「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズをめぐる言説が気になって、もとから探ろうと、TVシリーズが放送されていた時の雑誌「アニメージュ」をしらべると、奇妙なことがわかった。―「アニメージュ」において奇妙な偏りが生じていた。
まず投稿欄が奇妙に偏っていた。
ここでは、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時の「アニメージュ」のスタッフの論調が偏っていたことについて、考える。
論調の変化
「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの放映が始まった時に、「アニメージュ」のスタッフからTVシリーズに対して批判的な意見が複数出ていた。
ところが、ほどなく「アニメージュ」ではTVシリーズをよしとする発言ばかりになっていった。
詳しくは次の通り↓
「アニメージュ」1987年6月号
「アニメージュ」1987年6月号では、二つのコーナーで4月に始まった新番組についての品評会が行われた。
「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズはその二つのコーナーで新番組の一つとしてとりあげられた。
AM編集部24時 12春の新番品評会
「AM編集部24時 12春の新番品評会」というコーナーでは、鈴木敏夫編集長(当時)も参加して、4月に始まった新番組の品評会を行った。(「アニメージュ」1987年6月号、213頁)
次のように意見は分かれた。
女性三人は「赤い光弾ジリオン」をよしとして、「きまぐれオレンジ☆ロード」はよくわからないという。
鈴木敏夫氏、実氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」をよしとして、「赤い光弾ジリオン」に対して批判的。
高橋望氏は「原作ファンとしてはいまの作り方にはちょっと疑問がある」という。
要するに、 鈴木敏夫氏、実氏の二人以外は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して批判的であった。
春の新番総チェック
「アニメージュ」1987年6月号ではもう一つ、「新人類あにめ診断 春の新番総チェック」というコーナーで、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを取りあげている。
小黒 (略)次は「気まぐれオレンジ☆ロード」なんだけど、これって「タッチ」っぽくないかな。
「アニメージュ」1987年6月号、126頁
原口 リアルなふんい気とかそうだし、美術なんか「タッチ」だね。
小黒 あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった。
原口 「タッチ」のまねというより、ああいう日常を大切にするっていうのが、青春もののスタイルとして確立されたってことじゃないかな。
のつぎ あたしはなんかアナクロっぽいと思った。大映ドラマを見ているみたいじゃない。いまどきあんなやついないって。
原口正宏氏は、「リアルなふんい気」とか、「日常を大切にする」とか「青春もののスタイル」とか、違うところに価値を認めているようである。
小黒祐一郎氏の「あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった」という言葉は、残念な気持ちをあらわしているようでもある。
のつぎめいる氏は、「いまどきあんなやついない」と強く批判している。
このコーナーでも強い批判が出ている。
「アニメージュ」1987年7月号
「アニメージュ」1987年7月号の「水品隆史と山本元樹のレコード・レビュー」で水品隆史氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のアルバムについて語る中で、本編について次のように語っている。
「きまぐれ」の番組自体は、恭介のモノローグが多すぎて、物語のスピード感を殺しているって印象が、かなりあった。だけど、このサントラ盤を聞くかぎりでは音楽スタッフのほうが「きまぐれ」のイメージを的確につかんでいるんじゃないかなあ。
「アニメージュ」1987年7月号
水品氏は、原作をよく知る者として、音楽は原作に合っているが、TVシリーズ本編はそうではないと論じているのである。
「アニメージュ」1987年8月号
「アニメージュ」1987年8月号の「TVアニメーションワールド」内の「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムにおいて、小黒祐一郎氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げた。
「魔美」や「陽あたり」も相当うまく原作を消化していて、それはそれでスゴイのだけれど、それにも増して「きまぐれオレンジ☆ロード」はスルドイ、と思うのです。
「アニメージュ」1987年8月号、127頁
この作品は、原作の設定やエピソードを基本的には変えないで創っているにもかかわらず、その世界観が、原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋いと、かなりちがうわけで、これはもうアニメスタッフの”技”としかいいようがないわけです。(どっちがよいかは好みの問題)たとえば、原作でも毎回出てくる恭介のモノローグなど異常に使い方がうまくてあれのおかげで、相当感情移入がしやすくなっています。それから人物や学校生活などの描写がやたら芸が細かい。これも原作にもある学校で昼食時にカツサンドを買うのは大変だという設定を、実に渋く演出していたりして、これがやたらよかったりするんですね。
そのうち、ある程度原作を切り離して、気がついたら全然別の作品になってたりするんじゃないのかしらん。
この記事から「アニメージュ」はTVシリーズを持ち上げる方向に進むのである。
TVアニメーションワールド
「アニメージュ」1987年9月号から1988年3月号まで、「TVアニメーションワールド」では、小黒氏等によって「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが少なからずとりあげられている。
・「アニメージュ」1987年9月号の「TVアニメーションワールド」では、TVシリーズ第13話をとりあげている。(111頁)
・「アニメージュ」1988年1月号の「まにあおぐろのこれがスルドイ」では、小黒氏は檜山ひかるがいいといって(105頁)、「TVアニメーションワールド」の「今月の誌上アンコール②」で第29話をとりあげている。
・「アニメージュ」1988年2月号の「TVアニメーションワールド」の「まにあおぐろのこれがスルドイ」では、第32話をSFとして評価している。
・「アニメージュ」1988年3月号の「TVアニメーションワールドOPENING SELECTION」では第3OPをとりあげている。
「アニメージュ」1988年4月号
「アニメージュ」1988年4月号では、ファイナル特集があって、「きまぐれオレンジ☆ロード」は「めぞん一刻」など他の作品とともにまとめられていた。「きまぐれオレンジ☆ロード」はその第一に置かれていた。
そこに次のような言葉がつけられている。
原作があくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだったのに対し、アニメの「オレンジロード」はいまどき珍しいくらい、まっとうに青春していて、そこがとても新鮮で魅力的だった。恋愛なんて当人はどんなにまじめで一生懸命でも、他人から見れば、ぶざまでコッケイで喜劇以外のなに物でもない! そんな青春の愚かしさと、ほのかな甘酸っぱさがミックスした佳作でした!
「アニメージュ」1988年4月号
それまでの「アニメージュ」によるTVシリーズを持ち上げる言説の集大成のようである。
私は遅ればせながらこれをみて、衝撃を受けた。
これは原作漫画を馬鹿にするものではないか? 原作漫画について「あくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだった」というのは、馬鹿にしているのではないか? 原作漫画は「キャラクターの絵」にしか魅力がないものであるということも、原作漫画を「軽~~~い」という言葉で形容していることも、馬鹿にしているようである。
評論家が個人の考えとして言うならば問題はない。アニメ雑誌の「ファイナル特集」で一個の漫画をこのように馬鹿にすることはおかしいのではないか?
そうして原作漫画を馬鹿にして、TVシリーズを持ち上げていることも、おかしい。
TVシリーズは原作漫画より軽い。たしかに原作にない「青春の愚かしさ」を描いたものもあるが、少数である。ヒロインを、原作と違って、荒唐無稽なスケバンキャラにしたことも、間に入るキャラクターを、小黒氏も言うように原作より「道化師的な役回り」にしたことも、原作より軽くすることである。
そもそも「アニメージュ」のようなアニメ雑誌がアニメ作品をできるだけ持ち上げてもいいと思うが、そのために原作漫画をおとしめることはおかしいと思う。
この時の「ファイナル特集」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」、「めぞん一刻」、「陽あたり良好!」、「北斗の拳」の4作品をまとめたものであるが、「きまぐれオレンジ☆ロード」の他には、原作漫画をおとしめる言葉はない。
「めぞん一刻」では逆に、吉永尚之監督の「画面があまりに地味だったので、原作の明るさを出しきれなかったのでは、という思いが残っています」という、原作ファンに気を使った言葉が載っている。
このように「めぞん一刻」では、TVシリーズの作り手も、「アニメージュ」も、原作ファンを尊重しようとしていたのに対して、「きまぐれオレンジ☆ロード」では、TVシリーズの作り手も、「アニメージュ」も、原作ファンを無視して、TVシリーズを持ち上げ、原作漫画をおとしめているのである。
考察
上に挙げた記事について考察してみよう。
高橋望氏
まず「アニメージュ」「AM編集部24時 12春の新番品評会」というコーナーで「原作ファン」の立場からTVシリーズに対して疑問を呈した高橋望氏について考える。
高橋望氏は、この「品評会」の前の、「アニメージュ」1987年5月号の「AM編集部24時」において、「熱愛している「きまぐれオレンジロード」がスタートするのは個人的にはうれしいのですが・・・」と語っていた。(「アニメージュ」1987年5月号、215頁)
しかしその後に高橋望氏から原作ファンとしての主張を聞くことはなくなった。
そもそも高橋望氏が発言する場がなくなった。
高橋望氏が漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」に対する「熱愛」を語って、TVシリーズに対する「疑問」をのべた「AM編集部24時」というコーナーは、その1987年6月号で終わってしまった。
高橋望氏は「アニメージュ」1987年12月号を最後に、「アニメージュ」から離れている。―「アニメージュ」創刊編集長尾形英夫著「あの旗を撃て!」に、高橋望氏は「87年の秋に「4WDフリーク」といういまはなきクルマ雑誌に異動になり、「アニメージュ」とも尾形さんとも接点はいったんなくなった」と書いている。(「あの旗を撃て!」、オークラ出版、2004年、205頁)
高橋望氏が担当していた「Dr.望のビデオラボ」というコーナーも、1987年12月号で終わっている。
そしてその後に「NURSE圭のビデオ研究室」というコーナーが1988年1月号から始まっているが、このコーナーでは、2月号で、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズから3話ビデオ化されるに際してシリーズ構成寺田憲史氏のインタビュー記事を載せ、4月号で、番組終了記念として、小黒祐一郎氏等がTVシリーズのいいところを語る企画をやっている。
高橋望氏はその後、1989年にジブリに出向するというかたちでアニメ業界に帰ってきて、ジブリの「海がきこえる」のプロデューサーになっている。
高橋望氏がその時期に「アニメージュ」から離れたことは、「きまぐれオレンジ☆ロード」と関係なかったと思われるが、関係があったとも思われる。いずれにせよ、高橋望氏が「アニメージュ」から離れたことによって、「アニメージュ」から「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンの声が消えた。
たとえば1988年4月号の小黒氏等がTVシリーズのいいところを語るという企画に、もし高橋望氏が参加していたならば、小黒氏等のようにひたすらTVシリーズを持ち上げることはなく、原作ファンの気持ちを述べたのではないかと思われる。
ひょっとすると、高橋望氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対する考えを変えたかもしれないが、そうだったとしても、小黒氏のように手放しでTVシリーズを持ち上げることにはならなかったのではないかと思う。
のつぎめいる氏
のつぎめいる氏は、「アニメージュ」1987年6月号の「新人類あにめ診断 春の新番総チェック」というコーナーで、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して「いまどきあんなやついない」と強く批判していた。
ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ放映中に、のつぎめいる氏は「アニメージュ」から去っている。
のつぎめいる氏は、1985年8月号から「アニメージュ」誌上に連載をもっていた。しかしその連載は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ放映中の1987年11月号で終わっている。それまで出ていた新春座談会などにそれから出なくなっている。
そのことも、「きまぐれオレンジ☆ロード」と関係ないと思われるが、関係あるとも思われる。
のつぎめいる氏が「アニメージュ」1987年6月号以降、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対してどう考えていたか、私は知らない。ひょっとすると、考えを改めていたかもしれない。
しかし、のつぎめいる氏のそれまでの連載や発言をみると、まんが家であったからか、アニメの原作まんがに気を遣っていたように見える。「きまぐれオレンジ☆ロード」についても、原作まんがに気を遣った発言をしたのではないかと思われる。
水品隆史氏
水品隆史氏のコーナーはもともと音楽について論ずるコーナーであって、本編について論ずることは本旨ではない。
実際に本編について論じているところは一文にすぎない。
それにもかかわらず本編に対して強く批判していたことは、当時原作を知っていた人にとってそれだけTVシリーズは残念な出来と思われたことをあらわすことではないか?
小黒祐一郎氏
「アニメージュ」1987年8月号以降、「アニメージュ」で「きまぐれオレンジ☆ロード」TVシリーズを持ち上げて行ったのは、小黒祐一郎氏である。
「アニメージュ」1987年6月号
まず「アニメージュ」1987年6月号の「春の新番総チェック」での発言にも疑問がある。
のつぎめいる氏が「いまどきあんなやついない」とまで強く批判しているのに、小黒氏も原口氏もそのことを問題としていない。小黒氏、原口氏は「「タッチ」っぽくないか」ということを問題としているが、だからどうなのか、よくわからない。小黒氏が「なんか渋くなってしまった」というのは、不満があるようであるが、批判に至っていない。
小黒氏は「アニメージュ」1988年2月号で「不良絡みの話さえなければ「オレンジ☆ロード」はヨイ作品です。」と言っている。(121頁)
TVシリーズ第1話はまさにその「不良絡みの話」である。
小黒氏がよくないと思っていたとすると、6月号でその第1話について感想を言う立場にあったのに、何故に言わなかったのか? よくないと思っていたのに、何故に1988年2月号まで言わないでいたのか? 「不良絡みの話」は、ヒロインの設定に関わる重要なことでないか? アニメ版の「不良絡みの話」がよくないということは、そういう「不良絡みの話」のない原作の方がいいということにならないか?
小黒氏が他の番組に対しても同じように評価を控えめにしていたならば問題はない。しかしそうではなかった。
小黒氏も、原口氏も、同じ「春の新番組総チェック」で、「きまぐれオレンジ☆ロード」と同時に始まった「シティーハンター」のTVシリーズに対しては、酷評している。原口氏は「ほとんど原作どおりのエピソードなんだけど、犯人の描写のツメが甘い」と言い、「全体的に軽すぎるんじゃないかと思う」と言っている。小黒氏は「サンライズカラーがにじみでている(笑)。」と言っている。
「シティーハンター」に対してはそこまで踏み込んでいるのに、「きまぐれオレンジ☆ロード」に対しては上に見たように奥歯に物が挟まったようである。
「アニメージュ」1987年8月号
小黒祐一郎氏は「アニメージュ」1987年8月号の「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムにおいて、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げた。これから小黒氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げていく。
このコラムはおかしいと私は思う。
うまく原作を消化するということ
小黒氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは原作をうまく消化した作品だと考えているようである。
しかしその後に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは「原作の設定やエピソードを基本的には変えないで創っているにもかかわらず」、「その世界観」は「かなりちがう」ものになっているというところによると、原作と違うものになっているというのであって、原作をうまく消化したのではないということになるのではないか?
同じ8月号の投稿欄には、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」について語る投稿が載せられている。
それから「アニメージュ」では「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは原作をうまくアニメ化したものという言説が広まっている。
実際には「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、小黒氏も言うように原作と「かなりちがう」ものになっている。原作をうまくアニメ化したということのできるものではない。
原作から離れること
小黒氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが原作と「かなりちがう」ことを認めた上で、そのTVシリーズを称賛して、「そのうち、ある程度原作を切り離して、気がついたら全然別の作品になってたりするんじゃないのかしらん」と言っている。原作から離れて全然別の作品になることを望んでいるようである。
小黒氏はなぜか、原作を無視している。そして原作から離れたTVシリーズをよしとしている。おかしなことだと私は思う。
原作から離れてすぐれたものができることを期待することには問題はない。原作をはなから無視していることに問題はある。なぜ原作を生かすことを考えないのか?
これは8月号のコラムである。8月号の記事が書かれたのはその数カ月前である。TVシリーズが始まったのは4月である。TVシリーズはまだ始まって間もなく、原作の多くがまだアニメ化されていない時に、小黒氏は原作から離れたアニメを求めているのである。
同じ月の「アニメディア」(1987年8月号)には「残念ながらこれまでのお色気シーンは、原作と比べてもまだ欲求不満!?だけど夏に向けてかなり期待できそうだ」と書かれていた。(131頁)
「アニメディア」の方が自然ではないか?
その上に「アニメージュ」は1987年3月号で、「アニメージュ」の読者の中に「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンが多くいることを明らかにしていた。原作ファンは、アニメに対して原作のいいところが生かされることを求めるものであろう。
小黒氏のように原作から離れたアニメを期待することは、そういう「アニメージュ」の読者の多くと対立することである。何故に対立してまで原作から離れたアニメを期待したのか?
そもそも「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムは、番組の一部をとりあげるものだったのではないか? そのコラムで放映中の番組全体について称賛することは奇妙ではないか?
TVシリーズに対する賞賛
世界観
小黒氏は、「原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋い」と語る。そして、それぞれ違うというにとどまらず、「アニメスタッフの”技”」と言っているので、アニメの方がすぐれているかのように聞こえる。しかし「世界観」が「アニメスタッフの”技”」だというのは意味がよくわからない。
ところで「世界観」に関しては、小黒氏の評価は一定していないようである。
小黒氏は6月号で「あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった」と言っていた。「渋くなってしまった」という言葉は、残念な気持ちをあらわすようでもある。
小黒氏は「アニメージュ」1988年4月号の「NURSE圭のVIDEO研究室「ビデオラボ」「「きまぐれオレンジ☆ロード」LD発売記念・トークパーティー」」において、「本編ってけっこうシブい話が多いでしょ。」と言い、それゆえに「ああいうキャピキャピしたキャラたちをみると楽しくて」と言っている。
これによると、「渋い」本編では楽しむことができず、「キャピキャピした」ものの方がよかったと思っているようでもある。
私は、「原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋い」という言葉遣いに違和感がある。原作は80年代風で明るく、アニメ版は生活感があって薄暗いということだとすると、当たっていると思うが、「キャピキャピ」という言葉は、むしろアニメ版の檜山ひかるの描き方に当たると思うし、「渋い」という言葉は、どちらかというと原作の方ではないかと思う。
恭介のモノローグ
小黒氏は、主人公の「恭介のモノローグ」について「異常に使い方がうまくてあれのおかげで、相当感情移入がしやすくなっています」と語っている。
しかしTVシリーズの「恭介のモノローグ」は、原作と比べて優柔不断を誇張した結果、感情移入しにくくなっていると私は思う。
7月号の「レコード・レビュー」で水品氏が「「きまぐれ」の番組自体は、恭介のモノローグが多すぎて、物語のスピード感を殺しているって印象が、かなりあった。」と語っているが、私もその通りだと思う。
このように、小黒氏がTVシリーズを持ち上げる言葉には、偏ったところがあると私は思う。
高橋望氏との関係
小黒祐一郎氏は「WEBアニメスタイル」の「アニメ様365日」の「第290回 マニア同人誌からアニメ雑誌に」において「「アニワル」では、僕達のアイデアがほとんど通った。担当の高橋望さんが、やりたい放題にやらせてくれたのだ。」と語っている。高橋望氏は小黒祐一郎氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げることについて、どう考えていたのであろうか?
まとめ
「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して、はじめは「アニメージュ」のスタッフからも批判的な声が出ていた。ところがすぐにそういう声はなくなり、原作から離れたTVシリーズをよしとする小黒祐一郎氏の主張ばかりになった。
そのことによって、TVシリーズを持ち上げて原作をおとしめる偏った考えが広まったと思われる。
「アニメージュ」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが始まる前の1987年3月号で、「アニメージュ」の読者の中に漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」が好きだという人が多いことを伝えて、「きまぐれオレンジ☆ロード」がアニメ化されることに関して、「最近のAM読者は、マンガをアニメの後追いではなく、ちゃんと先取りしてみている」と書いていた。漫画が先を行っていると書いていたのである。
ところがその1年後の1988年4月号では、その漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」について「あくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだった」と馬鹿にしたようなことを書いている。
その間に何があったのか?
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