1954年に公開された映画「麗しのサブリナ」(SABRINA)を作る時に、ハンフリー・ボガートが他の共演者、監督と対立していたと言われている。
監督ビリー・ワイルダーの自伝でも、オードリー・ヘップバーンの伝記でも、ハンフリー・ボガートの人格に問題があったと言われている。
ハンフリー・ボガートが悪かったのか?
ハンフリー・ボガートの主張には理解できるところがある。
そのことをもとにして「麗しのサブリナ」という映画の問題について考えてみようというのが私の考えである。
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ハンフリー・ボガートが悪かったという人々
ハンフリー・ボガートが悪かったという人々として、オードリー・ヘプバーンの伝記の筆者と、ビリー・ワイルダーとをとりあげる。
オードリー・ヘプバーンの伝記
オードリー・ヘプバーンの伝記では、ハンフリー・ボガートが悪かったと書かれている。
ここではチャールズ・ハイアムの1984年の「オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生」(The Life of Audrey Hepeburn by Charles Higham ) をとりあげよう。
オードリー・ヘプバーン―映画に燃えた華麗な人生
この伝記では、「『麗しのサブリナ』の抱えていた最大の難問は、ハンフリー・ボガートだった」と言われている。
そして、ハンフリー・ボガートは「『カサブランカ』の余計なことは言わないクールそのもののリックと正反対の人物」であって「神経過敏でとげとげしく、どこか偏執狂的なところがあった」とか、「健康を害するほどに酒を飲み、オードリーが嫌いであることを隠そうともしなかった」とか、言われている。(「 オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生」 、87頁)
ハンフリー・ボガートの人格に問題があって、それゆえにオードリーなど他の共演者と対立したというのである。
オードリー・ヘプバーン本人
上に挙げたようなことを言っているのはオードリー・ヘプバーンの伝記の筆者であって、オードリー・ヘプバーン本人ではない。
ビリー・ワイルダーの自伝
ビリー・ワイルダーはハンフリー・ボガートと対立していた当人である。
アルコール依存症
ビリー・ワイルダーもハンフリー・ボガートのアルコール依存症を問題としている。
のちにわかったことだが、彼はアルコール依存症で、遅くとも午後五時には化粧室に戻り、用意した酒をひと飲みしないではいられなかった。だから、午後の遅い時間になるとよく神経質になり、怒りっぽくなったり不機嫌になったりしていたのだ。
「ビリー・ワイルダー自作自伝」、435~436頁
ビリー・ワイルダー自作自伝
ハンフリー・ボガートはアルコール依存症ゆえに周りの人と対立したというのである。
役
ハンフリー・ボガートは「不慣れな役」に不安を感じていたとビリー・ワイルダーは言う。
ずっとあとになってから、ボガートがあのときどんな苦痛を覚えていたかを知った。不慣れな役どころを与えられて、彼は自分が滑稽な演技をしているのではないかという不安を感じていた。
「ビリー・ワイルダー自作自伝」、435頁
ビリー・ワイルダー自作自伝
「麗しのサブリナ」のライナスの役はもともとケーリー・グラントが演ずることになっていた。
ところが撮影開始の一週間前に突然ケーリー・グラントが降りて、ハンフリー・ボガートがその代わりとされた、とDVDの特典映像では言われている。
ハンフリー・ボガートとケーリー・グラントとは持っているものが違う。それまでやってきた役も違う。
そのことによって生じる問題に、ビリー・ワイルダーが「ずっとあとになってから」気づいたというのは、ビリー・ワイルダーの方がおかしいのではないか?
ストーリー
ハンフリー・ボガートはビリー・ワイルダーに対する不満を次のように語ったと言われている。
ワイルダーは、一緒に仕事をしたくないタイプの監督だ。手に鞭を持ち、重々しい口調で話すプロイセン的ドイツ人でね。脚本家としか話をせず、俳優なんていっさい相手にしない。映画がどんなふうに進んでいくのか、サブリナは最後には誰のものになるのか、私にはなんにも教えてもらえなかったんだから!
「ビリー・ワイルダー自作自伝」、432頁
ビリー・ワイルダー自作自伝
ビリー・ワイルダーは「俳優なんていっさい相手にしない」ということは、上でビリー・ワイルダーがハンフリー・ボガートのことを思いやらなかったということと通ずることである。
ビリー・ワイルダー、ウィリアム・ホールデン、オードリー・ヘプバーンがハンフリー・ボガート抜きで集まってマティーニを飲み談笑していたことに、ハンフリー・ボガートは不満であった。(「ビリー・ワイルダー自作自伝」、432、434頁)
ビリー・ワイルダーにも問題があったのではないか?
ハンフリー・ボガートは、ビリー・ワイルダーが俳優に「映画がどんなふうに進んでいくのか」、最後にどうなるのか、を教えなかったことを不満としていたと言われる。
ボガートはたえず、先のストーリー展開を知りたがった。彼に見せることができたのは、前の晩に書き上げたばかりの二ページか三ページだけだったのだが、彼はさっと目を通してから(もちろん、スタッフの大勢いる前でのことだ)私に尋ねた。(中略)「これはお嬢さんが書いたのかい?」
「ビリー・ワイルダー自作自伝」、434頁
ビリー・ワイルダー自作自伝
ビリー・ワイルダーはハンフリー・ボガートに先のストーリー展開を教えずに、「前の晩に書き上げたばかりの二ページか三ページだけ 」を見せていたことを明らかにしている。
そのことに問題はなかったか?
ストーリーの問題
ビリー・ワイルダーのストーリーの作り方に問題があったのではないか?
ビリー・ワイルダーは後半のストーリーについて、ライナスは「キッチュな夢見る乙女をだまそうとして逆に虜になってしまう」と説明している。(「ビリー・ワイルダー自作自伝」、430頁)
そのことに色々と問題があると思われる。
ライナス
まずハンフリー・ボガートが演じたライナスという人物の問題。
ライナスはサブリナ(オードリー・ヘプバーン)を「だまそうとして」いた。
ところが「逆に虜になってしまう」とビリー・ワイルダーは語る。
しかしライナスは終盤まで、初めに考えていたようにサブリナを「だまそうとして」いるので、「逆に虜になってしまう」というところがよくわからない。
「逆に虜になってしま」って、その気持ちが盛り上がって、それまで考えていたことを覆したようには見えないのである。
それまで弟デーヴィッドを政略結婚させるために、デーヴィッドの心を奪っていたサブリナをだましてパリに追いやる計画を着実に進めていた人物が、突然それまでの計画を捨て去ってしまうという心の動きが十分に描かれていないと思うのである。
そういうライナスを、デーヴィッドが後押しして、サブリナが受け入れる、ということもおかしいのではないか?
サブリナ
サブリナはそれまでライナスに対して好意を持っていたが、ライナスにだまされていたとわかっている。
その間にライナスが「逆に虜になって」いても、そのことはライナスの中だけのことである。
ライナスにだまされていたと思っているサブリナが再びライナスに対して好意を持つためには、越えなくてはならないことがあるのではないか?
デーヴィッド
デーヴィッドはサブリナと相思相愛の関係になっていたのに、ライナスによって傷つけられ、だまされて、サブリナを奪われている。
デーヴィッドはライナスを一発殴っているが、それですむことであろうか?
そしてライナスとサブリナをくっつけようとしているが、それでいいのであろうか?
善悪
デーヴィッドは働かずに遊んでいて、その女性関係で生じた損害をライナスに払わせてきた。
それに対してライナスが家のためにデーヴィッドの意思を無視して政略結婚させようとしたことには言い分がある。
しかしそれにしても、相思相愛のデーヴィッドとサブリナの関係を、それぞれをだますことによって引き裂いたことは、悪役のようである。
今やまじめになったデーヴィッドが、ライナスの企みを見破って、サブリナを結ばれる、という話になってもよさそうである。
ハンフリー・ボガートは、そういうことを考えていたのではないか?
恋愛
恋愛ものとしても物足りない。
すでに言ったように、ライナスのサブリナに対する気持ちの盛り上がりが弱い。
それに対するサブリナの気持ちの描き方も十分でない。
ライナスは、デーヴィッドと正々堂々と戦って勝ったのではなく、だまして奪っているので、すっきりしない。
それまでデーヴィッドのことばかり考えていたサブリナがどうしてデーヴィッドをおいて、ライナスに傾いてしまったのか?
サブリナに心を奪われていたデーヴィッドがどうしてサブリナを奪い取ったライナスを簡単にサブリナとくっつけようと思うのか?
その他
その他にも、ライナスがサブリナをデーヴィッドから引き離すために、自らサブリナを誘惑する役を買ってでるのはおかしい。
ケーリー・グラントであれば納得できたのであろうか?
ライナスがサブリナを誘惑しておいて、サブリナを一人でパリへの船に追いやるということも、よくわからないことである。
ライナスが突然、パリへの船に追いやったサブリナにデーヴィッドをくっつけようとすることも、相手の気持ちを思いやっていないようである。
その後にデーヴィッドがライナスとサブリナをくっつけようとすることも、相手の気持ちを思いやっていないように見える。
ビリー・ワイルダーの考え
恐らくビリー・ワイルダーは終盤まで観客が結末を予測できないように作ったのであろう。
ライナスの突然の改心まで、結末はわからない。
そしてライナスの突然の改心で話がひっくり返されたかと思うと、デーヴィッドの突然の改心によってまたひっくり返される。
最後はハッピーエンドらしく終わる。
恋愛喜劇としてはそれでいいとも思う。
しかしまた登場人物の気持ちが重んじられていないとも思う。
私の主張
「麗しのサブリナ」で最も心に残るのは、サブリナの変身した姿である。
オードリー・ヘプバーンの若々しさとジバンシイの衣装とが相まって、心に残るものになっている。
それまでサブリナに振り向きもしなかったデーヴィッドが、そういうサブリナに夢中になる話は面白い。
ところがその面白いところを、ライナスが終わらせてしまう。
ライナスがだましてサブリナがだまされるという話はそれほど面白くない。
もっと面白くできたのではないか? と私は思うのである。
ハンフリー・ボガートの風貌
私はこの映画のハンフリー・ボガートが気になっていた。
ハンフリー・ボガートは、もともと険しい顔立ちである。その上に年をとっていた。
ハンフリー・ボガートは1899年生まれで、「麗しのサブリナ」の時には50代中頃になっていた。そして1957年には亡くなっている。
オードリー・ヘプバーンは1929年生まれ。
当時20代中頃の若々しいオードリー・ヘプバーンと合っていないようにも見える。
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「麗しのサブリナ」でその他に気になること
「麗しのサブリナ」 の料理教室
サブリナがパリの料理学校に行くということから、「麗しのサブリナ」の話は動き出す。
ただしサブリナがパリに行って帰ってきたということは、その後の話に大いに関係があるが、サブリナが料理学校に行ったということは、その後の話とあまり関係がない。
終盤にライナスの部屋で料理をするというところで少し使われるくらいである。
そうだとすると、料理学校の描写に時間をかけるより、男爵とのやりとりに時間をかけた方がよかったのではないか?
「麗しのサブリナ」のパリ
「麗しのサブリナ」ではパリが重要な土地とされている。
ただし「麗しのサブリナ」での、パリの描き方は抽象的である。
オードリー・ヘプバーンがこの前に出演した映画「ローマの休日」ではローマで撮影が行われた。この後に出演した「パリの恋人」ではパリで撮影が行われた。しかし「麗しのサブリナ」では、パリで撮影が行われていない。
「バラ色の人生 la vie en rose 」の歌によって表現するというような抽象的な描き方になっている。
サブリナがパリを天国のように言うことも抽象的である。
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