五輪中止を求めた朝日新聞の社説の批判的考察

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 2021年5月末、朝日新聞は「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」という社説を出した。

 この社説は、五輪開催前のマスメディアの論調の代表的なものである。

 この社説について考えることによって、五輪開催前のマスメディアの論調の問題を考える。

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対立

 社説はまず次のように言う。

 新型コロナウイルスの感染拡大は止まらず、東京都などに出されている緊急事態宣言の再延長は避けられない情勢だ。
 この夏にその東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない。人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む政府、都、五輪関係者らに対する不信と反発は広がるばかりだ。
 冷静に、客観的に周囲の状況を見極め、今夏の開催の中止を決断するよう菅首相に求める。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 社説は「理にかなう」かどうかを基準として、「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」て、「今夏の開催の中止を決断するよう菅首相に求める」という。

 五輪を開催しようとする「政府、都、五輪関係者ら」は「理にかなうとはとても思えない」という。そういう社説の筆者は自身を「理にかなう」ものとしているわけである。

 ところでこの社説の筆者は「理にかなう」ものであるのか?

 「この夏にその東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない。」ということは普遍的真理であるのか?

 そもそも五輪をやるべきか否かという問題は、意思の問題である。状況によってきまることではなく、状況を踏まえた判断によってきまることである。

 ところがこの朝日新聞の社説は、自分の主張を普遍的真理であるかのように見せるレトリックを用いることによって、それに反対する意思を抑制している。

 この社説の目的は、「政府、都、五輪関係者ら」に反対することにちがいない。

 しかしそのことは同時に、国民の意思を抑制することになっているのである。

「突き進む」

 朝日新聞の社説は、「政府、都、五輪関係者ら」を、「人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む」ものときめつけて対立させて、「不信と反発は広がるばかりだ」と語っている。

 五輪前には、こういう論調が盛んであった。

 しかし「政府、都、五輪関係者ら」はほんとうに「人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む」ものであったのか?

 実際には「政府、都、五輪関係者ら」は感染対策に力を入れて、観客を入れないで開催することをも受け入れた。

 「政府、都、五輪関係者ら」は、たしかに感染対策一本槍ではなく、できるだけ五輪を盛り上げようとしていた。それゆえに感染対策に反するとして批判された。

 しかしできるだけ五輪を盛り上げようとすることは、取るに足らないことであったのか?

 五輪を盛り上げることと、感染対策とを「冷静に、客観的に」考えるべきだったのではないか?

 朝日新聞の社説は、五輪を開催しようとする側の「人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む」ものではないか?

IOC批判

 社説は次にIOCのことをとりあげている。

 国際オリンピック委員会(IOC)のコーツ副会長が先週、宣言下でも五輪は開けるとの認識を記者会見で述べた。
 だが、ただ競技が無事成立すればよいという話ではない。国民の感覚とのずれは明らかで、明確な根拠を示さないまま「イエス」と言い切るその様子は、IOCの独善的な体質を改めて印象づける形となった。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 IOCにも問題はあった。

 しかしそこでまた「国民の感覚とのずれは明らか」といって対立を広げているのは朝日新聞でもある。

 今度の五輪では、IOCに対して、特にバッハ会長に対して、度を越した攻撃が見られた。

 ひるがえって、朝日新聞の社説の筆者の「明確な根拠を示さないまま」、「「ノー」と言い切るその様子」は「独善的な体質」をあらわすものではないか?

 現にこの社説の中に「この夏にその東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない。」ということの「明確な根拠」は示されていない。

 「世界からウイルスが入りこみ、また各地に散っていく可能性は拭えない。」、「五輪は規模がまるで違う。」、「当初から不安視されてきた酷暑対策との両立も容易な話ではない。」―いずれも容易でないという印象を与えているだけであって、「明確な根拠」を示していない。

賭け

 社説は次に五輪開催を「賭け」とよんで、次のように語っている。

 もちろんうまくいく可能性がないわけではない。しかしリスクへの備えを幾重にも張り巡らせ、それが機能して初めて成り立つのが五輪だ。十全ではないとわかっているのに踏み切って問題が起きたら、誰が責任をとるのか、とれるのか。「賭け」は許されないと知るべきだ。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

レトリック

 「「賭け」は許されない」というのは巧みなレトリックである。五輪を開催することは危険なこと、無責任なことだという印象を与えている。

 しかしどのようなことをやる場合でも「賭け」の面はあるのではないか?

 すべきことは、この社説のように否定から入ることではなく、客観的な認識をもとにして、できるだけのことを考えることではなかったか?

責任

 責任はとるべき人がとればいい。

 しかしこの社説のようにレトリックによって政府等を批判する論調が広まったことによって、責任の所在がわかりにくくなっているのではないか?

 逆に、この社説の筆者、朝日新聞は、この社説の責任をとるのであろうか?

「世論調査」

 社説は次に「世論調査」を持ち出している。

こうした認識は多くの市民が共有するところだ。今月の小紙の世論調査で、この夏の開催を支持する答えは14%にとどまった。背景には、五輪を開催する意義そのものへの疑念が深まっていることもうかがえる。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 たしかに五輪開催前には、五輪に対して不安だという声が多かった。

 しかしそういう声はマスメディアによって作られたところが大きいのではないかと私は思う。

 「多くの市民」は専門的知識をもっておらず、感染状況に関しての知識は、マスメディアによらざるを得ない。

 そのマスメディアでは、この朝日新聞の社説のように不安を煽る論調が優勢だったのである。

五輪憲章の理想

 社説は次に五輪憲章をとりあげる。

五輪は単に世界一を決める場ではない。肥大化やゆきすぎた商業主義など数々の問題を指摘されながらも支持をつなぎとめてきたのは、掲げる理想への共感があったからだ。五輪憲章は機会の平等と友情、連帯、フェアプレー、相互理解を求め、人間の尊厳を保つことに重きを置く社会の確立をうたう。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 ところが現状はそうではないと語る。

コロナ禍で、競技によっては予選に出られなかった選手がいる。ワクチン普及が進む国とそうでない国とで厳然たる格差が生じ、それは練習やプレーにも当然影響する。選手村での行動は管理され、事前合宿地などに手を挙げた自治体が期待した、各国選手と住民との交流も難しい。憲章が空文化しているのは明らかではないか。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 以上の主張には問題がある。

オフィシャルパートナー

 まず、朝日新聞が東京オリンピック2020のオフィシャルパートナーであったということとの関係で問題になる。

 朝日新聞は、社説で五輪の中止を求めながら、五輪のオフィシャルパートナーであり続けることについて次のように説明している。

朝日新聞社は東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(東京2020)のオフィシャルパートナーです。オフィシャルパートナーとなったのは、オリンピック憲章にうたわれている「スポーツを通じ、若者を教育することにより、平和でより良い世界の構築に貢献する」との理念に共感したからです。

東京2020オフィシャルパートナーとして

 オフィシャルパートナーとなった理由は五輪憲章の理念に共感したからだという。

一方、2016年1月に大会組織委員会とオフィシャルパートナー契約を結んだことをお伝えした際、「オフィシャルパートナーとしての活動と言論機関としての報道は一線を画します」とお約束しました。朝日新聞が五輪に関わる事象を時々刻々、公正な視点で報じていくことに変わりありません。社説などの言論は常に是々非々の立場を貫いています。今後も引き続き紙面や朝日新聞デジタルで、多角的な視点からの議論や提言に努めます。

東京2020オフィシャルパートナーとして

 しかし五輪憲章は「空文化している」と社説は語る。朝日新聞社がオフィシャルパートナーとなった理由はなくなっているというのである。

 社説が「常に是々非々の立場を貫いて」いるとすると、朝日新聞社がなおもオフィシャルパートナーであり続けることは、正しくないことになる。

 社説はまずそのことを批判すべきではないか?

主張そのもの

 朝日新聞社の内側の問題のほかにも問題はある。

 「コロナ禍」で、「ワクチン普及が進む国とそうでない国」で格差は生じた。しかしだからといって「機会の平等と友情、連帯、フェアプレー、相互理解を求め、人間の尊厳を保つことに重きを置く社会の確立」をうたう「憲章が空文化している」とまで言うのは言い過ぎである。

 「選手村での行動は管理され、事前合宿地などに手を挙げた自治体が期待した、各国選手と住民との交流も難しい」ということも、残念なことではあったが、「憲章が空文化している」とまで言うことであろうか?

東京五輪の意義

 社説は次に東京五輪の意義を問う。

人々が活動を制限され困難を強いられるなか、それでも五輪を開く意義はどこにあるのか。社説は、政府、都、組織委に説明するよう重ねて訴えたが、腑(ふ)に落ちる答えはなかった。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 当時こういうことが盛んに言われていた。

 しかしそういうことを聞くたびに私はおかしいと思った。

オフィシャルパートナー

 そもそも朝日新聞社は東京オリンピック2020のオフィシャルパートナーであり続けていた。

 「社説は、政府、都、組織委に説明するよう重ねて訴えたが、腑(ふ)に落ちる答えはなかった。」などと他人事のように言うのはおかしいのではないか?

 朝日新聞社自身が答えなくてはならないことではないか?

五輪の意義

 五輪開催前には、この社説のように五輪を開く意義がないという論調が盛んであった。

 客観的に考えると、五輪が多くの人を感動させるものであることは、やる前からわかっていた。五輪を中止することによって損失が生ずることも、わかっていた。

 ところがこの社説のような論調によって、そういう客観的な考察が抑制されていた。

ブーメラン

 「人々が活動を制限され困難を強いられるなか、それでも五輪を開く意義はどこにあるのか」という論法は、「活動を制限され困難を強いられる」「人々」と、「五輪」とを対立させるものである。

 「五輪」を開こうとする政府等と、国民とを対立させようとしているのである。

 しかしその後に五輪以外の「活動」を行う人にも帰ってくる論法であった。

 たとえば五輪とパラリンピックの間に、朝日新聞社主催の全国高等学校野球選手権大会が行われたことに対しても、「人々が活動を制限され困難を強いられるなか、それでも全国高等学校野球選手権大会を開く意義はどこにあるのか」と言われることになるわけである。

 そのように傷つけ合うより、皆で前を向く方がよかったのではないか?

 そもそも「五輪」を政府と結びつけて、国民と対立させるレトリックに問題はあった。

政権批判

 社説は五輪に意義がなくなって、政府、都、組織委から「腑(ふ)に落ちる答えはなかった。」ということから、「五輪は政権を維持し、選挙に臨むための道具になりつつある。」ということをひきだしている。

それどころか誘致時に唱えた復興五輪・コンパクト五輪のめっきがはがれ、「コロナに打ち勝った証し」も消えた今、五輪は政権を維持し、選挙に臨むための道具になりつつある。国民の声がどうあろうが、首相は開催する意向だと伝えられる。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 首相が五輪を開催するのは政権欲のためだとされている。

 しかし、すでに言ったように、五輪を開催することは国民にとっても利益になることであり、中止することは国民にとっても損失になることである。

 首相を悪く見せることによっておとしめようとする「政権」欲のために、国民の利益、損失を無視しているのである。

 社説はそうしながら「国民の声」を首相と対立させるが、その「国民の声」とは自分のことではないか?

 「「コロナに打ち勝った証し」も消えた今」というが、「コロナに打ち勝った」上での五輪はできなくなったとしても、コロナの中で五輪を成功させるという意義はあるのではないか?

東日本大震災からの復興に関する菅政権の成果

 今度のオリンピック、パラリンピックの前後に、菅政権は「復興」に関して何をしていたか。

これまで米国は、福島県産のコメや原木シイタケなどについて輸入停止措置を講じていましたが、9月22日(水曜日)から輸出が可能となりました。

米国による日本産食品の輸入規制の撤廃について(東日本大震災関連)

菅首相の言葉

 菅首相(当時)は五輪の意義について次のように語っていた。

世界のおよそ40億人がテレビなどを通じて大会を観戦すると言われています。東日本大震災から復興を遂げた姿を世界に発信し、子供たちに夢や感動を伝える機会になります。57年前の東京大会では、パラリンピックの名称が初めて使われ、障害者の方々が社会で活躍していこうという契機になったと思います。再びこの東京の地で、頑張ることによって壁を乗り越える、そのことができることの大切さや、障害のある方もない方も、お年寄りも若者も、みんなが助け合って共に生きるという共生社会の実現に向けた、心のバリアフリー精神を、しっかりと大会を通じて伝えたいと思います。人類が新型コロナという大きな困難に直面する今だからこそ、世界が団結し、人々の努力と英知でこの難局を乗り越えていくことを日本から世界に発信したいと考えています。そのためには、東京大会は安全・安心に開催すること、そして大会期間中、日本国内の感染拡大を抑え、大会終了後の感染拡大防止にもつなげていくことが不可欠であると考えています。皆様には、家でのテレビ観戦などを通じ、アスリートを応援していただきたいと思います。

令和3年6月17日 菅内閣総理大臣記者会見

 朝日新聞の社説と、この菅首相の言葉とを比べてみよう。

パラリンピックの意義

 菅首相が語るようにパラリンピックには「共生社会の実現に向けた、心のバリアフリー精神」を伝えるという意義があるにちがいない。

 それに対して朝日新聞の社説は、パラリンピックの意義について一言も触れていない。

 中止するかどうかを考える時に、中止することによって失われることについて言わないことはおかしい。

コロナとの闘い

 朝日新聞の社説は「「コロナに打ち勝った証し」も消えた今」と言った。

 しかし菅首相の言うように「人類が新型コロナという大きな困難に直面する今だからこそ、世界が団結し、人々の努力と英知でこの難局を乗り越えていくことを日本から世界に発信したい」という意義はあるのではないか?

大会中の感染対策

 菅首相は「東京大会は安全・安心に開催すること、そして大会期間中、日本国内の感染拡大を抑え、大会終了後の感染拡大防止にもつなげていくことが不可欠であると考えています」と、五輪開催と感染対策を両立させることを説いている。

 朝日新聞の社説のように、五輪開催を悪としてしまう論法では、五輪開催と感染対策を両立させることにつながらないのではないか?

分断

 社説は最後に首相、都知事、組織委に考えることを求めている。

そもそも五輪とは何か。社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典を強行したとき、何を得て、何を失うのか。首相はよくよく考えねばならない。小池百合子都知事や橋本聖子会長ら組織委の幹部も同様である。

(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 ここまで論じて来たように、朝日新聞の社説は五輪が開催された場合、中止された場合に、国民が「何を得て、何を失うのか」を明らかにしていない。

 「社会に分断を」もたらしているのは、レトリックによって首相、都、組織委、そして五輪をおとしめている朝日新聞の社説である。

まとめ

 東京オリンピック、パラリンピックは、新型コロナウイルスの感染がおさまらず、逆に拡大する中で開催された。それゆえに多くの人が不安に感じた。

 そういう時にマスメディアはできるだけ客観的な認識を国民に伝えなくてはならない。その認識をもとにして国民が判断するようにしなくてはならない。

 ところが日本のマスメディアはこの社説のように、その不安を利用して、政府、都、組織委、IOCを悪者に仕立てて国民と対立させた。オリンピック、パラリンピックも、国民の健康に反するものとされた。

 科学によってではなく、現政権をおとしめたいという政治的な意図によってそうしたのである。

 国民は、科学によってでなく、レトリックによって不安を感じさせられ、現政権と、そしてオリンピック、パラリンピックと対立させられた。

 開幕前の調査では不安の声が多かった。開幕後の調査ではやってよかったという声が多かった。

 今回のオリンピック、パラリンピックが特によかったということもあるが、もともとオリンピック、パラリンピックとはそういうものだったのである。マスメディアが国民にそのことを知らせないようにしていたのである。

 マスメディアによって国民は、開催前はただ不安をいだく者とされ、開催中は五輪をたのしむ者とされた。

 これこそ「民主主義の危機」ではないか?

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