1992年に公開された宮崎駿監督の映画「紅の豚」。
「紅の豚」の「豚」ということにはどういう意味があるのか?
「紅の豚」の主人公が「豚」であることにはどういう意味があるのか?
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「紅の豚」ができるまで
映画「紅の豚」は、「飛行艇時代」という漫画をもとにしている。
飛行艇時代―映画『紅の豚』原作
「飛行艇時代」は宮崎駿監督が描いた漫画で、「月刊モデルグラフィックス」1990年3、4、5月号に掲載された。
その「飛行艇時代」をもとにして映画「紅の豚」が企画された。
はじめは「15分程度の短編映画」として企画されたが、作っていくうちに60分を超える長編映画になったという。(鈴木敏夫「ジブリの仲間たち」、60~61頁)
ジブリの仲間たち(新潮新書)
そうして1992年に公開された映画「紅の豚」には、はじめに考えられていたものと、その後に付け加わえられたものとが混ざっている。
「紅の豚」の「豚」ということの意味にも、はじめに考えられていたものと、その後に付け加えられたものとが混ざっている。
どのように混ざっているのか?
はじめに考えられていた「紅の豚」
宮崎駿監督がはじめに考えていた「紅の豚」は、
・漫画「飛行艇時代」(1990年)
・宮崎駿監督が書いた「紅の豚メモ―演出覚書」(1991年)
によって知ることができる。
疲れた中年男が楽しむための映画
「紅の豚メモ―演出覚書」で宮崎駿監督は、「紅の豚」は疲れた中年男のための映画だと語っている。
国際便の疲れきったビジネスマンたちの、酸欠で一段と鈍くなった頭でも楽しめる映画。少年少女たちや、おばさまたちにも楽しめる作品でなければならないが、まずもって、この作品が「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」であることを忘れてはならない。
「出発点1979~1996」、徳間書店、1996年、413頁
出発点―1979~1996
「紅の豚」はそのように考えられた映画である。
その映画の主人公の「豚」もそのために考えられたキャラクターである。
疲れた「中年男」のヒーロー。―疲れた「中年男」が共感できる存在であり、疲れた「中年男」がやりたいことをやってみせる存在である。
「紅の豚」の主人公が「豚」であることは、疲れた「中年男」が共感できるということと関わる。疲れた「中年男」が共感できるような体形を現している。
そういう主人公が、疲れた「中年男」の望みをかなえる。
こんな町に行ってみたい町。こんな空を飛んでみたいと思える空。自分も欲しい秘密のアジト。悩みなく、壮快に明るい世界。
「出発点1979~1996」、415頁
出発点―1979~1996
女性キャラクターも、疲れた「中年男」のために描かれる。
たとえば「飛行艇時代」のはじめに主人公が観光艇に出くわして、その乗客の多くの女性に「カッコイイー」と言われるところがある。(「紅の豚」のはじめにもある)
主人公は「豚」であってかっこよくない。特にかっこいいことをして見せているのでもない。それにもかかわらず、「カッコイイー」と言われるのである。
「飛行艇時代」の第一話は、悪者に捕らえられた少女を主人公が救い出すという、古くからある英雄の話のかたちであるが、変わっている。(「紅の豚」では多くの幼女を救い出す話になっている)
・主人公は悪者と戦って勝つかたちになっているが、主人公と悪者の間に、まじめな、生々しい戦いはない。(戦争はない)
・主人公はヒロインを救い出すかたちになっているが、主人公が救い出したというより、ヒロインが自分で出てきたように見える。それでもヒロインは主人公に好意を寄せている。
いわば戦わずに勝っているようなかたちになっているのである。
第二話、第三話のフィオをめぐる話は、少し複雑になっているが、同じような構造になっている。
フィオという美少女はなぜか一方的に主人公に好意を持っている。
そのフィオをめぐって悪漢米人と戦うことになる。
そもそもフィオは主人公に対して一方的に好意を持っているのに、そのフィオをめぐって戦うことは、コメディであって、まじめな戦いではない。
空中で決着をつけずに、海で殴り合いをするところも、コメディであって、まじめな戦いではない。かっこよく勝つということもない。
宮崎駿監督は次のように書いていた。
ダイナミックだが、破壊的ではない。
「出発点1979~1996」、414頁
愛はたっぷりあるが、肉慾はよけいだ。
出発点―1979~1996
「ダイナミックだが、破壊的ではない」というのは、生々しい戦いがない(戦争がない)ことを示すことのようである。
「愛はたっぷりあるが、肉慾はよけいだ」というのは、主人公は女性にもてるが、生々しいことはないことを示すことのようである。
その後に付け加えられたこと
映画「紅の豚」には、ここまで語ってきたことのほかに、新たに付け加えられたことがある。
マダム、リアリティ
「飛行艇時代」にはなくて、新たに付け加えられたことは、「紅の豚メモ―演出覚書」にすでにあった。
ポルコ、フィオ、ドナルド・カーチス、ピッコロ、ホテルのマダム、マンマユート団の面々、その他の空賊達、これ等主要な登場人物が、みな人生を刻んで来たリアリティを持つこと。
「出発点1979~1996」、414頁
出発点―1979~1996
まず、「飛行艇時代」の登場人物には「人生を刻んで来たリアリティ」はなかったように見える。
ここで「中年男」に深みを付け加える考えが出てきている。
次に「ホテルのマダム」である。
その他のキャラクターは、名前は必ずしも同じではないが、「飛行艇時代」に出ていた。
「ホテルのマダム」は「飛行艇時代」には出ていなかった。
「紅の豚」では、「ホテルのマダム」はジーナという名で出てくる。
「紅の豚」のジーナは、亡くなった飛行艇乗りの仲間を、主人公と共有しているとされる。
そういうかたちで「人生を刻んで来たリアリティ」を表現するキャラクターとなっている。
主人公の「豚」ということには、そのことによって新たな意味が付け加えられる。
それに対して「飛行艇時代」にも出ていた米人は、そういう深みがわからないキャラクターとされている。
ファシズム
「紅の豚」には、その上にファシズムということが付け加えられている。
主人公が「豚」になっていることには、ファシズムに対して、国家から独立した個人となるという意味が付け加えられている。
「豚」ということは、怠惰になることと解釈することができるが、「飛行艇時代」と「紅の豚」とでその意味が変わっている。
「飛行艇時代」では、怠惰になることは、疲れた中年男を癒すためであった。
「紅の豚」では、怠惰になることは、ファシズムから独立するという意味が付け加えられた。
新旧の要素
「紅の豚」には、はじめに考えていたことと、その後に付け加えられたこととが混ざっている。
「紅の豚」の主人公は、
・はじめに考えていたように、疲れた「中年男」をいやす存在であるが、
・ファシズムと対立して、国家から独立した「豚」となっている存在でもある
両面があるからいいということもできるかもしれない。
しかしちぐはぐになっているということもできる。
たとえば、ファシズムと対立して国家からも独立しているという主人公が、「中年男」をいやすことをやっていることは、筋が通っているのか?
米人とフィオを取り合うところにジーナが来るのは、「飛行艇時代」のフィオの話と、後で付け加えられたジーナの話が混ざっているからである。しかしそれぞれで完結すべき話が、一つの話の中で鉢合わせして、奇妙なことになっている、ということもできる。
飛行艇時代―映画『紅の豚』原作
森山周一郎
「紅の豚」の主人公の「豚」は森山周一郎のハードボイルド風味の低い声をもっている。
「飛行艇時代」の主人公はそういう声を持っていなかった。
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