カテゴリー: 漫画・アニメ

  • 映画「君たちはどう生きるか」 宮崎駿監督のイメージあふれる映画

    映画「君たちはどう生きるか」 宮崎駿監督のイメージあふれる映画

     2023年7月14日、宮崎駿監督の映画「君たちはどう生きるか」が公開された。

     その前に「君たちはどう生きるか」という題は示されていた。しかしそれだけでは、どういう作品が出来るか見当がつかない。

     「君たちはどう生きるか」という題では倫理的求道的な作品のようでもある。エンターテインメントではないようである。

     前作「風立ちぬ」が公開された2013年7月20日から10年たっている。

     その間に宮崎駿監督はどういう方向へ向かったのか?

     どういう映画か明らかにされないまま、公開の日を迎えた。

    自由

     映画のはじめは前作「風立ちぬ」に近いようにも見えた。

     しかし次第に「風立ちぬ」と大きく異なる世界に進んで行った。

     「風立ちぬ」より前の宮崎駿監督の作品に近いところがある。

     宮崎駿監督がこれまでの作品で見せてきた想像力の集大成とも思われる。

     勿論新たな形になってはいる。

     「風立ちぬ」では、宮崎駿監督の想像力が素材に縛られて、自由になっていないのではないかと思ったところがあったが、「君たちはどう生きるか」では、何にも縛られることなくのびのびとしているように見えた。

     その他の作品でも、たとえば原作がある作品で、宮崎駿監督の想像力が原作と対立しているのではないかと思ったところがあったが、「君たちはどう生きるか」では、そういうことはない。

     そのことと関連して、構成は比較的にすっきりしている。

    命が伸びる気持ち

     前作で終わりかと思われた宮崎駿監督が、それから10年後にこのような作品を作ったことをみて、生きる力を受け取った。

     高畑勲監督、大塚康生さんなど、10年前には健在だった人々が、この10年の間に亡くなるということもあった。

     叶精二氏の記事。

    https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01161/

     昔からのスタッフも集まっている。

     「風立ちぬ」までは、宮崎駿監督は権威のように見えていたが、「君たちはどう生きるか」では違うことを感ずる。

  • 新海誠監督の映画「すずめの戸締り」の感想

    新海誠監督の映画「すずめの戸締り」の感想

     2022年11月11日に新海誠監督の映画「すずめの戸締り」が公開された。

    https://suzume-tojimari-movie.jp/

     2016年の「君の名は。」、2019年の「天気の子」に続く作品。

    全体的に

     個人的には、これまでの新海監督の映画の中で最も観やすかった。

     主人公の女子高校生すずめが話を引っ張るかたちになっているのであるが、その主人公の心の動きにそれほどひっかかることなくついていくことができる。

     部分的にひっかかるところはある。

     学校とあの場所はどれくらい離れているのかなどと思わないでもない。

     「すずめの戸締り」は「ロードムービー」として作られたということで、日本の様々な土地が描かれているのであるが、その「ロードムービー」の部分は甘くできている。愛媛の人とか、神戸の人とか、いかにも都合がいい。

     新海監督のこれまでの映画ではその甘いところが気になった。しかし「すずめの戸締り」では、その甘いところが話の中心とそれほど関係がないせいか、それほど気にならない。

     基本的に明るくコミカルに進んで行く中で、主人公は異様なことに出会って、それを追っていく。そうして話に起伏があるという構成はわかりやすい。急展開があるところもよくできている。

     これまでの新海監督の映画の恋愛要素には気になるところが多かったが、「すずめの戸締り」では、それほど気にならなかった。

    主題

     「すずめの戸締り」は過去に向き合う話である。

     特に、2011年の東日本大震災に向き合う話である。

     映画の中で主人公は過去の東日本大震災に向き合う。

     同時に、新海監督も東日本大震災に向き合っているのである。

    https://www.crank-in.net/news/116479/1

     2022年には、2011年の震災は離れたことのようにも思われる。

     新海監督には焦りがあったという。

    あの日、多くの人々がまざまざと感じた強い揺さぶりを、改めて共有するタイミングは、今でなくては遅くなるのではないかと思いました。

    映画.com 【インタビュー】新海誠監督がエンタメ映画に込めた覚悟 「すずめの戸締まり」で辿り着いた境地

    https://eiga.com/news/20221112/8/

     しかしなぜ2022年なのか?

     新海監督はその間に「星を追う子ども」(2011年)、「言の葉の庭」(2013年)、「君の名は。」(2016年)、「天気の子」(2019年)を作っている。

     その間ではなくて2022年なのか?

    11年の歳月が経ったことで、あの頃の自分たちには作れなかったものが今なら作れるのではないかと思いました。観客にしても、当時ならば震災を描く映画を見たくないと思っていたけれど、今であれば「見てもいい」と言ってくれる人もいるんじゃないかと思うんです。時間が経過し、自分や社会がそうやって変化したことも、直接扱おうと思った理由の一つです。

    映画.com 【インタビュー】新海誠監督がエンタメ映画に込めた覚悟 「すずめの戸締まり」で辿り着いた境地

     「観客にしても、当時ならば震災を描く映画を見たくないと思っていた」ということがあるのであろうか?

     宮崎駿監督は2013年に公開された映画「風立ちぬ」で関東大震災を描いていたが…。

     新海監督はまた「君の名は。」、「天気の子」でも震災を描いていたとも語っている。

    実際にどちらの作品でも、2011年の出来事を、形を変えながら、描いてはいたんです。1000年に一度の巨大な彗星がもらたす災害も、止まない雨がもたらす水害も、自分の中では震災のメタファーでした。世界が書き換わってしまった強烈な記憶がベースとなっていて、「君の名は。」から「すずめの戸締まり」まで、40代の10年間、ずっと2011年のことを考えながら映画を作っていたと言っても過言ではありません。

    映画.com 【インタビュー】新海誠監督がエンタメ映画に込めた覚悟 「すずめの戸締まり」で辿り着いた境地

     よくわからないが、新海監督は震災の5年後の「君の名は。」まで震災を映画に描かず、「君の名は。」、「天気の子」で描いて、「すずめの戸締り」で正面から東日本大震災を描くに至ったようである。

     時がたつとともに新海監督の作品の中で東日本大震災が大きくなっている。

     新海監督は「すずめの戸締り」において東日本大震災に向き合っているのであるが、また、「君の名は。」、「天気の子」という過去の作品と向き合っているのでもある。


    【メーカー特典あり】「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)(「すずめの戸締まり」特製ICカードステッカー付)

    【メーカー特典あり】「天気の子」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組【初回生産限定】(「すずめの戸締まり」特製ICカードステッカー付)

    その他

     映画を観てその他に気づいたこと。

    椅子

     映画を観る前に新海監督自身が書いた「小説 すずめの戸締り」を読んでいた時には、椅子は早すぎるのではないか? と思っていた。

     その後長い間椅子でいなくてはならないことはどうなのか? と思っていた。


    小説 すずめの戸締まり (角川文庫)

     映画を観ると、椅子はコミカルになっていて、早くても問題ないと思った。

    芹沢

     「小説 すずめの戸締り」を読んでいる時に、芹沢という人物には違和感があった。

     しかし映画で観ると、それほど違和感はない。

     声は神木隆之介君。

    引用

     「すずめの戸締り」では、「ルージュの伝言」その他、1970年代、80年代の楽曲が多く出てくる。

     「ルージュの伝言」も「魔女の宅急便」と関係づけられているので、80年代ということができるかもしれない。


    魔女の宅急便 サントラ音楽集

     その出し方が気になる。

     意表を突く絶妙な出し方ではない。

     新海監督が2007年に公開された映画「秒速5センチメートル」で、さりげなくLINDBERGを聞かせていたことと比べると大きく違うようである。


    君のいちばんに・・・

     「千と千尋の神隠し」の引用について↓

    家族

     「すずめの戸締り」は女子高校生すずめの話である。

     第一にその世代に向けて作られているわけである。

     しかしまた子供の話でもある。家族の話でもある。

     子供のいる家族向けに作られているのでもある。

     子供の心をひきつけることができるであろうか?

    東宝MOVIEチャンネル
    映画『すずめの戸締まり』【行ってきますPV】
  • 新海誠監督の映画「すずめの戸締り」公開された本編冒頭12分 感想

    新海誠監督の映画「すずめの戸締り」公開された本編冒頭12分 感想

     新海誠監督の映画「すずめの戸締り」の公開に先立って本編冒頭12分が日本テレビ系列の「金曜ロードショー」で公開された。

     新海誠監督の新作「すずめの戸締り」は2022年11月11日に公開されることになっている。(何故に夏ではなくて11月?)

     その公開に先立つ10月28日、日本テレビ系列の「金曜ロードショー」で新海誠監督の旧作「君の名は。」が放映され、その後に「すずめの戸締り」の冒頭12分が公開された。

     それを観て、内容そのものについてではなく、内容の出し方についてひっかかるところがあった。

    感想

     先に感想。

     私はその前に「小説 すずめの戸締り」を読んでいる。


    小説 すずめの戸締まり (角川文庫)

     予告動画も観ている。

     その上で本編冒頭12分を観ると、大体において小説を読んでいた時に想像していたような感じだと思った。

     作り込まれた映像を想像できたのではないが、そういう感じの映像ができるであろうと想像していたようになっていた。

    過去の作品

     さて、本編冒頭12分を観ていて、ひっかかるところがある。

     「小説 すずめの戸締り」を読んだ時にもひっかかったところである。

     過去の作品を思わせるところが出てくるのである。

    新海誠監督の過去の作品

     まず新海誠監督自身の過去の作品。

     「すずめの戸締り」は主人公の夢から始まる。

     それをみて、また夢から始まるのか、と思った。

     「君の名は。」と似ている。


    「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション

     映画版でも似ているのであるが、

     それ以上に「小説 君の名は。」は似ている。


    小説 君の名は。 (角川文庫)

     映画版は彗星が落ちていくところから始まるが、小説版は夢を見ているところから始まる。

     もっと広く言うと、主人公が過去を振り返るところから始まる「雲のむこう、約束の場所」、「秒速5センチメートル」などとも似ている。

     新海誠監督が同じようなかたちをとりつつ違う映画を作っていくことについて特に言うことはない。

     ひっかかるのは、表現として「君の名は。」に似ているところがあることである。

     主人公の女子高校生がその夢から目を覚ますところなども、外形として似ていると思った。

     そこで心が「すずめの戸締り」から離れて「君の名は。」に行ってしまうのであるが、そのことにどういう意味があるのだろうか?

     わざとそうしたのであろうか? 意識せずにそうなったのであろうか?

     思えば、「小説 すずめの戸締り」を読んでいる時は、主人公を「君の名は。」の三葉の声で、三葉のイメージで思い描いていて、映画もそうなっていたら多くの人をひっぱることができるのではないかと思った。

     実際にはキャラクターデザインも声質も少し違う感じであるが、どうだろう?

    「千と千尋の神隠し」

     次に宮崎駿監督作品。

     「すずめの戸締り」の主人公が登校の途中に、昭和の終わりから平成の初めにかけての大きなリゾート施設に行くところは、どうしても宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を思い出す。


    千と千尋の神隠し [Blu-ray]

     「温泉パイプ」とか、橋を渡った先にあるとか、水の上を歩くとか―。

     そこでも心が「すずめの戸締り」から離れて「千と千尋の神隠し」に行ってしまうが、新海誠監督はどうしてそうしたのか?

     「すずめの戸締り」は「千と千尋の神隠し」のような話ではない。

     考えてみると、「千と千尋の神隠し」ではそれを入り口とするにすぎなかったが、「すずめの戸締り」はそれを問題として向き合ったということもできる。

     映画の感想↓

  • 新海誠監督の映画「君の名は。」が公開された時の評価の対立について

    新海誠監督の映画「君の名は。」が公開された時の評価の対立について

     新海誠監督の映画「君の名は。」は2016年に公開されて、記録的な興行成績を上げた。


    「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)

     8月26日、いわば夏の終わりに公開されたのであるが、評判が良くて、記録的な数字を伸ばしていって、ついには「千と千尋の神隠し」に次ぐ邦画歴代2位になった。

     「君の名は。」はそれだけ多くの人に評価されたわけである。

     しかし反対に低く評価する人も多かった。

     「君の名は。」は何故に多くの人に高く評価されると同時に、多くの人に低く評価されたのか?

     新海誠監督はその時に低く評価されたことから、次の映画「天気の子」を生み出したと語っている。

    家で食事をしているとテレビでいわゆる有名人が映画に意見していたり(なんだかディスられていた)、はたまた道を歩いている時でさえも映画の名前が聞こえてきたりした(やっぱりディスられていた)。SNSには膨大なコメントがあふれていて、もちろん楽しんでくれた方も多かったのだろうけれど、激烈に怒ってらっしゃる方もずいぶん目撃した。僕としては、その人たちを怒らせてしまったものの正体はなんだろうと考え続けた半年間だった。そしてその半年間が、『天気の子』の企画書を書いていた期間でもあったのだ。

    「小説 天気の子」、角川文庫、令和元年、205頁

    小説 天気の子 (角川文庫)

     「君の名は。」はどうして多くの人に低く評価されたのか、という問題は、その次の映画「天気の子」と関わっているということでも重要である。

    概観

     私は当時「君の名は。」に対して批判的であった。

     「君の名は。」が売れていることは理解できたが、私としては批判的であった。

     そして批判的な人が多くいたのは、私と同じようなところを問題としているのだと思っていた。

     しかし離れてみると、他の人が何故に「君の名は。」に対してあれほど批判していたのか、不思議に思うようになった。

     たとえばタイプ・あ~る氏が2017年1月にそのことについて書いた記事がある。

     この記事では以下の人々が「君の名は。」に対して低く評価する言葉を取り上げている。

    ・是枝裕和(映画監督)

    ・江川達也(漫画家)

    ・矢田部吉彦(東京国際映画祭ディレクター)

    ・富野由悠季(アニメーション監督)

    ・石田衣良(小説家)

    ・高橋秀樹(放送作家/日本放送作家協会・常務理事)

    ・江口寿史(漫画家)

    ・入江奈々(映画ライター)

    ・井筒和幸(映画監督)

    ・堀田延(放送作家)

     たしかにこれだけの人が「君の名は。」に対して否定的に語っていたというのは、異様でもある。

    私の場合

     まず私が「君の名は。」に対して批判的である理由について語っておく。

     私の「君の名は。」に対する不満はストーリーにある。

     揚げ足取りをしたいわけではないのに、ストーリーの粗が気になって楽しめない。

     重要なところでストーリーの粗が目立つ。

     思うに、新海誠監督の作品には内的な主題があって、それを外的な形にしているのであるが、その外的な形に、気になるところが多いのである。

    新海誠監督の以前の作品との関係

     新海誠監督の作家性は、「君の名は。」以前には「君の名は。」以後と違うように考えられていた。


    秒速5センチメートル [Blu-ray]

     特に「秒速5センチメートル」によって印象づけられていた。

    ・主人公の男性の、ぼそぼそとした暗く湿っぽい詩的な独白によっておおわれている。

    cwfilms
    「秒速5センチメートル」予告編 HD版 (5 Centimeters per Second)

    ・愛する人と結局結ばれない。

     それに対して「君の名は。」は大きく変わっている。

    ・全体的に明るく楽しい。

    東宝MOVIEチャンネル
    「君の名は。」予告

    ・愛する人と結ばれる。

     「君の名は。」以前の新海誠監督は、限られた層に受けるが、その外には受けないと思われていた。

     「君の名は。」はその外に届いた。

     しかし「君の名は。」以前の「秒速5センチメートル」などを高く評価していた人で、「君の名は。」を低く評価した人がいたようである。

     たとえば宮台真司氏等は、「君の名は。」以前の「秒速5センチメートル」などを高く評価していたが、「君の名は。」は大衆に合わせてそれまでの作品のいいところをなくしたものとして、低く評価していた。

     ちなみに私は、「秒速5センチメートル」でも「君の名は。」でも主題はどちらでもよく、ストーリーに問題があると思っていた。

    「シン・ゴジラ」との関係

     2016年には、「君の名は。」が公開される前に、庵野秀明監督の映画「シン・ゴジラ」の興行成績がよかった。

     ところがその後に「君の名は。」が記録的な成績を出してしまった。

     そこで「シン・ゴジラ」に入り込んで人が「君の名は。」に対して厳しく評価したということがあったのではないか。

     堀田延氏などはそうでなかったか。

    宮崎駿監督との関係

     「君の名は。」が公開される前、日本のアニメ映画で最も売れていたのは宮崎駿監督の作品であった。

     「君の名は。」は、その宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」以外の作品の興行成績を抜いた。

     宮崎駿監督には多くのファンがいる。その中で、「君の名は。」に対して厳しく評価した人もいたかもしれない。

    「この世界の片隅に」

     2016年は、「この世界の片隅に」の劇場版が公開された年でもあった。


    この世界の片隅に [DVD]

     「この世界の片隅に」の劇場版はクラウドファンディングによるもので、関わった人の思い入れは一層強かったと思われる。

     そこで東宝による「君の名は。」に対抗して、クラウドファンディングによる「この世界の片隅に」を応援するということもあったと思われる。


    「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)
  • 「ルパン三世のテーマ ’89」 公式フルサイズMV TVスペシャル

    「ルパン三世のテーマ ’89」 公式フルサイズMV TVスペシャル

     「ルパン三世のテーマ」には様々なヴァージョンがある。

     ここでとりあげるのは「’89」。

     「ルパン三世のテーマ ’89」は、1989年から始まった「ルパン三世」TVスペシャルで流れた。

     「ルパン三世のテーマ」の中でも特にゴージャスな感じ。

    動画

     そのフルサイズMVが公式にYouTubeで公開されている。

     大野雄二さんの公式アカウントによる紹介↓

     PART6サントラリリースに合わせて公開されたようである。

     YouTube動画↓

    大野雄二 / YUJI OHNO
    THEME FROM LUPIN THE THIRD’89 (Lupintic Five Version)[MUSIC VIDEO]ルパン三世のテーマ’89 | Full Size ver.

     これはかっこいい。

     2014年発売のアルバム「UP↑ with Yuji Ohno & Lupintic Five」(2014年12月10日(水)発売)に収録された「16.THEME FROM LUPIN THE THIRD ’89 (Lupintic Five Version)」。


    UP↑ with Yuji Ohno & Lupintic Five

    ’89がつかわれたTVスペシャルと劇場版

     「ルパン三世のテーマ ’89」が初めて使われたのは、1989年の「ルパン三世」TVスペシャル第一作「ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!」。


    バイバイ・リバティー・危機一発! ― ルパン三世 TVスペシャル第1弾 [DVD]

     映画のオープニングテーマとして使われている。

     この曲を聞くとワクワクする人も多いのではないか?

     この曲のゴージャスな感じは、「ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!」をはじめとしてTVスペシャルの、世界中を舞台とした華やかな感じと合っているようである。

     次の年、1990年の「ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎」でも「ルパン三世のテーマ ’89」が使われた。


    ヘミングウェイ・ペーパーの謎 ― ルパン三世 TVスペシャル第2弾 [DVD]

     1991年の「ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え」。


    ナポレオンの辞書を奪え ― ルパン三世 TVスペシャル第3弾 [DVD]

     1992年、「ルパン三世 ロシアより愛をこめて」。


    ロシアより愛をこめて ― ルパン三世 TVスペシャル第4弾 [DVD]

     1993年、「ルパン三世 ルパン暗殺指令」。


    ルパン暗殺指令 ― ルパン三世 TVスペシャル第5弾 [DVD]

     1994年、「ルパン三世 燃えよ斬鉄剣」。


    燃えよ斬鉄剣 ― ルパン三世 TVスペシャル第6弾 [DVD]

     1995年、TVスペシャルではなく劇場版「ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス」でも「ルパン三世のテーマ ’89」が使われた。


    ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス [Blu-ray]

     1995年、「ルパン三世 ハリマオの財宝を追え!!」は、ルパンの口笛からというしゃれた入り。


    ハリマオの財宝を追え!! ― ルパン三世 TVスペシャル第7弾 [DVD]

     1996年の「トワイライトジェミニの秘密」では「ルパン三世のテーマ ’89」は使われず、「’96」が使われた。

     劇場版「DEAD OR ALIVE」でもそうであった。

     1997年の「ワルサーP38」から新たに「ルパン三世のテーマ ’97」が作られた。

     1998年の「炎の記憶~TOKYO CRISIS」でも「ルパン三世のテーマ ’97」が使われている。

     ところが1999年、「ルパン三世 愛のダ・カーポ〜FUJIKO’S Unlucky Days〜」で「ルパン三世のテーマ ’89」が復活。


    愛のダ・カーポ/FUJIKO’s Unlucky Days ― ルパン三世 TVスペシャル第11弾 [DVD]

     2000年の「1$マネーウォーズ」では、「ルパン三世のテーマ’97」のリミックスヴァージョンが使用された。

     2001年の「アルカトラズコネクション」では「LUPIN THE THIRD」という英語の歌詞のヴォーカルが入ったヴァージョン。

     2002年、「ルパン三世 生きていた魔術師」でまた「ルパン三世のテーマ ’89」が使われた。


    ルパン三世 生きていた魔術師 [Blu-ray]

     2002年、「ルパン三世 EPISODE:0 ファーストコンタクト」でもオープニングに「ルパン三世のテーマ ’89」が使われた。


    【Amazon.co.jp限定】「ルパン三世 EPISODE:0 ファーストコンタクト」TVスペシャル THE BEST SELECTION Blu-ray 〔全巻購入特典:全巻収納BOX引き換えシリアルコード付き〕

     エンディングでは「ルパン三世のテーマ’78」のリメイク版(2002 Version)が使われた。

     2003年の「お宝返却大作戦‼」、2004年の「盗まれたルパン 〜コピーキャットは真夏の蝶〜」では「ルパン三世のテーマ’78(2002 Version)」がオープニングに使われた。

     2005年の「天使の策略 〜夢のカケラは殺しの香り〜」では「ルパン三世のテーマ’80」のリメイク版(2005 Version)が使われた。2006年の「セブンデイズ・ラプソディ」でも。

     2008年、「ルパン三世 GREEN vs RED」


    ルパン三世 GREEN vs RED [Blu-ray]

     2009年、「ルパン三世VS名探偵コナン」


    ルパン三世 VS 名探偵コナン [Blu-ray]

     2010年、「ルパン三世 the Last Job」


    ルパン三世 the Last Job / Lupin The 3rd Blu-ray BOX (90分) 北米版

     2012年、「ルパン三世 東方見聞録 〜アナザーページ〜」


    ルパン三世 東方見聞録~アナザーページ~ 通常版 [Blu-ray]
  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」TVシリーズが放映されていた時の「アニメディア」の投稿欄

    「きまぐれオレンジ☆ロード」TVシリーズが放映されていた時の「アニメディア」の投稿欄

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時、アニメ雑誌「アニメディア」の投稿欄はどうなっていたか?

     原作ファンの声はどのくらい取り入れられていたか?

    結論

     はじめに結論を言うと、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた間、原作ファンのアニメ版に対する批判的な声は載せられなかった。

     ただし「アニメディア」では、「アニメージュ」のようにTVシリーズを持ち上げる投稿も少ない。

     それゆえに全体として投稿が少ない。関心がなかったかのように見える。

    原作ものに対する批判

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された時には、「アニメディア」の投稿欄には、原作もののアニメに対する批判的な問題意識があった。

     1987年6月号の「アニメディア」の投稿欄「アニメアイ」の第一のテーマは「『めぞん一刻』中心に原作つきアニメの問題点を鋭くえぐるっ」というものである。これは4月号に掲載された「めぞん一刻」アニメ版に対する不満の投稿への反響が多かったというもの。

     「めぞん一刻」のアニメ版に対する批判というかたちで原作つきアニメが問題とされている。

     第一の投稿は、「めぞん一刻」の第42話が「原作つきアニメの限界というものを暗に示している」というもの。(48頁)

     それに対する選者のコメントは、「反響の多くが現在の『めぞん』の作り方に不信感を抱いたもの」であったことを伝えつつ、「スタッフの意志で作りかえるのは許されることでしょう」という擁護派の声をも取り上げている。(49頁)

     第二の投稿は、第50、51話を称賛するもので、選者のコメントは「50、51話のようにまるごとオリジナルの話を作れば、そこにアニメ『めぞん』の新しい魅力も生れるってもんだいと思うんだけど」というもの。(49頁)

     1987年7月号は「聖闘士星矢」特集で、「聖闘士星矢」に関して原作ファンに対してアニメ版を擁護する投稿が掲載されている。(68頁)

     「きまぐれオレンジ☆ロード」に関してはネタ的な投稿のみ。(67頁)

    批判的な投稿

     1987年8月号も「聖闘士星矢」中心。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」に関して「恭介は好人物⁉ 不自然な物語」と題する、主人公を批判し、物語を批判する投稿が掲載されている。(54頁)

     これは不自然ではないか?

     原作ファンによる批判とか、アニメファンによる擁護とかの投稿があって、その上で原作もアニメも批判する上のような投稿が掲載されているのであればいいが、そういう投稿はなくてこういう投稿だけが掲載されているのはおかしくないか?

     1987年9月号も「聖闘士星矢」中心。

     1987年10月号では、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関するネタ的な投稿二つ(51、52頁)、ポエム一つ(56頁)

     そして55頁で、1987年8月号の批判的な投稿に対する反論二つ。これはまあいいのであるが、それしかないのか? とも思う。

     それから飛んで1987年12月号では、ネタ的な投稿四つ(49、53頁)に、原作の終わり方に対する批判。(54頁)

     1988年1月号では、ネタ的な投稿の一つに入っている。(49頁)

     1988年3月号では、3クール目あたりから格闘シーンが増えたことに対する批判の投稿。(55頁)

     ただしこの投稿でも「アニメの『O☆R』は、かなり原作の味を出していて、原作のアニメ化としては成功している方なんだから、今後は格闘シーンをあまり使わずに、スタジオぴえろ独自の味を創りだしてほしいです」とある。

     1988年4月号、5月号には特になし。

    まとめ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の放映前には特に「めぞん一刻」をめぐって、原作とアニメ版との対立が問題とされていた。「聖闘士星矢」でもそのことは問題とされていた。

     ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」に関してはそのことは問題とされなかった。

     何故に「めぞん一刻」では盛んに取り上げられた原作とアニメ版との対立に関する投稿が「きまぐれオレンジ☆ロード」では取り上げられなかったのか?

     「アニメージュ」と比べると、アニメ版を持ち上げる投稿は少ない。(それでも1988年3月号のようなものがある)

     全体として印象が薄いようである。

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時のアニメ雑誌の投稿欄について

    「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時のアニメ雑誌の投稿欄について

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された時のアニメ雑誌の投稿欄についてしらべてみた。

    問題

     なぜしらべたのか?

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のファンの間で奇妙なことがあると思ったからである。

     漫画とその漫画を原作としたアニメが離れたものになった場合に、原作ファンとアニメファンとが対立することはよくあることである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」で奇妙なことは、

    ・原作ファンでアニメ版に対して不満な人は多くいる。

    ・ところがアニメファンの間で、そういう原作ファンの不満がなかったかのように、アニメ版を原作の上に置く言説ができていることである。

     どうしてそういうことになったのか?

     そこで、TVシリーズが放映された時の「アニメージュ」の投稿欄をしらべることになったのである。

     TVシリーズが放映された時にはどういう対立があったのか?

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された時には、匿名掲示板も、まとめサイトも、SNSもなかった。

     作品に対する評価の対立はアニメ雑誌の投稿欄などでなされていた。

     その時には正面から対立していたのが、その後に変わったのか?

     それともその時に何かあったのか?

    しらべた結果

     しらべた結果は次の通り。

     「アニメージュ」の投稿欄↓

     「アニメディア」の投稿欄↓

     投稿欄に掲載する投稿は、選者が選んだものである。

     その後にできた匿名掲示板とか、まとめサイトのコメント欄とか、SNSとかでは、各人の意見の多くがそのまま掲載される。

     それに対してアニメ雑誌の投稿欄の選者は、多くの投稿から、少しを選ばなくてはならない。

     そして選ぶときには雑誌の意図に合うようにする。

     そのことは責められることではない。

     しかしそのことによって実態がわかりにくくなることがあるのではないか?

     上で取り上げた「きまぐれオレンジ☆ロード」の投稿の扱いにも実態をわかりにくくするところがあるのではないか? と思うのである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の前の、そして同時期の「めぞん一刻」では、原作ファンとアニメファンとの対立が盛大に取り上げられていた。

     「聖闘士星矢」などでもその問題は取り上げられていた。

     ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」ではその問題はほとんど取り上げられなかった。

     問題がなかったからではなくて、問題があったにもかかわらずわざと取り上げなかったと思われる。

     何故に取り上げなかったのかは、よくわからない。

     いずれにせよ、原作ファンがアニメ版を批判する声はほとんど載せられなかった。それに対してアニメ版は原作をうまくアニメ化したという声は載せられた。特に「アニメージュ」ではアニメ版を持ち上げる投稿を多く載せていた。

     原作をよく知らずに、そういう「アニメージュ」ばかり読んでいる人は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは「めぞん一刻」と比べて原作をうまくアニメ化した作品であって、原作ファンから批判されていないと思うであろう。

  • 「ベルサイユのばら」50周年で劇場アニメ制作が決定

    「ベルサイユのばら」50周年で劇場アニメ制作が決定

     「ベルサイユのばら」、完全新作での劇場アニメ制作が決定。

    「ベルサイユのばら」完全新作の劇場アニメ

     「ベルサイユのばら」が「週刊マーガレット」で連載を開始したのは1972年。

     それから50年の時を経た2022年、「ベルサイユのばら」の完全新作での劇場アニメ制作が決定した。

     公式Twitter

     原作者池田理代子先生のイラストとコメント。

     公式HP

    https://verbara-movie.jp/

     公式HPには

    ・このほかのコメント

    ・ティザービジュアル、特報映像

    ・原作<完全版>1~9話無料試し読み

    「ベルサイユのばら」関連商品

     50周年アニバーサリーブック↓


    愛と感謝の50周年 ベルサイユのばら アニバーサリーブック

     全10巻セット↓


    ベルサイユのばら コミック 全10巻完結セット (マーガレット・コミックス)

     14巻セット↓


    ベルサイユのばら コミック 1-14巻セット

     文庫版↓


    ベルサイユのばら 全5巻セット 化粧箱入り (集英社文庫(コミック版))

     フェアベルコミックス↓


    ベルサイユのばら(1) (フェアベルコミックス)

     昔のアニメのBlu-ray BOX↓


    ベルサイユのばら Blu-ray BOX

     今度は原作寄りになるのか、はたまた…

  • 映画「月とキャベツ」―山崎まさよし主演映画

    映画「月とキャベツ」―山崎まさよし主演映画

     映画「月とキャベツ」は1996年に公開された映画。

     1996年度の文化庁優秀映画作品賞を受賞している。

     山崎まさよし主演で、劇中で “One more time, One more chance” が歌われる。


    月とキャベツ [DVD]

    映画「月とキャベツ」は

     映画「月とキャベツ」は、若い男女のひと夏のやりとりを描いた作品。

     主人公の花火(山崎まさよし)は、東京で人気のあるバンドのヴォーカルであったが、そのバンドが解散してから一年、新曲を作らず、都会から離れたところ(群馬)で古い家屋に一人で住んで畑でキャベツを作って暮らしていた。

     ある日、草原ばかりで人のいないところで花火が車を停めていると、土手で踊っている少女(真田麻垂美)がいた。

     そこで二人は知り合った。

    映画「月とキャベツ」の主題

     映画「月とキャベツ」は、新曲を作らなくなった主人公がどうするか、という話である。

     ヒバナという少女(真田麻垂美)とのやりとりがそのことに関わってくる。

      “One more time, One more chance” もそのことと関わっている。

    「月」と「キャベツ」とは?

     キャベツは、主人公の花火が育てる作物として出て来る。

     キャベツは、花火という人物を象徴している。

     それに対して月は、ヒバナという人物を象徴している。

     ヒバナという人物は、月によって象徴されるような人物ということができる。

    絵画

     映画「月とキャベツ」では、絵画的な表現に気が遣われている。

     地平線によって画面の上下が区切られて、下は草原、上は空という構図で、その草原の中で、白のノースリーブのワンピースの少女が細い手足を動かして踊っている、というのはこの映画の特徴的な映像である。

     特にヒバナという、白くほそい、透明感のある少女の表現に気が遣われている。

     まさに、夢のような少女。

    音楽

     映画「月とキャベツ」は、主人公がミュージシャンであって、新曲をどうするかという話である。

     そこでミュージシャンである山崎まさよしの歌が、物語の重要な要素となっている。

      “One more time, One more chance” も物語の重要な要素として出て来る。

     ただし “One more time, One more chance” は映画「月とキャベツ」のために作られたのではなく、映画「月とキャベツ」と関係なく作られていた。


    One more time, One more chance

     映画と関係なく作られていたにもかかわらず、 “One more time, One more chance” の歌詞は、映画「月とキャベツ」に合っている。

     踏み切りとか、桜木町とかは、映画「月とキャベツ」とは関係がない。

    「月とキャベツ」のDVD

     映画「月とキャベツ」はDVDが出ている。

     特典映像は、劇場予告と監督インタビュー。

     監督インタビューでは、篠原哲雄監督が、脚本を選んだいきさつ、出演者を選んだいきさつなどについて語っている。


    月とキャベツ [DVD]
  • 新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」という難解な作品について考えてみる~第一話・第二話~

    新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」という難解な作品について考えてみる~第一話・第二話~

     新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」は難解な作品である。その難解なところについて考えてみる。

     ここでは、「第一話 桜花抄」、「第二話 コスモナウト」について考える。


    秒速5センチメートル [Blu-ray]

    第一話 桜花抄

    アバンタイトル

     桜の花が散る中で、ランドセルを背負った小学生の男の子と女の子が会話するところから映画は始まる。

     二人の恋愛感情が描かれるのではないか、と予測される。

     ところが二人の恋愛感情はほとんど描かれない。

     二人の心が近づくところではなく、遠ざかるところが描かれている。

    ・「秒速5センチメートル」云々という女の子の言葉に対して、男の子は距離を感じている。

    ・女の子が突然駆けだして、男の子から離れて行く。

    ・女の子は踏切を渡ったのに、男の子は追いつくことができず、二人の間を電車が通る。

    仲良くなったいきさつ

     その男の子と女の子が仲良くなったいきさつは、その男の子・遠野貴樹とおのたかきの独白と、断片的な映像によって伝えられる。

    ・二人は「精神的にどこかよく似ていた」という

    ・貴樹が東京のその小学校に転校してきた一年後、小学四年生の時に、その女の子・篠原明里しのはらあかりは同じクラスに転校してきたという

    ・貴樹も明里も病気がちで図書館が好きであったという

     それで二人は「ごく自然に仲良く」なったというのである。

     二人が仲良くなるところは描かれず、二人の持っていた条件と、仲良くなったという結果だけが伝えられるのである。

     しかしその条件があれば必ずその結果が生ずるわけではない。

     小学四年生では、男女は分かれていくと思われる。その中で男女で仲良くなることは、自然にあることではなく、緊張対立を伴う出来事として起こることではないか?

     恋愛を描く作品の第一に描くべきことではないかと思われる。

     ここでも恋愛が描かれていないのである。

     二人がどういう関係であるのか、互いに相手をどう思っているのかも、わかりにくい。

     新海誠監督はクラスと、クラスに馴染めない二人が対立していたように描いている。

     小説版では「クラスに馴染むことのできなかった」二人が、「ふたりだけの世界に内向していっている」と書いてある。(14~15頁)


    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     クラスに対して「ふたりだけの世界に内向していっている」ところも、あまり描かれておらず、わかりにくい。

     漫画版では、映画の絵と言葉をもとにして、その間に言葉と表情を加えることによって、二人が仲良くなっていくところが描かれている。


    秒速5センチメートル(1) (アフタヌーンコミックス)

     漫画版を読むと、二人が仲良くなっていく気持ちが読者にもよく伝わる。

     新海誠監督が映画においてそういうことをしなかったことにはどういう意味があるのか?

    距離

     二人が一緒にいるところは、引きの絵で観客から遠くに描かれている。

     映画のはじめに二人が出て来るところなど、二人が隅に小さく描かれているので、見落としてしまいそうである。

     その後で小学生の二人が一緒にいるところが描かれるが、二人を遠くから見るかたちになっている。

     小説版では、はじめの桜の場面について次のように書かれている。

    古い記憶をたぐろうとする時、僕はあの頃の僕たちをフレームの外、すこし遠くから眺めている。

    「小説 秒速5センチメートル」、角川文庫、8頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     記憶をたぐる時に「すこし遠くから眺めている」ことを意識的に表現しているようである。

     幼い二人の気持ちが夢のようにぼんやりとしてわかりにくくなっていることは、そのことと関係があるようである。

    手紙

     貴樹と明里が小学校の卒業式で別れてから半年後、貴樹のもとに明里から手紙が来た。

     映画では、明里がその手紙を朗読する声と、貴樹の中学生活の映像が重ねられている。

    明里の意図

     明里の手紙に恋愛要素が少ないことが気になる。

     明里はその手紙において、近況を伝えるだけで、恋愛感情を伝えることもなく、そもそも何を伝えたいのか、よくわからない。

     小説版では次のように書かれている。

    僕と会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかったし、文面からは彼女が新しい生活が新しい生活に順調に馴染んでいるようにも感じられた。でも、明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだと、僕は感じた。そうでなければ、手紙なんて書くわけがないのだ。そしてそういう気持ちは、僕もまったく同じだったのだ。

    「小説 秒速5センチメートル」、21~22頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

    ・明里の手紙には貴樹と「会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかった」。

    ・ところが貴樹は明里の手紙を読んで、「明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだ」と「感じた」。

    ・貴樹が明里の手紙に読み取った気持ちは貴樹の気持ちと「まったく同じ」であった。

     貴樹ではない観客からすると、文面に書かれていない明里の気持ちを「感じ」ることは容易ではないのではないか?

    貴樹の反応

     観客からすると、明里の手紙を読んだ貴樹の気持ちを読み取ることも、容易ではないことではないか?

     映画では、明里の手紙に対する貴樹の反応はほとんど描かれていない。

     手紙をめぐる二人の気持ちはほとんど描かれていないのである。

     貴樹は明里の手紙に対して返事を書いたはずであるが、そのこともほとんど描かれていない。

    ・はじめの夏の手紙

    ・「もうすっかり秋」の手紙

    ・「寒い日が続く」時の手紙

    ・貴樹の転校を知った時の手紙

    ・貴樹が会いに行くと約束した後の手紙

     以上の明里の手紙に対して貴樹はその都度返事を出しているはずであるが、貴樹が手紙を書こうとするところが少し描かれているだけで、貴樹の返事はほとんど描かれていない。

    会うこと

     貴樹が東京から種子島に転校することがきまって、ふたりは会うことにする。

     気になるところが多い。

    何故にそれまで会おうとしなかったのか?

     明里が初めて貴樹に手紙を出したのは、小学校の卒業式から半年後の夏である。

     それから三月まで、会う時間はあったと思われるのに、何故に会とうとしなかったのか?

     会おうと思えば会うことはできると考えて急がずにいて、突然遠く離れることになって会うことが重要になったということであろうか?

     しかし小説版では、貴樹は明里の手紙を読んで貴樹に会いたいという思いを読み取っている。そして貴樹も「まったく同じ気持ち」気持ちをもっていたと語っている。

     二人とも会いたいという気持ちをもっていたのに、三月まで会おうとしなかったことは奇妙である。

    距離

     たしかに種子島は、東京と比べると栃木からはるかに離れている。

     しかし中学一年生にとっては、東京と栃木も離れているのではないか、とも思う。

    ・貴樹は東京から栃木へどう行くか知らなかった。

    ・貴樹は明里の手紙を受け取って、会いたいという気持ちを知り、自分でも持っていたのに、その夏から次の三月まで栃木に行っていない。

    ・実際に栃木へ行く時には大変な苦労をしている。

    その約束の内容

     貴樹は3月4日の放課後に豪徳寺から電車に乗って明里の住む栃木県岩舟駅まで行くという計画を立てた。

     豪徳寺を16時前に出て、岩舟で19時に待ち合わせるという計画である。

     つっこみどころがある。

    ・休日に会うことにすれば、余裕をもって会うことができたのではないか?

    ・ふたりが動いて中間地点で会うことにすれば電車に乗る時間が短くなって、会う時間が長くなるのでは?

     小説版には次のように書かれている。

    時刻表を調べて、僕たちは夜七時に明里の家の近くの駅で待ち合わせることに決めた。その時間ならば僕が放課後の部活動をさぼって授業後すぐに出発すれば間に合うし、二時間ほど明里と話した後に、最終電車で都内の家まで帰ってくることができる。とにかくその日のうちに家に帰ることができるなら、親へのいいわけもなんとでもなる。

    「小説 秒速5センチメートル」、24頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     19時に待ち合わせして、21時まで話して、それから最終電車で24時少し前に豪徳寺に帰ってくる計画のようである。

     やはり無理をしているように見える。

     休日は空いていなかったということであろうか?

     そうだとしても、やはり二人が動いて中間地点で会うことはできたのではないか?

     明里の家の近くの桜の木が重要であることはわかるが、中間地点にある桜の木でもよかったのでは?

    電車

     明里に会いに行くために貴樹が乗った電車は、雪で動かなくなる。

     幸せが外からの力によって妨げられ、主人公はそれに対して耐え忍ぶ、というのは話として盛り上がる。

     恋愛ものとしても盛り上がるところである。

    出会い

     十一時すぎに貴樹が岩舟駅に着いてみると、明里が一人で待っていた。

     二人は駅で明里が持って来たものを食べた。そして、二人で明里の家の近くの桜の木を見に行った後、納屋で一泊した。


    栃木市6(岩舟) 201910 (ゼンリン住宅地図)
    現実離れ

     以上のことは、現実離れしている。

    ・明里の親は、中学一年生の娘が雪の日に朝まで帰って来ないのに探し回らなかったとは考えられない。(第三話で少し出て来るが、異常な人とは思えない)

    ・駅員も、雪の日に中学一年生の女の子が一人で十一時すぎまで座って待っているのをそのままにして置かないのではないか?

    ・雪の夜を納屋で明かすことは、悲惨なことになるのではないか?

     この夜のことは、美化されて現実離れしたことのように見える。

    桜の木

     明里が桜の木を前にして「まるで雪みたいじゃない?」というところは、その場での言葉としてはおかしいことである。

     明里は、映画冒頭のやりとりを貴樹に思い出させているにちがいない。

     映画冒頭では、貴樹は明里の言葉に貴樹はついていくことができなかった。

     この場面では、貴樹は明里の言葉についていくことができる。

     二人の心の中に同じ桜がある。現実にはない桜。

     この場面で、二人は互いに相手に対する気持ちを恋愛と自覚する。

     それに対して雪は、二人を遠ざける厳しい現実を現わしている。

    難解な言葉

     キスをした後の貴樹の独白は難解である。

     そのキスによって人生の最高のことを知ったというようなことはわかるが、その後に感じたという気持ちはわかりにくい。

     別れる時の明里の「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」という言葉は、貴樹に大きな意味があったようであるが、私にはよくわからない。

    手紙

     貴樹は明里に会いに行く時に、明里に対して伝えたいことを書いたという手紙を持って行っている。

     小説版には「ラブレター」と書いてある。

    約束の日まではまだ二週間あったから、僕は時間をかけて明里に渡すための長い手紙を書いた。それは僕が生まれて初めて書いた、たぶん、ラブレターだった。自分が憧れている未来のこと、好きな本や音楽のこと、そして、明里が自分にとってどれほど大切な存在であるかを―それはまだ稚拙で幼い感情表現であったかもしれないけれど―なるべく正直に書き綴った。

    「小説 秒速5センチメートル」、24頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     その手紙は、貴樹が小山駅で電車を待っている時に、風に飛ばされてしまう。

     明里も手紙を書いていて、貴樹に渡さなかったということになっている。

     この手紙のことも、わかりにくい。

     手紙を渡すことは、会いに行くことと関係なくできることではないか?

     手紙で伝えたいことがあるならば、会う前に手紙で伝えればいいのではないか? それまで数カ月手紙をやりとりしている間に伝えることはできなかったのか?

     その前に会うことが必要だったのか?

     会うことがきまっているのであるから、伝えたいことは、会って直接に伝えればいいのではないか?

    第二話 コスモナウト

     はじめて第二話を観た時、第一話に出ていなかった澄田花苗という人物が主人公となっていたので、第一話と全く別の人物による別の話が始まったと思った。

     そして、澄田花苗な恋愛感情が話の中心となっているところは、恋愛ものとして第一話よりわかりやすいと思った。

     ところがその澄田花苗の恋愛感情が、第一話の主人公・遠野貴樹に向けられていることに気づいて、衝撃を受けた。

    もぞもぞ

     澄田花苗が第一話の主人公・遠野貴樹を卓越した人物とみて恋愛感情を寄せているところは、もぞもぞする。

     第一話でその内面を独白してきた人物を、そのように卓越した人物のように見なすことは、正しくないと思われる。

     そういう澄田花苗の独白が第二話の中心となっているので、もぞもぞするのである。

    第一話との関係

     第一話は遠野貴樹の独白によって導かれたのに、第二話は澄田花苗の独白によって導かれて、遠野貴樹は澄田花苗によって外からみられるというかたちで描かれていることは、奇妙である。

     第一話は遠野貴樹の内面を掘り下げるような話になっていた。ところが第二話では遠野貴樹は外からみられるというかたちで描かれて、その内面を掘り下げる方向に進まず、内面はわかりにくくなっている。

    ・草原で空のかなたを見つめているのは、どういうことか? 隣にいる女性は?

    ・メールの意味は?

    ・澄田花苗に対してどう考えているのか?

    ・現在何を考えているのか?

     一部独白があるが、わかりにくい。

    成長の話

     第二話は全体としての成長の話になっている。

    澄田花苗の成長

    ・澄田花苗は、遠野貴樹のことを思って、停滞していた。

    ・ところが、迷いがないと思い込んでいた遠野貴樹が「迷ってばかりなんだ」と言ったことを聞いて、自分も前に進んで行くことに決めた。

    ・そして遠野貴樹に愛を告白しようとしたが、その心が自分の方を向いていないことを知って、あきらめて前に進むことを決めた。

    ・ロケット―二人は同様に遠くを目指しているが、澄田は遠野を求めているのに、遠野は他を求めている。

    遠野貴樹の成長

     問題は遠野貴樹である。遠野貴樹は第二話で成長したのか?

     小説版では、第三話で過去を振り返るかたちで次のような独白がある。

    それは後悔に似た感情だったが、だからといって、当時の自分にはやはりあのように振る舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。

    「小説 秒速5センチメートル」、139~140頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     「あのように振る舞うことしかできなかった」ということは、悪いことをしたのではなく、できるだけのことをしたということのようである。

     何故に「あのように振る舞うことしかできなかった」のか、わかりにくい。

     遠野貴樹はメールについて次のように語っている。

    それは彼にとって準備期間のようなものだった。ひとりで世界に出ていくための助走のようなもの。
     しかし次第に、メールの文面は誰に宛てたのでもない、漠然とした独り言のようなものへと変わっていき、やがてその癖も消えた。そのことに気づいた時、もう準備期間は終わったのだと彼は思った。

    「小説 秒速5センチメートル」、141~142頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     「準備期間」と言う意味で成長であったようである。

     これは映画を観ただけではわかりにくいところである。

    問題

     第二話の澄田花苗と遠野貴樹の関係は、澄田花苗による一方的なことのようにも見える。

     また澄田花苗の頭の中だけで起こっていることが多いようにも見える。

     しかし二人の関係は、客観的にみてただの知り合いを超えていたようである。

     遠野のクラスメイトが澄田のことを「遠野の彼女じゃん」とよんでいる。遠野は反対しているが、そう言われるような関係であった。(第一話では、黒板の落書きでからかわれて、クラスと二人が対立した。第二話では、一人の同級生に軽く言われて、軽く返している)

     二人はしばしば二人きりで言葉を交わし、二人きりで夕方、学校から帰った。―小説版には、「運の良い時は週に一回、運のない時は二週に一回くらいの割合で一緒に帰ることができる」とある。(72頁)

     客観的に二人はただの知り合いを超えて恋愛に近い関係になっていた。

     遠野貴樹もそのことを意識していた。そしてそのことに積極的な言動をしてもいた。―澄田に「一緒に帰らない?」と言う等。

     澄田が「優しくしないで」と言ったように、遠野は澄田に「優しく」していた。そしてそうしながら、澄田がそれ以上の関係を求めることを許さなかった。

     小説版には、遠野は澄田の気持ちをすべてわかっていたと書いてある。

    ~当時の自分にはやはりあのように振舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。澄田が自分に惹かれた理由も、彼女が告白しようとした何度かの瞬間も。それを言わせなかった自分の気持ちも、打ち上げを見た時の一瞬の高揚の重なりも、その後の彼女の諦めも。すべてがくっきりと見えていて、それでもあの時の自分には何もできなかった。

    「小説 秒速5センチメートル」、139~140頁

     第二話の時に遠野貴樹には澄田花苗の気持ちのすべてがくっきりと見えていた、ということは、第二話は澄田の独白を中心としているが、それは遠野の内面でもあったということではないか。

    種子島

     第二話の舞台が種子島になったのは、ロケットを描きたいからではないか? とも思う。


    日本最大の宇宙基地―種子島宇宙センター (かごしま文庫)

     映画「秒速5センチメートル」で描かれる種子島では、高校生も教師も皆標準語でしゃべっている。

     種子島にも標準語でしゃべっている人はいるかもしれないが、高校生も教師も皆標準語でしゃべっていることはありえないのではないか?

     澄田花苗は、種子島で生まれ育って、大学で東京に行くことなど初めから考えていないという設定ではなかったか?

     このことも、この映画に現実離れした夢のような印象を与えている。

     ロケットの打ち上げの日時は前から知らされていて、関心のある人は打ち上げをみようと待っているものではなかったか?


    秒速5センチメートル [Blu-ray]