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「こころみ」ということ

「こころみ」とはどういうことか?
竹取物語
「こころみ」という言葉の最も古いのは「竹取物語」にあるものと言われている。
「竹取物語」は、「源氏物語」の「繪合」の巻に「物語の出來はじめの親」と言われているものである。

かぐや姫は、求婚する五人の男性に対して珍しいものをもってくることを求めた。その中で、「右大臣あべのみむらじ」に対しては「唐土にある火鼠の皮衣」を求めた。
右大臣は金青の色の「皮衣」をもって来て、かぐや姫に見せた。
それに対してかぐや姫は次のように言った。
これを燒きて心みん
岩波文庫「竹取物語」、1970年、28頁
焼いて見ると、「めらめらと燒け」た。そこで「異物の皮」だということになった。(同、28頁)

竹取物語 (岩波文庫)
そこで「こころみる」という言葉は、今と同じように、「やってみる」という意味で使われているように見える。
ただし、心を見るという意味と考えることもできる。
そもそもかぐや姫が五人の男性に珍しいものを求めたのは、「深き心ざしを知らでは、あひがたし」と思ったからである。かぐや姫は、珍しいものによって、相手の心を知ろうと考えていたのである。
いずれにせよ、焼いて「こころみる」ことによって、その「皮衣」は「まこと」でなく「いつわり」であることが明らかになった。
「こころみる」ことによって、「いつわり」が明らかになる。
「こころみる」ことによって、自分の正しくなかったことが明らかになる。自分の正しくなかったことを知ることは苦しいことでもある。しかしそのことによって正しくなっていくこともできる。
モンテーニュ
モンテーニュMontaigneは「エッセーLES ESSAIS」という著書によって有名である。
エッセーessaiというフランス語には「こころみ」という意味がある。essayerという動詞は「こころみる」ことをあらわす。
モンテーニュの「エッセー」は、モンテーニュの「こころみ」である。
モンテーニュは「エッセー」のはじめに、読者に向けた言葉において、自分自身がその「エッセー」の対象だと語っている。
私も私にとどまることしかできない。「こころみる」ことによって、私を掘り下げることによって進むほかない。

Les Essais: édition originale et intégrale (French Edition)