【考察】新海誠監督と「天気の子」と「セカイ系」

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新海誠
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 「天気の子」は「セカイ系」ということとの関係で論じられることがある。

 「セカイ系」とは何か? 「天気の子」はその「セカイ系」とどういう関係にあるのか?


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新海誠監督の考え

 新海誠監督はインタビューにおいて、自ら「天気の子」と「セカイ系」ということとの関係について語っている↓

 新海誠監督自ら語ることをもとにして考えてみよう。

セカイ系の定義

Photo by Daniil Silantev on Unsplash

 新海誠監督はインタビューで、2000年代初頭に「セカイ系」が「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」ものと言われたことをとりあげている。

 新海誠監督がそこで「僕も『ほしのこえ』などでそういう作品をつくってきました」と語っているように、2002年に公開された新海誠監督の作品「ほしのこえ」は、そういう作品であった。「ほしのこえ」は「セカイ系」の代表とされた作品であった。

考察

「セカイ系」のもと

 セカイ系という言葉の定義の代表的なものとして、波状言論臨時増刊号「美少女ゲームの臨界点」に収められた「美少女ゲームの起源」の注69が挙げられている。

★69 セカイ系 主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。代表作は『ほしのこえ』『最終兵器彼女』(高橋しん、小学館)『イリヤの空、UFOの夏』(秋山瑞人、電撃文庫)など。

「美少女ゲームの臨界点」、波状言論、2004年、64頁

美少女ゲームの臨界点 波状言論 臨時増刊号

 2000年代初頭に「セカイ系」は「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」ものと言われたと新海誠監督が言うのは、このような定義のことをさしていると思われる。

 ところで、この定義は「セカイ系」の代表とされている新海誠監督自身の「ほしのこえ」にあてはまらない。―「ほしのこえ」では「世界の危機」とか「この世の終わり」とかいうことは問題とならない。

 「セカイ系」の代表とされた「ほしのこえ」にあてはまらない定義では役に立たない。特に新海誠監督の作品を考えるのに役に立たない。

 「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」(ソフトバンク新書、2010年)において前島賢氏は、「セカイ系」という言葉を提唱したウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の管理人による定義に戻ることを主張している。


セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

 「ぷるにえブックマーク」の管理人による定義では、「セカイ系」とは「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」であって、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向」があるものとされていた。(同書、28頁)

 「一人語りの激しい」作品とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいうことは、「ほしのこえ」にあてはまる。

 そのように考えると、新海誠監督の作品のもとにあることを理解することができる。

 新海誠監督は「ほしのこえ」の後に「世界の運命を変えてしまう」という作品をも作る。しかし「ほしのこえ」から一貫して、「一人語りの激しい」とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいう作品を作ってきたということができるのである。

 「小説 天気の子」で須賀が主人公に次のように言っているところは、まさにそのことに関わることである。

若い奴は勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めててもそこにはなんにもねえの。大事なことはぜんぶ外側にあるの。自分を見ねえで人を見ろよ。どんだけ自分が特別だと思ってんだよ

「小説 天気の子」、284~285頁

 主人公が「自分の内側」に「大事なこと」があると考えること。そのことが新海誠監督の「セカイ系」のもとにあると考えることができる。

社会

 「セカイ系」において社会が存在しない、ということもそのことから考えることができる。

 作品に社会が存在するということ、社会が描かれているということは、「外側」が描かれているということである。

 「セカイ系」は主人公の「内側」に「大事なこと」はあるとするものである。主人公の「内側」に「世界」はあるとするものである。そしてそのために「外側」を描かないのである。

「天気の子」の場合

 「天気の子」も、「ほしのこえ」と同じように「一人語りの激しい」とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいう作品である。

 「天気の子」のはじめの「これは僕と彼女だけが知っている世界の秘密についての物語だ」というのはまさにそのことをあらわすものである。「秘密」という「内側」のことであるが、「世界の秘密」とされる。

 小説版で須賀が言うように、「天気の子」の主人公は「自分の内側」に「大事なこと」はあると考えて「だらだら眺め」ている。

 「天気の子」においては、ヒロインが犠牲になったという夢を信じて、それに対してヒロインを取り戻して「世界の形」を変えた、という主人公の「内側」のことが主題となっている。

設定

Photo by Athena from Pexels

 前島賢氏は、「セカイ系」において排除されているのは「社会や中間領域ではない」と言い、「これらの作品で排除されたのは「 世界設定」なのである」と語っている。(「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、101頁)

 新海誠監督の「ほしのこえ」は、「トップをねらえ!」と似ていると言われるが、前島賢氏は、設定に関して違うと言う。

『トップをねらえ!』がまるで、それ自体が自己目的化したように、膨大な設定や引用、科学的考証を積み重ねた上で、物語を展開しているのに対し、『ほしのこえ』は「ふたりの遠距離恋愛」という主題のためだけに、ありとあらゆる要素が配置され、それ以外は潔く排除されているのである。

「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、91~92頁

設定の歴史

 前島賢氏は「セカイ系」において「世界設定」が排除されたことについて次のように歴史的に説明している。

 「新世紀エヴァンゲリオン」は、設定に関して画期的な作品であったという。

 「新世紀エヴァンゲリオン」の前半は、「世界設定」の謎が提示されて、解き明かされていく作品と思われた。

 ところが終盤、登場人物の「内面のみが描かれ」、「世界設定」は「一切、明かされないまま終わる」。

 そのことによって、前の世代のオタクには「欠落」のある作品と思われた。

 しかしその後に「新世紀エヴァンゲリオン」の後半のように、「内面のみが描かれ」、「世界設定」が明かされない作品が流行した。後の世代にはそういう作品が流行したのである。そしてそういう作品が「セカイ系」とよばれた、という。(「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、106~107頁)

 前島賢氏は、「新世紀エヴァンゲリオン」の前半まではオタクの間で流行していた、岡田斗司夫氏の「暗号を読み解く態度」とか大塚英志氏の「物語消費」とかいう「作品需要の態度」は「極めて奇形化していた」ものであって、それに対して「ほしのこえ」などは「素朴な物語への回帰」であったが、「かえって奇異なものとして捉えられた」という。(同書、109頁)

 そして「オタクたちの文化が「物語消費」から「データベース消費」に移行した」という東浩紀氏の分析をとりあげて、「『エヴァ』以前の作品=物語消費が、一個の作品の世界観をもとに、それらと整合性を保った上で一個の物語を作ろうとしていた(中略)のに対し、データベース消費においては、すべての作品が瞬時に要素要素に解体され、別の作品として出力されてくる」として、「ほしのこえ」をその代表として挙げている。(同書、110頁)

設定と社会

 私の考えは前島賢氏の考えと違う。

 私は作品の「世界設定」ということを、社会との関係で考える。

 作品の「世界設定」が作り込まれているということは、他者が作り込まれているということだと考えるのである。他者も主人公と同じように尊重されるということだと考えるのである。他者も主人公と同じように尊重されるということは、社会が描かれているということである。

 たとえば「機動戦士ガンダム」は設定が作り込まれた作品であるが、そのことは他者も主人公と同じように尊重されることと関係があると考えるのである。

 それに対して「新世紀エヴァンゲリオン」の後半で、「世界設定」が明かされず、登場人物の「内面」だけが描かれたことは、他者が主人公と同じように尊重されていないことだということができる。

 「新世紀エヴァンゲリオン」の後半の影響を受けた「セカイ系」においても、主人公の「内面」を重んじて、その「外側」にいる他者を重んじないゆえに「世界設定」も作り込まれないということができる。

 このように考えると、前島賢氏がそれまでの「作品需要の態度」は「極めて奇形化していた」ものであって、それに対して「ほしのこえ」などは「素朴な物語への回帰」であったというのと逆に、「ほしのこえ」などの「セカイ系」の作品は、他者を尊重せず、「世界設定」を作り込まないという一種の「奇形化」した作品だということができる。

「天気の子」の場合

 「天気の子」の場合、「晴れ女」をめぐる設定が作り込まれていないところが代表的である。

 そのことは下の記事で指摘した↓

 上の記事で指摘した様々な「つっこみどころ」は、「天気の子」が社会を軽んじ、設定を軽んじていることから出て来ているということもできる。

 「天気の子」は「内側」を重んじて社会を軽んずる。それゆえに、主人公を取り囲む人々も、その観点からゆがんだかたちで描かれる。ヒロインもそうである。主人公も、その過去が描かれないように、ゆがんだかたちで描かれる。

「天気の子」で描かれた「社会」

 「天気の子」には、それまでの新海誠監督の作品とは異なることがあるとは、新海誠監督自ら語るところである。

 「天気の子」では社会が描かれていると新海誠監督は自ら語っている。

主人公と「社会」の対立

 第一に、主人公と対立するものとして「社会」は描かれているという。

僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。

新海誠『天気の子』インタビュー後編 ”運命”への価値観「どこかに別の自分がいるような」

 「デフォルメされたものであったとしても「警察」がずっと出て来る」ということはそのことと関係あることであろう。

 新海誠監督は「天気の子」で主人公と社会の対立を描いた理由を聞かれて、「『君の名は。』がすごく批判を受けた」ことを挙げている。そこで「全く僕が思っていたことと違う届き方をしてしまう」と思ったという。そして「むしろ「もっと叱られる映画にしたい」」、「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」と思ったという。

 どういうことであろうか?

 「君の名は。」は、「内側」に「大事なこと」はあるという「セカイ系」の作品であった。そしてそのために批判を受けた。

 そこで新海誠監督は、「天気の子」の中に「内側」に「大事なこと」はあるという主人公と、そういう主人公を批判する「大人」と、その両者を出して、対立するところを描いた。

 「小説 天気の子」で須賀が「大事なことはぜんぶ外側にある」というのは、「内側」に「大事なこと」はあるという「セカイ系」と対立することである。ただし須賀自身は両者の中間にある存在である。主人公と対立するのは「警察」である。

 「セカイ系」と対立するものが作品の中に取り入れられたということでは、これまでの「セカイ系」と違うということができるが、それにもかかわらず「セカイ系」を貫いたということもできる。

 また「主人公たちは「お天気ビジネス」を通して様々な人と出会い、働いてお金を得ようとする」ということでも「社会」は描かれているという。

時代の変化

 「天気の子」で「社会」が描かれていることは、時代の変化と関係があると新海誠監督はいう。

 新海誠監督は自身の「ほしのこえ」などの作品に「社会」が存在しないことについて、「2000年代初頭は「社会」の存在感が薄い時期で、それを意識する必要がなかったからだと思う」と語っている。

 「リーマンショックや3.11よりも以前」には「このまま終わりなき日常が続く」という気分が「みんなの中にあったと思う」というのである。そういう「空気感」があったというのである。

 ところが「リーマンショックや3.11」以後に「僕がどうこうというよりもみんなにとって「かつてのように社会が無条件に存在し続けると思えなくなってきている」「社会そのものが危うくなってきている」という感覚がある」ゆえに、「天気の子」では「社会」が描かれるようになったというのである。

 「社会」が問題として感じられるようになってきたということには二つあるようである。

不自由

 一つは「世の中がだんだん不自由になってきている感覚」である。これは上でとりあげた「セカイ系」と対立するものと関係があるのではないか。

天候の変化

 もう一つは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」という感じである。「猛暑が続いたりゲリラ豪雨が当たり前になったりする」ことである。

 これに対しては「そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました。」と新海誠監督は語っている。

 ただし「「最悪の開き直り」「最悪の現状肯定」のように思われる危険がある映画だというのは思っていました」とも言っている。


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