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  • 映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 後半

    映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 後半

     新海誠監督の映画「君の名は。」の気になるところについて一つ一つとりあげて考えてみる。

     今回は後半。

     前半↓

     そして新海誠監督の意図について考えてみる。


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    探す旅

     瀧が三葉の住むところに行くところ。

    同行者

     瀧は一人で行くつもりであった。

     ところが東京駅には友人の司と奥寺先輩が待っていて、瀧について行くという。

     これもおかしいと思う。

     特に奥寺先輩がついていくというのはおかしくないか? すでに司と親しくなっていたということかもしれないが、それまでの奥寺先輩と違う性格になったように見える。

     瀧を心配しているということであろうが、そのために瀧の考えを無視して旅についていくのはどうなのか?

     そもそも瀧の考えを二人はどのくらい知っていたのであろうか?

     知っていたのでなくては、瀧のことを配慮することはできないであろう。

     しかし入れ替わりのことは二人には理解できないのではないか?

     しかしそうだとすると、瀧は二人に旅の目的をどう説明したのか? 二人はそのことを聞いてどう理解したのか?

     思うに、新海誠監督は瀧の旅を途中まで明るいものにするために、司と奥寺先輩がついてくることにしたのであろう。瀧一人では「秒速5センチメートル」のように暗くなったかもしれない。旅を途中まで明るいものにすることで、その後に起こることが際立つ。

     二人は旅を明るいものにするという目的のためにに生かされているが、その内面は作りこまれていないように見える。そのことは、旅の目的が共有しがたいものであることからも気になる。

     瀧はその旅に出るまでに、記憶の中にある三葉の住んでいた町の風景を絵に描いていて、その絵を持って行って、三葉の住んでいた町を探そうとしている。

     しかし飛騨と限定されていて、あれだけ珍しい地形であるのに、ラーメン屋に行くまでわからないということがあるだろうか?

     瀧は奥寺先輩とのデートの時に写真展の飛騨のところで何かを感じていたのに、その写真展に問い合わせないのか?

     景色の記憶のほかに、「糸守」という地名のような言葉の記憶はないのだろうか?

     飛騨のことを調べているのに、糸守のことにつきあたらなかったのか?

     ここでも、登場人物が自分で動いて話を進めるのではなくて、それぞれの場面のために登場人物は動かされていると考えることができる。

     「君の名は。」の作り手は、瀧が薄れた記憶をもとにして絵を描いて、その絵をもとにして飛騨で聞き込みをして、手がかりが得られず帰ろうとしたところではじめて3年前のことを知る、というかたちをとった。

     瀧が三葉の記憶に近づくということを、旅行での苦労というかたちで表現したかったのではないか。

     そして3年前のことを知った時の衝撃を強くしようとしたのではないか。

     瀧は技術的には、東京の自宅にいる間に衝撃の事実を知ることもできたであろう。

     しかしそういう話にしなかった。

     そのために瀧の記憶は景色だけとされて、言葉の記憶はラーメン屋の店主に言われるまで思い出さないことにされた。

    日記が消える

    Iván TamásによるPixabayからの画像

     瀧が三葉の住んでいた町に来てみると、町は隕石によって出来た湖に飲み込まれていた。

     そこで三葉の言葉が残っているはずの日記を見ると、言葉が残っていたが、みるみるうちに文字化けして消えて行った。

     ここは筋が通らないところである。

     その時まで日記は消えずにいて、その時に消えるということはどういう規則によるのか?

     ここまであると思っていたことが突然なかったと知った気持ちを、日記が消えるというかたちで表現しているのであろう。

    3年のずれ

    Photo by Brooke Campbell on Unsplash

     入れ替わりが3年を隔てた間で起こっていたと知るところは、起承転結の転にあたるところ。

     それまで明るく楽し気に進んでいた話が突然暗い断絶に直面して、作品に深みが加わり、観客の心をひく。

     しかしここは多くの人につっこまれるところでもある。

     瀧も三葉もそれまで入れ替わるたびにそれぞれ3年違う世界で一日過ごしていたにもかかわらず、互いにそのことに全く気付いていなかった。

     そういうことはありえないのではないか?

     3年違う世界で、もとの世界と3年違うことを意識せずに一日過ごすことができるであろうか?

     三葉の家でテレビを見ている場面が何度かあるが、3年違えばその内容も違うであろう。

     特にテレビで彗星のニュースが繰り返す出てくるが、瀧がそのことを全く気にしないのはおかしい。

     二人はそれぞれ高校生としてそれぞれの友人と会話しているが、その中で3年の違いに気づかずにいられるであろうか?

     「君の名は。」が公開されたころにはリオ五輪が開かれていて(2016年8月5日~21日)、高校生がオリンピックについて話さないはずがないと私は思っていた。

    (「君の名は。」では、糸守町に彗星が落ちたのは2013年10月4日とされている)

    救出作戦

    Photo by JESHOOTS.COM on Unsplash

     瀧が目を覚ますと、彗星が落ちる前の三葉に入れ替わっていた。

     そこで瀧は糸守の町の人を彗星から救うために走り出す。

     しかし町の人は瀧の言うことを聞かない。

    祖母

     瀧はまず、三葉の家にいる祖母に彗星が落ちるというが、祖母は信じない。

     三葉の祖母は、その前に瀧が三葉と入れ替わっていることに気づいたりしているが、彗星が落ちることは信じない。

     要するに祖母は一度入れ替わりを経験していて、しかし今では忘れているというのであるが、そうだとしても、彗星のことを全く信じないのはおかしいのではないか?

    同級生

     瀧は高校の教室に行って彗星が落ちるという。

     そこで突然画面が変わって、勅使河原、早耶香の二人が瀧とともに町の人を彗星から救うことを考えるという話になっている。

     つまりその二人の外はそのことを信じなかったということである。

     ここも気になる。

     同級生を説得することは容易でないと思うが、しかし二人を説得できたのであれば、その他の何人か説得できてもいいのではないか?

     おそらく、新海誠監督にとっては、瀧と三葉が重要であって、その二人を支える存在として、勅使河原、早耶香の二人がいればいいということであろう。

    三葉の父

     三葉の父の町長が、瀧が彗星が落ちると言っても受け入れないことは、しかたがないことではある。

     しかし全く受け入れない

     そして三葉に入れ替わった瀧に対して「お前は誰だ」と言った。

     ここで三葉の父が全く受け入れないことも、これまでのことと同じように違和感がある。

     「おまえは誰だ」と言って話を切っているところにも違和感がある。

    三葉の東京行き

    omaedaによるPixabayからの画像

     瀧が奥寺先輩とデートした日、三葉は東京に行っていた。

     三葉は妹の四葉に「ちょっと東京に行ってくる」と言って、新幹線で東京に行っている。

    金銭感覚

     高校生が「ちょっと東京に行ってくる」と言って新幹線で東京に行くということが気になる。

     高校生にとって、それもアルバイトをしていない高校生にとって、飛騨から東京まで新幹線で往復する費用は、「ちょっと」ではないのではないか?

     しかもこの場合、東京に行って何をするかよくわかっていないようである。

     また、そういうことができるのに、何故に今までしようとしなかったのか? ということも気になる。

     入れ替わりをどうすべきかという問題はそれだけ大きな問題だと私は思う。

     ここでは、三葉の瀧に対する気持ちがそれだけ高まっていたと受け取るべきなのであろう。

    出会い方

     三葉は東京に着いてから、電車に乗ったり、歩いたり、バスに乗ったりしている。

     そうして夕方に代々木駅に来た電車に乗っている瀧を見つけたということになっている。

     東京で人を探すことの苦労を描いているようである。

     しかしそのようにあてもなく探しまわっても見つかるはずがないと私は思ってしまう。

     飛騨にその日のうちに帰らなくてはならないことを考えると、時間がないと思ってしまう。

     その後で偶然瀧に出会えたことは都合がよすぎると思ってしまう。

     四谷の待ち合わせのことを考えてそのあたりに行くとか、記憶をたどって瀧の高校や瀧の家に行くとかすべきではないか?

    組紐

    イラストACから

     三葉が瀧に組紐を渡すところはこの映画の大事なところである。

     しかし相手から「誰? お前」と突き放すようなことを言われているのに、呼び止められたからといって、電車から降りながら組紐を渡そうと思うだろうか?

     相手は受け取らないかもしれないではないか。

     二人が離れる動きの中で組紐を渡す絵がいいということであろうか?

     まず、中学生の瀧が、まだ知らないとはいえ、三葉に話しかけられて、あのようにただつきはなしていることには違和感がある。

     瀧が電車から降りる三葉を突然呼び止める気持ちもわからない。

     あのように三葉から組紐を差し出されると、受け取らざるをえないとも思うが、それから3年、その組紐を手首に巻いていて、そうしながら誰からもらったか忘れたということはおかしい。

    出会い

    KanenoriによるPixabayからの画像

     三葉に入れ替わった瀧は、三葉に会うために山の上に行く。

     このあたりにも気になることが多い。

    三葉に会いに行くこと

     瀧は、三葉の父を説得することに失敗した後、「三葉なら説得できたのか?」と考え始める。

     そして山の上を見て、「そこにいるのか?」とつぶやいて、勅使河原の自転車でその方へ行っている。

     このあたりは映画館で観てついていけなかったところである。

     第一に、「三葉なら説得できたのか?」と考えることについていけない。

     町の人を彗星から救うという目的のために三葉の父の町長を説得しようとしている時に、「三葉なら説得できたのか?」と思うであろうか?

     第二に、瀧がどうして山の上を見て、「そこにいるのか?」と思うことができたのか、よくわからない。

     ここでの瀧には糸守の町の人を彗星から救うという大きな目的があるゆえに、その目的と関係がないように見えることが気になるのである。

    山の上

     3年前の三葉に入れ替わった瀧と、3年後の瀧に入れ替わった三葉は、山の上で出会う。

     このあたりは映画館で観た時に感動している人もいた。

     しかし私はどういう理屈で出会うことできているのか理解できず、話についていくことで精一杯で、感動どころではなかった。

     瀧は3年前(2013年)の三葉と入れ替わって3年前の山の上に来ているのに、そこでどうして3年後(2016年)の瀧と入れ替わって3年後の山の上に来た三葉と会うことができるのか?

     小説版では、はじめに声だけが聞こえた時に瀧が次のように独白している。

    この声が―俺の声が、三葉の声が、現実の空気を震わせているのか、それとも魂のような部分にだけ響いているのか、俺にはよく分からない。俺たちは同じ場所にいても、三年ずれているはずだから。

    「小説 君の名は。」、194~195頁

     瀧も理屈はわからないという。

     しかし瀧が山の上に来たのは、そこで三葉と出会うことができると考えたからにちがいない。

     どうして瀧はそう考えることができたのか?

     黄昏の時に、瀧と三葉は互いに相手の姿を見ることができるようになった。そしてそれぞれ元の体に戻っていた。

     そうなる理屈もわからない。

    時間の問題

    Tanja-Denise SchantzによるPixabayからの画像

     「君の名は。」では時間を超えた入れ替わり、そして時間を超えた出会いが起こる。

     それゆえに気になるところがある。

    三葉の死

     瀧が口嚙み酒を飲んで三葉と入れ替わったのは、彗星が糸守に落ちる前である。

     口嚙み酒のところで倒れていた瀧に入れ替わった三葉は、彗星が糸守に落ちる前の三葉である。

     ところが瀧に入れ替わった三葉は、彗星が糸守に落ちて、自身が死んだ記憶を持っている。

     どういうことであろうか?

     三葉が入れ替わった3年後の瀧の体は、彗星が糸守に落ちた後の体であって、彗星が落ちたという事実、そしてその中にあった三葉の死という事実が織り込まれていて、入れ替わった三葉もその記憶をもつことになった、ということであろうか?

    記憶

     はじめの話では、彗星が糸守に落ちて、三葉も町の人500人もそのために亡くなることになっていた。

     ところが入れ替わりが起こって、彗星のことを知っていた瀧が3年後の世界から来て、彗星が落ちる前の世界にはたらきかけた。

     そして一度3年後の瀧と入れ替わって彗星のことを知った三葉も、3年前の世界に帰ってはたらきかけた。

     その結果、彗星は糸守に落ちるが、三葉も町の人500人も亡くならないことになった。

     三葉にも、瀧にも、三葉を含めた500人の町の人が亡くなったという事実はなくなったのである。

     2人が彗星によって人が亡くなることを知って、そのことから町を救うために奔走したという記憶もなくなる。

     2人は別れて間もなくそれまで2人でやってきたことを忘れていく。

    名前

     「君の名は。」では、2人がそれまでの記憶をなくしていくことを、相手の名前の記憶をなくしていくというかたちに集約して表現している。

    気になる

     2人がそれまでの記憶がなくしていくことを、相手の名前の記憶をなくしていくというかたちに集約して表現していることは、理屈としては理解できる。

     しかし私は映画を観ていて気になった。

     2人は相手の名前をおぼえていること、おぼえていないことを問題としているが、2人にとっては相手の名前より、相手についての記憶が重要ではないか、と思ってしまうのである。

     三葉が糸守の町の人を救うために走っている途中で、瀧の名前を忘れたことを問題としているところをみると、脇道にそれているように見えてしまう。

    救う

     瀧と別れた三葉は、町の人を救うために山を下って行く。

     ここで、まず早耶香の防災無線乗っ取りが失敗し、次に勅使河原も親につかまってしまった後で、三葉が父のところへ行って正面から見据える、そして彗星が落ちて町が燃える、というところで途切れる。

     そして8年後の瀧の話で、偶然その日に町を挙げての避難訓練があって、町民は助かったということになっている。

    気になる

     映画を観ていて物足りなく感じたところ。

    過程が描かれていない

     どうして町民が助かったのかが描かれずに、素材と結果だけ並べられて助かったと言われても、物足りない。

     新海誠監督にとっては、どうでもいいところであったかもしれない。

     しかしどうやって彗星から町の人を救うかということで観客をひっぱってきたのに、その救うところが描かれていないのでは、物足りないと言われても仕方がない。

    バランス

     彗星のことを知った瀧は、もう一度三葉に入れ替わって、勅使河原、早耶香とともに、作戦を立てた。

     しかし瀧は三葉の父を説得できずに、なぜか三葉と出会うために山の上に行く。

     そして自分の体に戻った三葉は、勅使河原、早耶香とともに作戦を実行に移すが、早耶香も勅使河原も大人につかまってしまう。

     一方で、彗星が落ちる時が迫っているのに、他方で、町の人を救うための三葉等の作戦は成功から遠ざかっていく。

     緊迫感を強調するためにそのように描いたのかもしれないが、それだけ追い込まれた状況を見せられると、その状況からどうやって町の人を救うところまで持っていくことができたのか、見たくなるのである。

    いつも誰かを探している

    記憶を失う

     瀧は三葉と別れた後、記憶を失っていく。

     そのことは理解できるのであるが、細部が気になる。

     瀧は記憶を失って山の上で目を覚ましたというが、そのようなことがあって記憶を失っただけですませるだろうか?

     飛騨に司、奥寺先輩と旅して、別れて帰ってきたことまでおぼえているのに、その先のことはぼんやりとしかおぼえていないですませるだろうか?

    すれ違い

     記憶を失った瀧はいつも誰かを探している。

     そして同じく記憶を失った三葉もいつも誰かを探している。

     2人はすれ違いを繰り返す。

     このあたりは「秒速5センチメートル」を踏まえているようである。

     東京のビルに降る雪の下を瀧が歩くところ。女性とすれちがってハッとする。左手をポケットに入れている。そして振り返ってみる。

    「君の名は。」と「秒速5センチメートル」

     「秒速5センチメートル」では、振り返った先に相手の女性はいなかった。

     「君の名は。」では、互いに相手を求めていて、結局言葉を交わすことができた。

     新海誠監督は「君の名は。」について次のように語っている。

    人生には出会うべき相手がいるというテーマ、つまり「運命の人って、いるんだよ」ということですよね。それを、もう少し長い物語で描きたいと思ったのが最初のきっかけですね。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

    https://www.cinematoday.jp/page/A0005142

     両作品の違いはそのことにあるということができる。

     「君の名は。」においては、夢が重要な意味を持っている。

     新海誠監督は「君の名は。」のもとになったことについて次のように語っている。

    『君の名は。』は、昔話の構造ではなく「夢と知りせば」という和歌がインスピレーションを与えてくれました。夢から覚めてなぜかさみしいという感情は、小野小町のいた平安時代から、いやそれ以前から今にいたるまで人の持つ共通の感覚だろうと思ったのです。

    『君の名は。』大ヒットの理由を新海誠監督が自ら読み解く(上)

    https://diamond.jp/articles/-/102660?page=2

     瀧、三葉の2人が夢に対して同じように感じている。

     「君の名は。」において、夢は母胎のように現れている。

     小説版のはじめには、目が覚める前の状態について次のように言われている。

    私は大切なだれかと隙間なくぴったりとくっついている。分かちがたく結びついている。乳房に抱かれた乳呑み児の頃のように、不安や寂しさなんてかけらもない。

    「小説 君の名は。」、6頁

     映画中盤で瀧は口嚙み酒を飲んだ後に、彗星の映像が、へその緒を切る映像につながるところをみている。

     2人は同じように失われた夢を追い求めて、そうしてついに出会うのである。


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  • 映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 前半

    映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 前半

     新海誠監督の映画「君の名は。」には気になるところが多くある。

     一つ一つ取り上げて考えてみる。

     まず前半。

    http://www.kiminona.com/


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    入れ替わり

    ElisaRivaによるPixabayからの画像

     まず、男子高校生立花瀧が目を覚ましてから、自分が女の姿になっていると気づくところ。

     瀧はまず自分の胸の形が変わっていることに気づくことになっている。

     しかし自分の胸の形は、自分の目から見て目立つものであろうか? 目覚めたばかりで、体が入れ替わっているとは思っていない時に、目立つものであろうか?

     その後に鏡の前で裸になった時に、自分の体が女性の体になっていたことに気づくことになっている。

     しかし、そういう時に突然鏡の前で裸になるであろうか?

     思春期の男女の入れ替わりの話で、思春期に気になるところに注意させるをとりあげることはいいと思う。

     しかしもっと自然な流れにできたのではないか?

    襖を閉める妹

     女子高校生に入れ替わった瀧に、その女子高校生の妹が「ご・は・ん! 早くない!」と言って「叩きつけるように襖を閉め」て行く。(小説版)

     その女の子はこの後にも何度か同じように「叩きつけるように襖を閉め」て行く。

     このように「叩きつけるように襖を閉め」て行くことは、その女の子のキャラクターと合っているし、映画をテンポよく進めることにもなっている。

     しかし、姉に部屋から出てくるよう言いながら、自分で「叩きつけるように襖を閉め」て行くことは、相反することである。

    「昨日はおかしかった」

     女子高校生三葉(本人)は朝起きてから会う人ごとに、昨日はおかしかったと言われる。―祖母、妹、友人、学校の教師にそう言われる。

     三葉はその前の日に瀧と入れ替わっていた。周りの人は瀧が中に入った三葉のことを言っているのである。

     三葉は周りの人に昨日おかしかったと言われて驚くが、それより夜の儀式のことに関心を移してしまう。

     三葉にとって夜の儀式のことは大きなことであるかもしれない。しかし昨日の自分はどうしていたかということを考えずにいられるのであろうか?

     三葉の家族も友人も、三葉の中身が一日変わっていたのに、その日だけおかしかったとすませることができるであろうか?

    町長

     三葉が学校に向かって歩いている途中で、広場で三葉の父親の現職町長が選挙のための演説をしていた。父親は通りかかった三葉をみて、「胸張って歩かんか」と言う。

     この場面では、三葉が田舎での暮らしに不満を感じるところが描かれていると思われる。

     そのことが、三葉が東京に行きたいと思う理由の一つになっている。

     しかし三葉の父からすると、現職町長であって再選を目指しているのに、現在別居していて、その日も違う家から出て来た娘を、人前で叱りつけることは、体裁のいいことではないのではないか?

    組紐

    写真ACから

     三葉の家の神社では「千年の歴史が刻まれとる」という組紐を作っている。

     三葉はその組紐で髪を結って学校に行っている。

     神社で作っている長い伝統のある組紐を、女子高校生がおしゃれをする感じで髪を結うために使っている、というところが気になった。

     それが新海誠流ということか。

    三葉の叫び

    写真ACから

     儀式の後、三葉は鳥居をくぐって叫ぶ。

    もうこんな町いやや! こんな人生いやや! 来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!

    「君の名は。」

     当時TVのCMで繰り返しこの叫びが流れていた。

     そのCMを見た時にも違和感があったが、映画を観てもやはり違和感があった。

     田舎の女子高校生が東京に行きたいというところまでは自然なことだと思うが、「イケメン男子」になりたいということは自然なこととは思えない。

     その前に女性として恥ずかしい儀式をやったことがきっかけになっているのであるが、それでも「イケメン男子」になりたいと願うだろうか? と思ってしまう。

     新海誠監督自身も気になっていたようである。

    劇中で「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫ぶんですが、「普通そんなこと叫ぶかな?」ってちょっと引っ掛かっていたんです。物語の都合に、キャラクターの芝居を合わせてしまったのではないかと。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

     ところが女優によって説得力あるものになったと新海誠監督はいう。

    でも、上白石さんに会った時、「この子だったらそんなこと叫んじゃうかもしれない」「勢いで、嫌なことを思い切り発散してしまうかもしれない」そんなことを感じさせてくれて。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

     新海誠監督はわざとこの叫びを重みのない、軽いものにしたようである。

    https://www.cinematoday.jp/page/A0005142

     この叫びに関してはもう一つ問題がある。

     この叫びは、鳥居をくぐるところでなされていることを考えても、その後に入れ替わりという超常現象が起こる原因になったことのように見える。

     三葉が「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫んだことを原因として、三葉は東京の男子瀧と入れ替わった、ように見える。

     しかしこの叫びの前に三葉は入れ替わりをしている。

     この叫びは、例の儀式の後になされている。例の儀式は、三葉が学校で「サヤちん」と入れ替わりに関して話をした後である。

     入れ替わりが起こった後に、入れ替わりをもとめて叫んだことになっている。

    瀧の部屋

    Photo by Ryo Yoshitake on Unsplash

     三葉の叫びの後、場面は切り替わって、東京の瀧の部屋で、瀧に入れ替わった三葉が目を覚ますところになる。

     ここでも瀧と同じように、三葉は目を覚ましてすぐに、男性の体に入れ替わったことがわかるところにピンポイントで気づいている。

     そのことは瀧の場合と同じように気になる。

     しかしその後に瀧に入れ替わった三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行く流れは、それより気になった。

     ここで三葉には、瀧のふりをして瀧の学校に行く動機がないはずである。

     三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くという話にするためには、そのことが自然であるように話を作らなくてはならないと思われるが、そういうことはない。

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧の父親に呼ばれているので、父親をそのために使うとばかり思っていた。

     父親が瀧に入れ替わった三葉に学校に行くように急かすとか、途中まで一緒に行こうと言うとかすれば、瀧に入れ替わった三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くことも自然になる。

     ところが瀧の父親はそういうことをせずに、瀧に入れ替わった三葉を残して出て行ってしまった。

     そこに瀧の友人の司から学校に来いと言うメールが来たが、これも三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行かなくてはならないと思うには弱い。

     三葉は、容姿は瀧のようになっているが、心は三葉のままである。

     三葉は東京で制約のない状況に置かれた場合、やりたいことをやろうとするのではないか?

     ところが三葉はなぜか、強いる者もいないのに、やりたいことをやらずに、瀧のふりをして瀧の学校に行っている。

     三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くことは困難ばかりだと思われるが、なぜかその道を自ら選んでいる。

    東京のイメージ

    Photo by Laurentiu Morariu on Unsplash

     瀧に入れ替わった三葉は、新宿を歩いて「東京やあ!」と言って感動している。

     何ゆえに東京の中でも新宿なのか?

     新海誠監督はインタビューで、「僕の世代にとって東京といえば新宿だったんですよ。」と語っている。「シティハンター」や「機動警察パトレイバー」の影響があったという。そして「僕は未だにそのイメージを引きずっていて、東京といえば新宿だっていう気分がすごく大きいんです。」と言っている。

    https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1472453958

     新海誠監督の世代によることのようである。

     私は、女子高校生が東京の人と入れ替わる話だと聞いた時に、当然女子高校生は原宿に行くと思い込んでいた。

     そして新海誠監督がアニメでどのように原宿を描くのだろうかと思っていた。

     ところが「君の名は。」では、原宿は全く描かれなかった。

    カフェ

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧の友人の司、高木に誘われて三人でカフェに行く。

     三葉は田舎にいた時にカフェに行きたいと言っていた。そのことがかなった、というかたちになっている。

     しかし三葉が自分で来るのでなく、瀧の友人に連れられてくるということに違和感がある。

     男子高校生三人でカフェに行くということに対して違和感があるのである。

     ここでも作り手のやりたいことが先行して、そのために登場人物が動かされているように見える。

    イタリアンレストラン

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧のアルバイト先のイタリア料理店で瀧の代わりにアルバイトをやることになる。

     しかしそれまでやったことのないアルバイトを突然やれと言われて、まごつきながらもできてしまう、ということは都合がよすぎると思う。

    入れ替わりの日常

     瀧、三葉二人が夢の中で入れ替わっていることを意識したところで、RADWIMPSの楽曲が流れて、それに乗せて瀧、三葉の入れ替わりの日常がダイジェストで描かれている。

     その中心にあるのは入れ替わりである。

     入れ替わりについて、瀧、三葉がわかってきたことは次の通り。

    ・瀧は、三葉と同じ年で、東京に住む男子高校生(と三葉はわかった)

    ・三葉は、「ど田舎暮らし」の高校生(と瀧はわかった)

    ・入れ替わりは不定期で、週に二、三度、ふいに訪れる。

    ・トリガーは眠ること。原因は不明。

    ・入れ替わっていた時の記憶は、目覚めると不鮮明になる。

     入れ替わりの対策として二人は、携帯電話に、入れ替わった時の注意点や禁止事項、入れ替わった時の出来事を書き残すというルールを作った。

     このあたりも気になる。

     二人は入れ替わりという状況を理解して、その対策をするために相互にコミュニケーションをとるに至っている。

     それにもかかわらず、電話で直接やり取りするとか、交通機関を使って会いに行くとかしないことは不自然でないか?

     小説版には次のように書いてある。

    メールや電話も試してみたが、なぜかどちらも通じなかった。

    「小説 君の名は。」、80頁

     映画でもすべきではなかったか?

     メールも電話も通じないとしても、もとの自分の家に行こうと思わないことは不自然ではないか?

     思うに、新海誠監督は、二人が入れ替わりという「夢」を二人の間だけで共有するという状況を作りたかった。

     それに対して私は、二人が与えられた状況で、相手のふりをするだけに終始する動機が十分にないと思ってしまうのである。

    奥寺先輩

     瀧のアルバイト先の奥寺先輩は「君の名は。」において重要な位置を占めている。

     しかし奥寺先輩という人物も、作り手のやりたいことのために動かされているように見える。

    好意

     奥寺先輩はまず、瀧に入れ替わった三葉が、切り裂かれたアルバイトの制服を刺繍でつくろったところをみて、「今日の君のほうがいいよ」と言っている。

     奥寺先輩は、刺繍のできる、「女子力高い」男性がいいと思ったのか? 三葉がいいと思ったのか? 恋愛感情なのか?

    デート

     瀧は奥寺先輩とデートをして、会話が続かないと言っている。うまくいかなかったようである。しかし何がうまくいかなかったのか、よくわからない。

     奥寺先輩は瀧にどういうことを望んでいたのか、瀧はどうして答えることができなかったのか、よくわからない。

     デートで寄った写真展で、瀧は思わず飛騨の写真に見入っていた。

     奥寺先輩は、写真に見入っている瀧を横から見て、表情を変えて、瀧に「今日は別人みたいだね」と言った。

     しかし、瀧がこの場面で写真展の写真に見入っていることから、瀧の奥寺先輩に対する気持ち、他の女性に対する気持ちを知ることはできないのではないか?

    帰り際

     帰り際に奥寺先輩は瀧に「昔私のことが好きだったでしょう」と言い、「今は他に好きな子がいるでしょう」と言った。

     この言葉もひっかかる。

     まず「昔私のことが好きだったでしょう」というのは、瀧が中身の時のことを言っているのか、三葉が中身の時のことを言っているのか、よくわからない。

     次に「今は他に好きな子がいるでしょう」と言うことについては、奥寺先輩がそういうことの根拠がわからない。

    三葉と奥寺先輩

     三葉が奥寺先輩に対してどう考えていたのか、ということも気になる。

     三葉は瀧のために奥寺先輩との関係を進めてあげているかのようなことを言っている。

     しかし瀧が奥寺先輩に好意を持っていたとしても、三葉がその関係を進めてはいけないのではないか?

     三葉のせいで瀧と奥寺先輩との関係は破綻している。(三葉なしでもうまくいかなかったかもしれないが、うまくいったかもしれない)

     思うに、奥寺先輩はこの映画で、瀧と三葉の二人が互いに相手のことを思うに至るまえの踏み台のような役割をしている。

     ただし登場人物それぞれが自然に動いて話を動かしているという感じにはなっていない。

     登場人物がその時々にどう考えて動いているのか、観客にはよくわからず、そもそもつじつまが合うように作られていないのではないかと思われる。

     そのことが私には気になる。

     たとえば、三葉が瀧と奥寺先輩のデートの日に突然涙を流すとか、

     また、突然奥寺先輩が瀧に「他に好きな子がいるでしょう」と言うとか、

     そこに至るまでの心の動きは十分に描かれていない。

     そういう場面が突然出てくるのである。

     しかしそうしてできた作品が歴史的な興行成績を上げたのであるから、多くの人の心に響いたわけである。

     前半はここまで。後半に続く↓


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  • 【映画】若大将シリーズ ~1960年代の日本の青春~

    【映画】若大将シリーズ ~1960年代の日本の青春~

     1961年に公開された映画「大学の若大将」をはじめとして次々と作られた「若大将」の映画は、1960年代の東宝を代表するものとなった。

     「若大将」シリーズでは、1960年代の大学生の明るく楽しい生活や恋愛が、リゾート地などを背景として描かれている。ビートルズなど、当時の流行の最先端がとりいれられている。(敬称略)


    大学の若大将

    若大将シリーズの映画

    PIRO4DによるPixabayからの画像

     「若大将」シリーズは、1961年に公開された映画「大学の若大将」から始まった。

     それから1971年に公開された映画「若大将対青大将」まで16本作られた。

     「歌う若大将」も入れると17本。―「歌う若大将」は日劇での「加山雄三ショー」。

     その後、1970年代中頃に草刈正雄主演で2本作られた。

     1981年には加山雄三主演で1本作られた。

    大学の若大将

     第1作。

     1961年7月8日公開。

     題名の通り大学の話であるが、芦ノ湖も舞台になる。

     若大将は大学の水泳の選手。


    大学の若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    銀座の若大将

     1962年2月10日公開。

     前作同様大学生の話であるが、題名の通り銀座も舞台になる。

     この映画で若大将がやるのは拳闘。


    銀座の若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    日本一の若大将

     1962年7月14日公開。

     若大将は大学のマラソンの選手。


    日本一の若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    ハワイの若大将

     1963年8月11日公開。

     題名の通りハワイが舞台。


    ハワイの若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    海の若大将

     1965年8月8日公開。

     若大将は大学の水泳の選手。

     映画の中ほどで八丈島に行こうとして遭難する。


    海の若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    エレキの若大将

     1965年12月19日公開。

     若大将は大学のアメリカンフットボールの選手。

     エレキ合戦に出場する。


    エレキの若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    アルプスの若大将

     1965年5月28日公開。

     題名の通りアルプスから始まる。

     若大将は大学のスキーの選手。


    アルプスの若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    歌う若大将

     1966年9月10日公開。

     日劇での「加山雄三ショー」。


    歌う若大将

    レッツゴー!若大将

     1967年1月1日公開。

     若大将は大学のサッカーの選手。


    レッツゴー! 若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    南太平洋の若大将

     1968年7月1日公開。

     ハワイから始まる。

     若大将は大学の柔道の選手。


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    ゴー!ゴー!若大将

     1967年12月31日公開。

     若大将は大学の駅伝の選手。

     カーレースも。


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    リオの若大将

     1968年7月13日公開。

     題名の通りブラジルが舞台になる。

     若大将は大学のフェンシングの選手。


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    フレッシュマン若大将

     1969年1月1日公開。

     若大将が就職する。

     ヒロインは酒井和歌子。


    フレッシュマン若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    ニュージーランドの若大将

     1969年7月12日公開。

     オーストラリアで始まって、日本に帰ってきて、ニュージーランドに行く。

     若大将は会社員で、ヒロインは酒井和歌子。


    ニュージーランドの若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    ブラボー!若大将

     1970年1月1日公開。

     若大将は会社員で、ヒロインは酒井和歌子。

     大学の後輩(大矢茂)が登場。


    ブラボー! 若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    俺の空だぜ!若大将

     1970年8月14日公開。

     若大将の指導を受けて後輩(大矢茂)がスカイダイビング。


    俺の空だぜ! 若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    若大将対青大将

     1971年1月9日公開。

     青大将が大学を卒業して就職。

     若大将は加山雄三から大矢茂へ。

     オートバイ。


    若大将対青大将 <東宝DVD名作セレクション>

    がんばれ!若大将

     1975年7月12日公開。

     草刈正雄主演。

     アメリカンフットボール。


    がんばれ! 若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    激突!若大将

     1976年5月29日公開。

     草刈正雄主演。

     アイスホッケー。


    激突! 若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    帰ってきた若大将

     1981年2月11日公開。

     加山雄三主演。


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    「若大将」シリーズの特徴

    キャンパス

     主人公の田沼雄一(加山雄三)は大学生である。

     主人公の家はすきやき屋「田能久」をやっている。祖母(飯田蝶子)、父(有島一郎)、妹(中真千子)がいる。

     主人公は大学でスポーツをやっている。優秀な選手である。

     大学には主人公と対立する青大将(田中邦衛)がいる。

     主人公は、働く女性澄子(星由里子)と出会う。

     田沼雄一と澄子は、互いに好意を持つが、思いはすれ違う。どうなるか? という話である。

     「若大将」シリーズのそれぞれの話は連続していない。

     話によって、主人公が大学でやるスポーツ、澄子(節子)との関係、青大将との関係、その他の人間関係が違う。舞台も違う。

     主人公の田沼雄一はそれぞれの話において初めてヒロインの澄子(節子)と出会うのである。

     ただし連続しているところもある。


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    配役

     「若大将」シリーズは、配役がいいと言われている。

     第一に主役の若大将。加山雄三に合わせて作られたと言われているように、その育ちの良さとか、正義感とか、スポーツの技量とか、音楽の才能とか、個性が生かされている。

     若大将と対立する青大将役の田中邦衛のコミカルな演技はこのシリーズの見どころである。田中邦衛の幅広い芸歴の中でコミカルな演技の代表的なものである。若大将や澄子とのやりとりも面白い。

     ヒロインの星由里子は、髪型も服装も60年代の明るい都会的な女性を代表しているようである。(星由里子はその後に東映の任侠映画のヒロインも演じているが、対照的)


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     若大将の家族も印象的である。

     孫の若大将に優しい、感じのいいおばあさん(飯田蝶子)

     息子の若大将に対して厳しいがコミカルでもある父親(有島一郎)

     可愛い妹(中真千子)

     若大将の大学のマネージャー江口(江原達怡)のわがままだが憎めない感じ。

     その他にもそれぞれの作品に出て来る人がいる。

    恋愛

     「若大将」シリーズは、恋愛が中心にある。

     若大将は澄子と出会って、互いに好意を持つが、すれ違ってうまくいかない、という話が映画の中心にある。

     「若大将」シリーズの恋愛は、深入りしない。

     脚本家の田波靖男によると、5作目の「海の若大将」でベッド・シーンを入れようとしたが、プロデューサーの藤本真澄が反対したので、「若大将と澄ちゃんの仲はプラトニックな恋に戻った」という。(「映画が夢を語れたとき」、101~104頁)

     その時に藤本真澄は次のように言ったという。

    これはシンキくさい文芸作品じゃないんだ。スカッといかなきゃ。若大将にはハートの悩みがあってもよいが、下半身の悩みはいらん

    「映画が夢を語れたとき」、102頁

    映画が夢を語れたとき―みんな「若大将」だった。「クレージー」だった。

    親子

     「若大将」シリーズでは、もう一つ、親子の対立が描かれている。

     若大将はいつも誤解によって父親から勘当される、という話になっている。

     親子の対立、世代の対立が描かれているのであるが、コミカルに描かれているのでもある。

    海外ロケ

     「若大将」シリーズでは「ハワイの若大将」以降、海外ロケが多い。


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     プロデューサーの藤本真澄に次のような考えがあったと脚本の田波靖男は語っている。

    第三作『日本一の若大将』のヒットに自信を深めた藤本は『ハワイの若大将』をB級の娯楽映画から、ハワイ・ロケを行うことにより、A級の娯楽大作にしようともくろんでいた。

    「映画が夢を語れたとき」、広美、1997年、79頁

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    黒澤明監督の「赤ひげ」

     「若大将」シリーズは、4作目の「ハワイの若大将」と5作目の「海の若大将」の間が空いている。1964年に一本も公開されていない。

     1965年に公開された黒澤明監督の映画「赤ひげ」で加山雄三が重要な役を演ずることになって、そのために「若大将」シリーズはできなくなったのである。


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    社会人編

     1969年の「フレッシュマン若大将」で主人公田沼雄一は社会人になっている。


    フレッシュマン若大将

     主人公を演じた加山雄三の年齢が30を超えて大学生の役ができなくなったことによるという。

     ヒロインも酒井和歌子にかわっている。


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    1970年代中頃

     「若大将」シリーズは、1971年の「若大将対青大将」で一度途切れている。

     ところが1970年代中頃にまた人気になったと言われている。

     「ムービーマガジン」1976年6号にも「「若大将シリーズ」の五本立オールナイトが、若い観客で満員だという」とある。(同、30頁)

     草刈正雄主演の「若大将」シリーズは、それゆえに作られたようである。

     がんばれ! 若大将。


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     激突! 若大将。


    激突! 若大将 <東宝DVD名作セレクション>

    「若大将」シリーズに近い作品

     「若大将」シリーズの間に、加山雄三主演で「若大将」シリーズに近い作品が作られている。

    お嫁においで

     1966年に公開された映画「お嫁においで」は、加山雄三主演で、加山雄三作曲の「お嫁においで」という楽曲をもとにした作品である。ヒロインは「海の若大将」に登場した沢井桂子。


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    兄貴の恋人

     1968年に公開された映画「兄貴の恋人」は、加山雄三主演で、ヒロインは「フレッシュマン若大将」と同じ酒井和歌子。この作品では「若大将」シリーズに出ていない内藤洋子が重要な役になっている。


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    「若大将」シリーズと「若者文化」

    Photo by Mick Haupt on Unsplash

     「若大将」シリーズには、第二次世界大戦後の「若者文化」がとりいれられているということができる。

     「若者文化」とは、1950年代のアメリカで、ジェームズ・ディーンの映画、エルヴィス・プレスリーの音楽など、若者を代表するものとして出てきたものである。

     日本でも1950年代中頃に、石原慎太郎の小説、石原裕次郎の映画などが出てきた。

     「若大将」シリーズは、1960年代に「若者文化」をとりいれたものとして作られていたということができる。

    親との対立

     まず形式からいうと、「若大将」シリーズでは毎回、大学生の主人公田沼雄一(加山雄三)と父親(有島一郎)の対立が描かれている。主人公はいつも父親に勘当されている。

     脚本を担当した田波靖男によると、「世代間の対立」はプロデューサーの藤本真澄が提案したことであった。

    藤本が提起した、世代間の葛藤というテーマは、若大将シリーズを通して、ドラマを生み出す起爆力となった。

    「映画が夢を語れたとき」、18頁

     このように親子の対立、「世代間の対立」を描くことは、「若者文化」に共通することである。

    批判

     ただし「若大将」シリーズで描かれている「対立」は、「若者文化」としては弱いと批判されることもある。

    ・もともと「若大将」シリーズはコミカルな作品であるから、そこで描かれる「対立」はそれほど深刻なものではない。

    ・はじめから、おばあちゃんが「自分の息子より、孫の方をひいきにしていて、若大将が親父と対立すると、いつでも味方をしてくれる」というように考えられていた。(「映画が夢を語れたとき」、18頁)

     脚本を担当した田波靖男は「若大将」の「絵に描いたように立派な人物像のゆえに、そのキャラクターは体制派が期待する、模範青年だったと揶揄する向きもあった」と語っている。(「映画が夢を語れたとき」、100頁)

     1965年正月に中教審が発表した「期待される人間像」と関係づけて批判されたともいう。

     田波靖男は「ムービーマガジン」1976年6号では次のように言っている。

    当時(今でもそうだが)批評家連中の好みの青年像は、ジェームス・ディーンや石原裕次郎に代表される反抗する若者であった。だから若大将のようなキャラクターは、青春映画の主人公としては、古くさく、むしろ反主流派だったのである。

    「ムービーマガジン」1976年6号、30~31頁

     若大将は、「ジェームス・ディーンや石原裕次郎に代表される反抗する若者」と比較されて、批判されたというのである。

    二つの類型

     青春ものの二つの類型を考えることができる。

     一つは、「ジェームス・ディーンや石原裕次郎に代表される反抗する若者」である。

     もう一つは、「若大将」のように、反抗を深刻にしない若者である。

     前者は1950年代に流行し、後者は1960年代に流行した。

     そのことはそれぞれの時代を現わしているかもしれない。

    楽しむ若者

     「若大将」シリーズは、生活を楽しむ若者を描いている。

     主人公の若大将は音楽を楽しみ、スポーツを楽しみ、恋愛を楽しみ、家族関係を楽しんでいる。

    加山雄三の個性

     「若大将」シリーズは、主人公の加山雄三に合わせて作られていた。

     プロデューサーの藤本真澄は脚本家の笠原良三と田波靖男に「加山の魅力を充分売り出せるような映画にしたいんだ」と言って、「今日は加山を呼んであるから、彼の話を聞いて、人物のイメージをつかんでくれ」と言ったという。(「映画が夢を語れたとき」、14~16頁)

     それゆえに、「若大将」シリーズの中にとりいれられた「若者文化」は、加山雄三という人物の個性によるところが大きいのである。

    性格

     「若大将」シリーズの脚本を担当した田波靖男は、「若大将」シリーズの主人公田沼雄一の性格について次のように語っている。

    青年らしい正義感、育ちのよい坊ちゃん気質、人の好い純情さ、スポーツマンライクなひたむきさ、自らの唄に酔うナルシズム、そして茶目っ気のある謀反気などが、主人公のかかえている性格として、彼の劇中における価値観や行動原理を支えることになった

    「ムービーマガジン」1976年6号、30頁

     このような主人公の性格は、加山雄三をもとにして作られたものである。

     そしてそのことによって「ジェームス・ディーンや石原裕次郎に代表される反抗する若者」とは異なる「若者」像になったのである。

    音楽

     「若大将」シリーズの主人公は、加山雄三をもとにして、ギターを弾いて歌を歌うものとされた。そしてそういうかたちで「若者文化」がとりいれられた。

     「エレキの若大将」では、ビートルズが流行している時に行われたエレキ合戦が描かれている。

     ところで加山雄三は、自ら歌を作る人でもあった。

     加山雄三は「若大将の履歴書」において、「僕が音楽面で影響を受けたのはエルビス・プレスリー、ベンチャーズ、ビートルズ」と語っている。(「若大将の履歴書」、116頁)
     そういう「若者文化」の影響を受けて歌を作る人であった。


    若大将の履歴書

     そういう加山雄三(弾厚作)の作曲した楽曲が、「ハワイの若大将」から「若大将」シリーズにとりいれられた。そしてその歌が大変に売れた。

     「若大将の履歴書」では、それまで「新人歌手は専属作家の作品を歌うことになっていた」が、「僕が自作自演の歌手としてレコードデビューし、成功したことは、歌謡界の慣習を打ち破るきっかけになったともいわれる」と語っている。(「若大将の履歴書」、101頁)


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    文化功労章

     令和三年、加山雄三は文化功労者に選ばれた。

    https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/2021/attach/1422025_00002.htm

    http://www.kayamayuzo.com/news/detail.php?id=1635154431

    https://www.fnn.jp/articles/-/264706

    歴史

    1930年代

     若大将シリーズは、1930年代の若旦那ものを時代に合うようにするという考えから始まっている。

     1933年の「大学の若旦那」。


    大学の若旦那 [VHS]

     1930年代の松竹の都会風コメディである。

    1980年代

    Photo by Clint Adair on Unsplash

     「若大将」シリーズはその後の時代に影響を与えている。

    私をスキーに連れてって

     1987年に公開された映画「私をスキーに連れてって」は1980年代を代表する作品であるが、「若大将」シリーズに影響を受けている。特に「アルプスの若大将」の影響を受けているようである。

     そのことは、「私をスキーに連れてって」のオーディオコメンタリーでも言われている。

     「私をスキーに連れてって」の馬場康夫監督は「若大将」シリーズのオーディオコメンタリーで「若大将」シリーズに対する思い入れを語っている。


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    共通するところ

     スキー場のようなリゾート地での若者の恋愛を軽く明るく描くところは共通している。

     いずれも、明るく楽しい生活を描いている。

     そういうことでは、「私をスキーに連れてって」の後に出来た「トレンディドラマ」もその系統にあるということができるかもしれない。

    異なるところ

     「私をスキーに連れてって」の主人公の性格は、「若大将」シリーズの主人公の性格と違う。

    ・「若大将」シリーズの主人公には、抜けたところもあるが、「理想的なヒーロー」であり、「スーパーマン」である。―正義感があって、その正義感によって人を助けることができるだけの腕力を持っている。女性にもてている。スポーツの能力は抜群、音楽の才能も抜群である。

    ・「私をスキーに連れてって」の主人公は、スキーの腕は優れているが、仕事は必ずしもうまくいっておらず、女性にもててもいない。

     このように主人公の性格が違うことは、それぞれの時代の違いを現わすことと思われる。

     また、「若大将」シリーズのオーディオコメンタリーで言われているように、後の時代では青大将の方がもてるのではないか、ということも、両者の違いをあらわすことと思われる。

    時代

     「私をスキーに連れてって」の脚本を担当した一色伸幸は、「私をスキーに連れてって」はその前の世代へのアンチテーゼとして作られたと語っている。

     「私をスキーに連れてって」の前には、「キレ」る「青春ドラマ」があった。「私をスキーに連れてって」の「いつも楽しんでいる」青春は、それに対するアンチテーゼであった。

     私の考えでは、1970年前後に「団塊の世代」の文化があった。「私をスキーに連れてって」に代表される1980年代の文化はそれに対するアンチテーゼであった。そしてそれは1960年代の「若大将」シリーズに影響を受けたものであった。

     1970年前後の「団塊の世代」の文化の前に、それと異なる「若大将」シリーズのような文化があったのである。

     1960年代の「若大将」シリーズもまた、田波靖男が言うように、1950年代の「若者文化」と対立するものとして批判されていた。

    訃報

    2021年

     2021年春に「若大将」シリーズ出演者の訃報が相次いだ。

    田中邦衛

     2021年4月2日、「若大将」シリーズで青大将を演じた田中邦衛さんが亡くなった。88歳であった。

    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210402/k10012953271000.html

     加山雄三さんはオフィシャルサイトにそのことについてのコメントを出している。

    http://www.kayamayuzo.com/news/detail.php?id=1617357399

     その中に「不思議なことに、2 日前若大将の DVD で邦さんの姿を見たばかりだったんだよ。」という言葉があって、田中邦衛さんに対する加山雄三さんの想いを知るとともに、私が「若大将」シリーズをDVDで観たのと同じ時に加山雄三さんが「若大将」シリーズをDVDで観ていたことを知って、ほっこりした。

    江原達怡

     2021年5月1日、「若大将」シリーズでマネージャー江口を演じてきた江原達怡さんが亡くなった。84歳であった。

    https://www.asahi.com/articles/ASP5D54Z3P5DULZU006.html

    寺内タケシ

     2021年6月18日、「エレキの若大将」に出演していた寺内タケシさんが亡くなった。82歳であった。

    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210619/k10013093571000.html

     加山雄三さんのメッセージ。

    http://www.kayamayuzo.com/news/detail.php?id=1624094694

     加山さんが言うように「また一人、若大将の仲間が亡くなってしまった。

    それ以前

    飯田蝶子

     主人公の祖母を演じた飯田蝶子さんは1972年12月26日に75歳で亡くなった。戦前の小津安二郎監督作品などで重要な役を演じた俳優であった。

    有島一郎

     主人公の父田沼久太郎を演じた有島一郎さんは1987年7月20日に71歳で亡くなった。

    星由里子

     ヒロインの澄子を演じた星由里子さんは2018年5月16日74歳で亡くなった。


    ハワイの若大将
  • 【考察】新海誠監督と「天気の子」と「セカイ系」

    【考察】新海誠監督と「天気の子」と「セカイ系」

     「天気の子」は「セカイ系」ということとの関係で論じられることがある。

     「セカイ系」とは何か? 「天気の子」はその「セカイ系」とどういう関係にあるのか?


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    新海誠監督の考え

     新海誠監督はインタビューにおいて、自ら「天気の子」と「セカイ系」ということとの関係について語っている↓

    https://kai-you.net/article/66490

     新海誠監督自ら語ることをもとにして考えてみよう。

    セカイ系の定義

    Photo by Daniil Silantev on Unsplash

     新海誠監督はインタビューで、2000年代初頭に「セカイ系」が「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」ものと言われたことをとりあげている。

     新海誠監督がそこで「僕も『ほしのこえ』などでそういう作品をつくってきました」と語っているように、2002年に公開された新海誠監督の作品「ほしのこえ」は、そういう作品であった。「ほしのこえ」は「セカイ系」の代表とされた作品であった。

    考察

    「セカイ系」のもと

     セカイ系という言葉の定義の代表的なものとして、波状言論臨時増刊号「美少女ゲームの臨界点」に収められた「美少女ゲームの起源」の注69が挙げられている。

    ★69 セカイ系 主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。代表作は『ほしのこえ』『最終兵器彼女』(高橋しん、小学館)『イリヤの空、UFOの夏』(秋山瑞人、電撃文庫)など。

    「美少女ゲームの臨界点」、波状言論、2004年、64頁

    美少女ゲームの臨界点 波状言論 臨時増刊号

     2000年代初頭に「セカイ系」は「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」ものと言われたと新海誠監督が言うのは、このような定義のことをさしていると思われる。

     ところで、この定義は「セカイ系」の代表とされている新海誠監督自身の「ほしのこえ」にあてはまらない。―「ほしのこえ」では「世界の危機」とか「この世の終わり」とかいうことは問題とならない。

     「セカイ系」の代表とされた「ほしのこえ」にあてはまらない定義では役に立たない。特に新海誠監督の作品を考えるのに役に立たない。

     「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」(ソフトバンク新書、2010年)において前島賢氏は、「セカイ系」という言葉を提唱したウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の管理人による定義に戻ることを主張している。


    セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

     「ぷるにえブックマーク」の管理人による定義では、「セカイ系」とは「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」であって、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向」があるものとされていた。(同書、28頁)

     「一人語りの激しい」作品とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいうことは、「ほしのこえ」にあてはまる。

     そのように考えると、新海誠監督の作品のもとにあることを理解することができる。

     新海誠監督は「ほしのこえ」の後に「世界の運命を変えてしまう」という作品をも作る。しかし「ほしのこえ」から一貫して、「一人語りの激しい」とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいう作品を作ってきたということができるのである。

     「小説 天気の子」で須賀が主人公に次のように言っているところは、まさにそのことに関わることである。

    若い奴は勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めててもそこにはなんにもねえの。大事なことはぜんぶ外側にあるの。自分を見ねえで人を見ろよ。どんだけ自分が特別だと思ってんだよ

    「小説 天気の子」、284~285頁

     主人公が「自分の内側」に「大事なこと」があると考えること。そのことが新海誠監督の「セカイ系」のもとにあると考えることができる。

    社会

     「セカイ系」において社会が存在しない、ということもそのことから考えることができる。

     作品に社会が存在するということ、社会が描かれているということは、「外側」が描かれているということである。

     「セカイ系」は主人公の「内側」に「大事なこと」はあるとするものである。主人公の「内側」に「世界」はあるとするものである。そしてそのために「外側」を描かないのである。

    「天気の子」の場合

     「天気の子」も、「ほしのこえ」と同じように「一人語りの激しい」とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいう作品である。

     「天気の子」のはじめの「これは僕と彼女だけが知っている世界の秘密についての物語だ」というのはまさにそのことをあらわすものである。「秘密」という「内側」のことであるが、「世界の秘密」とされる。

     小説版で須賀が言うように、「天気の子」の主人公は「自分の内側」に「大事なこと」はあると考えて「だらだら眺め」ている。

     「天気の子」においては、ヒロインが犠牲になったという夢を信じて、それに対してヒロインを取り戻して「世界の形」を変えた、という主人公の「内側」のことが主題となっている。

    設定

    Photo by Athena from Pexels

     前島賢氏は、「セカイ系」において排除されているのは「社会や中間領域ではない」と言い、「これらの作品で排除されたのは「 世界設定」なのである」と語っている。(「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、101頁)

     新海誠監督の「ほしのこえ」は、「トップをねらえ!」と似ていると言われるが、前島賢氏は、設定に関して違うと言う。

    『トップをねらえ!』がまるで、それ自体が自己目的化したように、膨大な設定や引用、科学的考証を積み重ねた上で、物語を展開しているのに対し、『ほしのこえ』は「ふたりの遠距離恋愛」という主題のためだけに、ありとあらゆる要素が配置され、それ以外は潔く排除されているのである。

    「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、91~92頁

    設定の歴史

     前島賢氏は「セカイ系」において「世界設定」が排除されたことについて次のように歴史的に説明している。

     「新世紀エヴァンゲリオン」は、設定に関して画期的な作品であったという。

     「新世紀エヴァンゲリオン」の前半は、「世界設定」の謎が提示されて、解き明かされていく作品と思われた。

     ところが終盤、登場人物の「内面のみが描かれ」、「世界設定」は「一切、明かされないまま終わる」。

     そのことによって、前の世代のオタクには「欠落」のある作品と思われた。

     しかしその後に「新世紀エヴァンゲリオン」の後半のように、「内面のみが描かれ」、「世界設定」が明かされない作品が流行した。後の世代にはそういう作品が流行したのである。そしてそういう作品が「セカイ系」とよばれた、という。(「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、106~107頁)

     前島賢氏は、「新世紀エヴァンゲリオン」の前半まではオタクの間で流行していた、岡田斗司夫氏の「暗号を読み解く態度」とか大塚英志氏の「物語消費」とかいう「作品需要の態度」は「極めて奇形化していた」ものであって、それに対して「ほしのこえ」などは「素朴な物語への回帰」であったが、「かえって奇異なものとして捉えられた」という。(同書、109頁)

     そして「オタクたちの文化が「物語消費」から「データベース消費」に移行した」という東浩紀氏の分析をとりあげて、「『エヴァ』以前の作品=物語消費が、一個の作品の世界観をもとに、それらと整合性を保った上で一個の物語を作ろうとしていた(中略)のに対し、データベース消費においては、すべての作品が瞬時に要素要素に解体され、別の作品として出力されてくる」として、「ほしのこえ」をその代表として挙げている。(同書、110頁)

    設定と社会

     私の考えは前島賢氏の考えと違う。

     私は作品の「世界設定」ということを、社会との関係で考える。

     作品の「世界設定」が作り込まれているということは、他者が作り込まれているということだと考えるのである。他者も主人公と同じように尊重されるということだと考えるのである。他者も主人公と同じように尊重されるということは、社会が描かれているということである。

     たとえば「機動戦士ガンダム」は設定が作り込まれた作品であるが、そのことは他者も主人公と同じように尊重されることと関係があると考えるのである。

     それに対して「新世紀エヴァンゲリオン」の後半で、「世界設定」が明かされず、登場人物の「内面」だけが描かれたことは、他者が主人公と同じように尊重されていないことだということができる。

     「新世紀エヴァンゲリオン」の後半の影響を受けた「セカイ系」においても、主人公の「内面」を重んじて、その「外側」にいる他者を重んじないゆえに「世界設定」も作り込まれないということができる。

     このように考えると、前島賢氏がそれまでの「作品需要の態度」は「極めて奇形化していた」ものであって、それに対して「ほしのこえ」などは「素朴な物語への回帰」であったというのと逆に、「ほしのこえ」などの「セカイ系」の作品は、他者を尊重せず、「世界設定」を作り込まないという一種の「奇形化」した作品だということができる。

    「天気の子」の場合

     「天気の子」の場合、「晴れ女」をめぐる設定が作り込まれていないところが代表的である。

     そのことは下の記事で指摘した↓

     上の記事で指摘した様々な「つっこみどころ」は、「天気の子」が社会を軽んじ、設定を軽んじていることから出て来ているということもできる。

     「天気の子」は「内側」を重んじて社会を軽んずる。それゆえに、主人公を取り囲む人々も、その観点からゆがんだかたちで描かれる。ヒロインもそうである。主人公も、その過去が描かれないように、ゆがんだかたちで描かれる。

    「天気の子」で描かれた「社会」

     「天気の子」には、それまでの新海誠監督の作品とは異なることがあるとは、新海誠監督自ら語るところである。

     「天気の子」では社会が描かれていると新海誠監督は自ら語っている。

    主人公と「社会」の対立

     第一に、主人公と対立するものとして「社会」は描かれているという。

    僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。

    新海誠『天気の子』インタビュー後編 ”運命”への価値観「どこかに別の自分がいるような」

     「デフォルメされたものであったとしても「警察」がずっと出て来る」ということはそのことと関係あることであろう。

     新海誠監督は「天気の子」で主人公と社会の対立を描いた理由を聞かれて、「『君の名は。』がすごく批判を受けた」ことを挙げている。そこで「全く僕が思っていたことと違う届き方をしてしまう」と思ったという。そして「むしろ「もっと叱られる映画にしたい」」、「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」と思ったという。

    https://news.yahoo.co.jp/feature/1389

     どういうことであろうか?

     「君の名は。」は、「内側」に「大事なこと」はあるという「セカイ系」の作品であった。そしてそのために批判を受けた。

     そこで新海誠監督は、「天気の子」の中に「内側」に「大事なこと」はあるという主人公と、そういう主人公を批判する「大人」と、その両者を出して、対立するところを描いた。

     「小説 天気の子」で須賀が「大事なことはぜんぶ外側にある」というのは、「内側」に「大事なこと」はあるという「セカイ系」と対立することである。ただし須賀自身は両者の中間にある存在である。主人公と対立するのは「警察」である。

     「セカイ系」と対立するものが作品の中に取り入れられたということでは、これまでの「セカイ系」と違うということができるが、それにもかかわらず「セカイ系」を貫いたということもできる。

     また「主人公たちは「お天気ビジネス」を通して様々な人と出会い、働いてお金を得ようとする」ということでも「社会」は描かれているという。

    時代の変化

     「天気の子」で「社会」が描かれていることは、時代の変化と関係があると新海誠監督はいう。

     新海誠監督は自身の「ほしのこえ」などの作品に「社会」が存在しないことについて、「2000年代初頭は「社会」の存在感が薄い時期で、それを意識する必要がなかったからだと思う」と語っている。

     「リーマンショックや3.11よりも以前」には「このまま終わりなき日常が続く」という気分が「みんなの中にあったと思う」というのである。そういう「空気感」があったというのである。

     ところが「リーマンショックや3.11」以後に「僕がどうこうというよりもみんなにとって「かつてのように社会が無条件に存在し続けると思えなくなってきている」「社会そのものが危うくなってきている」という感覚がある」ゆえに、「天気の子」では「社会」が描かれるようになったというのである。

     「社会」が問題として感じられるようになってきたということには二つあるようである。

    不自由

     一つは「世の中がだんだん不自由になってきている感覚」である。これは上でとりあげた「セカイ系」と対立するものと関係があるのではないか。

    天候の変化

     もう一つは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」という感じである。「猛暑が続いたりゲリラ豪雨が当たり前になったりする」ことである。

     これに対しては「そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました。」と新海誠監督は語っている。

     ただし「「最悪の開き直り」「最悪の現状肯定」のように思われる危険がある映画だというのは思っていました」とも言っている。


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  • 【考察】「いちご100%」の終盤 作者の意図についての考察

    【考察】「いちご100%」の終盤 作者の意図についての考察

     「いちご100%」という漫画は2002年から2005年にかけて「週刊少年ジャンプ」で連載されていた作品である。

     私はその連載が終わってから十年以上たった時に読んだ。そのことは下の記事に書いた↓

     上の記事でも書いたように、「いちご100%」という作品は、私の心に刻まれた作品である。何よりもその終盤の流れによって心に刻まれた。

     その「いちご100%」の終盤について考えてみようと思う。

    衝撃

    Photo by Timo Volz on Unsplash

     私が衝撃を受けたのは、東城につきあっている男がいるのではないかという話から、真中が西野に好きだと言ってキスをするまでの流れである。第142話の終わりから第145話までである。

     「いちご100%」のタイトル表参照↓

    流れ

     その流れは次の通り。

     真中が教室に来ると、東城が文化祭のイベントに天地、真中以外の男と参加するということについて天地が問いただしていた。

     天地はそこに来た真中を外に連れて行って、二人はふられたという。

     真中は部室で東城にそのことをたしかめようとした。ところが東城は濡れた服を脱いでいるところであったので、真中から逃げるかたちになった。

     真中が窓の外を見ると、ちょうど東城が見知らぬ男の胸にとびこむところであった。実はその男はたまたま来ていた東城の弟であった。しかし真中には「東城が選んだ男」に見えて、衝撃を受けた。

     真中はそのことが気になって、東城が来ていると思われる塾に行った。ところが東城はまだ来ていなかった。そこで真中は模試の順位が「塾内ビリ」と聞いてまた衝撃を受けた。

     真中が思わず西野のアルバイト先まで歩いてくると、たまたま出て来た西野と出会った。

     西野との帰り道で真中は自分は西野に似合わないダメな人間だと言った。それに対して西野は「甘えてよ」と言った。そこで真中は西野を抱きしめた。そして西野に「好きだ」と言って、公園のベンチでキスをした。

    決着

     上の流れで真中は西野を選んだ。

     ここで真中が西野を選ぶことは、この「いちご100%」という作品の決着をつけることである。それだけ重要なことである。

     しかし上の流れは納得しがたい。

    決断

     第一に、真中が西野を選ぶという決断は、理性的、主体的なものではない。

     真中が西野を選ぶという決断は、真中が東城のことと勉強のことでへこんでいる時に、西野に「好き」と言われ、「甘えてよ」と言われたことによるものである。言わば、病理的、受動的な決断である。

     真中自ら次のように言っている。

    こんなに頭の中
    ぐちゃぐちゃの状態で
    西野に会っちゃ
    ダメだったんだ

    JC17巻、23頁

     真中自ら「西野に会っちゃ/ダメ」と思うような「頭の中/ぐちゃぐちゃの状態」であった。

     そういう状態で決着をつけたのであるから、納得できないのである。

    比較

     第二に、他の選択肢との比較が十分になされていない。

     真中が西野を選んだということは、東城、北大路、向井などを選ばなかったということである。ところが真中は西野を東城、北大路、向井などと十分に比較した上で西野を選んだのではない。

     それどころか、真中は東城が他の男を選んだと誤解してへこんでいる時に西野を選んでいる。比較のために重大な欠陥がある状態で西野を選んでいるのである。

     十分に比較した上で選んだのでなくては納得できない。

    作者の言葉

     作者はそのことに関して、JC19巻の巻末に次のように書いている。

    お互い好きあってても事情やタイミングなんかで
    一緒になれなかったりする、
    そういった恋の不条理な部分ってあるじゃないですか。

    「いちご100%」JC19巻、176頁

     真中が西野を選ぶ流れは、作者自ら語るように「お互い好きあってても事情やタイミングなんかで/一緒になれなかったりする」かたちになっている。

     一般論として「お互い好きあってても事情やタイミングなんかで/一緒になれなかったりする」という恋愛物語がいけないとは私は思わない。

     しかし「いちご100%」のような作品でそういうかたちで決着をつけることは、どうかと思う。

     「いちご100%」は、それまで3年の連載、140話、JC16巻をかけて、主人公が複数の女性にとりかこまれて、その中から一人を選ぶことができないという話を繰り返してきた作品である。

     それだけ長い間、時間の制約なしに、主人公は複数の女性と関係してきたのである。

     そういう作品が「事情やタイミング」によって―時間の制約によって―決着がつけられるても、納得できない。

    細かいところ

     細かいところが色々と気になる。

    天地

     まず、天地がおかしい。

     天地は、東城が文化祭のイベントに天地、真中以外の男性と参加すると聞いただけで、東城にふられたと思い込んでいる。

     しかし東城が文化祭のイベントに天地、真中以外の男性と参加するということだけでは、東城に天地、真中以外につきあっている男がいるということの証拠にならない。東城自身、つきあっているのではないと言っている。

     天地は東城とつきあうためにそれまで周りにいた多くの女性との関係を捨てた人である。それだけ東城にかけていた人である。
     東城が他の男とつきあっているかどうかということについては、確かな証拠をつかむまで追及しなくてはならないのではないか?
     そもそも天地は、東城にとって真中が重要な存在であることを知った上で東城に迫っていた。そういう人が、東城が他の男とつきあっているかもしれないという疑惑だけで、確かな証拠もないのに、ふられたと思い込んで落ち込むであろうか?

     天地は東城にふられたと思い込んだ時に、真中を連れて教室の外に出て行っているが、何のためにそうしたのか、理解できない。
     天地の行動としては理解できないが、作者が、真中が東城に直接話を聞く機会を奪ったとすると、理解できる。

    真中と東城

     そもそも東城につきあっている男がいるかどうかということは、真中と東城が二人で少し話せば容易に明らかになることである。

     東城は、天地とのやりとりを真中に聞かれたと気づいた時に、困った表情をしている。真中に説明しなくてはならないと考えたのではないかと思われる。
     真中は天地のようにそのことを信じておらず、それから東城に聞こうとしている。

     ところが真中と東城がそのことについて直接話すことは妨げられる。―真中は天地によって教室の外に連れ出される。部室で二人きりになった時には、東城が下着のことで真中から離れている。

     そして東城につきあっている男がいるのではないかと真中に思わせるようなことが続く。―東城は真中から離れた。そして見知らぬ男の胸に飛び込んだ。

     このように、なくてもいいことによって、二人が話し合うことができなくなっているところは、作者がわざとそうしたと思われる。

    その後

    Michael SchwarzenbergerによるPixabayからの画像

     上に書いたように、決着がついたのは第145話である。

     ところが最終話は第167話である。「いちご100%」は、決着がついた後に長く続いているのである。ジャンプコミックスでいうと、17巻のはじめに決着がついたが、最終話は19巻である。

     私が初めて読んだ時には、決着がついた流れに衝撃を受けたまま最終話まで読んだ。それゆえにその後に描かれたことについて特に考えることはなかった。

     今度読み返して、その後のことについて理解できたところがあったので、そのことについて書いてみよう。

     タイトル表参照↓

    北大路

     まず真中が西野に告白してキスをした次の日に、北大路に西野とまたつきあい始めたということを告げるという話がある。(第146話から第147話にかけて)

    東城に告げる

     その次に、真中が東城に、西野とまたつきあっているということを告げるという話がある。(第149話)

     ただし東城の場合は、北大路の場合より複雑な話になっている。

     次のように美鈴が関わっている。

    「今は秘密に」

     第147話で、真中がまた西野とつきあうことにしたと映研のメンバーが知った時に、美鈴は「今はまだ/東城先輩には/秘密に―」と言っている。(JC17巻79頁)

    「あのセリフ」

     第149話で、文化祭の前日に、美鈴は真中と東城の「主演のお二人の/ための試写会」を開催している。そして東城に「先輩!/勇気出して/もう一度映画の/あのセリフ…」と言い(同、118頁)、一人で「映画のヒロインの/セリフそのまま/言えばそれで…」と独白している。(同、125頁)

     そこで真中は東城に、また西野とつきあっていると言った。それを聞いて東城は涙を流した。

    責める

     第150話、文化祭当日に美鈴は真中に対して真中の鈍さに怒っていると言い、「東城先輩は/真中先輩のこと/好きなんですよ」という。

    美鈴の言動について

     以上の美鈴の言動はおかしい。

    秘密

     真中が西野とつきあい始めたことを美鈴が東城に知らせないようにしたことは、おかしい。

     東城のためを思ってのことのようでもあるが、そのことによって東城はその間、真中が西野とつきあい始めたことを踏まえた上での行動をとることができなくなっている。

    試写会

     真中が誰ともつきあっていない時であれば、「映画のヒロインの/セリフそのまま/言えばそれで…」と考えても問題はない。

     しかしこの場合には、真中はすでに西野とつきあっている。すでに西野を選んでしまっている。そういう状況では「映画のヒロインの/セリフそのまま/言えばそれで…」ということにはならない。

     東城と真中が結ばれるためには、真中がすでに西野を選んでしまっている状況を踏まえた上で、どうすべきかを考えなくてはならない。

     結果はどうであっても、東城に告白させるということであるならばそれでいいが、それでは東城のためにならない。

    責める

     西野とつきあっている真中に対して、東城の気持ちがわからない真中の鈍さを責めることは、おかしい。

    考察

     作者は何故にこういう話を作ったのか?

     真中が西野とつきあっていることを東城に告げることは、北大路に告げることと同じく、決着をつけた後を片づけることである。しかし東城の場合は、北大路の場合と違うものになっている。

     以下、推測。

     東城の真中に対する想いは大きく、重い。それを西野に対して巻き返す方向に向かわせるのではなく、他の方向に(後に述べる方向に)向かわせることを作者は考えた。そのために東城は、もはや巻き返すことができないほど遅れた状況に置かれた。

     美鈴によって秘密にされたこともそのためであった。天地の誤解とか、下着のこととか、その他のことによって真中に誤解されたこともそのためであった。

     そのことによって東城は、すでに真中が西野とつきあってしまって、巻き返すことが難しくなった後に、そのことを聞くことになった。

     悲劇のヒロインとして描かれることになった。

     高3の文化祭で公開する映画は、それまでの真中と東城のやってきたことの集大成という意味があるゆえに、その試写会で、真中が西野とつきあっていると東城がはじめて聞かされることは、悲劇的になる。

    文化祭

     文化祭の当日にまた劇的な場面がある。

    流れ

     文化祭で西野と歩いていた真中は、見知らぬ男と一緒に歩いていた東城と出会う。その見知らぬ男は東城の弟だとわかって真中はホッとした。

     西野は真中のそういう表情を見て、帰って行った。(第151話)

     高3の文化祭は、真中にとっても、東城にとっても、部活の最後の日である。真中も東城も、それまで高校1年から部活でやってきたことを思い返して、互いに会いたいと思った。(第152話)

     真中が一人でいる部室に来た東城は、ドア越しに真中に告白した。それに対して真中は土下座して、「今は西野を/大切にして/いきたいんだ」と言った。(第153話)

     真中はそのまま西野の家に行って、西野を抱いた。(第154話)

    考察

     ここで遅ればせながら東城の真中に対する告白がある。

     前にも言ったように、東城の真中に対する想いは大きく、重い。真中が東城を選ばないとしても、東城がその想いを真中に伝えるところがなくてはならない。
     しかし作者はそのことによって話をひっくり返すつもりもなかった。

     そのために遅れた時に告白することにしたのではないか。

     ここで東城が告白して、それを受けて真中がことわったことによって、女性側の意思表示が出そろった上で、それに対して真中がその女性の中から一人を選ぶというかたちができた。

     外的な状況によって東城の告白が遅れたことを考えると公平とは言えないが、恋愛物語としての決着がついたかたちになっている。

     恋愛の決着が一応ついた後に、真中、東城、二人の夢の話になる。

    流れ

     「文化祭が/終わって」「「楽しい高校生活」も/もうおしまい」で、「地獄の/受験モード/突入」となった。(第155話。JC18巻48頁)

     そういう時に、真中のところに映像コンクールの審査員が来て、コンクールに出した真中の映画がよかったと言って、真中にチャンスを与えた。

     同じ時に東城は文学賞を受賞して、次の作品をもとめられていた。

     二人は屋上で出会ってそのことについて言い合った。そしてそれぞれ「自分一人だけの力」でやっていこうとした。(第156話)

     ところが東城は、真中なしでは小説が書けない。

     真中は、それまで東城が担当していた脚本部分のレベルが低いと批評された。(第157話)

     道で出会った二人は、互いにそのことを打ち明け合った。そして互いに力を合わせることになった。(第158話~第159話)

    考察

     「いちご100%」という作品では、主人公の恋愛をめぐる話と同時に主人公の夢をめぐる話が描かれてきた。

     ここでは、主人公の恋愛をめぐる話の決着がついた後に、夢をめぐる話が描かれている。

     真中が東城と結ばれる場合、主人公の恋愛と主人公の夢とは一つになる。

     真中が西野と結ばれると、主人公の恋愛と主人公の夢とは分れる。

     作者はそのことを次のように描いている。

     真中、東城はそれぞれの夢のためのチャンスを与えられて、その夢に向かう。
     二人は恋愛に関して別れているので、夢に関してもそれぞれ「自分一人だけの力」でやろうとした。
     しかし二人とも互いに相手の力が必要だと考えるようになった。
     そこで、恋愛と別に、夢に関して二人が力を合わせることになった。

     もともと恋愛と夢とは一つであった。真中が西野を選んだ結果、両者は分かれることになった。そこで恋愛と別に、夢に関して二人が力を合わせるというかたちで、夢を生かすようにしたようである。

     ただし東城にはまだ恋愛感情が残っていた。そのことが次の話につながる。

    前進

     東城に残っていた恋愛感情にけりをつける。

    流れ

     大学受験直前に落ち込んでいる真中のために、南戸が東城を家庭教師としてよんできた。家庭教師の途中で、真中が眠りに落ちた。そこで東城は眠っている真中にキスをした。(第161話)

     東城が真中にキスをした後に、まだ目が覚めていなかった真中が東城と抱き合うかたちになった。それを見た南戸は、真中の受験の前日に、西野とつきあっているのに二股をかけてそういうことをしていることを責めた。(第162話)

     受験から帰ってきて、真中は待っていた西野をおいて、東城に家庭教師の時のことを聞いた。東城は自分からキスをしたと言った。これで「やっと/前に進める気が/する」と言った。そして東城は去って行った。真中は後を追わなかった。(第163話)

    考察

     東城の独白、真中に対するセリフをたどっていくと、上の流れで東城が真中に対する恋愛感情にけりをつけていったことがわかる。

     東城は家庭教師に来て「あとちょっとで/二人きりの時間も/終わりね…」と独白しているように、その家庭教師の仕事を最後の「二人きりの時間」と考えていたようである。

     東城が眠っている真中にキスをしたことも、「それ以上/もう何も/望まないから」というように恋愛感情にけりをつけるつもりでしたようである。
     「初めての/人は/真中くんが/いい」というように「初めての人」にすることだけが目的だったようである。
     真中の受験の後に公園で真中に言ったように、そのことによって東城は「前に進める」ようになったようである。

    気になるところ

     しかし色々と気になるところはある。

    東城

     東城は自分の気持ちに整理をつけた。そのことは東城にとっていいことであったようである。

     しかしそのことは真中に対しても西野に対しても悪い行為である。真中に対しては、その行為そのものだけでなく、その行為が真中の大学受験に影響を与えたという意味でも悪い行為である。

     ところが東城はそのことについて十分に謝罪していないようである。真中に対して「勝手なことして/怒ってたら/ごめんなさい…」と言うだけである。

    南戸

     南戸が真中の受験前日に、真中の受験を失敗させるつもりで真中を責めているところはモヤモヤする。

     真中のこれまでしてきたことについて、大学受験を失敗するくらいの罰が当たってしかるべきだ、という多くの読者の気持ちにこたえているということができるかもしれない。

     しかし南戸が責めていることに関しては、真中はそれほど悪くない。大学受験の後に謝罪している通りである。

     また南戸自身、真中が西野とつきあっていることを知っていながら、真中を東城と二人きりにしたことは、「二股」のためにはたらいたということができるのではないか?

    西野

     真中は受験が終わって帰って来て、待っていた西野にほとんど説明せずに、東城と話しに行っている。

     東城との話をすますまでは、西野と話すことができないということかもしれないが、そうだとしてももう少し西野が傷つかないようにすることはできたのではないか?

    白紙

     「いちご100%」の終わり。

    流れ

     真中は東城と別れた後、西野に対して「俺たちの関係/…白紙に/戻せないかな」と言った。
     真中は東城の小説を読んで、「真剣に映画の道/目指したい」と考えた。そのために西野に「甘えっぱなし」ではいけないと考えたというのである。

     西野は真中の申し出を受け入れて、フランスに留学に行った。(第165話)

     真中、東城も高校を卒業する。(第166話)

     そして時が経って、小説家の東城と、賞をとった真中とが出会って、東城の小説を映画化する話をする。
     真中は、フランスから帰ってきた西野とまた関係を再開する。

    考察

     「いちご100%」という作品には、恋愛と夢という二つの軸があった。

     真中と東城が結ばれる場合には、その二つはそのまま一つになる。

     真中と西野が結ばれるとすると、その二つは分かれる。
     そこで恋愛は西野と、夢は東城と、と分けられた。
     東城にはなおも真中に対する恋愛感情が、片づけることができた。
     真中は東城の小説を読んで真剣に映画の道に進むことを考えた。そして西野に対して甘えずに成長するために「白紙」にすることをもとめた。

     「いちご100%」にもともとあった夢にまつわる成長の主題が、ここでは西野との恋愛関係に持ち込まれて生かされているようである。

    終わりに

     「いちご100%」の終盤を通してみると、作者は長い見通しをもって、描くべきことを考えて描いたと思われる。

     しかしまた「いちご100%」の終盤には、真中が西野を選んだ決断をはじめとして、おかしいところが多い。

  • 「いちご100%」タイトル表

    「いちご100%」タイトル表

     漫画「いちご100%」の各話のタイトル、掲載された「週刊少年ジャンプ」、収録された「ジャンプコミックス」を表にしてまとめた。

    タイトル表

     話の主要人物によって色を付けた。

     

    話数 タイトル 備考 「週刊少年ジャンプ」 ジャンプコミックス
    第1話 いちご注意報

    美少女との出会い。東城との出会い。

    西野に告白して、交際開始。

    2002年12号

    表紙「新連載」

    いちご注意報
    いちご100% モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    表紙<東城、西野>

    (2002年8月7日)

    第2話 そういうつもり?

    真中は西野とともに泉坂高校を目指す。

    東城が勉強を見ると言ってくる。

    13号
    第3話 教えてあげる   14号
    第4話 電話できないッ   15号
    第5話 Girl Meets Girl   16号
    第6話 鳥のように真中   17号
    第7話 密室ヘブンorヘル   18号
    第8話 早朝恋愛勉強会  

    19号

    表紙「NISHINO TOJO」

    第9話 いきなりON THE BED   20号

    幻の美少女再び
    いちご100% モノクロ版 2 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <東城>

    (2002年10月9日)

    第10話 暴走特急真中号 夜、西野家で二人きり。 21号
    第11話 せいいっぱいの決意   22・23合併号
    第12話 すれ違う想い 泉坂高校入試 24号
    第13話 幻の美少女再び 25号
    第14話 東城×東城=さらに東城 26号
    第15話 それでもいい   27号
    第16話 ふたりのESCAPE   28号
    第17話 つかさSTYLE

    合格発表。

    西野は桜海学園へいくという。

    北大路登場。

    29号
    第18話 思い出ください 中学卒業。 30号

    運命のクランク・イン⁉
    いちご100% モノクロ版 3 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <西野>

    (2003年1月11日)

    第19話 運命のクランクイン⁉ 散歩中に北大路と出会う。 31号
    第20話 恋の花咲くダイビングヘッド 高校で北大路と出会う。 32号
    第21話 真中以上の男   33号
    第22話 体育館倉庫の乱   34号
    第23話 決めちゃえよ 大草に「決めちゃえよ北大路に」と言われる。 35号
    第24話 好きで悪いか⁉   36号
    第25話 走る女・迷う男   37・38合併号
    第26話 再会 西野が泉坂高校に来る。 39号
    第27話 夢への第一歩 東城にビデオを見せられる。 40号

    キスしてほしい
    いちご100% モノクロ版 4 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <北大路>

    (2003年4月9日)

    赤マルジャンプ・2002年春号、2003年冬号掲載分収録

    第28話 東城 IN MY ROOM   41号
    第29話 真中包囲網   42号
    第30話 嵐を呼ぶ撮影合宿

    高1の合宿。北大路が主演女優。夜中に北大路は真中に…。

    真中と東城、海辺を歩く。

    43号
    第31話 さつき沸騰中 44号
    第32話 キスしてほしい 45号
    第33話 CRYING IN THE RAIN 46号
    第34話 つかさの悩み 「さつき、西野、東城…俺は一体誰とどうすればいいんだろう―」 47号
    第35話 打ち明けられた想い 大草に北大路が似合うと言われる。シャーペンも北大路に倒れる。 48号
    第36話 秘密の出来事 部室で東城と唇が触れる。 49号

    思い出の女
    いちご100% モノクロ版 5 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <南戸>

    (2003年6月9日)

    第37話 嵐の如き文化祭

    文化祭。

    北大路とキス。

    50号
    第38話 キスの余韻 北大路のアルバイト先で真中もアルバイト。 51号
    第39話 だから今夜こそ

    西野の家に招かれて気持ちを聞かれて「サヨナラ」と言われる。

    南戸登場。

    52号
    第40話 思い出の女 家に帰ると布団に南戸が寝ていた。 2003年1号
    第41話 一緒に入る⁉ 2号
    第42話 星降る夜⁉ クリスマスイブにアルバイト。北大路が来てプレゼント。 3・4合併号
    第43話 教えてお願い 東城が南戸の家庭教師として真中の家に来る。東城はそこで真中と西野が別れたと知る。 5号
    第44話 南北戦争勃発⁉ 南戸、北大路に抗議。 6・7合併号
    第45話 また会える 東南北とかくれんぼ。南戸が帰るのを駅で見送る。 8号

    天使再臨
    いちご100% モノクロ版 6 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <東西北、真中>

    (2003年8月9日)

    赤マルジャンプ2003年春号掲載分収録

    第46話 これぞ運命⁉ 天地登場、東城に惚れる。 9号
    第47話 アクシデントが止まらないッ 真中、天地に対抗する。 10号
    第48話 2月14日 東城からチョコレートをもらう。北大路はゴミ箱に捨てる。西野は部屋の前に置いていく。 11号
    第49話 天使再臨 南戸、桜海学園の入試のため真中の家に来る。そして西野と出会う。 12号
    第50話 予感 真中、部室で東城を抱きしめる。 13号
    第51話 さつき反撃 北大路、放課後の部室で真中に…。 14号
    第52話 放課後プラクティス 15号
    第53話 放さない

    真中、部室で東城を抱きしめる。

    夜の道で西野と再会。

    16号
    第54話 DASH 淳平 17号

    SWEET LITTLE SISTER
    いちご100% モノクロ版 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (2003年10月8日)

    第55話 接点 18号
    第56話 映画館の女 東城とデートで映画館に行く。そこで美鈴と出会う。 19号
    第57話 SWEET LITTLE SISTER

    高校2年、東城と別のクラスになる。

    映研に美鈴がくる。

    20号
    第58話 新入部員参上

    美鈴入部。

    風邪を引いた南戸のために女子校桜海学園にノートを返しに行く。

    そこで西野と出会う。

    21号
    第59話 救世主アゲイン 22・23合併号
    第60話 君を守りたい 24号
    第61話 涙のテアトル泉坂

    「今の方が/つきあってた頃より/西野のこと/考えてる―」「ちがうよ!/東城じゃな…」

    映画館でアルバイトを始める。

    25号
    第62話 最後の一枚 5月3日、北大路に誕生日プレゼント。 26号
    第63話 揺れてBIRTHDAY 北大路、東城から誕生日プレゼント。 27号

    温めあう?
    いちご100% モノクロ版 8 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (2003年12月9日)

    第64話 運命の扉

    アルバイト先の映画館で西野と出会う。西野のアルバイト先も近くてよく会うようになる。

    東城は「文芸星屑」の審査員特別賞に選ばれる。

    映研の映画のヒロインは西野になる。

    28号
    第65話 自分を信じて 29号
    第66話 オールOK 30号
    第67話 もうひとつの合宿 真中、東城は合宿に行く途中、山小屋に。 31号
    第68話 温めあう? 32号
    第69話 ドキッとした?

    高2の合宿

    西野が主演女優。

    西野と肝試し。

    33号

    表紙「ハジけなきゃ!トロピカルSUMMER

    第70話 恋人たちの伝説 34号
    第71話 迎えにきて 南戸唯から「たすけて」という手紙。田舎の南戸家へ行く。 35号
    第72話 最後の夜 36号

    迷える子羊と拾う神
    いちご100% モノクロ版 9 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <東西南北>

    (2004年3月9日)

    第73話 唯の味方 37・38合併号
    第74話 水着で個人指導 西野とプールに行って泳ぎを教えてもらう。 39号
    第75話 誰よりも甘い男 西野の部屋で、日暮と出会う。 40号
    第76話 迷える子羊と拾う神 41号
    第77話 抱擁 西野が抱き着いてくる。 42号
    第78話 誕生日アゲイン

    西野の誕生会が北大路、東城の約束と重なって、一緒に会うことになった。

    地震で火が広がる中、西野と二人になる。

    その後、西野と夜の中学校に行く。保健室。

    43号
    第79話 BIRTHDAY PANIC 44号
    第80話 思い出の校舎で 45号
    第81話 WONDERFUL TONIGHT 47号

    10

    抱いてワンダーワールド
    いちご100% モノクロ版 10 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <東城>

    (2004年5月5日)

    第82話 文化祭パニック 高2の文化祭。端本。 48号
    第83話 第4の天使 49号
    第84話 ちなみFEVER 50号
    第85話 急・転・直・下 屋上で東城と。 51号
    第86話 湯けむりの向こう側へ

    修学旅行。

    夜の浴場で北大路と。

    清水寺で東城と。

    そして西野。

    52号
    第87話 恋愛交差点 2004年1号
    第88話 ただ君に会いたい 2号
    第89話 抱いてアンダーワールド 3号
    第90話 サンタクロースがいっぱい   4・5合併号

    11

    届く気持ち 届かぬ気持ち
    いちご100% モノクロ版 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <西野>

    (2004年7月7日)

    第91話 触ってみる? 東城の家でいとこの遥と出会う。 6・7合併号
    第92話 ナンバー1 大学入試の話が出る。東城に誕生日プレゼントを渡す。 8号
    第93話 さつきタイムリミット 北大路が転校するという話。 9号
    第94話 届く気持ち 届かぬ気持ち バレンタイン。端本、北大路、東城、南戸からそれぞれチョコレートをもらう。 10号
    第95話 SWEET GIRL BITTER LOVE 夜、家の近くの公園で西野と。

    11号

    表紙「届けますバレンタインスペシャルポスター

    第96話 恋愛射程距離 12号
    第97話 遅れて来た女 外村と合コン。そこに南戸が来る。西野が来る。 13号
    第98話 このままずっと

    大草の提案で、南戸、西野とダブルデート。

    14号
    第99話 放さないで 15号

    12

    妄想少女
    いちご100% モノクロ版 12 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <北大路>

    (2004年9月8日)

    第100話 走り出した運命 東城を追いかけて行くと、塾に着いた。向井登場。 16号
    第101話 ここは別世界 西野に贈る下着を買いに行く話。 17号
    第102話 妄想少女 塾で向井と親しくなる。 18号
    第103話 SMILE FOR ME 19号
    第104話 純情シネマ交差点 真中と向井を北大路が追いかける。東城はそれを後ろから見ている。 20号
    第105話 追いかけてトゥナイト 21号
    第106話 UNDER THE MOONLIGHT 22・23合併号
    第107話 目覚ましGIRL 突然西野が来て海のデートに誘ってくれる。 24号
    第108話 天地覚醒 天地が東城一筋になる。 25号

    13

    あの娘のスキャンダル
    いちご100% モノクロ版 13 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <南戸>

    (2004年11月9日)

    第109話 二つの予言   26号
    第110話 恋の共同戦線 向井と真中をくっつけるという話に東城も協力を求められる。 27号
    第111話 SLEEPLESS NIGHT 28号
    第112話 寝顔GIVE&TAKE 家に帰るとベッドに西野が寝ていた。 29号
    第113話 DISTANT VOICES 東城、眼鏡をかけて塾に行く。 30号
    第114話 誓いの言葉 北大路、友達宣言。 31号
    第115話 RAINY見えすぎて 高校の体育の時間に東城と二人きりになる。 32号
    第116話 あの娘のスキャンダル

    西野は雑誌に載せられて男たちに囲まれた。そこに日暮登場。

    33号

    表紙「2004年ジャンプスーパーアニメツアー」BLEACHと東城

    第117話 DREAM重なって 34号

    14

    初めての…⁉
    いちご100% モノクロ版 14 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <向井>

    (2005年1月10日)

    第118話 初めての…⁉ 東城に言われて真中は向井とデートする。 35号
    第119話 ○○○なっちゃった 36号
    第120話 着せ替えヒロインズ   37・38合併号
    第121話 心、胸、サンドイッチ 真中、向井と東城に挟まれる。 39号
    第122話 ふたりで電車で 西野と二人で二泊三日の旅行。 40号
    第123話 FIRST DAY 41号
    第124話 SECOND NIGHT 42号
    第125話 MIDNIGHT 43号
    第126話 誰がために泳ぐ プールで東城をめぐって天地と戦う。 44号

    15

    両手に花でSOS
    いちご100% モノクロ版 15 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <端本、美鈴>

    袖に西野の「生徒手帳の写真風」

    (2005年4月9日)

    第127話 全員集合夏合宿

    高3の合宿。

    温泉でのドタバタ。(127~128)

    北大路とのやりとり。(129)

    小宮山と端本。(130)

    停電。(131~132)

    向井、東城と無人島へ。(132~133)

    東城、「同じ大学を目指すのやめるかも」という。(135)

    東城の演技。(135~136)

    45号
    第128話 湯けむり大脱出 46号
    第129話 トモダチ⁉それとも… 47号
    第130話 小宮山力也の奇跡 48号
    第131話 IN THE 暗闇 49号
    第132話 両手に花でSOS 50号
    第133話 どっち⁉ 51号
    第134話 風が吹いたら 52号
    第135話 SCENE122 53号

    16

    KISS大人味
    いちご100% モノクロ版 16 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <東城>

    (2005年6月8日)

    第136話 演技⁉本気⁉ 2005年1号
    第137話 気になって その気になって 合宿から帰ってくると西野がいた。東西南北で公園で遊ぶ。 2号
    第138話 デート×4 3・4合併号
    第139話 EAT!

    「ラブ・サンクチュアリ」のことが出て来る。

    北大路とキス。

    5・6合併号
    第140話 KISS 大人味 7号
    第141話 ホントに欲しいモノ 西野と水族館でデート。西野、けんすい。 8号
    第142話 運命⁉FLASH BACK 9号
    第143話 傾く気持ち…混乱 東城に彼氏ができたのか?

    10号

    表紙「祝連載3周年」

    第144話 甘えていいよ… 西野と。 11号

    17

    甘えていいよ…
    いちご100% モノクロ版 17 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <西野>

    (2005年8月9日)

    第145話 欲張りな唇 12号
    第146話 ふたりきりクライシス 北大路とのやりとり。 13号
    第147話 大切だけど そうじゃない 14号
    第148話 求めあう放課後 夜、部室で映画の編集をしていたところに西野が来た。 15号
    第149話 儚き結晶 文化祭の前日の試写会。真中と東城のやりとり。 16号
    第150話 気づいてほしい 文化祭。 17号
    第151話 どうして…? 18号
    第152話 love drive 文化祭の夜。東城と真中のやりとり。そして西野。 19号
    第153話 わかってたのに 20号

    18

    ふたりきり
    いちご100% モノクロ版 18 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <東西南北・向井・端本・美鈴>

    (2005年10月9日)

    第154話 噓ついた 21・22合併号
    第155話 未来という名の来訪者

    真中は映像コンクールの審査員に評価される。

    東城は中路賞を受賞。

    23号
    第156話 好機到来 24号
    第157話 何かが足りない⁉ 東城、真中、それぞれ行き詰る。 25号
    第158話 MOTIVATION 東城、真中は協力することにする。 26号
    第159話 恋人ならば クリスマスイブ、西野のフランス留学問題。 27号
    第160話 それぞれの聖なる夜 28号
    第161話 ふたりきり 大学受験直前の真中のために南戸が家庭教師として東城をよんだ。 29号
    第162話 決戦前夜 受験の前日、南戸が真中を責める。 30号

    19

    選んだ未来
    いちご100% モノクロ版 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    <東城、西野>

    (2005年12月7日)

    第163話 あたしから 真中の試験の後、東城の話。 31号
    第164話 あの日のノート

    東城のノート。

    真中と西野。

    32号
    第165話 旅立つまで 33号
    第166話 さようなら。泉坂 東城、卒業式の答辞。 34号
    最終話 選んだ未来 それぞれのその後。 35号
    番外編 京都初恋物語 大学に進学した美鈴の話。 ジャンプ the REVOLUTION! 2005年11/1号

    路線変更

     「いちご100%」は、途中で話が変わったと作者自ら語っている。

     どう変わったのか? 西野の人気によってきまったと言われることが多いが、どうなのか。下の記事で考えてみた↓

  • 【考察】「きまぐれオレンジ☆ロード」小説版の出来たいきさつについて

    【考察】「きまぐれオレンジ☆ロード」小説版の出来たいきさつについて

     「きまぐれオレンジ☆ロード」には小説版がある。

     その小説版が出来たいきさつは、そのあとがきに著者自らの言葉によって書かれている。しかし私はそれを読んで、かえって混乱した。

     そのことについて考えたことを書いてみた。

    基本的な事実

     まず「きまぐれオレンジ☆ロード」の小説版について基本的な事実について書く。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の漫画、TVシリーズ、劇場版、小説版の時系列は下の記事↓

    小説「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」

     小説「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」は1994年7月9日に集英社から書き下ろしとして出版された。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の作者まつもと泉先生と、そのTVシリーズのシリーズ構成、劇場版の脚本を担当した寺田憲史氏がともに著者に名を連ねるというかたちになっている。
     寺田憲史氏が小説の執筆を担当し、まつもと泉先生が挿絵を担当している。

    JUMPjBOOKS

     小説「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」は「JUMPjBOOKS」(集英社)の一つとして出版された。

     「JUMPjBOOKS」は「漫画⇆小説の新しさ!!」、「BIGネーム&人気漫画家の共演!!」を売りにするもので、それまでに「バスタード」、「電影少女」など「週刊少年ジャンプ」で連載されている漫画の小説版や、オリジナルの小説に漫画家が挿絵を描いたものが22冊出版されていた。

     「JUMPjBOOKS」は、1991年8月21日にVol.1が出版された「jump novel」(集英社)という「小説+漫画」をうたった雑誌がもとになっているようである。「きまぐれオレンジ☆ロード」の小説版の2冊目、3冊目は「jump novel」に掲載されている。

    劇場版

     その後に小説「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」をもとにした映画「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」が作られて、1996年11月2日に公開された。

    劇場版

     私は小説版を読む前に、小説版をもとにして作られた劇場版を観ていた。

     私は2013年に「きまぐれオレンジ☆ロード」に対する関心が再燃した時にはじめて劇場版の存在を知った。その時にはじめて劇場版1作目「あの日にかえりたい」とともに2作目の「そして、あの夏のはじまり」を観たのである。

     私は劇場版「あの日にかえりたい」もいいと思わなかったが、劇場版「そして、あの夏のはじまり」は、それとは違う方向でよくないと思った。そしてそういう出来になったのは、寺田憲史氏によるところが多いのではないかと思っていた。

    衝撃

     私が衝撃を受けたのは、小説「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」の「postscript」でまつもと泉先生が小説版について次のように語っていたからであった。

    今回の小説は「その後」の話である。これは「言いだしっぺ」の私の仕事である。しかし一介のマンガ家が一夜漬けで、いきなり小説などという大それたものを書けるほど世の中甘くない。それならば、と私が「生みの親」であるなら、ここはひとつ「育ての親」に御頼みするのが良いと考え、私はプロットまでを作ることにし、後はアニメのまどか達を創造した張本人、寺田憲史さんにお願いした。

    「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」、244頁

     まつもと泉先生はこの小説版について「これは「言いだしっぺ」の私の仕事である。」と言っている。そして自ら寺田憲史氏に小説版を依頼したと言っている。「寺田さんにはこのまつもとが「ぜひとも!」と、お願いして快く引き受けていただいた。」とも書かれている。(同、244頁)

     私は、小説版は主に寺田憲史氏が作ったものだと思っていた。
     ところが、まつもと泉先生はそれを「「言いだしっぺ」の私の仕事」とよんでいる。

     私は、まつもと泉先生は小説版に対しても寺田憲史氏に対しても自分から離れたものと考えていると思っていた。
     ところが、まつもと泉先生は自ら寺田憲史氏に依頼するのがいいと考えて依頼したと語っている。

     しかし考え直してみると、まつもと泉先生が自ら寺田憲史氏に依頼するのがいいと考えて依頼したということには疑問がある。そういうことはなかったのではないかと思う。

    依頼

     まつもと泉先生が自ら寺田憲史氏に依頼するのがいいと考えて依頼したということを、私がそのまま受け取ることができないわけを語る。

    それまでの寺田憲史氏

     第一に、それまで寺田憲史氏は、TVシリーズでも、劇場版でも、原作と違うものを作ってきた人である。

     原作と違うものを作る寺田憲史氏を、まつもと泉先生が消極的に受け入れることはあるであろうが、積極的に選ぶことはないのではないか?

    TVシリーズ

     寺田憲史氏はTVシリーズのシリーズ構成を担当した人であるが、TVシリーズには原作漫画と違うところが少なからずあった。

     まつもと泉先生も、問題としている「postscript」で「というワケで…と寺田憲史的口調にいきなり変わっちゃったりして。」と書いているところがある。(同、242~243頁)
     「寺田憲史的口調」という原作にないものがTVシリーズに入れられていたことをわざとやってみせているのである。逆に言うと、そのようにつき放したかたちでなく取り入れることはないということではないか?

     そういうことに対するファンからの疑問もまつもと泉先生に寄せられていた。「ジンゴロとかいう猫がアニメに突然出て来たりしたとき」も、なぜかという質問がきたという。(同、242頁)
     そして「そういう人の質問には「私はそれに関わってないから分かりません。それは作られた方の個性じゃないんですか。」と答えることにしてきた」と語っている。(同、242頁)

     まつもと泉先生はアニメに対して次のような考えをもっていたという。

    今まで、アニメなどの原作のマンガ以外のオレンジロードは、絵に関しても、ストーリーに関しても所詮、他人の手で描かれるため、良いものになろうが、つまらなかろうが「オレンジロード風ガイドライン」からそう逸脱したものにならなければ、私はなるたけ関わる必要がないと決め込んでいた。だからアニメと私の原作とではストーリーが少しくらい違っていても、あまり注文など口は出さないようにしてきた。

    「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」、242頁

     要するに、まつもと泉先生は、TVシリーズにおいて寺田憲史氏が原作と違うことをやってきたことに対して、自分から離れたものとしてみるという立場をとっていた。

     ところでまつもと泉先生が、積極的に寺田憲史氏に小説版の執筆を依頼したとすると、それまで自分から離れていたものとして見ていたものを、自分から積極的にもとめたことになる。おかしくないか?

    「あの日にかえりたい」

     寺田憲史氏は、劇場版「あの日にかえりたい」の脚本を担当した人でもある。劇場版「あの日にかえりたい」は、TVシリーズより原作から離れたものになっている。

     まつもと泉先生も「映画のオレンジロードと原作のオレンジロードとでは、なぜ話が違うの?」と質問されたと書いている。(同、242頁)

     まつもと泉先生は、原作と違うものになっても、なるべく口を出さないようにしてきたというが、劇場版「あの日にかえりたい」に対しては、口を出したと言われる。実情はわからないが、寺田憲史氏の「postscript」には次のように書かれている。

    ぼくが(映像スタッフと練り上げた)オリジナルのプロットをまつもとさんにお見せすると、たった一言「寺田さん、ひかるちゃんをあまりまり可哀想にしないで下さいね」とだけおっしゃった。

    「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」、246頁

     まつもと泉先生が口を出したということは、「あの日にかえりたい」は「オレンジロード風ガイドライン」から逸脱したということではないか。

     寺田憲史氏は、原作と違うものを作ってきただけでなく、まつもと泉先生の考える「オレンジロード風ガイドライン」から逸脱したものを作った人でもあった。
     そういう人に対してまつもと泉先生が積極的に小説版の執筆を依頼するであろうか?

    寺田憲史氏の小説版の企画

     劇場版「あの日にかえりたい」は過去のことにとどまらない。まさに今回の小説に関わることである。

    「あの日にかえりたい」の続編

     小説「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」は劇場版「あの日にかえりたい」の「その後」の話になっているのである。小説の中で「あの日にかえりたい」のことが語られている。

     大学受験に明け暮れていた去年の夏、ぼくとひかるちゃんはキスをした。それが、鮎川の心を深く傷つけた。それから、三人の関係は音を立てるように崩れていった。

    「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」、39頁

    ・そこで恭介が「結局ぼくは、ひかるちゃんにもう二人だけでは会えないことを告げた。」とか、

    ・それに対してひかるがまどかに対して「まどかさん! まどかさんは、ずるいですよ。まどかさんは、春日先輩に何かしましたか?」、「わたしは、なんだってできます。先輩のためなら。先輩のためなら、なんだってできます」と言ったとか、

    ・恭介に対して「だめですか? …あたしじゃだめですか? あたし、春日先輩のこと、諦めきれないんですよ。ちゃんとあたしを見て下さい。無視しないでよ~!」と言ったとか、(39頁)

     いずれも「あの日にかえりたい」に出て来たことである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の小説版を、劇場版「あの日にかえりたい」の後の話にすることを企画したのは、まつもと泉先生とは思えない。

    まつもと泉先生

     まつもと泉先生が「きまぐれオレンジ☆ロード」の「その後」の話を企画したときに、「あの日にかえりたい」の「その後」の話を企画したとは考え難い。

     「あの日にかえりたい」は、原作とは異なる終わり方を描いたものである。

     原作者が「あの日にかえりたい」の「その後」の話を企画する必要はない。原作の「その後」の話を企画すればいいのである。

     劇場版「あの日にかえりたい」の「その後」の話を小説にしたいのであれば、そうしてもいい。しかしそのように原作を捨てて「あの日にかえりたい」の続編を企画するほど、まつもと泉先生は「あの日にかえりたい」を好ましいと思っていなかったようである。むしろ好ましくないと思っていたと言われている。そういうものの「その後」の話を積極的に作りたかったとは考え難い。

     まつもと泉先生は「postscript」で小説版について、「その後」の話とだけ言って、「あの日にかえりたい」の「その後」の話と言っていない。それだけ「あの日にかえりたい」に対して反発する気持ちを持っていたと読み取ることができるのではないか。

    寺田憲史氏

     それに対して寺田憲史氏には、「あの日にかえりたい」の「その後」の話を企画する理由がある。「あの日にかえりたい」は、寺田憲史氏が(映像スタッフとともに)作ったものだからである。

     寺田憲史氏は「postscript」を「あの日にかえりたい」のことから始めている。(原作者が「あの日にかえりたい」という言葉を一度も使わないことと対照的である)

     寺田憲史氏はまた「今回のノベルスは、『あの日に―』の<その後の恭介たち>である。」と書いている。(246頁)

    恭介とまどかは、二十二歳である。ひかるは二十歳。それぞれに、様々なコトがあったはずである。時に傷つき、時に燃えて、…だからこそ、それぞれが、<とても居心地がよかった時=あの日>は、ふと立ち寄ってみたくなる。でも…。

    「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」、247頁

     この小説の企画が寺田憲史氏から出たと思われるもう一つの理由がある。

     寺田憲史氏は「postscript」の最後に、この小説の「その後」の話を書きたいと書いている。

    機会があったら、またこの三人の<その後>を書いていたいと思っている。そのため、ノベルスでは、敢えて<新>と付けさせて頂いた。最後にまどかの意味深なセリフ。
    「わたし、いつか超能力者、産むのかな?」
    こうなったら、そこまでこの三人の青春を追っかけてみようか、などと考えてしまっている今日この頃なのである。
    ―三人の夏は、もうすぐ!

    「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」、247頁

     この小説の題が「新きまぐれオレンジ★ロード」となっているのは、「またこの三人の<その後>を書いていたいと思っている」からだというのである。

     「新きまぐれオレンジ★ロード」は寺田憲史氏の企画したもののようである。

    考察

     小説「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」の「postscript」のまつもと泉先生の言葉も、寺田憲史氏の言葉も、そのままで受け取ることはできない。何が起こっていたか、考えてみよう。

    二つの選択肢

     「postscript」で気になるところを考えなおしてみよう。

     まつもと泉先生は「postscript」のはじめに、「この小説の依頼話が来た時、私の頭にはとっさに二つの考えが浮かんだ。」といって、「作者としても描くべきではない、という考え」と、「どうせなら今までのストーリーの中に番外編を入れるくらいじゃ面白くないから「恭介やまどかの、その後」を描いてみるのも良いかもしれない、という考え」との二つの考えが浮かんだと語っている。
     そしての二つの考えの間で「あれこれ悩んだ末、とにかく引き受けることにした。」と語っている。

     これは奇妙ではないか? 何故にその二つしか選択肢がないのか? 何故に「今までのストーリーの中に番外編を入れる」という選択肢がはじめから排除されているのか?

     まつもと泉先生自身はその後に「今までのストーリーの中に番外編を入れる」ことしかやっていない。そういう選択肢がはじめから排除されているのである。

     まつもと泉先生が「でも、正直いうなら、どうせなら今回は自分で小説を書きたいと思った。」というところに、まつもと泉先生の本心はあったのではないか?
     TVシリーズでも、劇場版「あの日にかえりたい」でも、まつもと泉先生の思うようなものにはならなかった。それでもまつもと泉先生は、他の人が作ることであるから、「オレンジロード風ガイドライン」からそう逸脱したものにならない限りしかたがないと考えていた。
     しかし「正直」な気持ちは違った。
     とはいえ、まつもと泉先生自ら小説を書くことはできず、まつもと泉先生の思うような小説を書く人をよんでくることもできなかった。
     そこでこれまでと同じように寺田憲史氏の作る原作と違うものを、他の人が作るから仕方がないものとして受け入れることにしたということではないか?

    「その後」

     実際には「「恭介やまどかの、その後」を描いてみるのも良いかもしれない、という考え」が採用された。

     ところで「恭介やまどかの、その後」ということには、原作の「その後」の話も含まれると思われるが、実際には「あの日にかえりたい」の「その後」の話となった。

     そのことを考えると、はじめの選択肢の段階で「あの日にかえりたい」の「その後」の話として考えられていたのではないかと思われる。

     まつもと泉先生に小説版の話が来た時には、「あの日にかえりたい」の「その後」の話にするか、それともやめるか、選択肢は二つだけになっていたのではないか? その時点で寺田憲史氏の考えが取り入れられていたのではないか?

    寺田憲史氏に依頼したということ

     まつもと泉先生に小説版の話が来る前に、担当編集者の根岸氏か、他の人かわからないが、寺田憲史氏を執筆者の候補として話をしていたのではないかと思われる。

     寺田憲史氏はTVシリーズのシリーズ構成を担当していたので、話が早かった。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の小説版を書きたいという人は多かったのではないか、と私などは思うが、まつもと泉先生も、担当編集者の根岸氏も、そう思っていなかったのではないか。
     現に平井和正氏は1994年に「きまぐれオレンジ☆ロード」に魅了されて、1995年に「ボヘミアン・ガラス・ストリート」という小説を出している。(アスベクト、1995年3月4日)

     小説版の話を聞いた寺田憲史氏は、「あの日にかえりたい」の「その後」の話にすること、「新きまぐれオレンジ★ロード」にすることを主張したと思われる。

     まつもと泉先生に小説版の話が来た時には、寺田憲史氏の主張を受け入れるか、小説版をやめるか、選択しは二つに一つとされていた。他の執筆者に依頼することもできたと思われるが、なぜか考慮されなかった。

     まつもと泉先生が「これは「言いだしっぺ」の私の仕事である」と言い、「寺田憲史さんにお願いした。」と言い、「寺田さんにはこのまつもとが「ぜひとも!」と、お願いして快く引き受けていただいた。」と言っているのは、その決断はあくまでもまつもと泉先生がなしたものだからと考えられる。

     実際には、まつもと泉先生からみると、小説版は、TVシリーズと同じような位置にあるものと思われる。「きまぐれオレンジ☆ロード」の名を使って、他の人がやるのである。
     「そしてまた私はしばらく少し離れたところからそっと見守っていることにする。」(244頁)というところも、小説版に対して、TVシリーズに対してしたのと同じように離れて見守るという立場をとることを明らかにしている。

     そこでまつもと泉先生は「あの日にかえりたい」の「その後」の話にすることを認める代わりに、「オレンジロード風ガイドライン」から「そう逸脱したもの」にならないことを求めたのではないか。

     以上、私の推測である。

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」タイトル表

    「きまぐれオレンジ☆ロード」タイトル表

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の第1話から第156話までのタイトル、掲載された「週刊少年ジャンプ」、それぞれの話が収められたジャンプコミックス、愛蔵版、文庫版を表にまとめた。


    [まとめ買い] きまぐれオレンジ★ロード

    タイトル表

     基本的に一話完結であるが、複数の話にまたがるものもある。同じ色によって示した。

    話数 タイトル 週刊少年ジャンプ ジャンプコミックス 愛蔵版・文庫版
    1 まっ赤な麦わら帽子

    1984年15号
    (3月26日号)
    きまぐれオレンジロード 新連載週刊少年ジャンプ1984年15号 キン肉マン キャッツアイ ウイングマン 北斗の拳 奇面組 キャプテン翼

    表紙「巨弾新連載2」(1は14号で始まった「Mr.ホワイティ」)

    1

    まっ赤な麦わら帽子!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1984年10月15日)

    1

    まっ赤な麦わら帽子

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  1巻

    (1991年12月18日)

    文庫版
    きまぐれオレンジ★ロード 1 (集英社文庫 ま 7-1)

    (1998年2月23日)

    2 シュートはブルー 16号
    (4月2日号)
    3 くちびるシークレット 17号
    (4月9日号)
    4 哀愁チーク 18号
    (4月16日号)
    5 レイクサイド狂想曲 19号
    (4月23日号)
    6 恋のディスタンス 20号
    (4月30日号)
    7 危険なウワサ 21号
    (5月7日号)
    8 秘密のアルバイト 22号
    (5月14日号)
    9 ファースト・テスト 23号
    (5月21日号)

    2

    ジェラシー・レイン!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 2 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1985年2月15日)

    10 ショッピング・ブギ! 24号
    (5月28日号)
    11 疑惑の指輪 25号
    (6月4日号)
    12 アルコールぶるうす 26号
    (6月11日号)
    13 ちぐはぐ気分! 27号
    (6月18日号)
    14 二枚のスナップ 28号
    (6月25日号)
    15 ジェラシー・レイン 29号
    (7月2日号)
    16 あいにく片想い! 30号
    (7月9日号)

    2

    禁じられた恋の島

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  2巻

    (1992年1月25日)

    文庫版
    きまぐれオレンジ★ロード (2) (集英社文庫―コミック版)

    (1998年2月23日)

    17 くるみちゃん気をつけて! 31号
    (7月16日号)
    創刊16周年記念号

    3

    禁じられた恋の島!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 3 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1985年5月15日)

    18 チケット・トラブル! 32号
    (7月23日号)
    19 渚のパニック! 33号
    (7月30日号)
    20 漁火恋唄 34号
    (8月6日号)
    21

    禁じられた恋の島

    35号
    (8月13日号)
    巻頭カラー
    22

    子供じゃないの!

    36号
    (8月20日号)
    23

    アイ・ライク・ジャパン!

    37号
    (8月27日号)
    24

    ドキドキ遊園地!

    38号
    (9月3日号)
    25

    疑惑光線・ユラッ!

    39号
    (9月10日号)
    26

    ビートで嫉妬!

    40号
    (9月17日号)

    4

    星空に予知夢!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 4 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1985年8月15日)

    27

    優柔不断でゴメンなさい!

    41号
    (9月24日号)
    28

    とまどいアクシデント!

    42号
    (10月1日号)
    29

    マラソンしましょ!

    43号
    (10月8日号)
    30

    疑惑のひかるちゃん

    44号
    (10月15日号)

    31

    しあわせの花!

    45号
    (10月22日号)
    32

    ハートのAをひいちゃった!

    46号
    (10月29日号)

    3

    星空に予知夢

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  3巻

    (1992年2月25日)

    文庫版
    きまぐれオレンジ★ロード 3 (集英社文庫 ま 7-3)

    (1998年4月22日)

    33

    星空に予知夢

    47号
    (11月5日号)
    34

    恭介くん変身す!

    48号
    (11月12日号)

    表紙「まどかの心と秋の空」

    5

    ゆれてララバイ!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 5 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1985年11月15日)

    35

    テレパシー・キッド!

    49号
    (11月19日号)
    36

    ラッキィ・バースディ!

    50号
    (11月26日号)
    37

    もういちど予知夢!

    51号
    (12月3日号)
    38

    カゼのミステリー

    52号
    (12月10・17日合併号)
    39

    ぱにっくキッド!

    1985年
    1-2合併号
    (1月1日号)
    40

    タイムスリップ・クリスマス!

    3号
    (1月8日号)
    41

    ゆれてララバイ

    4-5合併号
    (1月15日号)
    42

    スケーターズ・ワルツ

    6号
    (1月22日号)

    謹賀新年で作者の写真

    43

    レッツ・チェンジ!

    7号
    (1月29日号)

    6

    ルージュの伝言!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 6 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1986年2月15日)

    44

    スノー・スケッチ

    8号
    (2月4日号)
    45

    ロマンティック・ナイト

    9号
    (2月11日号)
    46

    雪夜のふたり

    10号
    (2月18日号)

    表紙「もらって不安なChocolate…!」(JC5巻の表紙と同じ)

    47

    夢色バレンタイン

    11号
    (2月25日号)

    48

    進学えれじい

    12号
    (3月4日号)

    4

    ルージュの伝言

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  4巻

    (1992年3月24日)

    文庫版
    きまぐれオレンジ★ロード 4 (集英社文庫 ま 7-4)

    (1998年4月22日)

    49

    誘惑ひなまつり

    13号
    (3月11日号)

    50

    純情ブルース

    14号
    (3月18日号)

    連載50回突破ということで「ついでにとんちんかん」「シェイプアップ乱」とともに表紙

    51

    ルージュの伝言

    15号
    (3月25日号)
    巻頭カラー

    52

    天使の誘惑

    16号
    (4月1日号)

    7

    天使の誘惑!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1986年5月15日)

    53

    ぱにっくキッド・アゲイン!

    17号
    (4月8日号)

    54

    いけないチーク

    18号
    (4月15日号)

    55

    春=ショック!

    19号
    (4月22日号)

    56

    ジェラス・カード

    20号
    (4月29日号)

    57

    おまかせハリケーン!

    21号
    (5月6日号)

    58

    Hでハプニング!

    22号
    (5月13日号)
    59

    スキンシップに御用心!

    23号
    (5月20日号)
    60

    恋の知能犯

    24号
    (5月27日号)
    61

    プライヴェート・メモリー

    25号
    (6月3日号)

    8

    恋の逃亡者!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 8 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1986年8月15日)

    62

    シャッター・チャンス!

    26号
    (6月10日号)
    63

    パラレル・トリップ!

    27号
    (6月17日号)

    5

    恋の逃亡者

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  5巻

    (1992年4月25日)

    文庫版
    きまぐれオレンジ★ロード 5 (集英社文庫 ま 7-5)

    (1998年6月23日)

    64

    だってパラダイス!

    28号
    (6月24日号)
    65

    デンジャラス・ビーチ!

    29号
    (7月1日号)
    66

    目撃者・あかね!

    30号
    (7月8日号)
    67

    堕ちないでダーリン!

    31号
    (7月15日号)
    68

    恋の逃亡者

    32号
    (7月22日号)
    69

    S・Hは恋のイニシャル

    33号
    (7月29日号)
    70

    ホラーはいかが?

    34号
    (8月5日号)

    表紙「おいしいコミック」

    9

    予知夢でチャンス!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 9 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1986年10月15日)

    71

    キャンプでシェイク!

    35号
    (8月12日号)
    巻頭カラー
    72

    ルーツ・パニック!

    36号
    (8月19日号)
    73

    夏雪恋色慕情

    37号
    (8月22日号)
    74

    プールでチェイス!

    38号
    (9月2日号)
    75

    カンニングはダメよ!

    39号
    (9月9日号)
    76

    予知夢でチャンス!

    40号
    (9月16日号)
    77

    妄想カメラ

    41号
    (9月23日号)
    78

    破滅がいっぱい!

    42号
    (9月30日号)
    79

    パラレル・ブギ!

    43号
    (10月7日号)

    スペシャルアニメ制作記念巻頭カラー

    10

    恋の思秋期!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 10 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1986年12月10日)

    6

    恋の思秋期

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  6巻

    (1992年5月25日)

    文庫版
    きまぐれオレンジ★ロード 6 (集英社文庫 ま 7-6)

    (1998年6月23日)

    80

    パラレル・ナイト!

    44号
    (10月14日号)
    81

    パラレル・ヒーロー!

    45号
    (10月21日号)
    82

    恋の思秋期

    46号
    (10月28日号)
    83

    危険な転校生

    47号
    (11月4日号)
    84

    ビデオでLOVE!

    48号
    (11月11日号)
    85

    秘密のスナップ

    49号
    (11月18日号)
    86

    なんたって誕生日!

    50号
    (11月25日号)
    87

    スラップスティックきのこ狩り!

    51号
    (12月2日号)
    88

    好きといいなさい!

    52号
    (12月9・16日合併号)

    11

    初夢KISS!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1987年2月15日)

    89

    心ジャックWAR!

    1986年
    1-2合併号
    (1月1日号)

    90

    ホワイト・クリスマス

    3-4号
    (1月8日号)

    91

    催眠術をかけないで!

    5号
    (1月15日号)
    新記録435万部達成
    92

    初夢KISS!

    6号
    (1月22日号)
    表紙は作者の写真と漫画の絵
    初詣ポスター(JC16巻の表紙の絵)
    93

    冬山 恐怖伝説

    7号
    (1月29日号)
    94

    ホラー・ストーリー

    8号
    (2月3日号)
    95

    涙なみだのS・U!

    9号
    (2月10日号)

    7

    危険なふたり

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  7巻

    (1992年6月24日)

    文庫版
    きまぐれオレンジ★ロード (7) (集英社文庫―コミック版)

    (1998年8月16日)

    96

    ラブ・フォーカス!

    10号
    (2月17日号)
    97

    バレンタイン・キッド!

    11号
    (2月24日号)

    12

    危険なふたり!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 12 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1987年4月15日)

    98

    ロボット恭ちゃん!

    12号
    (3月3日号)
    99

    初恋

    13号
    (3月10日号)
    100

    留学するって本当ですか?

    14号
    (3月17日号)
    101

    春がきた!

    15号
    (3月24日号)

    表紙「Rock’n まどかLIVE!」(JC7巻の表紙と同じ)

    連載100回突破で巻頭カラー

    102

    危険なふたり

    16号
    (3月31日号)
    103

    まなみの大冒険!

    17号
    (4月7日号)
    104

    4月の馬鹿に御用心!

    18号
    (4月14日号)
    105

    春霞恋模様

    19号
    (4月21日号)
    106

    凶相・恭ちゃん!

    20号
    (4月28日号)

    13

    感情表現100%!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 13 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1987年6月15日)

    107

    おしゃべりオウム

    21号
    (5月5日号)
    108

    オレは男だ!

    22号
    (5月12日号)
    109

    フシギな時計

    23号
    (5月19日号)
    110

    おめざめKISS!

    24号
    (5月26日号)
    111

    フォトジェニック・ガール

    25号
    (6月2日号)

    8

    夜の口紅

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  8巻

    (1992年7月25日)

    文庫版
    きまぐれオレンジ★ロード 8 (集英社文庫 ま 7-8)

    (1998年8月16日)

    112

    見せちゃだめだめメッセージ!

    26号
    (6月9日号)
    113

    感情表現100%!

    27号
    (6月16日号)
    114

    恋のバス・ストップ!

    28号
    (6月23日号)
    115

    あぶない教師

    30号
    (7月7日号)

    表紙「つかまえてごらんキミのマーメイド!」(JC9巻の表紙と同じ)

    14

    あぶない教師!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 14 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1987年8月15日)

    116

    再会のラビリンス

    31号
    (7月14日号)
    117

    失恋予知夢

    32号
    (7月21日号)
    118

    吾輩はネコである!

    33号
    (7月28日号)
    119

    わかれの夏休み

    34号
    (8月4日号)
    120

    あこがれのハワイ!

    35号
    (8月11日号)
    121

    女の戦場ハワイ!

    36号
    (8月18日号)
    122

    常夏ビーチはサスペンス!

    37号
    (8月25日号)
    123

    ハワイアン・ミステリー

    38号
    (9月1日号)
    124

    サマーナイト・ホラー

    39号
    (9月8日号)

    15

    夜の口紅
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 15 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1987年10月15日)

    125

    特別編・まつもと泉 千葉をゆく!(愛蔵版では「千葉へゆく」)

    40号
    (9月15日号)
    126

    夜の口紅

    41号
    (9月22日号)
    127

    密室テンプレーション

    1987年12号
    (3月2日号)

    表紙「まどかといっしょに風になれ!」(JC12巻の表紙と同じ)
    「TVアニメ化決定大紹介!!」
    巻頭カラー

    9

    春はアイドル

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  9巻

    (1992年8月25日)

    文庫版
    (文庫版の第9巻は「思いがけないシチュエーション」まで)
    きまぐれオレンジ★ロード (9) (集英社文庫―コミック版)

    (1998年10月21日)

    128

    甘く危険な映画館

    13号
    (3月9日号)
    129

    進級レッドゾーン

    14号
    (3月16日号)
    130

    想い出の樹の下で

    15号
    (3月23日号)
    131

    のぞいてジェラシー

    16号
    (3月30日号)
    132

    ハプニング・キッス

    17号
    (4月6日号)

    16

    春はアイドル!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 16 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1987年12月9日)

    133

    帰れない男

    18号
    (4月13日号)
    表紙「CITY HUNTER」とアニメ放映ダブルスタート
    134

    そしてダ・カーポ

    19号
    (4月20日号)
    135

    春はアイドル

    20号
    (4月27日号)
    136

    街角のハプニング!

    21号
    (5月4日号)
    137

    夜はアドベンチャー

    22号
    (5月11日号)
    138

    悲恋白書

    23号
    (5月18日号)
    139

    思わずキューピッド!

    24号
    (5月25日号)
    140

    夢のステージ

    25号
    (6月1日号)
    141

    スタア誕生!

    26号
    (6月8日号)

    17

    片想いグラフィティ!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 17 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1988年2月15日)

    142

    ハート・オン・ファイア!

    27号
    (6月15日号)
    143

    思いがけないシチュエーション!

    28号
    (6月22日号)

    10

    永遠の夏

    愛蔵版
    きまぐれオレンジ★ロード  10巻

    (1992年9月23日)

    文庫版
    (文庫版第10巻は「いつわりのB・F」から)
    きまぐれオレンジ★ロード 10 (集英社文庫 ま 7-10)

    (1998年10月21日)

    144

    いつわりのB・F

    29号
    (6月29日号)
    145

    ふたりだけの寝室

    30号
    (7月6日号)
    146

    あこがれのひかるちゃん!

    31号
    (7月13日号)
    147

    片思いグラフティ!

    32号
    (7月20日号)
    148

    ロボット恭ちゃんII

    33号
    (7月27日号)
    149

    おさかなになったボク!

    34号
    (8月3日号)
    150

    想い出の湖

    35号
    (8月10日号)

    18

    永遠の夏!
    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 18 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    (1988年7月15日)

    151

    夏のペンダント

    36号
    (8月17日号)
    152

    逃げろや逃げろ!

    37号
    (8月24日号)
    153

    石像に祈りを…

    38号
    (8月31日号)
    154

    夏のフィナーレ!

    40号
    (9月14日号)
    155

    帰れないふたり

    41号
    (9月21日号)
    156

    永遠の夏

    42号
    (9月28日号)

    時系列

    漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の時系列
    • 1984年
      「週刊少年ジャンプ」で連載開始

      「週刊少年ジャンプ」1984年15号

    • 1984年10月
      ジャンプコミックス発売

      1984年10月15日に第1巻発売

    • 1987年
      連載終了

      「週刊少年ジャンプ」1987年42号

    • 1988年7月
      ジャンプコミックス最終巻(第18巻)

      ・18巻は1988年7月15日に発行。
      ・ジャンプコミックス第18巻では、連載時の最終話(155話、156話)に45Pの加筆がなされた。

    • 1991年~1992年
      愛蔵版刊行

      ・1991年12月18日に1巻、1992年9月23日に10巻。それまで出されていた全話を収めた。
      ・最終話(156話)に加筆がある。

    • 1996年
      「パニックin銭湯!」

      ・1996年2月に発売されたデジタルコミック「COMIC ON Vol.1」CD-ROM(東芝EMI)に、「パニックin銭湯!」が描き下ろされた。
      ・「パニックin銭湯!」は「スーパージャンプ」1996年10月号に掲載された。

    • 1998年
      文庫版

      ・1998年に文庫版10巻が出された。
      ・最終話の後に「パニックin銭湯!」が加えられている。
      ・1巻には平井和正氏の解説、10巻には作者の解説が載せられている。

    • 1999年
      「ほんでもってとーめー恭介!」

      「週刊プレイボーイ」1999年44号に「ほんでもってとーめー恭介!」が掲載された。

    • 2011~2012年
      コンビニ本

      2012年に集英社ジャンプリミックスの一つとして全6冊のコンビニ本が出された。内容は、愛蔵版、「パニックin銭湯!」、「ほんでもってとーめー恭介!」。

     ジャンプコミックス


    きまぐれオレンジロード 全巻 全18巻 まつもと泉 1巻以外 17冊初版

     愛蔵版


    きまぐれオレンジロード 愛蔵版 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10巻 まつもと泉 全巻セット 初版本 絶版 少年ジャンプ 集英社

     文庫版


    きまぐれオレンジロード 文庫版 完結 全10巻初版セット 栞付き まつもと泉

     コンビニ本


    きまぐれオレンジロード 1―美女ジャンプ6 (SHUEISHA JUMP REMIX)

    気になるところ

    休載期間

     「週刊少年ジャンプ」1986年41号から1987年12号までの間、「きまぐれオレンジ☆ロード」の連載がとまっている。

     当時編集長であった西村繫男氏はそのことについて「休ませたんですよ、遅くて」と語っている。(「まんが編集術」、白夜書房、1999年、261頁)

     1987年12号で連載を再開した。その時にTVアニメ化決定が伝えられている。


    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 15 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    ジャンプコミックスの間隔

     ジャンプコミックス第1巻と第2巻の間は4カ月、第2巻と第3巻の間は3カ月、それから8巻まで3カ月おきに出ていたが、それから2カ月おきになった。

     ところが第17巻と第18巻の間は5カ月空いている。


    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 18 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    最終話

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の最終話は三通り。

    ・「週刊少年ジャンプ」(1987年41~42号)に掲載されたもの

    ・ジャンプコミックス(第18巻)で加筆されたもの(1988年)

    ・愛蔵版(第10巻)で加筆されたもの(1992年)

    タイトル

     ジャンプコミックス、愛蔵版のそれぞれの巻のタイトルは、その巻に収められた話のうちの一つの話のタイトルからとられている。

     文庫版には、巻ごとのタイトルはない。


    きまぐれオレンジ★ロード カラー版 6 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    作者の死

     2020年10月6日に「きまぐれオレンジ☆ロード」の作者まつもと泉先生は亡くなった。

  • 「天気の子」はどうして人を怒らせるのか? 「若者文化」から「セカイ系」まで

    「天気の子」はどうして人を怒らせるのか? 「若者文化」から「セカイ系」まで

     2019年に公開された映画「天気の子」について、新海誠監督は人を「怒らせたい」と語っている。

    https://news.yahoo.co.jp/feature/1389

     「怒らせたい」とはどういうことか? 新海誠監督はどういうことを考えているのか? 「天気の子」はどういう作品なのか?

     新海誠監督の言葉を手掛かりにして「天気の子」という映画について考えてみよう。(敬称略)

    社会との対立

    Steve BuissinneによるPixabayからの画像

     新海誠監督は「「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟」という記事で次のように語っている。

    帆高の叫びを描きたいという話をしましたけれど、その叫びってどういう叫びかというと、帆高と社会の価値観が対立したときに生まれた叫びなんです。

    YAHOOニュース「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟

    https://news.yahoo.co.jp/feature/1389

     新海誠監督によると「天気の子」は、社会と対立する主人公の「叫び」を描いた作品である。

     「天気の子」という作品によって「人を怒らせる」ということは、そのことと関係があるようである。

     新海誠監督は「新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程」という記事では次のように語っている。

    主人公の帆高は、家出をすることで社会から逸脱し、結果として社会と対立することになっていきます。

    新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程

     銃が出て来るのはそのためだという。

    その行き着く先に銃がでてくると物語が明快になるなと最初から考えていて

    新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程

    https://eiga.com/news/20190803/1/

     さらに詳しく考えてみよう。

    若者文化

    Photo by Islander Images on Unsplash

     映画「天気の子」において、主人公が「社会と対立する」ことは「若い子たち」が「大人」と対立するというかたちをとっている。

     「天気の子」はそのことによって、アメリカで1950年代から盛んになった「若者文化」の後を継ぐものということができる。

    キャッチャー・イン・ザ・ライ

     「天気の子」では、主人公が漫画喫茶でアルバイトを探している時に、カップ麺の上に村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を置いているところが描かれている。

     村上春樹の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、サリンジャー J.D.Salinger の “The Catcher in the Rye” を訳したものである。”The Catcher in the Rye” は1950年代の「若者文化」の代表的な作品である。

    村上春樹の解説

     「天気の子」ではわざわざ村上春樹訳が描かれているので、村上春樹の「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説」をとりあげよう。

    「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説」は、「サリンジャーのアメリカ本国のエージェントから日本のエージェントに「訳者が本に一切の解説をつけてはならない」という強いトーンのお達しがきた」ことを受けて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の巻末から外され、雑誌「文學界」のサリンジャー特集号に掲載された後、訳者が手を入れたものが「翻訳夜話2サリンジャー戦記」に収められた。(「翻訳夜話2サリンジャー戦記」、6頁)

     その中に作品が「人を怒らせる」ことについて語っているところがある。

    健全な社会が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を糾弾しつづける最も大きな理由は、(中略)ホールデン少年が、一人の個人として、学校や社会という既成のシステムに対して、はっきりと臆することなく根元的な「ノー!」の叫びを上げており、彼のそのような反抗的姿勢があらゆる時代を通して、多くの若者にとって強い説得力を持っているという事実にあるのだ。

    「翻訳夜話2サリンジャー戦記」、文春新書、2003年、213~214頁

     「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、「健全な社会」によって「糾弾」され続ける作品であるという。

     新海誠監督は「天気の子」は人を怒らせる作品だと言った。そのことと「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が「健全な社会」によって「糾弾」され続けたということとは、関係があると思われる。

     村上春樹は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が「健全な社会」によって「糾弾」され続ける理由について、主人公が「既成のシステム」に対して「根元的な「ノー!」の叫び」を上げていて、そのことが「あらゆる時代を通して、多くの若者にとって強い説得力を持っている」と語っている。

     「天気の子」は、2019年にその後を継ごうとしたものということができるのではないか。

    共通するところ

     「天気の子」と「キャッチャー・イン・ザ・ライ」には共通するところがある。

     「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でも「天気の子」でも主人公は16歳である。

     「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では、主人公は、それまで通っていた学校を退学させられて、家に帰らずに、ニューヨークに行くことにする。
     「天気の子」では、主人公は、学校に行かず、家を出て、東京に行くことにする。

     「天気の子」が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」をもとにしていると思われるところについて下の記事で語った。↓

     最も重要なところは、主人公の「叫び」であろう。―「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では主人公が「一人の個人として、学校や社会という既成のシステムに対して、はっきりと臆することなく根元的な「ノー!」の叫びを上げて」いるが、「天気の子」では主人公と「社会の価値観が対立したときに生まれた叫び」を描きたかったと新海誠監督は語っている。

    理由なき反抗

     私は「天気の子」を初めて観た時に、「理由なき反抗」を思い出した。

     たとえば「天気の子」で、主人公とヒロインとヒロインの弟の三人がラブホテルでつかの間の幸せをかみしめるところを見ていて、「理由なき反抗」で、主人公とヒロインともう一人の男子が三人で空き家でつかの間の幸せをかみしめるところを思い出した。

     また「天気の子」で主人公が拳銃を手にするところを見て、「理由なき反抗」で一人の少年が拳銃を手にするところを思い出した。

     「天気の子」の作り手が「理由なき反抗」を考えていたかどうか私は知らない。今までそのことに触れている人を見たこともない。

     いずれにせよ「理由なき反抗」も1950年代の「若者文化」を代表する作品であって、主人公等の「若者」が大人と対立するところが描かれている。そして人を「怒らせる」作品でもある。

     「天気の子」はその後を継ぐものということができる。

    「天気の子」

     映画「天気の子」は、1950年代の「若者文化」の後を継ぐものとして、「若者」が大人と対立するところを描いている。

    親、学校

     「天気の子」は、1950年代の「若者文化」の後を継ぐものであるが、主人公と親との対立はほとんど描かれていない。

     「天気の子」は、主人公が家出をするところから始まる。親と対立するところから始まるのである。しかしそのことは映画の中ではほとんど描かれない。

     「天気の子」の主人公の親は、警察が主人公を捕まえに来ることのもとになった届け出によって、主人公と警察との対立に間接的に関わるだけである。

     ただし1950年代の「若者文化」でも、「理由なき反抗」では主人公と親の対立が多く描かれているが、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ではそれほど描かれていない。

     「天気の子」では、主人公と学校との対立もほとんど描かれていない。警察官との対立が描かれている。

    「天気の子」の対立

     「天気の子」では、ヒロインが犠牲になるということに関して、主人公と社会の対立が描かれている。その対立はまた若者と大人の対立というかたちをとっている。

    犠牲と夢

    Andrealison Leao de SouzaによるPixabayからの画像

     終盤、主人公は犠牲になったヒロインを取り戻そうと走る。それを警察官が止める。そこで対立が生ずる。

     ヒロインが犠牲になったと信じている主人公と、そのことを知らない警察官はそのことを知らない警察官との対立が生ずるのである。

    主人公

     ヒロインは犠牲になった、と主人公が信じた根拠は、そういう夢を見たことをヒロインの弟とともに思い出したことと、ヒロインに贈った指輪が空から足元に落ちて来たことである。

     それからの主人公の言動はその「夢」をもとにしている。―小説版では、そのことは映画版より明らかにされている。たとえば小説版では、警察署の前で主人公をカブに乗せた夏美が、ヒロインを救うために罪を犯している主人公と自分について、「その根拠はただの夢。我ながら笑えてくる」と独白している。(「小説 天気の子」、239頁)

    夏美

     夏美も、主人公の言葉を聞いて、その前の夜にヒロインが「祈りながら空に昇っていく夢」を見たことを思い出したと独白している。(同、234頁)

    須賀と娘

     須賀は、幼い娘がヒロインの夢を見たと言い、ヒロインが「天気にしてくれた」と聞いて、はっとした表情をしている。―小説版では「俺も夢に見たのだ」と独白している。そして「東京中の人間が同じ夢を見たのではないか」と独白している。(同、221頁)

    警察官

     それに対して警察官は、主人公からヒロインが犠牲になったゆえに空は晴れたと聞いて、「鑑定医、要りますかね?」と言っている。

     警察官にとってそのことは存在しないのである。

    安井刑事

     須賀のところに来た安井刑事は、ヒロインが天気のために犠牲になったという主人公の話を持ち出して、信じてはいないが「そこまでして会いたい子がいるってのは、私なんかにゃ、なんだかうらやましい気もしますな」とも言っている。

     その「夢」は「そこまでして会いたい子がいる」ことと考えられている。

     そのことは自分には存在しないが、うらやましいことであるという。

    整理

     小説版を読むと、須賀が言うように「東京中の人間が同じ夢を見た」という事実があるようである。その事実に対して、
    ・主人公、ヒロインの弟、須賀の娘のような子供は、その夢をそのまま存在することと思うが、
    ・警察官は存在しないことと考える、
    ・中間にいて子ども寄りの夏美は、忘れていたが存在することとして主人公を応援する、
    ・大人寄りの須賀は存在することとするに至らない、
    と分かれているようである。

     「東京中の人間が同じ夢を見た」という事実があるとすると、主人公が警察官に対して「知らないふり」をしていることを責めることは正しいことになる。

     ただし小説版でも、「東京中の人間が同じ夢を見た」のではなく、ヒロインと関係のあった人だけがその夢を見たということもありうるのではないかとも思う。

     映画版では、夏美、須賀が夢を見たということはない。須賀が「東京中の人間が同じ夢を見たのではないか」と独白することもない。映画版を見ると、主人公、ヒロインの弟、須賀の娘という子どもだけが夢を見たようである。

     夢についても、その夢の中身、すなわちヒロインが天気のために犠牲になったということは、この映画の世界の中で実在することなのか、そうでないのか、という問題がある。

     いずれにせよ、その夢をそのまま存在することと思うことは「若い子たち」にあることであって、大人にはなく「うらやましいこと」と言われているのである。

    晴れ女の扱い

    Photo by Anastasia Shuraeva from Pexels

     ここでそれまでの晴れ女の扱いを振り返っておこう。

    はじめ

     主人公ははじめ「晴れ女」の話を「ラノベの設定みたいな話」といい、「天気はそういうもんじゃない」、「自然現象」だと言っていた。
     それに対して須賀は「ぜんぶ分かっててエンタメを提供してんの」という考えであった。

    分岐

     ところが主人公はヒロインが晴れをもたらしたところを見てから、「晴れ女」の力を信ずるようになった。

     須賀の考えは変わらなかった。
     小説版では、須賀は神主から「天気の巫女」の話を聞いた後、「今でも俺は、天気の巫女だの晴れ女だのは信じていない。その後に起きたいくつかの出来事には、他にいくらでも合理的な説明がつくはずだと思っている」と独白している。(小説版、145頁)

     「天気の子」の世界は、「晴れ女」が晴れをもたらす力をもつということを大人が信じない世界である。そういうことは大人には存在しないのである。

     ただし須賀は、そこで「胸騒ぎを感じていた」とも言っているように(小説版、145頁)、「晴れ女」を信ずる気持ちに傾くところもあった。

    対立

    Anja🤗#helpinghands #solidarity#stays healthy🙏によるPixabayからの画像

     犠牲になったヒロインを取り戻すために走る主人公と、その主人公を捕まえようとする警察官との対立について考えてみよう。

    警察の取調室

     主人公は警察の取調室に入るように言われたところで、ヒロインを取り戻すために逃げ出す。

     この場面では、警察官は主人公がヒロインを取り戻したいということに反対しているのではない。話は中で聞くと言っている。

     主人公は、警察官が主人公に反対していないにもかかわらず、警察官から逃げ出したというかたちになっている。

    廃ビルの須賀

     廃ビルで、主人公がヒロインを取り戻すために鳥居に行きたいというが、それに対して須賀は警察に戻った方がいいという。

     須賀は主人公が鳥居に行きたいということに反対しているのではない。

     主人公は、須賀が主人公に反対しているのではないにもかかわらず、須賀を自分の邪魔をする者と見なして銃口を向けるというかたちになっている。

     小説版では、その時に主人公は「どうして誰も彼もが、理不尽となって僕の前に立ち塞がるのか」と独白している。(253頁)
     しかしそういう主人公こそ「理不尽」に見える。

    廃ビルの警察官

     廃ビルに来た警察官も、主人公が鳥居に行きたいということに反対しているのではないにもかかわらず、主人公は自分の目的に反対するものとみなして銃口を向けている。

     主人公はそこで警察官に対して「なんで邪魔するんだよ? 皆何も知らないで、知らないふりして!」と言っている。
     警察官はそのことを知らないのに「知らないふり」をしているというのはおかしいと思われる。
     ただし、上で言ったように、警察官も同じ夢を見ていたかもしれない。そうだとすると、「知らないふりして」いるということは正しいことになるかもしれない。しかし同じ夢を見ていたとしても、その夢を存在することと受け取るとは限らないのではないか?

    正しくない

     このあたりの主人公の言動は正しくないように見える。

     主人公は、犠牲になったヒロインを取り戻したいのに、警察官も須賀もその邪魔をしていると見なして、逃げ、銃口を向けている。

     しかし警察官も須賀も、主人公がヒロインを取り戻そうとしていることに反対しているのではない。
     警察官は、主人公の親からの行方不明の届によって、また主人公が拳銃を持っていたという疑いによって、主人公をつかまえに来ているのである。
     須賀は、事を丸く収めるために来ているのである。

     このあたりで主人公は対立を引き起こすだけではない。「若者」として大人と対立するだけではない。正しくないと思われる対立を引き起こしているのである。

     それゆえに多くの人を怒らせると思われる。

     小説版で、須賀が娘萌花からの電話に対して次のように独白しているところがある。

    世の中の全てのものが自分のために用意されていると信じ、自分が笑う時は世界も一緒になって笑っていると疑わず、自分が泣く時には世界が自分だけを苦しめていると思っている。なんて幸福な時代なのだろう。俺はいつ、その時代をなくしたのだろう。あいつは―帆高は今でも、その時代にいるのだろうか。

    「小説 天気の子」、角川文庫、220~221頁

     このあたりの主人公の言動はまさにそういうものになっている。

     新海誠監督は小説版の「あとがき」でそのことに関して次のように語っている。

    映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを―例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを―語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。教科書とは違う言葉、政治家とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。それこそが僕の仕事だし、もしもそれで誰かに叱られるのだとしたら、それはもう仕方がないじゃないか。

    「小説 天気の子」、295~296頁

     新海誠監督は、「天気の子」の主人公が「正しかったり模範的だったりする」のでない言動をすることによって、人に「眉をひそめられ」、「叱られる」ことを知りながらあえてそうしたというのである。

     「人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願い」とは、この映画の「夢」を真実と信ずることであろう。

    終盤

    Photo by Divyanshi Verma on Unsplash

     主人公は警察から逃げて鳥居をくぐった。そして空の上でヒロインと出会って、ヒロインを取り戻した。

     その後も映画は続く。

    流れ

     その後に主人公は鳥居で目を覚ましたところを警察に逮捕された。主人公は高校卒業までの二年半保護観察処分とされた。

     高校を卒業した後、主人公は東京の大学に入るためにまた東京に出て来た。東京はあの日から降り続く雨によって水浸しになっていた。

     主人公はまず、「晴れ女」の依頼をしていた老女に会ったが、東京はもともと海だったので現在東京が水没しているのは元に戻っただけだと言われた。

     次に須賀に会ったが、主人公が世界のかたちを変えたと言うのに対して、そんなわけはない、うぬぼれるなと言われた。世界はもともと狂っていると言われた。

     その二人の言葉を聞いて、世界がこうであるのは誰のせいでもないのか、と主人公は考えながら歩いていた。

     ところが、ヒロインが祈っている姿を見て、主人公は自分が世界を変えたと確信する。自分がこの世界を選んだと確信する。

    意味

     映画のはじめの主人公の独白は、主人公が映画終盤で至った結論である。

    秘密

     はじめに「これは、僕と彼女だけが知っている世界の秘密についての物語だ」という主人公の独白がある。

     「僕と彼女だけが知っている世界の秘密」とは、この映画に描かれている「晴れ女」とか、ヒロインが犠牲になったこととか、主人公がそのヒロインを救ったこととかのことである。そのことは主人公とヒロインだけが知っていることである。

     映画「天気の子」は、主人公とヒロインだけが知っている「晴れ女」のことと、そのことをめぐる大人とのやりとりを描いたものである。「僕と彼女だけが知っている世界の秘密についての物語」というのはそういうことである。

     主人公は、はじめの独白で次に「あの景色、あの日見たことは全部夢だったんじゃないかと今では思う」と言っている。

     「あの景色、あの日見たこと」、すなわち犠牲になったヒロインを主人公が取り戻したことは、大人には存在しないことである。―主人公を逮捕した警察官には存在しない。晴れ女の依頼をしていた老女にも存在しない。須賀も存在しないという。

     主人公は、そういう大人の考えを二人から聞いて、「夢」だったのではないかと思った。「今では」そう思うというのは、時が経って隔たったこと、主人公自身、高校を卒業して大人に近づいていることによると思われる。

    結論

     しかし最後に主人公は「でも夢じゃないんだ。あの夏の日、あの空の上で僕たちは世界の形を変えてしまったんだ」と言う。

     主人公はヒロインが祈っている姿を見て、自分が世界を変えたと確信する。そのことは「夢」ではなかったと確信する。

    考察

     「天気の子」の終盤は、「天気の子」という作品の重要なところである。終盤の意義について小説版の須賀の言葉によって説明してみよう。

     小説版では、終章で大学生になるために東京に出て来た主人公に対して須賀は次のように言っている。

    若い奴は勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めててもそこにはなんにもねえの。大事なことはぜんぶ外側にあるの。自分を見ねえで人を見ろよ。どんだけ自分が特別だと思ってんだよ

    「小説 天気の子」、284~285頁

     「自分の内側」というのは、ヒロインが犠牲になったのを主人公が取り戻したということである。それに対して「大事なことはぜんぶ外側にある」というのは、大人の考え方ということができる。

     主人公はそういう須賀の言葉に動かされて「ヒロインが犠牲になったのを主人公が取り戻した」ことは「夢」だったのではないかと思ったが、ヒロインが祈っている姿を見て、「夢」ではなかったと確信する。

     「天気の子」という作品は、須賀の所謂「自分の内側」を中心とする物語である。逆に言うと、「外側」のことはそれほど重要ではない。

     この映画で主人公の選択による犠牲が水没した東京の光景くらいしか描かれていないのはそのことと関係がある。

     東京に出て来た主人公に二人の大人が主人公の責任を否定していることについて、主人公に甘いと言う批評があるが、この作品の主旨を考えると、主人公に甘くしているのではなく、問題を主人公の「内側」に限定していると思われる。

     たしかにそれにしても主人公が自分が大変なことをしでかしたと心慄くところがあってもよかったと思われる。老女に「なんであんたが謝るのさ?」と言われてうつむいているだけでは弱いと思われる。

     「晴れ女」の設定が粗いことも、「内側」のことであって、「外側」にはないことだからと考えることができる。
     多くのつっこみどころもそのように考えることができる。
     しかしそれにしてももう少し気にならないくらいに作り込んでもよかったのではないかと思う。

     つっこみどころについて↓

     「セカイ系」との関係については、長くなったので下の記事に書いた↓


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  • 新海誠監督の映画「天気の子」のストーリーの考察、つっこみどころなど

    新海誠監督の映画「天気の子」のストーリーの考察、つっこみどころなど

     2019年に公開された新海誠監督の映画「天気の子」。

     「天気の子」はその年に最も売れた映画であるが、そのストーリーのつっこみどころが気になる人もいる。

    https://tenkinoko.com/

    TOHO animation チャンネル
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    家出少年

    Photo by Jean Vella on Unsplash

     まず、主人公の高校生の少年が家出をしてフェリーで東京に行くところから気になる。

     主人公は何故に家出をして東京に行くのか?

     主人公はそもそも何をしようとしているのか?

     気になるが、明らかにされない。

     新海監督は「天気の子」で主人公の過去が描かれていないことについて、インタビューで次のように答えている。

    映画を見て、主人公である帆高の過去や家出の理由が描かれなかったことが気になった人も多いだろう。新海監督のなかで多少の迷いはあったそうだが、企画当初から考えていた「前を向いたまま止まらずに転がり続ける少年少女の話」を貫徹させるため、帆高の人物像は変えなかった。
     新海「主人公が過去のトラウマを克服するために何かをさせるのは、気分として今回はやりたくないなと考えていました。仮に描いたとしても、凡庸などこかで見た話にしかならないと思いましたから」

    映画.com「新海誠と川村元気が「天気の子」を“当事者の映画”にした思考過程」

    https://eiga.com/news/20190803/1/

     映画の中で主人公の「過去や家出の理由が描かれなかったこと」は、新海監督がわざとしたことであったという。

     新海監督は「天気の子」という作品を、「主人公が過去のトラウマを克服する」話ではなく、「前を向いたまま止まらずに転がり続ける少年少女の話」にすることを考えていたという。

     「天気の子」において「主人公の過去のトラウマ」は重要ではなく、その後に起こることが重要だということであろうか。

     しかし「天気の子」の主人公は、過去に何があったのか、気になるような作りになっている。

     主人公は高校一年生で家出をして東京で生きていくという、異常な、容易でないことを何故にやっているのか? ということは気にならざるを得ない。

     上の記事でも「映画を見て、主人公である帆高の過去や家出の理由が描かれなかったことが気になった人も多いだろう」と言われている。

     新海監督が言うように、「過去のトラウマ」を問題とせず、「前を向いたまま止まらずに転がり続ける少年少女の話」とするためには、主人公の過去が気にならないような作りにすべきではなかったか?

    共感

     川村元気プロデューサーは「天気の子」を「当事者の映画」として作ったと語っている。

    https://eiga.com/news/20190803/1/

     「当事者の映画」とは、観客が登場人物のことを自分のことのように観る映画のことのようである。

     観客が登場人物に共感できる映画のことのようである。

     新海監督はそのインタビューで「モブをモブとして描かないようにして、見ている人が、『これって私かもしれない』と思えるような人物になればと考えていました。」と言っている。

     主人公だけでなく、それぞれのキャラクターを、観客が共感できるように作ることを考えたというのである。

     「これって私かもしれない」という言葉をみると、「サブカルチャー神話解体」(宮台真司・石原英樹・大塚明子)の「これってあたし!」という言葉を思い出す。(増補版、ちくま文庫、32頁)

     しかし、主人公の過去が気になる作りになっているのに、それが描かれていないので、主人公に共感しにくい。

    金銭感覚

     主人公とその周りの人物の金銭感覚も気になる。

     高校一年生の主人公が身寄りのない東京で生きようとする場合、金が大きな問題となる。

     そして金について考えるとできることは限られる。

     それゆえに主人公は何故に東京にいたいのか、過去に何があったのか、ということが気になるのである。

     そこで主人公が中年男に食事をおごるという話が出てきて、混乱させられる。

    キャッチャー

     映画のはじめに、主人公はフェリーの甲板で一人で雨を浴びるが、流されて船から落ちそうになる、そこを須賀という人物に救われる。

     この場面は、現実的に考えると無理とも思われる。

     主人公が流されて船から落ちそうになるのを救うことができるところにちょうどその男がいたということは、ありえないことと思われる。

     この場面は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」をもとにした象徴的な場面と思われる。

     「天気の子」では主人公が、村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を持っているところが描かれている。

     「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公と「天気の子」の主人公に通ずるところがあると考えられているにちがいない。

     問題の場面は、小説版では、「だめだ、落ちる―その瞬間、誰かに手首を摑まれた。」と書かれている。(角川文庫、19頁)

     その言葉は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の有名な言葉を思わせる。

    とにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。(中略)ちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

    「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、白水社、2006年、293頁

     「天気の子」小説版の「だめだ、落ちる―その瞬間、誰かに手首を摑まれた。」というところは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の「よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチする」というところを思わせる。

     「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では、主人公ホールデンが「よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチする」という「ライ麦畑のキャッチャー」になりたいというのであるが、「天気の子」のはじめで、須賀は「ライ麦畑のキャッチャー」のように、「崖から落ちそうになる子ども」(=主人公)を「どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチする」者になっているようである。

     そして須賀は、その時だけでなく、その後も「ライ麦畑のキャッチャー」のように主人公を「キャッチ」している。

     はじめの船の上での出来事は、その後に起こることを象徴している。

    ・主人公は解放感を求めて甲板に出た。―そのことは、主人公が解放感を求めて東京に来たことを象徴する。

    ・甲板に出た主人公に、大量の水が落ちてきて主人公は流された。―東京に出た主人公は現実の厳しさに直面する。そして雨に濡れる。

    ・主人公は須賀に手首を摑まれてたすかった。―主人公は須賀に仕事と住まい、食事を与えられてたすかった。

     このように象徴と考えるとよくわかる。

     しかしこの場面を現実的な場面としてみると、主人公のように家出している人には、衣服を雨で濡らすことは、その後に困ることが多いと思われるのに、手放しでよろこんでいいのか? ということが気になる。

    出会い

    Photo by Stillness InMotion on Unsplash

     映画「天気の子」は、主人公の少年と、ヒロインとの関係を中心としているゆえに一見恋愛ものに見える。

     しかし恋愛ものとしては気になるところがある。

     新海監督はそもそも恋愛ものを作るつもりはなかったとすると、理解できる。

    https://kai-you.net/article/66464

     新海監督は「『天気の子』が“若い2人のラブロマンス”っていうつもりもなかったですし」とか「疑似家族──家出した少年が東京で人と出会って疑似家族のようなものを形成していって。そこで出会った相手がたまたま異性でしたが──一人のすごく大切なヒロインと大きなことを乗り越えるっていう話にしようと思っていました」とか語っている。

     「疑似家族」を形成する話であって、恋愛の話ではないとすると理解できる。

    深夜のファストフード店

     はじめての出会いは西武新宿駅近くのマクドナルド。

     主人公が飲み物だけで夜を過ごしていると、店員の女の子がビッグマックを持ってきて、「あげる。内緒ね」と言い、「君、三日連続でそれが夕食じゃん」と言って、微笑んだ、というもの。

     恋愛ものとして違和感があったが、ヒロインが恋愛対象としてではなく、保護者として現れていると考えると理解できる。

    歌舞伎町

     次に出会ったのは歌舞伎町の路地である。

     主人公はその女の子が風俗営業の男に連れて行かれるところに出くわして、自分の意に反して連れて行かれていると思い込んで、女の子を逃がそうとしたが、その男につかまる。

     主人公が持っていた銃を撃って、その男が虚を突かれた時に、女の子に連れられて二人で代々木の廃ビルに行く。

     この場面はいろいろと奇妙である。

     まず、主人公が実情を知らずに、自分が正しいと思い込んだことのために突き進むところは、主人公のそういう人物像を表現したものとみることができる。

     しかし、ヒロインが自ら水商売をしようとしていたことは、恋愛もののヒロインの性格造形として奇妙である。

     その後にヒロインは主人公を連れて風俗営業の男から逃げているが、ヒロインには風俗営業の男から逃げる理由はない。

     ヒロインは、主人公を代々木の廃ビルにまで連れて行きながら、主人公に「最悪」という言葉を投げつけて出て行こうとしているが、主人公に「最悪」と言うためには、代々木の廃ビルに行く必要はない。

     ヒロインはその後に反省した主人公のところに帰ってきて優しい言葉で自分の事情を説明している。

     以上の奇妙なところは、ヒロインが恋愛の相手としてでなく、保護者として振る舞おうとしていると考えると理解できる。

     保護者として振る舞おうとしているゆえに、水商売で働こうとするのであり、

     主人公のために保護者として振る舞おうとしているゆえに、自分のことを置いて、主人公とともに行くのであり、

     保護者として振る舞おうとしているゆえに、主人公に対して飴と鞭を使い分けて導こうとしているのである。

     ヒロインが主人公に対して年上だと偽るのも、保護者として振る舞おうとしているからである。

     「天気の子」の話は、自分を保護者として、自分のことを犠牲にして他の人のために働こうとするヒロインに対して、主人公が主体的になって、ヒロインが犠牲になることをやめさせる話ということができる。

     「天気の子」は一見、二人が初めて出会ったところから、恋愛ものとして始まっているように見える。

     しかし実際にはヒロインが恋愛の相手としてではなく保護者として振る舞おうとしているゆえに、恋愛関係にはならない。

     主人公がヒロインの保護者として振る舞おうとするところをやめさせようと働きかけることから、新たな関係が生ずるのである。

    ヒロインの弟

     主人公はヒロインの弟の女性とうまくつきあうすべを知っていることを尊敬して「センパイ」と呼んで教えを乞うている。

     これは、主人公がヒロインに対しても、ヒロインの弟に対しても、正面から向き合うことができていなかったということであろうか?

    超常要素

    Photo by Yoav Aziz on Unsplash

     映画のはじめに、ヒロインがその力を身に付けるところが描かれている。

     病院で眠る母の病室の窓の外に、空からさす一筋の光を見て、ヒロインは、その光のさすところへ行ってみた。―その光は、廃ビルの屋上にさしていた。屋上の鳥居にさしていた。その鳥居をヒロインが手を合わせて目をつむって鳥居をくぐる。「思わず強く願いながら彼女は鳥居をくぐった」という主人公のナレーションがある。突然、下から吹き上げるような風があって、ヒロインは空高く飛んでいた。

     そのことによってヒロインは、晴れていない空に晴れをもたらすことのできる力を身に付けたとされているが、気になるところがある。

    原因がわからない

     まず、ヒロインは何故に他の人が持たない力を持つことができたのか?

     ヒロインが他の人と異なるものを持っていたということはないようである。

     ヒロインはただ「強く願いながら」「鳥居をくぐった」だけのように見える。そうだとすると、他の人も「強く願いながら」「鳥居をくぐった」ならば、その力を身に着けることができるのか?

     その鳥居をくぐればいいのか? そうだとすると何故にその鳥居をくぐればいいのか?

    目的とのずれ

     ヒロインが願った結果としてその力を身に着けたのに、ヒロインの願いと、その願いによって身に付けた力とは、ちぐはくに見える。

     映画の中ほどで、ヒロインはその時のことについて「もう一度お母さんと青空の下を歩きたかった」と願っていたと語っている。

     その時に願っていたのは、母の快復ではないか?

     しかし身に着けたのは「青空」をもたらす力であった。

     母の快復を願っていたのに、そのことと関係のない晴れ女の力を身に付けて、肝心の母は亡くなってしまった。

    流れ

     ヒロインは、病床で大変な状態にあると思われる母を見舞っている時に、窓の外の雨の中に一筋の光を見て、「気づけば、彼女は病院から駆け出していた」、そして光のところまで行った、という流れになっている。

     これでは、窓の外にさす一筋の光が見るために、病床で大変な状態である母をおいて行った、というかたちになっている。

     そうではないかたちにできたのではないか―たとえば、病院の出口で、医師とか看護師とかと母の容態について話して、その間に母の病室を見上げるなどして、重い気持ちで帰る途中で、空から一筋の光がさすのが見えた、とか。

    ビジネス

     ヒロインは主人公のすすめによって、晴れ女の力によって金を稼ぐことになった。

     私は「魔女の宅急便」を思い出した。ただし「魔女の宅急便」では、主人公は自分の生まれ持った能力を鍛えて金を稼ぐのであるが、「天気の子」では、ヒロインがわけもわからず手に入れた能力によって金を稼ぐのである。

     この映画で描かれているような晴れ女ビジネスが流行すると、もっと社会的な問題になるのではないかと思うが、この映画ではそういうことはない。この映画では社会がそのように描かれているのである。

    須賀との関係

     主人公は須賀のところに来てから、須賀の家に住み込みで働いていた。その時に「晴れ女」ビジネスを始めたのである。

    須賀

     主人公は、ヒロインと「晴れ女」ビジネスを始めたことを須賀に言わないでいたようである。須賀が主人公に言わずに「晴れ女」ビジネスに申し込んでいたとわかった時に、主人公は「俺のこのバイト知ってたんですか?」と言っている。

     主人公は須賀の家に住み込みで仕事を与えられている立場であるのに、外で新しいビジネスを始めて、そのことを須賀に言わないことは、おかしくないか?

     しかも主人公が須賀に与えられている仕事は「晴れ女」のようなことを追及することであって、現に初めてやった仕事は「晴れ女」を題材としていた。
     主人公はその「晴れ女」に出会ったのに、そのことを須賀に言わずに、須賀と別に新しいビジネスを始めている。おかしくないか?

    夏美

     ついでに須賀の姪夏美についても書いておこう。

     夏美は主人公と「晴れ女」との関係を知っていた。それにもかかわらず、須賀に知らせなかったことは、やはりおかしいと思う。

     PCで超常現象を見て、主人公が記事にすればと言ったのに対して、夏美が「つまんない大人になりそう」と言っているところは気になる。
     夏美は就職活動に行くところであって、その気持ちでそう言ったということかと思われる。しかし夏美はその後もその仕事を続けているし、夏美はもともとその仕事に合った素質を持っているように描かれていた。他の会社に就職活動に行くからといって、突然その仕事にそれほど冷淡になるだろうか?

     主人公は、須賀が「晴れ女」ビジネスに申し込んだ時まで、夏美は須賀の愛人だと思い込んでいたということになっている。
     しかし数カ月(3月から夏まで)須賀の家に住み込んで身の回りの雑用をしていたのに、愛人だと思い込み続けることがあり得るだろうか?

    「晴れ女」「人柱」の設定

     晴れ女として晴れをもたらすことには代償がある。―体が透明になっていくこと、空に浮くことである。

     晴れ女が犠牲になってこの世から消えることで、狂った天気が元に戻る、とされる。

    透明になること、空に浮くこと

     体が透明になっていくことと、空に浮くこととは、いずれも後にこの世から姿を消して空に行ってしまうことの前兆と考えることができる。

     しかし透明になっていくことと、空に浮くこととは、姿を消して空に行く道筋としては別のことではないか。それが同時に進行することはおかしくないか?

     ヒロインはそれまでも空に浮いていたのであろうか? それにもかかわらず、弟にも主人公にも気づかれなかったのであろうか? この時には、空に浮いた後に降りてきているが、空に上っていくだけでなく降りてくることもあるのか?

    それまでの代償と人柱

     ヒロインが「犠牲」になるかならないかは、ヒロインの意思にあることとされているようである。

     しかしそれまで体が透明になっていったことと、空に浮くこととは、いずれもそれまでヒロインが晴れをもたらした代償として受けたことであった。ヒロインが「人柱」にならないと決めたとして、それまでの代償までなくなるのか?

    人柱説

     ヒロインは、自分が犠牲になってこの世から消えることで狂った天気が元に戻ると信じて、そうすることを決断した。

     しかしどうしてそう信ずることができたのか?

     ヒロインは夏美から神社の神主の「晴れ女が犠牲になってこの世から消えることで、狂った天気が元に戻る」という言葉を聞いているが、それだけで、そのことを真実だと信じて、自身を犠牲にすることを決断することができるであろうか?

     夏美がヒロインにその神主の話を伝える理由もわからない。

    終わりに

     以上、「天気の子」の脚本について考えてみた。

     つっこみどころをとりあげるとともに、その背後の作者の考えについて考えてみた。そうして理解できたのではないかと思われるところもあった。

     しかしやはりなおした方がいいのではないかと思うところもあった。

     「新海誠絵コンテ集6天気の子」(KADOKAWA、2020年)で新海誠監督は脚本が作られた時期について次のように語っている。(778頁)

    「天気の子」の脚本ができるまでの時系列
    • 2017年2月末
      企画書を出す
    • 3カ月
      プロット会議を繰り返す

      あらすじや登場人物を確定させる

    • 3か月後
      脚本の執筆作業
    • 2017年9月か10月
      「脚本のおおよそが固まった」

      それからビデオコンテ制作

     それだけ会議を繰り返していたのに、つっこみどころをなおさないでいたのは何故であろうか?

     作品の意味については下の記事でさらに考えてみた↓


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