2019年に公開された新海誠監督の映画「天気の子」。
「天気の子」はその年に最も売れた映画であるが、そのストーリーのつっこみどころが気になる人もいる。
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家出少年

まず、主人公の高校生の少年が家出をしてフェリーで東京に行くところから気になる。
主人公は何故に家出をして東京に行くのか?
主人公はそもそも何をしようとしているのか?
気になるが、明らかにされない。
新海監督は「天気の子」で主人公の過去が描かれていないことについて、インタビューで次のように答えている。
映画を見て、主人公である帆高の過去や家出の理由が描かれなかったことが気になった人も多いだろう。新海監督のなかで多少の迷いはあったそうだが、企画当初から考えていた「前を向いたまま止まらずに転がり続ける少年少女の話」を貫徹させるため、帆高の人物像は変えなかった。
映画.com「新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程」
新海「主人公が過去のトラウマを克服するために何かをさせるのは、気分として今回はやりたくないなと考えていました。仮に描いたとしても、凡庸などこかで見た話にしかならないと思いましたから」
映画の中で主人公の「過去や家出の理由が描かれなかったこと」は、新海監督がわざとしたことであったという。
新海監督は「天気の子」という作品を、「主人公が過去のトラウマを克服する」話ではなく、「前を向いたまま止まらずに転がり続ける少年少女の話」にすることを考えていたという。
「天気の子」において「主人公の過去のトラウマ」は重要ではなく、その後に起こることが重要だということであろうか。
しかし「天気の子」の主人公は、過去に何があったのか、気になるような作りになっている。
主人公は高校一年生で家出をして東京で生きていくという、異常な、容易でないことを何故にやっているのか? ということは気にならざるを得ない。
上の記事でも「映画を見て、主人公である帆高の過去や家出の理由が描かれなかったことが気になった人も多いだろう」と言われている。
新海監督が言うように、「過去のトラウマ」を問題とせず、「前を向いたまま止まらずに転がり続ける少年少女の話」とするためには、主人公の過去が気にならないような作りにすべきではなかったか?
共感
川村元気プロデューサーは「天気の子」を「当事者の映画」として作ったと語っている。
「当事者の映画」とは、観客が登場人物のことを自分のことのように観る映画のことのようである。
観客が登場人物に共感できる映画のことのようである。
新海監督はそのインタビューで「モブをモブとして描かないようにして、見ている人が、『これって私かもしれない』と思えるような人物になればと考えていました。」と言っている。
主人公だけでなく、それぞれのキャラクターを、観客が共感できるように作ることを考えたというのである。
「これって私かもしれない」という言葉をみると、「サブカルチャー神話解体」(宮台真司・石原英樹・大塚明子)の「これってあたし!」という言葉を思い出す。(増補版、ちくま文庫、32頁)
しかし、主人公の過去が気になる作りになっているのに、それが描かれていないので、主人公に共感しにくい。
金銭感覚
主人公とその周りの人物の金銭感覚も気になる。
高校一年生の主人公が身寄りのない東京で生きようとする場合、金が大きな問題となる。
そして金について考えるとできることは限られる。
それゆえに主人公は何故に東京にいたいのか、過去に何があったのか、ということが気になるのである。
そこで主人公が中年男に食事をおごるという話が出てきて、混乱させられる。
キャッチャー
映画のはじめに、主人公はフェリーの甲板で一人で雨を浴びるが、流されて船から落ちそうになる、そこを須賀という人物に救われる。
この場面は、現実的に考えると無理とも思われる。
主人公が流されて船から落ちそうになるのを救うことができるところにちょうどその男がいたということは、ありえないことと思われる。
この場面は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」をもとにした象徴的な場面と思われる。
「天気の子」では主人公が、村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を持っているところが描かれている。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公と「天気の子」の主人公に通ずるところがあると考えられているにちがいない。
問題の場面は、小説版では、「だめだ、落ちる―その瞬間、誰かに手首を摑まれた。」と書かれている。(角川文庫、19頁)
その言葉は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の有名な言葉を思わせる。
とにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。(中略)ちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、白水社、2006年、293頁
「天気の子」小説版の「だめだ、落ちる―その瞬間、誰かに手首を摑まれた。」というところは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の「よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチする」というところを思わせる。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では、主人公ホールデンが「よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチする」という「ライ麦畑のキャッチャー」になりたいというのであるが、「天気の子」のはじめで、須賀は「ライ麦畑のキャッチャー」のように、「崖から落ちそうになる子ども」(=主人公)を「どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチする」者になっているようである。
そして須賀は、その時だけでなく、その後も「ライ麦畑のキャッチャー」のように主人公を「キャッチ」している。
はじめの船の上での出来事は、その後に起こることを象徴している。
・主人公は解放感を求めて甲板に出た。―そのことは、主人公が解放感を求めて東京に来たことを象徴する。
・甲板に出た主人公に、大量の水が落ちてきて主人公は流された。―東京に出た主人公は現実の厳しさに直面する。そして雨に濡れる。
・主人公は須賀に手首を摑まれてたすかった。―主人公は須賀に仕事と住まい、食事を与えられてたすかった。
このように象徴と考えるとよくわかる。
しかしこの場面を現実的な場面としてみると、主人公のように家出している人には、衣服を雨で濡らすことは、その後に困ることが多いと思われるのに、手放しでよろこんでいいのか? ということが気になる。
出会い

映画「天気の子」は、主人公の少年と、ヒロインとの関係を中心としているゆえに一見恋愛ものに見える。
しかし恋愛ものとしては気になるところがある。
新海監督はそもそも恋愛ものを作るつもりはなかったとすると、理解できる。
新海監督は「『天気の子』が“若い2人のラブロマンス”っていうつもりもなかったですし」とか「疑似家族──家出した少年が東京で人と出会って疑似家族のようなものを形成していって。そこで出会った相手がたまたま異性でしたが──一人のすごく大切なヒロインと大きなことを乗り越えるっていう話にしようと思っていました」とか語っている。
「疑似家族」を形成する話であって、恋愛の話ではないとすると理解できる。
深夜のファストフード店
はじめての出会いは西武新宿駅近くのマクドナルド。
主人公が飲み物だけで夜を過ごしていると、店員の女の子がビッグマックを持ってきて、「あげる。内緒ね」と言い、「君、三日連続でそれが夕食じゃん」と言って、微笑んだ、というもの。
恋愛ものとして違和感があったが、ヒロインが恋愛対象としてではなく、保護者として現れていると考えると理解できる。
歌舞伎町
次に出会ったのは歌舞伎町の路地である。
主人公はその女の子が風俗営業の男に連れて行かれるところに出くわして、自分の意に反して連れて行かれていると思い込んで、女の子を逃がそうとしたが、その男につかまる。
主人公が持っていた銃を撃って、その男が虚を突かれた時に、女の子に連れられて二人で代々木の廃ビルに行く。
この場面はいろいろと奇妙である。
まず、主人公が実情を知らずに、自分が正しいと思い込んだことのために突き進むところは、主人公のそういう人物像を表現したものとみることができる。
しかし、ヒロインが自ら水商売をしようとしていたことは、恋愛もののヒロインの性格造形として奇妙である。
その後にヒロインは主人公を連れて風俗営業の男から逃げているが、ヒロインには風俗営業の男から逃げる理由はない。
ヒロインは、主人公を代々木の廃ビルにまで連れて行きながら、主人公に「最悪」という言葉を投げつけて出て行こうとしているが、主人公に「最悪」と言うためには、代々木の廃ビルに行く必要はない。
ヒロインはその後に反省した主人公のところに帰ってきて優しい言葉で自分の事情を説明している。
以上の奇妙なところは、ヒロインが恋愛の相手としてでなく、保護者として振る舞おうとしていると考えると理解できる。
保護者として振る舞おうとしているゆえに、水商売で働こうとするのであり、
主人公のために保護者として振る舞おうとしているゆえに、自分のことを置いて、主人公とともに行くのであり、
保護者として振る舞おうとしているゆえに、主人公に対して飴と鞭を使い分けて導こうとしているのである。
ヒロインが主人公に対して年上だと偽るのも、保護者として振る舞おうとしているからである。
「天気の子」の話は、自分を保護者として、自分のことを犠牲にして他の人のために働こうとするヒロインに対して、主人公が主体的になって、ヒロインが犠牲になることをやめさせる話ということができる。
「天気の子」は一見、二人が初めて出会ったところから、恋愛ものとして始まっているように見える。
しかし実際にはヒロインが恋愛の相手としてではなく保護者として振る舞おうとしているゆえに、恋愛関係にはならない。
主人公がヒロインの保護者として振る舞おうとするところをやめさせようと働きかけることから、新たな関係が生ずるのである。
ヒロインの弟
主人公はヒロインの弟の女性とうまくつきあうすべを知っていることを尊敬して「センパイ」と呼んで教えを乞うている。
これは、主人公がヒロインに対しても、ヒロインの弟に対しても、正面から向き合うことができていなかったということであろうか?
超常要素

映画のはじめに、ヒロインがその力を身に付けるところが描かれている。
病院で眠る母の病室の窓の外に、空からさす一筋の光を見て、ヒロインは、その光のさすところへ行ってみた。―その光は、廃ビルの屋上にさしていた。屋上の鳥居にさしていた。その鳥居をヒロインが手を合わせて目をつむって鳥居をくぐる。「思わず強く願いながら彼女は鳥居をくぐった」という主人公のナレーションがある。突然、下から吹き上げるような風があって、ヒロインは空高く飛んでいた。
そのことによってヒロインは、晴れていない空に晴れをもたらすことのできる力を身に付けたとされているが、気になるところがある。
原因がわからない
まず、ヒロインは何故に他の人が持たない力を持つことができたのか?
ヒロインが他の人と異なるものを持っていたということはないようである。
ヒロインはただ「強く願いながら」「鳥居をくぐった」だけのように見える。そうだとすると、他の人も「強く願いながら」「鳥居をくぐった」ならば、その力を身に着けることができるのか?
その鳥居をくぐればいいのか? そうだとすると何故にその鳥居をくぐればいいのか?
目的とのずれ
ヒロインが願った結果としてその力を身に着けたのに、ヒロインの願いと、その願いによって身に付けた力とは、ちぐはくに見える。
映画の中ほどで、ヒロインはその時のことについて「もう一度お母さんと青空の下を歩きたかった」と願っていたと語っている。
その時に願っていたのは、母の快復ではないか?
しかし身に着けたのは「青空」をもたらす力であった。
母の快復を願っていたのに、そのことと関係のない晴れ女の力を身に付けて、肝心の母は亡くなってしまった。
流れ
ヒロインは、病床で大変な状態にあると思われる母を見舞っている時に、窓の外の雨の中に一筋の光を見て、「気づけば、彼女は病院から駆け出していた」、そして光のところまで行った、という流れになっている。
これでは、窓の外にさす一筋の光が見るために、病床で大変な状態である母をおいて行った、というかたちになっている。
そうではないかたちにできたのではないか―たとえば、病院の出口で、医師とか看護師とかと母の容態について話して、その間に母の病室を見上げるなどして、重い気持ちで帰る途中で、空から一筋の光がさすのが見えた、とか。
ビジネス
ヒロインは主人公のすすめによって、晴れ女の力によって金を稼ぐことになった。
私は「魔女の宅急便」を思い出した。ただし「魔女の宅急便」では、主人公は自分の生まれ持った能力を鍛えて金を稼ぐのであるが、「天気の子」では、ヒロインがわけもわからず手に入れた能力によって金を稼ぐのである。
この映画で描かれているような晴れ女ビジネスが流行すると、もっと社会的な問題になるのではないかと思うが、この映画ではそういうことはない。この映画では社会がそのように描かれているのである。
須賀との関係
主人公は須賀のところに来てから、須賀の家に住み込みで働いていた。その時に「晴れ女」ビジネスを始めたのである。
須賀
主人公は、ヒロインと「晴れ女」ビジネスを始めたことを須賀に言わないでいたようである。須賀が主人公に言わずに「晴れ女」ビジネスに申し込んでいたとわかった時に、主人公は「俺のこのバイト知ってたんですか?」と言っている。
主人公は須賀の家に住み込みで仕事を与えられている立場であるのに、外で新しいビジネスを始めて、そのことを須賀に言わないことは、おかしくないか?
しかも主人公が須賀に与えられている仕事は「晴れ女」のようなことを追及することであって、現に初めてやった仕事は「晴れ女」を題材としていた。
主人公はその「晴れ女」に出会ったのに、そのことを須賀に言わずに、須賀と別に新しいビジネスを始めている。おかしくないか?
夏美
ついでに須賀の姪夏美についても書いておこう。
夏美は主人公と「晴れ女」との関係を知っていた。それにもかかわらず、須賀に知らせなかったことは、やはりおかしいと思う。
PCで超常現象を見て、主人公が記事にすればと言ったのに対して、夏美が「つまんない大人になりそう」と言っているところは気になる。
夏美は就職活動に行くところであって、その気持ちでそう言ったということかと思われる。しかし夏美はその後もその仕事を続けているし、夏美はもともとその仕事に合った素質を持っているように描かれていた。他の会社に就職活動に行くからといって、突然その仕事にそれほど冷淡になるだろうか?
主人公は、須賀が「晴れ女」ビジネスに申し込んだ時まで、夏美は須賀の愛人だと思い込んでいたということになっている。
しかし数カ月(3月から夏まで)須賀の家に住み込んで身の回りの雑用をしていたのに、愛人だと思い込み続けることがあり得るだろうか?
「晴れ女」「人柱」の設定
晴れ女として晴れをもたらすことには代償がある。―体が透明になっていくこと、空に浮くことである。
晴れ女が犠牲になってこの世から消えることで、狂った天気が元に戻る、とされる。
透明になること、空に浮くこと
体が透明になっていくことと、空に浮くこととは、いずれも後にこの世から姿を消して空に行ってしまうことの前兆と考えることができる。
しかし透明になっていくことと、空に浮くこととは、姿を消して空に行く道筋としては別のことではないか。それが同時に進行することはおかしくないか?
ヒロインはそれまでも空に浮いていたのであろうか? それにもかかわらず、弟にも主人公にも気づかれなかったのであろうか? この時には、空に浮いた後に降りてきているが、空に上っていくだけでなく降りてくることもあるのか?
それまでの代償と人柱
ヒロインが「犠牲」になるかならないかは、ヒロインの意思にあることとされているようである。
しかしそれまで体が透明になっていったことと、空に浮くこととは、いずれもそれまでヒロインが晴れをもたらした代償として受けたことであった。ヒロインが「人柱」にならないと決めたとして、それまでの代償までなくなるのか?
人柱説
ヒロインは、自分が犠牲になってこの世から消えることで狂った天気が元に戻ると信じて、そうすることを決断した。
しかしどうしてそう信ずることができたのか?
ヒロインは夏美から神社の神主の「晴れ女が犠牲になってこの世から消えることで、狂った天気が元に戻る」という言葉を聞いているが、それだけで、そのことを真実だと信じて、自身を犠牲にすることを決断することができるであろうか?
夏美がヒロインにその神主の話を伝える理由もわからない。
終わりに
以上、「天気の子」の脚本について考えてみた。
つっこみどころをとりあげるとともに、その背後の作者の考えについて考えてみた。そうして理解できたのではないかと思われるところもあった。
しかしやはりなおした方がいいのではないかと思うところもあった。
「新海誠絵コンテ集6天気の子」(KADOKAWA、2020年)で新海誠監督は脚本が作られた時期について次のように語っている。(778頁)
- 2017年2月末企画書を出す
- 3カ月プロット会議を繰り返す
あらすじや登場人物を確定させる
- 3か月後脚本の執筆作業
- 2017年9月か10月「脚本のおおよそが固まった」
それからビデオコンテ制作
それだけ会議を繰り返していたのに、つっこみどころをなおさないでいたのは何故であろうか?
作品の意味については下の記事でさらに考えてみた↓

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