新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」という難解な作品について考えてみる~第一話・第二話~

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新海誠
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 新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」は難解な作品である。その難解なところについて考えてみる。

 ここでは、「第一話 桜花抄」、「第二話 コスモナウト」について考える。


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第一話 桜花抄

アバンタイトル

 桜の花が散る中で、ランドセルを背負った小学生の男の子と女の子が会話するところから映画は始まる。

 二人の恋愛感情が描かれるのではないか、と予測される。

 ところが二人の恋愛感情はほとんど描かれない。

 二人の心が近づくところではなく、遠ざかるところが描かれている。

・「秒速5センチメートル」云々という女の子の言葉に対して、男の子は距離を感じている。

・女の子が突然駆けだして、男の子から離れて行く。

・女の子は踏切を渡ったのに、男の子は追いつくことができず、二人の間を電車が通る。

仲良くなったいきさつ

 その男の子と女の子が仲良くなったいきさつは、その男の子・遠野貴樹とおのたかきの独白と、断片的な映像によって伝えられる。

・二人は「精神的にどこかよく似ていた」という

・貴樹が東京のその小学校に転校してきた一年後、小学四年生の時に、その女の子・篠原明里しのはらあかりは同じクラスに転校してきたという

・貴樹も明里も病気がちで図書館が好きであったという

 それで二人は「ごく自然に仲良く」なったというのである。

 二人が仲良くなるところは描かれず、二人の持っていた条件と、仲良くなったという結果だけが伝えられるのである。

 しかしその条件があれば必ずその結果が生ずるわけではない。

 小学四年生では、男女は分かれていくと思われる。その中で男女で仲良くなることは、自然にあることではなく、緊張対立を伴う出来事として起こることではないか?

 恋愛を描く作品の第一に描くべきことではないかと思われる。

 ここでも恋愛が描かれていないのである。

 二人がどういう関係であるのか、互いに相手をどう思っているのかも、わかりにくい。

 新海誠監督はクラスと、クラスに馴染めない二人が対立していたように描いている。

 小説版では「クラスに馴染むことのできなかった」二人が、「ふたりだけの世界に内向していっている」と書いてある。(14~15頁)


小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

 クラスに対して「ふたりだけの世界に内向していっている」ところも、あまり描かれておらず、わかりにくい。

 漫画版では、映画の絵と言葉をもとにして、その間に言葉と表情を加えることによって、二人が仲良くなっていくところが描かれている。


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 漫画版を読むと、二人が仲良くなっていく気持ちが読者にもよく伝わる。

 新海誠監督が映画においてそういうことをしなかったことにはどういう意味があるのか?

距離

 二人が一緒にいるところは、引きの絵で観客から遠くに描かれている。

 映画のはじめに二人が出て来るところなど、二人が隅に小さく描かれているので、見落としてしまいそうである。

 その後で小学生の二人が一緒にいるところが描かれるが、二人を遠くから見るかたちになっている。

 小説版では、はじめの桜の場面について次のように書かれている。

古い記憶をたぐろうとする時、僕はあの頃の僕たちをフレームの外、すこし遠くから眺めている。

「小説 秒速5センチメートル」、角川文庫、8頁

小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

 記憶をたぐる時に「すこし遠くから眺めている」ことを意識的に表現しているようである。

 幼い二人の気持ちが夢のようにぼんやりとしてわかりにくくなっていることは、そのことと関係があるようである。

手紙

 貴樹と明里が小学校の卒業式で別れてから半年後、貴樹のもとに明里から手紙が来た。

 映画では、明里がその手紙を朗読する声と、貴樹の中学生活の映像が重ねられている。

明里の意図

 明里の手紙に恋愛要素が少ないことが気になる。

 明里はその手紙において、近況を伝えるだけで、恋愛感情を伝えることもなく、そもそも何を伝えたいのか、よくわからない。

 小説版では次のように書かれている。

僕と会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかったし、文面からは彼女が新しい生活が新しい生活に順調に馴染んでいるようにも感じられた。でも、明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだと、僕は感じた。そうでなければ、手紙なんて書くわけがないのだ。そしてそういう気持ちは、僕もまったく同じだったのだ。

「小説 秒速5センチメートル」、21~22頁

小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

・明里の手紙には貴樹と「会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかった」。

・ところが貴樹は明里の手紙を読んで、「明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだ」と「感じた」。

・貴樹が明里の手紙に読み取った気持ちは貴樹の気持ちと「まったく同じ」であった。

 貴樹ではない観客からすると、文面に書かれていない明里の気持ちを「感じ」ることは容易ではないのではないか?

貴樹の反応

 観客からすると、明里の手紙を読んだ貴樹の気持ちを読み取ることも、容易ではないことではないか?

 映画では、明里の手紙に対する貴樹の反応はほとんど描かれていない。

 手紙をめぐる二人の気持ちはほとんど描かれていないのである。

 貴樹は明里の手紙に対して返事を書いたはずであるが、そのこともほとんど描かれていない。

・はじめの夏の手紙

・「もうすっかり秋」の手紙

・「寒い日が続く」時の手紙

・貴樹の転校を知った時の手紙

・貴樹が会いに行くと約束した後の手紙

 以上の明里の手紙に対して貴樹はその都度返事を出しているはずであるが、貴樹が手紙を書こうとするところが少し描かれているだけで、貴樹の返事はほとんど描かれていない。

会うこと

 貴樹が東京から種子島に転校することがきまって、ふたりは会うことにする。

 気になるところが多い。

何故にそれまで会おうとしなかったのか?

 明里が初めて貴樹に手紙を出したのは、小学校の卒業式から半年後の夏である。

 それから三月まで、会う時間はあったと思われるのに、何故に会とうとしなかったのか?

 会おうと思えば会うことはできると考えて急がずにいて、突然遠く離れることになって会うことが重要になったということであろうか?

 しかし小説版では、貴樹は明里の手紙を読んで貴樹に会いたいという思いを読み取っている。そして貴樹も「まったく同じ気持ち」気持ちをもっていたと語っている。

 二人とも会いたいという気持ちをもっていたのに、三月まで会おうとしなかったことは奇妙である。

距離

 たしかに種子島は、東京と比べると栃木からはるかに離れている。

 しかし中学一年生にとっては、東京と栃木も離れているのではないか、とも思う。

・貴樹は東京から栃木へどう行くか知らなかった。

・貴樹は明里の手紙を受け取って、会いたいという気持ちを知り、自分でも持っていたのに、その夏から次の三月まで栃木に行っていない。

・実際に栃木へ行く時には大変な苦労をしている。

その約束の内容

 貴樹は3月4日の放課後に豪徳寺から電車に乗って明里の住む栃木県岩舟駅まで行くという計画を立てた。

 豪徳寺を16時前に出て、岩舟で19時に待ち合わせるという計画である。

 つっこみどころがある。

・休日に会うことにすれば、余裕をもって会うことができたのではないか?

・ふたりが動いて中間地点で会うことにすれば電車に乗る時間が短くなって、会う時間が長くなるのでは?

 小説版には次のように書かれている。

時刻表を調べて、僕たちは夜七時に明里の家の近くの駅で待ち合わせることに決めた。その時間ならば僕が放課後の部活動をさぼって授業後すぐに出発すれば間に合うし、二時間ほど明里と話した後に、最終電車で都内の家まで帰ってくることができる。とにかくその日のうちに家に帰ることができるなら、親へのいいわけもなんとでもなる。

「小説 秒速5センチメートル」、24頁

小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

 19時に待ち合わせして、21時まで話して、それから最終電車で24時少し前に豪徳寺に帰ってくる計画のようである。

 やはり無理をしているように見える。

 休日は空いていなかったということであろうか?

 そうだとしても、やはり二人が動いて中間地点で会うことはできたのではないか?

 明里の家の近くの桜の木が重要であることはわかるが、中間地点にある桜の木でもよかったのでは?

電車

 明里に会いに行くために貴樹が乗った電車は、雪で動かなくなる。

 幸せが外からの力によって妨げられ、主人公はそれに対して耐え忍ぶ、というのは話として盛り上がる。

 恋愛ものとしても盛り上がるところである。

出会い

 十一時すぎに貴樹が岩舟駅に着いてみると、明里が一人で待っていた。

 二人は駅で明里が持って来たものを食べた。そして、二人で明里の家の近くの桜の木を見に行った後、納屋で一泊した。


栃木市6(岩舟) 201910 (ゼンリン住宅地図)
現実離れ

 以上のことは、現実離れしている。

・明里の親は、中学一年生の娘が雪の日に朝まで帰って来ないのに探し回らなかったとは考えられない。(第三話で少し出て来るが、異常な人とは思えない)

・駅員も、雪の日に中学一年生の女の子が一人で十一時すぎまで座って待っているのをそのままにして置かないのではないか?

・雪の夜を納屋で明かすことは、悲惨なことになるのではないか?

 この夜のことは、美化されて現実離れしたことのように見える。

桜の木

 明里が桜の木を前にして「まるで雪みたいじゃない?」というところは、その場での言葉としてはおかしいことである。

 明里は、映画冒頭のやりとりを貴樹に思い出させているにちがいない。

 映画冒頭では、貴樹は明里の言葉に貴樹はついていくことができなかった。

 この場面では、貴樹は明里の言葉についていくことができる。

 二人の心の中に同じ桜がある。現実にはない桜。

 この場面で、二人は互いに相手に対する気持ちを恋愛と自覚する。

 それに対して雪は、二人を遠ざける厳しい現実を現わしている。

難解な言葉

 キスをした後の貴樹の独白は難解である。

 そのキスによって人生の最高のことを知ったというようなことはわかるが、その後に感じたという気持ちはわかりにくい。

 別れる時の明里の「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」という言葉は、貴樹に大きな意味があったようであるが、私にはよくわからない。

手紙

 貴樹は明里に会いに行く時に、明里に対して伝えたいことを書いたという手紙を持って行っている。

 小説版には「ラブレター」と書いてある。

約束の日まではまだ二週間あったから、僕は時間をかけて明里に渡すための長い手紙を書いた。それは僕が生まれて初めて書いた、たぶん、ラブレターだった。自分が憧れている未来のこと、好きな本や音楽のこと、そして、明里が自分にとってどれほど大切な存在であるかを―それはまだ稚拙で幼い感情表現であったかもしれないけれど―なるべく正直に書き綴った。

「小説 秒速5センチメートル」、24頁

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 その手紙は、貴樹が小山駅で電車を待っている時に、風に飛ばされてしまう。

 明里も手紙を書いていて、貴樹に渡さなかったということになっている。

 この手紙のことも、わかりにくい。

 手紙を渡すことは、会いに行くことと関係なくできることではないか?

 手紙で伝えたいことがあるならば、会う前に手紙で伝えればいいのではないか? それまで数カ月手紙をやりとりしている間に伝えることはできなかったのか?

 その前に会うことが必要だったのか?

 会うことがきまっているのであるから、伝えたいことは、会って直接に伝えればいいのではないか?

第二話 コスモナウト

 はじめて第二話を観た時、第一話に出ていなかった澄田花苗という人物が主人公となっていたので、第一話と全く別の人物による別の話が始まったと思った。

 そして、澄田花苗な恋愛感情が話の中心となっているところは、恋愛ものとして第一話よりわかりやすいと思った。

 ところがその澄田花苗の恋愛感情が、第一話の主人公・遠野貴樹に向けられていることに気づいて、衝撃を受けた。

もぞもぞ

 澄田花苗が第一話の主人公・遠野貴樹を卓越した人物とみて恋愛感情を寄せているところは、もぞもぞする。

 第一話でその内面を独白してきた人物を、そのように卓越した人物のように見なすことは、正しくないと思われる。

 そういう澄田花苗の独白が第二話の中心となっているので、もぞもぞするのである。

第一話との関係

 第一話は遠野貴樹の独白によって導かれたのに、第二話は澄田花苗の独白によって導かれて、遠野貴樹は澄田花苗によって外からみられるというかたちで描かれていることは、奇妙である。

 第一話は遠野貴樹の内面を掘り下げるような話になっていた。ところが第二話では遠野貴樹は外からみられるというかたちで描かれて、その内面を掘り下げる方向に進まず、内面はわかりにくくなっている。

・草原で空のかなたを見つめているのは、どういうことか? 隣にいる女性は?

・メールの意味は?

・澄田花苗に対してどう考えているのか?

・現在何を考えているのか?

 一部独白があるが、わかりにくい。

成長の話

 第二話は全体としての成長の話になっている。

澄田花苗の成長

・澄田花苗は、遠野貴樹のことを思って、停滞していた。

・ところが、迷いがないと思い込んでいた遠野貴樹が「迷ってばかりなんだ」と言ったことを聞いて、自分も前に進んで行くことに決めた。

・そして遠野貴樹に愛を告白しようとしたが、その心が自分の方を向いていないことを知って、あきらめて前に進むことを決めた。

・ロケット―二人は同様に遠くを目指しているが、澄田は遠野を求めているのに、遠野は他を求めている。

遠野貴樹の成長

 問題は遠野貴樹である。遠野貴樹は第二話で成長したのか?

 小説版では、第三話で過去を振り返るかたちで次のような独白がある。

それは後悔に似た感情だったが、だからといって、当時の自分にはやはりあのように振る舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。

「小説 秒速5センチメートル」、139~140頁

小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

 「あのように振る舞うことしかできなかった」ということは、悪いことをしたのではなく、できるだけのことをしたということのようである。

 何故に「あのように振る舞うことしかできなかった」のか、わかりにくい。

 遠野貴樹はメールについて次のように語っている。

それは彼にとって準備期間のようなものだった。ひとりで世界に出ていくための助走のようなもの。
 しかし次第に、メールの文面は誰に宛てたのでもない、漠然とした独り言のようなものへと変わっていき、やがてその癖も消えた。そのことに気づいた時、もう準備期間は終わったのだと彼は思った。

「小説 秒速5センチメートル」、141~142頁

小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

 「準備期間」と言う意味で成長であったようである。

 これは映画を観ただけではわかりにくいところである。

問題

 第二話の澄田花苗と遠野貴樹の関係は、澄田花苗による一方的なことのようにも見える。

 また澄田花苗の頭の中だけで起こっていることが多いようにも見える。

 しかし二人の関係は、客観的にみてただの知り合いを超えていたようである。

 遠野のクラスメイトが澄田のことを「遠野の彼女じゃん」とよんでいる。遠野は反対しているが、そう言われるような関係であった。(第一話では、黒板の落書きでからかわれて、クラスと二人が対立した。第二話では、一人の同級生に軽く言われて、軽く返している)

 二人はしばしば二人きりで言葉を交わし、二人きりで夕方、学校から帰った。―小説版には、「運の良い時は週に一回、運のない時は二週に一回くらいの割合で一緒に帰ることができる」とある。(72頁)

 客観的に二人はただの知り合いを超えて恋愛に近い関係になっていた。

 遠野貴樹もそのことを意識していた。そしてそのことに積極的な言動をしてもいた。―澄田に「一緒に帰らない?」と言う等。

 澄田が「優しくしないで」と言ったように、遠野は澄田に「優しく」していた。そしてそうしながら、澄田がそれ以上の関係を求めることを許さなかった。

 小説版には、遠野は澄田の気持ちをすべてわかっていたと書いてある。

~当時の自分にはやはりあのように振舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。澄田が自分に惹かれた理由も、彼女が告白しようとした何度かの瞬間も。それを言わせなかった自分の気持ちも、打ち上げを見た時の一瞬の高揚の重なりも、その後の彼女の諦めも。すべてがくっきりと見えていて、それでもあの時の自分には何もできなかった。

「小説 秒速5センチメートル」、139~140頁

 第二話の時に遠野貴樹には澄田花苗の気持ちのすべてがくっきりと見えていた、ということは、第二話は澄田の独白を中心としているが、それは遠野の内面でもあったということではないか。

種子島

 第二話の舞台が種子島になったのは、ロケットを描きたいからではないか? とも思う。


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 映画「秒速5センチメートル」で描かれる種子島では、高校生も教師も皆標準語でしゃべっている。

 種子島にも標準語でしゃべっている人はいるかもしれないが、高校生も教師も皆標準語でしゃべっていることはありえないのではないか?

 澄田花苗は、種子島で生まれ育って、大学で東京に行くことなど初めから考えていないという設定ではなかったか?

 このことも、この映画に現実離れした夢のような印象を与えている。

 ロケットの打ち上げの日時は前から知らされていて、関心のある人は打ち上げをみようと待っているものではなかったか?


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