「昼下りの情事」 オードリー・ヘプバーンとゲーリー・クーパー

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オードリー・ヘプバーン
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 1957年に公開された映画「昼下りの情事 Love in the Afternoon 」は、オードリー・ヘプバーンが「パリの恋人」の次に出演した作品である。

 監督は「麗しのサブリナ」と同じビリー・ワイルダー。 「麗しのサブリナ」と同じ ように、恋愛をコミカルに描いている。

 共演はゲーリー・クーパーGary Cooper。(敬称略)

 オードリー・ヘプバーンが出演したその他の映画↓


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暗さ

Sara VaccariによるPixabayからの画像

 映画「昼下りの情事」は、私には暗い印象がある。

 脚本も演出もビリー・ワイルダーによるコミカルなものであるが、絵が暗いi印象がある。

白黒

 「昼下りの情事」は白黒映画である。

 それゆえに暗く見えるということはあるであろう。

 「昼下りの情事」の前に作られた「パリの恋人」は、カラーであるだけでなく、カラーの中でも特に色の鮮やかな映画であった。

 「パリの恋人」と比べると一層「昼下りの情事」の暗さが目立つということもあるであろう。

 オードリー・ヘプバーンがそれまでに出演した映画では、「ローマの休日」(1953年)と「麗しのサブリナ」(54)は白黒、「戦争と平和」(56)、「パリの恋人」(57)はカラーであった。

 白黒からカラーに進んでいたのに、「昼下りの情事」ではまた白黒に後退したように見える、ということはある。

内容

 ただし同じ白黒でも、「ローマの休日」には明るい印象がある。

 「麗しのサブリナ」も比較的に明るかったのではないかと思う。

  「ビリー・ワイルダー自作自伝」では、次のように薄暗くした室内で撮影が行われたと記されている。

顔のしわが目立たないようにするために、ワイルダーはクーパーをホテル・リッツの薄暗くした室内で撮るようにし、ガーゼ越しに撮影するという手段も採用した―これは通常は、しわの多い女優を撮る場合にやむをえず実行される方法である。

「ビリー・ワイルダー自作自伝」、484頁

ビリー・ワイルダー自作自伝

 ゲーリー・クーパーのしわを目立たなくするために、薄暗くした室内で、ガーゼ越しに撮影が行われた。

 その結果、ゲーリー・クーパーのしわは目立たなくなったかもしれないが、画面が薄暗くもやのかかったものになった。

 オードリーの演ずる主人公の父親が探偵をやっているが、探偵というものは薄暗いものだということもできる。

 オードリーの演ずる主人公はチェロの奏者であるが、チェロも重く暗いものである。

年齢

AquilatinによるPixabayからの画像

 「昼下りの情事」でオードリー・ヘプバーンの相手役を務めるのはゲーリー・クーパーである。

ゲーリー・クーパーとの差

 ゲーリー・クーパーは1920年代から1950年代に至るまでアメリカ映画で美男の役を演じ続けてきた人である。

 しかしそれゆえにゲーリー・クーパーの年齢とオードリー・ヘプバーンの年齢とは離れていた。

 オードリー・ヘプバーンは1929年生まれであるが、ゲーリー・クーパーは1901年生まれであった。

 20代の女性と50代の男性である。

 監督のビリー・ワイルダーはもともとケーリー・グラントを考えていたという。

 ビリー・ワイルダーは次のように語っている。

『昼下りの情事』で残念だったのは、主役にケイリー・グラントを起用できなかったことだ。私の思い描くエレガントな主人公像にもっとも近い俳優だった彼を主人公に据えた映画を撮る夢はついに実現できなかった。

「ビリー・ワイルダー自作自伝」、481~482頁

ビリー・ワイルダー自作自伝

 ケーリー・グラントは1904年生まれで、年齢差はそれほど違わないようである。

オードリーと年齢差

 このあたりのオードリー・ヘプバーンの映画では、オードリーと相手の男優との年齢は大きく離れている。

 「麗しのサブリナ」のハンフリー・ボガートも「パリの恋人」のフレッド・アステアも1899年生まれであった。

 1900年前後に生まれて1930年代、1940年代に映画スターであった人々が1950年代にも映画スターであったということでもあろう。

 オードリー・ヘプバーンはそういう男性を相手としても合うと思われていたのでもあろう。

 しかしまたそれだけ年齢の離れた男女の恋愛はおかしいとも言われる。

ゲーリー・クーパーの場合

 「昼下りの情事」のゲーリー・クーパーはたしかに年老いているように見える。

 「パリの恋人」のフレッド・アステアより年老いているようにも見える。フレッド・アステアが軽やかなダンスを見せているのと比べると、動きが鈍くなっているように見える。

 そういう見せ場がないだけであろうか?

 ゲーリー・クーパーは1961年に亡くなっている。すでにその予兆が現れていたのかもしれない。

 「昼下りの情事」においてゲーリー・クーパーは、世界中で次々と違う女性と浮名を流すような男性を演じているが、それほど活発な男性に見えない。

 「昼下りの情事」のゲーリー・クーパーは、オードリーの演ずる女性の心をつかむ男性を演じているが、その力が弱いように見える。

 ゲーリー・クーパーは年老いたといっても、アメリカの映画の歴史において有名な美男である。

 力のある絵を撮ることはできなかったのであろうか?

 オードリーの演ずる主人公が探偵の娘として知った情報によって、ゲーリー・クーパーの演ずる男性の命を救おうとして、そのことによって相手に関心を持たれるというところなど、話の組み立てが面白い。

 オードリーの演ずる主人公がゲーリー・クーパーの演ずる男性に心をつかまれるというところは、すでに言ったように、説得力が弱い。

 オードリーの演ずる主人公は、ゲーリー・クーパーの演ずる男性に対抗するために大変な男性遍歴があると言う。

 そのことについて、オードリー・ワイラーは「そんなことはだれも信じません。ブリジット・バルドーが言ったのなら信じるでしょうけど」と言っている。(「オードリー・ヘプバーン物語」上、291頁)


オードリー・ヘップバーン物語(上) (オードリー・ヘップバーン物語) (集英社文庫)

 たしかにオードリー・ヘプバーンのような女性が、大変な男性遍歴を語って相手に信じさせることができるか、という問題はある。

 ビリー・ワイルダーは原作を「一種のエディプス的コメディーへと変更した」と語っている。

つまり、父を殺害した犯人を探すうちに自分に突き当たるエディプスと同じように、探偵であるアリアーヌの父は、嫉妬深い億万長者からの依頼でひとりの女を探すうちに、自分の娘を発見してしまう。

「ビリー・ワイルダー自作自伝」、485頁

 たしかにモーリス・シュヴァリエの演ずる父親が、探偵としてさがすうちに自分の娘であったと知るところは面白い。

日本

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 「昼下りの情事」では日本のことがとりあげられているところがある。

 はじめのモーリス・シュヴァリエの独白で、パリ、ロンドン、ニューヨーク、東京と並べられているところ。

 ゲーリー・クーパーの演ずる男性は世界各地の新聞でその艶聞が報じられるが、その中に日本語の新聞がある。

他の作品との比較

 「昼下りの情事」を観ていると私は他の作品を思い出してしまう。

「青髭八人目の妻」

 1938年に公開された「青髭八人目の妻 Bluebeard’s Eighth Wife 」は、ゲーリー・クーパー主演でビリー・ワイルダーの脚本であったということでも、「昼下りの情事」と関係がある。

 ゲーリー・クーパーの演ずるアメリカ人実業家は、クローデット・コルベールの演ずるフランス人女性と結婚するところまでいったが、それまで結婚離婚を繰り返してきたことをその女性に言ったことを受けて、その女性が対抗措置をとった。それに対して男性も対抗する、という話である。

 その男性がそれまで結婚離婚を繰り返してきたことをその女性に言うところが、少し似ている。

 「青髭八人目の妻」が男女の戦争を描いていたのと比べると、「昼下りの情事」は互いにやさしい。


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「恋の手ほどき」

 映画「恋の手ほどき Gigi 」は、「昼下りの情事」の一年後の1958年に公開された映画である。

 「昼下りの情事」を観る前に観ていたせいか、似ていると思った。

 「昼下りの情事」では、主人公の少女アリアーヌは気になる男性フラナガンが次々と違う女性と浮名を流すさまをみる。

 「恋の手ほどき」では、主人公の少女ジジは親しい男性ガストンが次々と違う女性と浮名を流すさまをみる。

 どちらでもモーリス・シュヴァリエが、主人公の少女と相手の男性との関係に対して傍観者の役を演じている。


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 「恋の手ほどき」は、オードリー・ヘプバーンが「ローマの休日」の前にブロードウェイの劇の主役に抜擢された作品である。

ビリー・ワイルダー

 ビリー・ワイルダーはエルンスト・ルビッチ、ハワード・ホークスに学んだ人である。

 「昼下りの情事」は、エルンスト・ルビッチやハワード・ホークスの恋愛喜劇に似ているようでもある。

 ゲーリー・クーパー、モーリス・シュヴァリエはエルンスト・ルビッチの恋愛喜劇に出演していた訳者である。

 しかし蓮實重彦は、ビリー・ワイルダーはエルンスト・ルビッチやハワード・ホークスと比べて泥臭いと言っていた。

ただ、ぼくはビリー・ワイルダーって、好きなのはあるんだけど、やはりギャグが泥くさい…。
(中略)
ああいうのは、ホークスはやらないですよね。やっぱり、スクリューボール・コメディー、とくに、セックス・ウォー・コメディーはワイルダーまでは生き延びていないとぼくは思うんです。

「ハワード・ホークス映画読本」、国書刊行会、2016年、266~267頁

ハワード・ホークス映画読本

 私もそう思う。

 たとえば「昼下りの情事」のはじめにモーリス・シュヴァリエの独白で、パリでは至る所で恋する人がいるというのに合わせて、そういう映像が次々と出て来るところがある。

 そのあたりは、たとえばエルンスト・ルビッチ監督の「生きるべきか死ぬべきか」のはじめに、ポーランド人らしい名前の商店の看板の映像を、ナレーションとともに二、三出して、それでここはポーランドだ、というようなところを思い出す。

 ところがビリー・ワイルダーはくどい。

 たとえばセーヌ川の左岸で恋する人がいて、右岸で恋する人がいる、というところまではいいが、中間にもいるといって船の上のカップルを出すとか、昼でも夜でもとか、肉屋でもパン屋でもとか、それをまだまだ続けていくのは、くどい。

 それだけのために多くの男女を出しているのは、それだけ余裕があるということであろうか?

 また、はじめに抱き合う男女が、車に水をかけられても抱き合い続けるというところがある。

 そういうことは、エルンスト・ルビッチも、ハワード・ホークスもやらないのではないかと思う。

 思うに、そういうことはドタバタコメディである。チャップリンやキートンの映画にあるようなことである。

 エルンスト・ルビッチやハワード・ホークスは、そういうドタバタコメディと違う恋愛喜劇を作った。

 ビリー・ワイルダーはそういう恋愛喜劇にまたドタバタコメディを入れた、ということではないか。

 恋愛喜劇は登場人物の気持ちを主とする。ドタバタコメディは登場人物を笑う観客を主とする。

 ジプシー楽団はコミカルであるが、サウナで演奏するところなど、まさにドタバタコメディである。

 ここで問題がある。

 ビリー・ワイルダーは、エルンスト・ルビッチ、ハワード・ホークスの代表的な作品の脚本を担当している。

 それにもかかわらず、ビリー・ワイルダーが脚本を書いた作品と、ビリー・ワイルダーが監督した作品との間に違いがあるということはどういうことであろうか?

 ビリー・ワイルダーは、ルビッチ、ホークスの映画の脚本と、自分の監督した映画の脚本と、違うように書いていたのか?

 エルンスト・ルビッチ、ハワード・ホークスによってビリー・ワイルダーは抑えていたのか?

 オードリー・ヘプバーンが出演したその他の映画↓


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