー・スカイ』は満たしていた。ヒットになりそうだと思えたのだ。

「フレッド・アステア自伝」、366頁

フレッド・アステア自伝 Steps in Time

 原文。

I made up my mind during the shooting of this film that I wanted to retire on it.Skies measured up to the requirements I considered essential: It looks like a hit.

“Steps in Time” P.282

Steps in Time: An Autobiography

 フレッド・アステアは映画「ヨランダと盗賊」での失敗の後では「ヒット」がなくてはならないと思っていた。

 「ヒット」した上で引退したいと思っていた。

 フレッド・アステアが「ブルー・スカイ」で引退しようと考えた理由は他にもあると言われている。

 いずれにせよ、フレッド・アステアは「ヨランダと盗賊」の失敗によって大きな傷を負って、次の映画でその傷から立ち直らなくてはならないと考えていたのである。

映画「ブルー・スカイ」の方向

 フレッド・アステアが「ヒットになりそうだと思えた」という映画「ブルー・スカイ」はどういう作品であったか?

「スイング・ホテル」

 「ブルー・スカイ」は、1942年に公開された映画「スイング・ホテル」と似ている。


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・ビング・クロスビーが歌を聞かせ、フレッド・アステアが踊りを見せる

・ビング・クロスビーとフレッド・アステアが同じ女性を取り合う

 フレッド・アステアが「ブルー・スカイ」に出演することは、「スイング・ホテル」に帰ることということができる。

 「スイング・ホテル」は大ヒットしたが、「ブルー・スカイ」も大ヒットした。

映画「ブルー・スカイ」のダンス

「ヒート・ウェイヴ」 ”Heat Wave”

 映画「ブルー・スカイ」の終盤には、アーヴィング・バーリンの楽曲「ヒート・ウェイヴ」による大掛かりなダンスがある。

 そのはじめには、「ヒート・ウェイヴ」を歌うオルガ・サンフワンにフレッド・アステアが「ヨランダと盗賊」の夢のバレエのように近づくところがある。

 しかしその後にはフレッド・アステアがソロのタップダンスを存分に披露している。

「プッティン・オン・ザ・リッツ」 ”Puttin’ on the Ritz”

 映画「ブルー・スカイ」で最も有名なダンスは、楽曲「プッティン・オン・ザ・リッツ」( “Puttin’ on the Ritz” )によるフレッド・アステアのタップダンス。

 劇中では「ヒート・ウェイヴ」より前にあるが、フレッド・アステアの引退前の最後のダンスとうたわれた。

 そこでフレッド・アステアはトップ・ハット姿(モーニング)になっている。

回帰?

 映画「ブルー・スカイ」でフレッド・アステアは、

・「ヨランダと盗賊」で切り開いたバレエも取り入れているが、

・トップハット姿でタップダンスを踊るという、前に成功したやり方に帰っているようである。

 振り付けはハーミーズ・パン。

 ハーミーズ・パンは、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが共演した映画でフレッド・アステアとともにダンスを考えていた人。

 ハーミーズ・パンを起用したことも、フレッド・アステアが前に成功したやり方に立ち返ろうとしていることを現わすことのように見える。

まとめ

 フレッド・アステアは映画「ヨランダと盗賊」において、夢を表現する大がかりなバレエに挑戦した。

 ところが「ヨランダと盗賊」は興行的に失敗してしまった。

 フレッド・アステアとバレエの出会いはうまくいかなかったのである。

 フレッド・アステアは映画「ブルー・スカイ」において、トップハット姿で、タップダンスを見せるという前に成功したやり方に帰った。

 そうして引退しようと考えた。

 バレエから、それまでに成功していた姿に帰って引退しようと考えたのである。

 続き↓

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