町山智浩氏の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論について

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 町山智浩氏の著書「最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)」(2016年、集英社)に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論が収められている。

 私はたまたまAMAZONの長いレビューが町山氏の議論を批判しているのをみた。

 そこで町山氏の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論を読んでみた。

 読んでみると、町山氏のイデオロギー批評の問題となるところが出ていた。


最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)
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町山智浩氏の主張

Photo by mentatdgt from Pexels

 まず町山智浩氏の主張をまとめる。

歴史のねじ曲げ

 町山智浩氏は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は同じロバート・ゼメキス監督の「フォレスト・ガンプ」とともに「ねじ曲がったアメリカの戦後史を形成している」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、210頁)

 この2作品は「歴史の歪曲と捏造と虚偽に満ちている」という。(同、211頁)

白人の気持ち

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」冒頭の主人公とその家族の「惨めな現実」は、「当時のアメリカ白人の気持ちを代弁している」と町山氏は語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、212頁)

 当時のアメリカ白人には、他の人種によって脅かされているという気持ちがあって、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそういう気持ちを代弁しているというのである。

歴史との関係

 町山智浩氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と歴史との関係について次のように論じている。

 「アメリカン・ドリームが崩れた60年代に、アメリカン・ドリームをスクリーンで見せてきたハリウッド映画も観客を失った」

 そこで「経営難に陥った映画会社は70年代に入ると若い監督を起用して、セックス、ドラッグ、ロックンロール、バイオレンス、それに反体制的メッセージを盛り込んだ映画で若者を劇場に取り戻そうとした」

 それに対して「70年代末、スティーヴン・スピルバーグとジョージ・ルーカスの『JAWS/ジョーズ』(75年)、『スター・ウォーズ』(77年)、『未知との遭遇』(77年)は、セックスやドラッグを排し、現実ではなくSFXで作られた、明るく楽しい家族向けの娯楽を提供した。」

 80年代にロナルド・レーガンは「50年代の古き良きアメリカ、強いアメリカ、豊かなアメリカ、神を愛し、家族を愛するアメリカの復活を掲げて選挙に圧勝した」

 その時に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は「50年代の古き良きアメリカをスクリーンに蘇らせる」映画としてスピルバーグがプロデュースした作品である。(以上、最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、213~214頁)

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はレーガン政権と同じような歴史的な意義をもっていると町山智浩氏は語る。

人種差別

 町山智浩氏によると、60年代以後、アメリカの伝統的な文化に対抗した文化は、人種差別に反対した文化であった。

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、そういう文化に反対するものと町山智浩氏は語る。そして人種差別に反対する運動に反対するものと語る。

検討

Michaił NowaによるPixabayからの画像

 町山氏の主張を一つ一つ検討してみよう。

主人公の惨めな現実

 町山氏は、冒頭の主人公とその家族の惨めな現実は、「当時のアメリカ白人の気持ちを代弁している」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、212頁)

 2010年に行われたスティーブン・スピルバーグ(製作総指揮)、ロバート・ゼメキス(監督・脚本)、ボブ・ゲイル(製作・脚本)の3人による鼎談で映画の主人公の設定について、ボブ・ゲイルが次のように語っていることは、そのことと関係がある。

はじめ彼は何もうまくいかず、人生に打ちひしがれていて、自殺まで考えているようなキャラだったんだ。
(中略)
そこで意見が一致した。「主人公が自殺したがっている設定だなんて、絶対に間違ってるぞ」と。

スティーブン・スピルバーグ論」、フィルムアート社、2013年、104頁

スティーブン・スピルバーグ論

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公は「何もうまくいかず、人生に打ちひしがれていて、自殺まで考えているようなキャラ」と考えられていた。

 ところが作り手はその考えを変えた。

 その結果として、主人公とその家族の「惨めな現実」は深刻に描かれていない。

主役

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の作り手は、マイケル・J・フォックスを主役と考えていたが、他の番組のために断られたので、エリック・シュトルツを主役として撮影を始めた。しかし結局マイケル・J・フォックスを主役とした。

 なぜそこまでしてマイケル・J・フォックスを主役としたかったのか? 町山氏は当時マイケル・J・フォックスが「ファミリー・タイズ」(=家族の絆)というテレビコメディで人気スターになっていたことを指摘する。

 そのテレビコメディでマイケル・J・フォックスは、「60~70年代のカウンター・カルチャーの中で青春を送った元ヒッピー」の両親に対して、「80年代の新保守主義、レーガン大統領を支持した層を代表している」人物を演じていたというのである。( 最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル) 、222~223頁)

 しかしロバート・ゼメキス監督が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主役を「80年代の新保守主義、レーガン大統領を支持した層を代表している」人物にしたかったとしても、そのためにそういう役を演じていたマイケル・J・フォックスをどうしても起用したいということになるであろうか?

 ロバート・ゼメキス監督は、何故にエリック・シュトルツではいけないと考えたかについて、明らかにしている。―「彼のコメディ感覚が、ぼくがこの映画で思い描いていたものと違っていたということだ」というのである。(「スティーブン・スピルバーグ論」、108頁)


スティーブン・スピルバーグ論

 ブルーレイの特典映像にエリック・シュトルツが主役を演じている映像が収められている。断片的なものであるが、タイムトラベルの衝撃を深刻に受け止める演技のように見える。マイケル・J・フォックスの明るいコミカルな演技と比べて暗いように見える。

 マイケル・J・フォックスの「コメディ感覚」こそロバート・ゼメキス監督が「この映画で思い描いていたもの」だったということではないか?

レーガン政権との関係

 はじめに挙げたAMAZONのレビューは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にレーガン政権の思想があるという町山氏の主張に反対している。

 私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」には、同時代のレーガン政権と共通するところがあると思う。

 レーガン政権も「バック・トゥ・ザ・フューチャー」も、それ以前の「若者文化」による家族の解体に対して家族の再生を主題としているという町山氏の指摘には正しいところがあると思う。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、221~222頁)

 「俺たちに明日はない」とか「イージーライダー」のような社会からはみ出した人が殺されるという暗い話に対して、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は明るい話である。

 勿論、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がレーガン政権の思想を体現しているというのではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はレーガン政権から独立した娯楽作品である。

 ましてや「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に町山氏が言うような白人の黒人や日本人に対する差別的な気持ちが描かれているとは思えない。

理由なき反抗

 私は今度「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見返して、「理由なき反抗 Rebel Without a Cause」をもとにして作られたところがあるのではないかと思った。

 「理由なき反抗」は、まさに1955年に制作され、公開された映画である。

 ロバート・ゼメキス監督は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で1955年を舞台にすることを考えた時に、「理由なき反抗」のことを考えたのではないか。

 「理由なき反抗」は、主人公の若者が、「親たちに反抗」するところを描いた作品である。まさに「若者文化」を代表する作品である。

 「理由なき反抗」において「父親の権威は失墜」している。主人公が、エプロン姿の父親を見て笑うところは特徴的である。

 「理由なき反抗」では、主人公は、同級生の不良集団と対立する。そのことも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公が不良集団と対立することと似ている。不良集団がオープンカーに乗っているところ、服装なども似ている。

 主人公が「チキン」と言われると興奮するところも同じである。


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50年代の位置づけ

 町山智浩氏が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を「50年代の古き良きアメリカをスクリーンに蘇らせる」作品と語ることには疑問がある。

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、60年代から70年代にかけてのアメリカン・ニューシネマなどと言われる暗い映画に対して、50年代以前のアメリカ映画と同じように明るい映画に帰ったものということはできる。

 しかし「バック・トゥ・ザ・フューチャー」には、特に50年代をよしとする思想はない。

発端

 脚本を担当したボブ・ゲイルは、自分の父の卒業アルバムを見て「自分がもし親父と同級生だったら、友だちにはなれそうにないな」と考えたことがこの映画の発端だったと語っている。(「スティーブン・スピルバーグ論」、103頁)


スティーブン・スピルバーグ論

 「自分がもし親父と同級生だったら」という発想は、50年代をよしとする思想とは異なるものである。

 映画の中でも50年代が特にいいとされていないようである。

主人公

 主人公は50年代を変わった世界として見ている。特にいい世界として見ていない。

 町山智浩氏は次のように書いている。

マーティは、パステルカラーに彩られた美しいダウンタウンに圧倒される。聴こえてくるのはコーデッツの54年のヒット曲「ミスター・サンドマン」。眠りの砂を撒く妖精のことを歌っているが、マーティも夢心地だ。
 マーティは荒れ果てたダウンタウンしか見たことがなかった。

最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、214頁

最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)

 町山氏は私と違う映像を見ているのであろうか?

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公は、1985年の文化に生きている人物である。スケボーで移動し、バンドでヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの楽曲を演奏している。

hueylewisofficial
Huey Lewis & The News – The Power Of Love (Official Video)

 もともと1950年代の文化に対して特別な思い入れはない。1950年代に行きたくて行ったのではない。1950年代の文化に対する愛着から1950年代にとどまっていたいということもない。

若者文化

 ロバート・ゼメキス監督は1955年を舞台とした理由の一つとして若者文化が誕生した年であることを挙げている。

 1955年には「理由なき反抗」とか、ロックンロールとかがあった。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそういう文化をとりいれている。

 そこで問題は複雑になっている。

 町山智浩氏は「50年代に生まれた若者文化は60年代の若者革命の起爆剤となり、アメリカン・ドリームを解体していく」と語っている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、217頁)

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、1950年代に行くことによって、「若者革命」が出て来る前に帰るのではなく、「若者革命」の出て来るもとの「若者文化」のところに行くのである。

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、「若者文化」以後の流れにある作品である。

歴史

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の歴史的意義について考える。

母親

 町山智浩氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にとりいれられた「若者文化」について、なぜか第一に主人公の母親の男性に対する態度に認めている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、217頁)

 たしかにそういう描き方は、「若者文化」以後のものと思われる。

 たとえば「若草の頃 Meet me in St.Louis 」(1944年)は、「若者文化」以前に古き良きアメリカの家族を描いた作品で売れたものであるが、主人公の少女の男性に対する恋愛感情は上品に描かれている。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の母親のように露骨ではない。


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 そういう意味でも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそれほど過去に回帰している作品ではないということができる。

 しかしまた、ロバート・ゼメキス監督がまわりの露骨な映画に比べて甘いと言われたと語っているように、それらの作品に比べて過去に近くなっていたということもできる。

父親

 町山智浩氏は60年代からの「カウンター・カルチャー」を「父親殺し」として、それに対して「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は「父”生かし”」の物語であるという。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、220頁)

 たしかに主人公の父親は、はじめ頼りないが、主人公が過去に行って帰ってきたときには頼れる存在になっている。

 ただし「若者文化」以前の家族に帰ったのではなく、あくまでも若者が主人公の「若者文化」になっているということができる。

人種差別

 町山氏が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を人種差別と関係づけていることについて考えよう。

ロックンロール

 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では、劇中の歴史改変によって、「ジョニー・B・グッド」の作者はチャック・ベリーではなく、この映画の主人公になってしまう。

 ロバート・ゼメキス監督は「ただのジョーク」のつもりであったが、「白人による、黒人の功績の横取りだと叩かれた」という。

 そのことについて町山氏は、「確かにジョークには違いない。しかし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』における黒人の描き方を見ると、軽いジョークとは言い切れなくなる」と言っている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、225頁)

 しかしロバート・ゼメキス監督の考えは、「ただのジョーク」のつもりであって、「白人による、黒人の功績の横取り」ではなかったと自ら語る通りである。

黒人の地位

 町山氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、1955年に食堂で掃除をしていた黒人男性が、1985年に市長になっていたという話をとりあげて、黒人の地位の歴史について次のように語っている。

60~70年代は黒人にとって南北戦争と並ぶ解放と地位向上の時代だったのだが、『バック・トゥ~』では、マクフライ家が没落した時代として否定的に扱われている。マクフライ家が、レーガン大統領とその支持者が「あの頃はよかった」と言う50年代は黒人にとって暗黒の時代だった。けっして帰りたいなどとは願わないだろう。

最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、226~227頁

最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)

 色々と気になるところがある。

 まず「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で60~70年代は「マクフライ家が没落した時代」であるかもしれないが、そのことは黒人の地位向上と関係ないのではないか?

 黒人が解放され地位向上したゆえにマクフライ家が没落したのではない。

 マクフライ家には、黒人の地位が低かった時代を「あの頃はよかった」という思想はない。

 主人公の母は過去を懐かしんでいるが、そのことは黒人の地位と関係ない。

 主人公は50年代を「よかった」と思っていない。

 1955年に食堂で掃除をしていた黒人男性が、1985年に市長になっていたという話はむしろ黒人の地位が向上した80年代をよしとしているように見える。

白人の没落

 町山氏は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作は、「猿の惑星」と同じく「白人の没落を裏テーマにしている」という。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、227頁)

 しかし「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作のどれも、「白人の没落」をテーマとしているように見えない。

 第1作に関しては、すでに言ったように、「マクフライ家の没落」も、それに対する歴史改変も、黒人の地位向上と関係なく、「白人の没落」とも関係ない。


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 町山氏は「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズでアメリカを乗っ取るのは、日本だ。」と書いている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、228頁)

 しかし第1作で主人公は日本製品をよろこんでいる。日本製品は「白人の没落」という意味で扱われていないのである。

 第2作で未来の主人公は、日本人社長にぺこぺこした挙句クビにされてしまうが、そのことは作品の主題というほどのこととは思えない。


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 町山氏は「「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズは一貫して、黒人や日本人を白人文化の破壊者として描いている」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、230頁)

 しかしそういうところは見当たらない。どこのことを言っているのであろうか?

 第3作で主人公が1885年の西部劇の世界に行くことについて、町山氏は、「アメリカの凋落は、もはや50年代の保守主義をもってしても救いようがない、ということなのか」とか、「アジア人がおとなしかった古き良き時代に見えるだろう」とか言っている。( 最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル) 、230、231頁)


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 アジア人による抑圧に対して白人が満足するためには、1950年代では不十分で、西部劇の世界でなくてはならない、ということだろうか?

 しかしあの西部劇を見て、「アジア人がおとなしかった古き良き時代に見える」などという人は少ないのではないか? そのことは作品の主題から離れたことではないか?

 第3作の最後に主人公が「銃を撃つことなく勝利を収める」ことを、町山氏は、「結局、アメリカは経済と軍事のライバルたちに、一発の銃弾を撃つこともなく勝利した」ことと関係づけている。(同、231頁)

 しかし第三作の主人公の相手が、当時のアメリカの「経済と軍事のライバルたち」、日本とかソ連とかをあらわすものとして描かれているとは思えない。


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コメント

  1. 今さらですが より:

    よく見ると黒人市長と白人市長の対比があるという指摘があります
    50年代に市長だった白人が80年代にはホームレスとして背景に映り、元々仕事はしていたが地位が低かった人物が80年代には市長です
    この間何があったかというと、公民権運動による黒人の権利伸長であるわけです
    単純化して言ってしまえば黒人の権利の獲得が白人を没落させたというイデオロギーです
    政策もレーガンと逆で教育などの再分配政策を重視していますが、白人市長のように元の白人権力者は救われず、社会的地位の低い仕事で食っていけるどころか、惨めにホームレスをしています
    まあこれだけでも大衆娯楽と表面的な穏健さに新保守主義思想を混ぜて宣伝していると言えるのではないでしょうか?多分露骨な攻撃はしないが、本心は左派リベラル主導でマイノリティの権利向上があったことに苦々しい気持ちがあったのでしょう
    50年代に上演する西部劇もモチーフはレーガン主演の映画です
    映画の主題も見方によれば中絶反対に繋がるんだとか

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