新海誠監督の映画「君の名は。」の気になるところについて一つ一つとりあげて考えてみる。
今回は後半。
前半↓
そして新海誠監督の意図について考えてみる。
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探す旅
瀧が三葉の住むところに行くところ。
同行者
瀧は一人で行くつもりであった。
ところが東京駅には友人の司と奥寺先輩が待っていて、瀧について行くという。
これもおかしいと思う。
特に奥寺先輩がついていくというのはおかしくないか? すでに司と親しくなっていたということかもしれないが、それまでの奥寺先輩と違う性格になったように見える。
瀧を心配しているということであろうが、そのために瀧の考えを無視して旅についていくのはどうなのか?
そもそも瀧の考えを二人はどのくらい知っていたのであろうか?
知っていたのでなくては、瀧のことを配慮することはできないであろう。
しかし入れ替わりのことは二人には理解できないのではないか?
しかしそうだとすると、瀧は二人に旅の目的をどう説明したのか? 二人はそのことを聞いてどう理解したのか?
思うに、新海誠監督は瀧の旅を途中まで明るいものにするために、司と奥寺先輩がついてくることにしたのであろう。瀧一人では「秒速5センチメートル」のように暗くなったかもしれない。旅を途中まで明るいものにすることで、その後に起こることが際立つ。
二人は旅を明るいものにするという目的のためにに生かされているが、その内面は作りこまれていないように見える。そのことは、旅の目的が共有しがたいものであることからも気になる。
絵
瀧はその旅に出るまでに、記憶の中にある三葉の住んでいた町の風景を絵に描いていて、その絵を持って行って、三葉の住んでいた町を探そうとしている。
しかし飛騨と限定されていて、あれだけ珍しい地形であるのに、ラーメン屋に行くまでわからないということがあるだろうか?
瀧は奥寺先輩とのデートの時に写真展の飛騨のところで何かを感じていたのに、その写真展に問い合わせないのか?
景色の記憶のほかに、「糸守」という地名のような言葉の記憶はないのだろうか?
飛騨のことを調べているのに、糸守のことにつきあたらなかったのか?
ここでも、登場人物が自分で動いて話を進めるのではなくて、それぞれの場面のために登場人物は動かされていると考えることができる。
「君の名は。」の作り手は、瀧が薄れた記憶をもとにして絵を描いて、その絵をもとにして飛騨で聞き込みをして、手がかりが得られず帰ろうとしたところではじめて3年前のことを知る、というかたちをとった。
瀧が三葉の記憶に近づくということを、旅行での苦労というかたちで表現したかったのではないか。
そして3年前のことを知った時の衝撃を強くしようとしたのではないか。
瀧は技術的には、東京の自宅にいる間に衝撃の事実を知ることもできたであろう。
しかしそういう話にしなかった。
そのために瀧の記憶は景色だけとされて、言葉の記憶はラーメン屋の店主に言われるまで思い出さないことにされた。
日記が消える
瀧が三葉の住んでいた町に来てみると、町は隕石によって出来た湖に飲み込まれていた。
そこで三葉の言葉が残っているはずの日記を見ると、言葉が残っていたが、みるみるうちに文字化けして消えて行った。
ここは筋が通らないところである。
その時まで日記は消えずにいて、その時に消えるということはどういう規則によるのか?
ここまであると思っていたことが突然なかったと知った気持ちを、日記が消えるというかたちで表現しているのであろう。
3年のずれ
入れ替わりが3年を隔てた間で起こっていたと知るところは、起承転結の転にあたるところ。
それまで明るく楽し気に進んでいた話が突然暗い断絶に直面して、作品に深みが加わり、観客の心をひく。
しかしここは多くの人につっこまれるところでもある。
瀧も三葉もそれまで入れ替わるたびにそれぞれ3年違う世界で一日過ごしていたにもかかわらず、互いにそのことに全く気付いていなかった。
そういうことはありえないのではないか?
3年違う世界で、もとの世界と3年違うことを意識せずに一日過ごすことができるであろうか?
三葉の家でテレビを見ている場面が何度かあるが、3年違えばその内容も違うであろう。
特にテレビで彗星のニュースが繰り返す出てくるが、瀧がそのことを全く気にしないのはおかしい。
二人はそれぞれ高校生としてそれぞれの友人と会話しているが、その中で3年の違いに気づかずにいられるであろうか?
「君の名は。」が公開されたころにはリオ五輪が開かれていて(2016年8月5日~21日)、高校生がオリンピックについて話さないはずがないと私は思っていた。
(「君の名は。」では、糸守町に彗星が落ちたのは2013年10月4日とされている)
救出作戦
瀧が目を覚ますと、彗星が落ちる前の三葉に入れ替わっていた。
そこで瀧は糸守の町の人を彗星から救うために走り出す。
しかし町の人は瀧の言うことを聞かない。
祖母
瀧はまず、三葉の家にいる祖母に彗星が落ちるというが、祖母は信じない。
三葉の祖母は、その前に瀧が三葉と入れ替わっていることに気づいたりしているが、彗星が落ちることは信じない。
要するに祖母は一度入れ替わりを経験していて、しかし今では忘れているというのであるが、そうだとしても、彗星のことを全く信じないのはおかしいのではないか?
同級生
瀧は高校の教室に行って彗星が落ちるという。
そこで突然画面が変わって、勅使河原、早耶香の二人が瀧とともに町の人を彗星から救うことを考えるという話になっている。
つまりその二人の外はそのことを信じなかったということである。
ここも気になる。
同級生を説得することは容易でないと思うが、しかし二人を説得できたのであれば、その他の何人か説得できてもいいのではないか?
おそらく、新海誠監督にとっては、瀧と三葉が重要であって、その二人を支える存在として、勅使河原、早耶香の二人がいればいいということであろう。
三葉の父
三葉の父の町長が、瀧が彗星が落ちると言っても受け入れないことは、しかたがないことではある。
しかし全く受け入れない
そして三葉に入れ替わった瀧に対して「お前は誰だ」と言った。
ここで三葉の父が全く受け入れないことも、これまでのことと同じように違和感がある。
「おまえは誰だ」と言って話を切っているところにも違和感がある。
三葉の東京行き
瀧が奥寺先輩とデートした日、三葉は東京に行っていた。
三葉は妹の四葉に「ちょっと東京に行ってくる」と言って、新幹線で東京に行っている。
金銭感覚
高校生が「ちょっと東京に行ってくる」と言って新幹線で東京に行くということが気になる。
高校生にとって、それもアルバイトをしていない高校生にとって、飛騨から東京まで新幹線で往復する費用は、「ちょっと」ではないのではないか?
しかもこの場合、東京に行って何をするかよくわかっていないようである。
また、そういうことができるのに、何故に今までしようとしなかったのか? ということも気になる。
入れ替わりをどうすべきかという問題はそれだけ大きな問題だと私は思う。
ここでは、三葉の瀧に対する気持ちがそれだけ高まっていたと受け取るべきなのであろう。
出会い方
三葉は東京に着いてから、電車に乗ったり、歩いたり、バスに乗ったりしている。
そうして夕方に代々木駅に来た電車に乗っている瀧を見つけたということになっている。
東京で人を探すことの苦労を描いているようである。
しかしそのようにあてもなく探しまわっても見つかるはずがないと私は思ってしまう。
飛騨にその日のうちに帰らなくてはならないことを考えると、時間がないと思ってしまう。
その後で偶然瀧に出会えたことは都合がよすぎると思ってしまう。
四谷の待ち合わせのことを考えてそのあたりに行くとか、記憶をたどって瀧の高校や瀧の家に行くとかすべきではないか?
組紐
三葉が瀧に組紐を渡すところはこの映画の大事なところである。
しかし相手から「誰? お前」と突き放すようなことを言われているのに、呼び止められたからといって、電車から降りながら組紐を渡そうと思うだろうか?
相手は受け取らないかもしれないではないか。
二人が離れる動きの中で組紐を渡す絵がいいということであろうか?
まず、中学生の瀧が、まだ知らないとはいえ、三葉に話しかけられて、あのようにただつきはなしていることには違和感がある。
瀧が電車から降りる三葉を突然呼び止める気持ちもわからない。
あのように三葉から組紐を差し出されると、受け取らざるをえないとも思うが、それから3年、その組紐を手首に巻いていて、そうしながら誰からもらったか忘れたということはおかしい。
出会い
三葉に入れ替わった瀧は、三葉に会うために山の上に行く。
このあたりにも気になることが多い。
三葉に会いに行くこと
瀧は、三葉の父を説得することに失敗した後、「三葉なら説得できたのか?」と考え始める。
そして山の上を見て、「そこにいるのか?」とつぶやいて、勅使河原の自転車でその方へ行っている。
このあたりは映画館で観てついていけなかったところである。
第一に、「三葉なら説得できたのか?」と考えることについていけない。
町の人を彗星から救うという目的のために三葉の父の町長を説得しようとしている時に、「三葉なら説得できたのか?」と思うであろうか?
第二に、瀧がどうして山の上を見て、「そこにいるのか?」と思うことができたのか、よくわからない。
ここでの瀧には糸守の町の人を彗星から救うという大きな目的があるゆえに、その目的と関係がないように見えることが気になるのである。
山の上
3年前の三葉に入れ替わった瀧と、3年後の瀧に入れ替わった三葉は、山の上で出会う。
このあたりは映画館で観た時に感動している人もいた。
しかし私はどういう理屈で出会うことできているのか理解できず、話についていくことで精一杯で、感動どころではなかった。
瀧は3年前(2013年)の三葉と入れ替わって3年前の山の上に来ているのに、そこでどうして3年後(2016年)の瀧と入れ替わって3年後の山の上に来た三葉と会うことができるのか?
小説版では、はじめに声だけが聞こえた時に瀧が次のように独白している。
この声が―俺の声が、三葉の声が、現実の空気を震わせているのか、それとも魂のような部分にだけ響いているのか、俺にはよく分からない。俺たちは同じ場所にいても、三年ずれているはずだから。
「小説 君の名は。」、194~195頁
瀧も理屈はわからないという。
しかし瀧が山の上に来たのは、そこで三葉と出会うことができると考えたからにちがいない。
どうして瀧はそう考えることができたのか?
黄昏の時に、瀧と三葉は互いに相手の姿を見ることができるようになった。そしてそれぞれ元の体に戻っていた。
そうなる理屈もわからない。
時間の問題
「君の名は。」では時間を超えた入れ替わり、そして時間を超えた出会いが起こる。
それゆえに気になるところがある。
三葉の死
瀧が口嚙み酒を飲んで三葉と入れ替わったのは、彗星が糸守に落ちる前である。
口嚙み酒のところで倒れていた瀧に入れ替わった三葉は、彗星が糸守に落ちる前の三葉である。
ところが瀧に入れ替わった三葉は、彗星が糸守に落ちて、自身が死んだ記憶を持っている。
どういうことであろうか?
三葉が入れ替わった3年後の瀧の体は、彗星が糸守に落ちた後の体であって、彗星が落ちたという事実、そしてその中にあった三葉の死という事実が織り込まれていて、入れ替わった三葉もその記憶をもつことになった、ということであろうか?
記憶
はじめの話では、彗星が糸守に落ちて、三葉も町の人500人もそのために亡くなることになっていた。
ところが入れ替わりが起こって、彗星のことを知っていた瀧が3年後の世界から来て、彗星が落ちる前の世界にはたらきかけた。
そして一度3年後の瀧と入れ替わって彗星のことを知った三葉も、3年前の世界に帰ってはたらきかけた。
その結果、彗星は糸守に落ちるが、三葉も町の人500人も亡くならないことになった。
三葉にも、瀧にも、三葉を含めた500人の町の人が亡くなったという事実はなくなったのである。
2人が彗星によって人が亡くなることを知って、そのことから町を救うために奔走したという記憶もなくなる。
2人は別れて間もなくそれまで2人でやってきたことを忘れていく。
名前
「君の名は。」では、2人がそれまでの記憶をなくしていくことを、相手の名前の記憶をなくしていくというかたちに集約して表現している。
気になる
2人がそれまでの記憶がなくしていくことを、相手の名前の記憶をなくしていくというかたちに集約して表現していることは、理屈としては理解できる。
しかし私は映画を観ていて気になった。
2人は相手の名前をおぼえていること、おぼえていないことを問題としているが、2人にとっては相手の名前より、相手についての記憶が重要ではないか、と思ってしまうのである。
三葉が糸守の町の人を救うために走っている途中で、瀧の名前を忘れたことを問題としているところをみると、脇道にそれているように見えてしまう。
救う
瀧と別れた三葉は、町の人を救うために山を下って行く。
ここで、まず早耶香の防災無線乗っ取りが失敗し、次に勅使河原も親につかまってしまった後で、三葉が父のところへ行って正面から見据える、そして彗星が落ちて町が燃える、というところで途切れる。
そして8年後の瀧の話で、偶然その日に町を挙げての避難訓練があって、町民は助かったということになっている。
気になる
映画を観ていて物足りなく感じたところ。
過程が描かれていない
どうして町民が助かったのかが描かれずに、素材と結果だけ並べられて助かったと言われても、物足りない。
新海誠監督にとっては、どうでもいいところであったかもしれない。
しかしどうやって彗星から町の人を救うかということで観客をひっぱってきたのに、その救うところが描かれていないのでは、物足りないと言われても仕方がない。
バランス
彗星のことを知った瀧は、もう一度三葉に入れ替わって、勅使河原、早耶香とともに、作戦を立てた。
しかし瀧は三葉の父を説得できずに、なぜか三葉と出会うために山の上に行く。
そして自分の体に戻った三葉は、勅使河原、早耶香とともに作戦を実行に移すが、早耶香も勅使河原も大人につかまってしまう。
一方で、彗星が落ちる時が迫っているのに、他方で、町の人を救うための三葉等の作戦は成功から遠ざかっていく。
緊迫感を強調するためにそのように描いたのかもしれないが、それだけ追い込まれた状況を見せられると、その状況からどうやって町の人を救うところまで持っていくことができたのか、見たくなるのである。
いつも誰かを探している
記憶を失う
瀧は三葉と別れた後、記憶を失っていく。
そのことは理解できるのであるが、細部が気になる。
瀧は記憶を失って山の上で目を覚ましたというが、そのようなことがあって記憶を失っただけですませるだろうか?
飛騨に司、奥寺先輩と旅して、別れて帰ってきたことまでおぼえているのに、その先のことはぼんやりとしかおぼえていないですませるだろうか?
すれ違い
記憶を失った瀧はいつも誰かを探している。
そして同じく記憶を失った三葉もいつも誰かを探している。
2人はすれ違いを繰り返す。
このあたりは「秒速5センチメートル」を踏まえているようである。
東京のビルに降る雪の下を瀧が歩くところ。女性とすれちがってハッとする。左手をポケットに入れている。そして振り返ってみる。
「君の名は。」と「秒速5センチメートル」
「秒速5センチメートル」では、振り返った先に相手の女性はいなかった。
「君の名は。」では、互いに相手を求めていて、結局言葉を交わすことができた。
新海誠監督は「君の名は。」について次のように語っている。
人生には出会うべき相手がいるというテーマ、つまり「運命の人って、いるんだよ」ということですよね。それを、もう少し長い物語で描きたいと思ったのが最初のきっかけですね。
『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~
両作品の違いはそのことにあるということができる。
夢
「君の名は。」においては、夢が重要な意味を持っている。
新海誠監督は「君の名は。」のもとになったことについて次のように語っている。
『君の名は。』大ヒットの理由を新海誠監督が自ら読み解く(上)
瀧、三葉の2人が夢に対して同じように感じている。
「君の名は。」において、夢は母胎のように現れている。
小説版のはじめには、目が覚める前の状態について次のように言われている。
私は大切なだれかと隙間なくぴったりとくっついている。分かちがたく結びついている。乳房に抱かれた乳呑み児の頃のように、不安や寂しさなんてかけらもない。
「小説 君の名は。」、6頁
映画中盤で瀧は口嚙み酒を飲んだ後に、彗星の映像が、へその緒を切る映像につながるところをみている。
2人は同じように失われた夢を追い求めて、そうしてついに出会うのである。
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