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  • 【映画】嵐を呼ぶ男(1957年) 石原裕次郎のドラマー

    【映画】嵐を呼ぶ男(1957年) 石原裕次郎のドラマー

     石原裕次郎がドラムを叩くシーンが有名な作品。(敬称略)

    音楽の歴史

    No-longer-hereによるPixabayからの画像

     このごろ音楽の歴史を聞きかじったので、この映画に対して今までと違う見方ができるようになった。

    ジャズ

     「嵐を呼ぶ男」は、ジャズバンドのドラマーの話である。石原裕次郎の演ずる主人公がジャズバンドのドラマーになる話である。ジャズバンドの話であることは、はじめから明らかにされている。

     ところでこの映画が公開されたのは1957年である。

     「五〇年代の中ごろまではまだ、ジャズっていう洋楽がポピュラーの代名詞になってた時代」(大瀧詠一「分母分子論」、1983年)であった。

     それまでと同じようにジャズが「ポピュラーの代名詞」、流行音楽の代表であった。ジャズはアメリカで流行音楽の代表となった。そして、その影響を受けた日本でもそうなっていた。

     「嵐を呼ぶ男」で、石原裕次郎がジャズバンドのドラマーの役をやるのは、ジャズが「ポピュラーの代名詞」だったからであろう。

    ロックンロール

     ところで1957年には、アメリカの流行音楽に新しい流れが起こっていた。

     1950年代中ごろに、ロックンロールが流行音楽の代表になったのである。エルヴィス・プレスリーがその代表的な存在であった。

     1957年は、エルヴィス・プレスリーが映画「監獄ロック Jailhouse Rock」で、「監獄ロック」を歌い、踊った年である。

     つまりアメリカでエルヴィス・プレスリーが「監獄ロック」を歌っていた1957年に、日本で石原裕次郎はジャズのドラマーをやって、歌っていたのである。

     映画「嵐を呼ぶ男」にも、エルヴィス・プレスリーの影響は見られる。

     「嵐を呼ぶ男」はジャズバンドの話であるが、そのジャズバンドがはじめにやるのはエルヴィス・プレスリーの影響を受けたと思われる歌である。

     ジャズバンドの前に、リーゼントヘアで、ギターを弾きながら、エルヴィス・プレスリーのように下半身を動かしながら歌っている。歌詞に「ジャズ」という言葉が繰り返し入っている。

     ウィキペディアに「冒頭でロカビリーを歌っている歌手は平尾昌晃である」とある。平尾昌晃は日本のロカビリーの代表的人物である。

    若者文化

     石原裕次郎は、兄慎太郎とともに、1950年代中頃に、日本の「若者文化」を代表する存在として有名になった人である。

     映画「嵐を呼ぶ男」も、その「若者文化」を代表する石原裕次郎が演ずる若者を中心とした「若者文化」の作品ということができる。

     石原裕次郎等の「若者文化」は、同じ1950年代中頃のアメリカのジェームズ・ディーンやエルヴィス・プレスリーによって代表される「若者文化」と通ずるところがあると思う。

     しかしまた、違うところもある。

     たとえばエルヴィス・プレスリーはロックンロールをやって当時の「若者文化」を代表となっていたが、石原裕次郎は「嵐を呼ぶ男」において、ジャズをやっていたのである。

     村松友視は「裕さんの女房 もうひとりの石原裕次郎」(青志者、2012年)において、「衝撃のデビュー時の石原裕次郎は”ロック的”な受け取り方をされていた」が「石原裕次郎の芯にひそむ香りの源はジャズだったのではなかろうかという気がしてならない」と書いている。(12頁)

     私の思っていることと同じかどうかよくわからないが、私も、石原裕次郎はロックよりジャズではないかと思った。

    あらすじ

     ジャズバンドのプロモーター福島美弥子(北原三枝)は、人気ドラマ―・チャーリー(笈田敏夫)が自分の許から離れ始めていることに苛立っていた。

     ある日、チャーリーが突然休んだので、その代わりに、国分正一(石原裕次郎)を起用した。その少し前に正一の弟の英次(青山恭二)という学生から売り込まれていたのである。ところが国分正一は、喧嘩して留置場に入っていたような「荒い」青年であった。

     チャーリーは福島美弥子から離れて競合相手の持永(安倍徹)についた。それに対して福島美弥子は国分正一(石原裕次郎)と正式に契約した。そして福島家に住ませてドラムを上達させた。

     国分正一は母(小夜福子)に嫌われていた。それに対して正一は母に認められるためにドラムに力を注いだ。

     国分正一に、持永からチャーリーとのドラム合戦が申し込まれた。

     ドラム合戦の前夜、国分正一は、持永の子分と喧嘩して、左手をけがしてしまう。

     けがした左手でドラム合戦に出た国分正一は、途中でドラムを叩くことができなくなった。ところが、とっさにマイクをとって「嵐を呼ぶ男」を歌った。そして観客から拍手を受けた。

     国分正一は人気者になって、ついに投票で一位になった。しかし母はそういう正一を認めなかった。

     国分正一は福島美弥子と恋仲になった。

     評論家左京(金子信雄)は、福島美弥子に惚れていた。
     チャーリーを福島美弥子から引き離して持永に近づけたのは、そのためであった。
     左京は評論家として、国分正一を持ち上げて、チャーリーを貶めたが、それは国分正一が左京と福島の間をとりもつと言ったからであった。
     ところが国分正一は福島美弥子と恋仲になった。そこで左京は、国分正一と敵対する側になった。左京は国分正一に、弟英次のリサイタルを邪魔すると脅した。

     国分正一は、弟英次のために福島美弥子の家を出た。母の家に帰ってきて、みどり(芦川いづみ)と結婚しようと考えた。ところが、母に、みどりは弟英次と結婚することになっていると言われた。そして家から追い出された。

     国分正一は、一人で飲んだくれているところを、メリー(白木マリ)に救われて、メリーの家で寝ていた。
     その時にメリーは持永の情婦になっていた。
     持永は、左京によってそのことを知って、大勢の部下によって国分を痛めつけた。

     その時に、正一の弟英次のリサイタルが始まっていた。福島美弥子も正一の母も、そこに来たメリーによって、正一の真意を知った。そして二人はバーのラジオで、傷だらけで、弟英次のリサイタルを聞いていた正一を探し当てた。
     そこで母は正一に謝罪した。

    ドラム合戦

     有名なドラム合戦は、中盤にある。

     ドラム合戦で石原裕次郎演ずる国分正一がマイクを持って歌いだすところは、有名なところであるが、おかしいところでもある。

     ドラム合戦であるのに、歌を歌って勝つことができるのか?

     ドラム合戦の勝敗を決めるのは、ドラムではないか?

     私の思うに、この場面は、石原裕次郎の歌声の力によるところが大きい。心地よく包み込むような歌声がそれなりに長く続く。観客の多くはその歌声に満足して、ドラム合戦ということはどうでもよくなる。

     見返していて、ドラム合戦の後、テレビで左京(金子信雄)が「国分は手の負傷をものともせず、体全体でドラムを叩かんばかりの熱演ぶりで万雷の拍手を受けた」と言っているところが気になった。これはあのドラム合戦のことをどう伝えているのであろうか?

    若者

     この映画で石原裕次郎が演ずるのは、若者である。ドラムによって成功することを志す若者である。

     粗削りな、不良性のある主人公に石原裕次郎は合っている。

     母親が石原裕次郎演ずる長男を嫌って、次男を大事にしているというのは、「エデンの東」と関係あるのであろうか?

    左京

     この話を裏から動かしているのは、金子信雄演ずる評論家左京である。

     そもそも左京が福島美弥子(北原三枝)に惚れて、チャーリーを福島美弥子から引き離すために持永に近づけたゆえに、国分正一(石原裕次郎)が福島美弥子に起用されることはできた。

     左京が国分正一に福島美弥子との仲を取り持つと言われて、国分正一を持ち上げチャーリーを貶めたことによって、二人の浮き沈みは決まった。

     国分正一が福島美弥子と恋仲になったことを知った左京が、国分正一をやっつけるために持永と手を組んだことによって、国分正一はドラムを叩くことのできない体になった。

     このように、左京の福島美弥子に対する思いが、この話を動かしている。

  • 【映画】「兄貴の恋人」(1968年) 若大将と内藤洋子

    【映画】「兄貴の恋人」(1968年) 若大将と内藤洋子

     「兄貴の恋人」は1968年9月7日に公開された映画。

     「兄貴」(加山雄三)とその「恋人」との関係に心が揺れる妹(内藤洋子)を描いた作品。

     2010年5月28日に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売されている。


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     この映画では、妹の兄に対する想いが描かれている。

     いつも兄にべたべたしているのではなく、「不潔」などと言っている。

     しかし兄に対する想いは強い。

     朝の満員電車で、揺れて兄の胸に抱かれるかたちになったところで、兄に髪を撫でられている時の表情は特徴的。

     予告編ではここに「私の恋人は兄貴/誰にも渡したくない」という文字が出て来る。

     兄に対してそれだけの想いを持っているので、兄と他の女性との関係が気になるのである。

     兄はすでに会社員。見合いなど、他の女性との結婚を周りから言われている。

     妹はまだ学生。子どもから大人になる途中である。

     その、子どもから大人になる途中が見どころ。

     小津安二郎監督の「晩春」は父と娘の関係は、「兄貴の恋人」の兄と妹の関係と似たところがある。


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     小津安二郎監督は、父と娘の関係を掘り下げたが、「兄貴の恋人」は兄と妹の関係を掘り下げたということができるかもしれない。

    内藤洋子

     映画「兄貴の恋人」で主役の「妹」を演じているのは内藤洋子。

     兄(加山雄三)から「デコすけ」と言われているように、おでこを出しているのが特徴。

     おでこ、頬など丸みを帯びた感じが、「妹」に合っている。―子どもから大人になる途中ということに合っている。

     長く艶やかな黒髪など、上品な感じはお嬢様の役に合っている。

     内藤洋子は映画デビューが「赤ひげ」(1965年)。「赤ひげ」ですでに加山雄三の相手役をやっている。


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     映画「お嫁においで」(1966年)では、加山雄三の妹役。

     「お嫁においで」では、「兄貴の恋人」のような兄に対する複雑な気持ちなどなかった。


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     加山雄三と内藤洋子は、実生活において親戚になっている。

     加山雄三著「若大将の履歴書」で、映画「赤ひげ」の結婚相手のまさえに内藤洋子が選ばれるところで次のように語られている。

    ~まさえの役を射止めたのはやがてアイドルスターになる新人の内藤洋子だった。「赤ひげ」でデビューし、映画「お嫁においで」や「兄貴の恋人」などで僕と共演した後、僕の従弟でランチャーズの喜多嶋修と結婚して喜多嶋洋子となった。つまり今では僕の親戚なのである。

    「若大将の履歴書」、163頁

    若大将の履歴書

     その長女が喜多嶋舞である。

     そうして時は流れても、映像では子どもから大人になる途中の姿を見ることができる。

    https://cinema.ne.jp/article/detail/37509

    http://www.ak-hb.jp/yokokitajima.html

    主人公の家

     主人公の兄妹は、両親の家で暮らしている。

     父は宮口精二、母は沢村貞子で、貧乏ではないが倦怠感のある夫婦を演じている。

     兄妹は、阿佐ヶ谷駅から中央線に乗って通勤通学している。そして新宿で別れて、兄はそのまま中央線、妹は山手線。

    鉄平の会社

     兄鉄平(加山雄三)の勤める会社には、和子という女性(酒井和歌子)がいて、親しくしていた。

     その会社は銀座にあるようである。

     和子は鉄平に思いを寄せていたが、会社を辞めて叔父のスナックで働くことになった。

    川崎のスナック

     和子(酒井和歌子)が働くことになった川崎の叔父のスナックは、ポルノ映画のポスターが貼られているようなところにあって、客層も下品。

     「伊勢佐木町ブルース」が流れている。


    青江三奈 ベスト 恍惚のブルース 伊勢佐木町ブルース 池袋の夜 2CD-423

     青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」が発売されたのは1968年1月5日。「兄貴の恋人」と同じ年である。

     同じ年の12月7日には、東映の映画「夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース」が公開されている。―梅宮辰夫がオープン屋で、農家の金持ち(伴淳三郎)を手玉に取るが、しっぺ返しを食らうという話。青江三奈は、歌うところだけ出ている。


    夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース

     銀座の会社員の生活と、川崎のやくざの生活とが対比されている。―東宝の若大将と東映の任侠映画の対比

     酒井和歌子の上品な姿と、下品な背景との対比。

     酒井和歌子のやくざな兄の役を「若大将」シリーズのマネージャー役の江原達怡がやっているのも面白い。

    新宿のバー

     新宿には、鉄平(加山雄三)が夜しばしば訪れるバーがある。

     そのバーのママ(白川由美)も、鉄平に思いを寄せている。

    様々な女性

     この映画で加山雄三の演ずる人物は様々な女性から思いを寄せられている。

     妹(内藤洋子)、職場の同僚(酒井和歌子)、バーのママ(白井由美)については既に書いた。

     その他にも、職場の同僚(岡田可愛)、街でたまたま救った女性(豊浦美子)、会社の専務の令嬢(中山麻理)…

     妹は「私の恋人は兄貴/誰にも渡したくない」と思っていたのに、これだけの女性が兄に思いを寄せていたわけである。

     この映画では、様々な女性を魅力的な恋愛対象として描くかたちになっているということもできる。

     加山雄三の演ずる人物に思いを寄せない女性で、悠木千帆、後の樹木希林が出ている。

    「若大将」シリーズとの関係

     「兄貴の恋人」が公開されたのは、「若大将」シリーズで言うと、「リオの若大将」(1968年7月13日公開)と「フレッシュマン若大将」(1969年1月1日公開)の間。

     「若大将」シリーズについては↓

    加山雄三

     「若大将」シリーズでは「フレッシュマン若大将」で若大将は就職する。

     「兄貴の恋人」ではその前に加山雄三は社会人の役になっている。(それより前の1966年公開の「お嫁においで」ですでに社会人の役になっている)

    酒井和歌子

     「兄貴の恋人」のヒロイン酒井和歌子は、「兄貴の恋人」の後の「フレッシュマン若大将」から「若大将」シリーズのヒロインになっている。

    内藤洋子

     「兄貴の恋人」の主役というべき内藤洋子は「若大将」シリーズに出ていない。

     「若大将」シリーズにはすでに妹輝子(中真千子)がいるからであろうか?

    「お嫁においで」との比較

     1966年11月20日に公開された映画「お嫁においで」は、「兄貴の恋人」と同じく2010年に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売された映画であるが、色々と「兄貴の恋人」と似たところがある。その似たところと、違うところとを明らかにすることによって、それぞれを明らかにしてみよう。

     「お嫁においで」について↓

    似たところ

     加山雄三の演ずる主人公は、どちらの映画でも、いいところの会社員。

     ヒロインは、どちらの映画でも、それより低い環境の人。そばには同じような環境でヒロインに好意を寄せる男がいる。

     内藤洋子の演ずる妹は、どちらの映画でも、兄のためにはたらく。

    違うところ

    結末

     結末が違う。

    ・「お嫁においで」では、ヒロインは主人公を振った。

    ・「兄貴の恋人」では、ヒロインは主人公を受け入れる。

    結末が違う理由
    ヒロインの設定

    ・「お嫁においで」のヒロインは、もともと加山雄三の演ずる人物が好きであったのではない。むしろ批判的であった。

    ・「兄貴の恋人」のヒロインは、もともと加山雄三の演ずる人物が好きであった。

    ・「お嫁においで」では、金持ちの世界に住む主人公と、貧しい世界に住むヒロインとの間に、世界が違うという壁があった。最終的にヒロインはその壁を主体的にとらえなおすのであるが、そのことによってヒロインは主人公を振るのである。

    ・「兄貴の恋人」では、主人公とヒロインとは、違う世界の住人ではない。ヒロインは、映画のはじめには主人公と同じ世界の住人だったのである。「お嫁においで」ほど主人公が金持ちの家に生まれたということは強調されていない。「兄貴の恋人」の壁は、ヒロインの家族にあって、ヒロイン自身にあることではない。それゆえにヒロインが決断することによって主人公と結ばれることができた。

     「兄貴の恋人」は、「お嫁においで」に対して、ヒロインが殻を破るところを描いている、ということができるかもしれない。

     「お嫁においで」からいうと、「兄貴の恋人」に対して、ヒロインの主体性を重んじた、ということができるかもしれない。

    ヒロインの近くにいる男

    ・「お嫁においで」では、ヒロインの近くにいる男(黒沢年男)がヒロインを愛していることが時間をかけて描かれていた。

    ・「兄貴の恋人」では、ヒロインの近くにいる男(清水綋治)のヒロインに対する思いはそれほど描かれていない。ヒロインの兄によって傷つけられて、就職に苦労したという経歴があって、そのことは引け目になることであった。ところが、加山雄三の演ずる人物がその男の代わりに殴られてアメリカ行きをふいにしたことによって、引け目はなくなった。

    加山雄三

    「お嫁においで」

     「お嫁においで」で加山雄三が演じた人物は、造船所の設計技師で、祖父、親の会社で働いている。そういうところは「兄貴の恋人」より「若大将」シリーズに近い。ただしそういう要素は、ヒロインとの関係でマイナスに働くこととして描かれている。「お嫁においで」は、そういうヒロインを中心とした映画である。そういうところは「若大将」シリーズから離れるところである。

     加山雄三が演じた人物は、はじめにヒロインに惚れ込んでから終盤まで一途であった。

    「兄貴の恋人」

     「兄貴の恋人」で加山雄三が演じた人物は、「お嫁においで」ほど金持ちではない。

     女にもてる男である。見合いには乗り気でなく、うまくいかないが、多くの女性に愛され、中途半端な関係になったりしている。

     女にもてるところは、「お嫁においで」より「若大将」シリーズに近いと思う。様々な美女が主人公に対して好意を抱くところを表現しているのである。―「お嫁においで」においては、主人公がヒロインに対して好意を抱いているのであって、ヒロインの方はそれほどではなかった。

     「兄貴の恋人」の主人公は、中盤までヒロイン(酒井和歌子)に対して特に好きということはない。しかし中盤に好きと自覚してからは、一途になる。

    内藤洋子

     内藤洋子演ずる妹は、「お嫁においで」においては、加山雄三の演ずる兄の側にいて、兄がヒロインと結ばれるために働く可愛い妹に過ぎなかった。

     「お嫁においで」の中心は、加山雄三の演ずる人物ではなく、ヒロイン(沢井桂子)であった。内藤洋子演ずる妹は、さらに中心から離れた存在であった。

     「兄貴の恋人」は、題名でも明らかなように、内藤洋子演ずる妹が作品の中心になっている。

  • 【映画】「お嫁においで」(1966年) 「若大将」シリーズに近い映画

    【映画】「お嫁においで」(1966年) 「若大将」シリーズに近い映画

     1966年11月20日に公開された映画「お嫁においで」は、加山雄三が「若大将」シリーズの間に出演した映画である。

     私は「若大将」シリーズに関心があってこの映画を観たのであるが、色々と「若大将」シリーズと似ているところがある。違うところもある。(敬称略)

    楽曲

     映画「お嫁においで」は、弾厚作(加山雄三)作曲の「お嫁においで」という楽曲(1966年6月15日発売)をもとにして作られたものである。

     パンフレットには「加山雄三のヒット曲のなかからはじめて映画化された」とある。

     「お嫁においで」という楽曲は、加山雄三の楽曲の中でも特に有名なものである。

    「若大将」シリーズとの関係

     映画「お嫁においで」が公開されたのは、「若大将」シリーズでは、「アルプスの若大将」(1966年5月28日公開)、「歌う若大将」(1966年9月10日公開)と「レッツゴー!若大将」(1967年1月1日公開)の間である。

     「若大将」シリーズが盛り上がっている時に、その勢いによって作られた映画と思われる。

     「若大将」シリーズと同じように、加山雄三演ずる人物の恋愛が作品の中心となっている。

     「お嫁においで」では、加山雄三は社会人を演じている。「若大将」シリーズで、加山雄三演ずる田沼雄一が社会人になるのは「フレッシュマン若大将」(1969年1月1日公開)からである。

     「若大将」シリーズで主人公の父役の有島一郎が「お嫁においで」ではホテルの支配人、主人公の祖母役の飯田蝶子がそのホテルに来る担ぎ屋のおばさんを演じていて、二人が言い合う場面があるが、「若大将」シリーズに似た感じがある。

     全体的にコミカルな感じは「若大将」シリーズに似ている。

     ただし「若大将」シリーズと違う感じのところもある。私はそのことが気になった。

    あらすじ

    Paul BrennanによるPixabayからの画像

     主人公はホテルのレストランのウェイトレス露木昌子(沢井桂子)。

     露木昌子(沢井桂子)は、造船所の設計技師須山保(加山雄三)と出会う。須山保は、造船所の会長の孫、社長の子である。須山保は露木昌子に惚れ込む。それに対して、保の父(笠間雪雄)、母(村田知榮子)は、保が釣り合った相手と結婚すべきだと考えていて、露木昌子は保と釣り合わないと言って反対する。妹(内藤洋子)は保を助けようとする。祖父(笠智衆)もはじめは釣り合わないと言って反対していたが、保を助けようとする。

     露木昌子(沢井桂子)は同時に、病気の友達(田村亮)の兄(黒沢年男)と親しくなる。

     主人公は、金持ち(加山雄三)に思いを寄せられると同時に、粗野なタクシー運転手(黒沢年男)に思いを寄せられて、どちらを選ぶか、という話になる。

     主人公自身は貧しい庶民であって、金持ちに対して批判的な考えを持っていた。

     ところが主人公は、須山保(加山雄三)と付き合っているうちに、金持ちの幸福をも知る。(48分あたり、ヨットで加山雄三が歌を歌い、主人公はそれを聞く、二人が水着姿で浜辺で抱き合うイメージ)

     しかし結局露木昌子(沢井桂子)は、須山保(加山雄三)に対して、シンデレラになりたくないからと断って、野呂高生(黒沢年男)を選ぶ。

    主人公

     映画「お嫁においで」は、加山雄三の楽曲をタイトルにした映画であって、劇中で加山雄三がその楽曲を歌っている。クレジット順では第一が加山雄三である。加山雄三の演ずる須山保が主人公であるように見える。

     ところが実際には、この映画の主人公は露木昌子(沢井桂子)である。この映画は、露木昌子(沢井桂子)から始まる。露木昌子(沢井桂子)の気持ちが、映画の中心になっている。

     これは奇妙なことではないか?

     「若大将」シリーズの勢いによって作られたと思われる映画で、何故に加山雄三を主人公にしないのか?

    パンフレット

     「お嫁においで」のパンフレットを見ると、次のように書いてあった。

    いままでの加山の役はほとんどが結ばれなくともハッピーエンドで終っているが、この作品では恋人の沢井を黒沢に奪われ、ヨットで失恋の旅に出るというもの。
     これも「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮からなったもので、「君といつまでも」「夜空の星」などで爆発的人気を呼んでいるだけにファンを大切にというわけ。

    東宝「お嫁においで」パンフレット

     加山雄三の演ずる人物が失恋することについて、「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮から、と説明しているのである。

     我らの問題は、何故に加山雄三の演ずる人物が失恋するのか、ということではなくて、何故に加山雄三の演ずる人物が主人公でないのか、ということであった。その説明では答えにならない。

     それはそれとして、「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮から失恋させることにした、ということもよくわからない。

     「お嫁においで」というタイトルであるから、最後に失恋しないかぎり、結婚せざるをえない、ということであろうか? そういうことで「ファンにしかられる」のであろうか?

    思想

     映画「お嫁においで」は、露木昌子(沢井桂子)の気持ちを中心としている。露木昌子(沢井桂子)の思想を中心としている。

     露木昌子(沢井桂子)は、自身貧しい庶民として、金持ちに対して批判的である。貧富の差について「世の中間違えている」と語っている。(38分)主人公の同僚は「革命が必要」と言っている。(31分)ただし主人公も同僚も革命を実際に企てているのではない。

     露木昌子(沢井桂子)は須山保(加山雄三)と付き合って金持ちの幸福を知る。須山保(加山雄三)も、「職業に貴賎なし」と言って主人公にほれ込む人である。

     しかし結局、露木昌子(沢井桂子)はシンデレラになりたくないからと、結婚を断った。

     映画「お嫁においで」においては、金持ちと庶民とが分けられている。主人公の勤めるホテルは、庶民が従業員として金持ちと出会う場所である。

     加山雄三の演ずる人物は、金持ちの側の人である。若大将より金持ちであることが強調されているが、豊かな家に生まれたこと、船を造っていることなど、若大将と同じように加山雄三自身に近いと思われるキャラクターである。

     「お嫁においで」は、その加山雄三の演ずる人物に対して、それと異なる主人公たちの貧しい庶民の生活を中心として、加山雄三の演ずる人物と結ばれることを選ばない、という作品である。

     いわば「若大将」シリーズと対立する思想を持っているということができるのではないか?

     パンフレットに「従来の”若大将”ものとは違った、題名は曲名そのままでも内容的には脚本を特に松山善三氏に依頼、その意欲がうかがわれる」とある。

     特に松山善三によって、映画「お嫁においで」に「若大将」シリーズと違う思想が持ち込まれたようである。

    その他のこと

    本多猪四郎監督

     映画「お嫁においで」の監督は本多猪四郎である。怪獣映画の間にこの映画を監督している。(「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」と「キングコングの逆襲」の間)

     パンフレットには「加山以上にうれしがっているのが、本多猪四郎監督」とある。

    なにしろ本多監督といえば怪獣ものの専門監督、恋愛ものを手がけるのは、「真紅の男」いらい五年振りというからよろこびようもわかる。「若い連中に囲まれて、仕事をするのは久しぶりだが、僕も若い気分になって楽しい作品を作りたい。加山君の魅力をじゅうぶん出しますよ」と張り切っている。

    東宝「お嫁においで」パンフレット

     「真紅の男」とは、1961年9月12日に公開された映画である。

    オーディオコメンタリー

     「若大将」シリーズの「海の若大将」のDVDのオーディオコメンタリーで沢井桂子が「お嫁においで」について語っているところがある。

     最後に露木昌子(沢井桂子)が須山保(加山雄三)をふるところについて、みんなにもったいないと言われたと言っている。

    「兄貴の恋人」

     映画「お嫁においで」の二年後に作られた映画「兄貴の恋人」は、2010年に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売された作品であって、同じく加山雄三主演で、設定に似たところがあって、それぞれの違うところを考えると、それぞれの作品がよりよくわかる。

     「兄貴の恋人」について↓

    小津安二郎

     映画「お嫁においで」の24分あたりで、ヒロインたちが家から土手にいる笠智衆を見るところがある。そこで私は小津安二郎作品を思い出した。

     「東京物語」で、東山千栄子演ずる祖母が孫と土手で遊ぶのを家から見るところ。(29分)

     「お早よう」で、住宅地から土手を見るところ。(2分)

     手前に住宅地、奥に土手があるという構図が似ているのである。

     笠智衆は小津安二郎作品に多く出ている俳優である。それゆえに「お嫁においで」に出演している笠智衆を見て、小津安二郎作品が思い出される。「東京物語」では、笠智衆が土手を家から見る役になっていた。

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」 キャラクターの改変とストーリーの難点

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」 キャラクターの改変とストーリーの難点

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」においては、登場人物の性格が原作とは大きく違うものになっている。

     「あの日にかえりたい」は、登場人物の性格が原作と大きく違うことによって、話も原作と大きく違うものになっている。

     「あの日にかえりたい」の檜山ひかるの性格が原作と大きく違うものになっていることについては、前にも述べた。

    鮎川まどかの改変

     第一に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のヒロイン、鮎川まどかが、「あの日にかえりたい」においては、原作と大きく違うものにされている。

    冒頭

     「あの日にかえりたい」のはじめに、春日恭介、鮎川まどかの二人が大学の合格発表を見に行く途中、春日恭介の後を鮎川まどかがついていくところが描かれている。

     私はそこから違和感がある。

     鮎川まどかが春日恭介の後について二人で大学の合格発表を見に行く姿は、私の頭の中にある春日恭介、鮎川まどかと一致しない。

    キャラクターの容姿

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの性格が原作から大きく離れていることは、絵によっても現わされていると私は思う。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの絵は、容姿も衣装も、原作から離れている。原作と同じ精神を表現しようとしたとも思えない。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の鮎川まどかの絵は、その容姿、衣装によって、孤高の性格を表現している。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの絵は、原作から離れたことによって原作の精神からも離れている。原作の鮎川まどかのかっこよさが全くなくなっていると私は思う。―「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの顔は、原作に比べてかっこよさがなくなっている。「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの髪型も衣装も、原作の鮎川まどかがしないと思われるものが多いが、いずれも原作に比べてかっこよさがなくなる方向に進んでいると思われる。

    キスのことを聞いて怒る

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、春日恭介が檜山ひかるとキスしたと聞いて、怒って春日恭介と会わなくなる。

     そのことについて、深草プロデューサーは「アニメディア」1988年10月号で次のように説明している。

    まどかにとっては、二人のキスは衝撃なんですね。「恭介は自分を愛してる」そんなまどかの自信は崩れ去り、ひかる、恭介との関係を本気で考え始めるんです。(深草P・D)

    「アニメディア」1988年10月号、119頁

     鮎川まどかは勝手に「恭介は自分を愛してる」という「自信」を持っていて、二人のキスを聞いて、その「自信」が崩れ去って、ひかる、恭介との関係を本気で考え始めるというのである。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、勝手に「恭介は自分を愛してる」という「自信」を持っているようなかっこわるいキャラクターになっている。二人のキスを聞いて、勝手に持っていた「自信」が崩れ去ったということもかっこわるい。

     原作の鮎川まどかは、そのようなかっこわるいことはしない。勝手に「自信」を持つこともなく、その「自信」が崩れ去って衝撃を受けることもない。

    内面

     望月智充監督は、「あの日にかえりたい」について次のように語っていた。

    ひかると恭介との間にはいって苦しむまどかの姿を中心に、少女ふたりの内面を心理ドラマとして見せたいと思っています。

    「アニメージュ」1988年8月号、25頁

     ところが「あの日にかえりたい」においては、鮎川まどかの「内面」は「心理ドラマ」として描かれていないようである。

     原作の鮎川まどかは、檜山ひかるのことを思いやっていた。そのことによってその「内面」は複雑になっていた。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、檜山ひかるのことを思いやらず、春日恭介を自分のものにすることばかり考えている。その「内面」は単純である。―春日恭介は自分のものだという「自信」を勝手に持っていた、しかしその「自信」が崩れ去って衝撃を受けた、それから「自信」を取り戻した。このように単純である。

     「ひかると恭介との間にはいって苦しむまどかの姿」は、原作にはあったが、「あの日にかえりたい」にはない。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、「ひかると恭介との間にはいって苦しむ」ことはない。

     「あの日にかえりたい」では、鮎川まどかが、自分の部屋でそのことを思って、ひとりで泣き出す場面があるが、自分のものだと思い込んでいたものがとられたことを悲しんでいるだけであって、幼児がおもちゃをとられて泣いているのと同じような精神性である。

     ついでに、「あの日にかえりたい」の鮎川まどかが春日恭介と予備校の授業中に痴話げんかをしているところが気になったので書いて置こう。
     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、ひかるが恭介とキスしたと聞いて、予備校で恭介を待って、そのことについて聞いて、けんか別れしているのであるが、予備校の授業中に、他の人が聞いているところで、そういう話をすることを、恥ずかしいと思わないのであろうか? たとえば予備校に行く前の電話で聞いて、そしてつき放すのでいいのではないか?

    夏祭りの夜の電話

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、春日恭介が檜山ひかるとキスをしたと聞いて、春日恭介に会わなくなる。

     ところが夏祭りの夜、突然春日恭介に鮎川まどかから電話がかかってきた。

     鮎川まどかは電話口で泣いていた。そして「あなたの気持ちわかってたつもりで安心してたから、その気持に甘えてた罰かもしれない。今回のひかるのこと」といった。

     それに対して春日恭介は「そんな・・・俺の方こそ、俺の方こそ・・・。俺、鮎川のこと・・・好きだよ」といった。

     鮎川まどかは「春日君、会いたい」と言い、「(すすり泣いて)馬鹿だね私。春日君、私、そんなに強くないよ」と言った。

     春日恭介は鮎川の家に駆けつけた。

     ところが春日恭介がキスをしようとすると、鮎川まどかは顔をそむけた。春日恭介が「あの、やっぱり、ひかるちゃんのことが?」と聞くと、鮎川まどかは「ううん。ひかるのことは別に。それよりも春日君の気持ちの問題なの」と答えた。それを聞いて春日恭介は「わかった」と言った。

     この場面を初めて見た時、私はびっくりした。原作の鮎川まどかと相いれないからである。

     この場面はこの映画の重要な転換点である。しかしどうも筋が通っていないのではないかと思われる。

    鮎川まどか

     まずこの場面の鮎川まどかの言動が原作の鮎川まどかと相容れないということについて。

     深草プロデューサーはこの場面について次のように語っている。

    三人の関係に思い悩むまどかは混乱し、どうしていいのかわからないまま、恭介に電話をしてしまいます。これはテレビシリーズではありえない、まどかの生身の姿ですね。

    「アニメディア」1988年10月号、120頁

     理性によって感情を制御することができないまま、そういう状態の自分を春日恭介にさらけ出したというのである。

     脚本を書いた寺田憲史氏はこの場面について次のように語っている。

     大人向けは別にして、漫画のヒーロー、ヒロインは、とかく「陽」の部分が前面に出ていて、「陰」の部分を丁寧に描くことが少ない。だがこの作品では、鮎川まどかというなんでも格好いいヒロインが、どこにでもいる一八歳の少女のようにボロボロと泣きながら、切ない自分の気持ちをしゃべるシーンが出てくる。
     ぼくはそういった彼女の「孤独」を描くことで、観客である若者たちに、今まで「強く、凛とした」少女が、じつは彼らと同様に、もろくはかない魂の持ち主であることを気づかせたかったのである。

    「ルーカスを超える」、194~195頁

     寺田憲史氏は、「なんでも格好いいヒロイン」の「陰」の部分を描いたという。

     私はこの場面で「なんでも格好いいヒロイン」の「陰」の部分が描かれているとは思わない。この場面の鮎川まどかの言動はあまりにかっこ悪い。

     そもそも「あの日にかえりたい」において鮎川まどかは「なんでも格好いいヒロイン」として描かれてはいない。いつでも自分の欲望を優先するという「陰」の部分だけが描かれたキャラクターである。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは春日恭介に「会いたい」と言いながら、駆け付けてきた春日恭介にキスを許さず、恭介の「気持ち」を問題としている。自分のものはなるべく人に与えず、人からそれより多くを受け取るというのである。自分の所有欲を第一とする考え方は揺るがない。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、ひかるのことを全く思いやらず、春日恭介に檜山ひかるをつき放させている。

    春日恭介

     鮎川まどかの電話は、春日恭介の気持ちを変えた。それまで檜山ひかるに傾いていたのに、それから鮎川まどかに傾いて、檜山ひかるをひたすらつき放している。この映画の重要な転換点である。

     しかし、そういう春日恭介の心の動きはおかしいのではないかと私は思う。

    関係の逆転

     この場面で鮎川まどかが電話をかけてきた時に、恋愛ゲームにおいて優位にあったのは春日恭介であった。

     関係の再開を求めているのは、鮎川まどかであって、春日恭介ではない。

     春日恭介は、鮎川まどかが春日恭介と会おうとしなくなった時に、鮎川まどかを追いかけて電話をかけたが、その後にいつしか追いかけることをやめている。そして、ひかるとの関係を進めている。

     春日恭介は鮎川まどかを追い求めていないところに、鮎川まどかが春日恭介を求めて電話してきたのである。

     ところがその電話の後に、春日恭介が鮎川まどかの家に行った時には、春日恭介は鮎川まどかに「気持ち」を求められて、そのまま従っている。そしてそれから檜山ひかるをつき放している。

     いつの間にか鮎川まどかが優位になっている。

    逆転の理由

     どうしてそのような逆転が起こったのか?

     深草プロデューサーは次のように説明している。

    三人の関係に思い悩むまどかは混乱し、どうしていいのかわからないまま、恭介に電話をしてしまいます。これはテレビシリーズではありえない、まどかの生身の姿ですね。そんなまどかを見せられることで、遅まきながら、恭介は決断をするわけです。「僕はまどかが好きなんだ」と。(深草P・D)

    「アニメディア」1988年10月号、120頁

     「まどかの生身の姿」を「見せられること」によって、「恭介は決断をする」というのである。

     しかし「まどかの生身の姿」とは、「混乱し、どうしていいのかわからないまま、恭介に電話をして」しまった姿である。そういう姿を見て、「まどかが好き」と決断するであろうか?

     まどか自身「どうしていいのかわからない」のであるから、恭介はそれにもまして「どうしていいのかわからない」であろう。それでは「好き」と思うより、煩わしいと思うのではないか?

     要するに、春日恭介の気持ちに大きな変化が起こらなくてはならないのに、その変化の原因になることがこの映画にはないのである。

    考察

     この場面は、この作品の重要なところであるにもかかわらず、脚本がおかしなことになっている。

     この場面では、鮎川まどかは、春日恭介の心を決定的に動かすだけのことをしなくてはならないはずである。

     それまでの話では春日恭介の心は檜山ひかるに傾いていたと描かれていたのであるから、その心を動かすだけのことがなくてはならない。

     この場面で鮎川まどかが浴衣を着ているところを見ると、その浴衣によって心を動かそうという考えがあったようにも見えるが、実際には全く役に立っていない。

     そしてあのわけのわからない泣き言によって「好き」と決断するといわれてもついていけない。

     それまでに春日恭介の本命は鮎川まどかだと描かれていれば、春日恭介の決断も受け入れやすい。ところが「あの日にかえりたい」においては、そういうことは描かれない。逆に、春日恭介が鮎川まどかを追いかけずにいるところが繰り返し描かれている。

    ・春日恭介は、鮎川まどかを追いかけるのをやめて、ひかるとデートして再びキスをする。

    ・予備校の講師に、鮎川まどかのプリントを届けるように言われて、鮎川の家にプリントを届けるが、本人に会おうともせず、言葉も残さない。

    ・鮎川まどかからの電話を受けた時も、受験勉強をしていたのか、休んでいたのか、よくわからないが、いずれにせよ、鮎川まどかのことを考えていなかったようである。

     このように、春日恭介は鮎川まどかを追い求めていなかったことにしておいて、その心が鮎川まどかのわけのわからない泣き言によってひっくり返ったと描いているので、ついていけないのである。

     そもそもこの映画の春日恭介は鮎川まどかと同じ大学に行くつもりで同じ予備校の夏期講習を受講していたはずである。その鮎川まどかが途中から予備校に行かなくなったことは、春日恭介の大学受験とかそのための予備校の夏期講習とかに影響を与えることと思われるが、春日恭介は何事もなかったかのように、そのまま受験勉強を続けて、予備校に通い続けている。

    予備校の授業中

     予備校の授業中、鮎川まどかは春日恭介に紙を渡して、ひかるをつき放すことをどれだけ進めたか、聞いている。

     鮎川まどかの性格が悪く描かれている。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、妹分の檜山ひかるが傷つけながら、その傷を癒すために動くことは全くない。

    夜のアバカブ

     夜のアバカブにひかるが訪ねてきて、鮎川まどかと言葉を交わす。ここでもなぜか鮎川まどかの性格が悪く描かれている。

    謝罪

     鮎川まどかはそこで檜山ひかるに対して「わかったわ、ひかる。ごめんなさい」と言っている。

     ひかるが訪ねて来たことを受けてはじめてしかたなく謝罪する、というかたちになっているのである。

     妹分を傷つけたのに、自分から謝罪することもしない、悪い性格に描いているのである。

    別れ

     ひかるがアバカブから出て行こうとするときに、鮎川まどかは「ひかる、私たちもう、三人ではいられないんだね」と言っている。

     鮎川まどかがひかるに三人でいることを求めるのが自然ではないか?

     それに対してひかるが拒んでもしかたない。

     ところがこの場面の鮎川まどかは、なぜか自分から、「三人ではいられない」と言っている。

     三人でいる努力を全くせず、三人でいることを否定してしまっている。

    吹きすさぶ風

     春日恭介にひかるとの最後の別れのことを聞いた鮎川まどかは「こんなふうになっちゃったけど、私には信じさせてくれるよね、春日君の気持ち? 春日君のこと、責めないよ。私まで責めたら、春日君、気持ちのやり場がなくなっちゃうもんね。」と言う。

     この映画では、鮎川まどかが春日恭介にひかるとの関係を絶たせた、と我らは思っていたが、この映画の鮎川まどかは、春日恭介が責められるべきであって、鮎川まどかも春日恭介を責めることができる立場にいる、と考えているようである。

     わけがわからない。

    檜山ひかる

     「あの日にかえりたい」の後半の檜山ひかるに関してはすでに論じた。

     「あの日にかえりたい」の檜山ひかるは、その他にも原作と違うところが少なからずある。

    演劇

     「あの日にかえりたい」においては、檜山ひかるは演劇に打ち込んでいることになっている。

     春日恭介と鮎川まどかが大学受験のために予備校の夏期講習に行くことに対して、檜山ひかるは演劇に打ち込むことにしたのではないかと思われる。

     春日恭介と鮎川まどかは、大学受験のために同じ予備校に行くことによって、関係を深める。

     それに対して檜山ひかるは、春日恭介と離れて演劇に打ち込んで、春日恭介と別れることになる。

     そういうかたちになっている。

     しかし私の頭の中にある檜山ひかると、演劇に打ち込むということとは、どうにも調和しない。

     この後の小説版で、それぞれの登場人物のその後の姿が描かれているが、どれも私には木に竹を継いだように見える。全く自然に見えない。

    恋愛対象としての魅力

     「あの日にかえりたい」の檜山ひかるは、絵も、言動も、恋愛対象としての魅力がないように私には見える。

     私は「あの日にかえりたい」の檜山ひかるの絵に全く魅力を感じない。原作のひかるの絵には魅力を感ずることもある。

     原作では軽い感じのショートカットが、「あの日にかえりたい」では妙に重い感じになっているところなど好きになれない。

     あの甲高い猫なで声は、私にはどうにも耳障りである。

     ひかるが春日恭介の部屋で風鈴の音について「うるさいですか?」と聞くところがあるが、私は「ひかるも自分の声がうるさいとわかっているのか」と思ってしまった。

    口調①

     相手の顔を指さして「もやもやもや~ぱっぱっ」とか、「おちゃ~めさん」とか、「ダーリン! あは、ピンポンピンポン!」とかいう高校生の女の子は、私には恋愛対象として魅力的に見えない。

    口調②

     その一方で、「お名残り惜しい」など、いやに丁寧な言葉遣いをしているが、上のようなことを言う人の言葉としても、高校一年生の女の子が高校三年生の男の子に対してつかう言葉としても、どうも私には違和感がある。

    デート

     この映画で春日恭介と檜山ひかるが二人でデートしている場面は多い。

    ・はじめのアバカブで話している場面
    ・ひかるが春日家に来た場面
    ・ファーストフード店で二人で飲食している場面
    ・二人で飛行船を見上げている場面
    ・池端のベンチで会った場面

     どの場面を見ていても、ひかるとのデートはたのしいようには見えない。上に挙げたように、絵も声も口調も魅力ない上に、話している内容がちっとも恋愛感情を高めているように見えない。

     原作では、たとえば第55話「春=ショック!」のはじめに、3頁かけてひかるとのデートが描かれているが、そちらのデートはたのしそうに見える。

     「あの日に帰りたい」の前半では、春日恭介の心は檜山ひかるに傾くことになっている。

     ところが、「あの日にかえりたい」の檜山ひかるにそれだけの魅力があるように見えないので、話についていけない。

     それでも、春日恭介の心が檜山ひかるに傾いているところが描かれていたならば、そういう場面として受け取ることはできる。ところがなぜか春日恭介の心はほとんど描かれていない。何を見せられているのかと思ってしまう。

    キスの場面

     ひかるが春日恭介とキスをするところは、話が動く重要なところである。

     ところがそこでも、春日恭介がひかるとキスをしてしまうほど魅力的に描かれているとは思えない。

     春日恭介は檜山ひかるとキスをすることによって、それまでの人間関係を動かしてしまうことを知っているはずである。それにもかかわらず、ひかるとキスをしてしまうほどの魅力は、私にはちっとも感じられない。

     詳しく論じてみよう。

     キスの前に、ひかるがもってきた甘いものを春日恭介と二人で食べている時に、ひかるが「何だかこうしてると、あたしたち新婚さんみたいに思いません?」と言っているが、これがまずうまくないと思う。現在二股かけている男がそう言われても、気持ちが重くなるだけだと私は思う。

     問題のキスをするところについて、深草プロデューサーは「この時の恭介の気持ちは、ひかるの一途な心をいじらしく感じて飛びついちゃった・・・。そんなところでしょう。」と語っている。(「アニメディア」1988年10月号、118頁)

     しかし、高校3年生の男の子が、高校1年生の女の子に、大学受験に関して「何かもっとしてあげられることないかなって思って」とか、「大変さがわかってあげられない気がして」とか言われただけで、その「一途な心をいじらしく感じて」キスをしてしまうほど気持ちが高まるものであろうか?

     この場面では、「和田加奈子の歌」はたしかに気持ちを盛り上げることに役立っていると思う。しかしその歌を除くと、絵も話も十分でないと私は思う。

     和田加奈子の「鳥のように」は↓


    和田加奈子 ゴールデン☆ベスト

    まとめ

     私は「あの日にかえりたい」の檜山ひかるに全く恋愛対象としての魅力を感じない。それゆえに檜山ひかるに心惹かれる春日恭介の気持ちが全くわからない。

     他の人は「あの日にかえりたい」のひかるに、恋愛対象としての魅力があると思うのであろうか?

    春日恭介 

     「あの日にかえりたい」においては春日恭介も、原作と違うキャラクターになっている。

    前半

     「あの日にかえりたい」の春日恭介は、原作の春日恭介と違って、その時々に何を考えているか、よくわからない。

     すでに書いたように、春日恭介がひかるのキスを受け入れた気持ちはよくわからない。その後にそのことについてどう考えていたのかもよくわからない。

     深草プロデューサーは、その時に恭介はまだまどかにもひかるにも心を決めておらず、「一時的に、ひかるに心が傾いて」いる、と語っている。

    恭介はこの時、まどかにもひかるにも心を決めてません。ただ一時的に、ひかるに心が傾いてますね。(解説/深草礼子プロデューサー)

    「アニメディア」1988年10月号、118頁

     しかしどう心を決めていないのかも描かれていない。

     「あの日にかえりたい」の春日恭介は、原作と違って誰も本命としていなかったようである。

     まどかにひかるとのキスについて聞かれた時にも、決めることはできなかったという。

     ひかるとのキスをまどかに知られた恭介の胸中は、再びどっちつかずの思いでいっぱいです。

    「アニメディア」1988年10月号

     ここでもその恭介の気持ちは十分に描かれていない。

     その時に鮎川まどかにひかるとキスしていないと言っているところを見ると、嘘をついて二人とうまいことやろうと思っていたようである。

     「あの日にかえりたい」において春日恭介の気持ちが描かれることは少ない。描かれているところでも理解しがたいことは多い。そして原作より悪い性格にされている。それゆえについていけない。

    つき放す

     この作品の中盤以降、春日恭介はひたすら檜山ひかるをつき放している。

     別れた後にひかるが二度目に電話した時も、ひかるが春日の家に来て駅までついてきたときも、階段の上で二人が会った時も、夜、ひかるが春日の家に来て二人で外を歩いた時も、春日恭介は厳しい表情で、厳しい口調で、ひかるをつき放している。ひかるを憎んでいるのではないかと思われるような表情になっている。

     多くの人に批判されているところである。

     春日恭介のひかるに対する思いやりをちゃんと表現していれば、観客も同情することができたであろう。しかしそういうことはほとんど描かれない。最後に痛みをかみしめるような表情を見せているが、それだけでは弱い。ひかるを憎んでいるかのような表情で突き放すところが繰り返し描かれている。それでは、主人公は悪者のようである。

     深草プロデューサーはそのことについて次のように説明している。

    恋愛に不器用な恭介は、ひかるとの別れ方も不器用で、彼女をつき放すだけなんですよね。監督によれば、恭介がひかるを家に入れない場面は、ひかるを自分の心の中に入れない恭介の信念を意味するのだそうです。三角関係に決着をつける三人の姿に注目です。(深草P・D)

    「アニメディア」1988年10月号、121頁

     作り手は、春日恭介の「不器用」なところを表現しようと考えていたようである。

     しかし原作にない主人公の「不器用」さをぶちこんで、ラブコメをラブコメでなくしてしまうことはどうなのか、という問題がある。

     主人公の「不器用」さより性格の悪さが伝わるのでは、作り手が「不器用」だったということになるようである。

    まとめ

     劇場版「あの日にかえりたい」においては、登場人物の性格が一々原作より悪くされている。そして性格の悪い描写が繰り返されている。

     原作ファンの反発を買う作りになっているのである。

     登場人物の性格を変えて、筋が通らなくなっているところもある。

     主人公は、前半に檜山ひかるに傾き、後半に鮎川まどかに傾くが、いずれも、主人公の心がそのように傾くほど恋愛対象として魅力があるように描かれていないと私は思う。それゆえに筋が通らなくなっていると思う。若者の恋愛を中心とした映画であるのに、そういう映画の醍醐味と思われる恋愛感情の高まりが描かれていないと思うのである。

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」の問題

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」の問題

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、原作の漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」と大幅に違うものになっている。

     そのことによって、多くの人に嫌われ、一部の人に支持されている。

     「あの日にかえりたい」の作り手はどういう考えから原作と大幅に違う作品を作ったのであろうか?

    漫画と現実

     望月智充監督は、「あの日にかえりたい」の製作中に「アニメージュ」に次のように語っている。

    ストーリーは、原作とかなり違えて雰囲気もいままでの明るくて陽気、という感覚ではなくて、もっとずっとシリアスなものにしていきます。というのも、僕はやはりあの三角関係の決着がそう簡単につくとは思えないからなんです。

    「アニメージュ」1988年6月号、76頁

     原作に対して「あの三角関係の決着がそう簡単につくとは思えない」というのである。それゆえに映画でやり直すというのである。

    原作では恭介とまどかの関係に気がついたひかるは、恭介のほほを1度ひっぱたいただけで恭介をあきらめます。現実には、女の子ってあれだけで済ませるわけがない。そこで、映画ではその部分をじっくりとやってみました。ひかると恭介との間にはいって苦しむまどかの姿を中心に、少女ふたりの内面を心理ドラマとして見せたいと思っています。

    「アニメージュ」1988年8月号、25頁

     望月監督は原作に対して「現実には、女の子ってあれだけで済ませるわけがない」という考えから「あの日にかえりたい」を作るというのである。

     要するに、望月監督は「現実」を基準として、原作は「現実」通りでないと言い、それに対して「現実」通りに「あの日にかえりたい」を作るというのである。

    問題

     ところで、望月監督の主張は正しいのであろうか?

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」には、望月監督の言うように正しくないところがあって、「あの日にかえりたい」はそれを正しくしているのであろうか?

     小黒祐一郎氏は、「あの日にかえりたい」は「『オレンジ☆ロード』というタイトルが抱えている問題」を「えぐる内容となった」と語っている。小黒氏も、原作には問題があって、「あの日にかえりたい」はその問題をついた、というのである。

    「ラブコメ」と「現実」

     望月監督が「現実」を基準として、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を批判して、それに対して「あの日にかえりたい」を作ったことは、「現実」より甘いラブコメに対して厳しい「現実」をつきつけたものと考えることもできる。

     しかし、たとえば「めぞん一刻」なども、「現実」より甘いラブコメということになるのではないか? こずえの身の引き方も、三鷹の身の引き方も、「現実」より甘く作られているのではないか? いずれも「きまぐれオレンジ☆ロード」のひかるの身の引き方と比べても、甘く作られているのではないか?

     要するに、望月監督の批判は、必ずしも特に「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品に対するものではなく、「めぞん一刻」のような作品をも含めた作品群に対するものではないか?

     ところで望月監督が「現実」を基準としたと言っても、「あの日にかえりたい」は作り物にすぎない。

     「めぞん一刻」のような作品群と、「あの日にかえりたい」のような作品とは、作り物の様式が違うということができる。

     そこでまず、一方の様式が正しくて、もう一方の様式が正しくない、ということができるのか、ということが問題となる。ラブコメにはラブコメの様式があって、それに対して「現実」ではないということはその様式を無視したことにすぎないのではないか、ということである。

    「きまぐれオレンジ☆ロード」

     次に、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は、「めぞん一刻」などと比べると、甘いラブコメにとどまらずに、「現実」をも描こうとしたものではないか? たとえば最終回の一つ前の話(「帰れないふたり!の巻」)では、それまでの三角関係が壊れていく中で、ひかるの悲しみも、まどかの苦しみもまじめに描かれている。

    (ひかるの悲しみ、まどかの苦しみは、JC18巻で加筆されたところに描かれている。JC18巻が出版されたのは1988年7月15日であるから、望月監督の上の発言の時にはまだ出ていなかったのではないかと思われる。加筆は、原作者が「あの日にかえりたい」の企画を知った上で作ったかもしれない。)

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は、甘いラブコメの外に厳しい現実があるということを自ら示していた。

     たとえばJC5巻第40話「タイムスリップ・クリスマス!の巻」では、本編が甘く終わっているのに、扉絵には厳しい表情が描かれている。扉絵の厳しい表情は、その前の第39話の最後の頁の「本当に―/このままで/い―の?」という言葉を受けたもののようである。そこで、作者は、甘い話の外に厳しい現実があることを示しているのである。

     まつもと泉氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」の終盤で「少女マンガ」がやりたかったと言っていた。「少女マンガ」とは、甘いラブコメではなく、厳しい現実をも描くものではないかと思われる。

     要するに、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を、単に甘いラブコメにとどまらずに、厳しい「現実」をも描こうとしたものである。

     それに対して「あの日にかえりたい」の方が厳しい「現実」を描いていると言っても、相対的な違いに過ぎないのではないか?

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」を、「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」と比べてみよう。

     「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」は、原作漫画の繰り返す楽しい日常を問題としたことによって、原作漫画の抱える問題をついた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、終わり方を原作漫画よりドロドロさせた。

     「あの日にかえりたい」は、「ビューティフル・ドリーマー」のように原作漫画の抱える問題をついたとは言えないのではないか?

     もう一つ大きな問題がある。

     「あの日にかえりたい」は登場人物の性格が原作と違うものになっている。

     望月監督は、原作の終盤のひかるの言動に対して「現実」を基準として反対していた。しかし、その「現実」が原作のひかると違う性格の人物になってしまうのでは、原作を正したことにはならない。勝手に違う土俵に移っているわけである。

     原作では登場人物の性格を変えずに終わらせている。その方が正しいのではないか?

    泥沼

     望月智充監督は、「あの日にかえりたい」において、檜山ひかるというキャラクターを改変した。

     原作の檜山ひかるは、春日恭介の心が自分でなく鮎川まどかに向かっていると知った後、あきらめて、「恭介のほほを1度ひっぱたいた」ことによって済ませた。

     「あの日にかえりたい」の檜山ひかるは、春日恭介に鮎川まどかが好きだからと別れを告げられた後も、春日恭介につきまといつづけた。

    理性

     原作のひかるのように潔くあきらめることは理性的なことである。

     「あの日にかえりたい」のひかるのように、つきまといつづけることは、理性的なことではない。相手を振り向かせるという目的は、相手によって否定されている。相手を振り向かせるためにつきまとうことは、逆に相手に嫌われることである。

     「あの日にかえりたい」のひかるは、自分を傷つけ、自分の好きな人を傷つける行動を繰り返しているのである。

    ひかるの内面

     望月監督は「アニメージュ」1988年8月号で、「少女ふたりの内面を心理ドラマとして見せたい」と語っていた。

     しかし、実際にできた「あの日にかえりたい」では、ひかるは、恭介につきまとう、という外面的な姿ばかり描かれて、その内面はほとんど描かれていない。

     「あの日にかえりたい」のひかるは、理性的でないことをしているのであるが、そのことを自分でどう考えているのか、よくわからない。

     この映画の観客は、ひかるの内面に共感するのではなく、ひかるの外面にかわいそうだと思うのである。

    設定の変更

     「あの日にかえりたい」においては、ひかるは、春日恭介と鮎川まどかの関係を前から知っていたことになっている。ひかるはそのことを、春日恭介に対しても、鮎川まどかに対しても、明らかにしている。これは原作にもTVシリーズにもないことである。

     その改変によると、「あの日にかえりたい」のひかるは、原作、TVシリーズと違って、春日恭介に真意を隠されていたということがなくなる。

     春日恭介の罪悪感がなくなる。

     檜山ひかるがそのことゆえに苦しむということがなくなる。

     檜山ひかるは二人の関係を知りながら割り込もうとしたことになっている。

     この改変では、ひかるに同情しにくくなっているのではないか?

    TVシリーズとの関係

     劇場版「あの日にかえりたい」と原作との間にはTVシリーズがあった。

     「あの日にかえりたい」は、大体においてTVシリーズの作り手によって、TVシリーズに続くものとして、作られたものである。

     「アニメージュ」1988年6月号で望月智充監督は「恭介とまどかが高校3年生頃、つまりひかるが高校1年生の時を描くことになります。つまりテレビシリーズの最終話のかなり後、ということです」と語っている。(76頁)

     「アニメージュ」1988年8月号には「映画「きまぐれオレンジ★ロード」は、TVシリーズ最終回から3年後、まどかと恭介は高3、ひかるは高1の夏休みの物語。」とある。(24頁)

     TVシリーズにおいてすでに、登場人物も、話も、原作と違うものになっていた。

     望月監督は、「あの日にかえりたい」によって、原作の正しくないところを正しくすると語った。しかし原作の正しくないところを正しくするためには、TVシリーズとのつながりをなくさなくてはならないのではないか? すでに原作と違うものになっていたTVシリーズとつながっているのでは、原作を正しくすることはできないのではないか?

     望月監督は「アニメージュ」1988年8月号において、望月監督が担当したTVシリーズの最終回は失敗だったと語っている。

    ぼくが最終回をやったときに、これは失敗だった、と感じたのは現在の時点でのひかるの存在が忘れられていたこと。そのせいで、3角関係の部分を無視した形になってしまった。あの最終回はまどかと恭介だけの世界でした。

    「アニメージュ」1988年8月号、25頁

     TVシリーズの最終回で失敗しておいて、原作の最終回はおかしい、というのは、奇妙なことではないか?

     TVシリーズには、原作にはない問題がある。

     たとえば、TVシリーズの檜山ひかるには、原作にはない幼児性がある。

     TVシリーズのひかるの絵は、「魔法の天使クリィミーマミ」の主人公の小学生の絵に近いものになっている。セリフも、ドタバタコメディにするためか、原作にあった落ち着いたところがなくなっている。

     幼児性をもっている人とは別れにくい。

     TVシリーズは、ひかるに原作にない幼児性を付け加えたことによって、主人公がひかると別れることに、原作にない困難が付け加わったのである。

     小黒祐一郎氏はそのことに関して次のように語っている。

    TVシリーズでは、ひかるが原作よりも明るい女の子として描かれており、もう一度意地悪な言い方をすると、彼女は道化師的な役回りになっている。後に制作された劇場版『きまぐれ オレンジ☆ロード あの日にかえりたい』を観た後に、あるいは原作最終回を読んでからTVシリーズを観返すと、その明るい振る舞いに悲哀を感じてしまうくらいだ。

    「WEBアニメスタイル」、「アニメ様365日」、「第374回 続々・伝説の「追いかけて冬海岸」」

     TVシリーズにおいてひかるを原作と違う「道化師」にしたことによって、最後の別れに「悲哀」が加わったというのである。

     小黒氏は「あの日にかえりたい」は「『オレンジ☆ロード』というタイトルが抱えている問題」を「えぐる内容となった」と語ったが、その問題はTVシリーズにあって、必ずしも原作にはないのではないか?

    終わりに

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」について、「うる星やつら」の劇場版「ビューティフル・ドリーマー」のように、原作の問題をついたと評されることがある。

     しかしこれまで述べてきた理由で、私はそうは思わない。

     

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」と「アニメージュ」

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」と「アニメージュ」

     「アニメージュ」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」に対しても、もちあげる動きをとっていた。

     「アニメージュ」はその前にも「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズをもちあげる動きをとっていた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」が出来る前に「アニメージュ」であったことについては、前に書いた。

     ここでは「あの日にかえりたい」が公開された後に「アニメージュ」であったことについて書く。

    「アニメージュ」1989年1月号

     「アニメージュ」1989年1月号の投稿欄では、「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」の感想で特集が組まれている。(195頁)

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、原作ファン、TVシリーズファンの反発を買うような出来になっている。

     この特集のはじめに「それぞれの「オレンジ★ロード」」という題で、「10月に公開された「きまぐれオレンジ★ロード~あの日にかえりたい」について、それぞれの“思い”を読んでください」とあるのは、反発があったことを認めているのである。無視することはできなかったのである。そしてその批判的な投稿をもとりあげるというのである。

     そうして取り上げられた投稿は次の通り。

    投稿

     四本の投稿が載せられていた。

     第一は、「心の動きが現実的だ」と題する投稿で、「周囲からは「ゼンゼン「きまぐれ」じゃない」とか「恭介がひどすぎる」との声が聞かれましたが、自分としてはよかったと思います。」というもの。

     第二は、「“受験生”という立場から見た「きまぐれ」」と題する投稿で、「「アニメージュ」でも「暗い」とか「ノリがテレビとちがう」と書いてありましたが、受験と三角関係を明るくやればウソになると思います。」と劇場版を擁護して、「私にとってこの映画は、いつまでも心の奥に名作としてしまっておけると確信しています。」というもの。

     第三は、「キャラのよさを無視、本来の魅力がない」と題する投稿で、「けっこう期待していたのに、まさに裏切られたという感じである。」、「けっきょく、しりきれトンボで終ったテレビのラストのほうがマシである。」というもの。

     第四は、「マジメに青春していて、やっぱり「きまぐれ」」と題する投稿で、「たしかに、原作ともテレビシリーズとも、ちがったふんい気をただよわせ、一部その批判はあたっているでしょう。」と認めつつ、「しかし、この作品もまたマジメに青春しているという点において「オレンジ★ロード」の世界です。」というもの。

    問題

     この四本の投稿の選び方は偏っている、と私は思う。

     第一の投稿、第四の投稿は劇場版「あの日にかえりたい」をよしとするものでありながら、批判の存在を前提としていることは、「あの日にかえりたい」に対して反発が大きかったことをあらわすことである。反発の方が大きかったことをあらわすことである。

     この特集では、劇場版を批判する投稿を多く載せなくてはならなかったと私は思う。称賛する投稿を載せてもいい。賛成反対同数でもいい。いずれにせよ、批判する投稿を多く載せなくてはならなかったと思う。

     ところが実際には、称賛する投稿が3、批判する投稿が1となっている。称賛する投稿の方が多くなっているのである。

     これでは「あの日にかえりたい」に対する当時のファンの反応を反映していないと思う。

     選者はコメントで「いずれにしても「早く決着をつけてほしい」というお便りも多かったわけで、そんなファンはどう見ていたのかな。」と言っている。1988年8月号のコメントでもそうであったが、劇場版の作り手の意に沿うファンの存在に言及することによって、劇場版を擁護しようとしているようである。

     「アニメージュ」がアニメ版を擁護する立場をとることは、必ずしも悪いことではない。問題は、「アニメージュ」の姿勢が一貫していないことにある。「アニメージュ」はそれまで反対の姿勢をとっていたのである。

     たとえば、ちょうど2年前の1987年1月号の投稿欄では、「那由他」のアニメ版を原作と比較して批判する投稿を載せて、選者のコメントに「11月号には「那由他よかった」というおたよりが載りましたが、全体の数からいくと「よくない」という意見が多かったことを報告しておきましょう」と書いている。(135頁)

     「那由他」に関しては、「よくない」という意見が多かったことをわざわざ報告しているのである。

     ところが、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関しては、「よくない」という意見が多かったかどうか、明らかにすることはない。逆に擁護する意見を多くとりあげている。

    「劇場アニメ70年史」

     「アニメージュ」との関係でもう一つ気になるのは、「劇場アニメ70年史」のことである。

     「劇場アニメ70年史」については、小黒祐一郎氏が次の記事で説明している。

    http://style.fm/as/05_column/365/365_473.shtml

     「劇場アニメ70年史」は「TVアニメ25年史」とともに「アニメージュ創刊10周年を記念して企画されたもの」である。「編集のメインとなったのは、データ原口こと原口正宏さん」で、小黒祐一郎氏は「解説原稿の担当」であったという。

     この「劇場アニメ70年史」の帯には「大正6年「芋川椋三玄関番之巻」から昭和63年「きまぐれオレンジ★ロード」まで」とある。「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、「劇場アニメ70年史」の最後の作品という重要な位置に置かれているのである。

     「あの日にかえりたい」の解説には次のような言葉がある。

    三角関係が崩壊したあとの現在をモノトーンで、過去の部分をカラーにした画面は、3人の過去をなつかしむ心情を表現して、印象的だった。

    「劇場版アニメ70年史」、136頁

     その表現を称賛しているようである。

     ところで、併映された「陽あたり良好!」の劇場版「KA・SU・MI 夢の中に君がいた」の解説には次のような言葉がある。

    あだち充の原作からはかけ離れた展開となり、キャラクターの持つ魅力も生かせずに終わった感がある。

    「劇場版アニメ70年史」、137頁

     こちらは「原作からはかけ離れた展開となり、キャラクターの持つ魅力も生かせずに終わった」ことを批判しているようである。

     しかし「原作からはかけ離れた展開となり、キャラクターの持つ魅力も生かせずに終わった」ということは、「きまぐれオレンジ☆ロード」の「あの日にかえりたい」にも言うことができることである。

     「陽あたり良好!」劇場版に対しては、そのことによって批判しながら、「あの日にかえりたい」に対しては、そのことを言わないことは、おかしい。

    まとめ

     これまで明らかにしたように、「アニメージュ」は「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」を、他の作品と比較して不公平なことをしてまで擁護していた。

     その数年後に、「あの日にかえりたい」の望月監督がジブリで「海がきこえる」の監督をしたことと関係があるのであろうか?

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」劇場版第一作目が決着をつける話であったことについて

    「きまぐれオレンジ☆ロード」劇場版第一作目が決着をつける話であったことについて

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版第一作目、「あの日にかえりたい」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」に決着をつけるという話であった。

     何故に劇場版第一作目で決着をつけることにしたのか? 決着をつけない話にすれば、それより多くの作品を作ることができたのではないか?

    深草礼子プロデューサーの言葉

     「アニメージュ」1988年10月号において、プロデューサー深草礼子氏がこの映画の企画について語っている。

    3角関係を清算する話は、TVシリーズでは絶対にやれないテーマでした。やっちゃったらそれで終わってしまいますからね。だからTVでは3角関係の楽しい面だけを追っていたんですが、それだけに”清算”はスタッフのみんながいちばんやりたかったテーマでした。映画を作ることになったとき、わたしも、これをやるしかない、と思っていたところ、監督の望月智充さんが、3角関係に決着をつける話にしたいと言ってきて、わりとすんなりとストーリーが決定しました。

    「アニメージュ」1988年10月号、63頁

     アニメ版の作り手は、「きまぐれオレンジ☆ロード」の「3角関係を清算する話」は「やっちゃったらそれで終わってしまいます」というものだとわかっていた。

     それゆえにTVシリーズではやらなかった。

     ところが、映画を作ることになった時には「これをやるしかない、と思っていた」と深草礼子プロデューサーはいうのである。

    疑問

     私が問題とするのは、何故に、劇場版第一作目で「やっちゃったらそれで終わってしまいます」という作品を作ることにしたのか? ということである。深草礼子プロデューサーは「これをやるしかない、と思っていた」とまで言っている。

     後がない状況であれば、それで終わってしまう作品を作るしかないということは理解できる。

     しかしこれは第一作目である。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は、1990年代にも、小説版をもとにした映画が作られたくらいの作品である。第一作目をそれで終わってしまう話にしていなかったならば、80年代のうちに、複数の映画を作ることもできたのではないかと思われる。

     そういう状況で、何故に、それで終わってしまう作品を作るのか? それだけでなく、「これをやるしかない」と思うのか?

     何故に、それで終わってしまうのではない映画を作ることを考えないのか? それで終わってしまう話はその後でいいではないか? それで終わってしまう映画を作ることによってひろがる可能性を、何故に否定するのか?

     原作の話でまだアニメ化されていないものは多くあった。その他に話を作る可能性もあった。

     何故に、作り手が自分で自分の創作の可能性、興行の可能性を否定するのか?

    OVAシリーズ

     ところで、TVシリーズの作り手は、劇場版が公開されて間もなく、原作のアニメ化されていない話をもとにしてOVAを作っている。

     深草礼子プロデューサーが劇場版について「やっちゃったらそれで終わってしまいます」と語った次の「アニメージュ」1988年11月号では、そのOVAの宣伝がなされている。

     さて、TVシリーズ番外編のこと。これはTVでやりきれなかった原作から、スタッフが「ぜひやりたい」といって選んだよりすぐりのストーリー。まどかたち3人の関係もTVシリーズそのまま。映画版ではふられてしまったひかるも、仲良く登場して”明るい3角関係”で楽しませてくれる。
     映画のノリが、TVのノリとはまったくちがっていたことを、寂しく感じた人には、このOVAシリーズはうれしい贈り物ではないだろうか。

    「アニメージュ」1988年11月号、39頁

     これもよくわからないことである。

     10月号で深草礼子プロデューサーは、「やっちゃったらそれで終わってしまいます」という「3角関係を清算する話」を映画でやると言った。

     ところが、11月号では「TVでやりきれなかった原作から、スタッフが「ぜひやりたい」といって選んだよりすぐりのストーリー」をその後にOVAでやるという。

     それで終わってしまう話を作ることを決めたすぐ後に、やりきれなかったことをやるということは、おかしくないか? 「やりきれなかったこと」はないと考えたからこそ、それで終わってしまう話を作ることを決めたのではないか?

     やりきれなかったことをやる考えがあったならば、何故に、その前に、それで終わってしまう話を作ることを決めたのか?

     「スタッフ」の考えもよくわからない。

     10月号では「スタッフのみんな」が、それで終わってしまうという「清算」の話を「いちばんやりたかった」ゆえに、そういう話を映画にすることになったと言っていたのに、11月号では、「スタッフ」は「TVでやりきれなかった原作から」、「ぜひやりたい」といって選んでOVAを作ったと言っている。

     「スタッフ」は、それで終わってしまう話をやりたかったのか、やりきれなかった話をやりたかったのか、どちらなのか?

    望月智充監督

     私の思うに、「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」は、望月智充監督によるところが大きいのではないか。

     深草礼子プロデューサーは、望月智充監督がその劇場版の企画を「言ってきた」と語っている。望月智充監督が言い出したことだというのである。

     ただし深草礼子プロデューサーは、望月智充監督がそのことを言いだす前から、「これをやるしかない、と思っていた」とも語っている。また、「”清算”はスタッフのみんながいちばんやりたかったテーマでした」とも語っている。「スタッフのみんな」に同じ思いがあったかのように語っている。

     実際には、望月智充監督が言い出したことにスタッフがついていった、ということではなかったか?

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の映画を作ると決まった時には、様々な可能性があった。それにもかかわらず、「スタッフのみんな」が「清算」の話を考えていたとは、思えない。

     スタッフの中には、「TVでやりきれなかった原作」をアニメ化したいという考えもあったのではないか? それゆえに、その後にOVAが作られたのではないか?

     望月智充監督がそれだけ自分の考えを通すことができた背景には、第一に、スタジオぴえろが「うる星やつら」のアニメ版で、押井守監督に暴走させて「ビューティフル・ドリーマー」を成功させていたということがあったと思われる。

     第二に、望月智充監督は当時大変に期待されていたということがあったと思われる。望月智充監督はその後にジブリで「海がきこえる」の監督を務めるに至る道の途中にあった。

    「アニメージュ」

     この作品に対する「アニメージュ」関わり方が興味深いと思った。

    「アニメージュ」1988年6月号

     当時の「アニメージュ」の投稿欄を見ると、決着をつけるのとは違うかたちの映画化をもとめる投稿が載せられていることが目に付く。

     「アニメージュ」1988年6月号の投稿欄では、「恭介・まどか中心に映画化してほしい‼」という投稿が載せられている。(132頁)―「ストーリーは、オリジナルでも、やっていない原作でもいい」といって、原作の「広瀬ハワイ篇」、あるいは「早川みつる篇」を挙げて、「このふたつのうちのどちらかがいいと思います」と書いているものである。

     この投稿は、映画の内容が明らかにされる前のものである。

     選者のコメントに「映画化はきまったようだし、ビデオ化のうわさも…?」とある。その時点では、映画の内容はまだ明らかになっていなかったのであろうか。

     「アニメージュ」の投稿欄にこういう投稿が載せたということは、「アニメージュ」のスタッフにもそういう考えがあったことを示しているのではないか?

     ただし同じ「アニメージュ」1988年6月号には、映画についての記事があって、内容が明らかにされている。

    テレビシリーズ版の最終話では、はっきりとした結末を示さなかった恭介、まどか、ひかるの三角関係を、はっきりとした形で描いて見せる、ということで現在、製作の進んでいる長編「きまぐれオレンジ☆ロード」。

    「アニメージュ」1988年6月号、76頁

     望月智充監督の言葉もある。

    ストーリーは、原作とかなり違えています。雰囲気も今までの明るくて陽気、という感覚ではなくて、もっとずっとシリアスなものにしていきます。というのも、僕はやはりあの三角関係の決着がそう簡単につくとは思えないからなんです。

    「アニメージュ」1988年6月号、76頁

     「ひかるが悲しい仕打ちを受けそうなこの映画」ともある。(同、76頁)

     つまり「アニメージュ」1988年6月号が出された時には、映画は「はっきりとした結末」を描くものときまっていたのである。

    「アニメージュ」1988年8月号

     「アニメージュ」1988年8月号の投稿欄には「決着つけてほしくない」という投稿が載せられている。(135頁)―6月号の映画化についての記事が「気にいらない」というのである。「初めての映画化なのに、いきなり『三角関係の決着』をつけるのはどうかと思う。ボクは、原作やオリジナルの映画化もしてほしいし、簡単に決着をつけてほしくない。」という。

     決着をつける映画の製作が進んでいるということに反対する投稿である。

     これは多くのファンの自然な気持ちをあらわしたものだと私は思う。まだ様々なことができるのに、映画第一作目で終わりにしてしまうことに反発するファンは多かったであろう。

     「アニメージュ」のスタッフは、こういう投稿を載せることによって、自分の考えをあらわしているとも思われる。

     しかし、選者のコメントには「「映画で、三角関係のほんとうの結末を見たい」というファンからも、やっぱり手紙は来ています。」とある。映画の作り手の意に沿う投稿もあったということによって、作り手を擁護しているのである。

     6月号と8月号を見ると、「アニメージュ」のスタッフは、はじめは決着をつける話とは違う映画を期待していたが、映画の作り手が決着をつける話を作ると知ると、それを擁護する立場をとっているようである。アニメ版の作り手がファンの声と反対の方向をとると見るや、ファンの声を切り捨てて、アニメ版の作り手を擁護しているのである。

     「あの日にかえりたい」が公開された後の「アニメージュ」については次の記事。

    まとめ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版第一作目の「あの日にかえりたい」で終わりの話を描いたことは、TVシリーズで原作より大幅に早く終わる話にしてしまったことと通ずることということができる。

     TVシリーズについては次の記事にまとめた。

     「アニメージュ」がそれに追随したことも同様である。

     「あの日にかえりたい」の作り手は、TVシリーズと同様に、自分の好きなように作った。「アニメージュ」はそれを擁護して、批判の声を抑えた。ところが「あの日にかえりたい」の作り手は、TVシリーズでもそうであったが、作品を早く終わらせることに力を注いで、作品を伸ばそうとしなかった。

     押井守監督は「うる星やつら」で暴走したが、番組は長く続き、映画も多く作られた。

     望月智充監督は「きまぐれオレンジ☆ロード」で暴走して、その後に、番組を続けることも、映画を作ることも難しくした。

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」のシリーズ構成 鮎川まどかというキャラクター

    「きまぐれオレンジ☆ロード」のシリーズ構成 鮎川まどかというキャラクター

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズのシリーズ構成は、原作と大きく違うものになっている。

     そのことと関連して、この作品のヒロイン、鮎川まどかの性格も、大きく違うものになっている。

     両者を比較して、それぞれを明らかにしてみよう。

    テレビシリーズの構造

     まず「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズのシリーズ構成について。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの大きな流れは、小黒祐一郎氏が次の記事でまとめている通りだと思う。

    http://style.fm/as/05_column/365/365_369.shtml

     TVシリーズは、第5話での鮎川まどかの発言を「まどかを描くキー」とする。第7話、第19話でその発言をもとにして話を進めて、小黒氏の言うように、「19話で終わっていた」というかたちになっている。

    テレビシリーズ第5話

     春日恭介は、たまたま入った店で鮎川まどかがアルバイトしているところに出会って、自身もその店でアルバイトすることになった。

     アルバイトの最終日、打ち上げでアルコールを飲んだ後、二人はバス停に来たが、すでにバスはなくなっていた。

     そこで鮎川まどかは春日恭介に「今晩泊めてくれない?」と言った。

     そこに迎えが来て、二人は別れた。

    テレビシリーズ第7話

     春日恭介は鮎川まどかと二人で夜の街へ行って酒を飲んだ。その帰りに、春日恭介は鮎川まどかにキスをしようとして、怒りを買ってしまう。

     次の日、春日恭介は鮎川まどかに、謝罪しようとするが、鮎川まどかから「私も同じ」と言われる。

    「お酒飲むのってよくないね。あたしだってバイトの帰り、酔って春日くんに。やっぱりよくないと。」
    「でも、あの時一度だけよ。もっと不良だと思っていたんでしょ。」

    「きまぐれオレンジ☆ロード」テレビシリーズ第7話

     鮎川まどかは、第5話で自分が「今晩泊めてくれない?」と言ったことをもちだして、それは春日恭介が第7話で酔って鮎川まどかにキスをしようとしたことと「同じ」ことであって「やっぱりよくない」ことであったという。「不良」のするようなことだったという。

    テレビシリーズ第19話

     春日恭介、鮎川まどかの二人は、無人島に行って帰るすべがなくなった。

     日も暮れて、二人で火を囲んでいる時に、鮎川まどかは「アバカブで最初に、一緒にバイトした帰りのこと」を言い出す。そこで第5話の「今晩泊めてくれない?」というセリフが映像とともに出て来る。

     鮎川まどかはそのセリフについて「聞かなかったことにしてくれない?」という。「今を大切にしたいってそうおもってるんだ」というのである。

    テレビシリーズまとめ

     ここまでをまとめる。

     第5話において、鮎川まどかは春日恭介に対して、不良のやり方で、酔って「今晩泊めてくれない?」と言った。

     しかし、第7話で、鮎川まどかは、第5話の自分の言動は、不良のやり方であって「よくない」ことであったと反省した。

     そして、第19話で、春日恭介に対して、第5話の自分の言動を撤回して、「今を大切にしたい」と言った。

     「今を大切にしたい」という言葉の意味は必ずしもよくわからない。小黒氏は「普通の女の子として恋をしたいという意味とも解釈できる」と言っている。

     その直前に、春日恭介から渡された食いかけのりんごの食いかけのところにわざわざ口をあてて(春日恭介の「それは「間接キス」というやつなわけで・・・」という独白がある)、春日恭介に対して色目を使っているところを見ても、鮎川まどかはここで春日恭介に対して好意を示しているようである。

     鮎川まどかはここで、かつて不良のやり方で春日恭介に求愛したことを撤回して、不良のやり方とは違う「今」のやり方で春日恭介に好意を示そうとしているようである。

     小黒祐一郎氏はそこで次のように語っている。

    この時点で、まどかにとっての物語は7割くらい終わっている印象だ。彼女の恋愛準備段階はここで終了。この後、ひかるの存在がなく、恭介と交際を続ければ、あっという間にでき上がってしまいそうだ。

    「WEBアニメスタイル」「アニメ様365日」「第369回 『オレンジ☆ロード』のまどかの告白」

     それゆえに「19話で終わっていた」というのである。

     たしかに、恋愛物語としては、鮎川まどかはここで、春日恭介に対する好意を、不良のやり方ではないやり方で、明らかにしていて、それに対して春日恭介に反対の意思はないのであるから、相思相愛となる。

    原作の構造

     原作の話は、TVシリーズの話と大きく異なる。

     TVシリーズ第5話、第7話、第19話は、いずれも原作の話をもとにしているが、それぞれもとの話とは違うものになっている。

    TVシリーズ第5話

     TVシリーズ第5話は、原作の第8話「秘密のアルバイト」をもとにしている。

     鮎川まどかのアルバイトしている店で春日恭介もアルバイトして、最終日に打ち上げで飲んだ後に、バス停で鮎川まどかが「今晩…とめてくれない?」という。ここまでは同じ。

     しかし色々なところが違う。

     私はTVシリーズ第5話を初めて見た時、演出がまずいと思った。さらに言うと、演出がダサいと思った。

    ダサいところ

     原作では、二人が向き合って立っているところで、鮎川まどかが「今晩泊めてくれない?」と言って春日恭介にもたれかかってきたが、見ると眠っていた、ということになっている。

     TVシリーズでは、鮎川まどかは、春日恭介の横に座って、春日恭介に色目を使って「今晩泊めてくれない?」と言って、横に座っている春日恭介に抱き着いている。

     原作では、鮎川まどかがどういうつもりで「今晩…とめてくれない?」と言ったのか、春日恭介にも、読者にも、わからない。春日恭介に対して気があることを示しているのか、からかっているのか、疲れてしまっただけなのか、わからないのである。

     それに対してTVシリーズでは、鮎川まどかは春日恭介に色目を使っている。春日恭介を求める気持ちをあらわにしている。

     原作では、鮎川まどかは春日恭介に対して優位にあるのに、TVシリーズでは、劣位にある。

     中学生の女の子が同級生の男の子に対してすることとしては、おかしいとも思われる。

     TVシリーズの第7話、第19話では、鮎川まどかの第5話の言動は悪いこととされている。TVシリーズの作り手は、第5話の鮎川まどかをわざとダサくしたようである。

     私は数年前に「きまぐれオレンジ☆ロード」を久しぶりに読み返した時に、この、鮎川まどかが「今晩…とめてくれない?」というところは「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品を象徴するところだと思った。

     気があるのかないのかわからないところに、鮎川まどかというキャラクターの本質はある。「きまぐれオレンジ☆ロード」の「きまぐれ」ということはある。そう思ったのである。

     ところがTVシリーズの作り手は、それをなくしてしまったのである。

    TVシリーズ第7話

     TVシリーズ第7話は、原作の第12話「アルコールぶるうす」、第13話「ちぐはく気分」をもとにしている。

     すでに言ったように、TVシリーズ第7話は、鮎川まどかが第5話の自分の言動を反省することで終わっている。

     原作では、春日恭介が、酒によってしたことを謝罪し、鮎川まどかに対する気持ちを伝えて、鮎川まどかがそれをうけいれることで終わっている。

    成長

     原作は、春日恭介の成長物語であるが、TVシリーズは、鮎川まどかの成長物語になっている。

     原作では、春日恭介が自分のしたことについて鮎川まどかに謝罪し、釈明することによって成長して、決着はついた。

     それに対してTVシリーズでは、鮎川まどかは、第5話の自分の言動について反省することによって成長して、決着はついたことになっているのである。

     私は原作を先に読んだからか、TVシリーズの終わり方では、すっきりしない。

     TVシリーズの作り手は鮎川まどかの成長物語に作り替えたつもりでも、もとの話にあった春日恭介の成長物語の要素は残っていると思うからである。春日恭介は成長しなくてはならないのに、成長しないで終わったことになっていると思うからである。

     その上に、春日恭介は、成長すべきところで成長しなかったにもかかわらず、ヒロインの好意を受けることになっていると思う。

     第7話の前半でも、原作で、春日恭介が鮎川まどかのために戦ったことによって、鮎川まどかから好意を受けているところを、TVシリーズでは、春日恭介が「些細なことでむきになっちゃった自分がひどくがきんちょのようにおもえたわけであり、鮎川の振る舞いの方が・・・。恥ずかしいです」と卑下して、反省する、と変えている。

     TVシリーズでは、原作にあった春日恭介の成長がなくされて、逆に子供っぽいことをしたことにされているのである。そしてそれにもかかわらず、ヒロインはそういう主人公に好意を寄せることになっているのである。

     ついでにいうと、TVシリーズには、このように、主人公に原作の主人公の言動を否定させるところが他にもある。そのことによって筋が通るのであればいいが、逆に筋が通らなくなっているように見える。原作ファンにとって気持ちよくないところだと思う。

    TVシリーズ第19話

     原作の第21話「禁じられた恋の島」がもとになっている。

     二人で無人島に行って帰るすべがなくなるというところまでは同じ。

     ただし、TVシリーズ第19話で鮎川まどかが「聞かなかったことにしてくれない?」と言い、「今を大切にしたいってそうおもってるんだ」というところは、アニメで付け加えられたところであって、原作にはないことである。

     TVシリーズ第19話で、鮎川まどかは第5話で自分が「今晩泊めてくれない?」と言ったことについて説明している。私はそれをみて、びっくりした。

     私は、鮎川まどかの「今晩…とめてくれない?」と言う言葉は、真意がわからないことがいいと思っていた。鮎川まどかは、ミステリアスであることに魅力があるキャラクターだと思っていた。そのことに「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品の核心はあると思っていた。ところがTVシリーズでそれを鮎川まどか本人に説明させてしまった。「きまぐれオレンジ☆ロード」の核心をぶちこわすことだと思った。

     ついでにいうと、この話は、二人が無人島に来て、帰るすべがないという状況があっての話であるが、TVシリーズでは、その状況と、鮎川まどかが「今を大切にしたい」と言うこととは、ちぐはぐになっていないか?

    変わったところ

     これまでのところで、TVシリーズが原作を変えたことについてまとめよう。

    成長物語

     成長物語という観点から見ると、原作は主人公春日恭介の成長物語であるが、TVシリーズは鮎川まどかの成長物語になっている、ということができる。

     そのために鮎川まどかは、まず成長する前の状態にあるものとされた。かっこわるいものとされた。それが成長する話とされた。

     鮎川まどかの成長物語とするために、春日恭介の成長はなくされた。もともと春日恭介の成長物語であったのに、春日恭介の成長がなくされたので、作品がいびつになっているように見える。原作を先に読んだからであろうか?

     恋愛物語としてみると、春日恭介が成長しないのに、鮎川まどかの好意を受けるという話になっている。

    鮎川まどかというキャラクター

     鮎川まどかというキャラクターは、「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品にとって重要な存在であるが、TVシリーズは原作から大きく変えている。

    「ちょろイン」

     私は「ちょろイン」という言葉を聞いて、TVシリーズの鮎川まどかのようだと思った。

     「ちょろイン」とは、「ニコニコ大百科(仮)」によると、「登場時の高圧的な態度から一見、攻略難関と思ったら、意外とちょろかったヒロイン」のことである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ第1話で、鮎川まどかがこわい顔をして主人公を殴ったこと、第2話で、主人公は原作でやったことをやっていないのに甘くなってしまっているところなど、まさにその通りではないか?

     概要に「主にラノベやエロゲのアニメ版において、主人公のどういうところに惚れたのかよくわからないヒロインや、主人公の些細な行動で胸をときめかせるようなヒロインを指すことが多い。」とある。

     アニメ化において起こるといわれている。

     「ラノベゲーム原作とするアニメは尺の都合上、様々な描写が省かれる傾向にある。特に物語の導入部分を省かれることが多く、その中にヒロイン主人公に惚れる過程が含まれていることも少なくない。そういった場合にデレる切っ掛けのエピソードが極端に簡素化されたり、全く別のものに置き換えられたりすることでチョロインと化してしまうのである。」

    「ニコニコ大百科(仮)」の「ちょろイン」の項

     「尺の都合」によると説明している。「アニヲタWiki(仮)」でも同様である。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの場合、「尺の都合」というより、作り手の考えでそうなったのではないかと思われるところがある。

    「きまぐれ」

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、原作の鮎川まどかのミステリアスなところをなくしてしまっている。「きまぐれオレンジ☆ロード」の「きまぐれ」をなくしてしまっている。

     原作の核心を変えてしまったのである。

     これは原作ファンに反発されることだと私は思う。

     客観的に考えても、そのことによって原作のもっていた可能性が生かされなかったということができる。

     近年、「からかい上手の高木さん」という漫画が話題になった。漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」にはその「からかい」の要素があったのに、TVシリーズはその要素を生かさなかった。

     鮎川まどかの性格を変えたことによって、話が原作より大幅に早く終わることにもなった。

    終わり急ぐ

     小黒祐一郎氏が言うように、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは「19話で終わっていた」。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は、主人公春日恭介とヒロイン鮎川まどかとの関係を中心とする話である。

     TVシリーズのように、鮎川まどかが春日恭介に対して明確に好意を示してしまうと、春日恭介の側に反対の意思はないのであるから、相思相愛となる。すでに話の中心は終わっている。その後に話を広げることはできない。

     小黒氏は「シリーズ後半の方がバラエティに富んでおり、それはそれで面白かったのだが、作品としての進む方向を半ば見失ってしまっているように感じていた。」と語っているが、すでに「19話で終わっていた」からではないか?

     原作では、鮎川まどかは、最後の第156話で「Like or Love?」と聞かれて、「Like!/限りなくLoveに近い…ね!」と答えている。最後まで「Love」とは言わないのである。それゆえに長く続いたということもできる。

     TVシリーズは、鮎川まどかの性格を原作と違うものにしたことによって、原作より早く話が終わるようになっているのである。

     小黒氏はそのことに関して次のように語っている。

    恭介は、『タッチ』の達也のように彼女を甲子園に連れて行く必要もなければ、『めぞん一刻』の五代のように彼女に釣り合うような男になるために大学を卒業し、就職する必要もない。ラブコメの主人公がスポーツなどでステップアップしなくてはいけないわけではないが、『オレンジ☆ロード』では、3人の関係がほぼ固定されたままであり、しかも、主人公のステップアップのような物語を支えるものがない。そのため途中からは、物語的に足踏みを続けているような状況が続く事になった。

    「WEBアニメスタイル」「アニメ様365日」第368回 『オレンジ☆ロード』の三角関係

     小黒氏はそのことを「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品の問題にしている。しかしTVシリーズによるところがあるのではないか?

     「タッチ」の、どういう試合があって、どういう結果になった、ということとか、「めぞん一刻」の、主人公が教育実習にいったり、保父の試験を受けたりとかいうことは、TVシリーズも従わざるを得ない。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの作り手にはそういう制約はない。作り手によって、シリーズ構成を伸ばすことも縮めることもできるのである。そういう状況でTVシリーズのスタッフは、原作より早く終わらせることにしたのである。

     まつもと泉氏は2014年の「MANGA姉っくす」において、日本テレビのプロデューサーから5年やろうと言われたと語っている。

     しかし「19話で終わっていた」というTVシリーズでは5年も続けることはできない。

     たしかに原作者は、プロデューサーが5年続けるというのに対して、TVシリーズの途中で原作漫画を終わらせてしまった。とはいっても、TVシリーズが始まる前に、原作は14巻、120話以上出ていた。それだけのストックがあった。

     プロデューサーが長く続けることを望んでいて、原作のストックは大量にあったにもかかわらず、寺田憲史氏は、何故に、第19話で決着がついてしまうようなシリーズ構成をしたのであろうか?

     原作の多くを生かさなくても、それを超える作品ができると思ったのであろうか? よく考えないで早く終わらせてしまったのであろうか?

    終わり方

     TVシリーズの第47・48話は、原作の第130話から第134話までをもとにしたものである。

     ただしTVシリーズはここでも原作を大きく変えている。

    決着

    ・原作は、春日恭介が6年前の世界に行って、6年前の鮎川まどかと出会って、現在に帰ってくる、という話である。

    ・TVシリーズでも、春日恭介は6年前の世界に行って、6年前の鮎川まどかと出会う。ところが原作と違って、現在の鮎川まどかが6年前の世界に来て、春日恭介が超能力者であることを知って、二人で抱き合う。そして現在に帰ってきて、キスをする。

     違いは色々あるが、今問題とするのは、次のことである。

    ・TVシリーズでは、鮎川まどかは春日恭介が超能力者であることを知って、二人で抱き合っている。そして最後に二人でキスまでしている。

    ・原作では、春日恭介と鮎川まどかとの間にある特別な関係が描かれたにとどまっている。

     終わり方ということで両者を比較すると、次のように言うことができる。

    ・TVシリーズでは、春日恭介と鮎川まどかの関係の決着がつけられている。相思相愛に至ったのである。

    ・原作では、決着には至っていない。

     原作は、そこで終わることもできるし、それから続けることもできるように作られているということができる。「シティーハンター」は、無印が終わった後に、2を始めたが、そういうことがやすいようになっていた。現に原作はこの話の後も続いた。

     TVシリーズの作り手は、原作をわざわざ作り変えて、決着をつけてしまっている。

     TVシリーズの作り手は、その後に、決着がつく前の話をOVAとして出している。決着がつく前の話をアニメ化するつもりであったならば、その前に決着をつけしまう必要はなかったのではないか?

    三角関係の決着

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの最終話は、春日恭介と鮎川まどかの関係の決着をつけているが、三角関係の一角、檜山ひかるとの決着はつけていない。

     小黒祐一郎氏はそのことについて次のように語っている。

    最終回において、恭介とまどかの関係に進展はあるのだが、三角関係の解消には至っておらず、主軸であったはずの三角関係については、未消化なまま終わってしまった。

    「WEBアニメスタイル」「アニメ様365日」「第368回 『オレンジ☆ロード』の三角関係」

     小黒氏は、「アニメージュ」1988年5月号において次のように言っていた。

    最終回でひかるちゃんの存在はほとんど無視され、三角関係には決着がつかぬまま終ってしまった。こんなラブコメってないよ。「続きはオリジナルビデオでみてね」なんていったら怒るぜ。

    「アニメージュ」1988年5月号、139頁

     小黒氏の言うように、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの最終回は、最終回としておかしなかたちになっている。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズも、主人公春日恭介が、鮎川まどか、檜山ひかる、という二人の女性の間で優柔不断でいるという話であった。

     その最終回で、春日恭介は鮎川まどかと6年前の世界で抱き合った。ところが、檜山ひかるは現在の世界で待っていたのに、何の決着もつけずに終わった。三角関係の決着がつかないままで終わってしまったのである。

     どうしてそうなったのであろうか?

    鮎川まどかの成長物語

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、鮎川まどかの成長物語として作られている。鮎川まどかが成長することが第一の問題と考えられていて、その他のことはそれほど重視されなかったのではないか。

     シリーズ構成の寺田憲史氏は著書「ルーカスを超える」(小学館、2000年)において鮎川まどかについて次のように語っている。

    舎弟分のひかるが恭介にストレートに好意を示すのを横目に、素直になれない自分を持て余している。

    「ルーカスを超える」、107頁

     鮎川まどかの問題は「素直になれない」ことであるとすると、「素直」になればその問題は解決されることになる。

     原作の鮎川まどかは、檜山ひかるのことを思いやっているが、TVシリーズの鮎川まどかも、劇場版の鮎川まどかも、檜山ひかるのことを思いやらずに、春日恭介のもとへ突き進んでいる。

    劇場版との関係

     小黒祐一郎氏は「「続きはオリジナルビデオでみてね」なんていったら怒るぜ。」と言っているが、たしかにTVシリーズの最終回を中途半端にして、劇場版に誘導しているようにも見える。

     TVシリーズの最終回の演出を担当した望月智充氏は「アニメージュ」1988年8月号で次のように語っていた。

    ぼくが最終回をやったときに、これは失敗だった、と感じたのは現在の時点でのひかるの存在が忘れられていたこと。そのせいで、3角関係の部分を無視した形になってしまった。あの最終回はまどかと恭介だけの世界でした。

    「アニメージュ」1988年8月号、25頁

     望月智充氏は、最終回は「失敗だった、と感じた」。劇場版によってそれをやり直すというのである。

     望月智充氏がいつ「これは失敗だった、と感じた」のか、よくわからない。

     いずれにせよ、TVシリーズの最終回において「現在の時点でのひかるの存在が忘れられていたこと」、「そのせいで、3角関係の部分を無視した形になってしまった」こと、「あの最終回はまどかと恭介だけの世界で」あったこと、という問題は、脚本を見た時にわかったはずである。わからなかったということは考え難い。

     わざと最終回を失敗させたのではないかと思われるところもある。

     TVシリーズの最終回の中ほどに、主人公がパラレルワールドに行く話が入っている。そのパラレルワールドの話は、原作の10巻にある話をもとにしたものである。TVシリーズの最終回の話は、原作の15巻から16巻にかけての話をもとにしたものである。原作の15巻から16巻にかけての話は、10巻のパラレルワールドの話と関係ない。TVシリーズの作り手は、原作において関係のないパラレルワールドの話をわざわざ入れたのである。しかしそのパラレルワールドの話は、TVシリーズの最終回に有機的に組み込まれてはいない。原作において無関係であったように、TVシリーズにおいてもその前後と関係のない話になっている。そういう話が最終回の中で10分を占めている。

     TVシリーズの作り手は、最終回の中に10分も、最終回と関係のない話を入れているのである。
     その一方で、ひかるが現在の世界で待っている、という原作にはないことを入れながら、ひかるを放置して終わっている。

     TVシリーズの作り手は、もともと、原作と違うかたちにひかると決着をつける話を作っていたのではないか? ところが決着をつけないことに決めて、その代わりに関係のないパラレルワールドの話を入れたのではないか?

     わざわざ現在の世界でひかるが待っているという原作にないことを入れながら、そのひかるを放置して終わるとか、関係のないパラレルワールドの話に10分も費やすとかいうことは、考えがあってやったのでないとすると、あまりに愚かなことである。

    終わりに

     インターネット上で、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズのシリーズ構成について、原作より後に作られたので原作よりまとまっていると定説のように語られているのを何度か見た。

     しかし原作ファンで同意する人は少ないのではないか? 少なくとも私は同意できない。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は、1984年に連載が始まってから、1987年にTVシリーズが始まるまで、途中で変わったところもあった。それをTVシリーズの作り手が後から見直して、まとめなおすことはできたと思う。

     しかしTVシリーズの作り手は、そういうことをせず、原作とは違うようにまとめていったのである。

     前にも言ったように、原作のいいところが10あるとすると、TVシリーズはその中から3しか生かしていないように私は感ずる。

     上にも挙げたように、TVシリーズの作り手は、原作の話をもとにしても大きく改変する。そして原作で人気のある話をアニメ化せずに、終わってしまっている。

     キャラクターに関しても、よく言われるように、原作で人気のある「あかね」など、TVシリーズで生かされていない。

  • 1980年代後半の「アニメージュ」と「きまぐれオレンジ☆ロード」の関係

    1980年代後半の「アニメージュ」と「きまぐれオレンジ☆ロード」の関係

     アニメ雑誌「アニメージュ」と「きまぐれオレンジ☆ロード」との間の関係は、あまり話題にならない。

     1980年代後半の「アニメージュ」は、1985年にできたばかりのスタジオジブリに力を注いでいたように見える。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ(1987年4月から1988年3月)、劇場版「あの日にかえりたい」(1988年10月公開)の頃には、「となりのトトロ」、「火垂るの墓」が「アニメージュ」の表紙を飾り(1987年6、12月号、1988年1、5月号)、特集が組まれた(1987年6月号、1988年2、5月号)。

     それに対して「アニメージュ」と「きまぐれオレンジ☆ロード」との関係は、それほどではないにちがいない。

     しかしそれほどではないとしても、「アニメージュ」は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ、劇場版「あの日にかえりたい」を推していた。

    「アニメージュ」の論調

     「アニメージュ」のスタッフは「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを推し、劇場版を推していた。

     ただしはじめからではない。

     TVシリーズが始まって間もない、「アニメージュ」1987年6月号、7月号では、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して批判的な「アニメージュ」のスタッフの声が多く載せられていた。

     ところが1987年8月号で、小黒祐一郎氏がTVシリーズをよしとする記事を出してから、小黒氏を中心として、TVシリーズをよしとする論調になった。―原作と違うTVシリーズをよしとする論調である。

     その論調の変化は、それまで批判的であった人が肯定的になったことによるのではなくて、それまで批判的であった人は発言は載らなくなり、肯定的な人の発言が載るようになったことによると思われる。

     「アニメージュ」の論調について詳しくは下の記事↓

    「アニメージュ」の投稿欄

     その時期の投稿欄も、その論調によって構成されていたように見える。

     「アニメージュ」の投稿欄では、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ、劇場版「あの日にかえりたい」の前後の時期に、原作ファンが原作をもとにしたアニメを批判する投稿を多く採用していた。

     TVシリーズが始まる前の「アニメージュ」1987年3月号では、「アニメージュ」の読者の中に漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」が好きだという人が多くいることが明らかにされていた。

     ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが始まってから終わるまでの「アニメージュ」の投稿欄(1987年7月号~1988年5月号)では、原作ファンがTVシリーズについて論ずる投稿は、番組が終わった後の5月号の一つだけであった。

     「アニメージュ」1987年3月号で多くいるといわれていた原作漫画のファンの声を、TVシリーズの放映されている間、わざと取り上げなかったのではないかと思われる。

     そこに「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを推す「アニメージュ」の作為があったと思われるのである。

     投稿欄について詳しくは↓

    「シティーハンター」との比較

     当時の「アニメージュ」の小黒氏等が「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げただけでなく、同時に始まった「シティーハンター」以上に持ち上げていたことも気になる。

     作品としては、「シティーハンター」のアニメ版の方が「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版よりうまくいったように見えるからである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは1年で終わった。

     「シティーハンター」は次の年の4月から「シティーハンター2」を始めて1年と3カ月やっている。そしてその3か月後から3カ月「シティーハンター3」をやっている。1991年には「シティーハンター’91」をやっている。その後にも3本テレビスペシャルをやっている。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は劇場版が1本だけ(もう1本は小説版の映画化)であるが、「シティーハンター」は劇場版が3本、そして2019年にもう1本作られている。

     「シティーハンター」の方が長く続けやすい題材ではあるであろうが、「きまぐれオレンジ☆ロード」は原作の多くをアニメ化せずに終わったのでもある。

     TVシリーズ放映前には、「アニメージュ」の読者の中でも「きまぐれオレンジ☆ロード」のファンの方が「シティーハンター」のファンより多かった。(「アニメージュ」1987年3月号)

     「アニメージュ視聴率」というのがある。「アニメージュ」の読者の視聴率のようである。それによると、はじめの3カ月は「きまぐれオレンジ☆ロード」の方が高かった。

     ところが、1カ月目には35あった票差が3カ月目には1しかなくなって、7月10日以降は「シティーハンター」が上になっている。

     「シティーハンター」の方がうまくいったのに、「アニメージュ」がそれより「きまぐれオレンジ☆ロード」を推していたことは、偏ったことのように見える。

     「アニメージュ」1987年6月号の両作品第1話に対する批評で、小黒氏、原口氏が「シティーハンター」に対しては酷評しながら、「きまぐれオレンジ☆ロード」に対してはそこまで言っていないことも気になる。

     要するに、小黒氏等は放映の始まる前から「きまぐれオレンジ☆ロード」に偏っていたのではないか? 期待して推していたのではないか?

    1987年ころのTVアニメをめぐる状況

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された1987年ころ、アニメ雑誌では、アニメの衰退が問題とされていた。

     オリジナル作品が少なくなり、漫画を原作としたアニメが多くなっていた。

     そこでアニメの創造性を求める声は、オリジナル作品を求めるとともに、「うる星やつら」のように漫画を原作としたが原作を逸脱して「暴走」した作品を求めた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、「うる星やつら」を制作したスタジオぴえろによって制作された。

     それゆえに「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズも、「うる星やつら」のように原作を逸脱して「暴走」した作品になることが期待された。

     「アニメージュ」の小黒氏等もそう期待していたと思われる。

     「アニメージュ」1987年8月号で、小黒氏は原作から離れたTVシリーズをよしとしていた。

     「アニメージュ」1988年4月号の「NURSE圭のVIDEO研究室「ビデオラボ」」の「「きまぐれオレンジ☆ロード」LD発売記念・トークパーティー」で、小黒祐一郎氏の「仲間である完全防音AVルームを誇るAV田村」氏が第40話に関して「こういう原作からはみだした「きまオレ」が実はみたかった」と語っている。(「アニメージュ」1988年4月号、213頁)

     ただしそのことは「期待」であった。

    「アニメージュ」の「やり方」

     「アニメージュ」は、ただアニメを取り上げるにとどまらず、アニメに働きかけてきた。

     鈴木敏夫氏は「BEST OF アニメージュ アニメ20年史」(徳間書店、平成10年)において、編集長時代のやり方について語っている。

    ついでだから、この際言っちゃうけど、強力な作品のない時期、面白い誌面を作るための打開策はどうしていたか? 僕はある時期から、人気作を追いかけるな、人気作は『アニメージュ』で勝手に決めようって、みんなに言うんです。これも今だから明かせることだけど。
    (中略)
    人気作を追いかけていくのは大変でしょ。それより新番組が発表になると、事前に情報を手に入れて人気作はこれだと決めちゃうの。そうすれば、何が人気が出るのか予想しなくてすむから楽でしょ(笑)。このやり方は、ある時期からかなり意図的に採用しました。
    『ガンダム』にしても『マクロス』にしても結果的にうまくいって、その最たるものが『ナウシカ』の映画化でしょう。

    「BEST OF アニメージュ アニメ20年史」、127頁

     鈴木敏夫氏は「人気作を追いかけるな、人気作は『アニメージュ』で勝手に決めよう」というやり方を採用していたというのである。

     そしてそのやり方の例として「ガンダム」、「マクロス」、「ナウシカ」を挙げている。

     いずれもアニメの歴史において重要な作品になっている。

     2020年4月から5月にかけて松屋銀座で「アニメージュとジブリ展」が行われたが、そこではそのことが主題とされていた。

    https://mainichi.jp/articles/20210415/k00/00m/040/107000c


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    「きまぐれオレンジ☆ロード」の場合

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ、そして劇場版でも「アニメージュ」はその「やり方」を採用したのではないか?

     鈴木敏夫氏はその時にちょうど「アニメージュ」の編集長になっていた。

     鈴木敏夫氏は「アニメージュ」1986年10月1日付で「アニメージュ」の編集長になっていた。「アニメージュ」1987年1月号からのようである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放送されたのは1987年4月からであった。

     鈴木敏夫氏は「アニメージュ」1987年6月号の「AM編集部24時」というコーナーで、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの第1話を絶賛していた。

    あれが日活の青春映画の味なのだ。不良のみが知る純愛の世界。サックスも、冒頭の出会いのシーンもすべてよかった。黄金のパターンなのだよ。ふつうの男の子とつっぱって生きている少女とのラブストーリー。スケバンの純情。これはいける! 『きまぐれ』に比べると他はちょっと。

    「アニメージュ」1987年6月号、213頁

     1987年4月に始まった番組の中で「きまぐれオレンジ☆ロード」が最もよく、「他はちょっと」と評しているのである。

     「これはいける!」と言うのは人気作になるということであろう。

     鈴木敏夫氏は「人気作は『アニメージュ』で勝手に決めよう」とか「人気作はこれだと決めちゃう」とか語っているが、「これはいける!」と言うのはそういうことではないか?

     ただし鈴木敏夫氏は当時スタジオジブリの仕事に力を入れていて、「アニメージュ」の仕事をないがしろにしていると批判されたとも言われている。

     高橋望氏はその時のことを次のように語っている。

    「トトロ」と「火垂るの墓」のプロジェクトが始まったときには、当時編集長に昇格していた鈴木さんが何かというとジブリに行っていて編集部をないがしろにしている」と陰で批判の急先鋒になっていたくらいだ。

    「あの旗を撃て!」、オークラ出版、2004年、204頁

     「となりのトトロ」、「火垂るの墓」の企画は1986年末までに決まっていたようである。(「あの旗を撃て!」、252~254頁)

     鈴木敏夫氏はその他のことに手が回らない状態であったかもしれない。

     鈴木敏夫氏以外の人によって鈴木敏夫氏の「やり方」が採用されたのであろうか?

    劇場版「あの日にかえりたい」

     劇場版「あの日にかえりたい」も「アニメージュ」が特に推していたと思われる。

     そのことは投稿欄からもうかがうことができる。

     望月智充監督の「めぞん一刻 完結編」(1988年)と「海がきこえる」(1993年)の間の作品であるということからもうかがうことができる。

     「めぞん一刻 完結編」は「アニメージュ」で取り上げられており、「海がきこえる」はジブリ作品である。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」はまさにその間に位置付けられている。

  • 【研究】「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズと「アニメージュ」②論調

    【研究】「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズと「アニメージュ」②論調

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズをめぐる言説が気になって、もとから探ろうと、TVシリーズが放送されていた時の雑誌「アニメージュ」をしらべると、奇妙なことがわかった。―「アニメージュ」において奇妙な偏りが生じていた。

     まず投稿欄が奇妙に偏っていた。

     ここでは、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時の「アニメージュ」のスタッフの論調が偏っていたことについて、考える。

    論調の変化

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの放映が始まった時に、「アニメージュ」のスタッフからTVシリーズに対して批判的な意見が複数出ていた。

     ところが、ほどなく「アニメージュ」ではTVシリーズをよしとする発言ばかりになっていった。

     詳しくは次の通り↓

    「アニメージュ」1987年6月号

     「アニメージュ」1987年6月号では、二つのコーナーで4月に始まった新番組についての品評会が行われた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズはその二つのコーナーで新番組の一つとしてとりあげられた。

    AM編集部24時 12春の新番品評会

     「AM編集部24時 12春の新番品評会」というコーナーでは、鈴木敏夫編集長(当時)も参加して、4月に始まった新番組の品評会を行った。(「アニメージュ」1987年6月号、213頁)

     次のように意見は分かれた。

     女性三人は「赤い光弾ジリオン」をよしとして、「きまぐれオレンジ☆ロード」はよくわからないという。

     鈴木敏夫氏、実氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」をよしとして、「赤い光弾ジリオン」に対して批判的。

     高橋望氏は「原作ファンとしてはいまの作り方にはちょっと疑問がある」という。

     要するに、 鈴木敏夫氏、実氏の二人以外は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して批判的であった。

    春の新番総チェック

     「アニメージュ」1987年6月号ではもう一つ、「新人類あにめ診断 春の新番総チェック」というコーナーで、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを取りあげている。

    小黒 (略)次は「気まぐれオレンジ☆ロード」なんだけど、これって「タッチ」っぽくないかな。
    原口 リアルなふんい気とかそうだし、美術なんか「タッチ」だね。
    小黒 あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった。
    原口 「タッチ」のまねというより、ああいう日常を大切にするっていうのが、青春もののスタイルとして確立されたってことじゃないかな。
    のつぎ あたしはなんかアナクロっぽいと思った。大映ドラマを見ているみたいじゃない。いまどきあんなやついないって。

    「アニメージュ」1987年6月号、126頁

     原口正宏氏は、「リアルなふんい気」とか、「日常を大切にする」とか「青春もののスタイル」とか、違うところに価値を認めているようである。

     小黒祐一郎氏の「あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった」という言葉は、残念な気持ちをあらわしているようでもある。

     のつぎめいる氏は、「いまどきあんなやついない」と強く批判している。

     このコーナーでも強い批判が出ている。

    「アニメージュ」1987年7月号

     「アニメージュ」1987年7月号の「水品隆史と山本元樹のレコード・レビュー」で水品隆史氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のアルバムについて語る中で、本編について次のように語っている。

    「きまぐれ」の番組自体は、恭介のモノローグが多すぎて、物語のスピード感を殺しているって印象が、かなりあった。だけど、このサントラ盤を聞くかぎりでは音楽スタッフのほうが「きまぐれ」のイメージを的確につかんでいるんじゃないかなあ。

    「アニメージュ」1987年7月号

     水品氏は、原作をよく知る者として、音楽は原作に合っているが、TVシリーズ本編はそうではないと論じているのである。

    「アニメージュ」1987年8月号

     「アニメージュ」1987年8月号の「TVアニメーションワールド」内の「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムにおいて、小黒祐一郎氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げた。

    「魔美」や「陽あたり」も相当うまく原作を消化していて、それはそれでスゴイのだけれど、それにも増して「きまぐれオレンジ☆ロード」はスルドイ、と思うのです。
     この作品は、原作の設定やエピソードを基本的には変えないで創っているにもかかわらず、その世界観が、原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋いと、かなりちがうわけで、これはもうアニメスタッフの”技”としかいいようがないわけです。(どっちがよいかは好みの問題)たとえば、原作でも毎回出てくる恭介のモノローグなど異常に使い方がうまくてあれのおかげで、相当感情移入がしやすくなっています。それから人物や学校生活などの描写がやたら芸が細かい。これも原作にもある学校で昼食時にカツサンドを買うのは大変だという設定を、実に渋く演出していたりして、これがやたらよかったりするんですね。
     そのうち、ある程度原作を切り離して、気がついたら全然別の作品になってたりするんじゃないのかしらん。

    「アニメージュ」1987年8月号、127頁

     この記事から「アニメージュ」はTVシリーズを持ち上げる方向に進むのである。

    TVアニメーションワールド

     「アニメージュ」1987年9月号から1988年3月号まで、「TVアニメーションワールド」では、小黒氏等によって「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが少なからずとりあげられている。

    ・「アニメージュ」1987年9月号の「TVアニメーションワールド」では、TVシリーズ第13話をとりあげている。(111頁)

    ・「アニメージュ」1988年1月号の「まにあおぐろのこれがスルドイ」では、小黒氏は檜山ひかるがいいといって(105頁)、「TVアニメーションワールド」の「今月の誌上アンコール②」で第29話をとりあげている。

    ・「アニメージュ」1988年2月号の「TVアニメーションワールド」の「まにあおぐろのこれがスルドイ」では、第32話をSFとして評価している。

    ・「アニメージュ」1988年3月号の「TVアニメーションワールドOPENING SELECTION」では第3OPをとりあげている。

    「アニメージュ」1988年4月号

     「アニメージュ」1988年4月号では、ファイナル特集があって、「きまぐれオレンジ☆ロード」は「めぞん一刻」など他の作品とともにまとめられていた。「きまぐれオレンジ☆ロード」はその第一に置かれていた。

     そこに次のような言葉がつけられている。

    原作があくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだったのに対し、アニメの「オレンジロード」はいまどき珍しいくらい、まっとうに青春していて、そこがとても新鮮で魅力的だった。恋愛なんて当人はどんなにまじめで一生懸命でも、他人から見れば、ぶざまでコッケイで喜劇以外のなに物でもない! そんな青春の愚かしさと、ほのかな甘酸っぱさがミックスした佳作でした!

    「アニメージュ」1988年4月号

     それまでの「アニメージュ」によるTVシリーズを持ち上げる言説の集大成のようである。

     私は遅ればせながらこれをみて、衝撃を受けた。

     これは原作漫画を馬鹿にするものではないか? 原作漫画について「あくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだった」というのは、馬鹿にしているのではないか? 原作漫画は「キャラクターの絵」にしか魅力がないものであるということも、原作漫画を「軽~~~い」という言葉で形容していることも、馬鹿にしているようである。

     評論家が個人の考えとして言うならば問題はない。アニメ雑誌の「ファイナル特集」で一個の漫画をこのように馬鹿にすることはおかしいのではないか?

     そうして原作漫画を馬鹿にして、TVシリーズを持ち上げていることも、おかしい。

     TVシリーズは原作漫画より軽い。たしかに原作にない「青春の愚かしさ」を描いたものもあるが、少数である。ヒロインを、原作と違って、荒唐無稽なスケバンキャラにしたことも、間に入るキャラクターを、小黒氏も言うように原作より「道化師的な役回り」にしたことも、原作より軽くすることである。

     そもそも「アニメージュ」のようなアニメ雑誌がアニメ作品をできるだけ持ち上げてもいいと思うが、そのために原作漫画をおとしめることはおかしいと思う。

     この時の「ファイナル特集」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」、「めぞん一刻」、「陽あたり良好!」、「北斗の拳」の4作品をまとめたものであるが、「きまぐれオレンジ☆ロード」の他には、原作漫画をおとしめる言葉はない。

     「めぞん一刻」では逆に、吉永尚之監督の「画面があまりに地味だったので、原作の明るさを出しきれなかったのでは、という思いが残っています」という、原作ファンに気を使った言葉が載っている。

     このように「めぞん一刻」では、TVシリーズの作り手も、「アニメージュ」も、原作ファンを尊重しようとしていたのに対して、「きまぐれオレンジ☆ロード」では、TVシリーズの作り手も、「アニメージュ」も、原作ファンを無視して、TVシリーズを持ち上げ、原作漫画をおとしめているのである。

    考察

     上に挙げた記事について考察してみよう。

    高橋望氏

     まず「アニメージュ」「AM編集部24時 12春の新番品評会」というコーナーで「原作ファン」の立場からTVシリーズに対して疑問を呈した高橋望氏について考える。

     高橋望氏は、この「品評会」の前の、「アニメージュ」1987年5月号の「AM編集部24時」において、「熱愛している「きまぐれオレンジロード」がスタートするのは個人的にはうれしいのですが・・・」と語っていた。(「アニメージュ」1987年5月号、215頁)

     しかしその後に高橋望氏から原作ファンとしての主張を聞くことはなくなった。

     そもそも高橋望氏が発言する場がなくなった。

     高橋望氏が漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」に対する「熱愛」を語って、TVシリーズに対する「疑問」をのべた「AM編集部24時」というコーナーは、その1987年6月号で終わってしまった。

     高橋望氏は「アニメージュ」1987年12月号を最後に、「アニメージュ」から離れている。―「アニメージュ」創刊編集長尾形英夫著「あの旗を撃て!」に、高橋望氏は「87年の秋に「4WDフリーク」といういまはなきクルマ雑誌に異動になり、「アニメージュ」とも尾形さんとも接点はいったんなくなった」と書いている。(「あの旗を撃て!」、オークラ出版、2004年、205頁)

     高橋望氏が担当していた「Dr.望のビデオラボ」というコーナーも、1987年12月号で終わっている。
     そしてその後に「NURSE圭のビデオ研究室」というコーナーが1988年1月号から始まっているが、このコーナーでは、2月号で、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズから3話ビデオ化されるに際してシリーズ構成寺田憲史氏のインタビュー記事を載せ、4月号で、番組終了記念として、小黒祐一郎氏等がTVシリーズのいいところを語る企画をやっている。

     高橋望氏はその後、1989年にジブリに出向するというかたちでアニメ業界に帰ってきて、ジブリの「海がきこえる」のプロデューサーになっている。

     高橋望氏がその時期に「アニメージュ」から離れたことは、「きまぐれオレンジ☆ロード」と関係なかったと思われるが、関係があったとも思われる。いずれにせよ、高橋望氏が「アニメージュ」から離れたことによって、「アニメージュ」から「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンの声が消えた。

     たとえば1988年4月号の小黒氏等がTVシリーズのいいところを語るという企画に、もし高橋望氏が参加していたならば、小黒氏等のようにひたすらTVシリーズを持ち上げることはなく、原作ファンの気持ちを述べたのではないかと思われる。

     ひょっとすると、高橋望氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対する考えを変えたかもしれないが、そうだったとしても、小黒氏のように手放しでTVシリーズを持ち上げることにはならなかったのではないかと思う。

    のつぎめいる氏

     のつぎめいる氏は、「アニメージュ」1987年6月号の「新人類あにめ診断 春の新番総チェック」というコーナーで、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して「いまどきあんなやついない」と強く批判していた。

     ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ放映中に、のつぎめいる氏は「アニメージュ」から去っている。

     のつぎめいる氏は、1985年8月号から「アニメージュ」誌上に連載をもっていた。しかしその連載は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ放映中の1987年11月号で終わっている。それまで出ていた新春座談会などにそれから出なくなっている。

     そのことも、「きまぐれオレンジ☆ロード」と関係ないと思われるが、関係あるとも思われる。

     のつぎめいる氏が「アニメージュ」1987年6月号以降、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対してどう考えていたか、私は知らない。ひょっとすると、考えを改めていたかもしれない。

     しかし、のつぎめいる氏のそれまでの連載や発言をみると、まんが家であったからか、アニメの原作まんがに気を遣っていたように見える。「きまぐれオレンジ☆ロード」についても、原作まんがに気を遣った発言をしたのではないかと思われる。

    水品隆史氏

     水品隆史氏のコーナーはもともと音楽について論ずるコーナーであって、本編について論ずることは本旨ではない。

     実際に本編について論じているところは一文にすぎない。

     それにもかかわらず本編に対して強く批判していたことは、当時原作を知っていた人にとってそれだけTVシリーズは残念な出来と思われたことをあらわすことではないか?

    小黒祐一郎氏

     「アニメージュ」1987年8月号以降、「アニメージュ」で「きまぐれオレンジ☆ロード」TVシリーズを持ち上げて行ったのは、小黒祐一郎氏である。

    「アニメージュ」1987年6月号

     まず「アニメージュ」1987年6月号の「春の新番総チェック」での発言にも疑問がある。

     のつぎめいる氏が「いまどきあんなやついない」とまで強く批判しているのに、小黒氏も原口氏もそのことを問題としていない。小黒氏、原口氏は「「タッチ」っぽくないか」ということを問題としているが、だからどうなのか、よくわからない。小黒氏が「なんか渋くなってしまった」というのは、不満があるようであるが、批判に至っていない。

     小黒氏は「アニメージュ」1988年2月号で「不良絡みの話さえなければ「オレンジ☆ロード」はヨイ作品です。」と言っている。(121頁)

     TVシリーズ第1話はまさにその「不良絡みの話」である。

     小黒氏がよくないと思っていたとすると、6月号でその第1話について感想を言う立場にあったのに、何故に言わなかったのか? よくないと思っていたのに、何故に1988年2月号まで言わないでいたのか? 「不良絡みの話」は、ヒロインの設定に関わる重要なことでないか? アニメ版の「不良絡みの話」がよくないということは、そういう「不良絡みの話」のない原作の方がいいということにならないか?

     小黒氏が他の番組に対しても同じように評価を控えめにしていたならば問題はない。しかしそうではなかった。

     小黒氏も、原口氏も、同じ「春の新番組総チェック」で、「きまぐれオレンジ☆ロード」と同時に始まった「シティーハンター」のTVシリーズに対しては、酷評している。原口氏は「ほとんど原作どおりのエピソードなんだけど、犯人の描写のツメが甘い」と言い、「全体的に軽すぎるんじゃないかと思う」と言っている。小黒氏は「サンライズカラーがにじみでている(笑)。」と言っている。

     「シティーハンター」に対してはそこまで踏み込んでいるのに、「きまぐれオレンジ☆ロード」に対しては上に見たように奥歯に物が挟まったようである。

    「アニメージュ」1987年8月号

     小黒祐一郎氏は「アニメージュ」1987年8月号の「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムにおいて、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げた。これから小黒氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げていく。

     このコラムはおかしいと私は思う。

    うまく原作を消化するということ

     小黒氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは原作をうまく消化した作品だと考えているようである。

     しかしその後に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは「原作の設定やエピソードを基本的には変えないで創っているにもかかわらず」、「その世界観」は「かなりちがう」ものになっているというところによると、原作と違うものになっているというのであって、原作をうまく消化したのではないということになるのではないか?

     同じ8月号の投稿欄には、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」について語る投稿が載せられている。

     それから「アニメージュ」では「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは原作をうまくアニメ化したものという言説が広まっている。

     実際には「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、小黒氏も言うように原作と「かなりちがう」ものになっている。原作をうまくアニメ化したということのできるものではない。

    原作から離れること

     小黒氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが原作と「かなりちがう」ことを認めた上で、そのTVシリーズを称賛して、「そのうち、ある程度原作を切り離して、気がついたら全然別の作品になってたりするんじゃないのかしらん」と言っている。原作から離れて全然別の作品になることを望んでいるようである。

     小黒氏はなぜか、原作を無視している。そして原作から離れたTVシリーズをよしとしている。おかしなことだと私は思う。

     原作から離れてすぐれたものができることを期待することには問題はない。原作をはなから無視していることに問題はある。なぜ原作を生かすことを考えないのか?

     これは8月号のコラムである。8月号の記事が書かれたのはその数カ月前である。TVシリーズが始まったのは4月である。TVシリーズはまだ始まって間もなく、原作の多くがまだアニメ化されていない時に、小黒氏は原作から離れたアニメを求めているのである。

     同じ月の「アニメディア」(1987年8月号)には「残念ながらこれまでのお色気シーンは、原作と比べてもまだ欲求不満!?だけど夏に向けてかなり期待できそうだ」と書かれていた。(131頁)

     「アニメディア」の方が自然ではないか?

     その上に「アニメージュ」は1987年3月号で、「アニメージュ」の読者の中に「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンが多くいることを明らかにしていた。原作ファンは、アニメに対して原作のいいところが生かされることを求めるものであろう。

     小黒氏のように原作から離れたアニメを期待することは、そういう「アニメージュ」の読者の多くと対立することである。何故に対立してまで原作から離れたアニメを期待したのか?

     そもそも「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムは、番組の一部をとりあげるものだったのではないか? そのコラムで放映中の番組全体について称賛することは奇妙ではないか?

    TVシリーズに対する賞賛
    世界観

     小黒氏は、「原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋い」と語る。そして、それぞれ違うというにとどまらず、「アニメスタッフの”技”」と言っているので、アニメの方がすぐれているかのように聞こえる。しかし「世界観」が「アニメスタッフの”技”」だというのは意味がよくわからない。

     ところで「世界観」に関しては、小黒氏の評価は一定していないようである。

     小黒氏は6月号で「あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった」と言っていた。「渋くなってしまった」という言葉は、残念な気持ちをあらわすようでもある。

     小黒氏は「アニメージュ」1988年4月号の「NURSE圭のVIDEO研究室「ビデオラボ」「「きまぐれオレンジ☆ロード」LD発売記念・トークパーティー」」において、「本編ってけっこうシブい話が多いでしょ。」と言い、それゆえに「ああいうキャピキャピしたキャラたちをみると楽しくて」と言っている。
     これによると、「渋い」本編では楽しむことができず、「キャピキャピした」ものの方がよかったと思っているようでもある。

     私は、「原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋い」という言葉遣いに違和感がある。原作は80年代風で明るく、アニメ版は生活感があって薄暗いということだとすると、当たっていると思うが、「キャピキャピ」という言葉は、むしろアニメ版の檜山ひかるの描き方に当たると思うし、「渋い」という言葉は、どちらかというと原作の方ではないかと思う。

    恭介のモノローグ

     小黒氏は、主人公の「恭介のモノローグ」について「異常に使い方がうまくてあれのおかげで、相当感情移入がしやすくなっています」と語っている。

     しかしTVシリーズの「恭介のモノローグ」は、原作と比べて優柔不断を誇張した結果、感情移入しにくくなっていると私は思う。

     7月号の「レコード・レビュー」で水品氏が「「きまぐれ」の番組自体は、恭介のモノローグが多すぎて、物語のスピード感を殺しているって印象が、かなりあった。」と語っているが、私もその通りだと思う。

     このように、小黒氏がTVシリーズを持ち上げる言葉には、偏ったところがあると私は思う。

    高橋望氏との関係

     小黒祐一郎氏は「WEBアニメスタイル」の「アニメ様365日」の「第290回 マニア同人誌からアニメ雑誌に」において「「アニワル」では、僕達のアイデアがほとんど通った。担当の高橋望さんが、やりたい放題にやらせてくれたのだ。」と語っている。高橋望氏は小黒祐一郎氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げることについて、どう考えていたのであろうか?

    まとめ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して、はじめは「アニメージュ」のスタッフからも批判的な声が出ていた。ところがすぐにそういう声はなくなり、原作から離れたTVシリーズをよしとする小黒祐一郎氏の主張ばかりになった。

     そのことによって、TVシリーズを持ち上げて原作をおとしめる偏った考えが広まったと思われる。

     「アニメージュ」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが始まる前の1987年3月号で、「アニメージュ」の読者の中に漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」が好きだという人が多いことを伝えて、「きまぐれオレンジ☆ロード」がアニメ化されることに関して、「最近のAM読者は、マンガをアニメの後追いではなく、ちゃんと先取りしてみている」と書いていた。漫画が先を行っていると書いていたのである。
     ところがその1年後の1988年4月号では、その漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」について「あくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだった」と馬鹿にしたようなことを書いている。
     その間に何があったのか?