月: 2021年1月

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」の問題

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」の問題

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、原作の漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」と大幅に違うものになっている。

     そのことによって、多くの人に嫌われ、一部の人に支持されている。

     「あの日にかえりたい」の作り手はどういう考えから原作と大幅に違う作品を作ったのであろうか?

    漫画と現実

     望月智充監督は、「あの日にかえりたい」の製作中に「アニメージュ」に次のように語っている。

    ストーリーは、原作とかなり違えて雰囲気もいままでの明るくて陽気、という感覚ではなくて、もっとずっとシリアスなものにしていきます。というのも、僕はやはりあの三角関係の決着がそう簡単につくとは思えないからなんです。

    「アニメージュ」1988年6月号、76頁

     原作に対して「あの三角関係の決着がそう簡単につくとは思えない」というのである。それゆえに映画でやり直すというのである。

    原作では恭介とまどかの関係に気がついたひかるは、恭介のほほを1度ひっぱたいただけで恭介をあきらめます。現実には、女の子ってあれだけで済ませるわけがない。そこで、映画ではその部分をじっくりとやってみました。ひかると恭介との間にはいって苦しむまどかの姿を中心に、少女ふたりの内面を心理ドラマとして見せたいと思っています。

    「アニメージュ」1988年8月号、25頁

     望月監督は原作に対して「現実には、女の子ってあれだけで済ませるわけがない」という考えから「あの日にかえりたい」を作るというのである。

     要するに、望月監督は「現実」を基準として、原作は「現実」通りでないと言い、それに対して「現実」通りに「あの日にかえりたい」を作るというのである。

    問題

     ところで、望月監督の主張は正しいのであろうか?

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」には、望月監督の言うように正しくないところがあって、「あの日にかえりたい」はそれを正しくしているのであろうか?

     小黒祐一郎氏は、「あの日にかえりたい」は「『オレンジ☆ロード』というタイトルが抱えている問題」を「えぐる内容となった」と語っている。小黒氏も、原作には問題があって、「あの日にかえりたい」はその問題をついた、というのである。

    「ラブコメ」と「現実」

     望月監督が「現実」を基準として、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を批判して、それに対して「あの日にかえりたい」を作ったことは、「現実」より甘いラブコメに対して厳しい「現実」をつきつけたものと考えることもできる。

     しかし、たとえば「めぞん一刻」なども、「現実」より甘いラブコメということになるのではないか? こずえの身の引き方も、三鷹の身の引き方も、「現実」より甘く作られているのではないか? いずれも「きまぐれオレンジ☆ロード」のひかるの身の引き方と比べても、甘く作られているのではないか?

     要するに、望月監督の批判は、必ずしも特に「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品に対するものではなく、「めぞん一刻」のような作品をも含めた作品群に対するものではないか?

     ところで望月監督が「現実」を基準としたと言っても、「あの日にかえりたい」は作り物にすぎない。

     「めぞん一刻」のような作品群と、「あの日にかえりたい」のような作品とは、作り物の様式が違うということができる。

     そこでまず、一方の様式が正しくて、もう一方の様式が正しくない、ということができるのか、ということが問題となる。ラブコメにはラブコメの様式があって、それに対して「現実」ではないということはその様式を無視したことにすぎないのではないか、ということである。

    「きまぐれオレンジ☆ロード」

     次に、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は、「めぞん一刻」などと比べると、甘いラブコメにとどまらずに、「現実」をも描こうとしたものではないか? たとえば最終回の一つ前の話(「帰れないふたり!の巻」)では、それまでの三角関係が壊れていく中で、ひかるの悲しみも、まどかの苦しみもまじめに描かれている。

    (ひかるの悲しみ、まどかの苦しみは、JC18巻で加筆されたところに描かれている。JC18巻が出版されたのは1988年7月15日であるから、望月監督の上の発言の時にはまだ出ていなかったのではないかと思われる。加筆は、原作者が「あの日にかえりたい」の企画を知った上で作ったかもしれない。)

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は、甘いラブコメの外に厳しい現実があるということを自ら示していた。

     たとえばJC5巻第40話「タイムスリップ・クリスマス!の巻」では、本編が甘く終わっているのに、扉絵には厳しい表情が描かれている。扉絵の厳しい表情は、その前の第39話の最後の頁の「本当に―/このままで/い―の?」という言葉を受けたもののようである。そこで、作者は、甘い話の外に厳しい現実があることを示しているのである。

     まつもと泉氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」の終盤で「少女マンガ」がやりたかったと言っていた。「少女マンガ」とは、甘いラブコメではなく、厳しい現実をも描くものではないかと思われる。

     要するに、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を、単に甘いラブコメにとどまらずに、厳しい「現実」をも描こうとしたものである。

     それに対して「あの日にかえりたい」の方が厳しい「現実」を描いていると言っても、相対的な違いに過ぎないのではないか?

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」を、「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」と比べてみよう。

     「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」は、原作漫画の繰り返す楽しい日常を問題としたことによって、原作漫画の抱える問題をついた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、終わり方を原作漫画よりドロドロさせた。

     「あの日にかえりたい」は、「ビューティフル・ドリーマー」のように原作漫画の抱える問題をついたとは言えないのではないか?

     もう一つ大きな問題がある。

     「あの日にかえりたい」は登場人物の性格が原作と違うものになっている。

     望月監督は、原作の終盤のひかるの言動に対して「現実」を基準として反対していた。しかし、その「現実」が原作のひかると違う性格の人物になってしまうのでは、原作を正したことにはならない。勝手に違う土俵に移っているわけである。

     原作では登場人物の性格を変えずに終わらせている。その方が正しいのではないか?

    泥沼

     望月智充監督は、「あの日にかえりたい」において、檜山ひかるというキャラクターを改変した。

     原作の檜山ひかるは、春日恭介の心が自分でなく鮎川まどかに向かっていると知った後、あきらめて、「恭介のほほを1度ひっぱたいた」ことによって済ませた。

     「あの日にかえりたい」の檜山ひかるは、春日恭介に鮎川まどかが好きだからと別れを告げられた後も、春日恭介につきまといつづけた。

    理性

     原作のひかるのように潔くあきらめることは理性的なことである。

     「あの日にかえりたい」のひかるのように、つきまといつづけることは、理性的なことではない。相手を振り向かせるという目的は、相手によって否定されている。相手を振り向かせるためにつきまとうことは、逆に相手に嫌われることである。

     「あの日にかえりたい」のひかるは、自分を傷つけ、自分の好きな人を傷つける行動を繰り返しているのである。

    ひかるの内面

     望月監督は「アニメージュ」1988年8月号で、「少女ふたりの内面を心理ドラマとして見せたい」と語っていた。

     しかし、実際にできた「あの日にかえりたい」では、ひかるは、恭介につきまとう、という外面的な姿ばかり描かれて、その内面はほとんど描かれていない。

     「あの日にかえりたい」のひかるは、理性的でないことをしているのであるが、そのことを自分でどう考えているのか、よくわからない。

     この映画の観客は、ひかるの内面に共感するのではなく、ひかるの外面にかわいそうだと思うのである。

    設定の変更

     「あの日にかえりたい」においては、ひかるは、春日恭介と鮎川まどかの関係を前から知っていたことになっている。ひかるはそのことを、春日恭介に対しても、鮎川まどかに対しても、明らかにしている。これは原作にもTVシリーズにもないことである。

     その改変によると、「あの日にかえりたい」のひかるは、原作、TVシリーズと違って、春日恭介に真意を隠されていたということがなくなる。

     春日恭介の罪悪感がなくなる。

     檜山ひかるがそのことゆえに苦しむということがなくなる。

     檜山ひかるは二人の関係を知りながら割り込もうとしたことになっている。

     この改変では、ひかるに同情しにくくなっているのではないか?

    TVシリーズとの関係

     劇場版「あの日にかえりたい」と原作との間にはTVシリーズがあった。

     「あの日にかえりたい」は、大体においてTVシリーズの作り手によって、TVシリーズに続くものとして、作られたものである。

     「アニメージュ」1988年6月号で望月智充監督は「恭介とまどかが高校3年生頃、つまりひかるが高校1年生の時を描くことになります。つまりテレビシリーズの最終話のかなり後、ということです」と語っている。(76頁)

     「アニメージュ」1988年8月号には「映画「きまぐれオレンジ★ロード」は、TVシリーズ最終回から3年後、まどかと恭介は高3、ひかるは高1の夏休みの物語。」とある。(24頁)

     TVシリーズにおいてすでに、登場人物も、話も、原作と違うものになっていた。

     望月監督は、「あの日にかえりたい」によって、原作の正しくないところを正しくすると語った。しかし原作の正しくないところを正しくするためには、TVシリーズとのつながりをなくさなくてはならないのではないか? すでに原作と違うものになっていたTVシリーズとつながっているのでは、原作を正しくすることはできないのではないか?

     望月監督は「アニメージュ」1988年8月号において、望月監督が担当したTVシリーズの最終回は失敗だったと語っている。

    ぼくが最終回をやったときに、これは失敗だった、と感じたのは現在の時点でのひかるの存在が忘れられていたこと。そのせいで、3角関係の部分を無視した形になってしまった。あの最終回はまどかと恭介だけの世界でした。

    「アニメージュ」1988年8月号、25頁

     TVシリーズの最終回で失敗しておいて、原作の最終回はおかしい、というのは、奇妙なことではないか?

     TVシリーズには、原作にはない問題がある。

     たとえば、TVシリーズの檜山ひかるには、原作にはない幼児性がある。

     TVシリーズのひかるの絵は、「魔法の天使クリィミーマミ」の主人公の小学生の絵に近いものになっている。セリフも、ドタバタコメディにするためか、原作にあった落ち着いたところがなくなっている。

     幼児性をもっている人とは別れにくい。

     TVシリーズは、ひかるに原作にない幼児性を付け加えたことによって、主人公がひかると別れることに、原作にない困難が付け加わったのである。

     小黒祐一郎氏はそのことに関して次のように語っている。

    TVシリーズでは、ひかるが原作よりも明るい女の子として描かれており、もう一度意地悪な言い方をすると、彼女は道化師的な役回りになっている。後に制作された劇場版『きまぐれ オレンジ☆ロード あの日にかえりたい』を観た後に、あるいは原作最終回を読んでからTVシリーズを観返すと、その明るい振る舞いに悲哀を感じてしまうくらいだ。

    「WEBアニメスタイル」、「アニメ様365日」、「第374回 続々・伝説の「追いかけて冬海岸」」

     TVシリーズにおいてひかるを原作と違う「道化師」にしたことによって、最後の別れに「悲哀」が加わったというのである。

     小黒氏は「あの日にかえりたい」は「『オレンジ☆ロード』というタイトルが抱えている問題」を「えぐる内容となった」と語ったが、その問題はTVシリーズにあって、必ずしも原作にはないのではないか?

    終わりに

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」について、「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」のように、原作の問題をついたと評されることがある。

     しかしこれまで述べてきた理由で、私はそうは思わない。

     

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」と「アニメージュ」

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」と「アニメージュ」

     「アニメージュ」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」に対しても、もちあげる動きをとっていた。

     「アニメージュ」はその前にも「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズをもちあげる動きをとっていた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」が出来る前に「アニメージュ」であったことについては、前に書いた。

     ここでは「あの日にかえりたい」が公開された後に「アニメージュ」であったことについて書く。

    「アニメージュ」1989年1月号

     「アニメージュ」1989年1月号の投稿欄では、「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」の感想で特集が組まれている。(195頁)

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、原作ファン、TVシリーズファンの反発を買うような出来になっている。

     この特集のはじめに「それぞれの「オレンジ★ロード」」という題で、「10月に公開された「きまぐれオレンジ★ロード~あの日にかえりたい」について、それぞれの“思い”を読んでください」とあるのは、反発があったことを認めているのである。無視することはできなかったのである。そしてその批判的な投稿をもとりあげるというのである。

     そうして取り上げられた投稿は次の通り。

    投稿

     四本の投稿が載せられていた。

     第一は、「心の動きが現実的だ」と題する投稿で、「周囲からは「ゼンゼン「きまぐれ」じゃない」とか「恭介がひどすぎる」との声が聞かれましたが、自分としてはよかったと思います。」というもの。

     第二は、「“受験生”という立場から見た「きまぐれ」」と題する投稿で、「「アニメージュ」でも「暗い」とか「ノリがテレビとちがう」と書いてありましたが、受験と三角関係を明るくやればウソになると思います。」と劇場版を擁護して、「私にとってこの映画は、いつまでも心の奥に名作としてしまっておけると確信しています。」というもの。

     第三は、「キャラのよさを無視、本来の魅力がない」と題する投稿で、「けっこう期待していたのに、まさに裏切られたという感じである。」、「けっきょく、しりきれトンボで終ったテレビのラストのほうがマシである。」というもの。

     第四は、「マジメに青春していて、やっぱり「きまぐれ」」と題する投稿で、「たしかに、原作ともテレビシリーズとも、ちがったふんい気をただよわせ、一部その批判はあたっているでしょう。」と認めつつ、「しかし、この作品もまたマジメに青春しているという点において「オレンジ★ロード」の世界です。」というもの。

    問題

     この四本の投稿の選び方は偏っている、と私は思う。

     第一の投稿、第四の投稿は劇場版「あの日にかえりたい」をよしとするものでありながら、批判の存在を前提としていることは、「あの日にかえりたい」に対して反発が大きかったことをあらわすことである。反発の方が大きかったことをあらわすことである。

     この特集では、劇場版を批判する投稿を多く載せなくてはならなかったと私は思う。称賛する投稿を載せてもいい。賛成反対同数でもいい。いずれにせよ、批判する投稿を多く載せなくてはならなかったと思う。

     ところが実際には、称賛する投稿が3、批判する投稿が1となっている。称賛する投稿の方が多くなっているのである。

     これでは「あの日にかえりたい」に対する当時のファンの反応を反映していないと思う。

     選者はコメントで「いずれにしても「早く決着をつけてほしい」というお便りも多かったわけで、そんなファンはどう見ていたのかな。」と言っている。1988年8月号のコメントでもそうであったが、劇場版の作り手の意に沿うファンの存在に言及することによって、劇場版を擁護しようとしているようである。

     「アニメージュ」がアニメ版を擁護する立場をとることは、必ずしも悪いことではない。問題は、「アニメージュ」の姿勢が一貫していないことにある。「アニメージュ」はそれまで反対の姿勢をとっていたのである。

     たとえば、ちょうど2年前の1987年1月号の投稿欄では、「那由他」のアニメ版を原作と比較して批判する投稿を載せて、選者のコメントに「11月号には「那由他よかった」というおたよりが載りましたが、全体の数からいくと「よくない」という意見が多かったことを報告しておきましょう」と書いている。(135頁)

     「那由他」に関しては、「よくない」という意見が多かったことをわざわざ報告しているのである。

     ところが、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関しては、「よくない」という意見が多かったかどうか、明らかにすることはない。逆に擁護する意見を多くとりあげている。

    「劇場アニメ70年史」

     「アニメージュ」との関係でもう一つ気になるのは、「劇場アニメ70年史」のことである。

     「劇場アニメ70年史」については、小黒祐一郎氏が次の記事で説明している。

    http://style.fm/as/05_column/365/365_473.shtml

     「劇場アニメ70年史」は「TVアニメ25年史」とともに「アニメージュ創刊10周年を記念して企画されたもの」である。「編集のメインとなったのは、データ原口こと原口正宏さん」で、小黒祐一郎氏は「解説原稿の担当」であったという。

     この「劇場アニメ70年史」の帯には「大正6年「芋川椋三玄関番之巻」から昭和63年「きまぐれオレンジ★ロード」まで」とある。「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、「劇場アニメ70年史」の最後の作品という重要な位置に置かれているのである。

     「あの日にかえりたい」の解説には次のような言葉がある。

    三角関係が崩壊したあとの現在をモノトーンで、過去の部分をカラーにした画面は、3人の過去をなつかしむ心情を表現して、印象的だった。

    「劇場版アニメ70年史」、136頁

     その表現を称賛しているようである。

     ところで、併映された「陽あたり良好!」の劇場版「KA・SU・MI 夢の中に君がいた」の解説には次のような言葉がある。

    あだち充の原作からはかけ離れた展開となり、キャラクターの持つ魅力も生かせずに終わった感がある。

    「劇場版アニメ70年史」、137頁

     こちらは「原作からはかけ離れた展開となり、キャラクターの持つ魅力も生かせずに終わった」ことを批判しているようである。

     しかし「原作からはかけ離れた展開となり、キャラクターの持つ魅力も生かせずに終わった」ということは、「きまぐれオレンジ☆ロード」の「あの日にかえりたい」にも言うことができることである。

     「陽あたり良好!」劇場版に対しては、そのことによって批判しながら、「あの日にかえりたい」に対しては、そのことを言わないことは、おかしい。

    まとめ

     これまで明らかにしたように、「アニメージュ」は「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」を、他の作品と比較して不公平なことをしてまで擁護していた。

     その数年後に、「あの日にかえりたい」の望月監督がジブリで「海がきこえる」の監督をしたことと関係があるのであろうか?

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」劇場版第一作目が決着をつける話であったことについて

    「きまぐれオレンジ☆ロード」劇場版第一作目が決着をつける話であったことについて

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版第一作目、「あの日にかえりたい」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」に決着をつけるという話であった。

     何故に劇場版第一作目で決着をつけることにしたのか? 決着をつけない話にすれば、それより多くの作品を作ることができたのではないか?

    深草礼子プロデューサーの言葉

     「アニメージュ」1988年10月号において、プロデューサー深草礼子氏がこの映画の企画について語っている。

    3角関係を清算する話は、TVシリーズでは絶対にやれないテーマでした。やっちゃったらそれで終わってしまいますからね。だからTVでは3角関係の楽しい面だけを追っていたんですが、それだけに”清算”はスタッフのみんながいちばんやりたかったテーマでした。映画を作ることになったとき、わたしも、これをやるしかない、と思っていたところ、監督の望月智充さんが、3角関係に決着をつける話にしたいと言ってきて、わりとすんなりとストーリーが決定しました。

    「アニメージュ」1988年10月号、63頁

     アニメ版の作り手は、「きまぐれオレンジ☆ロード」の「3角関係を清算する話」は「やっちゃったらそれで終わってしまいます」というものだとわかっていた。

     それゆえにTVシリーズではやらなかった。

     ところが、映画を作ることになった時には「これをやるしかない、と思っていた」と深草礼子プロデューサーはいうのである。

    疑問

     私が問題とするのは、何故に、劇場版第一作目で「やっちゃったらそれで終わってしまいます」という作品を作ることにしたのか? ということである。深草礼子プロデューサーは「これをやるしかない、と思っていた」とまで言っている。

     後がない状況であれば、それで終わってしまう作品を作るしかないということは理解できる。

     しかしこれは第一作目である。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は、1990年代にも、小説版をもとにした映画が作られたくらいの作品である。第一作目をそれで終わってしまう話にしていなかったならば、80年代のうちに、複数の映画を作ることもできたのではないかと思われる。

     そういう状況で、何故に、それで終わってしまう作品を作るのか? それだけでなく、「これをやるしかない」と思うのか?

     何故に、それで終わってしまうのではない映画を作ることを考えないのか? それで終わってしまう話はその後でいいではないか? それで終わってしまう映画を作ることによってひろがる可能性を、何故に否定するのか?

     原作の話でまだアニメ化されていないものは多くあった。その他に話を作る可能性もあった。

     何故に、作り手が自分で自分の創作の可能性、興行の可能性を否定するのか?

    OVAシリーズ

     ところで、TVシリーズの作り手は、劇場版が公開されて間もなく、原作のアニメ化されていない話をもとにしてOVAを作っている。

     深草礼子プロデューサーが劇場版について「やっちゃったらそれで終わってしまいます」と語った次の「アニメージュ」1988年11月号では、そのOVAの宣伝がなされている。

     さて、TVシリーズ番外編のこと。これはTVでやりきれなかった原作から、スタッフが「ぜひやりたい」といって選んだよりすぐりのストーリー。まどかたち3人の関係もTVシリーズそのまま。映画版ではふられてしまったひかるも、仲良く登場して”明るい3角関係”で楽しませてくれる。
     映画のノリが、TVのノリとはまったくちがっていたことを、寂しく感じた人には、このOVAシリーズはうれしい贈り物ではないだろうか。

    「アニメージュ」1988年11月号、39頁

     これもよくわからないことである。

     10月号で深草礼子プロデューサーは、「やっちゃったらそれで終わってしまいます」という「3角関係を清算する話」を映画でやると言った。

     ところが、11月号では「TVでやりきれなかった原作から、スタッフが「ぜひやりたい」といって選んだよりすぐりのストーリー」をその後にOVAでやるという。

     それで終わってしまう話を作ることを決めたすぐ後に、やりきれなかったことをやるということは、おかしくないか? 「やりきれなかったこと」はないと考えたからこそ、それで終わってしまう話を作ることを決めたのではないか?

     やりきれなかったことをやる考えがあったならば、何故に、その前に、それで終わってしまう話を作ることを決めたのか?

     「スタッフ」の考えもよくわからない。

     10月号では「スタッフのみんな」が、それで終わってしまうという「清算」の話を「いちばんやりたかった」ゆえに、そういう話を映画にすることになったと言っていたのに、11月号では、「スタッフ」は「TVでやりきれなかった原作から」、「ぜひやりたい」といって選んでOVAを作ったと言っている。

     「スタッフ」は、それで終わってしまう話をやりたかったのか、やりきれなかった話をやりたかったのか、どちらなのか?

    望月智充監督

     私の思うに、「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、望月智充監督によるところが大きいのではないか。

     深草礼子プロデューサーは、望月智充監督がその劇場版の企画を「言ってきた」と語っている。望月智充監督が言い出したことだというのである。

     ただし深草礼子プロデューサーは、望月智充監督がそのことを言いだす前から、「これをやるしかない、と思っていた」とも語っている。また、「”清算”はスタッフのみんながいちばんやりたかったテーマでした」とも語っている。「スタッフのみんな」に同じ思いがあったかのように語っている。

     実際には、望月智充監督が言い出したことにスタッフがついていった、ということではなかったか?

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の映画を作ると決まった時には、様々な可能性があった。それにもかかわらず、「スタッフのみんな」が「清算」の話を考えていたとは、思えない。

     スタッフの中には、「TVでやりきれなかった原作」をアニメ化したいという考えもあったのではないか? それゆえに、その後にOVAが作られたのではないか?

     望月智充監督がそれだけ自分の考えを通すことができた背景には、第一に、スタジオぴえろが「うる星やつら」のアニメ版で、押井守監督に暴走させて「ビューティフル・ドリーマー」を成功させていたということがあったと思われる。

     第二に、望月智充監督は当時大変に期待されていたということがあったと思われる。望月智充監督はその後にジブリで「海がきこえる」の監督を務めるに至る道の途中にあった。

    「アニメージュ」

     この作品に対する「アニメージュ」関わり方が興味深いと思った。

    「アニメージュ」1988年6月号

     当時の「アニメージュ」の投稿欄を見ると、決着をつけるのとは違うかたちの映画化をもとめる投稿が載せられていることが目に付く。

     「アニメージュ」1988年6月号の投稿欄では、「恭介・まどか中心に映画化してほしい‼」という投稿が載せられている。(132頁)―「ストーリーは、オリジナルでも、やっていない原作でもいい」といって、原作の「広瀬ハワイ篇」、あるいは「早川みつる篇」を挙げて、「このふたつのうちのどちらかがいいと思います」と書いているものである。

     この投稿は、映画の内容が明らかにされる前のものである。

     選者のコメントに「映画化はきまったようだし、ビデオ化のうわさも…?」とある。その時点では、映画の内容はまだ明らかになっていなかったのであろうか。

     「アニメージュ」の投稿欄にこういう投稿が載せたということは、「アニメージュ」のスタッフにもそういう考えがあったことを示しているのではないか?

     ただし同じ「アニメージュ」1988年6月号には、映画についての記事があって、内容が明らかにされている。

    テレビシリーズ版の最終話では、はっきりとした結末を示さなかった恭介、まどか、ひかるの三角関係を、はっきりとした形で描いて見せる、ということで現在、製作の進んでいる長編「きまぐれオレンジ☆ロード」。

    「アニメージュ」1988年6月号、76頁

     望月智充監督の言葉もある。

    ストーリーは、原作とかなり違えています。雰囲気も今までの明るくて陽気、という感覚ではなくて、もっとずっとシリアスなものにしていきます。というのも、僕はやはりあの三角関係の決着がそう簡単につくとは思えないからなんです。

    「アニメージュ」1988年6月号、76頁

     「ひかるが悲しい仕打ちを受けそうなこの映画」ともある。(同、76頁)

     つまり「アニメージュ」1988年6月号が出された時には、映画は「はっきりとした結末」を描くものときまっていたのである。

    「アニメージュ」1988年8月号

     「アニメージュ」1988年8月号の投稿欄には「決着つけてほしくない」という投稿が載せられている。(135頁)―6月号の映画化についての記事が「気にいらない」というのである。「初めての映画化なのに、いきなり『三角関係の決着』をつけるのはどうかと思う。ボクは、原作やオリジナルの映画化もしてほしいし、簡単に決着をつけてほしくない。」という。

     決着をつける映画の製作が進んでいるということに反対する投稿である。

     これは多くのファンの自然な気持ちをあらわしたものだと私は思う。まだ様々なことができるのに、映画第一作目で終わりにしてしまうことに反発するファンは多かったであろう。

     「アニメージュ」のスタッフは、こういう投稿を載せることによって、自分の考えをあらわしているとも思われる。

     しかし、選者のコメントには「「映画で、三角関係のほんとうの結末を見たい」というファンからも、やっぱり手紙は来ています。」とある。映画の作り手の意に沿う投稿もあったということによって、作り手を擁護しているのである。

     6月号と8月号を見ると、「アニメージュ」のスタッフは、はじめは決着をつける話とは違う映画を期待していたが、映画の作り手が決着をつける話を作ると知ると、それを擁護する立場をとっているようである。アニメ版の作り手がファンの声と反対の方向をとると見るや、ファンの声を切り捨てて、アニメ版の作り手を擁護しているのである。

     「あの日にかえりたい」が公開された後の「アニメージュ」については次の記事。

    まとめ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版第一作目の「あの日にかえりたい」で終わりの話を描いたことは、TVシリーズで原作より大幅に早く終わる話にしてしまったことと通ずることということができる。

     TVシリーズについては次の記事にまとめた。

     「アニメージュ」がそれに追随したことも同様である。

     「あの日にかえりたい」の作り手は、TVシリーズと同様に、自分の好きなように作った。「アニメージュ」はそれを擁護して、批判の声を抑えた。ところが「あの日にかえりたい」の作り手は、TVシリーズでもそうであったが、作品を早く終わらせることに力を注いで、作品を伸ばそうとしなかった。

     押井守監督は「うる星やつら」で暴走したが、番組は長く続き、映画も多く作られた。

     望月智充監督は「きまぐれオレンジ☆ロード」で暴走して、その後に、番組を続けることも、映画を作ることも難しくした。