江川紹子氏の安倍首相の休校要請に関する記者会見に対する批判

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 2020年2月29日に安倍晋三首相が新型コロナウイルスに関して記者会見を行なった。その記者会見に対して、江川紹子氏が批判した。マスメディア、野党はそれに追随した。

 そこで現れた現在の日本の左翼、マスメディアのおかしな姿を見て、私は衝撃を受けた。

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2月29日の安倍首相の記者会見

 2020年2月29日の安倍晋三首相の記者会見の様子は、首相官邸ホームページに、動画として、文字に起こされたものとして、のこされている。

 安倍首相は、「これから1、2週間が、急速な拡大に進むか、終息できるかの瀬戸際となる」という専門家の見解をふまえて、「今からの2週間程度、国内の感染拡大を防止するため、あらゆる手を尽くすべきである」と考えたという。「多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベントについては、中止、延期又は規模縮小などの対応を要請いたします」といい、「全国すべての小学校、中学校、高等学校、特別支援学校について、来週月曜日から春休みに入るまで、臨時休業を行うよう要請いたしました」というのはそのためだというのである。

 そして、経済財政政策、医療体制の構築についても語っている。

 この記者会見は、その数日前に行われたイベント・学校に対する要請について説明するものであった。その説明は次の通りである。

 安倍首相は新型コロナウイルスについて、「未知の部分」の多いものととらえていた。

今回のウイルスについては、いまだ未知の部分がたくさんあります。よく見えない、よく分からない敵との闘いは容易なものではありません。

首相官邸ホームページ

 そしてそれに対して「危機にあっては、常に最悪の事態を想定し、あらかじめ備えることが重要です」と考えていた。「あらゆる可能性を想定し、国民生活への影響を最小とする」ことを考えていた。

 イベントに対する要請、一斉休校の要請は、そういう考えからなされていたのである。

 安倍首相はそのために国民に対して協力をよびかけている。

率直に申し上げて、政府の力だけでこの闘いに勝利を収めることはできません。最終的な終息に向けては、医療機関、御家庭、企業、自治体を始め、一人一人の国民の皆さんの御理解と御協力が欠かせません。

首相官邸ホームページ

安倍首相の会見に対する私の感想

 私は2月のはじめころまで、新型コロナウイルスについて、それほど大きなこととは思っていなかった。

 しかし2月のうちに、このウイルスの脅威を論ずる記事を読んだり、動画を見たりして、このウイルスは大変なものだと考えるに至っていた。

 2月29日に安倍首相の記者会見を聞いて、安倍首相も本腰をいれたか、と私は思った。 

 これから日本国民は新型コロナウイルスという共通の敵に対して、協同して立ち向かっていくだろう、と思った。

YAHOOニュース

 安倍首相の会見の翌日、YAHOOニュースをみると、トップに安倍首相の記者会見を批判する記事が並んでいた。

 今YAHOOニュースを検索してみると、次のような記事が並んでいる。

 3月2日以降にもそういう記事が並んでいる。

 いずれも、江川紹子氏による批判をとりあげている。江川紹子氏は安倍首相の記者会見に出席していたという。

 江川紹子氏自身の記事もある。

江川紹子氏の批判の内容

 江川紹子氏の批判は2月29日のツイートから始まっている。

 上に挙げたYAHOOニュースの記事に続いて、3月3日にも安倍首相の2月29日の記者会見について論じた記事を発表している。

 江川紹子氏は、安倍首相の記者会見に対して何を批判したのか?

「エビデンス」、見通しの説明

 江川紹子氏は第一に、そのYAHOOニュースの記事のサブタイトルにあるように、安倍首相は説明責任を果たすべきだったと批判した。

 安倍首相は、そのイベント・学校に対する要請について「どういう根拠に基づいて、この方針を決めたのか、それによってどういう効果が期待できるか、という説明」を行うべきだと批判したのである。

 根拠、「エビデンス」に関しては、次のように語っている。

中国のデータでは、子どもの患者は極めて少なく、10歳未満の死者は1人もいない。逆に、高齢者は死者が多く、リスクが高いのは明らか。専門家会議も、まずは死者を減らすことが大事だと指摘している。そのうえで、全国の学校の休校を選択した判断の根拠、その元となるエビデンスは何か。

新型コロナ対策・首相記者会見で私が聞きたかったこと~政府は国民への説明責任を果たせ

 「見通し」に関しては、次のように語っている。

全国一斉の長期の休校を実施することによって、期待される効果や獲得目標を具体的に示して欲しい(たとえば、罹患者を何%減らせる見込みだ、とか、死亡する人をどれくらい減らす、とか)。

新型コロナ対策・首相記者会見で私が聞きたかったこと~政府は国民への説明責任を果たせ

私の反論

 江川紹子氏の批判は、安倍首相の記者会見とかみ合っていない。

 安倍首相は記者会見において、その決断を行った理由を十分に説明している。

 安倍首相は、当時の日本は感染拡大の瀬戸際にあるという専門家の見解をもとにして、「未知の部分」が多い新型コロナウイルスに対して、「最悪の事態を想定し」て、「あらかじめ備える」ために、イベント、学校に対する要請を行ったと説明している。

 その説明によって、安倍首相は、江川紹子氏が言うような、「エビデンス」、「見通し」をもつことができない状況と考えていたことは、明らかである。そういう状況では、江川紹子氏が言うような、「エビデンス」、「見通し」を言わなかったことは、しかたがないことになる。

 安倍首相が「エビデンス」、「見通し」の説明責任を果たさなかったと批判するためには、その前に、安倍首相に反対して、「エビデンス」、「見通し」をもつことができる状況にあると証明しなくてはならない。

 しかしその後に各国で休校が行われて、半年たっても制限の緩和が簡単にできないところをみると、2020年2月29日に、江川紹子氏が言うような「エビデンス」、「見通し」をもつことはできなかったと思われる。

 江川紹子氏は、安倍首相に超人的な能力をもとめているようにみえる。

 江川紹子氏は「「質問がつきるまで答えましょう」と言えば、国民はどれだけ政府を心強く感じただろうか」と言っているが、やはり安倍首相に全知全能をもとめているようである。たしかにそういうことができれば、国民は力強く感じたであろう。しかしそういうことができた人はいなかったのではないかと思われる。

 江川紹子氏自身も「エビデンス」、「見通し」を持っていなかったと思われる。

 江川紹子氏は、3月3日に次のようなツイートをしている。

 休校中の中高校生が都内の繁華街に出てきたことを「根拠」として、休校を考え直すべきだと言っているようである。安倍首相より説得力があるであろうか?

 安倍首相は、専門家会議に諮らずに、イベント・学校に対する要請を行ったとか、その科学的根拠を示さなかったとかいうことで、科学を尊重すべきだ批判された。しかしそのように批判する人は、江川紹子氏をみても、必ずしも科学を尊重していなかった。安倍首相を批判する手段として科学を利用していた。

 たとえば英国政府が科学を尊重しているという報道が安倍首相を批判する手段としてつかわれた。江川紹子氏もそういう報道をリツイートしている。

 しかし英国ではその会見の直後に感染が爆発して、集会自粛、学校閉鎖が行われた。英国の感染者数、死者数は日本よりはるかに多くなった。

 安倍政権を叩くことを目的として、そのために科学を利用するのでは、科学を尊重することにならないのである。

迅速な説明

 江川紹子氏によると、安倍首相は迅速に説明する責任があった。ところが安倍首相はその責任を果たさなかったという。

首相は2月26日、27日と、立て続けに国民生活に大きな影響を与える判断をしたが、それについて説明が遅れたのはなぜか(「首相動静」によれば、27日には午後6時40分には官邸を出て公邸に戻り、その後も来客はない。28日の夜には作家の百田尚樹氏、ジャーナリストの有本香氏と公邸で会食をし、私邸に帰っている)。

新型コロナ対策・首相記者会見で私が聞きたかったこと~政府は国民への説明責任を果たせ

 安倍首相は26日にイベントに対する要請、27日に学校に対する要請を行ったが、そのことについて説明する記者会見を29日に行った。そのことについて「説明が遅れた」と批判しているのである。

 その間にイベントの「主催者や地域は大きな損失を抱える不安を抱いている」といい、学校に関しても「多くの人や自治体が不安を抱え、対応に追われ、混乱を来した」という。

私の考え

 江川紹子氏は大変な問題のように語っているが、それほどの問題があるであろうか?

 そもそも江川紹子氏がもとめるような説明のできない状況にあったとすると、説明がなかったとか、説明が遅れたとかいうことは的外れになる。

 その状況でできるだけの説明はなされていたということもできる。イベント・学校に対する要請は、新型コロナウイルスの感染を避けるためになされたことは明らかである。

 混乱はあったであろう。しかしそのもとは新型コロナウイルスにある。休校は正しくないと言う「エビデンス」がないかぎり、安倍首相より前に新型コロナウイルスを問題としなくてはならないはずである。

 その後に欧米の先進国でも休校が行われた。安倍首相の休校要請に対する批判もおさまるかとおもっていた。ところが左翼の中で、安倍首相の休校要請が混乱を招いたということは、後々まで言い続けられた。

その他に聞きたかったこと

 江川紹子氏はその他にも「聞きたかったこと」を列挙している。

 たとえば。

専門家会議のメンバーは全国一斉の休校は議論していないと言っているが、(専門家会議以外の)他の専門家の助言があったのか。あったとしたら、それは誰で、どのような内容だったか。

新型コロナ対策・首相記者会見で私が聞きたかったこと~政府は国民への説明責任を果たせ

 これは意味のない質問である。

 安倍首相は「最悪の事態を想定し」て、「あらかじめ備える」という考えで一斉休校を要請したと説明している。専門家でも十分な根拠にもとづいた対策を考えることができない状況で、政治的決断を行ったというのである。

 それに対して誰が助言を行ったかを質問しても意味がない。

準備期間もほとんどないまま、休校に踏み切ることで、様々な弊害やリスクがある。そうした弊害やリスクと、休校を実施することによるメリットの兼ね合いを、誰とどのような形で検討し、それぞれの弊害やリスクについて、どのように調整、もしくは克服することにしたのか

新型コロナ対策・首相記者会見で私が聞きたかったこと~政府は国民への説明責任を果たせ

 これも、2020年2月29日の安倍首相に説明責任があったというのは酷である。半年たってみると一層そう思う。

 江川紹子氏はその他にもいろいろなことについて「聞きたかった」という。しかし2月29日の記者会見で安倍首相に説明する責任があることではないようである。

 たとえば江川紹子氏は、学童保育に関する質問を三つ、給食の生産者に関する質問を一つ挙げているが、そういうことは後で考えればいいことであって、2月29日の記者会見で答えなくてはならないこととは思えない。

 江川紹子氏は、休業に対する補償についても聞きたかったという。このことはその後に問題となってきたことである。しかしこれまた、2月29日の記者会見で答えなくてはならないこととは思えない。

 そもそもこの時には国会が開かれていて、安倍首相は連日、野党議員の質問を受けていた。そういう状況で、江川紹子氏が2月29日の記者会見で「聞きたかった」ことが聞けなかったとしても、問題があるとは思えなかった。

「記者会見」のやり方に対する批判

 江川紹子氏の批判は、記者会見の内容に対してだけでなく、そのやり方に対するものでもあった。

 3月3日付の「江川紹子が目撃した、不健全で堕落した「安倍首相やらせ会見」…記者クラブは今すぐ是正を」という記事では、その題にもあらわれているように、記者会見のやり方に対する批判が中心となっている。

 江川紹子氏は、安倍首相の記者会見において、質問者も、質問内容も、事前に決まっていたことを問題としている。

複数の証言によると、首相会見では事前に質問者が指名されており、質問内容も事前に提出している、とのこと

新型コロナ対策・首相記者会見で私が聞きたかったこと~政府は国民への説明責任を果たせ

 そしてそのことを安倍首相の問題として批判している。

安倍首相自身が、「国民が知りたいこと」ではなく、「自分が言いたいこと」を言うのが広報であると勘違いしている(中略)彼の情報発信はいつもそうである。

江川紹子が目撃した、不健全で堕落した「安倍首相やらせ会見」…記者クラブは今すぐ是正を

私の考え

 安倍首相の記者会見のやり方には、改善すべきところがあるかもしれない。メディアをめぐる状況が変わっているのに、古いやり方が行われているところがあるかもしれない。

 しかし2020年2月29日の記者会見がどういうものであったかを考えると、江川紹子氏が問題としていることは、私には問題と思えない。

 2月29日の記者会見は、日本国民が新型のウイルスの危険に直面しているという非常事態において、安倍首相がイベント・学校に対する要請という政治的決断を行った事情を説明して、日本国民に協力をもとめるというものであった。

 江川紹子氏が安倍首相の要請は正しくないということの十分な「エビデンス」を持っていたならば、そのことを記者会見から締め出すことは正しくないといわなくてはならない。

 しかし江川紹子氏はそういう「エビデンス」も「見通し」も持っていなかった。そういう質問がとりあげられなくてはならないということはおかしくないか? 江川紹子氏のように、十分な「エビデンス」なしに、安倍首相は正しくないかのような印象をつくりあげる人に発言させることは、国民を危険においやることではないか?

 その他の江川紹子氏が「聞きたかったこと」も、上に見たように、2月29日の会見でとりあげられなくてはならないとは思われないことばかりであった。

私の受けた衝撃

 安倍首相の記者会見に対する江川紹子氏の批判はおかしいと私は思った。マスメディア、野党が江川紹子氏に追随したことはさらにおかしいと思った。

批判になっていない

 すでに明らかにしたように、安倍首相の2020年2月29日の記者会見に対する江川紹子氏の批判は、安倍首相の記者会見とかみ合っていない。

 たとえば、安倍首相の休校の要請に反対するためには、それだけの「エビデンス」を示さなくてはならない。江川紹子氏はそれだけの「エビデンス」を示していない。

 安倍首相が休校の要請の十分な「エビデンス」を持っていないとしても、だからといって、休校の要請が正しくないということにはならないのである。

 安倍首相が専門家会議に諮らずに休校の要請を行ったとしても、だからといって、休校の要請が正しくないということにはならないのである。

 江川紹子氏は安倍首相の休校の要請に反対する「エビデンス」をもっていなかった。ところが江川紹子氏の記事では、安倍首相の休校の要請は正しくないことのようである。論理においては、反論できていないのに、修辞においては、反論できているかのように見せているのである。

 反論できているかのように見せていても、反論はできていないのである。江川紹子氏も、江川紹子氏に追随した左翼、マスメディアも、反論できていないことがわからないほど愚かだったのであろうか? それとも、わかっていて、その上で受け手をだまそうと考えていたのであろうか?

盲目的な安倍首相叩き

 安倍首相の2月29日の記者会見に対する江川紹子氏の批判を見たときに、それまでの森友事件、加計事件、「桜を見る会」などにおいて左翼が安倍首相を攻撃したのと同じやり方ではないかと私は思った。

 江川紹子氏は3月3日付の「江川紹子が目撃した、不健全で堕落した「安倍首相やらせ会見」…記者クラブは今すぐ是正を」という記事において、安倍首相の2月29日の記者会見について「彼の情報発信はいつもそうである」といって、「桜を見る会」に関する記者会見をとりあげている。2月29日の記者会見は、それまでの「桜を見る会」と同じように安倍首相の批判されるべき「情報発信」がなされたものとみているのである。

 森友事件でも加計事件でも安倍首相が悪いことをしたという証拠はない。しかし「疑惑」はあるとして、安倍首相を責めていた。

 安倍首相の休校要請に対して、専門家会議に諮らなかったことを問題として、その間に何があったのか追及しようとしている姿は、まさに「疑惑」を追及する姿である。「説明責任」をもとめているところも、同じである。

 しかし安倍首相の休校要請は「疑惑」の対象になるようなことではない。休校要請は、安倍首相にとってもいいことでないにちがいない。新型コロナウイルスという大きな悪を避けるために、それより小さな悪としてとったことにちがいない。私腹を肥やすためではなかったにちがいない。

 ところが江川紹子氏をはじめとして、多くの人が、安倍首相が私腹を肥やすためにやったのではないかという「疑惑」を追及するやり方をとっている。それがどうにもおかしかった。

国民の安全

 新型コロナウイルスは、森友事件とか、加計事件とか、「桜を見る会」とかと違って、国民の安全と直接に関わることである。そこでそれまでと同じやり方をとることは、国民を危険にさらすことになりうる。

 たとえば安倍首相の休校の要請には、十分な根拠がなかった。しかし正しくないという根拠もなかった。

 そういう状況で、江川紹子氏は、安倍首相に反対するのに十分な根拠をもっていないのに、安倍首相が正しくないかのような印象をひろめた。安倍首相は、国民の安全をより多く守る可能性のためにはたらいていたのに、江川紹子氏は、その可能性を減らすためにはたらいていたわけである。

 安倍首相は、国民を新型コロナウイルスから守ることを目的としていたのに、江川紹子氏はそれより安倍首相をやっつけることを目的としていたように見える。江川紹子氏の頭の中には、安倍首相をやっつけることだけがあって、国民の安全も、新型コロナウイルスもないのではないかと私は思った。

 江川紹子氏は新型コロナウイルスの脅威を軽く見ていたのではないかと思われる。

 私は新型コロナウイルスを前にして、専制的な政府もおそろしいが、日本のように政府を批判することに凝り固まった勢力が一定の勢力をもっていることもおそろしいと思った。専制的な政府が情報を統制してしまうことはおそろしい。日本では政府に反対する勢力も自由を認められているので、そういうことはない。ただし日本では政府に反対することに凝り固まった勢力が、国民の安全をその「倒閣ごっこ」の手段として利用するというおそろしさがある。

記者会見のやり方に対する批判

 安倍首相の記者会見に対して、江川紹子氏はその記者会見のやり方を批判した。マスメディアも、野党も、江川紹子氏に追随して記者会見のやり方を批判した。そしてそれから安倍首相の記者会見が行われるたびに、記者会見のやり方に対する批判が行われることになった。

 安倍首相が、国民に、新型のウイルスの脅威を知らせて、協力をもとめた記者会見に対して、記者会見のやり方を問題としている姿は、どうにもおかしい。国民が新型のウイルスと戦うという非常事態において、それとは別の、それほど重要ではないことを、それより重要なことであるかのように騒いでいたのである。

 江川紹子氏の批判は、蓮舫議員等によってとりあげられて、国会で安倍首相に対して質問というかたちでぶつけられた。それを江川紹子氏がとりあげて、次のように言っている。

 蓮舫氏も江川紹子氏もおかしいと私は思った。

 そもそも記者会見において質問を制限することは必ずしも悪いことではない。特に新型のウイルスの危険が迫っているという非常事態の記者会見においては、相当の理由があると思う。それを「やらせ」とか「堕落」とか言って悪いことと決めつけていることはおかしい。

民主主義ごっこ

 江川紹子氏は、安倍首相の記者会見は民主主義に反すると批判していた。

 3月2日の記事には次のような言葉がある。

「黙って俺について来い」は独裁国家のやり方だ。民主主義国家であるならば、どれだけ対応を急ぐ時でも、「かくかくしかじかなのでついてきてほしい」と、その根拠や理由、あるいは効果や見通しなどを、誠意を持って説明し、国民の協力を求めるのが筋だ。それをできるだけ効果的に、効率よく行うのが、首相の広報対策であるべきだろう。

江川紹子が目撃した、不健全で堕落した「安倍首相やらせ会見」…記者クラブは今すぐ是正を

 このように江川紹子氏は、安倍首相は2月29日の記者会見を「独裁国家のやり方」であって、「民主主義国家」に反するものとして批判している。

 しかし安倍首相の記者会見は、江川紹子氏の言うように、国民に説明せずに「黙って俺についてこい」というものではなかった。安倍首相は、緊迫した事態にあるという専門家会議の認識を伝えて、そこで「最悪の事態を想定し」て、「あらかじめ備える」という考えで、イベント・学校に対する要請を行ったことを説明している。

 安倍首相は民主主義に反することをしていないのに、江川紹子氏はしたと決めつけて批判しているのである。このように、客観的には民主主義運動でないのに、主観的にそう思い込んでいるものを「民主主義ごっこ」とよぶ。

 ちなみに「独裁」というのは、古代ローマの共和制が非常事態に対処するために作られた制度であって、共和制と矛盾するものではない。

 江川紹子氏はその「民主主義ごっこ」を記者会見のやり方を批判するというかたちで行ったわけである。

安倍政権で行われているのは、「記者会見」とはとても呼べない。1人ひとりの記者が、官邸の意向にあらがうのは難しいかもしれない。けれども、権力者がメディアをコントロールしようとする時に、それと対峙し、取材の自由、報道の自由を守るためにこそ、記者クラブは存在するのではないか。

江川紹子が目撃した、不健全で堕落した「安倍首相やらせ会見」…記者クラブは今すぐ是正を

 江川紹子氏は安倍首相の記者会見について「権力者がメディアをコントロールしようとする」ものと評している。

 記者会見のテレビ放送に限って言うと、「権力者がメディアをコントロールしようと」したということはできるかもしれない。

 しかし、江川紹子氏のように、記者会見を批判する記事を発表することに対して、「権力者がメディアをコントロールしようとする」ことは全く見られなかった。現代の日本において「取材の自由」、「報道の自由」はそれだけ守られているのである。

 安倍首相の記者会見には、改善されるべきところもあるかもしれない。しかしそれは日本国民の自由にとって部分的な問題にすぎない。国民の自由の一部、「取材の自由」、「報道の自由」の一部にすぎない。国民の「知る権利」の限られた部分にすぎない。部分的な問題は、部分的に扱われるべきではないか? 江川紹子氏のように、首相の記者会見において自分の「聞きたいこと」がとりあげられなかったことを、新型コロナウイルスから国民を守ることより重要なことでもあるかのように発信することは、おかしくないか? マスメディア、野党が江川紹子氏に追随したことも、おかしくないか?

 官邸とジャーナリストとの闘いは、これより前に、東京新聞の望月衣塑子記者と菅官房長官との間で行われたものが話題となっていた。その時に東京新聞は「記者は国民の代表として質問に臨んでいる」と言っていた。それに対して江川紹子氏はジャーナリストは「国民の代表」ではないと言った。

 どういうことか?

 「1人のジャーナリストが国民に成り代わって意思表示をしたり、国民全体のモノの見方を表明することなどできない。国民から選抜された存在でもない。なにより、取材活動というのは、国民を代表してやるものではなく、基本的には記者本人や所属する媒体の「知りたい」「伝えたい」という関心に突き動かされて行うものだと思う。」と言い、「取材の対象も情報の受け手も、日本の国民とは限らない。」と言い、「ジャーナリストの活動は、「国民の代表」ではなく、「人々の代理」として行っていると言うのがふさわしいのではないか」と言うところをかんがえると、ジャーナリストは、国民全体を代表するものではなく、国民の一部の「考えや好み」を代表するものということのようである。(【官邸vs東京新聞・望月記者】不毛なバトルの陰で危惧される「報道の自由」の後退

 江川紹子氏は、その記事においては、望月衣塑子記者に対して批判的であって、その、ジャーナリストを「国民の代表」とよぶことに対しても批判的であった。ただし官邸に対しても批判的であった。

 ジャーナリストは「国民の代表」ではないということは、自分が国民全体を代表しているのでなく、その一部を代表しているにすぎないことをわきまえるべきだということのようである。

 しかし江川紹子氏自らジャーナリストを「国民の代表」であるかのように語っている。

 ここでは、記者会見において記者は国民の代表であるべきだと語っている。前にジャーナリストは「国民の代表」ではないと言ったこととどうして一貫するのか、説明してほしいところである。

 いずれにせよ、自分が「聞きたいこと」がとりあげられなかったゆえにその記者会見は「堕落」したものだと言って攻撃することは、自分を「国民の代表」とすることである。

 江川紹子氏は自分のツイートが多くの人の賛同を得たという。

「質問があります」と述べたのに打ち切られた、という趣旨の私のツイートは、20時間ほどで280万以上の人に見られ、2万1000回リツイートされ、4万1000もの「いいね」がついた。それを見ても、今回の会見に落胆した人は、相当数に上ると言えるのではないか。

新型コロナ対策・首相記者会見で私が聞きたかったこと~政府は国民への説明責任を果たせ

 たしかに多いといえば多い。

 しかし現在の日本の野党の支持者の数について考えてみよう。数としては大きいが、日本国民全体の中で占める割合はそれほど大きくない。与党に比べるとけた違いに少ないのである。

 安倍首相に反対することに凝り固まっていて、ことあるごとに安倍首相を批判する人は、数としては多くいる。しかし国民全体の中で小さな部分に過ぎないと私は思う。

 江川紹子氏を支持した人は、国民の一部分にすぎず、しかも全体の中で小さな部分にすぎないと私は思う。

 江川紹子氏は、部分的なものを全体的なものと思い込む、「木を見て森を見ず」式の考え方をとっている。江川紹子氏に追随したマスメディア、左翼も同じようにおかしな考え方をとったわけである。

 江川紹子氏は、安倍首相の記者会見を批判して、「堕落」とまで評した。しかし私には、江川紹子氏と、それに追随したマスメディア、野党こそ批判されるべき「堕落」したものと見えた。

 

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