能登半島地震―岸田首相・馳知事の「初動」に問題はあったか? 情報の整理

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令和6年能登半島被災地 能登半島地震
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 2024年1月1日に起こった能登半島地震では、岸田文雄首相・馳浩石川県知事の「初動の遅れ」ということが早くから問題とされた。

 しかしその「初動の遅れ」ということは必ずしも明らかにされていないまま言われているのではないか?

 岸田首相・馳知事の「初動」の情報を整理しよう。

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問題

 岸田首相の「初動」に問題があったか? ということを考えるためには次のことを明らかにしなくてはならない。

・岸田首相は被災地についてどのような認識をもっていたか? (「認識の甘さ」が問題とされているが、どうであったのか?)

・そしてどのように対応したか? (「初動の遅れ」が問題とされているが、どうであったのか?)

被災地に対する認識

 2024年1月1日16時10分頃、石川県能登地方の深さ約15kmでマグニチュード7.6の地震が発生したが、その後の岸田首相・馳知事の「初動」はどうであったか?

 時事通信の「首相動静」では、地震発生後の岸田首相の動きは次のようにまとめられている。

1月1日の地震後の岸田首相の動静
  • 16時10分
    地震発生

  • 17時16分
    岸田首相、官邸に到着
  • 17時17~18分
    報道各社のインタビュー
  • 17時19~34分
    林芳正、村井英樹、栗生俊一正副官房長官、松村祥史防災担当相、鈴木敦夫官房副長官補、原和也内閣情報官、高橋謙司内閣府政策統括官、森隆志気象庁気象防災監。
  • 18時25~51分
    林、村井、森屋宏、栗生正副官房長官、松村防災担当相、鈴木官房副長官補、原内閣情報官、高橋内閣府政策統括官、森気象庁気象防災監。
  • 21時26~22時01分
    林、村井、森屋、栗生正副官房長官、松村防災担当相、鈴木官房副長官補、原内閣情報官、高橋内閣府政策統括官、森気象庁気象防災監。
  • 22時15~25分
    坂口茂石川県輪島市長と電話
  • 22時30~40分
    泉谷満寿裕同県珠洲市長と電話
  • 23時35~38分
    報道各社のインタビュー
  • 23時39分
    官邸発

 地震が発生して1時間後に官邸に到着。

 23時51分、官邸から出た後に岸田首相は次のようなポストをしている。

・「能登半島地震に対し、現地の情報を全力で収集して」いるといっている

・自衛隊機で防災担当副大臣以下の内閣府調査チームも金沢に到着しているという

・自衛隊の災害派遣、警察の広域緊急援助隊の派遣、消防の緊急消防援助隊の派遣を順次行っているという

 以上のことについて考えてみよう。

東京から現地へ

 まず防災担当副大臣以下の内閣府調査チームを自衛隊機で現地に派遣したことについて。

 古賀防災担当副大臣は1月1日から1月19日まで現地に派遣されていたという。1月1日23時51分には金沢に到着していたと岸田首相は語っている。

 馳知事も地震が発生した時には東京にいて、その日のうちに石川県庁に入った。

馳氏によると、地震当時は首都圏にいたが、交通機関が止まっていたため林芳正官房長官らに連絡した上で官邸に駆け付けたという。
 馳氏はオンライン会議で「人命最優先で対応をお願いしたい」と要請。終了後、記者団に「県庁の災害対策本部に入り、今後の対応を取ろうと思う」と述べ、官邸を出て自衛隊機を使い、同日中に地元に戻った。

時事ドットコム 馳石川知事、官邸で初動指揮 県庁とオンラインで―能登半島地震

 このことに関して興味深いことがあった。―その後に馳知事が「元日から24時間知事室に滞在して適時適切に指示を決裁していた」と言ったという記事に対して、立川雲水氏が「歴史修正発言」と言ったのである。

 「戦史/紛争史研究家」山崎雅弘氏も「ウソ」だと言っている。

 震災が発生した時に馳知事が石川県庁にいなかったことを問題としているようである。

 しかし1月1日の23時からであっても「24時間知事室に滞在」をしているとすると、「1月1日から24時間、知事室に滞在しております」ということは「ウソ」にはならない。

 岸田首相・馳知事の「初動の遅れ」に対する非難にはこういうことがあるので気を付けなくてはならない。

現地の情報の収集

 次に、岸田首相の「能登半島地震に対し、現地の情報を全力で収集して」いるという言葉について考える。

 能登半島地震では岸田首相の「認識の甘さ」が問題とされた。そのことと関わることである。

 「能登半島地震に対し、現地の情報を全力で収集して」いるということは、まだ現地の情報を十分に把握していないということである。そういう意味で「認識の甘さ」があるということはできる。しかしまた「全力で収集して」いるということは、「認識の甘さ」にとどまろうとしていないということでもある。

 1月1日23時51分の岸田首相の被災地に対する認識は上に引用した通りであった。地震発生から23時ころまではどうであったか?

 1月8日の朝日新聞の記事は、題に「「初動を甘く見た」首相批判も」とあるように岸田首相が「初動を甘く見た」という批判を取り上げている。しかしその時のことを記した本文は、そういう批判とは違うことを示しているようである。

 地震発生直後の1日夕、首相は官邸幹部らに「これはひどい災害になるんじゃないか」と語っていた。だが、道路や通信インフラが破壊され、状況はなかなか分からなかった。日没直前というタイミングに加え、集落が点在する半島という地理的な特性が障壁になり、被害の深刻さの一端が見えてきたのは、同日午後10時を回ってからだ。

朝日新聞DIGITAL 「初動を甘く見た」首相批判も 能登地震1週間、被害の全容つかめず

 まず、岸田首相は地震直後に「これはひどい災害になるんじゃないか」と語っていたことが伝えられている。岸田首相が「ひどい災害になる」可能性を考えていたということは、「初動を甘く見た」ということに反することではないか?

 岸田首相は地震直後に「これはひどい災害になるんじゃないか」という可能性を考えていたが、「状況はなかなか分からなかった」と言われている。「道路や通信インフラが破壊され」ていたからである。「日没直前というタイミング」「集落が点在する半島という地理的な特性」が「障壁」になったからである。

 状況が分からなかったことの原因はそういう「障壁」にあったということは、岸田首相にはなかったということではないか?

 2月1日の朝日新聞の記事も題に「認識甘かった」という言葉が使われている。しかしその記事で伝えている1月1日の官邸の様子は、「認識甘かった」という言葉と合わないようである。

 1月1日夜、官邸の執務室で岸田文雄首相は焦燥感に包まれていた。
 午後4時過ぎに石川県能登半島を震源とする震度7の激震が発生。首相はその約1時間後から、執務室で秘書官らと共に待機していた。つけっぱなしのNHKのテレビは、アナウンサーが津波からの避難を呼びかけ、炎に包まれる輪島市の市街地を映し出していた。
 だが、首相にもたらされるのは「道路が寸断されている」「生き埋めが発生している」といった断片的な報告ばかり。全体状況が分からないまま、刻々と時が過ぎた。

朝日新聞DIGITAL 「認識甘かった」地震5時間、情報なき首相官邸 危機感共有されず

 この記事によると、岸田首相は地震発生約1時間後に官邸の執務室に入ってから、被災地の状況を知ろうとしていたが、明らかにならず「焦燥感に包まれていた」ようである。

 「認識甘かった」ということが問題とされるのは、厳しい現実と異なる甘い認識によって動いた(あるいはとどまった)場合であろう。

 しかしこの記事では、岸田首相は自分の認識は不十分であることを自覚して、正確な認識を求めていたとされている。どこに「認識甘かった」と問題とされるところがあるのか?

特定災害対策本部と非常災害対策本部

 岸田首相は1月1日、まず特定災害対策本部を設置、23時ころ非常災害対策本部に格上げした。

 そのことを問題としている人がいる。

 「能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから」というのである。そのことについて考えてみよう。

 1月1日23時51分、岸田首相はそれまで設置していた特定災害対策本部非常災害対策本部に格上げして、岸田首相が本部長になったことを伝えている。

災害対策基本法

 特定災害対策本部も非常災害対策本部も、災害対策基本法によるものである。

 災害対策基本法では、災害が発生した時に、特定災害対策本部を設置する場合と非常災害対策本部を設置する場合が分けられている。

 非常災害対策本部を設置する場合は「非常災害が発生し、又は発生するおそれがある場合」である。

第二十四条 非常災害が発生し、又は発生するおそれがある場合において、当該災害の規模その他の状況により当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は、内閣府設置法第四十条第二項の規定にかかわらず、臨時に内閣府に非常災害対策本部を設置することができる。

災害対策基本法

 特定災害対策本部を設置する場合は、災害の「規模が非常災害に該当するに至らないと認められるものに限る」。

第二十三条の三 災害(その規模が非常災害に該当するに至らないと認められるものに限る。以下この項において同じ。)が発生し、又は発生するおそれがある場合において、当該災害が、人の生命又は身体に急迫した危険を生じさせ、かつ、当該災害に係る地域の状況その他の事情を勘案して当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるもの(以下「特定災害」という。)であるときは、内閣総理大臣は、内閣府設置法第四十条第二項の規定にかかわらず、臨時に内閣府に特定災害対策本部を設置することができる。

災害対策基本法

 非常災害対策本部の長は「内閣総理大臣」。

第二十五条 非常災害対策本部の長は、非常災害対策本部長とし、内閣総理大臣(内閣総理大臣に事故があるときは、そのあらかじめ指名する国務大臣)をもつて充てる。

災害対策基本法

 特定災害対策本部の長は「防災担当大臣その他の国務大臣」。

第二十三条の四 特定災害対策本部の長は、特定災害対策本部長とし、防災担当大臣その他の国務大臣をもつて充てる。

災害対策基本法

 それゆえに岸田首相は「特定災害対策本部を非常災害対策に格上げして」自ら本部長を務めることになったのである。

状況の認識

 今取り上げている「能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから」という記事は、2024年1月の能登半島地震は「非常災害」に当たると主張する。したがって特定災害対策本部ではなく、非常災害対策本部を設置しなくてはなかったというのである。

2021年5月の法改正で新設した特定災害対策本部は、非常災害に至らない、死者・行方不明者数十人規模の災害のとき設置するものとされる。能登半島地震には当てはまらない。これは、230人の死者がカウントされたいまだから言えるわけではない。地震学の知識を少しでも持っていれば、地震後ただちに発表された震源位置と震度7,そしてマグニチュード7.6、深さ16キロを聞いてただちにわかったことである。

能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから

 問題になるのは「地震学の知識を少しでも持っていれば、地震後ただちに発表された震源位置と震度7,そしてマグニチュード7.6、深さ16キロを聞いてただちにわかったことである」というところ。

 後から振り返ると、2024年1月の能登半島地震は「非常災害が発生し、又は発生するおそれがある場合」に違いない。

 岸田首相は1月1日23時ころに非常災害対策本部を設置するまで、どうしてそう考えていなかったのか?

 上に引用した記事によると、「断片的な報告ばかり」で「全体状況が分からない」からということのようである。

 早川氏は1月1日20時に開催された第1回特定災害対策本部会議での気象庁から出席した気象防災監の発言を取り上げて次のように語っている。

じっさい、1日20時03分に開催された特定災害対策本部会議の冒頭で、気象庁から出席した気象防災監が「震源はごく浅く、マグニチュード7.6。速報値であるが、これは阪神・淡路大震災のマグニチュード7.3を上回ったもの。揺れそのもので、相当の被害が出ている可能性を考えている」と発言した(議事録)。大津波警報にばかり世間の目が向いていたとき、気象防災監は地震専門家として、揺れによって大きな被害が発生していると正しく警告した。いまそのとき大勢が生き埋めになっているとする深刻な指摘だ。しかし、会議は途中で立ち止まることなくそのまま進行した。

能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから

 気象防災監は地震専門家として、早川氏と同様の認識を持っていたというのである。「しかし、会議は途中で立ち止まることなくそのまま進行した。」というのである。

 しかし議事録に記されていることは、早川氏が語ることと違うようである。

 気象防災監はたしかに「揺れそのもので、相当の被害が出ている可能性を考えている」と言っている。しかしそのことについてはそれだけしか言っていない。そしてそれより多く津波について言っている。この議事録で最も多く津波について語っているのが気象防災監である。

 建物倒壊に関しては他の人が語っている。

 内閣府政策統括官は「建物倒壊等による生き埋めが 6 件発生している」こと、「建物等の被害については、倒壊が多数発生しているとのこと」を取り上げている。

 警察庁の警備局長も、「石川県警に多数の通報。建物倒壊に関するものが多い。」と言っている。ただし「人的被害に関するものは調査中で不明」と言っている。

 何故にそのことを取り上げないのか?

 議事録によると、建物倒壊が多いことは伝わっていたが、人的被害に関しては明らかになっていなかったようである。

非常災害対策本部

 朝日新聞の1月8日の記事によると、第1回特定災害対策本部会議を開いて間もなく、岸田首相は輪島、珠洲両市長と電話して被害の深刻さを知ったことによって、特定災害対策本部を非常災害対策本部に格上げした。

 「住宅の倒壊が多数あり、道路も寸断され重機も入らない。金沢市からの輸送も無理だ」「過去にない広範囲の被災だ。電気・水も止まっている。携帯電話もつながらない」
 石川県の輪島、珠洲両市長から電話で聞き取った首相は、初会合を開いたばかりだった特定災害対策本部を一転、非常災害対策本部に格上げするように指示し、自らが本部長に就いた。

朝日新聞DIGITAL 「初動を甘く見た」首相批判も 能登地震1週間、被害の全容つかめず

 その記事では次のようなことも伝えられている。

官邸幹部は「初めは被害の程度がわからず、役所も非常災害対策本部にする段階ではないと言っていた」と話す。

朝日新聞DIGITAL 「初動を甘く見た」首相批判も 能登地震1週間、被害の全容つかめず

 これによると、「初動を甘く見た」のは岸田首相個人の問題ではなく、役所も情報が把握できていなかったということではないか?

 読売新聞の2月5日の記事では、岸田首相は17時ころに地震の規模が大きいことを聞いて17時30分に特定災害対策本部を「いったん設置」し、その約5時間後に非常災害対策本部に格上げしたと伝えている。

発生直後、政府内には「被害は軽微ではないか」との希望的観測さえあったが、「道路の寸断で被害状況の把握もままならない」といった情報が次々と寄せられた。
 岸田首相も1日午後5時頃、能登地方を地盤とする自民党の西田昭二衆院議員との電話で、「昨年の地震とは揺れが全く違う。能登を助けてください」と窮状を訴えられた。
 政府は、同日午後5時30分に「特定災害対策本部」(本部長・松村防災相)をいったん設置。首相は「空振りでも構わない」と判断し、約5時間後に首相をトップとする「非常災害対策本部」に格上げした。

読売新聞 道路・情報寸断で「陸の孤島」になった能登、自衛隊の救助難航…初動対応の「定石」通じず

 ここでは呉語5時ころの西田議員との電話がきっかけとなったとされている。

 岸田首相が特定災害対策本部を非常災害対策に格上げする時に「空振りでも構わない」と判断していたということは、「空振り」になるかもしれないと思われ情報しか与えられていなかったということであろう。そしてそれにもかかわらず格上げすることを決めたということであろう。

 このように各社の報道において、岸田首相は与えられた情報が増えるに従って対策を格上げするのみならず、与えられた情報以上に積極的に動いていたと伝えられている。

震災対応

 次に問題となるのは、岸田首相・馳知事の認識と、震災対応との関係である。岸田首相・馳知事の認識のために震災対応が遅れたのか?

馳知事

 馳浩石川県知事は1月1日18時25分に、陸上自衛隊に派遣要請をして「明朝、朝一での対応をお願いした」とポストした。

 早川氏はそれを取り上げて「正気か」と言った。

 直ちに投入しなくてはならないのに、明朝、朝一から投入するのはおかしい、ということのようである。

 早川氏は後日、馳知事が『19時30分ころ記者団に対して「午後5時過ぎには、副知事を通じて自衛隊の派遣要請も出し、速やかに対応していただけると思うが、夜に入ったので、あすの朝、明けてから本格的な情報収集や救命活動に入ることになる」と述べていた』ことを知ったらしい。

 馳知事が地震発生後間もない時に自衛隊に派遣要請していたことを、それまで知らなかったようである。しかし早川氏は「これでは自衛隊は明朝まで動けない。明朝まで動きを封じられた」と断じている。馳知事の「認識の甘さ」のために自衛隊は動きを封じられたというのである。

 この主張には疑問がある。

 馳知事によって自衛隊は動きを封じられたのであろうか? できるだけ早く動こうとしても時間がかかったということはないのであろうか? 早川氏が後日知ったことは、そのことと関わることではないか?

自衛隊

 震災直後に自衛隊を能登に派遣することには困難な状況があったと言われている。

 たとえば時事通信の記事では「北陸3県の陸自定員は1400人で、初日に投入した1000人はほぼ総動員に近かった」と言われている。

 地震発生後の金沢駐屯地からの先遣隊の動きを、2月5日の読売新聞の記事は次のように伝えている。

 地震発生から1時間後。陸自の金沢駐屯地(金沢市)では先遣隊20人が高機動車2台に分乗し、約100キロ離れた輪島、珠洲市に向けて出発した。地割れや陥没に阻まれ、輪島中心部入りを断念。 迂回うかい 路を探すうち1台が動けなくなった。残る1台が珠洲市にたどり着いたのは翌2日の正午頃。すでに20時間近くたっていた。

読売新聞 道路・情報寸断で「陸の孤島」になった能登、自衛隊の救助難航…初動対応の「定石」通じず

 地震発生から1時間後に金沢を出発した先遣隊が「輪島中心部入りを断念」、1台が動けなくなって、2日の正午に珠洲市に到着している。

 地震直後から動くものは動いていた。そしてできるだけ早く動こうとしても時間がかかった。ということではないか?

 名古屋市に司令部がある陸自第10師団は、地震発生直後に馳知事から派遣を要請されたという。そして間もなく派遣を開始した。

 地震発生から約30分後の午後4時45分、酒井秀典・第10師団長が馳浩石川県知事の要請を受けて災害派遣を開始。兵庫剛副師団長らが夜に守山駐屯地を車で出発し、2日未明に石川県庁の対策本部に着いた。

朝日新聞DIGITAL 道路寸断、渋滞に阻まれた「前進」 陸自隊員、難渋の能登地震初動

 朝日新聞の4月3日の記事で、兵庫剛・副師団長はその時のことを次のように語っている。

 元日夕の発災直後、石川県庁の対策本部経由で自衛隊に「数百人単位のヘリコプター空輸」を要望されたが、趣旨がわからない。兵庫氏は深夜に司令部を陸自車両で発ち、翌日未明に県庁に着いた。
 対策本部の拠点は6階。危機対策課に自衛隊と警察、消防が集まった。消防は消防庁長官の指示で東海・関西各府県から緊急援助隊が来ていたが、現状認識が共有されない。兵庫氏が呼びかけた。
 「頭をそろえましょう。被災状況がわからない。被災地へどうやって行けばいいかもわからない。情報を『見える化』しましょう」

朝日新聞DIGITAL 能登地震直後 自衛隊副師団長が呼びかけた情報共有、見えた支援方針

 「被災状況がわからない。被災地へどうやって行けばいいかもわからない」という状況だったというのである。自衛隊も消防も警察もそういう状況に対応して動いていたようである。

 馳知事の言葉によって動きを封じられたのではないのではないか?

緊急消防援助隊

 次に消防庁の緊急消防援助隊について。

 石川県の災害危機管理アドバイザーも務めてきた神戸大名誉教授の室崎益輝氏は朝日新聞の1月14日の記事において、緊急消防援助隊に関して次のように語っている。

今回は遅れた。緊急消防援助隊の投入も小出しで、救命ニーズに追いついていない。本来は「想定外」を念頭に、迅速に自衛隊、警察、消防を大量に派遣するべきでした。

朝日新聞DIGITAL 「初動に人災」「阪神の教訓ゼロ」 能登入りした防災学者の告白

 「迅速に自衛隊、警察、消防を大量に派遣するべきでした」というのであるが、特に緊急消防援助隊の投入について「小出し」であったと批判している。

 緊急消防援助隊は「被災地からの要請を待たずに地震発生直後から出動」したと伝えられている。

 総務省消防庁は今回、地震発生の約20分後に各地の消防に出動を要請。東日本大震災に匹敵する揺れや大津波警報の発令に加え、正月休み中であることも加味した判断だった。同庁担当者は「甚大な被害が想定され、元日だったことから状況の把握と要請に時間を要すると危惧した」と振り返る。
 意識したのは、生存率が急激に下がるとされる「発生後72時間」。72時間を迎える1月4日には、約1800人が救命・救助に当たり、輪島市で80代の女性を救出した。同庁幹部は「消防の使命は人命救助。72時間を意識して、初動から大規模な人員を投入した」と語る。

時事ドットコム 初の「要請前出動」 活動広がる緊急援助隊―東日本以来の大規模投入・能登地震

 陸自第10師団の兵庫副師団長も、1月2日未明の石川県庁に「消防は消防庁長官の指示で東海・関西各府県から緊急援助隊が来ていた」と語っている。

 1月1日20時の特定災害対策本部会議で総務省は「被災自治体からの応援要請はないが、総務省では、ニーズ把握実施中」と言っていた。

 総務省消防庁は甚大な被害を想定して、人命救助のために「初動から大規模な人員を投入した」というのである。まさに早川氏のような考えを持って動いていたようである。

 しかしそれでも1月4日までにその半数しか「被害集中地域」に行くことができなかったと共同通信の1月28日の記事は伝える。

 能登半島地震当日に指示を受け被災地に向かった11府県の「緊急消防援助隊」約1900人のうち、発生72時間以内の1月4日までに石川県珠洲市や輪島市の被害集中地域に入り活動できた隊員が約半数にとどまったことが28日、各消防への取材で分かった。道路損壊や土砂崩れの多発で大型消防車などの走行が阻まれたのが要因で、ルートが限られている半島特有の災害対応への課題が改めて明らかになった。

共同通信 72時間以内の援助隊入り半数 珠洲、輪島の被害集中地域

 室崎氏は「緊急消防援助隊の投入も小出しで、救命ニーズに追いついていない」と言ったが、緊急消防援助隊を実際より多く投入することはできたのであろうか?

警察の広域緊急援助隊

 室崎氏は自衛隊、消防のみならず警察も「大量に派遣するべきでした」と語っている。

 警察は石川県の要請を受けて広域緊急援助隊を派遣した。こちら

 埼玉県の派遣した広域緊急援助隊の記事がある。

1日の夜に車で埼玉県を出発し、翌2日朝には石川県に入りました。そのあと七尾市に向かいますが道路の被害や激しい渋滞でたどりつけず、最終的には3日になって、ようやく能登半島の先端部に近い珠洲市に到着することができました。

NHKさいたま放送局 能登半島地震 埼玉県警広域緊急援助隊「まともな道路がひとつもない」 困難な救助活動振り返る

岸田首相による非常災害対策本部の初会合

 早川氏は岸田首相がすぐに非常災害対策本部を設置しなかったことを非難したが、その上に、次の日の朝に初会合を開いたことを非難した。

翌朝、岸田首相が官邸にあらわれたのは8時52分。馳知事と電話会談したあと非常災害対策本部の初会合を9時23分に開いた。じつに地震から17時間後だった。わずか55分で初会合を開いた2016年4月熊本地震と比べると、無為に過ぎた時間の長さに慄然とする。

能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから

 しかし能登半島地震の発生後17時間後に非常災害対策本部の初会合を開いたことを、熊本地震の発生後55分で初会合を開いたことと比較して、前者の「無為に過ぎた時間の長さ」を問題とすることはおかしくないか?

 岸田首相は地震発生後、17時16分から23時39分まで官邸にいて被災地の情報収集をしていた。そしてその情報をもとにして「いったん」特定災害対策本部を設置し、その後に非常災害対策本部に格上げした。わからなかった状況が次第に明らかになってくるとともに対応を上げていったということではないか?

 第1回非常災害対策本部会議で岸田首相は「時間の経過、夜明けとともに被害状況が徐々に明らかになってきている」と語っている。

時間の経過、夜明けとともに被害状況が徐々に明らかになってきている。被災者の救命救助は時間との勝負。特に建物の倒壊等による被害者は一刻も早く救出する必要がある。

非常災害対策本部会議(第 1 回)議事録

 室崎氏は「被災状況の把握が直後にできなかったために、国や県のトップがこの震災を過小評価してしまったのではないでしょうか。初動には人災の要素を感じます。」と語った。室崎氏は岸田首相のように「時間の経過、夜明けとともに被害状況が徐々に明らかになってきている」というのと違うやり方を知っているのか?

 岸田首相が非常災害対策本部初会合を開くまでに時間がかかったことによって、震災対応が遅れたということにも疑問がある。

 自衛隊、警察には地震直後に石川県から派遣要請があって、動いていた。消防は要請されずに動いていた。

 岸田首相が第1回非常災害対策本部会議で言うように、自衛隊も、警察の広域緊急援助隊も、消防の緊急消防援助隊も非常災害対策本部会議の前から動いていたのであって、非常災害対策本部会議の後から動くのではない。

自衛隊、警察の広域緊急援助隊、消防の緊急消防援助隊については、昨夜のうちに自衛隊の航空機などあらゆる手段をもちいて現地に部隊を進め、順次救命・救助等の活動を開始しているが、引き続き、部隊を最大限動員し、住民の安全確保を最優先に救命救助活動に全力を尽くしていただきたい。

非常災害対策本部会議(第 1 回)議事録

 岸田首相が「部隊を最大限動員」することを求めていることは重要である。岸田首相を批判した人が語ったように、わざと小出しにすることを岸田首相は求めていない。

 早川氏は非常災害対策本部初会合が遅かったために次のようなことになったと語っている。

1日20時03分の特定災害対策本部会議で決めた応急対策が、翌2日9時23分まで13時間継続した。本部長が防災担当大臣で、総理大臣でなかったことは自衛隊の士気に大きく影響しただろう。消防の救命救急活動も、必要最大限のものにはならなかっただろう。

能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから

 しかし自衛隊も消防も自分達で情報を把握して、その情報に対応して動くのではないか?

 現実には兵庫副師団長が言うように、当初、自衛隊、警察、消防で「現状認識が共有されない」状況であった。それぞれの現状認識がバラバラであったということであろう。それぞれ「被災状況がわからない。被災地へどうやって行けばいいかもわからない。」という状況にあった。そこで「情報を『見える化』しましょう」ということになった。

 岸田首相・馳知事はその動きを妨げたのであろうか?

 早川氏は最後に次のように語っている。

地震の翌日2日から4日まで、救命救急のために重要だとされる最初の72時間は冬の北陸地方にはめずらしい好天が続いた。風が弱くて視界もよく、ヘリコプターを飛ばすのに支障ない天候だった。不幸中に訪れたあの幸いを生かすことができなかったのが残念だ。

能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから

 しかし自衛隊も警察も消防も地震発生直後から動いていた。そして発生後72時間を意識して動いていたのに、困難な状況があったのである。

 それに対して早川氏は何をすべきであったと言っているのであろうか?

おわりに

 まとめよう。

 能登半島地震では、岸田首相は被災地の状況についてはじめは正確な情報が得られなかったが、次第に明らかになっていった。そのことは自衛隊なども同様だったようである。岸田首相個人の認識の甘さなどということではないようである。

 岸田首相個人の認識の甘さなどということを問題とするより、能登半島地震では「被災状況がわからない。被災地へどうやって行けばいいかもわからない。」という状況が生じたことを問題としなくてはならないのではないか?

 室崎氏は「被災地で起きていることを把握するシステムが機能しなかった」と語っているがどういうことか? そういうシステムがあったということか?

 能登半島地震では、自衛隊、警察、消防などは震災直後から動いていた。それぞれ独自に情報を集めて、その情報をもとにして動いていた。岸田首相・馳知事によってその動きを妨げられることはなかったようである。

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