カテゴリー: 新海誠

  • 新海誠監督の映画「すずめの戸締り」の感想

    新海誠監督の映画「すずめの戸締り」の感想

     2022年11月11日に新海誠監督の映画「すずめの戸締り」が公開された。

    https://suzume-tojimari-movie.jp/

     2016年の「君の名は。」、2019年の「天気の子」に続く作品。

    全体的に

     個人的には、これまでの新海監督の映画の中で最も観やすかった。

     主人公の女子高校生すずめが話を引っ張るかたちになっているのであるが、その主人公の心の動きにそれほどひっかかることなくついていくことができる。

     部分的にひっかかるところはある。

     学校とあの場所はどれくらい離れているのかなどと思わないでもない。

     「すずめの戸締り」は「ロードムービー」として作られたということで、日本の様々な土地が描かれているのであるが、その「ロードムービー」の部分は甘くできている。愛媛の人とか、神戸の人とか、いかにも都合がいい。

     新海監督のこれまでの映画ではその甘いところが気になった。しかし「すずめの戸締り」では、その甘いところが話の中心とそれほど関係がないせいか、それほど気にならない。

     基本的に明るくコミカルに進んで行く中で、主人公は異様なことに出会って、それを追っていく。そうして話に起伏があるという構成はわかりやすい。急展開があるところもよくできている。

     これまでの新海監督の映画の恋愛要素には気になるところが多かったが、「すずめの戸締り」では、それほど気にならなかった。

    主題

     「すずめの戸締り」は過去に向き合う話である。

     特に、2011年の東日本大震災に向き合う話である。

     映画の中で主人公は過去の東日本大震災に向き合う。

     同時に、新海監督も東日本大震災に向き合っているのである。

    https://www.crank-in.net/news/116479/1

     2022年には、2011年の震災は離れたことのようにも思われる。

     新海監督には焦りがあったという。

    あの日、多くの人々がまざまざと感じた強い揺さぶりを、改めて共有するタイミングは、今でなくては遅くなるのではないかと思いました。

    映画.com 【インタビュー】新海誠監督がエンタメ映画に込めた覚悟 「すずめの戸締まり」で辿り着いた境地

    https://eiga.com/news/20221112/8/

     しかしなぜ2022年なのか?

     新海監督はその間に「星を追う子ども」(2011年)、「言の葉の庭」(2013年)、「君の名は。」(2016年)、「天気の子」(2019年)を作っている。

     その間ではなくて2022年なのか?

    11年の歳月が経ったことで、あの頃の自分たちには作れなかったものが今なら作れるのではないかと思いました。観客にしても、当時ならば震災を描く映画を見たくないと思っていたけれど、今であれば「見てもいい」と言ってくれる人もいるんじゃないかと思うんです。時間が経過し、自分や社会がそうやって変化したことも、直接扱おうと思った理由の一つです。

    映画.com 【インタビュー】新海誠監督がエンタメ映画に込めた覚悟 「すずめの戸締まり」で辿り着いた境地

     「観客にしても、当時ならば震災を描く映画を見たくないと思っていた」ということがあるのであろうか?

     宮崎駿監督は2013年に公開された映画「風立ちぬ」で関東大震災を描いていたが…。

     新海監督はまた「君の名は。」、「天気の子」でも震災を描いていたとも語っている。

    実際にどちらの作品でも、2011年の出来事を、形を変えながら、描いてはいたんです。1000年に一度の巨大な彗星がもらたす災害も、止まない雨がもたらす水害も、自分の中では震災のメタファーでした。世界が書き換わってしまった強烈な記憶がベースとなっていて、「君の名は。」から「すずめの戸締まり」まで、40代の10年間、ずっと2011年のことを考えながら映画を作っていたと言っても過言ではありません。

    映画.com 【インタビュー】新海誠監督がエンタメ映画に込めた覚悟 「すずめの戸締まり」で辿り着いた境地

     よくわからないが、新海監督は震災の5年後の「君の名は。」まで震災を映画に描かず、「君の名は。」、「天気の子」で描いて、「すずめの戸締り」で正面から東日本大震災を描くに至ったようである。

     時がたつとともに新海監督の作品の中で東日本大震災が大きくなっている。

     新海監督は「すずめの戸締り」において東日本大震災に向き合っているのであるが、また、「君の名は。」、「天気の子」という過去の作品と向き合っているのでもある。


    【メーカー特典あり】「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)(「すずめの戸締まり」特製ICカードステッカー付)

    【メーカー特典あり】「天気の子」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組【初回生産限定】(「すずめの戸締まり」特製ICカードステッカー付)

    その他

     映画を観てその他に気づいたこと。

    椅子

     映画を観る前に新海監督自身が書いた「小説 すずめの戸締り」を読んでいた時には、椅子は早すぎるのではないか? と思っていた。

     その後長い間椅子でいなくてはならないことはどうなのか? と思っていた。


    小説 すずめの戸締まり (角川文庫)

     映画を観ると、椅子はコミカルになっていて、早くても問題ないと思った。

    芹沢

     「小説 すずめの戸締り」を読んでいる時に、芹沢という人物には違和感があった。

     しかし映画で観ると、それほど違和感はない。

     声は神木隆之介君。

    引用

     「すずめの戸締り」では、「ルージュの伝言」その他、1970年代、80年代の楽曲が多く出てくる。

     「ルージュの伝言」も「魔女の宅急便」と関係づけられているので、80年代ということができるかもしれない。


    魔女の宅急便 サントラ音楽集

     その出し方が気になる。

     意表を突く絶妙な出し方ではない。

     新海監督が2007年に公開された映画「秒速5センチメートル」で、さりげなくLINDBERGを聞かせていたことと比べると大きく違うようである。


    君のいちばんに・・・

     「千と千尋の神隠し」の引用について↓

    家族

     「すずめの戸締り」は女子高校生すずめの話である。

     第一にその世代に向けて作られているわけである。

     しかしまた子供の話でもある。家族の話でもある。

     子供のいる家族向けに作られているのでもある。

     子供の心をひきつけることができるであろうか?

    東宝MOVIEチャンネル
    映画『すずめの戸締まり』【行ってきますPV】
  • 新海誠監督の映画「すずめの戸締り」公開された本編冒頭12分 感想

    新海誠監督の映画「すずめの戸締り」公開された本編冒頭12分 感想

     新海誠監督の映画「すずめの戸締り」の公開に先立って本編冒頭12分が日本テレビ系列の「金曜ロードショー」で公開された。

     新海誠監督の新作「すずめの戸締り」は2022年11月11日に公開されることになっている。(何故に夏ではなくて11月?)

     その公開に先立つ10月28日、日本テレビ系列の「金曜ロードショー」で新海誠監督の旧作「君の名は。」が放映され、その後に「すずめの戸締り」の冒頭12分が公開された。

     それを観て、内容そのものについてではなく、内容の出し方についてひっかかるところがあった。

    感想

     先に感想。

     私はその前に「小説 すずめの戸締り」を読んでいる。


    小説 すずめの戸締まり (角川文庫)

     予告動画も観ている。

     その上で本編冒頭12分を観ると、大体において小説を読んでいた時に想像していたような感じだと思った。

     作り込まれた映像を想像できたのではないが、そういう感じの映像ができるであろうと想像していたようになっていた。

    過去の作品

     さて、本編冒頭12分を観ていて、ひっかかるところがある。

     「小説 すずめの戸締り」を読んだ時にもひっかかったところである。

     過去の作品を思わせるところが出てくるのである。

    新海誠監督の過去の作品

     まず新海誠監督自身の過去の作品。

     「すずめの戸締り」は主人公の夢から始まる。

     それをみて、また夢から始まるのか、と思った。

     「君の名は。」と似ている。


    「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション

     映画版でも似ているのであるが、

     それ以上に「小説 君の名は。」は似ている。


    小説 君の名は。 (角川文庫)

     映画版は彗星が落ちていくところから始まるが、小説版は夢を見ているところから始まる。

     もっと広く言うと、主人公が過去を振り返るところから始まる「雲のむこう、約束の場所」、「秒速5センチメートル」などとも似ている。

     新海誠監督が同じようなかたちをとりつつ違う映画を作っていくことについて特に言うことはない。

     ひっかかるのは、表現として「君の名は。」に似ているところがあることである。

     主人公の女子高校生がその夢から目を覚ますところなども、外形として似ていると思った。

     そこで心が「すずめの戸締り」から離れて「君の名は。」に行ってしまうのであるが、そのことにどういう意味があるのだろうか?

     わざとそうしたのであろうか? 意識せずにそうなったのであろうか?

     思えば、「小説 すずめの戸締り」を読んでいる時は、主人公を「君の名は。」の三葉の声で、三葉のイメージで思い描いていて、映画もそうなっていたら多くの人をひっぱることができるのではないかと思った。

     実際にはキャラクターデザインも声質も少し違う感じであるが、どうだろう?

    「千と千尋の神隠し」

     次に宮崎駿監督作品。

     「すずめの戸締り」の主人公が登校の途中に、昭和の終わりから平成の初めにかけての大きなリゾート施設に行くところは、どうしても宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を思い出す。


    千と千尋の神隠し [Blu-ray]

     「温泉パイプ」とか、橋を渡った先にあるとか、水の上を歩くとか―。

     そこでも心が「すずめの戸締り」から離れて「千と千尋の神隠し」に行ってしまうが、新海誠監督はどうしてそうしたのか?

     「すずめの戸締り」は「千と千尋の神隠し」のような話ではない。

     考えてみると、「千と千尋の神隠し」ではそれを入り口とするにすぎなかったが、「すずめの戸締り」はそれを問題として向き合ったということもできる。

     映画の感想↓

  • 新海誠監督の映画「君の名は。」が公開された時の評価の対立について

    新海誠監督の映画「君の名は。」が公開された時の評価の対立について

     新海誠監督の映画「君の名は。」は2016年に公開されて、記録的な興行成績を上げた。


    「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)

     8月26日、いわば夏の終わりに公開されたのであるが、評判が良くて、記録的な数字を伸ばしていって、ついには「千と千尋の神隠し」に次ぐ邦画歴代2位になった。

     「君の名は。」はそれだけ多くの人に評価されたわけである。

     しかし反対に低く評価する人も多かった。

     「君の名は。」は何故に多くの人に高く評価されると同時に、多くの人に低く評価されたのか?

     新海誠監督はその時に低く評価されたことから、次の映画「天気の子」を生み出したと語っている。

    家で食事をしているとテレビでいわゆる有名人が映画に意見していたり(なんだかディスられていた)、はたまた道を歩いている時でさえも映画の名前が聞こえてきたりした(やっぱりディスられていた)。SNSには膨大なコメントがあふれていて、もちろん楽しんでくれた方も多かったのだろうけれど、激烈に怒ってらっしゃる方もずいぶん目撃した。僕としては、その人たちを怒らせてしまったものの正体はなんだろうと考え続けた半年間だった。そしてその半年間が、『天気の子』の企画書を書いていた期間でもあったのだ。

    「小説 天気の子」、角川文庫、令和元年、205頁

    小説 天気の子 (角川文庫)

     「君の名は。」はどうして多くの人に低く評価されたのか、という問題は、その次の映画「天気の子」と関わっているということでも重要である。

    概観

     私は当時「君の名は。」に対して批判的であった。

     「君の名は。」が売れていることは理解できたが、私としては批判的であった。

     そして批判的な人が多くいたのは、私と同じようなところを問題としているのだと思っていた。

     しかし離れてみると、他の人が何故に「君の名は。」に対してあれほど批判していたのか、不思議に思うようになった。

     たとえばタイプ・あ~る氏が2017年1月にそのことについて書いた記事がある。

     この記事では以下の人々が「君の名は。」に対して低く評価する言葉を取り上げている。

    ・是枝裕和(映画監督)

    ・江川達也(漫画家)

    ・矢田部吉彦(東京国際映画祭ディレクター)

    ・富野由悠季(アニメーション監督)

    ・石田衣良(小説家)

    ・高橋秀樹(放送作家/日本放送作家協会・常務理事)

    ・江口寿史(漫画家)

    ・入江奈々(映画ライター)

    ・井筒和幸(映画監督)

    ・堀田延(放送作家)

     たしかにこれだけの人が「君の名は。」に対して否定的に語っていたというのは、異様でもある。

    私の場合

     まず私が「君の名は。」に対して批判的である理由について語っておく。

     私の「君の名は。」に対する不満はストーリーにある。

     揚げ足取りをしたいわけではないのに、ストーリーの粗が気になって楽しめない。

     重要なところでストーリーの粗が目立つ。

     思うに、新海誠監督の作品には内的な主題があって、それを外的な形にしているのであるが、その外的な形に、気になるところが多いのである。

    新海誠監督の以前の作品との関係

     新海誠監督の作家性は、「君の名は。」以前には「君の名は。」以後と違うように考えられていた。


    秒速5センチメートル [Blu-ray]

     特に「秒速5センチメートル」によって印象づけられていた。

    ・主人公の男性の、ぼそぼそとした暗く湿っぽい詩的な独白によっておおわれている。

    cwfilms
    「秒速5センチメートル」予告編 HD版 (5 Centimeters per Second)

    ・愛する人と結局結ばれない。

     それに対して「君の名は。」は大きく変わっている。

    ・全体的に明るく楽しい。

    東宝MOVIEチャンネル
    「君の名は。」予告

    ・愛する人と結ばれる。

     「君の名は。」以前の新海誠監督は、限られた層に受けるが、その外には受けないと思われていた。

     「君の名は。」はその外に届いた。

     しかし「君の名は。」以前の「秒速5センチメートル」などを高く評価していた人で、「君の名は。」を低く評価した人がいたようである。

     たとえば宮台真司氏等は、「君の名は。」以前の「秒速5センチメートル」などを高く評価していたが、「君の名は。」は大衆に合わせてそれまでの作品のいいところをなくしたものとして、低く評価していた。

     ちなみに私は、「秒速5センチメートル」でも「君の名は。」でも主題はどちらでもよく、ストーリーに問題があると思っていた。

    「シン・ゴジラ」との関係

     2016年には、「君の名は。」が公開される前に、庵野秀明監督の映画「シン・ゴジラ」の興行成績がよかった。

     ところがその後に「君の名は。」が記録的な成績を出してしまった。

     そこで「シン・ゴジラ」に入り込んで人が「君の名は。」に対して厳しく評価したということがあったのではないか。

     堀田延氏などはそうでなかったか。

    宮崎駿監督との関係

     「君の名は。」が公開される前、日本のアニメ映画で最も売れていたのは宮崎駿監督の作品であった。

     「君の名は。」は、その宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」以外の作品の興行成績を抜いた。

     宮崎駿監督には多くのファンがいる。その中で、「君の名は。」に対して厳しく評価した人もいたかもしれない。

    「この世界の片隅に」

     2016年は、「この世界の片隅に」の劇場版が公開された年でもあった。


    この世界の片隅に [DVD]

     「この世界の片隅に」の劇場版はクラウドファンディングによるもので、関わった人の思い入れは一層強かったと思われる。

     そこで東宝による「君の名は。」に対抗して、クラウドファンディングによる「この世界の片隅に」を応援するということもあったと思われる。


    「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)
  • 映画「月とキャベツ」―山崎まさよし主演映画

    映画「月とキャベツ」―山崎まさよし主演映画

     映画「月とキャベツ」は1996年に公開された映画。

     1996年度の文化庁優秀映画作品賞を受賞している。

     山崎まさよし主演で、劇中で “One more time, One more chance” が歌われる。


    月とキャベツ [DVD]

    映画「月とキャベツ」は

     映画「月とキャベツ」は、若い男女のひと夏のやりとりを描いた作品。

     主人公の花火(山崎まさよし)は、東京で人気のあるバンドのヴォーカルであったが、そのバンドが解散してから一年、新曲を作らず、都会から離れたところ(群馬)で古い家屋に一人で住んで畑でキャベツを作って暮らしていた。

     ある日、草原ばかりで人のいないところで花火が車を停めていると、土手で踊っている少女(真田麻垂美)がいた。

     そこで二人は知り合った。

    映画「月とキャベツ」の主題

     映画「月とキャベツ」は、新曲を作らなくなった主人公がどうするか、という話である。

     ヒバナという少女(真田麻垂美)とのやりとりがそのことに関わってくる。

      “One more time, One more chance” もそのことと関わっている。

    「月」と「キャベツ」とは?

     キャベツは、主人公の花火が育てる作物として出て来る。

     キャベツは、花火という人物を象徴している。

     それに対して月は、ヒバナという人物を象徴している。

     ヒバナという人物は、月によって象徴されるような人物ということができる。

    絵画

     映画「月とキャベツ」では、絵画的な表現に気が遣われている。

     地平線によって画面の上下が区切られて、下は草原、上は空という構図で、その草原の中で、白のノースリーブのワンピースの少女が細い手足を動かして踊っている、というのはこの映画の特徴的な映像である。

     特にヒバナという、白くほそい、透明感のある少女の表現に気が遣われている。

     まさに、夢のような少女。

    音楽

     映画「月とキャベツ」は、主人公がミュージシャンであって、新曲をどうするかという話である。

     そこでミュージシャンである山崎まさよしの歌が、物語の重要な要素となっている。

      “One more time, One more chance” も物語の重要な要素として出て来る。

     ただし “One more time, One more chance” は映画「月とキャベツ」のために作られたのではなく、映画「月とキャベツ」と関係なく作られていた。


    One more time, One more chance

     映画と関係なく作られていたにもかかわらず、 “One more time, One more chance” の歌詞は、映画「月とキャベツ」に合っている。

     踏み切りとか、桜木町とかは、映画「月とキャベツ」とは関係がない。

    「月とキャベツ」のDVD

     映画「月とキャベツ」はDVDが出ている。

     特典映像は、劇場予告と監督インタビュー。

     監督インタビューでは、篠原哲雄監督が、脚本を選んだいきさつ、出演者を選んだいきさつなどについて語っている。


    月とキャベツ [DVD]
  • 新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」という難解な作品について考えてみる~第一話・第二話~

    新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」という難解な作品について考えてみる~第一話・第二話~

     新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」は難解な作品である。その難解なところについて考えてみる。

     ここでは、「第一話 桜花抄」、「第二話 コスモナウト」について考える。


    秒速5センチメートル [Blu-ray]

    第一話 桜花抄

    アバンタイトル

     桜の花が散る中で、ランドセルを背負った小学生の男の子と女の子が会話するところから映画は始まる。

     二人の恋愛感情が描かれるのではないか、と予測される。

     ところが二人の恋愛感情はほとんど描かれない。

     二人の心が近づくところではなく、遠ざかるところが描かれている。

    ・「秒速5センチメートル」云々という女の子の言葉に対して、男の子は距離を感じている。

    ・女の子が突然駆けだして、男の子から離れて行く。

    ・女の子は踏切を渡ったのに、男の子は追いつくことができず、二人の間を電車が通る。

    仲良くなったいきさつ

     その男の子と女の子が仲良くなったいきさつは、その男の子・遠野貴樹とおのたかきの独白と、断片的な映像によって伝えられる。

    ・二人は「精神的にどこかよく似ていた」という

    ・貴樹が東京のその小学校に転校してきた一年後、小学四年生の時に、その女の子・篠原明里しのはらあかりは同じクラスに転校してきたという

    ・貴樹も明里も病気がちで図書館が好きであったという

     それで二人は「ごく自然に仲良く」なったというのである。

     二人が仲良くなるところは描かれず、二人の持っていた条件と、仲良くなったという結果だけが伝えられるのである。

     しかしその条件があれば必ずその結果が生ずるわけではない。

     小学四年生では、男女は分かれていくと思われる。その中で男女で仲良くなることは、自然にあることではなく、緊張対立を伴う出来事として起こることではないか?

     恋愛を描く作品の第一に描くべきことではないかと思われる。

     ここでも恋愛が描かれていないのである。

     二人がどういう関係であるのか、互いに相手をどう思っているのかも、わかりにくい。

     新海誠監督はクラスと、クラスに馴染めない二人が対立していたように描いている。

     小説版では「クラスに馴染むことのできなかった」二人が、「ふたりだけの世界に内向していっている」と書いてある。(14~15頁)


    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     クラスに対して「ふたりだけの世界に内向していっている」ところも、あまり描かれておらず、わかりにくい。

     漫画版では、映画の絵と言葉をもとにして、その間に言葉と表情を加えることによって、二人が仲良くなっていくところが描かれている。


    秒速5センチメートル(1) (アフタヌーンコミックス)

     漫画版を読むと、二人が仲良くなっていく気持ちが読者にもよく伝わる。

     新海誠監督が映画においてそういうことをしなかったことにはどういう意味があるのか?

    距離

     二人が一緒にいるところは、引きの絵で観客から遠くに描かれている。

     映画のはじめに二人が出て来るところなど、二人が隅に小さく描かれているので、見落としてしまいそうである。

     その後で小学生の二人が一緒にいるところが描かれるが、二人を遠くから見るかたちになっている。

     小説版では、はじめの桜の場面について次のように書かれている。

    古い記憶をたぐろうとする時、僕はあの頃の僕たちをフレームの外、すこし遠くから眺めている。

    「小説 秒速5センチメートル」、角川文庫、8頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     記憶をたぐる時に「すこし遠くから眺めている」ことを意識的に表現しているようである。

     幼い二人の気持ちが夢のようにぼんやりとしてわかりにくくなっていることは、そのことと関係があるようである。

    手紙

     貴樹と明里が小学校の卒業式で別れてから半年後、貴樹のもとに明里から手紙が来た。

     映画では、明里がその手紙を朗読する声と、貴樹の中学生活の映像が重ねられている。

    明里の意図

     明里の手紙に恋愛要素が少ないことが気になる。

     明里はその手紙において、近況を伝えるだけで、恋愛感情を伝えることもなく、そもそも何を伝えたいのか、よくわからない。

     小説版では次のように書かれている。

    僕と会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかったし、文面からは彼女が新しい生活が新しい生活に順調に馴染んでいるようにも感じられた。でも、明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだと、僕は感じた。そうでなければ、手紙なんて書くわけがないのだ。そしてそういう気持ちは、僕もまったく同じだったのだ。

    「小説 秒速5センチメートル」、21~22頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

    ・明里の手紙には貴樹と「会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかった」。

    ・ところが貴樹は明里の手紙を読んで、「明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだ」と「感じた」。

    ・貴樹が明里の手紙に読み取った気持ちは貴樹の気持ちと「まったく同じ」であった。

     貴樹ではない観客からすると、文面に書かれていない明里の気持ちを「感じ」ることは容易ではないのではないか?

    貴樹の反応

     観客からすると、明里の手紙を読んだ貴樹の気持ちを読み取ることも、容易ではないことではないか?

     映画では、明里の手紙に対する貴樹の反応はほとんど描かれていない。

     手紙をめぐる二人の気持ちはほとんど描かれていないのである。

     貴樹は明里の手紙に対して返事を書いたはずであるが、そのこともほとんど描かれていない。

    ・はじめの夏の手紙

    ・「もうすっかり秋」の手紙

    ・「寒い日が続く」時の手紙

    ・貴樹の転校を知った時の手紙

    ・貴樹が会いに行くと約束した後の手紙

     以上の明里の手紙に対して貴樹はその都度返事を出しているはずであるが、貴樹が手紙を書こうとするところが少し描かれているだけで、貴樹の返事はほとんど描かれていない。

    会うこと

     貴樹が東京から種子島に転校することがきまって、ふたりは会うことにする。

     気になるところが多い。

    何故にそれまで会おうとしなかったのか?

     明里が初めて貴樹に手紙を出したのは、小学校の卒業式から半年後の夏である。

     それから三月まで、会う時間はあったと思われるのに、何故に会とうとしなかったのか?

     会おうと思えば会うことはできると考えて急がずにいて、突然遠く離れることになって会うことが重要になったということであろうか?

     しかし小説版では、貴樹は明里の手紙を読んで貴樹に会いたいという思いを読み取っている。そして貴樹も「まったく同じ気持ち」気持ちをもっていたと語っている。

     二人とも会いたいという気持ちをもっていたのに、三月まで会おうとしなかったことは奇妙である。

    距離

     たしかに種子島は、東京と比べると栃木からはるかに離れている。

     しかし中学一年生にとっては、東京と栃木も離れているのではないか、とも思う。

    ・貴樹は東京から栃木へどう行くか知らなかった。

    ・貴樹は明里の手紙を受け取って、会いたいという気持ちを知り、自分でも持っていたのに、その夏から次の三月まで栃木に行っていない。

    ・実際に栃木へ行く時には大変な苦労をしている。

    その約束の内容

     貴樹は3月4日の放課後に豪徳寺から電車に乗って明里の住む栃木県岩舟駅まで行くという計画を立てた。

     豪徳寺を16時前に出て、岩舟で19時に待ち合わせるという計画である。

     つっこみどころがある。

    ・休日に会うことにすれば、余裕をもって会うことができたのではないか?

    ・ふたりが動いて中間地点で会うことにすれば電車に乗る時間が短くなって、会う時間が長くなるのでは?

     小説版には次のように書かれている。

    時刻表を調べて、僕たちは夜七時に明里の家の近くの駅で待ち合わせることに決めた。その時間ならば僕が放課後の部活動をさぼって授業後すぐに出発すれば間に合うし、二時間ほど明里と話した後に、最終電車で都内の家まで帰ってくることができる。とにかくその日のうちに家に帰ることができるなら、親へのいいわけもなんとでもなる。

    「小説 秒速5センチメートル」、24頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     19時に待ち合わせして、21時まで話して、それから最終電車で24時少し前に豪徳寺に帰ってくる計画のようである。

     やはり無理をしているように見える。

     休日は空いていなかったということであろうか?

     そうだとしても、やはり二人が動いて中間地点で会うことはできたのではないか?

     明里の家の近くの桜の木が重要であることはわかるが、中間地点にある桜の木でもよかったのでは?

    電車

     明里に会いに行くために貴樹が乗った電車は、雪で動かなくなる。

     幸せが外からの力によって妨げられ、主人公はそれに対して耐え忍ぶ、というのは話として盛り上がる。

     恋愛ものとしても盛り上がるところである。

    出会い

     十一時すぎに貴樹が岩舟駅に着いてみると、明里が一人で待っていた。

     二人は駅で明里が持って来たものを食べた。そして、二人で明里の家の近くの桜の木を見に行った後、納屋で一泊した。


    栃木市6(岩舟) 201910 (ゼンリン住宅地図)
    現実離れ

     以上のことは、現実離れしている。

    ・明里の親は、中学一年生の娘が雪の日に朝まで帰って来ないのに探し回らなかったとは考えられない。(第三話で少し出て来るが、異常な人とは思えない)

    ・駅員も、雪の日に中学一年生の女の子が一人で十一時すぎまで座って待っているのをそのままにして置かないのではないか?

    ・雪の夜を納屋で明かすことは、悲惨なことになるのではないか?

     この夜のことは、美化されて現実離れしたことのように見える。

    桜の木

     明里が桜の木を前にして「まるで雪みたいじゃない?」というところは、その場での言葉としてはおかしいことである。

     明里は、映画冒頭のやりとりを貴樹に思い出させているにちがいない。

     映画冒頭では、貴樹は明里の言葉に貴樹はついていくことができなかった。

     この場面では、貴樹は明里の言葉についていくことができる。

     二人の心の中に同じ桜がある。現実にはない桜。

     この場面で、二人は互いに相手に対する気持ちを恋愛と自覚する。

     それに対して雪は、二人を遠ざける厳しい現実を現わしている。

    難解な言葉

     キスをした後の貴樹の独白は難解である。

     そのキスによって人生の最高のことを知ったというようなことはわかるが、その後に感じたという気持ちはわかりにくい。

     別れる時の明里の「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」という言葉は、貴樹に大きな意味があったようであるが、私にはよくわからない。

    手紙

     貴樹は明里に会いに行く時に、明里に対して伝えたいことを書いたという手紙を持って行っている。

     小説版には「ラブレター」と書いてある。

    約束の日まではまだ二週間あったから、僕は時間をかけて明里に渡すための長い手紙を書いた。それは僕が生まれて初めて書いた、たぶん、ラブレターだった。自分が憧れている未来のこと、好きな本や音楽のこと、そして、明里が自分にとってどれほど大切な存在であるかを―それはまだ稚拙で幼い感情表現であったかもしれないけれど―なるべく正直に書き綴った。

    「小説 秒速5センチメートル」、24頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     その手紙は、貴樹が小山駅で電車を待っている時に、風に飛ばされてしまう。

     明里も手紙を書いていて、貴樹に渡さなかったということになっている。

     この手紙のことも、わかりにくい。

     手紙を渡すことは、会いに行くことと関係なくできることではないか?

     手紙で伝えたいことがあるならば、会う前に手紙で伝えればいいのではないか? それまで数カ月手紙をやりとりしている間に伝えることはできなかったのか?

     その前に会うことが必要だったのか?

     会うことがきまっているのであるから、伝えたいことは、会って直接に伝えればいいのではないか?

    第二話 コスモナウト

     はじめて第二話を観た時、第一話に出ていなかった澄田花苗という人物が主人公となっていたので、第一話と全く別の人物による別の話が始まったと思った。

     そして、澄田花苗な恋愛感情が話の中心となっているところは、恋愛ものとして第一話よりわかりやすいと思った。

     ところがその澄田花苗の恋愛感情が、第一話の主人公・遠野貴樹に向けられていることに気づいて、衝撃を受けた。

    もぞもぞ

     澄田花苗が第一話の主人公・遠野貴樹を卓越した人物とみて恋愛感情を寄せているところは、もぞもぞする。

     第一話でその内面を独白してきた人物を、そのように卓越した人物のように見なすことは、正しくないと思われる。

     そういう澄田花苗の独白が第二話の中心となっているので、もぞもぞするのである。

    第一話との関係

     第一話は遠野貴樹の独白によって導かれたのに、第二話は澄田花苗の独白によって導かれて、遠野貴樹は澄田花苗によって外からみられるというかたちで描かれていることは、奇妙である。

     第一話は遠野貴樹の内面を掘り下げるような話になっていた。ところが第二話では遠野貴樹は外からみられるというかたちで描かれて、その内面を掘り下げる方向に進まず、内面はわかりにくくなっている。

    ・草原で空のかなたを見つめているのは、どういうことか? 隣にいる女性は?

    ・メールの意味は?

    ・澄田花苗に対してどう考えているのか?

    ・現在何を考えているのか?

     一部独白があるが、わかりにくい。

    成長の話

     第二話は全体としての成長の話になっている。

    澄田花苗の成長

    ・澄田花苗は、遠野貴樹のことを思って、停滞していた。

    ・ところが、迷いがないと思い込んでいた遠野貴樹が「迷ってばかりなんだ」と言ったことを聞いて、自分も前に進んで行くことに決めた。

    ・そして遠野貴樹に愛を告白しようとしたが、その心が自分の方を向いていないことを知って、あきらめて前に進むことを決めた。

    ・ロケット―二人は同様に遠くを目指しているが、澄田は遠野を求めているのに、遠野は他を求めている。

    遠野貴樹の成長

     問題は遠野貴樹である。遠野貴樹は第二話で成長したのか?

     小説版では、第三話で過去を振り返るかたちで次のような独白がある。

    それは後悔に似た感情だったが、だからといって、当時の自分にはやはりあのように振る舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。

    「小説 秒速5センチメートル」、139~140頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     「あのように振る舞うことしかできなかった」ということは、悪いことをしたのではなく、できるだけのことをしたということのようである。

     何故に「あのように振る舞うことしかできなかった」のか、わかりにくい。

     遠野貴樹はメールについて次のように語っている。

    それは彼にとって準備期間のようなものだった。ひとりで世界に出ていくための助走のようなもの。
     しかし次第に、メールの文面は誰に宛てたのでもない、漠然とした独り言のようなものへと変わっていき、やがてその癖も消えた。そのことに気づいた時、もう準備期間は終わったのだと彼は思った。

    「小説 秒速5センチメートル」、141~142頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     「準備期間」と言う意味で成長であったようである。

     これは映画を観ただけではわかりにくいところである。

    問題

     第二話の澄田花苗と遠野貴樹の関係は、澄田花苗による一方的なことのようにも見える。

     また澄田花苗の頭の中だけで起こっていることが多いようにも見える。

     しかし二人の関係は、客観的にみてただの知り合いを超えていたようである。

     遠野のクラスメイトが澄田のことを「遠野の彼女じゃん」とよんでいる。遠野は反対しているが、そう言われるような関係であった。(第一話では、黒板の落書きでからかわれて、クラスと二人が対立した。第二話では、一人の同級生に軽く言われて、軽く返している)

     二人はしばしば二人きりで言葉を交わし、二人きりで夕方、学校から帰った。―小説版には、「運の良い時は週に一回、運のない時は二週に一回くらいの割合で一緒に帰ることができる」とある。(72頁)

     客観的に二人はただの知り合いを超えて恋愛に近い関係になっていた。

     遠野貴樹もそのことを意識していた。そしてそのことに積極的な言動をしてもいた。―澄田に「一緒に帰らない?」と言う等。

     澄田が「優しくしないで」と言ったように、遠野は澄田に「優しく」していた。そしてそうしながら、澄田がそれ以上の関係を求めることを許さなかった。

     小説版には、遠野は澄田の気持ちをすべてわかっていたと書いてある。

    ~当時の自分にはやはりあのように振舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。澄田が自分に惹かれた理由も、彼女が告白しようとした何度かの瞬間も。それを言わせなかった自分の気持ちも、打ち上げを見た時の一瞬の高揚の重なりも、その後の彼女の諦めも。すべてがくっきりと見えていて、それでもあの時の自分には何もできなかった。

    「小説 秒速5センチメートル」、139~140頁

     第二話の時に遠野貴樹には澄田花苗の気持ちのすべてがくっきりと見えていた、ということは、第二話は澄田の独白を中心としているが、それは遠野の内面でもあったということではないか。

    種子島

     第二話の舞台が種子島になったのは、ロケットを描きたいからではないか? とも思う。


    日本最大の宇宙基地―種子島宇宙センター (かごしま文庫)

     映画「秒速5センチメートル」で描かれる種子島では、高校生も教師も皆標準語でしゃべっている。

     種子島にも標準語でしゃべっている人はいるかもしれないが、高校生も教師も皆標準語でしゃべっていることはありえないのではないか?

     澄田花苗は、種子島で生まれ育って、大学で東京に行くことなど初めから考えていないという設定ではなかったか?

     このことも、この映画に現実離れした夢のような印象を与えている。

     ロケットの打ち上げの日時は前から知らされていて、関心のある人は打ち上げをみようと待っているものではなかったか?


    秒速5センチメートル [Blu-ray]
  • 新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」

    新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」

     新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」は2007年に公開された作品。

     新海誠監督が後に作った映画「君の名は。」ほど多くの人に知られていないと思うが、多くの人に衝撃を与えた。


    秒速5センチメートル [Blu-ray]

    映画「秒速5センチメートル」の構成

     映画「秒速5センチメートル」は、3本の短編作品からなっている。

     新海誠監督は公式サイトで次のように語っている。

    「秒速5センチメートル」は、ひとりの少年を軸にして描かれる、独立した3本の作品からなる連作短編アニメーションです。

    「秒速5センチメートル」公式サイト 「新海誠監督 本作に寄せて」

    https://www.cwfilms.jp/5cm/

    ・それぞれ独立した3本の作品からなる。

    ・「ひとりの少年」=遠野とおの貴樹たかきという少年が3本の作品の「軸」とされている。

    第一話「桜花抄」

     遠野貴樹(声:水橋研二)という少年の小学校中学年から中学一年三月までの話。

     舞台は東京。

     同級生の篠原しのはら明里あかり(声:近藤好美)という少女とのことが描かれている。

    第二話「コスモナウト」

     遠野貴樹(声:水橋研二)の高校三年生の時の話。

     舞台は種子島。

     同じ学年の澄田すみだ花苗かなえ(声:花村怜美)という少女とのことが描かれている。

    第三話「秒速5センチメートル」

     遠野貴樹(声:水橋研二)が社会人の時の話。

     舞台は東京。

     大人になった明里(声:尾上綾華)が出て来る。

    年代

     新海誠監督は映画で描かれる時代について次のように語っている。

    時代は1990年代前半から現代までの日本。

    「秒速5センチメートル」公式サイト 「新海誠監督 本作に寄せて」

    https://www.cwfilms.jp/5cm/director/

     第一話「桜花抄」は1990年代前半で、第三話は現代、すなわち映画が公開された2007年ということのようである。

    映画「秒速5センチメートル」の特徴

    背景

     新海誠監督の他の作品でもそうであるが、映画「秒速5センチメートル」も、背景の絵に力が注がれている。

     桜の花の散る美麗な絵をはじめとして、電車など、現実の風景をもとにした美しい絵が描かれている。

     新海誠監督はそのことに関して次のように語っている。

    徹底したロケハンを行い、今この現実をアニメーション表現の中にすくい取ろうと試みています。

    「秒速5センチメートル」公式サイト 「新海誠監督 本作に寄せて」

    https://www.cwfilms.jp/5cm/director/

    ・「徹底したロケハン」というように現実をもとにしている。

    ・しかしまた「見慣れた風景がいつもより輝いて見えるよう」にも描かれている。

    キャラクター

     背景の絵に力が注がれているのと比べると、人物の絵にはそれほどの力は注がれていないように見える。

     他のアニメでは、人物の絵の魅力によって観客を引っぱるということがあるが、映画「秒速5センチメートル」ではそういうことはない。

     絵だけではなく、全体として、映画「秒速5センチメートル」の登場人物の個性は、観客に特に強い印象を与えない。

    動き

     映画「秒速5センチメートル」では、人物の動きは少なく、背景がゆっくりと動くことが多い。

     他のアニメで人物の動きに力を入れた作品が多いことと対照的である。

    題材

     映画「秒速5センチメートル」に動きが少ないことは、題材と関係がある。

    我々の日常には波瀾(はらん)に満ちたドラマも劇的な変節も突然の天啓もほとんどありませんが、それでも結局のところ、世界は生き続けるに足る滋味や美しさをそこここに湛(たた)えています。

    「秒速5センチメートル」公式サイト 「新海誠監督 本作に寄せて」

    https://www.cwfilms.jp/5cm/director/

     映画「秒速5センチメートル」は「波瀾(はらん)に満ちたドラマも劇的な変節も突然の天啓もほとんど」ないという「我々の日常」を描いた作品である。

    独白

     映画「秒速5センチメートル」では、独白が多用されている。

     独白は、映像において描かれる人物の動き、やりとりの位相と違う位相にある。

    音楽

     映画「秒速5センチメートル」は全編にわたって天門氏による繊細な感じの音楽が流れている。

     人物の声、物の音なども、新海誠監督が気を遣っていることがわかる。

     そして、山崎まさよし氏の “One more time, One more chance” 。


    One more time, One more chance

     『秒速5センチメートル』 Special Edition。


    One more time,One more chance「秒速5センチメートル」Special Edition

    DVD、Blu-ray等

    Blu-ray

     映画「秒速5センチメートル」の見どころは映像美である。

    インターナショナル版Blu-ray

     英語の音声、日本語/英語/韓国語/中国語/タイ語/インドネシア語/イタリア語/スペイン語/ドイツ語/ポルトガル語/アラビア語の字幕が入っている。


    秒速5センチメートル Blu-ray インターナショナル版

     特典映像は次の通り。

    ・『監督インタビュー』(英語字幕あり)

    ・『ほしのこえ』(英語字幕あり)

    ・『彼女と彼女の猫』(5分Ver.)(英語字幕あり)

    DVD通常版

     特典映像として監督インタビューが入っている。Blu-rayには入っていない。


    秒速5センチメートル 通常版 [DVD]

    DVD特別限定生産版

     通常版に特典DVD、オリジナルサウンドトラックCDがついたかたち。


    秒速5センチメートル 特別限定生産版 DVD-BOX

     特典DVDの内容は次の通り。

    ・動画コンテ:約63分

    ・第一話「桜花抄」Yahoo! JAPAN先行配信バージョン:約29分

    ・「One more time, One more chance」PV

    ・「秒速5センチメートル」スペシャルエディション版:約6分

    ・キャストインタビュー:約36分(水橋研二、近藤好美、花村怜美、尾上綾華)

    ・制作の軌跡フォトムービー:約5分

    「小説 秒速5センチメートル」

     「小説 秒速5センチメートル」は、映画「秒速5センチメートル」が公開されたころから新海誠監督が書いた小説。

     映画「秒速5センチメートル」を作った新海誠監督自身が書いた小説は、「秒速5センチメートル」という作品を理解するために重要。


    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

    漫画「秒速5センチメートル」

     映画「秒速5センチメートル」も「小説 秒速5センチメートル」も新海誠監督の作品である。

     それに対して漫画「秒速5センチメートル」は、漫画家清家雪子先生が映画「秒速5センチメートル」、「小説 秒速5センチメートル」を踏まえてその隙間を補うなどした作品。

     全2巻。


    秒速5センチメートル(1) (アフタヌーンコミックス)

     第2巻。


    秒速5センチメートル(2) (アフタヌーンコミックス)

     「秒速5センチメートル」はキャラクターの力の強くない作品であるが、それにもかかわらず、メディアミックスが行われている。小池一夫。

    「秒速5センチメートル」の難解なところの考察

     「秒速5センチメートル」は難解な作品だと私は思う。

     「第一話 桜花抄」、「第二話 コスモナウト」について考えてみた。

  • 町山智浩氏の「天気の子」論について

    町山智浩氏の「天気の子」論について

     2021年10月中頃、著名な映画評論家・町山智浩氏が新海誠監督の映画「天気の子」を論じた文章を収めた著書が売り出されたと聞いて、参考にしようと思って、発売日に書店に買いに行った。


    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)

    「天気の子」の位置づけ

     「「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」で町山智浩氏は13本の映画をとりあげているが、「天気の子」を最後にとりあげている。

     「天気の子」を最後にしたことには意味があるようである。インタビューで町山氏は次のように語っている。

    一番おとなしそうな映画に見えて、一番恐ろしいメッセージを持っています。「親の世代がやってきたことで子供たちが犠牲になる必要はないんだ」という話ですからね。

    主人公の男の子たちは、おそらく最初から貧富の差が激しいところに生まれたから、豊かさも、贅沢(ぜいたく)も知らない。その分、『パラサイト』の父親と違って負けた経験さえないから卑屈にならず、「愛にできること」の側に立てる。そこに可能性を見ている作品だと思うので、最後にしました。やっぱり最後は希望を感じてもらいたいから。

    週プレNEWS 『万引き家族』『パラサイト』『ジョーカー』『天気の子』……「格差映画」多発現象から読み解く、現代社会の闇

    https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2021/10/12/114571/

     「天気の子」は「一番おとなしそうな映画に見えて、一番恐ろしいメッセージを持って」いるものであるという。また「最後は希望を感じてもらいたい」ともいう。そういう意味で最後に置いたというのである。


    「天気の子」Blu-rayスタンダード・エディション

    気になるところ

     読んで気になるところをとりあげてみる。

    青空

     まず次のところでひっかかった。

    『天気の子』は、新海誠監督の作品の最大の魅力だった青空をほとんど封じて、雨か曇天ばかりにすることで、逆に空の美しさ、晴天の美しさを強調している。

    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」 、248頁

    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)

     そうだったのか?

     青空が「新海誠監督の作品の最大の魅力だった」のであって、「雨か曇天ばかりにすること」は、「新海誠監督の作品の最大の魅力だった青空をほとんど封じ」たことであったのか?

     新海誠監督の作品と言われると、「天気の子」、「君の名は。」とさかのぼってすぐに「言の葉の庭」を思い出すが、「言の葉の庭」は新海誠監督が雨を描くことに力を注いだ作品である。

     「言の葉の庭」は、「新海誠監督の作品の最大の魅力だった」青空を「ほとんど封じ」た作品であったのか?


    劇場アニメーション 『言の葉の庭』 (サウンドトラックCD付) [Blu-ray]

    地球温暖化

     町山智浩氏は映画「天気の子」を地球温暖化と関係づけている。

     新海誠監督も「天気の子」に近年の気候変動を取り入れたと語っている。

    僕はこれまで、映画の中で、日本の美しい穏やかな四季を折々の天候も含め、情緒として描いてきました。でも近年、猛暑が続いたりゲリラ豪雨が当たり前になったりするなかで、「天候が変わってきた」と強く意識するようになりました。こうなると天気は、情緒というより、人間に相対するもの、備えなくてはならない対象に変わってきます。そういう生活実感が時代の気分の中にあるので、天気を通じて、今の気分を映画の中に持ち込めるんじゃないかと考えたんです。

    YAHOO!ニュース 「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟

    https://news.yahoo.co.jp/feature/1389/

     町山智浩氏はそのことを世代論と関係づけている。

     「天気の子」の大人をその気候変動をもたらした世代として、主人公たち子どもをその世界で生きなくてはならないものとして、対立させている。( 「「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」 、 252頁)

     「天気の子」は大人と対立する若者を描く作品であるが、その対立は気候変動をめぐってなされているのである。

     大人と対立する若者を描いているということについて↓

    貧困

     町山智浩氏は映画「天気の子」を、現代の貧困と関係づけている。

     新海誠監督も是枝裕和監督の「万引き家族」と近いところがあると語っている。

    随分テイストは違うし『天気の子』より遥かに社会派ではあると思うんですけど、僕は『万引き家族』(是枝裕和監督の映画)を見たときに、ちょっとだけやりたいと思ってることは近いな、と感じたんです。子供がいてお姉ちゃんがいておばあちゃんがいて少年がいて。

    KAI-YOU 新海誠『天気の子』インタビュー前編 「変化する東京の街並み」への思い

    https://kai-you.net/article/66464

     町山智浩氏は「「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は格差を描く」で「天気の子」の一つ前で「万引き家族」をとりあげている。

     ただし「天気の子」では町山智浩氏の語るような貧困は描かれていない。

     町山智浩氏は非正規雇用の増加と関係づけて日本の貧困について論じている。( 「「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」 、255頁)


    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)

     しかし「天気の子」では、非正規雇用の増加などと関係のある貧困は描かれていない。

    ・主人公の貧困は高校生でありながら家出して東京で生きようとすることによるものである。

    ・ヒロインの貧困は親が亡くなったにもかかわらず、役所から隠れて弟と二人で暮らそうとすることによるものである。

    ・須賀は経済的に成功している。

    「千と千尋の神隠し」

     「『天気の子』は、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』(01年)に通じている」と町山智浩氏は語る。(「「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」、258頁)


    千と千尋の神隠し [Blu-ray]

     どういうことか?

    『千と千尋の神隠し』の主人公の少女・千尋は、神へのお供え物を食べちらかして豚になってしまった両親の罪を贖うため、湯屋で働かされる。千尋の親はバブル世代、飽食と贅沢のバブル世代の後、日本は経済的な停滞に突入し、若い世代は生きるために仕事を選りごのみできなかった。湯屋、つまり性風俗すら。
    『天気の子』では、大人たちの欲望の街に、大人たちの欲望の果ての地球温暖化が雨を降らせる。陽菜はその犠牲として身をすり減らし、号泣するように凄まじい豪雨をもたらす。ついには天空に消えてしまった陽菜を取り返すため、帆高は拾った拳銃を発射する。

    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」 、 258頁

    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)

     気になるところがいくつか。

     第一に、「天気の子」の雨は「大人たちの欲望の果ての地球温暖化」とされていないのではないか?

     「天気の子」での陽菜の犠牲は、「大人たちの欲望の果ての地球温暖化」に対するものとはされていないのではないか?

     「陽菜はその犠牲として身をすり減らし、号泣するように凄まじい豪雨をもたらす」というが、豪雨は陽菜が自身を犠牲としないことによって起こったのでは?

     「天気の子」と「千と千尋の神隠し」とで共通するところは、主人公が親から独立するところ、公開された時の日本の現実と関係するところがあること、空中で若い男女が手を取り合って落ちて行くという絵、このくらいではないか?

    世間との対立

     「天気の子」において主人公が世間と対立することについて、町山智浩氏は次のように語っている。

     帆高に対して「大人になれ」と言う人もいるだろう。でも、「大人になれ」と言った大人たちが作ったのが今の世界だ。毎年、すごい暑さや山火事や豪雨や洪水で人が大量に死んで、極地の氷が溶けて沈みゆく世界だ。これが経済や国家を優先させた大人の世界の結果だ。
     だから、たったひとつの間違いなく大事なことは、自分の愛する目の前の人を命を懸けて戦って守ることだけではないか。君の愛する人と世界が戦うなら、世界全部を敵に回してもいい。

    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」、261頁

    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)

     「「大人になれ」と言った大人たちが作ったのが今の世界だ。」というところまではいいとしても、大人たちが作った今の世界は「毎年、すごい暑さや山火事や豪雨や洪水で人が大量に死んで、極地の氷が溶けて沈みゆく世界だ。これが経済や国家を優先させた大人の世界の結果だ。」ということは、「天気の子」という作品の中にはないのではないか?

     「天気の子」の作品の中にはないことを町山智浩氏は「天気の子」におしつけているのではないか?

     現実世界の町山智浩氏の政治的主張を「天気の子」に持ち込んでいるのではないか?

     町山氏はその後にも「消費税が上げられる」とか「コロナでこれだけの死者が出ても政府は税金を使って全国の病院からベッドを削減する」とかいうことをそのまま「天気の子」と関係づけている。(「「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」、262頁)

     そういうことは町山智浩氏の政治的主張であって、「天気の子」そのものとは関係ないのではないか?

     「天気の子」の主人公と世間との対立は、あくまでも作品の中で描かれた主人公と世間とによって考えるべきではないか?

    ラスト

     この映画の結末にはどういう意味があるのか?

     その問いに対して町山氏は次のように答えている。

    「僕たちは世界を変えてしまった」
     帆高は言う。しかし、東京は水没していく。彼らは何を変えたのか? これでハッピーエンドなのか?
     その答えは宮崎駿の作品にある。
     宮崎駿監督は水没を何度も描いてきた。『未来少年コナン』(78年)でも、『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』(73年)でも、『ルパン三世 カリオストロの城』(79年)でも。それは災いではなく、穢れたものを洗い流す浄化と再生の儀式として描かれる。
    『崖の上のポニョ』(08年)では、人間の男の子、宗介と、さかなの女の子ポニョとの恋が嵐を呼んで、世界を水没させてします。人間の文明と大自然が結婚して、両者が共存する新世界が生まれるために。
    『天気の子』では、水没した地区はもともと海だったんだ、という。つまり、人間が長い間かけて変えてきたものが元に戻っただけなんだと。これは滅びではなく、はじまりなのだ。

    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)」、265頁

    崖の上のポニョ [Blu-ray]

     まず、町山智浩氏が「天気の子」で、水没したところはもともと海であったというところをとりあげて、「これは滅びではなく、はじまりなのだ」と結んでいることに疑問がある。

     「天気の子」で、水没したところはもともと海であったと語ったのは、主人公ではない。むしろ「大人」の側の人物である。

     その言葉に対して主人公は釈然としていない。

     最後の場面での主人公の確信は、その言葉によることではなく、その後にヒロインと出会ったことによることである。

     最後に主人公が確信したのは「元に戻っただけなんだ」ということではなく、主人公たちが「世界を変えてしまった」ということである。

     新海誠監督の作品を宮崎駿監督の作品によって解釈するということによって、新海誠監督の作品そのものに向き合わなくなっているのではないか?


    パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻

    おわりに

     「最も危険なアメリカ映画」でもそうであったが、この著書でも町山氏は映画を政治とからめて論じている。

     そのせいか私には、政治論としても、映画論としても、中途半端になっているように見える。

     映画に特定の政治思想がおしつけられて、映画そのものに向き合うことが十分にできていないように見える。

     政治思想も、すでにきまったものとして与えられて、掘り下げられることはない。

     その他にも、宮崎駿監督の作品によって解釈することによって、「天気の子」そのものをとらえそこなっているところがないか?


    「最前線の映画」を読む Vol.3 それでも映画は「格差」を描く (インターナショナル新書)

    「天気の子」Blu-rayスタンダード・エディション
  • 映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 後半

    映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 後半

     新海誠監督の映画「君の名は。」の気になるところについて一つ一つとりあげて考えてみる。

     今回は後半。

     前半↓

     そして新海誠監督の意図について考えてみる。


    「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)

    探す旅

     瀧が三葉の住むところに行くところ。

    同行者

     瀧は一人で行くつもりであった。

     ところが東京駅には友人の司と奥寺先輩が待っていて、瀧について行くという。

     これもおかしいと思う。

     特に奥寺先輩がついていくというのはおかしくないか? すでに司と親しくなっていたということかもしれないが、それまでの奥寺先輩と違う性格になったように見える。

     瀧を心配しているということであろうが、そのために瀧の考えを無視して旅についていくのはどうなのか?

     そもそも瀧の考えを二人はどのくらい知っていたのであろうか?

     知っていたのでなくては、瀧のことを配慮することはできないであろう。

     しかし入れ替わりのことは二人には理解できないのではないか?

     しかしそうだとすると、瀧は二人に旅の目的をどう説明したのか? 二人はそのことを聞いてどう理解したのか?

     思うに、新海誠監督は瀧の旅を途中まで明るいものにするために、司と奥寺先輩がついてくることにしたのであろう。瀧一人では「秒速5センチメートル」のように暗くなったかもしれない。旅を途中まで明るいものにすることで、その後に起こることが際立つ。

     二人は旅を明るいものにするという目的のためにに生かされているが、その内面は作りこまれていないように見える。そのことは、旅の目的が共有しがたいものであることからも気になる。

     瀧はその旅に出るまでに、記憶の中にある三葉の住んでいた町の風景を絵に描いていて、その絵を持って行って、三葉の住んでいた町を探そうとしている。

     しかし飛騨と限定されていて、あれだけ珍しい地形であるのに、ラーメン屋に行くまでわからないということがあるだろうか?

     瀧は奥寺先輩とのデートの時に写真展の飛騨のところで何かを感じていたのに、その写真展に問い合わせないのか?

     景色の記憶のほかに、「糸守」という地名のような言葉の記憶はないのだろうか?

     飛騨のことを調べているのに、糸守のことにつきあたらなかったのか?

     ここでも、登場人物が自分で動いて話を進めるのではなくて、それぞれの場面のために登場人物は動かされていると考えることができる。

     「君の名は。」の作り手は、瀧が薄れた記憶をもとにして絵を描いて、その絵をもとにして飛騨で聞き込みをして、手がかりが得られず帰ろうとしたところではじめて3年前のことを知る、というかたちをとった。

     瀧が三葉の記憶に近づくということを、旅行での苦労というかたちで表現したかったのではないか。

     そして3年前のことを知った時の衝撃を強くしようとしたのではないか。

     瀧は技術的には、東京の自宅にいる間に衝撃の事実を知ることもできたであろう。

     しかしそういう話にしなかった。

     そのために瀧の記憶は景色だけとされて、言葉の記憶はラーメン屋の店主に言われるまで思い出さないことにされた。

    日記が消える

    Iván TamásによるPixabayからの画像

     瀧が三葉の住んでいた町に来てみると、町は隕石によって出来た湖に飲み込まれていた。

     そこで三葉の言葉が残っているはずの日記を見ると、言葉が残っていたが、みるみるうちに文字化けして消えて行った。

     ここは筋が通らないところである。

     その時まで日記は消えずにいて、その時に消えるということはどういう規則によるのか?

     ここまであると思っていたことが突然なかったと知った気持ちを、日記が消えるというかたちで表現しているのであろう。

    3年のずれ

    Photo by Brooke Campbell on Unsplash

     入れ替わりが3年を隔てた間で起こっていたと知るところは、起承転結の転にあたるところ。

     それまで明るく楽し気に進んでいた話が突然暗い断絶に直面して、作品に深みが加わり、観客の心をひく。

     しかしここは多くの人につっこまれるところでもある。

     瀧も三葉もそれまで入れ替わるたびにそれぞれ3年違う世界で一日過ごしていたにもかかわらず、互いにそのことに全く気付いていなかった。

     そういうことはありえないのではないか?

     3年違う世界で、もとの世界と3年違うことを意識せずに一日過ごすことができるであろうか?

     三葉の家でテレビを見ている場面が何度かあるが、3年違えばその内容も違うであろう。

     特にテレビで彗星のニュースが繰り返す出てくるが、瀧がそのことを全く気にしないのはおかしい。

     二人はそれぞれ高校生としてそれぞれの友人と会話しているが、その中で3年の違いに気づかずにいられるであろうか?

     「君の名は。」が公開されたころにはリオ五輪が開かれていて(2016年8月5日~21日)、高校生がオリンピックについて話さないはずがないと私は思っていた。

    (「君の名は。」では、糸守町に彗星が落ちたのは2013年10月4日とされている)

    救出作戦

    Photo by JESHOOTS.COM on Unsplash

     瀧が目を覚ますと、彗星が落ちる前の三葉に入れ替わっていた。

     そこで瀧は糸守の町の人を彗星から救うために走り出す。

     しかし町の人は瀧の言うことを聞かない。

    祖母

     瀧はまず、三葉の家にいる祖母に彗星が落ちるというが、祖母は信じない。

     三葉の祖母は、その前に瀧が三葉と入れ替わっていることに気づいたりしているが、彗星が落ちることは信じない。

     要するに祖母は一度入れ替わりを経験していて、しかし今では忘れているというのであるが、そうだとしても、彗星のことを全く信じないのはおかしいのではないか?

    同級生

     瀧は高校の教室に行って彗星が落ちるという。

     そこで突然画面が変わって、勅使河原、早耶香の二人が瀧とともに町の人を彗星から救うことを考えるという話になっている。

     つまりその二人の外はそのことを信じなかったということである。

     ここも気になる。

     同級生を説得することは容易でないと思うが、しかし二人を説得できたのであれば、その他の何人か説得できてもいいのではないか?

     おそらく、新海誠監督にとっては、瀧と三葉が重要であって、その二人を支える存在として、勅使河原、早耶香の二人がいればいいということであろう。

    三葉の父

     三葉の父の町長が、瀧が彗星が落ちると言っても受け入れないことは、しかたがないことではある。

     しかし全く受け入れない

     そして三葉に入れ替わった瀧に対して「お前は誰だ」と言った。

     ここで三葉の父が全く受け入れないことも、これまでのことと同じように違和感がある。

     「おまえは誰だ」と言って話を切っているところにも違和感がある。

    三葉の東京行き

    omaedaによるPixabayからの画像

     瀧が奥寺先輩とデートした日、三葉は東京に行っていた。

     三葉は妹の四葉に「ちょっと東京に行ってくる」と言って、新幹線で東京に行っている。

    金銭感覚

     高校生が「ちょっと東京に行ってくる」と言って新幹線で東京に行くということが気になる。

     高校生にとって、それもアルバイトをしていない高校生にとって、飛騨から東京まで新幹線で往復する費用は、「ちょっと」ではないのではないか?

     しかもこの場合、東京に行って何をするかよくわかっていないようである。

     また、そういうことができるのに、何故に今までしようとしなかったのか? ということも気になる。

     入れ替わりをどうすべきかという問題はそれだけ大きな問題だと私は思う。

     ここでは、三葉の瀧に対する気持ちがそれだけ高まっていたと受け取るべきなのであろう。

    出会い方

     三葉は東京に着いてから、電車に乗ったり、歩いたり、バスに乗ったりしている。

     そうして夕方に代々木駅に来た電車に乗っている瀧を見つけたということになっている。

     東京で人を探すことの苦労を描いているようである。

     しかしそのようにあてもなく探しまわっても見つかるはずがないと私は思ってしまう。

     飛騨にその日のうちに帰らなくてはならないことを考えると、時間がないと思ってしまう。

     その後で偶然瀧に出会えたことは都合がよすぎると思ってしまう。

     四谷の待ち合わせのことを考えてそのあたりに行くとか、記憶をたどって瀧の高校や瀧の家に行くとかすべきではないか?

    組紐

    イラストACから

     三葉が瀧に組紐を渡すところはこの映画の大事なところである。

     しかし相手から「誰? お前」と突き放すようなことを言われているのに、呼び止められたからといって、電車から降りながら組紐を渡そうと思うだろうか?

     相手は受け取らないかもしれないではないか。

     二人が離れる動きの中で組紐を渡す絵がいいということであろうか?

     まず、中学生の瀧が、まだ知らないとはいえ、三葉に話しかけられて、あのようにただつきはなしていることには違和感がある。

     瀧が電車から降りる三葉を突然呼び止める気持ちもわからない。

     あのように三葉から組紐を差し出されると、受け取らざるをえないとも思うが、それから3年、その組紐を手首に巻いていて、そうしながら誰からもらったか忘れたということはおかしい。

    出会い

    KanenoriによるPixabayからの画像

     三葉に入れ替わった瀧は、三葉に会うために山の上に行く。

     このあたりにも気になることが多い。

    三葉に会いに行くこと

     瀧は、三葉の父を説得することに失敗した後、「三葉なら説得できたのか?」と考え始める。

     そして山の上を見て、「そこにいるのか?」とつぶやいて、勅使河原の自転車でその方へ行っている。

     このあたりは映画館で観てついていけなかったところである。

     第一に、「三葉なら説得できたのか?」と考えることについていけない。

     町の人を彗星から救うという目的のために三葉の父の町長を説得しようとしている時に、「三葉なら説得できたのか?」と思うであろうか?

     第二に、瀧がどうして山の上を見て、「そこにいるのか?」と思うことができたのか、よくわからない。

     ここでの瀧には糸守の町の人を彗星から救うという大きな目的があるゆえに、その目的と関係がないように見えることが気になるのである。

    山の上

     3年前の三葉に入れ替わった瀧と、3年後の瀧に入れ替わった三葉は、山の上で出会う。

     このあたりは映画館で観た時に感動している人もいた。

     しかし私はどういう理屈で出会うことできているのか理解できず、話についていくことで精一杯で、感動どころではなかった。

     瀧は3年前(2013年)の三葉と入れ替わって3年前の山の上に来ているのに、そこでどうして3年後(2016年)の瀧と入れ替わって3年後の山の上に来た三葉と会うことができるのか?

     小説版では、はじめに声だけが聞こえた時に瀧が次のように独白している。

    この声が―俺の声が、三葉の声が、現実の空気を震わせているのか、それとも魂のような部分にだけ響いているのか、俺にはよく分からない。俺たちは同じ場所にいても、三年ずれているはずだから。

    「小説 君の名は。」、194~195頁

     瀧も理屈はわからないという。

     しかし瀧が山の上に来たのは、そこで三葉と出会うことができると考えたからにちがいない。

     どうして瀧はそう考えることができたのか?

     黄昏の時に、瀧と三葉は互いに相手の姿を見ることができるようになった。そしてそれぞれ元の体に戻っていた。

     そうなる理屈もわからない。

    時間の問題

    Tanja-Denise SchantzによるPixabayからの画像

     「君の名は。」では時間を超えた入れ替わり、そして時間を超えた出会いが起こる。

     それゆえに気になるところがある。

    三葉の死

     瀧が口嚙み酒を飲んで三葉と入れ替わったのは、彗星が糸守に落ちる前である。

     口嚙み酒のところで倒れていた瀧に入れ替わった三葉は、彗星が糸守に落ちる前の三葉である。

     ところが瀧に入れ替わった三葉は、彗星が糸守に落ちて、自身が死んだ記憶を持っている。

     どういうことであろうか?

     三葉が入れ替わった3年後の瀧の体は、彗星が糸守に落ちた後の体であって、彗星が落ちたという事実、そしてその中にあった三葉の死という事実が織り込まれていて、入れ替わった三葉もその記憶をもつことになった、ということであろうか?

    記憶

     はじめの話では、彗星が糸守に落ちて、三葉も町の人500人もそのために亡くなることになっていた。

     ところが入れ替わりが起こって、彗星のことを知っていた瀧が3年後の世界から来て、彗星が落ちる前の世界にはたらきかけた。

     そして一度3年後の瀧と入れ替わって彗星のことを知った三葉も、3年前の世界に帰ってはたらきかけた。

     その結果、彗星は糸守に落ちるが、三葉も町の人500人も亡くならないことになった。

     三葉にも、瀧にも、三葉を含めた500人の町の人が亡くなったという事実はなくなったのである。

     2人が彗星によって人が亡くなることを知って、そのことから町を救うために奔走したという記憶もなくなる。

     2人は別れて間もなくそれまで2人でやってきたことを忘れていく。

    名前

     「君の名は。」では、2人がそれまでの記憶をなくしていくことを、相手の名前の記憶をなくしていくというかたちに集約して表現している。

    気になる

     2人がそれまでの記憶がなくしていくことを、相手の名前の記憶をなくしていくというかたちに集約して表現していることは、理屈としては理解できる。

     しかし私は映画を観ていて気になった。

     2人は相手の名前をおぼえていること、おぼえていないことを問題としているが、2人にとっては相手の名前より、相手についての記憶が重要ではないか、と思ってしまうのである。

     三葉が糸守の町の人を救うために走っている途中で、瀧の名前を忘れたことを問題としているところをみると、脇道にそれているように見えてしまう。

    救う

     瀧と別れた三葉は、町の人を救うために山を下って行く。

     ここで、まず早耶香の防災無線乗っ取りが失敗し、次に勅使河原も親につかまってしまった後で、三葉が父のところへ行って正面から見据える、そして彗星が落ちて町が燃える、というところで途切れる。

     そして8年後の瀧の話で、偶然その日に町を挙げての避難訓練があって、町民は助かったということになっている。

    気になる

     映画を観ていて物足りなく感じたところ。

    過程が描かれていない

     どうして町民が助かったのかが描かれずに、素材と結果だけ並べられて助かったと言われても、物足りない。

     新海誠監督にとっては、どうでもいいところであったかもしれない。

     しかしどうやって彗星から町の人を救うかということで観客をひっぱってきたのに、その救うところが描かれていないのでは、物足りないと言われても仕方がない。

    バランス

     彗星のことを知った瀧は、もう一度三葉に入れ替わって、勅使河原、早耶香とともに、作戦を立てた。

     しかし瀧は三葉の父を説得できずに、なぜか三葉と出会うために山の上に行く。

     そして自分の体に戻った三葉は、勅使河原、早耶香とともに作戦を実行に移すが、早耶香も勅使河原も大人につかまってしまう。

     一方で、彗星が落ちる時が迫っているのに、他方で、町の人を救うための三葉等の作戦は成功から遠ざかっていく。

     緊迫感を強調するためにそのように描いたのかもしれないが、それだけ追い込まれた状況を見せられると、その状況からどうやって町の人を救うところまで持っていくことができたのか、見たくなるのである。

    いつも誰かを探している

    記憶を失う

     瀧は三葉と別れた後、記憶を失っていく。

     そのことは理解できるのであるが、細部が気になる。

     瀧は記憶を失って山の上で目を覚ましたというが、そのようなことがあって記憶を失っただけですませるだろうか?

     飛騨に司、奥寺先輩と旅して、別れて帰ってきたことまでおぼえているのに、その先のことはぼんやりとしかおぼえていないですませるだろうか?

    すれ違い

     記憶を失った瀧はいつも誰かを探している。

     そして同じく記憶を失った三葉もいつも誰かを探している。

     2人はすれ違いを繰り返す。

     このあたりは「秒速5センチメートル」を踏まえているようである。

     東京のビルに降る雪の下を瀧が歩くところ。女性とすれちがってハッとする。左手をポケットに入れている。そして振り返ってみる。

    「君の名は。」と「秒速5センチメートル」

     「秒速5センチメートル」では、振り返った先に相手の女性はいなかった。

     「君の名は。」では、互いに相手を求めていて、結局言葉を交わすことができた。

     新海誠監督は「君の名は。」について次のように語っている。

    人生には出会うべき相手がいるというテーマ、つまり「運命の人って、いるんだよ」ということですよね。それを、もう少し長い物語で描きたいと思ったのが最初のきっかけですね。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

    https://www.cinematoday.jp/page/A0005142

     両作品の違いはそのことにあるということができる。

     「君の名は。」においては、夢が重要な意味を持っている。

     新海誠監督は「君の名は。」のもとになったことについて次のように語っている。

    『君の名は。』は、昔話の構造ではなく「夢と知りせば」という和歌がインスピレーションを与えてくれました。夢から覚めてなぜかさみしいという感情は、小野小町のいた平安時代から、いやそれ以前から今にいたるまで人の持つ共通の感覚だろうと思ったのです。

    『君の名は。』大ヒットの理由を新海誠監督が自ら読み解く(上)

    https://diamond.jp/articles/-/102660?page=2

     瀧、三葉の2人が夢に対して同じように感じている。

     「君の名は。」において、夢は母胎のように現れている。

     小説版のはじめには、目が覚める前の状態について次のように言われている。

    私は大切なだれかと隙間なくぴったりとくっついている。分かちがたく結びついている。乳房に抱かれた乳呑み児の頃のように、不安や寂しさなんてかけらもない。

    「小説 君の名は。」、6頁

     映画中盤で瀧は口嚙み酒を飲んだ後に、彗星の映像が、へその緒を切る映像につながるところをみている。

     2人は同じように失われた夢を追い求めて、そうしてついに出会うのである。


    「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)
  • 映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 前半

    映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 前半

     新海誠監督の映画「君の名は。」には気になるところが多くある。

     一つ一つ取り上げて考えてみる。

     まず前半。

    http://www.kiminona.com/


    「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)

    入れ替わり

    ElisaRivaによるPixabayからの画像

     まず、男子高校生立花瀧が目を覚ましてから、自分が女の姿になっていると気づくところ。

     瀧はまず自分の胸の形が変わっていることに気づくことになっている。

     しかし自分の胸の形は、自分の目から見て目立つものであろうか? 目覚めたばかりで、体が入れ替わっているとは思っていない時に、目立つものであろうか?

     その後に鏡の前で裸になった時に、自分の体が女性の体になっていたことに気づくことになっている。

     しかし、そういう時に突然鏡の前で裸になるであろうか?

     思春期の男女の入れ替わりの話で、思春期に気になるところに注意させるをとりあげることはいいと思う。

     しかしもっと自然な流れにできたのではないか?

    襖を閉める妹

     女子高校生に入れ替わった瀧に、その女子高校生の妹が「ご・は・ん! 早くない!」と言って「叩きつけるように襖を閉め」て行く。(小説版)

     その女の子はこの後にも何度か同じように「叩きつけるように襖を閉め」て行く。

     このように「叩きつけるように襖を閉め」て行くことは、その女の子のキャラクターと合っているし、映画をテンポよく進めることにもなっている。

     しかし、姉に部屋から出てくるよう言いながら、自分で「叩きつけるように襖を閉め」て行くことは、相反することである。

    「昨日はおかしかった」

     女子高校生三葉(本人)は朝起きてから会う人ごとに、昨日はおかしかったと言われる。―祖母、妹、友人、学校の教師にそう言われる。

     三葉はその前の日に瀧と入れ替わっていた。周りの人は瀧が中に入った三葉のことを言っているのである。

     三葉は周りの人に昨日おかしかったと言われて驚くが、それより夜の儀式のことに関心を移してしまう。

     三葉にとって夜の儀式のことは大きなことであるかもしれない。しかし昨日の自分はどうしていたかということを考えずにいられるのであろうか?

     三葉の家族も友人も、三葉の中身が一日変わっていたのに、その日だけおかしかったとすませることができるであろうか?

    町長

     三葉が学校に向かって歩いている途中で、広場で三葉の父親の現職町長が選挙のための演説をしていた。父親は通りかかった三葉をみて、「胸張って歩かんか」と言う。

     この場面では、三葉が田舎での暮らしに不満を感じるところが描かれていると思われる。

     そのことが、三葉が東京に行きたいと思う理由の一つになっている。

     しかし三葉の父からすると、現職町長であって再選を目指しているのに、現在別居していて、その日も違う家から出て来た娘を、人前で叱りつけることは、体裁のいいことではないのではないか?

    組紐

    写真ACから

     三葉の家の神社では「千年の歴史が刻まれとる」という組紐を作っている。

     三葉はその組紐で髪を結って学校に行っている。

     神社で作っている長い伝統のある組紐を、女子高校生がおしゃれをする感じで髪を結うために使っている、というところが気になった。

     それが新海誠流ということか。

    三葉の叫び

    写真ACから

     儀式の後、三葉は鳥居をくぐって叫ぶ。

    もうこんな町いやや! こんな人生いやや! 来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!

    「君の名は。」

     当時TVのCMで繰り返しこの叫びが流れていた。

     そのCMを見た時にも違和感があったが、映画を観てもやはり違和感があった。

     田舎の女子高校生が東京に行きたいというところまでは自然なことだと思うが、「イケメン男子」になりたいということは自然なこととは思えない。

     その前に女性として恥ずかしい儀式をやったことがきっかけになっているのであるが、それでも「イケメン男子」になりたいと願うだろうか? と思ってしまう。

     新海誠監督自身も気になっていたようである。

    劇中で「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫ぶんですが、「普通そんなこと叫ぶかな?」ってちょっと引っ掛かっていたんです。物語の都合に、キャラクターの芝居を合わせてしまったのではないかと。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

     ところが女優によって説得力あるものになったと新海誠監督はいう。

    でも、上白石さんに会った時、「この子だったらそんなこと叫んじゃうかもしれない」「勢いで、嫌なことを思い切り発散してしまうかもしれない」そんなことを感じさせてくれて。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

     新海誠監督はわざとこの叫びを重みのない、軽いものにしたようである。

    https://www.cinematoday.jp/page/A0005142

     この叫びに関してはもう一つ問題がある。

     この叫びは、鳥居をくぐるところでなされていることを考えても、その後に入れ替わりという超常現象が起こる原因になったことのように見える。

     三葉が「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫んだことを原因として、三葉は東京の男子瀧と入れ替わった、ように見える。

     しかしこの叫びの前に三葉は入れ替わりをしている。

     この叫びは、例の儀式の後になされている。例の儀式は、三葉が学校で「サヤちん」と入れ替わりに関して話をした後である。

     入れ替わりが起こった後に、入れ替わりをもとめて叫んだことになっている。

    瀧の部屋

    Photo by Ryo Yoshitake on Unsplash

     三葉の叫びの後、場面は切り替わって、東京の瀧の部屋で、瀧に入れ替わった三葉が目を覚ますところになる。

     ここでも瀧と同じように、三葉は目を覚ましてすぐに、男性の体に入れ替わったことがわかるところにピンポイントで気づいている。

     そのことは瀧の場合と同じように気になる。

     しかしその後に瀧に入れ替わった三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行く流れは、それより気になった。

     ここで三葉には、瀧のふりをして瀧の学校に行く動機がないはずである。

     三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くという話にするためには、そのことが自然であるように話を作らなくてはならないと思われるが、そういうことはない。

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧の父親に呼ばれているので、父親をそのために使うとばかり思っていた。

     父親が瀧に入れ替わった三葉に学校に行くように急かすとか、途中まで一緒に行こうと言うとかすれば、瀧に入れ替わった三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くことも自然になる。

     ところが瀧の父親はそういうことをせずに、瀧に入れ替わった三葉を残して出て行ってしまった。

     そこに瀧の友人の司から学校に来いと言うメールが来たが、これも三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行かなくてはならないと思うには弱い。

     三葉は、容姿は瀧のようになっているが、心は三葉のままである。

     三葉は東京で制約のない状況に置かれた場合、やりたいことをやろうとするのではないか?

     ところが三葉はなぜか、強いる者もいないのに、やりたいことをやらずに、瀧のふりをして瀧の学校に行っている。

     三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くことは困難ばかりだと思われるが、なぜかその道を自ら選んでいる。

    東京のイメージ

    Photo by Laurentiu Morariu on Unsplash

     瀧に入れ替わった三葉は、新宿を歩いて「東京やあ!」と言って感動している。

     何ゆえに東京の中でも新宿なのか?

     新海誠監督はインタビューで、「僕の世代にとって東京といえば新宿だったんですよ。」と語っている。「シティハンター」や「機動警察パトレイバー」の影響があったという。そして「僕は未だにそのイメージを引きずっていて、東京といえば新宿だっていう気分がすごく大きいんです。」と言っている。

    https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1472453958

     新海誠監督の世代によることのようである。

     私は、女子高校生が東京の人と入れ替わる話だと聞いた時に、当然女子高校生は原宿に行くと思い込んでいた。

     そして新海誠監督がアニメでどのように原宿を描くのだろうかと思っていた。

     ところが「君の名は。」では、原宿は全く描かれなかった。

    カフェ

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧の友人の司、高木に誘われて三人でカフェに行く。

     三葉は田舎にいた時にカフェに行きたいと言っていた。そのことがかなった、というかたちになっている。

     しかし三葉が自分で来るのでなく、瀧の友人に連れられてくるということに違和感がある。

     男子高校生三人でカフェに行くということに対して違和感があるのである。

     ここでも作り手のやりたいことが先行して、そのために登場人物が動かされているように見える。

    イタリアンレストラン

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧のアルバイト先のイタリア料理店で瀧の代わりにアルバイトをやることになる。

     しかしそれまでやったことのないアルバイトを突然やれと言われて、まごつきながらもできてしまう、ということは都合がよすぎると思う。

    入れ替わりの日常

     瀧、三葉二人が夢の中で入れ替わっていることを意識したところで、RADWIMPSの楽曲が流れて、それに乗せて瀧、三葉の入れ替わりの日常がダイジェストで描かれている。

     その中心にあるのは入れ替わりである。

     入れ替わりについて、瀧、三葉がわかってきたことは次の通り。

    ・瀧は、三葉と同じ年で、東京に住む男子高校生(と三葉はわかった)

    ・三葉は、「ど田舎暮らし」の高校生(と瀧はわかった)

    ・入れ替わりは不定期で、週に二、三度、ふいに訪れる。

    ・トリガーは眠ること。原因は不明。

    ・入れ替わっていた時の記憶は、目覚めると不鮮明になる。

     入れ替わりの対策として二人は、携帯電話に、入れ替わった時の注意点や禁止事項、入れ替わった時の出来事を書き残すというルールを作った。

     このあたりも気になる。

     二人は入れ替わりという状況を理解して、その対策をするために相互にコミュニケーションをとるに至っている。

     それにもかかわらず、電話で直接やり取りするとか、交通機関を使って会いに行くとかしないことは不自然でないか?

     小説版には次のように書いてある。

    メールや電話も試してみたが、なぜかどちらも通じなかった。

    「小説 君の名は。」、80頁

     映画でもすべきではなかったか?

     メールも電話も通じないとしても、もとの自分の家に行こうと思わないことは不自然ではないか?

     思うに、新海誠監督は、二人が入れ替わりという「夢」を二人の間だけで共有するという状況を作りたかった。

     それに対して私は、二人が与えられた状況で、相手のふりをするだけに終始する動機が十分にないと思ってしまうのである。

    奥寺先輩

     瀧のアルバイト先の奥寺先輩は「君の名は。」において重要な位置を占めている。

     しかし奥寺先輩という人物も、作り手のやりたいことのために動かされているように見える。

    好意

     奥寺先輩はまず、瀧に入れ替わった三葉が、切り裂かれたアルバイトの制服を刺繍でつくろったところをみて、「今日の君のほうがいいよ」と言っている。

     奥寺先輩は、刺繍のできる、「女子力高い」男性がいいと思ったのか? 三葉がいいと思ったのか? 恋愛感情なのか?

    デート

     瀧は奥寺先輩とデートをして、会話が続かないと言っている。うまくいかなかったようである。しかし何がうまくいかなかったのか、よくわからない。

     奥寺先輩は瀧にどういうことを望んでいたのか、瀧はどうして答えることができなかったのか、よくわからない。

     デートで寄った写真展で、瀧は思わず飛騨の写真に見入っていた。

     奥寺先輩は、写真に見入っている瀧を横から見て、表情を変えて、瀧に「今日は別人みたいだね」と言った。

     しかし、瀧がこの場面で写真展の写真に見入っていることから、瀧の奥寺先輩に対する気持ち、他の女性に対する気持ちを知ることはできないのではないか?

    帰り際

     帰り際に奥寺先輩は瀧に「昔私のことが好きだったでしょう」と言い、「今は他に好きな子がいるでしょう」と言った。

     この言葉もひっかかる。

     まず「昔私のことが好きだったでしょう」というのは、瀧が中身の時のことを言っているのか、三葉が中身の時のことを言っているのか、よくわからない。

     次に「今は他に好きな子がいるでしょう」と言うことについては、奥寺先輩がそういうことの根拠がわからない。

    三葉と奥寺先輩

     三葉が奥寺先輩に対してどう考えていたのか、ということも気になる。

     三葉は瀧のために奥寺先輩との関係を進めてあげているかのようなことを言っている。

     しかし瀧が奥寺先輩に好意を持っていたとしても、三葉がその関係を進めてはいけないのではないか?

     三葉のせいで瀧と奥寺先輩との関係は破綻している。(三葉なしでもうまくいかなかったかもしれないが、うまくいったかもしれない)

     思うに、奥寺先輩はこの映画で、瀧と三葉の二人が互いに相手のことを思うに至るまえの踏み台のような役割をしている。

     ただし登場人物それぞれが自然に動いて話を動かしているという感じにはなっていない。

     登場人物がその時々にどう考えて動いているのか、観客にはよくわからず、そもそもつじつまが合うように作られていないのではないかと思われる。

     そのことが私には気になる。

     たとえば、三葉が瀧と奥寺先輩のデートの日に突然涙を流すとか、

     また、突然奥寺先輩が瀧に「他に好きな子がいるでしょう」と言うとか、

     そこに至るまでの心の動きは十分に描かれていない。

     そういう場面が突然出てくるのである。

     しかしそうしてできた作品が歴史的な興行成績を上げたのであるから、多くの人の心に響いたわけである。

     前半はここまで。後半に続く↓


    「君の名は。」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組 (初回生産限定)
  • 【考察】新海誠監督と「天気の子」と「セカイ系」

    【考察】新海誠監督と「天気の子」と「セカイ系」

     「天気の子」は「セカイ系」ということとの関係で論じられることがある。

     「セカイ系」とは何か? 「天気の子」はその「セカイ系」とどういう関係にあるのか?


    「天気の子」Blu-rayスタンダード・エディション

    新海誠監督の考え

     新海誠監督はインタビューにおいて、自ら「天気の子」と「セカイ系」ということとの関係について語っている↓

    https://kai-you.net/article/66490

     新海誠監督自ら語ることをもとにして考えてみよう。

    セカイ系の定義

    Photo by Daniil Silantev on Unsplash

     新海誠監督はインタビューで、2000年代初頭に「セカイ系」が「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」ものと言われたことをとりあげている。

     新海誠監督がそこで「僕も『ほしのこえ』などでそういう作品をつくってきました」と語っているように、2002年に公開された新海誠監督の作品「ほしのこえ」は、そういう作品であった。「ほしのこえ」は「セカイ系」の代表とされた作品であった。

    考察

    「セカイ系」のもと

     セカイ系という言葉の定義の代表的なものとして、波状言論臨時増刊号「美少女ゲームの臨界点」に収められた「美少女ゲームの起源」の注69が挙げられている。

    ★69 セカイ系 主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。代表作は『ほしのこえ』『最終兵器彼女』(高橋しん、小学館)『イリヤの空、UFOの夏』(秋山瑞人、電撃文庫)など。

    「美少女ゲームの臨界点」、波状言論、2004年、64頁

    美少女ゲームの臨界点 波状言論 臨時増刊号

     2000年代初頭に「セカイ系」は「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」ものと言われたと新海誠監督が言うのは、このような定義のことをさしていると思われる。

     ところで、この定義は「セカイ系」の代表とされている新海誠監督自身の「ほしのこえ」にあてはまらない。―「ほしのこえ」では「世界の危機」とか「この世の終わり」とかいうことは問題とならない。

     「セカイ系」の代表とされた「ほしのこえ」にあてはまらない定義では役に立たない。特に新海誠監督の作品を考えるのに役に立たない。

     「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」(ソフトバンク新書、2010年)において前島賢氏は、「セカイ系」という言葉を提唱したウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の管理人による定義に戻ることを主張している。


    セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

     「ぷるにえブックマーク」の管理人による定義では、「セカイ系」とは「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」であって、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向」があるものとされていた。(同書、28頁)

     「一人語りの激しい」作品とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいうことは、「ほしのこえ」にあてはまる。

     そのように考えると、新海誠監督の作品のもとにあることを理解することができる。

     新海誠監督は「ほしのこえ」の後に「世界の運命を変えてしまう」という作品をも作る。しかし「ほしのこえ」から一貫して、「一人語りの激しい」とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいう作品を作ってきたということができるのである。

     「小説 天気の子」で須賀が主人公に次のように言っているところは、まさにそのことに関わることである。

    若い奴は勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めててもそこにはなんにもねえの。大事なことはぜんぶ外側にあるの。自分を見ねえで人を見ろよ。どんだけ自分が特別だと思ってんだよ

    「小説 天気の子」、284~285頁

     主人公が「自分の内側」に「大事なこと」があると考えること。そのことが新海誠監督の「セカイ系」のもとにあると考えることができる。

    社会

     「セカイ系」において社会が存在しない、ということもそのことから考えることができる。

     作品に社会が存在するということ、社会が描かれているということは、「外側」が描かれているということである。

     「セカイ系」は主人公の「内側」に「大事なこと」はあるとするものである。主人公の「内側」に「世界」はあるとするものである。そしてそのために「外側」を描かないのである。

    「天気の子」の場合

     「天気の子」も、「ほしのこえ」と同じように「一人語りの激しい」とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいう作品である。

     「天気の子」のはじめの「これは僕と彼女だけが知っている世界の秘密についての物語だ」というのはまさにそのことをあらわすものである。「秘密」という「内側」のことであるが、「世界の秘密」とされる。

     小説版で須賀が言うように、「天気の子」の主人公は「自分の内側」に「大事なこと」はあると考えて「だらだら眺め」ている。

     「天気の子」においては、ヒロインが犠牲になったという夢を信じて、それに対してヒロインを取り戻して「世界の形」を変えた、という主人公の「内側」のことが主題となっている。

    設定

    Photo by Athena from Pexels

     前島賢氏は、「セカイ系」において排除されているのは「社会や中間領域ではない」と言い、「これらの作品で排除されたのは「 世界設定」なのである」と語っている。(「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、101頁)

     新海誠監督の「ほしのこえ」は、「トップをねらえ!」と似ていると言われるが、前島賢氏は、設定に関して違うと言う。

    『トップをねらえ!』がまるで、それ自体が自己目的化したように、膨大な設定や引用、科学的考証を積み重ねた上で、物語を展開しているのに対し、『ほしのこえ』は「ふたりの遠距離恋愛」という主題のためだけに、ありとあらゆる要素が配置され、それ以外は潔く排除されているのである。

    「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、91~92頁

    設定の歴史

     前島賢氏は「セカイ系」において「世界設定」が排除されたことについて次のように歴史的に説明している。

     「新世紀エヴァンゲリオン」は、設定に関して画期的な作品であったという。

     「新世紀エヴァンゲリオン」の前半は、「世界設定」の謎が提示されて、解き明かされていく作品と思われた。

     ところが終盤、登場人物の「内面のみが描かれ」、「世界設定」は「一切、明かされないまま終わる」。

     そのことによって、前の世代のオタクには「欠落」のある作品と思われた。

     しかしその後に「新世紀エヴァンゲリオン」の後半のように、「内面のみが描かれ」、「世界設定」が明かされない作品が流行した。後の世代にはそういう作品が流行したのである。そしてそういう作品が「セカイ系」とよばれた、という。(「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、106~107頁)

     前島賢氏は、「新世紀エヴァンゲリオン」の前半まではオタクの間で流行していた、岡田斗司夫氏の「暗号を読み解く態度」とか大塚英志氏の「物語消費」とかいう「作品需要の態度」は「極めて奇形化していた」ものであって、それに対して「ほしのこえ」などは「素朴な物語への回帰」であったが、「かえって奇異なものとして捉えられた」という。(同書、109頁)

     そして「オタクたちの文化が「物語消費」から「データベース消費」に移行した」という東浩紀氏の分析をとりあげて、「『エヴァ』以前の作品=物語消費が、一個の作品の世界観をもとに、それらと整合性を保った上で一個の物語を作ろうとしていた(中略)のに対し、データベース消費においては、すべての作品が瞬時に要素要素に解体され、別の作品として出力されてくる」として、「ほしのこえ」をその代表として挙げている。(同書、110頁)

    設定と社会

     私の考えは前島賢氏の考えと違う。

     私は作品の「世界設定」ということを、社会との関係で考える。

     作品の「世界設定」が作り込まれているということは、他者が作り込まれているということだと考えるのである。他者も主人公と同じように尊重されるということだと考えるのである。他者も主人公と同じように尊重されるということは、社会が描かれているということである。

     たとえば「機動戦士ガンダム」は設定が作り込まれた作品であるが、そのことは他者も主人公と同じように尊重されることと関係があると考えるのである。

     それに対して「新世紀エヴァンゲリオン」の後半で、「世界設定」が明かされず、登場人物の「内面」だけが描かれたことは、他者が主人公と同じように尊重されていないことだということができる。

     「新世紀エヴァンゲリオン」の後半の影響を受けた「セカイ系」においても、主人公の「内面」を重んじて、その「外側」にいる他者を重んじないゆえに「世界設定」も作り込まれないということができる。

     このように考えると、前島賢氏がそれまでの「作品需要の態度」は「極めて奇形化していた」ものであって、それに対して「ほしのこえ」などは「素朴な物語への回帰」であったというのと逆に、「ほしのこえ」などの「セカイ系」の作品は、他者を尊重せず、「世界設定」を作り込まないという一種の「奇形化」した作品だということができる。

    「天気の子」の場合

     「天気の子」の場合、「晴れ女」をめぐる設定が作り込まれていないところが代表的である。

     そのことは下の記事で指摘した↓

     上の記事で指摘した様々な「つっこみどころ」は、「天気の子」が社会を軽んじ、設定を軽んじていることから出て来ているということもできる。

     「天気の子」は「内側」を重んじて社会を軽んずる。それゆえに、主人公を取り囲む人々も、その観点からゆがんだかたちで描かれる。ヒロインもそうである。主人公も、その過去が描かれないように、ゆがんだかたちで描かれる。

    「天気の子」で描かれた「社会」

     「天気の子」には、それまでの新海誠監督の作品とは異なることがあるとは、新海誠監督自ら語るところである。

     「天気の子」では社会が描かれていると新海誠監督は自ら語っている。

    主人公と「社会」の対立

     第一に、主人公と対立するものとして「社会」は描かれているという。

    僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。

    新海誠『天気の子』インタビュー後編 ”運命”への価値観「どこかに別の自分がいるような」

     「デフォルメされたものであったとしても「警察」がずっと出て来る」ということはそのことと関係あることであろう。

     新海誠監督は「天気の子」で主人公と社会の対立を描いた理由を聞かれて、「『君の名は。』がすごく批判を受けた」ことを挙げている。そこで「全く僕が思っていたことと違う届き方をしてしまう」と思ったという。そして「むしろ「もっと叱られる映画にしたい」」、「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」と思ったという。

    https://news.yahoo.co.jp/feature/1389

     どういうことであろうか?

     「君の名は。」は、「内側」に「大事なこと」はあるという「セカイ系」の作品であった。そしてそのために批判を受けた。

     そこで新海誠監督は、「天気の子」の中に「内側」に「大事なこと」はあるという主人公と、そういう主人公を批判する「大人」と、その両者を出して、対立するところを描いた。

     「小説 天気の子」で須賀が「大事なことはぜんぶ外側にある」というのは、「内側」に「大事なこと」はあるという「セカイ系」と対立することである。ただし須賀自身は両者の中間にある存在である。主人公と対立するのは「警察」である。

     「セカイ系」と対立するものが作品の中に取り入れられたということでは、これまでの「セカイ系」と違うということができるが、それにもかかわらず「セカイ系」を貫いたということもできる。

     また「主人公たちは「お天気ビジネス」を通して様々な人と出会い、働いてお金を得ようとする」ということでも「社会」は描かれているという。

    時代の変化

     「天気の子」で「社会」が描かれていることは、時代の変化と関係があると新海誠監督はいう。

     新海誠監督は自身の「ほしのこえ」などの作品に「社会」が存在しないことについて、「2000年代初頭は「社会」の存在感が薄い時期で、それを意識する必要がなかったからだと思う」と語っている。

     「リーマンショックや3.11よりも以前」には「このまま終わりなき日常が続く」という気分が「みんなの中にあったと思う」というのである。そういう「空気感」があったというのである。

     ところが「リーマンショックや3.11」以後に「僕がどうこうというよりもみんなにとって「かつてのように社会が無条件に存在し続けると思えなくなってきている」「社会そのものが危うくなってきている」という感覚がある」ゆえに、「天気の子」では「社会」が描かれるようになったというのである。

     「社会」が問題として感じられるようになってきたということには二つあるようである。

    不自由

     一つは「世の中がだんだん不自由になってきている感覚」である。これは上でとりあげた「セカイ系」と対立するものと関係があるのではないか。

    天候の変化

     もう一つは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」という感じである。「猛暑が続いたりゲリラ豪雨が当たり前になったりする」ことである。

     これに対しては「そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました。」と新海誠監督は語っている。

     ただし「「最悪の開き直り」「最悪の現状肯定」のように思われる危険がある映画だというのは思っていました」とも言っている。


    「天気の子」Blu-rayコレクターズ・エディション 4K Ultra HD Blu-ray同梱5枚組【初回生産限定】