「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」の問題

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きまぐれオレンジ☆ロード
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 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、原作の漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」と大幅に違うものになっている。

 そのことによって、多くの人に嫌われ、一部の人に支持されている。

 「あの日にかえりたい」の作り手はどういう考えから原作と大幅に違う作品を作ったのであろうか?

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漫画と現実

 望月智充監督は、「あの日にかえりたい」の製作中に「アニメージュ」に次のように語っている。

ストーリーは、原作とかなり違えて雰囲気もいままでの明るくて陽気、という感覚ではなくて、もっとずっとシリアスなものにしていきます。というのも、僕はやはりあの三角関係の決着がそう簡単につくとは思えないからなんです。

「アニメージュ」1988年6月号、76頁

 原作に対して「あの三角関係の決着がそう簡単につくとは思えない」というのである。それゆえに映画でやり直すというのである。

原作では恭介とまどかの関係に気がついたひかるは、恭介のほほを1度ひっぱたいただけで恭介をあきらめます。現実には、女の子ってあれだけで済ませるわけがない。そこで、映画ではその部分をじっくりとやってみました。ひかると恭介との間にはいって苦しむまどかの姿を中心に、少女ふたりの内面を心理ドラマとして見せたいと思っています。

「アニメージュ」1988年8月号、25頁

 望月監督は原作に対して「現実には、女の子ってあれだけで済ませるわけがない」という考えから「あの日にかえりたい」を作るというのである。

 要するに、望月監督は「現実」を基準として、原作は「現実」通りでないと言い、それに対して「現実」通りに「あの日にかえりたい」を作るというのである。

問題

 ところで、望月監督の主張は正しいのであろうか?

 漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」には、望月監督の言うように正しくないところがあって、「あの日にかえりたい」はそれを正しくしているのであろうか?

 小黒祐一郎氏は、「あの日にかえりたい」は「『オレンジ☆ロード』というタイトルが抱えている問題」を「えぐる内容となった」と語っている。小黒氏も、原作には問題があって、「あの日にかえりたい」はその問題をついた、というのである。

「ラブコメ」と「現実」

 望月監督が「現実」を基準として、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を批判して、それに対して「あの日にかえりたい」を作ったことは、「現実」より甘いラブコメに対して厳しい「現実」をつきつけたものと考えることもできる。

 しかし、たとえば「めぞん一刻」なども、「現実」より甘いラブコメということになるのではないか? こずえの身の引き方も、三鷹の身の引き方も、「現実」より甘く作られているのではないか? いずれも「きまぐれオレンジ☆ロード」のひかるの身の引き方と比べても、甘く作られているのではないか?

 要するに、望月監督の批判は、必ずしも特に「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品に対するものではなく、「めぞん一刻」のような作品をも含めた作品群に対するものではないか?

 ところで望月監督が「現実」を基準としたと言っても、「あの日にかえりたい」は作り物にすぎない。

 「めぞん一刻」のような作品群と、「あの日にかえりたい」のような作品とは、作り物の様式が違うということができる。

 そこでまず、一方の様式が正しくて、もう一方の様式が正しくない、ということができるのか、ということが問題となる。ラブコメにはラブコメの様式があって、それに対して「現実」ではないということはその様式を無視したことにすぎないのではないか、ということである。

「きまぐれオレンジ☆ロード」

 次に、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は、「めぞん一刻」などと比べると、甘いラブコメにとどまらずに、「現実」をも描こうとしたものではないか? たとえば最終回の一つ前の話(「帰れないふたり!の巻」)では、それまでの三角関係が壊れていく中で、ひかるの悲しみも、まどかの苦しみもまじめに描かれている。

(ひかるの悲しみ、まどかの苦しみは、JC18巻で加筆されたところに描かれている。JC18巻が出版されたのは1988年7月15日であるから、望月監督の上の発言の時にはまだ出ていなかったのではないかと思われる。加筆は、原作者が「あの日にかえりたい」の企画を知った上で作ったかもしれない。)

 漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は、甘いラブコメの外に厳しい現実があるということを自ら示していた。

 たとえばJC5巻第40話「タイムスリップ・クリスマス!の巻」では、本編が甘く終わっているのに、扉絵には厳しい表情が描かれている。扉絵の厳しい表情は、その前の第39話の最後の頁の「本当に―/このままで/い―の?」という言葉を受けたもののようである。そこで、作者は、甘い話の外に厳しい現実があることを示しているのである。

 まつもと泉氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」の終盤で「少女マンガ」がやりたかったと言っていた。「少女マンガ」とは、甘いラブコメではなく、厳しい現実をも描くものではないかと思われる。

 要するに、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を、単に甘いラブコメにとどまらずに、厳しい「現実」をも描こうとしたものである。

 それに対して「あの日にかえりたい」の方が厳しい「現実」を描いていると言っても、相対的な違いに過ぎないのではないか?

 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」を、「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」と比べてみよう。

 「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」は、原作漫画の繰り返す楽しい日常を問題としたことによって、原作漫画の抱える問題をついた。

 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、終わり方を原作漫画よりドロドロさせた。

 「あの日にかえりたい」は、「ビューティフル・ドリーマー」のように原作漫画の抱える問題をついたとは言えないのではないか?

 もう一つ大きな問題がある。

 「あの日にかえりたい」は登場人物の性格が原作と違うものになっている。

 望月監督は、原作の終盤のひかるの言動に対して「現実」を基準として反対していた。しかし、その「現実」が原作のひかると違う性格の人物になってしまうのでは、原作を正したことにはならない。勝手に違う土俵に移っているわけである。

 原作では登場人物の性格を変えずに終わらせている。その方が正しいのではないか?

泥沼

 望月智充監督は、「あの日にかえりたい」において、檜山ひかるというキャラクターを改変した。

 原作の檜山ひかるは、春日恭介の心が自分でなく鮎川まどかに向かっていると知った後、あきらめて、「恭介のほほを1度ひっぱたいた」ことによって済ませた。

 「あの日にかえりたい」の檜山ひかるは、春日恭介に鮎川まどかが好きだからと別れを告げられた後も、春日恭介につきまといつづけた。

理性

 原作のひかるのように潔くあきらめることは理性的なことである。

 「あの日にかえりたい」のひかるのように、つきまといつづけることは、理性的なことではない。相手を振り向かせるという目的は、相手によって否定されている。相手を振り向かせるためにつきまとうことは、逆に相手に嫌われることである。

 「あの日にかえりたい」のひかるは、自分を傷つけ、自分の好きな人を傷つける行動を繰り返しているのである。

ひかるの内面

 望月監督は「アニメージュ」1988年8月号で、「少女ふたりの内面を心理ドラマとして見せたい」と語っていた。

 しかし、実際にできた「あの日にかえりたい」では、ひかるは、恭介につきまとう、という外面的な姿ばかり描かれて、その内面はほとんど描かれていない。

 「あの日にかえりたい」のひかるは、理性的でないことをしているのであるが、そのことを自分でどう考えているのか、よくわからない。

 この映画の観客は、ひかるの内面に共感するのではなく、ひかるの外面にかわいそうだと思うのである。

設定の変更

 「あの日にかえりたい」においては、ひかるは、春日恭介と鮎川まどかの関係を前から知っていたことになっている。ひかるはそのことを、春日恭介に対しても、鮎川まどかに対しても、明らかにしている。これは原作にもTVシリーズにもないことである。

 その改変によると、「あの日にかえりたい」のひかるは、原作、TVシリーズと違って、春日恭介に真意を隠されていたということがなくなる。

 春日恭介の罪悪感がなくなる。

 檜山ひかるがそのことゆえに苦しむということがなくなる。

 檜山ひかるは二人の関係を知りながら割り込もうとしたことになっている。

 この改変では、ひかるに同情しにくくなっているのではないか?

TVシリーズとの関係

 劇場版「あの日にかえりたい」と原作との間にはTVシリーズがあった。

 「あの日にかえりたい」は、大体においてTVシリーズの作り手によって、TVシリーズに続くものとして、作られたものである。

 「アニメージュ」1988年6月号で望月智充監督は「恭介とまどかが高校3年生頃、つまりひかるが高校1年生の時を描くことになります。つまりテレビシリーズの最終話のかなり後、ということです」と語っている。(76頁)

 「アニメージュ」1988年8月号には「映画「きまぐれオレンジ★ロード」は、TVシリーズ最終回から3年後、まどかと恭介は高3、ひかるは高1の夏休みの物語。」とある。(24頁)

 TVシリーズにおいてすでに、登場人物も、話も、原作と違うものになっていた。

 望月監督は、「あの日にかえりたい」によって、原作の正しくないところを正しくすると語った。しかし原作の正しくないところを正しくするためには、TVシリーズとのつながりをなくさなくてはならないのではないか? すでに原作と違うものになっていたTVシリーズとつながっているのでは、原作を正しくすることはできないのではないか?

 望月監督は「アニメージュ」1988年8月号において、望月監督が担当したTVシリーズの最終回は失敗だったと語っている。

ぼくが最終回をやったときに、これは失敗だった、と感じたのは現在の時点でのひかるの存在が忘れられていたこと。そのせいで、3角関係の部分を無視した形になってしまった。あの最終回はまどかと恭介だけの世界でした。

「アニメージュ」1988年8月号、25頁

 TVシリーズの最終回で失敗しておいて、原作の最終回はおかしい、というのは、奇妙なことではないか?

 TVシリーズには、原作にはない問題がある。

 たとえば、TVシリーズの檜山ひかるには、原作にはない幼児性がある。

 TVシリーズのひかるの絵は、「魔法の天使クリィミーマミ」の主人公の小学生の絵に近いものになっている。セリフも、ドタバタコメディにするためか、原作にあった落ち着いたところがなくなっている。

 幼児性をもっている人とは別れにくい。

 TVシリーズは、ひかるに原作にない幼児性を付け加えたことによって、主人公がひかると別れることに、原作にない困難が付け加わったのである。

 小黒祐一郎氏はそのことに関して次のように語っている。

TVシリーズでは、ひかるが原作よりも明るい女の子として描かれており、もう一度意地悪な言い方をすると、彼女は道化師的な役回りになっている。後に制作された劇場版『きまぐれ オレンジ☆ロード あの日にかえりたい』を観た後に、あるいは原作最終回を読んでからTVシリーズを観返すと、その明るい振る舞いに悲哀を感じてしまうくらいだ。

「WEBアニメスタイル」、「アニメ様365日」、「第374回 続々・伝説の「追いかけて冬海岸」」

 TVシリーズにおいてひかるを原作と違う「道化師」にしたことによって、最後の別れに「悲哀」が加わったというのである。

 小黒氏は「あの日にかえりたい」は「『オレンジ☆ロード』というタイトルが抱えている問題」を「えぐる内容となった」と語ったが、その問題はTVシリーズにあって、必ずしも原作にはないのではないか?

終わりに

 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」について、「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」のように、原作の問題をついたと評されることがある。

 しかしこれまで述べてきた理由で、私はそうは思わない。

 

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