月: 2022年4月

  • 「きまぐれオレンジ★ロード」TVシリーズ第1話

    「きまぐれオレンジ★ロード」TVシリーズ第1話

     「きまぐれオレンジ★ロード」TVシリーズ第1話を見て気づいたことを書いてみる。


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    原作

     「きまぐれオレンジ★ロード」TVシリーズ第1話は、原作漫画の第1話をもとにして作られている。


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     TVシリーズの作り手は、原作漫画の第1話をどうアニメ化したか?

    タイトル

     まずタイトルを比べてみる。

     TVシリーズ第1話のタイトルは「転校生!恥ずかしながら初恋します」。

     原作漫画の第1話のタイトルは「まっ赤な麦わら帽子」。

     原作は「まっ赤な麦わら帽子」だけ。

     TVシリーズは「初恋」と言っていて、それも「初恋します」というようにそう言う主人公を出している。

    階段の場面

     物語のはじめの階段の場面でも、原作漫画とTVシリーズとで感じが大きく違う。

    季節

     原作の季節は夏という感じがする。あるいは夏に向かう季節。

     くっきりと明るい日差し。木の葉を揺らすさわやかな風。

     私がTVシリーズをみて物足りないと思うのは、原作は夏を描いているのに、TVシリーズはその夏を描いていないことによると気づいた。

     もっと鮮やかな色がほしいのに、控えめな色になっている。

     TVシリーズでは風に舞う桜の花びらが描かれている。

     4月のはじめを桜の花びらによって表現する伝統的なやり方であろうか。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」では夏は重要な意味をもっている。

     最終回の最後のページで、「「永遠の夏」の時代」としての「80’s」がうたわれている。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は夏を描いた漫画ということもできる。

     そういう作品であるゆえに夏から始まるのである。―夏から始まって夏に終わる。

     ここで「夏」というのは「永遠の夏」という意味。

     まつもと泉先生は、よしまさこ先生との対談でも、80年代について「夏、夏っていうイメージがすごく強くなかったですか」と言っている。

     それに対してよしまさこ先生は「そう!いつでもピーカンっていう感じでしたよねぇ。冬でも夏!(笑)」と答えている。(「もう一度あいたい」)


    もう一度あいたい

     「冬でも夏!」という意味の「夏」。

     第1話が掲載されたのは「週刊少年ジャンプ」1984年第15号3月26日号。

     第8話がゴールデンウィークの話なのでそれより前にちがいない。

     それでも「夏」なのである。

     そういう意味の「夏」を、TVシリーズははじめから描いていないのではないか?

    都会

     原作漫画の階段は、都会の階段という感じがする。

     TVシリーズの階段は住宅街の中にある階段である。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は第1巻の袖で原作者が書いているように「シティ感覚SFラブストーリー(ギャグとゆー話もあるが…)」である。

     都会を主題にしている。

     TVシリーズはそうではない。

    主人公

     TVシリーズでは、主人公の春日恭介を原作よりわざとかっこわるく描いているように見える。

     階段を数えながら上るところでもそうである。

     TVシリーズ第1話は、階段を上る主人公の足元から始まっているのであるが、そのことによって主人公をかっこよく描こうとしているようには見えない。

     原作の主人公はコンバースのスニーカーを履いている。格好をよくしている。

     原作の主人公は階段を駆け上っている。

     TVシリーズの主人公は歩いて階段を上っているように見える。

     飛んできたまっ赤な麦わら帽子を主人公が飛び上がってつかむところでも、原作漫画では体のばねをつかってとっているように描かれているのに、TVシリーズではたまたま飛び上がるととれたように描かれている。

     TVシリーズの主人公が帽子をとった姿は、何かかっこわるく見える。

    出会い

     まっ赤な麦わら帽子を手に取った春日恭介は、階段の上にいたその帽子の持主、鮎川まどかと出会う。

     その時の二人の距離感が、原作とTVシリーズとで違う。

     TVシリーズでは離れている。原作ではそれほど離れていないように見える。

     原作で鮎川まどかが初めて出て来たコマで、二人はそれほど離れていないように描かれている。

     TVシリーズで鮎川まどかが初めて出て来た絵では、二人の間にある距離、段差が強調されている。その次に二人がともに入った絵では、二人は離れていて、春日恭介は急な階段の下の方にいるように描かれている。

     上に現れた鮎川まどかに対して春日恭介は下から見る。―このことは春日恭介と鮎川まどかとの関係を象徴しているように見える。鮎川まどかは精神的に上にいるものとして現れる。それに対して春日恭介は精神的に下から見るのである。

     この場面の原作とTVシリーズの描き方の違いは、それぞれの、鮎川まどかと春日恭介の描き方の違いを示すものと考えることができる。

     原作においては、鮎川まどかが上、春日恭介が下ではあるが、二人はそれほど離れていない。それゆえに親しくなる。

     TVシリーズにおいては、鮎川まどかが上であることは原作より強調され、春日恭介が下であることも原作より強調されている。二人の間の距離は原作より大きい。それにもかかわらず鮎川まどかは春日恭介に好意を抱くとされている。

    学校

    制服の色

     原作漫画を先に読んでいると、ジャンプコミックス第6巻の表紙の青いセーラー服の印象が強くて、TVシリーズで灰色になっているのをみて物足りなく思う。


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    小松、八田

     主人公春日恭介が転校してきた学校では、隣の席に小松、八田がいる。

     原作では小松しか出てこない。(原作で八田が出て来るのは第3話)

     原作の小松は「女の子好き」である。(JC1巻146頁)

     TVシリーズの小松もそのことは同じ。

     ただし原作の小松はTVシリーズと比べると中高生男子としてリアルに見える。

     TVシリーズの小松、八田は、「女の子好き」ということを誇張して作られたキャラクターに見える。ドタバタコメディのために作られたキャラクター。

     TVシリーズで、小松がすぐに同じ学校の女子の写真を出して見せるとか、八田がそれを見て鼻血を出して小松、春日にかけるとか、原作にないことであるが、ドタバタコメディであって、リアルではない。

    鮎川まどか

     TVシリーズでは、鮎川まどかは音楽室で一人、サックスを吹いている。

     原作の鮎川まどかはサックスを吹かない。

     中学生でホームルームをさぼって音楽室で一人でサックスを吹いているというのはかなり特殊な方向に一人で突き進んでいる人である。

     そういう人と、原作よりかっこわるく取り柄なくされた春日恭介とは、釣り合うのか? と思ってしまう。

    河原の乱闘

     春日恭介が妹とともに河原に行くと、河原ではひかるが大勢の不良学生の男に囲まれて傷つけられようとしていた。

     そこに土手から鮎川まどかが現れて、その男どもを倒していって、ひかるを救った。

     春日恭介はそこで出て来て、鮎川まどかに声をかける。

     原作では、学校の裏側で鮎川まどかとひかるが煙草を吸っていたところに、春日兄妹が出くわして、春日恭介が鮎川まどかに声をかけたことになっていた。

    違い

     原作を先に読んで、TVシリーズのこの場面をみると衝撃を受ける。

    背景

    ・暗い雲が垂れ込めている。→原作で重じられる80’sの夏の感じではない。

    ・河原→原作で重んじられる都会ではない。

    相手

     相手の不良学生も都会的ではない。

     量で迫ってくる。

     間抜けでもある。

    鮎川まどか

     そういう相手に対して鮎川まどかは正面から戦っている。

     大男と腕力で戦う。そして勝っている。

     ピックを武器にするなど、荒唐無稽でもある。

     原作と違う。

    超能力

     つっこみどころ。

     この乱闘の間、春日兄妹が離れたところから怖がって傍観しているところが描かれている。

     しかし春日兄妹がもっている超能力によって、乱闘を(気づかれないようにして)解決することはできたのではないか?

     少なくとも自分の身に危険はないのでは?

     春日恭介の妹のくるみの超能力はこの第1話のこの場面までに、たんすを飛ばすとか、離れた猫を引き寄せるとか、自分に向かって突っ込んでくるバイクをとめるとか、見せてきている。

    再会

     乱闘の後に、春日恭介が鮎川まどかと交わす言葉は、原作と大体同じ。

     原作では、鮎川まどかが春日恭介の言葉によって心を動かしているところが描かれている。

     TVシリーズでは、原作の鮎川まどかが心を動かしたところでも表情を変えない。

     ここでも、春日恭介を原作よりかっこわるく描き、鮎川まどかを原作より高く描いているのである。

     その結果、この場面には恋愛ものの要素が少なくなっている。

  • 手を洗う救急医Taka氏は柳ケ瀬裕文議員に「反ワクチン」というレッテルを貼った?

    手を洗う救急医Taka氏は柳ケ瀬裕文議員に「反ワクチン」というレッテルを貼った?

     手を洗う救急医Taka氏が柳ケ瀬議員に対して「反ワクチン」とは言っていないという。

     しかしその数日前に手を洗う救急医Taka氏は柳ケ瀬議員について「ワクチンに反対されている」と言っていた。

     「ワクチンに反対されている」ということは「反ワクチン」だということではないのか?

     どういうことなのか?

    手を洗う救急医Taka氏の問題の発言

     手を洗う救急医Taka氏が柳ケ瀬議員に対して「反ワクチン」とは言っていないと主張したのは2022年4月19日。

     手を洗う救急医Taka氏が「そもそも私は「反ワクチン」とは言っていない」というのは、柳ケ瀬議員が「手洗いの人に反ワクチンと呼ばれた」と言ったことに対してである。

    柳ケ瀬議員の反論

     手を洗う救急医Taka氏が問題としているのは、柳ケ瀬議員の下の動画での発言のようである。

    やなチャン!
    維新チャンネルに新展開?反ワクチンと呼ばれて⚡️4月17日のやなチャン!

     この動画は4月17日のもの。

     動画の31分あたりで柳ケ瀬議員は手を洗う救急医Taka氏から「反ワクチン」とツイッターで言われたと聞いたと言っている。

     そしてそのことに対して反論している。

    手を洗う救急医Taka氏の「反ワクチン」発言?

     柳ケ瀬議員が手を洗う救急医Taka氏から「反ワクチン」と言われたというのは、下の発言のことのようである。

     4月16日のもの。

     手を洗う救急医Taka氏は、柳ケ瀬議員について「新型コロナウイルスワクチンの接種に反対されているようですが」と言い、「大々的にワクチンに反対されている」と言っていた。

     「新型コロナウイルスワクチンの接種に反対されているようですが」と言い、「大々的にワクチンに反対されている」と言うことは、ワクチン接種に全面的に反対しているということである。

     つまり「反ワクチン」ということではないか?

     しかし柳ケ瀬議員の主張は、ワクチン接種に全面的に反対するというものではない。

     手を洗う救急医Taka氏がとりあげている柳ケ瀬議員のチャンネルの下の動画でも、柳ケ瀬議員はワクチン接種に全面的に反対するとは言っていない。

     柳ケ瀬議員の主張は、リスクとベネフィットを考えるべきだということである。

    やなチャン!
    激論!ワクチン後遺症は?教えてにゃんこ先生、最終回!?⚡️4月3日のやなチャン!

     「反ワクチン」という言葉そのものは使っていないということであろうか?

     しかし「反ワクチン」という言葉を使おうが使うまいが、柳ケ瀬議員がワクチン接種に全面的に反対していると決めつけたことは変わらない。

     柳ケ瀬議員が4月17日の動画で問題としているのも、手を洗う救急医Taka氏が「反ワクチン」という言葉を使ったことではなくて、「反ワクチン」という意味のことを言ったことである。

     その人が言っていないことを言ったと決めつけることは正しいことではない。

     手を洗う救急医Taka氏の4月16日の問題の発言は、4月3日の柳ケ瀬議員のチャンネルの動画を取り上げた上でなされているのであるが、その動画では柳ケ瀬議員等の考え方に対して「反ワクチン」とレッテルを貼る人のことが問題とされている。

     手を洗う救急医Taka氏がそういう動画を取り上げながら、柳ケ瀬議員に対して柳ケ瀬議員の主張と異なることを押し付けていることは、奇妙なことである。

     動画をちゃんと見ていたのであれば、その動画で問題とされているようなやり方で柳ケ瀬議員に対して「ワクチン接種に反対されている」などと言わないのではないか?

     柳ケ瀬議員の主張を踏まえたことを言ったのではないか?

     動画を見ていなかったのであれば、「ワクチン接種に反対されている」などと言ったことも理解できるが、動画を見ずに人を攻撃することは正しいことではない。

    手を洗う救急医Taka氏の主張

     手を洗う救急医Taka氏の主張は続く。

     柳ケ瀬議員のこびナビに対する発言を問題としている。

     要するに、

    ・手を洗う救急医Taka氏が柳ケ瀬議員に対して「反ワクチン」というレッテルを貼ったという柳ケ瀬議員の主張に対しては、そういうことはしていないと言う。

    ・柳ケ瀬議員が「こびナビはリスクなどない」と言ったことは、こびナビの「発言を捏造して風評を撒き散らし、信頼を下げようとする」こと、「発言内容を捏造し、レッテルを貼った」ことだと批判している。

     まず、レッテルを貼ること、相手の「発言を捏造して風評を撒き散らし、信頼を下げようとする」ことは悪いことだとする。

     そういう悪いことをやったのは、柳ケ瀬議員が言うように手を洗う救急医Taka氏ではなくて、柳ケ瀬議員だというのである。

     この主張はおかしい。

    手を洗う救急医Taka氏はレッテルを貼っていない?

     柳ケ瀬議員はワクチン接種に対して全面的に反対していなかった。

     柳ケ瀬議員の主張は、手を洗う救急医Taka氏も4月19日には認めているように、「リスクとベネフィットを検討すべきと言っている」「高齢者の接種は推奨している」「小児の接種に慎重なだけ」というものである。

     そういう柳ケ瀬議員について、手を洗う救急医Taka氏が4月16日に「新型コロナウイルスワクチンの接種に反対されているようですが」とか、「大々的にワクチンに反対されている」とか言ったことは、柳ケ瀬議員の「発言を捏造して風評を撒き散らし、信頼を下げようとする」ことではないか。

     手を洗う救急医Taka氏は「「反ワクチン」とは言っていない」と言うが、「反ワクチン」という言葉を使おうが使うまいが、柳ケ瀬議員の「発言を捏造して風評を撒き散らし、信頼を下げようとする」ことをしたのである。

     「他人の発言を捏造して風評を撒き散らし、信頼を下げようとする」ことは救急医のあるべき姿なのであろうか?

     ところがなぜか「「反ワクチン」とは言っていない」ということによって、そのことはなかったことにしている。

    リスクとベネフィットの問題

     手を洗う救急医Taka氏は、柳ケ瀬議員がこびナビはワクチン接種のベネフィットしか言わず、リスクなどないと言ったと言ったことは、こびナビの「発言内容を捏造し、レッテルを貼った」ことだと批判している。

     しかし手を洗う救急医Taka氏はこれまでそういうことを言わなかったか?

     たとえば2021年11月20日のツイート↓

     「このまま何年たっても接種者には何も起こらず徐々に日常を取り戻して行く」と語っている。

     「接種者には何も起こらず」というのは「リスクなどない」ということではないか?

     ベネフィットだけがあるということではないか?

     こういうことを言っていたのに、こびナビは「リスクなどない」と言っていたいうと柳ケ瀬議員の発言は、こびナビの「発言を捏造して風評を撒き散らし、信頼を下げようとする」ことになるのであろうか?

    手を洗う救急医Taka氏のやり方

     手を洗う救急医Taka氏は、

    ・自分はあくまでも正しいとする。

    ・柳ケ瀬議員のような人に対してはレッテルを貼ってやっつけようとする。

     柳ケ瀬議員のようなワクチン接種慎重派に対しては、その主張する通りに慎重派として受け取ることが科学的な方法であるが、手を洗う救急医Taka氏はワクチンに反対する悪者というレッテルを貼って、「信頼を下げようとする」。

     ところが柳ケ瀬議員からそのようにレッテルを貼るやり方を反論されたので、今度は柳ケ瀬議員にレッテルを貼られたというレッテルを貼る。

     レッテルを貼ることが悪いことだとすると、柳ケ瀬議員にレッテルを貼った手を洗う救急医Taka氏も悪いことになるが、自分は「「反ワクチン」とは言っていない」ということによってなぜか悪いことをしていなかったことになる。

     手を洗う救急医Taka氏の言ったことだけを聞いた人には、柳ケ瀬議員は悪い人物だという印象が与えられる。

     柳ケ瀬議員の言ったことを聞いた人には、手を洗う救急医Taka氏が的外れなレッテルを貼って「風評を撒き散らし、信頼を下げようと」したと思うことになる。

     何故にこのようなことをするのか?

  • 「ブロードウェイ・メロディー」の映画4本と「雨に唄えば」

    「ブロードウェイ・メロディー」の映画4本と「雨に唄えば」

     「ブロードウェイ・メロディー」とは、トーキー映画の初期のミュージカル映画の名作である。

     その後に1936年版、1938年版、1940年版と3本の「ブロードウェイ・メロディー」が作られた。

     名作「雨に唄えば」には劇中劇「ブロードウェイ・メロディー」が出て来る。

     「ブロードウェイ・メロディー」はアメリカのミュージカル映画の歴史の中で重要な意味を持っている。

    映画「ブロードウェイ・メロディー」

     映画「ブロードウェイ・メロディー」は複数ある。並べてみよう。

    「ブロードウェイ・メロディー」

     1929年2月に映画「ブロードウェイ・メロディー」は公開された。

     大ヒットし、アカデミー賞作品賞を受賞した。


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    「踊るブロードウェイ」

     1935年8月、映画「ブロードウェイ・メロディー」1936年版(原題は “Broadway Melody of 1936” 邦題は「踊るブロードウェイ」)が公開された。

     この映画から「ブロードウェイ・メロディー」は次々と作られるようになった。

     1935年8月に公開された映画の題が “Broadway Melody of 1936” とされたのはどういうことであろうか?


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    「踊る不夜城」

     1937年8月に映画「ブロードウェイ・メロディー」1938年版(原題は、 “Broadway Melody of 1938” 邦題は「踊る不夜城」)が公開された。


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    「踊るニューヨーク」

     1940年2月に映画「ブロードウェイ・メロディー」1940年版(原題は、 “Broadway Melody of 1938” 邦題は「踊るニューヨーク」)が公開された。


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    「雨に唄えば」

     1952年3月に映画「雨に唄えば」が公開された。

     「雨に唄えば」には劇中劇「ブロードウェイ・メロディー」がある。


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    「ブロードウェイ・リズム」

     ちなみに、1944年8月に「ブロードウェイ・リズム」という映画が公開されている。


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    楽曲「ブロードウェイ・メロディー」

     「ブロードウェイ・メロディー」というのは、映画の題名でもあるが、楽曲の題名でもある。

     楽曲「ブロードウェイ・メロディー」は、1929年の映画「ブロードウェイ・メロディー」のためにアーサー・フリードが作詞し、ナシオ・ハーブ・ブラウンが作曲した楽曲で、1929年の映画「ブロードウェイ・メロディー」の話の軸となっている。

     それに続く映画「ブロードウェイ・メロディー」(1936、1938、1940)でも、「雨に唄えば」の劇中劇「ブロードウェイ・メロディー」でも、楽曲「ブロードウェイ・メロディー」が使われている。

     映画「ブロードウェイ・メロディー」は楽曲「ブロードウェイ・メロディー」を使った映画ということができるようである。

    「ブロードウェイ・メロディー」の変遷

    ブロードウェイでの成功を目指す物語

     1929年の映画「ブロードウェイ・メロディー」は、ブロードウェイでの成功を目指す姉妹の物語であった。

     その後の映画「ブロードウェイ・メロディー」も、ブロードウェイでの成功を目指す人物の物語である。

     1936年版、1938年版では、エレノア・パウエルの演ずる主人公がブロードウェイでの成功を目指す物語になっている。

     1940年版では、フレッド・アステアの演ずる人物がブロードウェイでの成功を目指す物語になっている。

    1936年版からの変化

     映画「ブロードウェイ・メロディー」はブロードウェイでの成功を目指す人物の物語であることは変わらないが、1936年版から1929年版と変わったところがある。

     1929年の映画「ブロードウェイ・メロディー」では、成功の表側の明るいところより、裏側の暗いところに重きを置いていた。

     それに対して、1936年版では、成功の裏側の暗いところより、むしろ成功の表側の明るいところに重きを置いている。

     1936年版からエレノア・パウエルが主役となったことは、その変化と関係がある。

     エレノア・パウエルは一人でこの映画のトリを飾ることができる華と技を備えている。

     成功を目指している役でも、スターとして成功している華と技を見せることができる。

     1929年版の主人公の姉妹は、エレノア・パウエルのような抜群の華も技も持っていない。

     姉が落とされて妹が選ばれたのは立っている姿が美しいということによってであった。

     1929年版では主人公姉妹が舞台でパフォーマンスを披露するところはそれほど多くない。舞台裏に重きが置かれている。最後もそうである。

     1936年版では主人公のエレノア・パウエルは舞台でもパフォーマンスを披露するが、舞台に上がる前にもパフォーマンスを披露する。その他の人のパフォーマンスも多い。

     1929年版では成功までの道の遠さ厳しさが描かれる。

     1936年版では成功までの道の厳しさはそれほど描かれない。

    1938年版

     1938年版もエレノア・パウエルが主役であって、成功の裏側の暗い物語ではない。

     そもそも1938年版では、エレノア・パウエルの演ずる人物がブロードウェイでスターになることを目指す気持ちはそれほど強く描かれていない。

     もともと馬のことを思う人物として出て来たのでもある。

     主役の成り上がり物語の他に馬の話もある。

     主役とあまり関係のないジュディ・ガーランドなどの話もある。

     主役がブロードウェイでスターになるという物語が全体の中で占める割合は小さくなっている。

    1940年版

     1940年版では、フレッド・アステアがブロードウェイでスターになろうとする役になっている。

     エレノア・パウエルはすでにスターになっている役である。

     フレッド・アステアもこれからスターになろうとする役でありながら、すでにスターとして備えている華と技を見せている。

     1940年版では主人公の問題は、成功できないことより、エレノア・パウエルと共演できないことにあるようである。

    「雨に唄えば」

     「雨に唄えば」の劇中劇ではジーン・ケリーの演ずる人物がブロードウェイで成り上がろうという物語になっている。

     挫折も描かれているが、その後も明るくなる。

    恋愛

     映画「ブロードウェイ・メロディー」の中で描かれる恋愛の変遷について考える。

     映画「ブロードウェイ・メロディー」では主人公のブロードウェイでの成功と恋愛での成功とは重なるところがある。

    1929年版

     1929年版では、主人公の姉妹の間で恋愛は苦しい問題となっている。妹がブロードウェイでの成功し恋愛でも成功したのに対して、姉はどちらもうまくいかないという苦しい結末になっている。

    1936年版、1938年版

     1936年版、1938年版ではエレノア・パウエルとロバート・テイラーとの恋愛が描かれている。その恋愛は舞台と関係がある。いずれも障害があるがそれほど深刻ではない。

    1940年版

     1940年版ではフレッド・アステアとエレノア・パウエルの恋愛が描かれる。その恋愛は舞台でパートナーとなることと関係がある。

     ジョージ・マーフィーが間に入って苦しくなるところは1929年版と似ているようでもある。恋愛感情を隠し持つというところは同じ。

     しかしジョージ・マーフィーが悪いので1929年版ほど苦しくはない。(1929年版では姉は悪くない)

     最後も1929年版より後味悪くない。

    「雨に唄えば」

     「雨に唄えば」の劇中劇では、ジーン・ケリーがシド・チャリースに惹かれるが、結局痛い目に遭う。厳しいといえば厳しいが様式化されていて、すぐに立ち直るのでそれほど厳しい感じはない。

    楽曲

    1929年版

     1929年版の映画「ブロードウェイ・メロディー」では、楽曲「ブロードウェイ・メロディー」が話の中心になっていた。

     楽曲「ブロードウェイ・メロディー」はその後の映画「ブロードウェイ・メロディー」でも使われている。

    1936年版

     ただし1936年版では新たに作られた「ブロードウェイ・リズム」という楽曲の方が重要になっている。

     楽曲「ブロードウェイ・メロディー」には、離れたブロードウェイを歌っているような抒情的なところがあるのに対して、楽曲「ブロードウェイ・リズム」は今を楽しむような感じがある。

    1938年版

     1938年版では、そのように中心になる楽曲はない。ビゼーの「カルメン」から始まったりしている。

     1938年版までアーサー・フリード作詞、ナシオ・ハーブ・ブラウン作曲の楽曲が中心となっていた。

    1940年版

     1940年版では、コール・ポーターの作詞作曲した楽曲が使われている。

    「雨に唄えば」

     「雨に唄えば」の劇中劇は「ブロードウェイ・メロディー」と言われているが、楽曲としては「ブロードウェイ・メロディー」より「ブロードウェイ・リズム」の方が多く使われている。

  • 映画「踊るニューヨーク」 フレッド・アステアとエレノア・パウエル

    映画「踊るニューヨーク」 フレッド・アステアとエレノア・パウエル

     映画「踊るニューヨーク」(原題は “Broadway Melody 1940” )は、1940年に公開された映画。

     フレッド・アステアは1933年から1939まで、RKOでジンジャー・ロジャーズと共演した映画を連発していたが、そのRKOから離れ、ジンジャー・ロジャーズからも離れて、MGMで出演したのがこの映画「踊るニューヨーク」。

     それまでRKOのスターであったフレッド・アステアが、MGMのスターであったエレノア・パウエル(Eleanor Powell)と競演した映画である。


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    映画「踊るニューヨーク」のあらすじ

     ジョニー(フレッド・アステア)はキング(ジョージ・マーフィー)と組んでダンスを踊っていた。

     ところでジョニーはひそかにクレア(エレノア・パウエル)というダンスのスターを愛していた。

     たまたまクレアのダンス・パートナーを探していたケイシー(フランク・モーガン)が、ジョニーのダンスをみてジョニーをクレアの相手役にしようと考えていた。

     ところが誤解によって、ジョニーではなくキングがクレアの相手役とされることになった…。

    映画「踊るニューヨーク」のみどころ

    ダンス

     映画「踊るニューヨーク」のみどころは、RKOのスターであったフレッド・アステアと、MGMのスターであったエレノア・パウエルの競演である。

    ジュークボックス・ダンス

     二人で踊るのは、映画後半。

     一回目はジュークボックスの音楽に乗ったダンス。

     ランチの後、ダンスのやり方について話しながら互いにダンスをやり合っていると、店長が気を利かしてジュークボックスの音楽を流す。その音楽に乗って二人でタップダンスを始める。

     気軽な感じで始めて、二人で技巧を凝らしたタップダンスを楽しそうに踊っているところは見ごたえがある。

    ビギン・ザ・ビギン

     終盤、コール・ポーターの名曲「ビギン・ザ・ビギン」(”Begin the Beguine”)に合わせた大がかりなダンスがある。

     その中でも最後にフレッド・アステアとエレノア・パウエルが笑顔で出て来て二人で技巧を凝らしたタップダンスを踊るところは、高く評価されている。

    フレッド・アステアとエレノア・パウエルのダンス

     エレノア・パウエルはジンジャー・ロジャーズなどとは違う類のダンサーである。

     フレッド・アステアが腰に手をまわしても、背筋が非常にしっかりしていて、フレッド・アステアの腕に包まれたようにならず、ジンジャー・ロジャーズなどのように「ロマンティック」にならない。

     フレッド・アステアも次のように語っている。

    She “put ‘em down” like a man, no ricky-ticky-sissy stuff with Ellie.

    Steps in Times, p.242

    Steps in Time: An Autobiography

     日本語版。

    彼女は男のようにまわりを圧倒する。めめしいところがまったくない。

    「フレッド・アステア自伝」、314頁

    フレッド・アステア自伝 Steps in Time

     そういうエレノア・パウエルとフレッド・アステアのダンスは、二人が張り合うようなものになっている。

    フレッド・アステア一人のダンス

     フレッド・アステアが一人で踊るところもある。

     エレノア・パウエルの演ずる人物に対するひそかな想いを、 “I’ve Got My Eyes on You” を歌ってから、エレノア・パウエルの写真を持って踊る、というかたちで表現している。

    その他

     ジョージ・マーフィーも、フレッド・アステアと、あるいはエレノア・パウエルと、あるいは三人で多く踊っている。

    映像美

     映画「踊るニューヨーク」は背景の美術が凝っている。

     白黒であるが、白黒が豪華に見えるように作られている。

     フレッド・アステアによると、はじめカラーで作られることになっていたが、時勢のために白黒で撮ることになったようである。

    It was my understanding originally that Broadway Melody would be made in color, and now I was informed that owing to the ominous state of world affairs, it would not.

    Steps in Time, p.241

    Steps in Time: An Autobiography

     日本語版。

    私の元々の理解では、『踊るニューヨーク』はカラーで撮られるとのことだったのだが、険悪な世界情勢を考えてそうしないことになったと聞かされた。

    「フレッド・アステア自伝」、313頁

    フレッド・アステア自伝 Steps in Time

     カラーでやるつもりであったのができなくなって、白黒に力を入れたのであろうか。

    ストーリー

     フレッド・アステアの演ずる人物がエレノア・パウエルの演ずる人物のことを心から愛していて、しかしその気持ちを隠しているという話は面白い。

     しかしそういう話にするために、ジョージ・マーフィーの演ずる人物は悪者にされてしまって、かわいそうでもある。

    ブロードウェイ・メロディー

     原題 “Broadway Melody 1940” (「ブロードウェイ・メロディー」1940年版)が示しているように、MGMの「ブロードウェイ・メロディー」シリーズの1940年版。

     エレノア・パウエルは1936年版、1938年版、そしてこの1940年版と続けて出ているが、それまで成り上がる役であったのが、1940年版ではスターの側になっている。

     1938年版では、ジョージ・マーフィーはエレノア・パウエルと仲のいい役であったが、1940年版では、叱られる役になっている。

     1940年版はフレッド・アステアが加わったことによって、1936年版、1938年版とは違う感じの作品になっている。

    「踊るニューヨーク」の裏側

     「踊るニューヨーク」についてのフレッド・アステアの言葉はフレッド・アステアの自伝にある。


    フレッド・アステア自伝 Steps in Time

     ボブ・トーマス著「アステア ザ・ダンサー」にはエレノア・パウエルの言葉がある。


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  • フレッド・アステアの「コンチネンタル」と「トップ・ハット」の比較

    フレッド・アステアの「コンチネンタル」と「トップ・ハット」の比較

     フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが共演した映画で「コンチネンタル」と「トップ・ハット」はいずれも高く評価されている。

     二つの映画には、似たところがあるが、違うところもある。

     その違うところは、アメリカ映画の歴史と関わる。


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    「コンチネンタル」と「トップ・ハット」

     「コンチネンタル」(原題は “The Gay Devorcee” )は1934年に公開された。


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     フレッド・アステアが初めて主演をやった映画である。

     「トップ・ハット」(原題は “Top Hat” )は1935年に公開された。

     「コンチネンタル」が大ヒットして、「トップ・ハット」が作られたのである。


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     「トップ・ハット」はさらに売れてフレッド・アステアの代表作となった。

    似ているところ

     「トップハット」は、作品の構成が「コンチネンタル」と似ている。

     まず話が似ている。

    ・フレッド・アステアの演ずる人物が、ジンジャー・ロジャーズの演ずる人物に対して恋愛感情を抱いて追いかける。

    ・ジンジャー・ロジャーズの演ずる人物は逃げる。

    ・二人の間には誤解がある。

    「ロマンティック」なダンス

     二人の恋愛感情は「ロマンティック」なダンスによって高まる。―「コンチネンタル」では「夜と昼」、「トップ・ハット」では「チーク・トゥ・チーク」。

     そのダンスの時には、ジンジャー・ロジャーズの演ずる人物はフレッド・アステアの演ずる人物と結ばれることはできないと思っていて、それゆえにダンスを拒もうとする。

     それにもかかわらず、「ロマンティック」なダンスによって、酔ったような気持ちになる。

     そこでは結ばれてはならないという気持ちと、結ばれたいという気持ちとが入り混じる。

     しかしダンスが終わった時点でも、ジンジャー・ロジャーズの演ずる人物は、フレッド・アステアの演ずる人物に心を許していない。

    大勢で踊るダンス

     大勢の男女とともに楽しく盛り上がるダンスがあることも同じ。―「コンチネンタル」では「コンチネンタル」、「トップ・ハット」では「ピッコリーノ」。

    違うところ

     二つの映画には違うところもある。

    フレッド・アステアのキャラクター

     「トップ・ハット」は、フレッド・アステアのために作られている。

     フレッド・アステアの素質をのばすかたちで新たなキャラクターが作られた。―トップ・ハット、白の蝶ネクタイ、燕尾服の姿で、気楽で愛想がいいキャラクターである。

     逆に言うと、「コンチネンタル」ではまだ「トップ・ハット」のようなキャラクターはできていなかった。

     「トップ・ハット」でできたフレッド・アステアのキャラクターと関連して、「トップ・ハット」は全体として「コンチネンタル」より浮世離れした映画となっている。

    男女関係の描き方

     「トップ・ハット」と「コンチネンタル」とでは男女関係の描き方が違う。

     たとえば、「コンチネンタル」で、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが「夜と昼」を踊った後、ジンジャー・ロジャーズの演ずる人物がフレッド・アステアの演ずる人物に、深夜にホテルの部屋で待っていると言うところがある。

     ジンジャー・ロジャーズの演ずる人物は、ある仕事をする男性を待っていて、フレッド・アステアの演ずる人物がその男性だと思い込んで、そう言ったのである。

     しかしフレッド・アステアの演ずる人物はその男性ではなく、どういう意味でそう言われたのか知らない。

     そこで相手が言ったことを、その意図とは違う意味で受け取って、動揺している。

     「コンチネンタル」にはそのようにきわどい笑いがある。

     「トップ・ハット」ではそういうことはなくなっている。

    離婚を主題とすること

    「コンチネンタル」の題名

     「コンチネンタル」の原題は”Gay Devorcee”(陽気な離婚者)である。

     離婚ということがタイトルに入っている。

     「コンチネンタル」はヒロインが離婚するところを描くものである。

     そういうことも「コンチネンタル」と「トップ・ハット」の違うところである。

     「トップ・ハット」では、ヒロインはまだ結婚したことのない女性である。

    題名の変遷

     「コンチネンタル」は「陽気な離婚」( “Gay Devorce” )というブロードウェイのミュージカルをもとにして作られたものである。

     その時にタイトルを「陽気な離婚者」(原題は “Gay Devorcee” )とした。

     そのことについてフレッド・アステアは自伝において、監督マイケル・サンドリッチから次のように聞いたと記している。

    Mark Sandrich explained that they thought it was a more attractive-sounding centered around a girl.

    Steps in Time, p.198

    Steps in Time: An Autobiography

     日本語版では次のように訳されている。

    そのほうがもっと魅力的な、主役の女性に焦点を絞った題名になると考えられたのだとマーク・サンドリッチは説明した。

    「フレッド・アステア自伝」、263頁

    フレッド・アステア自伝 Steps in Time

     「陽気な離婚」が「陽気な離婚者」と変えられたのは検閲によるとも言われている。

     離婚する人が陽気であってもいいが、離婚が陽気であってはいけないという倫理観にもとづく検閲のために、「陽気な離婚」を「陽気な離婚者」に変えたというのである。

     いずれにせよ、映画化する時に、「陽気な離婚」という題名はいけないという倫理観に合う変更が行われたのである。

    ヘイズ・コード

     アメリカでは1934年7月から「ヘイズ・コード」と呼ばれる基準のもとで映画は作られることになった。

     「コンチネンタル」が公開されたのは1934年10月である。

     「コンチネンタル」はちょうど「ヘイズ・コード」が出来た時に作られていたのである。

     そこでブロードウェイのミュージカル「陽気な離婚」から、映画「陽気な離婚者」への変更があった。

     その次の年の「トップ・ハット」は「ヘイズ・コード」の下で作られて、「陽気な離婚者」にあった様々な要素がなくなって、違う要素が加わった。

     「ヘイズ・コード」はそれから1968年までアメリカの映画を制約することになった。

     「ヘイズ・コード」の下でアメリカ映画は、一定の倫理観によって制約された独特の性格をもったものとなった。

     「コンチネンタル」から「トップ・ハット」に至るまでにできたフレッド・アステアのキャラクターは、その制約に合うものであった。

     フレッド・アステアが恋愛を主題とした映画の主演を繰り返し務めながら、相手の女優とキスをしない俳優として有名であったこともそのことと関係がある。

     それでもダンスで十分に表現することができたので、よかったのである。

     ヒロインのキャラクターも変わっている。

     「コンチネンタル」はヒロインが離婚する話であって、ヒロインは映画が始まった時点ですでに結婚している。

     すでに結婚している女性である。

     「トップ・ハット」のヒロインはまだ結婚したことのない女性である。

     そういう方向に進んだのである。


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  • 映画「トップ・ハット」 フレッド・アステアの代表作

    映画「トップ・ハット」 フレッド・アステアの代表作

     1935年に公開された映画「トップ・ハット」(原題は “Top Hat” )は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが共演した一連の映画の中でも特にすぐれたものとされている。

     この映画によってフレッド・アステアは、トップ・ハット、白の蝶ネクタイ、燕尾服の姿と決定的にむすびつけられることになった。


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    映画「トップ・ハット」のあらすじ

     ダンサーのジェリー(フレッド・アステア)は、たまたまホテルの下の部屋に泊まっていた若い女性デール(ジンジャー・ロジャーズ)と出会った。

     それからジェリーはデールを追う。デールは逃げるが、雨の中のあずまやで意気投合する。

     ところがデールはジェリーを友人の夫と誤解した。―友人の夫に誘惑されたと誤解した。

     デールはジェリーを避けるようになった。

    映画「トップ・ハット」のみどころ

     映画「トップ・ハット」には、アーヴィング・バーリンがこの映画のために作って名曲となった楽曲が多い。

     その楽曲にフレッド・アステア一人、あるいはジンジャー・ロジャーズと二人のすぐれたダンスがつけられている。

     ”No Strings” でフレッド・アステアがタップダンスを踊りまくるところも面白いが、その後に、灰を床にまいてその上でやさしいダンスを踊って人を眠らせるところは着想が面白い。

     雨の中のあずまやでフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが踊る “Isn’t This a Lovely Day?” は、二人が動きを合わせて楽しい感じ。

     フレッド・アステアが舞台でやる “Top Hat, White Tie and Tails” (トップ・ハット、白の蝶ネクタイ、燕尾服)は、フレッド・アステアがその姿について歌うところも見どころであるが、その後の、大勢の男性を後ろに従えたダンス、ソロダンス、そして、タップダンスで銃撃を表現するという奇抜な着想のダンスもみどころ。

     フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが二人で踊る “Cheek to Cheek” は、二人の「ロマンティック」なダンスの頂点のひとつ。

     最後にジンジャー・ロジャーズが歌い、ヴェネツィアの運河を背景に大勢の男女が踊る “The Piccolino” は、華やかな群舞で皆が盛り上がる。

    極楽でのトラブル

     映画「トップ・ハット」は、エルンスト・ルビッチ監督の「極楽特急」(原題は “Trouble in Paradise” )に通ずるところがある。

     「極楽特急」はそのタイトルの通り、極楽でのトラブル( “Trouble in Paradise” )を描いているが、「トップ・ハット」も極楽でのトラブルを描いているということである。

     映画の中では、経済的な制約のない豪華な生活が描かれている。―高級ホテルとか、リゾート地(ヴェネツィア)とかが描かれている。

     1929年に世界恐慌が起こっていたということに注意。

     小津安二郎はこの時代のアメリカ映画の主流は「ソフィスティケーション映画」であったと語っている。

     どちらの映画でも、エドワード・エヴェレット・ホートンが重要な役を演じている。

    フレッド・アステアのイメージ

     映画「トップ・ハット」の、下界のことに縛られない極楽の世界を最も表現しているのがフレッド・アステアである。

     トップ・ハット、白の蝶ネクタイ、燕尾服という夜の正礼装もその極楽を表現するものである。

     気楽な、愛想のいい性格もその極楽を表現するものである。

      “No Strings” でフレッド・アステアはその縛られない自由を歌っている。

     その極楽で重要な問題は恋愛である。

     その恋愛がまたフレッド・アステア(とジンジャー・ロジャーズ)のダンスによって極楽のように表現される。

     床に灰を撒いてその上で踊るダンスとか、

     フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが二人で踊る “Cheek to Cheek” とか。

     「コンチネンタル」との比較↓

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  • 映画「街角 桃色の店」

    映画「街角 桃色の店」

     映画「街角 桃色の店」(原題は “The Shop Around the Corner” )は1940年に公開された映画。

     アメリカの映画の歴史の中でロマンティック・コメディーの代表的な作品のひとつ。

     後に同じ話をもとにした映画が作られた。―1949年に「グッド・オールド・サマータイム」、1998年に「ユー・ガット・メール」。いずれもヒットした。


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    映画「街角 桃色の店」のあらすじ

     ハンガリーの話。

     クラリック(ジェームズ・スチュアート)の勤める雑貨店に、ある日、若い女性クララ(マーガレット・サラヴァン)が職を求めてやってきた。

     クララもその店で働くことになったが、クラリックとは仲が良くならない。

     ところでクラリックは女性と文通していて、その女性との結婚を考えていた。

     そしてついにその文通相手とカフェで会うことになった。

    映画「街角 桃色の店」のみどころ

    ストーリー

     映画「街角 桃色の店」では、それぞれの人物の思いのすれ違いがうまく描かれている。

     すれ違いは恋愛喜劇で重要なところ。

     文通という設定がすれ違いを生んでいる。

     文通して意気投合しているがまだ相手の顔を見たことがない、ということによってすれ違いができるわけである。

    細部

     映画「街角 桃色の店」では、個々のセリフに気が使われていて、面白いところが多い。

     若いジェームズ・スチュアートの演技もいいが、その相手のマーガレット・サラヴァンの演技もいい。

     マーガレット・サラヴァンは映画より舞台に多く出ていた人。

    政治的な面

     映画「街角 桃色の店」では、主人公はその働く店の中での政治的な関係が重要な意味をもっている。

     店主との関係、親しくしている店員、対立している店員との関係…。

    リメイク

     映画「街角 桃色の店」はミクロス・ラズロ(Miklós László)の戯曲「香水店」(1937年初演)をもとにして作られた。

     ミクロス・ラズロはハンガリー出身で、1938年に米国に渡った人。

     「香水店」―「街角 桃色の店」の話は、その後に繰り返し映画化された。

     まず1949年の「グッド・オールド・サマータイム」。ジュディ・ガーランド主演で、ミュージカルになっている。


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     1998年の「ユー・ガット・メール」。ノーラ・エフロン監督・脚本で、メグ・ライアンとトム・ハンクスの共演。


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     その間の1963年にブロードウェイで “She Loves Me” というミュージカルが作られて、これまた成功している。

     それぞれの作り手、演者がよくて、時代に合っていたのであろうが、もとになった「香水店」という戯曲にそれだけの力があったのでもあろう。

     映画「街角 桃色の店」と、その後の映画によって、ミクロス・ラズロの戯曲は、アメリカのロマンティック・コメディーの歴史の中で重要なものとなっているわけである。

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  • 映画「グッド・オールド・サマータイム」 「桃色の店」のミュージカル版

    映画「グッド・オールド・サマータイム」 「桃色の店」のミュージカル版

     映画「グッド・オールド・サマータイム」(原題は “In the Good Old Summertime” )は1949年に公開された映画。

     エルンスト・ルビッチ監督の映画「街角 桃色の店」(原題は “The Shop Around the Corner” 、1940年公開)と同じ舞台劇をもとにしている。

     ジュディ・ガーランドのMGMで主演したミュージカル映画の一つである。


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    映画「グッド・オールド・サマータイム」のあらすじ

     1900年前後のゆったりしたシカゴの話。

     アンドリュー・ラーキン(ヴァン・ジョンソン)は、楽器と楽譜の店で働いていた。

     ある日、その店にヴェロニカ・フィッシャー(ジュディ・ガーランド)が仕事を求めてやってきた。

     二人はともに働くことになったが、言い争いばかりしていた。

     ところで二人はそれぞれ文通している相手がいた。

     その相手は、実は店で言い争いしている相手であった。

    「街角 桃色の店」との違い

     映画「グッド・オールド・サマータイム」の話は大体において「街角 桃色の店」と同じ。

     同じセリフを使っているところも少なくない。

     しかしまた違うところも多い。

     「街角 桃色の店」では、店員に対する店主の抑圧が強くて、そのことによって映画の多くの部分に緊迫感が生じていた。

     「グッド・オールド・サマータイム」では、店員に対する店主の抑圧はそれほど強くない。そのことによって「街角 桃色の店」ほど厳しい感じではなくなっている。

    ミュージカル映画

     映画「グッド・オールド・サマータイム」は「街角 桃色の店」と違ってミュージカル映画である。

    「グッド・オールド・サマータイム」

     タイトルの「グッド・オールド・サマータイム」は、映画の中ではじめに演奏される楽曲「イン・ザ・グッド・オールド・サマータイム」(原題は “In the Good Old Summertime” )から来ている。


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     映画は夏にはじまってクリスマスでクライマックスを迎える。

     夏だけの話ではなく、むしろクリスマスの方が重要である。

    楽器と楽譜の店

     二人が働く店は、「街角 桃色の店」と違って楽器と楽譜の店になっている。

     その設定によって、ジュディ・ガーランドが歌を歌う場面ができる。

     楽器を買いに来た客、楽譜を買いに来た客に対して、ジュディ・ガーランドが歌って見せて、楽器、楽譜を買わせるのである。

     ハープを弾きながら “Meet Me Tonight in Dreamland” を歌うところなど。

     その他にも催しものとしてジュディ・ガーランドが “I Don’t Care” などを歌い踊るところがある。

    ヴァイオリン

     ストーリーの中で大きな問題は、「街角 桃色の店」と違って、ヴァイオリンをめぐって起こる。

    バスター・キートン

     映画「グッド・オールド・サマータイム」の見どころのひとつは、バスター・キートンである。

     バスター・キートンは1920年代にサイレント映画のコメディーでチャップリンと並び称された人であるが、映画がトーキーになって人気がなくなったと言われている。

     映画「グッド・オールド・サマータイム」には、そのバスター・キートンが比較的に重要な役で出ている。

     この映画のバスター・キートンは1920年代の映画で演じていたキャラクターと同じようなキャラクターを演じているように見える。

     映画の中で大きな事件を起こすところなど、まさに1920年代のバスター・キートンのようである。

     1920年代のスター、バスター・キートンと、1940年代のスター、ジュディ・ガーランドが共演してからんでいるところは興味深い。

    ライザ・ミネリ

     映画「グッド・オールド・サマータイム」は、ジュディ・ガーランドの娘ライザ・ミネリが初めて出演した映画でもある。

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  • 「いちごブロンド」と「或る日曜日の午後」

    「いちごブロンド」と「或る日曜日の午後」

     1941年に公開された映画「いちごブロンド」は、ジェームズ・キャグニー主演、ラオール・ウォルシュ監督のロマンティック・コメディーの名作。


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     「いちごブロンド」は、1933年のブロードウェイの舞台劇「或る日曜日の午後」をもとにして作られている。

     1933年には、同じ舞台劇をもとにして、「或る日曜日の午後」と題する映画が公開されている。

     主役はゲーリー・クーパー。


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     その二つの映画を比較してみよう。

    同じところ

     話の大きな流れは同じ。

    ・或る日曜日、歯科医ビフのもとに、ヒューゴが虫歯の治療をもとめてやってくるところから始まる。

    ・そこでビフは、好きだったヴァージニアをヒューゴに奪われたことを思い起こす。―その回想の場面が繰り広げられる。

    ・虫歯の治療をもとめてきたヒューゴに麻酔をかけている時に殺そうかとビフは考える。

     その間の様々の出来事の流れも大体において同じ。

    違うところ

     二つの映画には大きく異なるところがある。

     二つの映画から受ける感じは大きく異なる。

    コメディーか否か

     まずコメディーか否かということで違う。

    「いちごブロンド」

     「いちごブロンド」はロマンティック・コメディーである。―明るく楽しい。

    「或る日曜日の午後」

     「或る日曜日の午後」はコメディーではない。

     「或る日曜日の午後」では、コメディーの要素は主人公ビフの友人(ロスコ―・カーンズ、「いちごブロンド」でギリシャ人の友人にあたる人物)ひとりだけ。

    主人公のキャラクター

     二つの映画の主人公の感じは異なる。

    「いちごブロンド」

     「いちごブロンド」の主人公(ジェームズ・キャグニー)は、自分の信念、正義感にもとづいて動いている。

     それゆえに観客は共感できる。

    「或る日曜日の午後」

     「或る日曜日の午後」の主人公(ゲーリー・クーパー)は自分勝手に動いている。

     それゆえに観客は共感しがたい。

    ヴァージニアに対する主人公の態度

     それぞれの映画の主人公の性格の違いは、ヴァージニアに対する態度にも現れている。

    「いちごブロンド」

     「いちごブロンド」の主人公は、ヴァージニアに自分の理想をみていた。

     これも観客が共感できるところ。

    「或る日曜日の午後」

     「或る日曜日の午後」の主人公も、はじめからヴァージニアに対して好意をもっていたことになっているが、「いちごブロンド」の主人公ほど純粋に見えない。

     「或る日曜日の午後」では、ヴァージニアはビフに会う前からビフに対して悪い印象を持っていたことになっている。そのヴァージニアに対してビフが当然自分のものになるべきだと考えているかのように動いていることは、自分勝手に見える。

    初見

     ビフとヒューゴがはじめてヴァージニアとエイミーと出会った時のことは、二つの映画で違う。

    「いちごブロンド」

     「いちごブロンド」では、ヒューゴ―は強引にヴァージニアと一緒になった。

    「或る日曜日の午後」

     「或る日曜日の午後」では、ビフが強引にヴァージニアと一緒になっている。ヴァージニアは迷惑そうにしている。

     「或る日曜日の午後」ではその後、ビフが豚を追いかける競技をやっている時に、ヒューゴがヴァージニアを連れてどこかに行ったことになっている。

     ビフは裏切られたと怒っているが、そもそもヒューゴはヴァージニアに会いに、ヴァージニアはヒューゴに会いに来たのに、ビフが割り込んでいるのであるから、二人だけになってもそれほど悪いとは思われない。

    プレゼント

     女性が誰からかわからないようにして出したプレゼントを男性が選ぶという催しは、「或る日曜日の午後」にあるが、「いちごブロンド」にはない。

     「或る日曜日の午後」では、ビフが来る前にヴァージニアがヒューゴに自分のプレゼントを教えたが、その後に来たビフがそのことをエイミーから聞き出して、自分がヴァージニアのプレゼントをとっている。

     ここでもヴァージニアとヒューゴが相思相愛であるのに、ビフが割り込んでいるように見える。

     ついでに、その前後でビフが喧嘩しているところも、ビフという人物の暴力的な暗い面を現わすことのように見える。

     「いちごブロンド」の主人公も喧嘩っ早いキャラクターであったが、そのことはコミカルに表現されている。

    結婚

     ビフとヴァージニアがデートを約束した時間に、ヴァージニアがヒューゴと結婚していた、ということは二つの映画で同じであるが、かたちが違う。

    「或る日曜日の午後」

     「或る日曜日の午後」でビフがヴァージニアに水曜夜8時に会う約束をしているところは、自分勝手に見える。

    ・そもそもヴァージニアはヒューゴに好意を持っていて、ビフには持っていなかった。

    ・その上にプレゼントのことでは、ビフが割り込んだことに対する反感があった。

    ・その上にビフが喧嘩して店から追い出されることになって、ヴァージニアからもう二度と会いたくないと言われた。

     そういう状況で、ヴァージニアの答えを聞かずに、水曜夜8時に待っていると言って去ることは、自分勝手に見える。

     ヴァージニアがビフの待っているところに行かなくてもそれほど悪いとは思えない。

     あの話の流れでは、ヒューゴがヴァージニアを奪ったということにはならないのではないか?

    「いちごブロンド」

     「いちごブロンド」では、はじめにビフとした約束をヴァージニアが忘れていて、もう一度約束をしたのにすっぽかされたかたちになっている。

     ヴァージニアが悪くて、ビフが可哀想な話。

    エイミーに対する主人公の態度

     それぞれの映画の主人公の性格の違いは、エイミーに対する態度にも現れている。

    はじめの設定

    「いちごブロンド」

     「いちごブロンド」では、エイミーとビフは次第に親しくなっていく。

     エイミーは、はじめからビフに好意を寄せていたのではない。

    「或る日曜日の午後」

     「或る日曜日の午後」では、エイミーは劇が始まるより前の学生時代からビフに対して好意を寄せていたことになっている。

     エイミーは、はじめからずっとビフのことが好きなのである。

     ところがビフはそういうエイミーを前にしながら、ヴァージニアばかりを気にして、エイミーをかえりみない。

     そういうエイミーのかわいそうなことが繰り返される。

     エイミーがはじめからビフに対して好意を寄せているゆえに、ビフがエイミーをかえりみないことがかわいそうに見えるのである。

     「いちごブロンド」では、そういうことがないゆえに、かわいそうということもない。

     ビフがエイミーではなくヴァージニアが好きだということは、ビフの自由である。しかし「或る日曜日の午後」では、ビフが自分に対して好意を寄せていると知っているエイミーに対して気を遣わずに振舞っているように見える。

    結婚

     約束の時間に、ヴァージニアはヒューゴと結婚していて、ビフのところに来ず、その代わりにきたエイミーとビフは結婚することになった。

    「或る日曜日の午後」

     「或る日曜日の午後」では、ビフはただエイミーの語ったことに乗っただけのように見える。

     ヴァージニアが失われたところに、エイミーが婚約してもいいと言ったので、代わりにエイミーにおさまったのである。

     はじめからエイミーがビフに好意を寄せてきたという設定があるので、エイミーがここでビフと結婚してもいいということは自然である。

     しかしその結婚は、それまでのエイミーの気持ちに、ビフがしかたなく乗ったというかたちであるから、両者とも盛り上がらない。

    「いちごブロンド」

     「いちごブロンド」でも、ビフの本命はヴァージニアで、ヴァージニアがヒューゴに奪われたゆえに、本命ではないエイミーと結婚した、ということは同じ。

     ただし「或る日曜日の午後」と違って、ビフとエイミーの結婚には盛り上がりがある。

    ・「いちごブロンド」のエイミーはもともとビフに好意を寄せていたということはない。

    ・この時点でエイミーは、ビフが恥をかかないように嘘をつくくらい、ビフと親しくなっていた。

    ・ビフはヴァージニアを失って、それまで自由思想家として振舞っていたエイミーによって欲求不満を処理しようとした。そこでエイミーは自由思想家ではない自分の孤独な本音を見せた。それに対してビフがやさしさを見せた。

     このように盛り上がって二人は結婚したのである。

    まとめ

     「いちごブロンド」の主人公は共感しやすいが、「或る日曜日の午後」の主人公は共感しにくい。

     「或る日曜日の午後」では、そういう共感しにくい主人公が次々と対立を起こしていく。―主人公に対してよく思っていないヴァージニアを自分のものにしようとして、ヴァージニアの反感を買っていく。主人公に対して好意を寄せているエイミーを繰り返し傷つく。

     「いちごブロンド」の主人公は共感しやすい。―ヴァージニアはそういう主人公をだます。エイミーは、はじめからビフが好きということはないので、「或る日曜日の午後」ほど傷つくこともない。

     もともとこの話は、遠くの理想にあこがれていたのが、近くの幸福を尊重するに至るという話である。

     成長の物語ということもできる。

     「或る日曜日の午後」では、主人公の成長は終盤にあって、それまで主人公は共感しにくいキャラクターのままである。

     「いちごブロンド」では、主人公は不器用ではあるが、はじめから自分の信念をもった人物である。すでに成長しているということもできる。

     「いちごブロンド」は売れた。

     「或る日曜日の午後」は売れなかったと言われている。

     「或る日曜日の午後」のような暗い作品より、「いちごブロンド」のような明るい作品の方が売れるということであろうか?

     「或る日曜日の午後」は、ゲーリー・クーパーの作品としては珍しく売れなかったと言われている。

     ゲーリー・クーパーの主演した映画で、これほどゲーリー・クーパーの演じた人物が共感しにくい人物になっていることは珍しいのではないか。

    DVD

     「或る日曜日の午後」。


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     「いちごブロンド」。


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  • 映画「いちごブロンド」 ジェームズ・キャグニーのロマンティック・コメディー

    映画「いちごブロンド」 ジェームズ・キャグニーのロマンティック・コメディー

     「いちごブロンド」(原題は “The Strawberry Blonde” )は、1941年に公開された映画。

     ギャング映画のスター、ジェームズ・キャグニーのロマンティック・コメディーの傑作。

     「いちごブロンド」=「ストロベリー・ブロンド」とは、赤みがかったブロンドの髪のこと。

     劇中の女性が「いちごブロンド」とよばれていて、そういう歌もある。


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    映画「いちごブロンド」の話

     1890年代の話。

     ある日曜日、歯科医ビフ(ジェームズ・キャグニー)のところに市会議員のヒューゴ(ジャック・カースン)が虫歯の治療をもとめる電話をかけてきた。

     ビフは、この10年の間にヒューゴから色々としてやられていた。

     10年前、ビフは、多くの人に「いちごブロンド」と呼ばれて称賛されていたヴァージニア(リタ・ヘイワ―ス)という美女が好きであった。

     ところがヴァージニアはヒューゴにとられて、ビフには、ヴァージニアが連れてきたエイミー(オリヴィア・デ・ハビラント)があてがわれた。

     それからビフは色々とヒューゴに踏みつけにされた。

     今、ヒューゴは歯科医がビフだと知らずに虫歯の治療をもとめてきた。

     ビフはどうするか?

    映画「いちごブロンド」の雰囲気

     映画「いちごブロンド」は、主人公がパートナーに踏みつけにされ、好きな女性を奪われるという話である。

     悲惨な話ということもできる。

     しかし映画は明るく楽しいものになっている。

     落ち込むところもあるが、暗くなりすぎない。

     細部が色々と面白い。

     しみじみするところもある。

    映画「いちごブロンド」の演者

     映画「いちごブロンド」の明るさ、楽しさは演者によるところが大きい。

    ジェームズ・キャグニー

     まず主役のビフを演ずるジェームズ・キャグニー。

     ジェームズ・キャグニーはギャング映画のスターであるが、この映画ではそのコミカルなところがよく出ている。

     冷酷非道に人を殺す役を多く演じている人が、この映画ではいつも喧嘩に負ける男を演じていることも面白いが、そういうキャラクターが合っていることも面白い。

     ヴァージニアとデートの約束をして、うれしくて側転して、ごみ箱に入ってしまうところなど面白い。

     この映画の主人公は、自分の信念を持っていて、正義感が強いが、不器用であって、いつも器用な人に踏み台にされる人物であるが、そういうキャラクターがジェームズ・キャグニーと絶妙に合っている。

    女優

     女優も豪華。

     主人公の理想の女性、「いちごブロンド」の表面のきれいなところも、裏側の利己的なところも、リタ・ヘイワ―スに合っている。

     「いちごブロンド」のあまりものとして主人公にあてがわれる女性をオリビア・デ・ハビラントがやっている。

     オリビア・デ・ハビラントは、エロール・フリンの相手役でお姫様役等を多くやって人気のあった女優で、「風と共に去りぬ」ではメラニーをやっている。

     そういう女優がこの映画ではあまりものの女性をやっているわけである。

     オリビア・デ・ハビラントは2020年に104歳で亡くなった。生まれたのは1916年、東京。

    https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-53546021

    敵役

     主人公の敵役をやっているジャック・カースンも、合っていると思う。

     ジャック・カースンには、コミカルなところ(「毒薬と老嬢」など)とジャイアンのようなところ(「スタア誕生」など)があるが、その両面を兼ね備えていることがこの映画のヒューゴという人物に合っている。

    その他

     陽気な父親をやっているアラン・ヘールも映画を明るくしている。

    映画「いちごブロンド」の音楽

     映画「いちごブロンド」では、はじめから次々と歌が流れる。

     歌詞に「いちごブロンド」という言葉が入っている “Band Played On” は、そのことでも、また劇中での使われ方でも、心に残る。

     映画が終わったところでまた “Band Played On” の歌詞が画面に出て、音楽が流れる。

     それに “Bill Bailey” 、”Meet Me in St. Louis, Louis” が続く。(後者を主題歌としたミュージカル映画「若草の頃」が公開されたのは1944年)

     その他にも心に残る歌が多い。

     ただし多くのミュージカル映画と違って、主役ががっつり歌うことはない。

     ジェームズ・キャグニーとリタ・ヘイワ―スが踊るところもある。しかし特にふたりの踊りを見せようとしていない。

     ジェームズ・キャグニーは次の年(1942年)の「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」でダンスを見せている。

     リタ・ヘイワ―スは1941年、42年にフレッド・アステアの相手役をやっていて、1944年にはジーン・ケリーの相手役をやっている。

     「いちごブロンド」の話では、ふたりがダンスのうまいところを見せる必要はないかもしれない。

    「或る日曜日の午後」

     「いちごブロンド」は、1933年のブロードウェイの舞台劇「或る日曜日の午後」をもとにして作られている。

     「いちごブロンド」の前に、1933年に同じく「或る日曜日の午後」をもとにした映画「或る日曜日の午後」が作られていた。

     1933年の「或る日曜日の午後」と1941年の「いちごブロンド」の比較↓

    「いちごブロンド」のDVD


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