オードリー・ヘプバーンはアメリカの映画「ローマの休日」に出演して、多くの人に知られる人物となった。
ところでオードリー・ヘプバーンはどこの国の人であったのか?
どこで生まれ、どこで育ったのか?
オードリー・ヘプバーンの母
オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)の母は、オランダの貴族であった。
オードリーの母エラ(Ella)は、オランダのファン・ヘームストラ(van Heemstra)家に生まれた。男爵の家であった。
ファン・ヘームストラ家は、ユトレヒトの近くのドールン城を持っていたが、1920年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に売った。―ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の戦争犯罪人とされてオランダに逃亡していた。
そしてファン・ヘームストラ家はオランダ東部アルンヘム(アーネム、Arnhem)の領地に住んでいた。
オードリーの母エラは、1920年、19歳の時にオレンジ=ナッサウ勲爵士と結婚して、夫の任地オランダ領東インド諸島のバタヴィア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)で2人の息子を生んだ。
1925年にエラは離婚した。
エラは 一度オランダのアルンヘムに帰った後にまたインドネシアに行って、そこで知り合った英国人のビジネスマン、ジョゼフ・ラストン(Joseph Ruston)と1926年に結婚した。
1929年5月4日にジョゼフ・ラストンとエラ・ラストンの娘オードリー・ヘプバーンはブリュッセルで生まれた。
オードリー・ヘプバーンの父
国籍
オードリー・ヘプバーンの父ジョゼフ・ラストンは英国籍であった。
それゆえにオードリーは英国籍とされた。
ヘプバーン
オードリーの出生証明書には、名はオードリー・キャスリーン・ラストン(Audrey Kathleen Ruston)と記されている。
ヘプバーンとは記されていない。
オードリー・ヘプバーンの長男ショーン・ヘプバーン・ファラーはそのことについて次のように語っている。
第一次世界大戦後、母の父親であるアンソニー・ヴィクター・ラストンは家系図を探し出し、先祖がかつてヘップバーンと名乗っていたことを知った。そこで彼は名前にヘップバーンをつけ足し、母の戸籍上の名前にもヘップバーンが足されることになった。
「母、オードリーのこと」、竹書房、2004年、XIV
AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと
そうしてオードリー・ヘプバーンの父の名にヘプバーンがつけ足されて、アンソニー・ジョゼフ・ヴィクター・ヘプバーン―ラストンになったという。(「母、オードリーのこと」、7頁)
オードリーの次男ルカ・ドッティの「オードリー at Home 」では次のように記されている。
彼女のヘップバーンというのは祖父の苗字で、1939年4月6日に加えられた
「オードリー at Home 」改訂版、フォーイン スクリーンプレイ事業部、2019年、245頁
オードリーat Home―母の台所の思い出 レシピ、写真、家族のものがたり
ただしオードリーの出生証明書でも、1944年の身分証明書でも、1946年~1951年のパスポートでも、名はオードリー・ラストンと書かれていて、ヘプバーンは付け足されていない。
オードリーの家族の離合
離婚
1935年5月に、オードリー・ヘプバーンの父ジョゼフ・ラストンは、妻と娘を残して家を出た。
エラの父親(オードリーの祖父)がジョゼフ・ラストンの反ユダヤ主義のこと、財産管理のことで怒ったからだという。
エラとジョゼフとはそれまでしばしば口論していたようであるが、ジョゼフが家を出た時にエラは一晩で髪の毛が真っ白になるほど苦しんで泣いたという。
1938年にエラとジョゼフは正式に離婚した。
母エラがオードリーの優先保護権を得たが、父ジョゼフは娘(オードリー)が英国にとどまること、自分に訪問権が与えられることを要求した。
オードリーはその後も英国に住み続けた。
第2次世界大戦
第2次世界大戦はオードリー・ヘプバーンの人生に大きな影響を与えた。
イギリス
1939年9月にナチスがポーランドに侵入した。それに対して英国はドイツに宣戦布告した。
その時に、エラはオードリーをオランダに連れ帰る裁判所の許可を得た。
オードリーは英国からオランダに出国することになったが、その時に空港に連れて行ったのは、父ジョゼフであった。
オードリーはそれから20年、父ジョゼフと会うことはなかった。(1959年にその時の夫メル・ファラーのおかげでオードリーはアイルランドで父と再会することができた。)
オランダ
英国より安全だからということで、オードリーはオランダのアルンヘムで暮らすことになったのであるが、1940年にドイツがオランダに侵攻してオランダは降伏した。
オードリーの母エラは、オードリーの名をエッダ(Edda)とし、姓をファン・ヘームストラ(van Heemstra)として、オランダの学校に通わせた。
オードリーの長男ショーン・ヘプバーン・ファラーはそのことについて次のように語っている。
オードリーという名はあまりにイギリス的だと心配し、戦時中のみ母の名をエッダに変えた。
「母、オードリーのこと」、XIV
危険を避けるために、オードリー・ヘプバーンという英国風の名前を、オランダ風のエッダ・ファン・ヘームストラに変えたというのである。
1942年8月に、エラの姉ミーシェの夫オットー・ファン・リンブルグ・シュティルムが、ドイツに抵抗したということで、ドイツ兵によって森の中で射殺された。
1944年9月17日に始まったマーケット・ガーデン作戦で、アルンヘムは英国軍とドイツ軍の戦場となった。
イギリス
1945年に第2次世界大戦が終わった後、オードリー ・ヘプバーンは母エラとともに アムステルダムに移り住んだ。
1948年にオードリーとエラは英国に渡った。
以上のことは、バリー・パリスの「オードリー・ヘップバーン物語」(集英社、2001年)などの伝記、ショーン・ヘプバーン・ファラーの 「母、オードリーのこと」、 ルカ・ドッティの「オードリー at Home 」 による。
オードリー・ヘップバーン物語(上) (オードリー・ヘップバーン物語) (集英社文庫)
バレエ
オードリー・ヘプバーンは、はじめバレエによって世に出ようと考えていた。母もその考えを支えていた。
オードリーがバレエを稽古していた時期は第2次世界大戦と重なっていた。
1941年にオードリーはアルンヘム音楽学校のウィニア・マロ―ヴァのもとで本格的なバレエの稽古を始めた。
1945年にオードリーは母とともにアムステルダムに移住した。当時のオランダ・バレエ界の第一人者ソニア・ガスケル(1904~1974年)のもとでバレエをやるためであった。ウィニア・マロ―ヴァの推薦状による。
1948年にオードリーは母とともに英国に渡った。その前にマリー・ランパート(1888~1982年)のバレエ・スクールのオーディションを受けて、入学することがきまっていた。
結局オードリーはランパートからクラシックダンサーとして成功する肉体も才能もないと言われてしまった。
映画
オランダ
1948年にオードリーがガスケルのスタジオにいた時に、オランダの映画製作者による「 Dutch in Seven Lessons 」という映画に出た。
イギリス
1949年には、アメリカのヒットミュージカル「ハイ・バトン・シューズ」のイギリスのプロデューサーによるロンドン公演のダンサーに応募して、出演した。
「ハイ・バトン・シューズ」を観たロンドンの興行師セシル・ランドーは、自ら制作演出する「ソース・ピカント」にオードリーを出演させた。
イギリスの映画会社アソシエーション・ブリティッシュ・ピクチャー・コーポレーション Associated British Picture Corporation の映画の配役担当部長ロバート・レナードは、 「ソース・ピカント」 のオードリーを気に入って映画「天国の笑い声」に出演させた。
「天国の笑い声」はその年のイギリス映画で最大の興行収入を上げた。
オードリーは続いてABPCの映画「若気のいたり」、「若妻物語」、「ラヴェンダーヒル一味」に出演した。
1952年の映画「初恋 The Secret People 」でオードリーは3番手の役を演じた。
次の映画「我らモンテカルロに行く」の撮影中、モンテ・カルロでオードリーは作家コレットに見出されて、コレットの「ジジ」のブロードウェイ劇の主役とされた。
パラマウントのロンドン制作部長リチャード・ミーランドは「天国の笑い声」のオードリーに感銘を受けていて、「ローマの休日」に推薦した。
アメリカ
オードリーは「ジジ」、「ローマの休日」のためにアメリカに行った。
そしてスターになった。
オードリー・ヘプバーンが「ローマの休日」以前に出演した映画、「ローマの休日」以後に出演した映画は、今手に入る日本語版とともに、下の記事にまとめた↓
終わりに
オードリー・ヘプバーンの国籍がわかりにくいことにはそれだけの理由があった。
オードリー・ヘプバーンは「ローマの休日」をはじめとするアメリカ映画によって多くの人に知られている。
しかしオードリー・ヘプバーンはアメリカで生まれたのでも、アメリカで育ったのでもない。
ヨーロッパで生まれ育った人である。
オードリー・ヘプバーンの父は英国籍であったが、母はオランダの貴族であった。
・両親が離婚して、母が優先保護権を得たが、第2次世界大戦が始まるまでは英国にいた。
・第2次世界大戦が始まってからオランダで母とともに暮らした。
・第2次世界大戦の後に母とともに英国に渡った。そして英国で出演した映画がきっかけでアメリカ映画「ローマの休日」に出演することになった。
このようにわかりにくくなる理由があったのである。
AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと
オードリーat Home―母の台所の思い出 レシピ、写真、家族のものがたり
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