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  • エルンスト・ルビッチのフィルモグラフィ

    エルンスト・ルビッチのフィルモグラフィ

     エルンスト・ルビッチ Ernst Lubitsch は1920年代から1940年代にかけて、アメリカで多くの映画の監督を務めた人物である。

     その演出は異彩を放っていて、「ルビッチ・タッチ」と言われて、多くの人に影響を与えた。

     ルビッチがアメリカで撮った映画を年代順にまとめてみた。

     現在日本で手に入るものについてもまとめてみた。

     ルビッチはアメリカで映画を撮る前にドイツで多くの映画を撮っているが、数が多く、今手に入らない作品が多いゆえに、ここでは扱わない。

    略歴

    Myriams-FotosによるPixabayからの画像

     エルンスト・ルビッチは1892年にドイツ・ベルリンで生まれた。

     1910年代にドイツで映画監督を始めた。

     1920年代にハリウッドに招かれた。

     多くの映画を撮って、1947年に亡くなった。

    アメリカ映画

    Photo by Cameron Venti on Unsplash

    「ロジータ」

     原題は「 ROSITA 」

     1923年。

     ユナイテッド・アーティスツ United Artists 。

     ロマンス。

     主演はメアリー・ピックフォード Mary Pickford 。

     メアリー・ピックフォードは、サイレント映画の大スターである。

     ユナイテッド・アーティスツは、メアリー・ピックフォードがチャップリン、D.W.グリフィス、ダグラス・フェアバンクスとともに設立した映画製作会社である。

     ルビッチはそういうところに招かれたわけである。


    DVD “Rosita” (1923) Ernst Lubitsch, Mary Pickford, Holbrook Blinn, Classic Silent Drama

    https://en.wikipedia.org/wiki/Rosita_(film)

    「結婚哲学」

     原題は「 The Marriage Circle 」

     1924年。

     ワーナー・ブラザーズ Warner Bros. 

     ルビッチはワーナー・ブラザーズと契約した。

     コメディ。

     この中年の恋愛喜劇は、ルビッチの洗練された演出、「ルビッチ・タッチ」の代表作の一つである。

     ルビッチはプロデューサーも務めている。

     出演は、アドルフ・マンジュ― Adolphe Menjou 、マリー・プレヴォスト Marie Prevost 、モンテ・ブルー Monte Blue 、フローレンス・ヴィダー Florence Vidor 他。


    結婚哲学 [DVD]

    「3人の女」

     原題は「 Three Women 」

     1924年。

     ワーナー・ブラザーズ。

     ドラマ。

     ルビッチは脚本も務めている。

     出演は「結婚哲学」のマリー・プレヴォスト他。

    https://en.wikipedia.org/wiki/Three_Women_(1924_film)

    「禁じられた楽園」

     原題は「 Forbidden Paradise 」

     1924年。

     フェーマス・プレイヤーズ・ラスキー Famous Players Lasky

     コメディ。

     出演はポーラ・ネグリ Pola Negri 、アドルフ・マンジュ―等。

    https://en.wikipedia.org/wiki/Forbidden_Paradise

    「当世女大学」

     原題は「 Kiss Me Again 」

     1925年。

     ワーナー・ブラザーズ。

     コメディ。

     出演は、マリー・プレヴォスト、モンテ・ブルー等。

     現在フィルムが失われているらしい。

    https://en.wikipedia.org/wiki/Kiss_Me_Again_(1925_film)

    「ウィンダミア卿夫人の扇」

     原題は「 Lady Windermere’s Fan 」

     1925年。

     オスカー・ワイルド原作。

     ワーナー・ブラザーズ。

     ロマンス。

     ルビッチはプロデューサーをも務める。

     DVD。


    ウィンダミア夫人の扇《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

    「陽気な巴里っ子」

     原題は「 So This Is Paris 」

     1926年。

     ワーナー・ブラザーズ。

     コメディ。

     出演はモンテ・ブルー、リリアン・タッシュマン Lilian Tashman 等。

     これもないのか? 面白いのに。

    https://en.wikipedia.org/wiki/So_This_Is_Paris_(1926_film)

    「思ひ出」

     原題は「 The Student Prince in Old Heidelberg 」

     1927年。

     MGM。

     ここでワーナー・ブラザーズから離れている。

     ロマンス。

     ルビッチはプロデューサーをも務めている。

     出演はレーモン・ナヴァロ Ramon Navarro 等。


    Student Prince in Old Heidelburg [VHS]

    https://en.wikipedia.org/wiki/The_Student_Prince_in_Old_Heidelberg

    「愛国者」

     原題は「 Patriot 」

     1928年。

     パラマウント。

     パラマウントとの関係はこの映画から。

     ドラマ。

     出演はエミール・ヤニングス Emil Jannings 等。

     失われたという。

     この映画は大体においてサイレントであったが、有声のところもあったという。

    https://en.wikipedia.org/wiki/The_Patriot_(1928_film)

    「山の王者」

     原題は「 Eternal Love 」

     1929年。

     ユナイテッド・アーティスツ。

     ロマンス。

     出演は、ジョン・バリモア John Barrymore 等。

     サイレント。


    山の王者 [DVD]

    https://en.wikipedia.org/wiki/Eternal_Love_(1929_film)

    「ラヴ・パレード」

     原題は「 The Love Parade 」

     1929年。

     パラマウント。

     ミュージカル。(有声)

     出演は、モーリス・シュヴァリエ Maurice Chevalier 、ジャネット・マクドナルド Janet MacDonald 等。

     モーリス・シュヴァリエ、ジャネット・マクドナルドとの関係はここから。


    ラヴ・パレード [DVD]

    パラマウントのパレード

      Paramount on Parade

     1930年。

     パラマウントによる、多くの監督、多くのスターを起用したレヴューだという。

     ルビッチはその監督の1人。

     出演者はジーン・アーサー、モーリス・シュヴァリエ、ジョージ・バンクロフト、ケイ・フランシスなど。

    https://en.wikipedia.org/wiki/Paramount_on_Parade

    「モンテカルロ」

     原題は「 Monte Carlo 」

     1930年。

     パラマウント。

     ルビッチはプロデューサーをも務める。

     ミュージカル。

     出演はジャネット・マクドナルド、ジャック・ブキャナン Jack Buchanan 等。

     ジャック・ブキャナンは23年後の「バンド・ワゴン」(フレッド・アステア主演)で天才演出家の役を演じている。


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    「陽気な中尉さん」

     原題は「 The Smiling Lieutenant 」

     1931年。

     パラマウント。

     ミュージカル。

     出演はモーリス・シュヴァリエ、クローデット・コルベール Claudet Colbert 、ミリアム・ホプキンス Miriam Hopkins 。

     ミリアム・ホプキンスはここから。


    陽気な中尉さん [DVD]

    「私の殺した男」

     原題は「 The Man I Killed Broken Lullaby 」

     1931年。

     パラマウント。

     ドラマ。

     出演はライオネル・バリモア Lionel Barrymore 等。


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    「君とひととき」

     原題は「 One Hour With You 」

     1932年。

     パラマウント。

     ミュージカル。

     出演は、モーリス・シュヴァリエ、ジャネット・マクドナルド。


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    「極楽特急」

     原題は「 Trouble in Paradise 」

     1932年。

     パラマウント。

     コメディ。

     出演は、ハーバート・マーシャル Herbert Marshall 、ミリアム・ホプキンス、ケイ・フランシス。

     ポスター。


    極楽特急エルンスト?ルビッチ映画ポスター装飾看板8×12インチ金属錫看板

     DVD。


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    「百万円貰ったら」

     原題は「 If I Had a Million 」

     1932年。

     パラマウント。

     コメディ。

     複数の監督によるアンソロジー。


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    「生活の設計」

     原題は「 Design for Living 」

     1933年。

     パラマウント。

     コメディ。

     出演は、ゲーリー・クーパー Gary Cooper 、フレデリック・マーチ Fredric March 、ミリアム・ホプキンス等。

     ゲーリー・クーパーはここから。


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    「メリー・ウィドウ」

     原題は「 The Merry Widow 」

     1934年。

     MGM。

     ミュージカル。

     出演は、モーリス・シュヴァリエ、ジャネット・マクドナルド等。


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    「真珠の首飾り」

     原題は「 Desire 」

     1936年。

     「真珠の頸飾り」という表記のものもある。

     パラマウント。

     コメディ。

     ルビッチはプロデューサーで、監督はフランク・ボーゼイジ Frank Borzage 。

     出演は、ゲーリー・クーパー、マルレーネ・ディートリヒ Marlene Dietrich 等。


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    「天使」

     原題は「 Angel 」

     1937年。

     パラマウント。

     ロマンス。

     出演は、マルレーネ・ディートリヒ、ハーバート・マーシャル、メルヴィン・ダグラス Melvyn Douglas 等。

     VHS。


    天使【字幕版】 [VHS]

     DVD。


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    「青髭八人目の妻」

     原題は「 Bluebeard’s Eighth Wife 」

     1938年。

     パラマウント。

     コメディ。

     出演は、ゲーリー・クーパー、クローデット・コルベール等。


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    「ニノチカ」

     原題は「 Ninotchka 」

     1939年。

     MGM。

     コメディ。

     出演は、グレタ・ガルボ Greta Garbo 、メルヴィン・ダグラス等。


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    「街角 桃色の店」

     原題は「 The Shop around The Corner 」

     1940年。

     MGM。

     コメディ。

     出演は、ジェームズ・スチュアート James Stuart 、マーガレット・サラヴァン Margaret Sullavan 等。


    街角 桃色の店(字幕版)

    「淑女超特急」

     原題は「 That Uncertain Feeling 」

     1941年。

     ルビッチ・プロダクション。

     コメディ。

     出演は、メルヴィン・ダグラス、マール・オベロン Merle Oberon 等。


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    「生きるべきか死ぬべきか」

     原題は「 To Be or Not to Be 」

     1942年。

     アレクサンダー・コルダ・プロダクション。

     コメディ。

     出演は、キャロル・ロンバード Carole Lombard 、ジャック・ベニー Jack Benny 等。


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    「天国は待ってくれる」

     原題は「 Heaven Can Wait 」

     1943年。

     20世紀フォックス。

     ロマンス。

     出演は、ジーン・ティアニー Gene TIerney 、ドン・アメチー Don Ameche 等。


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    「ロイヤル・スキャンダル」

     原題は「 A Royal Scandal 」

     1945年。

     20世紀フォックス。

     コメディ。

     出演は、タルラ・バンクヘッド Tallulah Bankhead 等。


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    「ルービッチュの小間使い」

     原題は「 Cluny Brown 」

     1945年。

     20世紀フォックス。

     ロマンス。

     出演は、ジェニファー・ジョーンズ Jennifer Jones 等。


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    「あのアーミン毛皮の貴婦人」

     原題は「 That Lady in Ermine 」

     1945年。

     20世紀フォックス。

     ミュージカル。

     出演は、ベティ・グレイブル Betty Grable 、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア Douglas Fairbanks Jr. 等。


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    気になること

    Engin AkyurtによるPixabayからの画像

     いくつか気になることを書いておこう。

    ミュージカル

     ルビッチは1920年代末から1930年代前半にかけて、ミュージカル映画を撮っている。

     映画がサイレントからトーキーになる時に、多くのミュージカル映画が作られた。

     ルビッチの作品はその一つである。

     そしてルビッチのミュージカルは、バズビー・バークレイのもの、フレッド・アステアのものの他に独特なものとなっている。

    恋愛喜劇

     ルビッチのミュージカルは、歌、踊りの他は、話も演出も、ミュージカルでない恋愛喜劇と共通するところが多い。

     上で「ロマンス」に分類した作品の中にも、恋愛喜劇と共通するところがある。

    俳優

     ルビッチの作品には繰り返し主役を演ずる俳優がいる。

    モーリス・シュヴァリエ

     トーキー初期の1920年代末から1930年代初めにかけて、モーリス・シュヴァリエが繰り返し起用されている。

     ジャネット・マクドナルドも。

    ハーバート・マーシャル

     ハーバート・マーシャルは多くないが、印象深い。

     ミリアム・ホプキンスはそれより多く、印象深い。

    メルヴィン・ダグラス

     メルヴィン・ダグラスは1940年前後に繰り返しルビッチの作品に出演している。

     この人も、私にはルビッチ作品の印象が強い。

    ゲーリー・クーパー

     ルビッチがゲーリー・クーパーを繰り返し起用して、ケーリー・グラントを一度も起用しなかったことは、興味深い。

    参考文献


    ルビッチ・タッチ
  • フレッド・アステアの映画「足ながおじさん」

    フレッド・アステアの映画「足ながおじさん」

     1955年に公開された映画「足ながおじさん」は、ジーン・ウェブスターの有名な小説「あしながおじさん」をもとにしたミュージカル映画。

     フレッド・アステアとレスリー・キャロンが共演して様々なダンスを見せている。

     ジョニー・マーサーの名曲に包まれるような気持ちになる映画。


    足ながおじさん [DVD]

    「足ながおじさん」原作と映画の違い

    蜘蛛
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    脚本家

     映画「足ながおじさん」の脚本はヘンリー・エフロンとフィービ・エフロンによる。

     ヘンリー・エフロンとフィービ・エフロンは、「恋人たちの予感」などの脚本で有名なノーラ・エフロンの両親。

    同じところ

     話は大体においてウェブスターの小説と同じ。

    ・孤児院にいた少女が、見知らぬ男性の支援によって、大学に入ることになる

    ・大学に入った主人公はその見知らぬ男性に対して繰り返し手紙を書く


    あしながおじさん(新潮文庫)

    違うところ

     違うところは色々ある。

    視点

     第一に視点が違う。

     原作小説は、はじめを除くと、その手紙によって構成されている。―読者は、主人公の見たこと、考えたことを伝えられる。

     映画は、男性の視点から話が始まって、男女それぞれの視点から描かれている。

    フランス

     映画では、主人公の孤児をフランス人のレスリー・キャロンが演じているからか、フランスの孤児の話になっている。

     原作の主人公はアメリカ生まれ、アメリカ育ちで、フランス語を苦手にしている。

    歌、踊り

    Photo by Yogendra Singh on Unsplash

     映画「足ながおじさん」の作詞作曲はジョニー・マーサーが担当している。

    「ビートの歴史」”History of the Beat”

     フレッド・アステアがドラムスティックを使ったダンス。

    「足ながおじさん」”Daddy Long Legs”

     レスリー・キャロンの演ずる孤児がアメリカの大学に行くことができると聞いて、よろこびをかみしめながら、夜の庭の灯りを消していくところで背後に流れる女声のコーラス。

     やさしい歌で心に残る。

     映画の中で繰り返し流れる。

    孤児の空想

     主人公の孤児が「足ながおじさん」に宛てて書いた手紙の中で、相手のことを空想しているところがある。

    ・テキサスの億万長者

    ・国際的なプレイボーイ

    ・守護天使

     それぞれをフレッド・アステアがそれぞれの衣装で、それぞれの音楽、それぞれの踊りで演じている。

     守護天使の踊りは、レスリー・キャロンと二人。

    スルーフット “Sluefoot “

     大学のダンスパーティで大勢で踊る「スルーフット」( “Sluefoot” )に、フレッド・アステアとレスリー・キャロンが加わる。

     大勢の中で二人が向き合うまでとか、二人が中心となっていくところとか、大勢で盛り上がっているところとか、演出がうまい。

     バンドリーダーはレイ・アンソニー。

     コミカルなところのあるダンス。

    「サムシングズ・ガッタ・ギヴ」 “Something’s Gotta Give”

     「サムシングズ・ガッタ・ギヴ」 “Something’s Gotta Give” はこの映画からの名曲。

     フレッド・アステアの演ずる人物が歳の差にもかかわらずレスリー・キャロンの演ずる人物を愛する気持ちをうたう。

     二人が踊りに陶酔して夜を明かす感じ。

     ビング・クロスビー。


    Something’s Gotta Give

     ジョニー・マーサー自ら歌ったものもある。


    Something’s Gotta Give

    悪夢のバレエ

     映画終盤の大がかりなバレエ。

     ローラン・プティによる振り付けで、レスリー・キャロンが大勢の踊り手とともにバレエを見せる。

    「ドリーム」 “Dream”

     ジョニー・マーサーの名曲「ドリーム」( “Dream”)はこの映画の前に作られた作品であるが、この映画の重要なところで流れて感動を高めている。


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    シネマスコープ

    イラストACから

     「足ながおじさん」は、20世紀フォックスが開発したばかりの「シネマスコープ」で撮られている。

     「シネマスコープ」とは横の長さが縦の長さの2倍以上もある横長の画面である。

     アメリカ映画では、1932年に映画芸術科学アカデミー( Academy of Motion Picture Arts and Sciences 、アカデミー賞を出しているところ)が、映画の縦横の比率について、1.375 : 1をスタンダードとしていた。

     ところが、テレビに対抗するために20世紀フォックスは「シネマスコープ」を開発して、1953年の「聖衣」( “Robe” )から導入した。

     「足ながおじさん」はそれからまもなく「シネマスコープ」で作られた。

     ジーン・ネグレスコ監督は、「シネマスコープ」をうまくつかいこなしている。


    映画パンフレット 「足ながおじさん(東宝/A4弱版)」 監督 ジーン・ネグレスコ 出演 フレッド・アステア/レスリー・キャロン/テリー・ムーア/セルマ・リッター/フレッド・クラーク

    レスリー・キャロンのインタビュー

    anncapicturesによるPixabayからの画像

     レスリー・キャロンの2021年のインタビューで「足ながおじさん」に触れているところがあったのでとりあげておこう。

     インタビュアーは父親ほど年の離れた男性の相手役にされることについておかしいと思ったかと聞いている。それに対してレスリー・キャロンは問題としなかったと答えている。

     ただ偉大な俳優と仕事をすることに緊張していたという。

     当時の映画は、近年の映画と比べて現実から離れていたという。

    Did she find it strange being cast opposite men who were old enough to have been her father? “No. I didn’t question it. I was thrilled to be asked by those great actors. I think the movies have caught up with reality a little more these days.”

    The Guardian
    ‘I am very shy. It’s amazing I became a movie star’: Leslie Caron at 90 on love, art and addiction

     レスリー・キャロンは1931年生まれ。

     初めて共演したジーン・ケリーは1912年生まれ。レスリー・キャロンと20近く離れている。

     フレッド・アステアは1899年生まれ。「足ながおじさん」を撮影した時には、フレッド・アステアは55歳、レスリー・キャロンは23歳であった。

     映画「足ながおじさん」はその年の差に向き合って、解決してみせた作品ということができる。

    https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2021/jun/21/i-am-very-shy-its-amazing-i-became-a-movie-star-leslie-caron-at-90-on-love-art-and-addiction

     ついでにこの記事でレスリー・キャロンがジーン・ケリーとフレッド・アステアの違いについて聞かれているところをとりあげよう。

    Caron is one of only six women who danced with Kelly and Fred Astaire in movies. She says that while Kelly always danced close to the ground, with Astaire (in 1955’s Daddy Long Legs) she felt as if she was floating. Who did she prefer? She gives me a look. “It’s not fair to ask me that. For 70 years, I’ve refused to answer that. A great dancer is a great dancer.” She says they were such different men – Kelly tough and generous, Astaire urbane and genteel.

    The Guardian
    ‘I am very shy. It’s amazing I became a movie star’: Leslie Caron at 90 on love, art and addiction

     レスリー・キャロンはどちらが好みかという質問には70年間答えることを拒んできたという。

     2人とも偉大なダンサーであるといい、次のような違いがあるという。

     ジーン・ケリーは地に足のついた感じ、フレッド・アステアは宙に浮く感じ。

     ジーン・ケリーは力強く寛大、フレッド・アステアは都会的で上品。

    フレッド・アステアの妻の死

    Photo by Jonathan Farber on Unsplash

     「足ながおじさん」は、1954年7月にリハーサルを始めていたが、9月にフレッド・アステアの妻フィリスが病気で亡くなった。

     フレッド・アステアはそのために「足ながおじさん」に「打ち込めない」とプロデューサーのサミュエル・エンゲルに語った。製作にかかった全費用を自腹をきって支払いたいとまで言った。

     結局、サミュエル・エンゲルが説得してフレッド・アステアは映画に出演することにした。

     以上は「アステア ザ・ダンサー」、280~282頁


    アステア―ザ・ダンサー

    映画「足ながおじさん」のDVD


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  • 「風立ちぬ」―宮崎駿監督はどのように堀越二郎を作り変えたか

    「風立ちぬ」―宮崎駿監督はどのように堀越二郎を作り変えたか


    風立ちぬ [DVD]

     2013年に公開された宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」は、堀越二郎という実在の人物をもとにしているが、実在の人物とは違うものにしている。

     どう違うか?

     宮崎駿監督は何を考えてそうしたか?(敬称略)


    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

    rise-a-muiによるPixabayからの画像

    少年の夢

    映画「風立ちぬ」

     映画「風立ちぬ」は、主人公の少年が夢で飛行機に乗って空を飛んでいくところから始まる。


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    「零戦 その誕生と栄光の記録」

     堀越二郎は著書「零戦 その誕生と栄光の記録」で次のように語っている。

    自分が作った軽い小さい飛行機に乗り、野こえ、山こえ、低空飛行を楽しんでいる夢をよく見たものである。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫) 」、角川文庫、20頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

    考察

     映画「風立ちぬ」のはじめに少年の時の夢が描かれているのは、「零戦 その誕生と栄光の記録」の記述をもとにしているようである。

     違うと思われるところもある。

     堀越二郎は「零戦 その誕生と栄光の記録」において、少年時代の「飛行機への関心は、中学から高校に進むにつれ、いつしか私の心の表面からは消えていった」と言い、「大学進学にあたってコースを決めなければならなくなったとき、少年時代の記憶が心の底からよみがえってきた」と語っている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、21頁)

     映画「風立ちぬ」の堀越二郎は、少年時代から飛行機を設計するという夢を持っていて、その夢に向かって進んだ結果、大人になって飛行機を設計する仕事に就いたように見える。

     ここに両者の違いが現れている。

     夢は自分の内にあるものである。

     映画「風立ちぬ」の堀越二郎は、少年の時からひたすら自分の内にある夢に向かって進んでいる。そして、そのことによって外からも、社会的にも認められることになっている。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」の堀越二郎は、少年時代の夢から出発しているのではなく、「大学進学にあたってコースを決めなければならなくなった」という外との関係から出発している。

    技術者と芸術家

    芸術家

     映画「風立ちぬ」の中で主人公が繰り返し見る夢において、主人公の目的は美であることが明らかにされている。

     夢に出て来るメフィストフェレス役のカプローニは「飛行機は戦争の道具でも、商売の手立てでもない。飛行機は美しい夢だ。設計家は夢に形を与えるのだ」という。

     目的は美であって、「戦争の道具」でも「商売の手立て」でもないというのである。

    技術者

     現実の堀越二郎も、飛行機の美しさにも気を遣っていた。

     零戦に対して「美しい」とも叫んだ。

    私は一瞬、自分がこの飛行機の設計者であることも忘れて、
    「美しい!」
    と、咽喉の底で叫んでいた。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫) 」、110頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     しかしこれは自分が飛行機の設計者であることを忘れた一瞬のことであった。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」で堀越二郎は美以外の様々なことについて考えていたことを明らかにしている。

     堀越二郎は技術者と芸術家とを区別して、自分は技術者だとしている。

    技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とはちがって、いつもきびしい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事をなしとげるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破ってゆくだけの自由な発想が必要なこともまた事実である。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、226頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     技術者も、高い水準の仕事のためには、芸術家と同じように自由な発想が求められるが、芸術家と違って、いつも「きびしい現実的な条件や要請」という「枠の中で」仕事しなくてはならないというのである。

     堀越二郎自ら、自分は宮崎駿の語るような芸術家ではないと語っていたのである。

     「零戦」はまさにそういう技術者の仕事として作られたという。

    思えば零戦ほど、与えられた条件と、その条件から考えられるぎりぎりの成果の上に一歩をふみ出すための努力が、象徴的にあらわれているものはめったにないような気がする。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、226頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     堀越二郎はそう言う意味で「戦争の道具」として飛行機を作っていたのである。

    条件との関係

    いらすとや

     宮崎駿は堀越二郎の言葉を受けて、次のように語っている。

    いろんな意見が出てきて、それをすり合わせるのが大変だったって書いてあるけど、何を作るかっていうのは、はじめから彼の中に強烈にあったんだと思います。それに軍隊の要求を近寄せただけでね。

    「Cut」2013年9月号、20頁

     宮崎駿はこのように堀越二郎は軍隊の要求から超然とした理想を自分の内にもっていた人物とみなしている。

     これは堀越二郎が「零戦 その誕生と栄光の記録」において「きびしい現実的な条件や要請」という「枠の中で水準の高い仕事をなしとげる」ということと相容れない。

     堀越二郎の仕事は条件を前提としたものである。海軍の発注、外国との競争、日本の資源等という条件を前提としたものである。

    零戦ができるまで

     零戦ができるまでの堀越二郎の創造と与えられた条件との関係について大雑把にまとめる。

     堀越二郎は三菱内燃機株式会社(後の三菱重工業)の一員として、陸海軍の注文を受けて、戦闘機を設計していた。

    陸軍や海軍の第一線機については、何社かに競争試作させ、勝ったほうの試作機が、軍に採用されて量産の注文を受けるという習慣ができたばかりの時代であった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、27頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     ワシントン、ロンドンの軍縮会議で軍艦の保有率が大幅に制限された状況で、航空兵力に目が向けられた。

     そしてその技術について外国への依存を断ち切る政策として昭和6~7年に海軍によって「航空技術自立計画」が立案された。航空技術の研究機関の総合機関として「海軍航空廠」が設立された。

    七試

     昭和7年にその計画の第一弾「七試(昭和七年試作発令)」の五機種が発注された。

     堀越二郎はそのうちの一つ七試艦上戦闘機の設計主任を命ぜられた。

    私がはじめて設計主任を命じられたのは、このうちの一つである七試艦上戦闘機だったのである。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、28頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     結局この時にはうまくいかなかった。

    九試

     昭和九年に海軍は「九試」を発注した。

     堀越二郎はまた設計主任となった。

     この時には海軍が要求をゆるめていて「われわれの自由な創造意欲をかきたててくれるものがあった」と堀越二郎は語っている。

     また「まがりなりにも、七試という新しい戦闘機のはじめから終わりまでを体験し、設計チームのメンバーにも息がかよいあうようになっていた」と語っている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」 、34頁)

     堀越二郎の設計した九試単戦は、「速度で世界のトップをいきながら、格闘戦のチャンピオンでもあるという、世界の常識を破った」ものとなった。

     そして昭和十一年秋に、「九六式一号艦上戦闘機」として正式に採用された。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、41頁)

    十二試

     昭和十二年十月に「十二試」の艦上戦闘機の計画要求書が交付された。

     「この要求書は、当時の航空界の常識では、とても考えられないことを要求していた」と堀越二郎は言う。( 「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、10頁)

    当時の戦闘機がふつうもっていた航続力を大幅に二倍程度にまで伸ばし、しかも当時、空戦性能においては、世界にその右に出るもののなかった九六艦上戦闘機、略して九六艦戦の二号一型よりすぐれた空戦性能をもたなくてはならない。速度も、九六艦戦の最大速度四百五十キロを大幅に抜く五百キロを要求していた。これは当時活躍していたどの戦闘機にもまさるものであった。さらにその九六艦戦では七・七ミリ機銃二挺しかなかったものを、それより格段に重装備で、七・七ミリ機銃とはちがい、爆薬をしこんだ炸裂弾を発射する二十ミリ機銃を、二挺加えよといっている。(中略)一人乗りの戦闘機にこれを装備するのは、世界でもはじめてのことであった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、13頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     堀越二郎は昭和十三年一月の官民合同の研究会で、要求の一部を引き下げることをもとめた。

     しかし海軍側からは「引き下げられない」と言われた。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、51~53頁)

     そこで堀越二郎は様々な問題について考えて、その要求にかなうような戦闘機を設計した。

     昭和十五年七月末、十二試艦戦は制式機として採用され、日本紀元二六〇〇年の末尾の零をとって「零式艦上戦闘機・一一型」と名付けられた。「零戦」とはその略称である。

    まとめ

     このように「七試」でも「九試」でも「十二試」でも、堀越二郎の仕事は、海軍の発注に対して、艦上戦闘機を設計することにあった。

    海軍との関係

     映画「風立ちぬ」では、「注文主」の海軍の軍人の言うことを会議で堀越二郎が聞くところで、前に並んだ海軍の軍人複数が意味のないことをうるさく言っているような演出になっている。

     そのことについて宮崎駿は次のように語っている。

    軍人が偉そうなこと言ったってろくでもない奴らだから、ほんとに大局観も何もない、国を誤らせた連中に弁解させたり、しゃべらせたりする必要はない。だからああいうふうに描こうって、初めから決めてました。

    「Cut」2013年9月号、19頁

     宮崎駿は、国を誤らせた軍人の言葉を聞く必要がないと考えているようである。

     しかしすべての軍人が「国を誤らせた」のではない。

     特に堀越二郎は、海軍の注文を受けて海軍のために戦闘機を作るという条件があったからこそ零戦はできたと語っているように、零戦は海軍によってできたということもできる。

     堀越二郎も「指導層の思慮と責任感の不足にもとづく政治の貧困」を問題としている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、224頁)

     しかしそのことと、海軍が戦闘機を発注したこととは別のことである。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」で零戦について堀越二郎が海軍とやりとりしているところをとりあげてみよう。

    計画要求書

     まず昭和十二年十月六日に堀越二郎が受け取った計画要求書は、無理と思われるほどのものであった。

     そこで堀越二郎はその要求書がつくられた会議の様子を想像している。

    私には、この要求書がつくられた会議の雰囲気が、目に見えるようだった。要求する側の人間ばかりが集まって、あれもこれもと盛りこんでしまったのだ。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、15頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     しかし堀越二郎は相手を馬鹿にしていない。

     「その人たちは、それぞれの部門のベテランで、日本をとりまく世界の情勢を考えてのことにちがいない」と言い、「私は、この計画要求書に、日本の国のせっぱつまった要請を聞く思いがした」と言っている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、15、16頁)

     堀越二郎はその計画要求書に、日本を取り巻く世界の情勢に対する日本の要請を聞き取っていたのである。

     堀越二郎は、発注した海軍に同情している。

     零戦が出来たのも、そういう計画要求書があったからだと堀越二郎は考えている。

    官民合同の研究会

     昭和十三年一月十七日の研究会で堀越二郎は海軍側に要求の一部を引き下げることを求めたが、海軍は「引き下げられない」と言った。

     そこでも堀越二郎は海軍側を馬鹿にしていない。「この困難な要求に決意を新たにして立ち向かわねばならないことをひしひしと感じていた」と書いている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、53頁)

    審議会

     昭和十三年四月十三日に海軍航空廠で審議会が開かれた。

     そこで格闘力を優先させるべきだという源田少佐と、速度、航続力を優先させるべきだという柴田少佐とが対立した。

     そのことについて堀越二郎は次のように語っている。

    この二人の意見は、だれが見てもそれぞれ正しいことを言っているのであり、それゆえに議論へ永久に平行線をたどるだろう。この交わることのない議論にピリオドを打つには、設計者が現実に要求どおりの物を作ってみせる以外にはない。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、80頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     ここでも海軍側を馬鹿にしているのではない。

    海軍部内の動揺

     華中の第一線にある第十二航空隊から、堀越二郎の構想に対して反対が唱えられたことがあった。

     それに対して堀越二郎が航空本部の巖谷少佐に自分の見解を伝えると、「巖谷少佐はかなり同意してくれた」という。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、87頁)

     このように海軍が堀越二郎の見解に同意したからこそ零戦はできたのである。

    まとめ

     宮崎駿は次のように語っている。

    会議ではものが決まらないようにしようって、この映画を作る時に思ったんです。

    「Cut」2013年9月号、19頁

     しかし宮崎駿も「『零戦』っていう本も会議だらけですよ。誰がどんなことを言った、誰がどんなことを言ったとかね」と言っている。(「Cut」2013年9月号、19頁)

     「零戦 その誕生と栄光の記録」には多くの会議のことが書かれている。零戦は、多くの会議で様々な要求を受けた上で出来たのである。

     宮崎駿はそのことを知っていたのに、映画では「会議ではものが決まらないようにし」た。

     このように宮崎駿は映画「風立ちぬ」で、事実とは異なることをわざと描いているのである。

    外国との関係

     堀越二郎が設計していた戦闘機は、外国の軍隊と戦うためのものである。

     それゆえに堀越二郎は外国のことをいつも意識していた。

      映画「風立ちぬ」でも主人公が外国を意識するところが描かれている。

     しかし外国に対する考えが違うように見える。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」で堀越二郎は、いかにして零戦によって日本の技術で欧米に対して先に進むことができたかを語っているのに、 映画「風立ちぬ」の堀越二郎は、外国に圧倒されているように見える。

    ドイツ

     たとえば堀越二郎がドイツに視察に行ったところ。

     映画では、堀越二郎は欧米の重みにつぶされそうに見える。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」では、堀越二郎は次のように語っている。

    会社から派遣されて、ドイツとアメリカの飛行機工場にはいって、工場を視察し、設計者と討論をしたり、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカの工場見学、各国の航空技術に関する刊行物の調査などにも手をつけていた。それらの経験から、日本でも適当な方針と組織、規模があれば、小型機で彼らに追いつくことは、一足飛びには不可能だが、そう長い年月はかかるまいという考え方をしていた。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、28頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     このように堀越二郎は、日本が技術においても資源においても、欧米の先進国の後を追ってきたことを認めていると同時に、間もなく追いつくことができるとも考えていた。

    「九試」

     堀越二郎は「九試」をきっかけとして、日本の飛行機設計は欧米先進国に対抗することができるようになったと考えていた。

    この九六艦戦誕生をきっかけとして、日本の飛行機設計者のあいだに、自分の頭で考え、自分の足で歩くときがきたという自覚が広がった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、41頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

    悲恋

    Photo by Elly Johnson on Unsplash

      映画「風立ちぬ」では、主人公の堀越二郎は里見菜穂子と出会って結婚することになっている。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」には全く書かれていないことである。

     堀越二郎の話に堀辰雄の話を入れたと宮崎駿は語っている。

     映画「風立ちぬ」で何故に堀越二郎と里見菜穂子の恋愛がさしこまれたのか?

     映画「風立ちぬ」において、堀越二郎は超然としてひたすら美を追い求める人として描かれている。

     この映画の里見菜穂子は、そのように美を追い求める人の前に現れた美の一つである。

     美を追い求めて戦闘機を設計し、美を追い求めて美女と結婚するのである。

    しあわせ

     いずれの場合も、追い求めた目標が苦も無く手に入ってしまう。―映画「風立ちぬ」の主人公は、恵まれた、しあわせな人である。

    暗黒面

     ところで映画「風立ちぬ」は、そのように美を追い求める主人公が、そのことの暗黒面をも見るという話になっている。

     貧乏な子供を見て、恵まれた自分との違いについて考えるとか。

     里見菜穂子に関しても、その暗黒面が描かれる。―里見菜穂子を置いて飛行機設計に没頭するとか、里見菜穂子がいるのに煙草を吸うとか、里見菜穂子が悲しいことになってしまうとか。

    現実

     映画「風立ちぬ」で堀越二郎と里見菜穂子の恋愛がさしこまれたもう一つの理由として、堀越二郎が「零戦 その誕生と栄光の記録」で語ったような、零戦ができるまでの苦労を描かないようにするという意図があったのではないか?

     「零戦 その誕生と栄光の記録」では、堀越二郎は昭和十二年十月の海軍の計画要求書を受け取ってから零戦を作るまで、与えられた大変な問題を解決するために、全身全霊をかけていたように見える。

    会社にいるときは、ややもすると目先の仕事だけに追われてしまうことが多かった。だから、私のこの頭の中での作業は、通勤の満員電車の中でも、家に帰ってからも、続くことがあった。夜中に目がさめてしまい、暗闇を見つめながら考えたこともあったし、夜おそく床にはいっても、なかなか寝つけないこともあった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、56頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     こういうところを見ると、映画の堀越二郎のように軽井沢で遊んでいる暇はなかったのではないかと思ってしまう。

    その多忙の中で、私たちは昭和十三年の四月を迎えた。が、桜の花の咲くのも散るのも、気にとめている余裕などあろうはずがなかった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、76頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     そして昭和十四年。

    昭和十四年の正月が開けた。それは、私がこの半年のあいだに味わった、もっとも平和なひとときであった。一昨年の六月に生まれた長男とも、このところ仕事に追われて、ろくに顔を合わせるひますらなかった。やっといま、親子そろった家庭らしい生活が、ちょっとの間でも復活したのだ。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、90頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     昭和十四年の正月にはじめて「親子そろった家庭らしい生活が、ちょっとの間でも復活した」のである。

     それまでそういうことはできなかった。この時にも「ちょっとの間」しかできなかった。

     現実の堀越二郎がそれだけ苦労していた時に、映画「風立ちぬ」はそのことを描かず、堀越二郎は美女とメロドラマを演じていたことにしているのである。

     現実の堀越二郎の苦労の話を描きたくないという意図がなかったとは思えない。

     美女との恋物語が描かれる分だけ、零戦を生み出す話を描く時間はなくなる。恋物語が差し込まれることによって、関心は分散させられる。恋物語をしていられるほど余裕があった印象が与えられる。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」は、堀越二郎が難解な問題を苦労して解決していくところを描いた記録である。

     映画「風立ちぬ」では、堀越二郎は特に苦労もせずに問題を解決してしまう。

    堀越二郎を描くこと

    Alexander LesnitskyによるPixabayからの画像

     宮崎駿は、映画「風立ちぬ」によって堀越二郎を「取り戻した」と語っている。

    『風立ちぬ』で、僕は僕の堀越二郎を取り戻したんだと思ってるんです、60年かかって。

    「Cut」2013年9月号、15頁

     宮崎駿はそのことが映画「風立ちぬ」の目的であったという。

    僕は自分のことを描いたんじゃない、堀越二郎を描いたんだ。二郎を取り戻したんです。僕流に取り戻したんです。

    「Cut」2013年9月号、27頁

     宮崎駿は何から堀越二郎を「取り戻した」のか?

     「零戦神話」からである。

     宮崎駿は次のように語る。

     「コンプレックスの塊だった連中の一部が、『零戦はすごかったんだ』っていう話をしはじめた」が「ほとんどが嘘の塊」であったと言い、「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記をもとにして、零戦の物語を作ろうとしている」と言って、そういう「零戦神話」に対して、堀越二郎を「取り戻した」、と。(「Cut」2013年9月号、14~15頁)

     ところで宮崎駿は、堀越二郎が自ら語るのと異なる堀越二郎を作っている。そのことはこれまで示してきた通りである。

     宮崎駿は堀越二郎その人を「取り戻した」のではなくて、堀越二郎を別物にすることで「取り戻した」ことにしているのである。

     堀越二郎は零戦について次のように語っている。

    当時の世界の技術の潮流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本の血の通った飛行機」―それが零戦であった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、4頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     そして「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」を書いた意図について次のように書いている。

    これからの若い世代が、たんに技術界だけでなく、すべての分野で日本の将来をより立派に築いていくために、誇りと勇気と真心をもって努力されることを念願して、私はこの本を書いた。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、5頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     堀越二郎も零戦はすぐれたものだと語っている。堀越二郎が「零戦 その誕生と栄光の記録」を書いたのはそのためである。

     それに対して宮崎駿は零戦はすごかったという話をやっつけたいと思っていた。そのために堀越二郎を現実とは違うものにしてしまった。

     堀越二郎の遺族は 映画「風立ちぬ」を観て、いいと言ったと言う。

    堀越二郎のご子息とその奥さんが、スタジオを見たいって、訪ねてきてくれたんですよね。
    (中略)
    『フィクションでございますんで』というお話はしたんですけども、観終わってね、ほんとに喜んでくれたんです。それで実にほっとしましたね。

    「Cut」2013年9月号、24頁

     そう言われてもやはり私はおさまらない。

     堀越二郎に関する記事。

    https://www.jiji.com/jc/v4?id=201403horijiro0001

    こまかいところ

     その他に気になるところをいくつか取りあげる。

    大学の講義

     映画「風立ちぬ」で主人公が友人の本庄と大学の昼休みに食事に行った時に、堀越二郎がいつもサバをとることについて本庄が「マンネリズムだ。大学の講義と同じだ」というところ。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」で堀越二郎が語るところと違う。

    航空に関する科学・技術は、その発祥地である欧米でもまだ歴史は浅く、体形づけられていなかった。だから、われわれの航空学科でも、講義の体系がなく、寄せ集めの感じだった。しかし、教室の雰囲気は、開拓時代にふさわしく、自由であり新鮮であり、所帯が小さいため、教官と学生のあいだも、学生同士もひじょうに親密だった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、24頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     「開拓時代にふさわしく、自由であり新鮮であり」というのは、「マンネリズム」と反対である。

     航空に関する科学・技術が欧米でもまだ歴史が浅かったということ、開拓時代であって講義の体系がなかったということは、歴史を論ずるときに重要なことではないか?

     三菱の名古屋の工場に牛がいて、戦闘機の試作機を岐阜の各務原飛行場まで牛車で運んでいくというところ。

     堀越二郎は「零戦 その誕生と栄光の記録」でそのことについて説明している。

     三菱の名古屋の工場は、岐阜県各務原飛行場から離れていた。

     日本には平野が少なかったゆえに、飛行場は工場から離れたところにしかできなかったのである。

     その離れた飛行場までの悪い道で飛行機に傷をつけないようにトラックではなく牛車で運んだのである。

     堀越二郎はそのことについて「日本的な、うまい状況適応策であった」と言っている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、100~101頁)

     映画で本庄という人物がそのことについて「恐るべき後進性だよ」と言っているのは、堀越二郎の考えと違うのではないか。

     宮崎駿はそういうところでも、堀越二郎の語ることに反して、日本の「後進性」を強調しているようである。


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  • オードリー・ヘプバーンの出演した映画リスト

    オードリー・ヘプバーンの出演した映画リスト

     「ローマの休日」によって世界的な映画スターになったオードリー・ヘプバーンは、その後に様々な映画に出演した。

     オードリー・ヘプバーンが出演した映画は多くないが、話題になった作品は多い。

    「ローマの休日」まで

     オードリー・ヘプバーンは「ローマの休日」によってスターになった。

     それまでオードリーは英国の映画に出ていた。

     「ローマの休日」に出演するまでのことは下の記事に書いた↓

     この時期に英国で出演した映画は次の通り。

    「天国の笑い声」

     原題は「 Laufghter in Paradise 」

     1951年。

     英国の映画会社 アソシエーション・ブリティッシュ・ピクチャー・コーポレーション Associated British Picture Corporation 。


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    「若気のいたり」

     原題は「 One Wild Oat 」

     1951年。

     エロス=コロネット Eros-Coronet、英国。


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    「ラヴェンダー・ヒル一味」

      原題は「 The Lavender Hill Mob 」

     1951年。

     イーリング・スタジオ Ealing Studios 。

     アレック・ギネス Alec Guinness 主演の映画。


    The Lavender Hill Mob [DVD]

    「若妻物語」

     原題は「 Young Wives’ Tale 」

     1951年。

     アソシエーション・ブリティッシュ・ピクチャー・コーポレーション 。


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    「初恋」

     原題は「 The Secret People 」

     1952年。

     イーリング・スタジオ 。

     オードリーの名が三番目に出て来る。


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    「モンテカルロへ行こう」

     原題は「 Monte Carlo Baby 」

     1952年。

     フェイヴァリット・ピクチャーズ Favourite Pictures 。

     フランスで撮影された。


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     「モンテカルロへ行こう」の撮影中にオードリー・ヘプバーンは、「ジジ」の作者コレットに見いだされて、ブロードウェイ劇「ジジ」の主役となった。

    「ローマの休日」

     原題は「 Roman Holiday 」

     1953年。

     オードリー・ヘプバーンはアメリカ映画「ローマの休日」の主役に選ばれた。

     パラマウント Paramount 。

     監督はウィリアム・ワイラー William Wyler 。

     共演はグレゴリー・ペック Gregory Peck 。

     公開は1953年。日本では1954年。


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    「麗しのサブリナ」

     原題は「 Sabrina 」

     1954年。

     パラマウント。

     監督はビリー・ワイルダー Billy Wilder 。

     共演はハンフリー・ボガート Humphrey Bogart 、ウィリアム・ホールデン William Holden 。


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     「麗しのサブリナ」を作る時に、ハンフリー・ボガートが監督、他の共演者と対立していたと言われる。

     そのことから「麗しのサブリナ」のストーリーの気になるところについて考えてみた。

    「戦争と平和」

     原題は「 War and Peace 」

     1956年。

     パラマウント。

     監督はキング・ヴィダー King Vidor 。

     共演はヘンリー・フォンダ Henry Fonda 。メル・ファラー Mel Ferrer (当時の夫)。


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    「パリの恋人」

     原題は「 Funny Face 」

     1957年。

     パラマウント。

      監督は スタンリー・ドーネン Stanly Donen 。

     共演はフレッド・アステア Fred Astaire 。


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    https://cocoro-mi.com/funnyface-movie/

     「パリの恋人」は、できるまでに複雑な話があった。ただし出演者、スタッフの関係はよかったようである。

    https://cocoro-mi.com/funnyface-backstage/

    「昼下りの情事」

     原題は「 Love in the Afternoon 」

     1957年。

     アライド・アーティスツ・ピクチャーズ・コーポレーション Allied Artists 。

      監督は ビリー・ワイルダー。

     共演はゲーリー・クーパー Gary Cooper 。


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     特典DVD「想い出のオードリー・ヘプバーン」つき。ゲーリー・クーパーが覆われている。


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    「緑の館」

     原題は「 Green Mansions 」

     1959年。

     メトロ・ゴールドウィン・メイヤー Metro Goldwyn Mayer 。

      監督は メル・ファーラー。

     共演はアンソニー・パーキンス Anthony Perkins 。


    緑の館 [VHS]

    「尼僧物語」

     原題は「 The Nun’s Story 」

     1959年。

     ワーナー・ブラザーズ Warner Bros. 。

     監督は フレッド・ジンネマン Fred Zinnemann 。


    尼僧物語 [DVD]

    「許されざる者」

     原題は「 Unforgiven 」

     1960年。

     ユナイテッド・アーティスツ United Artists 。

     監督はジョン・ヒューストン John Huston 。

     共演はバート・ランカスター Burt Lancaster 。


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    「ティファニーで朝食を」

     原題は「 Breakfast at Tiffany’s 」

     1961年。

     パラマウント。

     監督はブレイク・エドワーズ Blake Edwards 。

     共演はジョージ・ペパード George Peppard 。


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     製作50周年記念リストア版


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    「噂の二人」

     原題は「 The Children’s Hour 」

     1961年。

     ユナイテッド・アーティスツ。

      監督は ウィリアム・ワイラー。

     共演はシャーリー・マクレーン Shirley MacLaine 。


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    「シャレード」

     原題は「 Charade 」

     1963年。

     ユニヴァーサル Universal 。

      監督は スタンリー・ドーネン。

     共演はケーリー・グラント Cary Grant 。


    シャレード デジタル・リマスター版 ブルーレイ・コレクターズ・エディション 【初回生産限定】 [Blu-ray]

    「パリで一緒に」

     原題は「 Paris when it Sizzles 」

     1963年。

     パラマウント。

     監督はリチャード・クワイン Richard Quine 。

     共演はウィリアム・ホールデン。


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    「マイ・フェア・レディ」

     原題は「 My Fair Lady 」

     1964年。

     ワーナー・ブラザーズ。

     監督はジョージ・キューカー George Cukor 。

     共演はレックス・ハリソン Rex Harrison 。


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     こういうのも出ていた。


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     批判的考察↓

    「おしゃれ泥棒」

     原題は「 How to Steal a Million 」

     1966年。

     20世紀フォックス 20th Century Fox 。

     監督はウィリアム・ワイラー。

     共演はピーター・オトゥール Peter O’Toole


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    「いつも二人で」

     原題は「 Two for the Road 」

     1967年。

     20世紀フォックス。

     監督はスタンリー・ドーネン。

     共演はアルバート・フィニー Albert Finney 。


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     他にも。


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    「暗くなるまで待って」

     原題は「 Wait Until Dark 」

     1967年。

     ワーナー・ブラザーズ。

     監督はテレンス・ヤング Terence Young 。


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    「ロビンとマリアン」

     原題は「 Robin and Marian 」

     1976年。

     コロンビア Columbia 。

     監督はリチャード・レスター Richard Lester 。

     共演はショーン・コネリー Sean Connery 。


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    「華麗なる相続人」

     原題は「 Bloodline 」

     1979年。

     パラマウント。

     監督はテレンス・ヤング。

     シドニー・シェルダンの小説「血族」の映画化。


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    「ニューヨークの恋人たち」

     原題は「 They All Laughed 」

     1981年。

     タイム=ライフ/ムーン Time-Life/Moon 。

     監督はピーター・ボグダノヴィッチ Peter Bogdanovich 。


    They All Laughed

    「オールウェイズ」

     原題は「 Always 」

     1989年。

     ユニヴァーサル/ユナイテッド・アーティスツ。

     監督はスティーヴン・スピルバーグ Steven Spielberg 。


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    映画以外

     オードリー・ヘプバーンは家族を大事にしたと言われている。

     長男ショーン・ファラーの著書の日本語版。


    AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと

     次男ルカ・ドッティの著書の日本語版 。


    オードリーat Home―母の台所の思い出 レシピ、写真、家族のものがたり

     オードリーの2人の息子との関係についての記事。

    https://www.foxnews.com/entertainment/audrey-hepburn-sons-sean-hepburn-ferrer-luca-dotti-life-outside-of-hollywood

     オードリー・ヘプバーンは晩年、ユニセフに力を注いだ。

     自身が第2次世界大戦で体験したことによるところが大きかったようである。

  • 「昼下りの情事」 オードリー・ヘプバーンとゲーリー・クーパー

    「昼下りの情事」 オードリー・ヘプバーンとゲーリー・クーパー

     1957年に公開された映画「昼下りの情事 Love in the Afternoon 」は、オードリー・ヘプバーンが「パリの恋人」の次に出演した作品である。

     監督は「麗しのサブリナ」と同じビリー・ワイルダー。 「麗しのサブリナ」と同じ ように、恋愛をコミカルに描いている。

     共演はゲーリー・クーパーGary Cooper。(敬称略)

     オードリー・ヘプバーンが出演したその他の映画↓


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    暗さ

    Sara VaccariによるPixabayからの画像

     映画「昼下りの情事」は、私には暗い印象がある。

     脚本も演出もビリー・ワイルダーによるコミカルなものであるが、絵が暗いi印象がある。

    白黒

     「昼下りの情事」は白黒映画である。

     それゆえに暗く見えるということはあるであろう。

     「昼下りの情事」の前に作られた「パリの恋人」は、カラーであるだけでなく、カラーの中でも特に色の鮮やかな映画であった。

     「パリの恋人」と比べると一層「昼下りの情事」の暗さが目立つということもあるであろう。

     オードリー・ヘプバーンがそれまでに出演した映画では、「ローマの休日」(1953年)と「麗しのサブリナ」(54)は白黒、「戦争と平和」(56)、「パリの恋人」(57)はカラーであった。

     白黒からカラーに進んでいたのに、「昼下りの情事」ではまた白黒に後退したように見える、ということはある。

    内容

     ただし同じ白黒でも、「ローマの休日」には明るい印象がある。

     「麗しのサブリナ」も比較的に明るかったのではないかと思う。

      「ビリー・ワイルダー自作自伝」では、次のように薄暗くした室内で撮影が行われたと記されている。

    顔のしわが目立たないようにするために、ワイルダーはクーパーをホテル・リッツの薄暗くした室内で撮るようにし、ガーゼ越しに撮影するという手段も採用した―これは通常は、しわの多い女優を撮る場合にやむをえず実行される方法である。

    「ビリー・ワイルダー自作自伝」、484頁

    ビリー・ワイルダー自作自伝

     ゲーリー・クーパーのしわを目立たなくするために、薄暗くした室内で、ガーゼ越しに撮影が行われた。

     その結果、ゲーリー・クーパーのしわは目立たなくなったかもしれないが、画面が薄暗くもやのかかったものになった。

     オードリーの演ずる主人公の父親が探偵をやっているが、探偵というものは薄暗いものだということもできる。

     オードリーの演ずる主人公はチェロの奏者であるが、チェロも重く暗いものである。

    年齢

    AquilatinによるPixabayからの画像

     「昼下りの情事」でオードリー・ヘプバーンの相手役を務めるのはゲーリー・クーパーである。

    ゲーリー・クーパーとの差

     ゲーリー・クーパーは1920年代から1950年代に至るまでアメリカ映画で美男の役を演じ続けてきた人である。

     しかしそれゆえにゲーリー・クーパーの年齢とオードリー・ヘプバーンの年齢とは離れていた。

     オードリー・ヘプバーンは1929年生まれであるが、ゲーリー・クーパーは1901年生まれであった。

     20代の女性と50代の男性である。

     監督のビリー・ワイルダーはもともとケーリー・グラントを考えていたという。

     ビリー・ワイルダーは次のように語っている。

    『昼下りの情事』で残念だったのは、主役にケイリー・グラントを起用できなかったことだ。私の思い描くエレガントな主人公像にもっとも近い俳優だった彼を主人公に据えた映画を撮る夢はついに実現できなかった。

    「ビリー・ワイルダー自作自伝」、481~482頁

    ビリー・ワイルダー自作自伝

     ケーリー・グラントは1904年生まれで、年齢差はそれほど違わないようである。

    オードリーと年齢差

     このあたりのオードリー・ヘプバーンの映画では、オードリーと相手の男優との年齢は大きく離れている。

     「麗しのサブリナ」のハンフリー・ボガートも「パリの恋人」のフレッド・アステアも1899年生まれであった。

     1900年前後に生まれて1930年代、1940年代に映画スターであった人々が1950年代にも映画スターであったということでもあろう。

     オードリー・ヘプバーンはそういう男性を相手としても合うと思われていたのでもあろう。

     しかしまたそれだけ年齢の離れた男女の恋愛はおかしいとも言われる。

    ゲーリー・クーパーの場合

     「昼下りの情事」のゲーリー・クーパーはたしかに年老いているように見える。

     「パリの恋人」のフレッド・アステアより年老いているようにも見える。フレッド・アステアが軽やかなダンスを見せているのと比べると、動きが鈍くなっているように見える。

     そういう見せ場がないだけであろうか?

     ゲーリー・クーパーは1961年に亡くなっている。すでにその予兆が現れていたのかもしれない。

     「昼下りの情事」においてゲーリー・クーパーは、世界中で次々と違う女性と浮名を流すような男性を演じているが、それほど活発な男性に見えない。

     「昼下りの情事」のゲーリー・クーパーは、オードリーの演ずる女性の心をつかむ男性を演じているが、その力が弱いように見える。

     ゲーリー・クーパーは年老いたといっても、アメリカの映画の歴史において有名な美男である。

     力のある絵を撮ることはできなかったのであろうか?

     オードリーの演ずる主人公が探偵の娘として知った情報によって、ゲーリー・クーパーの演ずる男性の命を救おうとして、そのことによって相手に関心を持たれるというところなど、話の組み立てが面白い。

     オードリーの演ずる主人公がゲーリー・クーパーの演ずる男性に心をつかまれるというところは、すでに言ったように、説得力が弱い。

     オードリーの演ずる主人公は、ゲーリー・クーパーの演ずる男性に対抗するために大変な男性遍歴があると言う。

     そのことについて、オードリー・ワイラーは「そんなことはだれも信じません。ブリジット・バルドーが言ったのなら信じるでしょうけど」と言っている。(「オードリー・ヘプバーン物語」上、291頁)


    オードリー・ヘップバーン物語(上) (オードリー・ヘップバーン物語) (集英社文庫)

     たしかにオードリー・ヘプバーンのような女性が、大変な男性遍歴を語って相手に信じさせることができるか、という問題はある。

     ビリー・ワイルダーは原作を「一種のエディプス的コメディーへと変更した」と語っている。

    つまり、父を殺害した犯人を探すうちに自分に突き当たるエディプスと同じように、探偵であるアリアーヌの父は、嫉妬深い億万長者からの依頼でひとりの女を探すうちに、自分の娘を発見してしまう。

    「ビリー・ワイルダー自作自伝」、485頁

     たしかにモーリス・シュヴァリエの演ずる父親が、探偵としてさがすうちに自分の娘であったと知るところは面白い。

    日本

    Photo by Jie on Unsplash

     「昼下りの情事」では日本のことがとりあげられているところがある。

     はじめのモーリス・シュヴァリエの独白で、パリ、ロンドン、ニューヨーク、東京と並べられているところ。

     ゲーリー・クーパーの演ずる男性は世界各地の新聞でその艶聞が報じられるが、その中に日本語の新聞がある。

    他の作品との比較

     「昼下りの情事」を観ていると私は他の作品を思い出してしまう。

    「青髭八人目の妻」

     1938年に公開された「青髭八人目の妻 Bluebeard’s Eighth Wife 」は、ゲーリー・クーパー主演でビリー・ワイルダーの脚本であったということでも、「昼下りの情事」と関係がある。

     ゲーリー・クーパーの演ずるアメリカ人実業家は、クローデット・コルベールの演ずるフランス人女性と結婚するところまでいったが、それまで結婚離婚を繰り返してきたことをその女性に言ったことを受けて、その女性が対抗措置をとった。それに対して男性も対抗する、という話である。

     その男性がそれまで結婚離婚を繰り返してきたことをその女性に言うところが、少し似ている。

     「青髭八人目の妻」が男女の戦争を描いていたのと比べると、「昼下りの情事」は互いにやさしい。


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    「恋の手ほどき」

     映画「恋の手ほどき Gigi 」は、「昼下りの情事」の一年後の1958年に公開された映画である。

     「昼下りの情事」を観る前に観ていたせいか、似ていると思った。

     「昼下りの情事」では、主人公の少女アリアーヌは気になる男性フラナガンが次々と違う女性と浮名を流すさまをみる。

     「恋の手ほどき」では、主人公の少女ジジは親しい男性ガストンが次々と違う女性と浮名を流すさまをみる。

     どちらでもモーリス・シュヴァリエが、主人公の少女と相手の男性との関係に対して傍観者の役を演じている。


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     「恋の手ほどき」は、オードリー・ヘプバーンが「ローマの休日」の前にブロードウェイの劇の主役に抜擢された作品である。

    ビリー・ワイルダー

     ビリー・ワイルダーはエルンスト・ルビッチ、ハワード・ホークスに学んだ人である。

     「昼下りの情事」は、エルンスト・ルビッチやハワード・ホークスの恋愛喜劇に似ているようでもある。

     ゲーリー・クーパー、モーリス・シュヴァリエはエルンスト・ルビッチの恋愛喜劇に出演していた訳者である。

     しかし蓮實重彦は、ビリー・ワイルダーはエルンスト・ルビッチやハワード・ホークスと比べて泥臭いと言っていた。

    ただ、ぼくはビリー・ワイルダーって、好きなのはあるんだけど、やはりギャグが泥くさい…。
    (中略)
    ああいうのは、ホークスはやらないですよね。やっぱり、スクリューボール・コメディー、とくに、セックス・ウォー・コメディーはワイルダーまでは生き延びていないとぼくは思うんです。

    「ハワード・ホークス映画読本」、国書刊行会、2016年、266~267頁

    ハワード・ホークス映画読本

     私もそう思う。

     たとえば「昼下りの情事」のはじめにモーリス・シュヴァリエの独白で、パリでは至る所で恋する人がいるというのに合わせて、そういう映像が次々と出て来るところがある。

     そのあたりは、たとえばエルンスト・ルビッチ監督の「生きるべきか死ぬべきか」のはじめに、ポーランド人らしい名前の商店の看板の映像を、ナレーションとともに二、三出して、それでここはポーランドだ、というようなところを思い出す。

     ところがビリー・ワイルダーはくどい。

     たとえばセーヌ川の左岸で恋する人がいて、右岸で恋する人がいる、というところまではいいが、中間にもいるといって船の上のカップルを出すとか、昼でも夜でもとか、肉屋でもパン屋でもとか、それをまだまだ続けていくのは、くどい。

     それだけのために多くの男女を出しているのは、それだけ余裕があるということであろうか?

     また、はじめに抱き合う男女が、車に水をかけられても抱き合い続けるというところがある。

     そういうことは、エルンスト・ルビッチも、ハワード・ホークスもやらないのではないかと思う。

     思うに、そういうことはドタバタコメディである。チャップリンやキートンの映画にあるようなことである。

     エルンスト・ルビッチやハワード・ホークスは、そういうドタバタコメディと違う恋愛喜劇を作った。

     ビリー・ワイルダーはそういう恋愛喜劇にまたドタバタコメディを入れた、ということではないか。

     恋愛喜劇は登場人物の気持ちを主とする。ドタバタコメディは登場人物を笑う観客を主とする。

     ジプシー楽団はコミカルであるが、サウナで演奏するところなど、まさにドタバタコメディである。

     ここで問題がある。

     ビリー・ワイルダーは、エルンスト・ルビッチ、ハワード・ホークスの代表的な作品の脚本を担当している。

     それにもかかわらず、ビリー・ワイルダーが脚本を書いた作品と、ビリー・ワイルダーが監督した作品との間に違いがあるということはどういうことであろうか?

     ビリー・ワイルダーは、ルビッチ、ホークスの映画の脚本と、自分の監督した映画の脚本と、違うように書いていたのか?

     エルンスト・ルビッチ、ハワード・ホークスによってビリー・ワイルダーは抑えていたのか?

     オードリー・ヘプバーンが出演したその他の映画↓


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  • オードリー・ヘプバーンはどこで生まれ育ったのか~「ローマの休日」に出演するまで

    オードリー・ヘプバーンはどこで生まれ育ったのか~「ローマの休日」に出演するまで

     オードリー・ヘプバーンはアメリカの映画「ローマの休日」に出演して、多くの人に知られる人物となった。

     ところでオードリー・ヘプバーンはどこの国の人であったのか?

     どこで生まれ、どこで育ったのか?

    オードリー・ヘプバーンの母

     オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)の母は、オランダの貴族であった。

     オードリーの母エラ(Ella)は、オランダのファン・ヘームストラ(van Heemstra)家に生まれた。男爵の家であった。

      ファン・ヘームストラ家は、ユトレヒトの近くのドールン城を持っていたが、1920年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に売った。―ヴィルヘルム2世は第1次世界大戦の戦争犯罪人とされてオランダに逃亡していた。

     そしてファン・ヘームストラ家はオランダ東部アルンヘム(アーネム、Arnhem)の領地に住んでいた。

     オードリーの母エラは、1920年、19歳の時にオレンジ=ナッサウ勲爵士と結婚して、夫の任地オランダ領東インド諸島のバタヴィア(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)で2人の息子を生んだ。

     1925年にエラは離婚した。

      エラは 一度オランダのアルンヘムに帰った後にまたインドネシアに行って、そこで知り合った英国人のビジネスマン、ジョゼフ・ラストン(Joseph Ruston)と1926年に結婚した。

     1929年5月4日にジョゼフ・ラストンとエラ・ラストンの娘オードリー・ヘプバーンはブリュッセルで生まれた。

    オードリー・ヘプバーンの父

    国籍

     オードリー・ヘプバーンの父ジョゼフ・ラストンは英国籍であった。

     それゆえにオードリーは英国籍とされた。

    ヘプバーン

      オードリーの出生証明書には、名はオードリー・キャスリーン・ラストン(Audrey Kathleen Ruston)と記されている。

     ヘプバーンとは記されていない。

     オードリー・ヘプバーンの長男ショーン・ヘプバーン・ファラーはそのことについて次のように語っている。

    第一次世界大戦後、母の父親であるアンソニー・ヴィクター・ラストンは家系図を探し出し、先祖がかつてヘップバーンと名乗っていたことを知った。そこで彼は名前にヘップバーンをつけ足し、母の戸籍上の名前にもヘップバーンが足されることになった。

    「母、オードリーのこと」、竹書房、2004年、XIV

    AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと

     そうしてオードリー・ヘプバーンの父の名にヘプバーンがつけ足されて、アンソニー・ジョゼフ・ヴィクター・ヘプバーン―ラストンになったという。(「母、オードリーのこと」、7頁)

     オードリーの次男ルカ・ドッティの「オードリー at Home 」では次のように記されている。

    彼女のヘップバーンというのは祖父の苗字で、1939年4月6日に加えられた

    「オードリー at Home 」改訂版、フォーイン スクリーンプレイ事業部、2019年、245頁

    オードリーat Home―母の台所の思い出 レシピ、写真、家族のものがたり

     ただしオードリーの出生証明書でも、1944年の身分証明書でも、1946年~1951年のパスポートでも、名はオードリー・ラストンと書かれていて、ヘプバーンは付け足されていない。

    オードリーの家族の離合

    Photo by Jakob Owens on Unsplash

    離婚

     1935年5月に、オードリー・ヘプバーンの父ジョゼフ・ラストンは、妻と娘を残して家を出た。

     エラの父親(オードリーの祖父)がジョゼフ・ラストンの反ユダヤ主義のこと、財産管理のことで怒ったからだという。

     エラとジョゼフとはそれまでしばしば口論していたようであるが、ジョゼフが家を出た時にエラは一晩で髪の毛が真っ白になるほど苦しんで泣いたという。

     1938年にエラとジョゼフは正式に離婚した。

     母エラがオードリーの優先保護権を得たが、父ジョゼフは娘(オードリー)が英国にとどまること、自分に訪問権が与えられることを要求した。

     オードリーはその後も英国に住み続けた。

    第2次世界大戦

     第2次世界大戦はオードリー・ヘプバーンの人生に大きな影響を与えた。

    イギリス

     1939年9月にナチスがポーランドに侵入した。それに対して英国はドイツに宣戦布告した。

     その時に、エラはオードリーをオランダに連れ帰る裁判所の許可を得た。

     オードリーは英国からオランダに出国することになったが、その時に空港に連れて行ったのは、父ジョゼフであった。

     オードリーはそれから20年、父ジョゼフと会うことはなかった。(1959年にその時の夫メル・ファラーのおかげでオードリーはアイルランドで父と再会することができた。)

    オランダ

     英国より安全だからということで、オードリーはオランダのアルンヘムで暮らすことになったのであるが、1940年にドイツがオランダに侵攻してオランダは降伏した。

     オードリーの母エラは、オードリーの名をエッダ(Edda)とし、姓をファン・ヘームストラ(van Heemstra)として、オランダの学校に通わせた。

     オードリーの長男ショーン・ヘプバーン・ファラーはそのことについて次のように語っている。

    オードリーという名はあまりにイギリス的だと心配し、戦時中のみ母の名をエッダに変えた。

    「母、オードリーのこと」、XIV

     危険を避けるために、オードリー・ヘプバーンという英国風の名前を、オランダ風のエッダ・ファン・ヘームストラに変えたというのである。

     1942年8月に、エラの姉ミーシェの夫オットー・ファン・リンブルグ・シュティルムが、ドイツに抵抗したということで、ドイツ兵によって森の中で射殺された。

     1944年9月17日に始まったマーケット・ガーデン作戦で、アルンヘムは英国軍とドイツ軍の戦場となった。

    イギリス

     1945年に第2次世界大戦が終わった後、オードリー ・ヘプバーンは母エラとともに アムステルダムに移り住んだ。

     1948年にオードリーとエラは英国に渡った。

     以上のことは、バリー・パリスの「オードリー・ヘップバーン物語」(集英社、2001年)などの伝記、ショーン・ヘプバーン・ファラーの 「母、オードリーのこと」、 ルカ・ドッティの「オードリー at Home 」 による。


    オードリー・ヘップバーン物語(上) (オードリー・ヘップバーン物語) (集英社文庫)

    バレエ

    Eric BlochetによるPixabayからの画像

     オードリー・ヘプバーンは、はじめバレエによって世に出ようと考えていた。母もその考えを支えていた。

     オードリーがバレエを稽古していた時期は第2次世界大戦と重なっていた。

     1941年にオードリーはアルンヘム音楽学校のウィニア・マロ―ヴァのもとで本格的なバレエの稽古を始めた。

     1945年にオードリーは母とともにアムステルダムに移住した。当時のオランダ・バレエ界の第一人者ソニア・ガスケル(1904~1974年)のもとでバレエをやるためであった。ウィニア・マロ―ヴァの推薦状による。

     1948年にオードリーは母とともに英国に渡った。その前にマリー・ランパート(1888~1982年)のバレエ・スクールのオーディションを受けて、入学することがきまっていた。

     結局オードリーはランパートからクラシックダンサーとして成功する肉体も才能もないと言われてしまった。

    映画

    Andreas GlöcknerによるPixabayからの画像

    オランダ

     1948年にオードリーがガスケルのスタジオにいた時に、オランダの映画製作者による「 Dutch in Seven Lessons 」という映画に出た。

    イギリス

     1949年には、アメリカのヒットミュージカル「ハイ・バトン・シューズ」のイギリスのプロデューサーによるロンドン公演のダンサーに応募して、出演した。

     「ハイ・バトン・シューズ」を観たロンドンの興行師セシル・ランドーは、自ら制作演出する「ソース・ピカント」にオードリーを出演させた。

     イギリスの映画会社アソシエーション・ブリティッシュ・ピクチャー・コーポレーション Associated British Picture Corporation の映画の配役担当部長ロバート・レナードは、 「ソース・ピカント」 のオードリーを気に入って映画「天国の笑い声」に出演させた。

     「天国の笑い声」はその年のイギリス映画で最大の興行収入を上げた。

     オードリーは続いてABPCの映画「若気のいたり」、「若妻物語」、「ラヴェンダーヒル一味」に出演した。

     1952年の映画「初恋 The Secret People 」でオードリーは3番手の役を演じた。

     次の映画「我らモンテカルロに行く」の撮影中、モンテ・カルロでオードリーは作家コレットに見出されて、コレットの「ジジ」のブロードウェイ劇の主役とされた。

     パラマウントのロンドン制作部長リチャード・ミーランドは「天国の笑い声」のオードリーに感銘を受けていて、「ローマの休日」に推薦した。

    アメリカ

     オードリーは「ジジ」、「ローマの休日」のためにアメリカに行った。

     そしてスターになった。

     オードリー・ヘプバーンが「ローマの休日」以前に出演した映画、「ローマの休日」以後に出演した映画は、今手に入る日本語版とともに、下の記事にまとめた↓

    終わりに

     オードリー・ヘプバーンの国籍がわかりにくいことにはそれだけの理由があった。

     オードリー・ヘプバーンは「ローマの休日」をはじめとするアメリカ映画によって多くの人に知られている。

     しかしオードリー・ヘプバーンはアメリカで生まれたのでも、アメリカで育ったのでもない。

     ヨーロッパで生まれ育った人である。

     オードリー・ヘプバーンの父は英国籍であったが、母はオランダの貴族であった。

    ・両親が離婚して、母が優先保護権を得たが、第2次世界大戦が始まるまでは英国にいた。

    ・第2次世界大戦が始まってからオランダで母とともに暮らした。

    ・第2次世界大戦の後に母とともに英国に渡った。そして英国で出演した映画がきっかけでアメリカ映画「ローマの休日」に出演することになった。

     このようにわかりにくくなる理由があったのである。


    AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと

    オードリーat Home―母の台所の思い出 レシピ、写真、家族のものがたり
  • 「もののけ姫」についての批判的考察

    「もののけ姫」についての批判的考察


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     1997年に公開された宮崎駿監督の映画「もののけ姫」は、記録的な興行収入を上げた映画である。

     その映画に対して批判的考察を試みる。(敬称略)


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    批判的考察に至るまで

    veronica111886によるPixabayからの画像

     初めて「もののけ姫」を観た時には大変な作品だと思った。

     そのころ私は森の持つ力などということについて考えていた。

     「もののけ姫」は私の考えていたような森の持つ力を見事に描いていると思ったのである。

     ところが数年前に宮崎駿監督の作品を批判的に見返した時に、色々と疑問を感じた。

    たたり神

     アシタカの村にたたり神が襲ってくる、というところから始まる。

     見返すと、たたり神がそれほど恐ろしく描かれていないことが気になる。

     青空の下に全身を現わすより、夜中に全貌のわからない形で出て来た方が恐ろしい。

     イノシシがたたり神になったものであるのに、もとのイノシシの方が恐ろしい。

     「平成狸合戦ぽんぽこ」のように、人間と対立する動物の側がすでに劣勢になってしまっているということを現わしているのであろうか?

    エボシとサンの対決

     アシタカは、エボシのところに来る。

    エボシ

     エボシは、山を削って砂鉄をとることに成功した人である。

     それまではそうしようとしても山犬に抵抗されてできなかったが、エボシは石火矢によって山犬に対抗することができたのである。

     そこでアシタカの腕についた「たたり」がうずく。

     山犬などはまさにエボシを殺したいのである。

     しかしまた、エボシが、売られた娘を引き取るとか、病んだ人を引き取るとかしている人であることも明らかにされる。

     アシタカはそのことにも同情する。

     そこにもののけ姫が襲ってくる。

     しかしいかにもののけ姫の身体能力が高く、憎悪で燃えているとしても、多くの銃を持った人が構えているのに対して何もできるはずがない。

     登場人物が言っているように「追い詰められている」ようである。

     その前のエボシと山犬の戦いでも、銃を構えた人間に対して、二、三頭の少し大きめの山犬が襲い掛かったところで、対抗できるとは思えない。

     追い詰められたところを描いているのかもしれないが、それにしてももう少し有効な反撃はできるのではないか、とも思う。

    サン

     なぜかサンとエボシが戦っているところにアシタカが割って入って、サンを負ぶって、山犬のところへ連れて行く。

     一人でエボシたちに囲まれてしまったサンは、エボシたちにとらえられるほかないと思われる。

     アシタカが超人になることによって、サンを山犬のところへ連れて行くところは、強引である。

     サンがひとりでエボシたちに取り囲まれるところまで行った、ということに問題があるのではないか?

     たとえばエボシのところから出て、サンのところに行ったというかたちにした方がよかったのではないか?

     そうした方がサンの側に重みが加わる。

     逆に言うと、現状ではサンの側が軽くなっている。

     前にも言ったように、わざとそう描いているのであろうか?

     サンがアシタカに好意を持つ流れもいささかわかりにくい。

     アシタカはサンを救ったのであるから、それゆえに好意を持ったということでいいのではないか?

     突然アシタカとサンの立場が入れ替わるとか、サンがアシタカを殺そうとしていたのに突然アシタカを生かそうとするとかいうところは、気持ちの流れについていけない。

    疑問

     この映画では、エボシとサン、森を削るものと守るもの、の対決が主題だと私は思っていた。

     その思想の対決が主題だと思っていた。

     話の流れはそういう方向に進んでいるように見えた。

     そういう方向で進むと興味深いと思った。

     ところが、サンの描き方が軽い。なかなか対決にならない。

     その上に、サンや山犬と、猩々、イノシシなどの不一致が描かれる。エボシをめぐる複数の勢力の争いとか陰謀とかが描かれる。

     その結果、エボシとサンの対決ということからどんどん遠ざかっていく。

     どうも主題が複雑になったことによって、曖昧になっているように見える。

     「もののけ姫」が2021年に作られたならば、気温上昇とか、大雨による土砂崩れ、浸水とかが描かれていたのであろうか?


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  • 「麗しのサブリナ」

    「麗しのサブリナ」

     1954年に公開された映画「麗しのサブリナ SABRINA 」は、「ローマの休日」でスターになったオードリー・ヘプバーンがその次に出演した映画である。

     そして「麗しのサブリナ」もオードリー・ヘプバーンの代表作になった。


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    「麗しのサブリナ」とシンデレラ

    Thomas B.によるPixabayからの画像

    変身

      「麗しのサブリナ」 の見どころは変身である。

     豪邸の運転手の娘サブリナは、その豪邸の次男に惚れていたが、見向きもされなかった。

     ところがサブリナはパリに行って洗練された女性になって帰ってくる。

     変身したサブリナに対して、豪邸の人々はどう反応するか?

     次男はどう反応するか?

     オードリー・ヘプバーンは、変身して輝くことができるので、こういう話に合っている。

     オードリー・ヘプバーンはもともと変身する前から夢の世界の人のようであるので、こういうおとぎ話のような映画に合っている。


    Audrey: The 50s

    「麗しのサブリナ」のファッション

     サブリナの変身では、衣装が重要な役割を果たしている。

     パリに行く前のサブリナは、地味な服装であった。(「ローマの休日」の衣装も担当したイーディス・ヘッド Edith Head による)

     パリに行った後のサブリナは、ジバンシイ Hubert de Givenchy による洗練された衣装を身に着けている。

     「麗しのサブリナ」でジバンシイの衣装を着たオードリー・ヘプバーンは、特に輝いている。

     ドレスも、サブリナ・パンツも、オードリーの個性、若々しさと相まって、特別な輝きを放っている。

     「麗しのサブリナ」の時のオードリーの写真を集めた本も出ている。

     サブリナの衣装を着て撮影の現場にいるオードリーの写真、自分の部屋で自由にしているオードリーの写真。

     オードリーの言葉、オードリーを知る人の言葉も入っている。


    Charmed by Audrey: Life on the Set of Sabrina

     日本語版。


    オードリーに魅せられて~サブリナの日々~

    「麗しのサブリナ」の豪華さ

     「麗しのサブリナ」は豪華な感じがする映画である。

     舞台になっている豪邸には、パラマウントの最高幹部バーニー・バラバンのロングアイランドの邸宅が使われている。

     監督のビリー・ワイルダー Billy Wilder は、1950年代のアメリカ映画を代表する監督の一人であるが、恋愛喜劇の監督として有名であったエルンスト・ルビッチに学んだ人でもあった。

     「麗しのサブリナ」も、その流れにある夢のような恋愛喜劇とになっている。

     「麗しのサブリナ」が夢のような映画になっていることは、オードリー・ヘプバーンによるところが大きい。

     しかしその他の共演者によるところも少なくない。

     ハンフリー・ボガートも、ウィリアム・ホールデンも、アカデミー主演男優賞を受賞した俳優である。特にウィリアム・ホールデンはビリー・ワイルダーの喜劇と合う俳優であったと思われる。

     サブリナの父を演じたジョン・ウィリアムズをはじめとして、脇役にもいい俳優が起用されている。

     今はBlu-rayで観ることができる。


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  • 【映画】「パリの恋人」 ファッションモデルを演じたオードリー・ヘプバーン

    【映画】「パリの恋人」 ファッションモデルを演じたオードリー・ヘプバーン

     1957年に公開された映画「パリの恋人」(原題は “Funny Face”)は、オードリー・ヘプバーンがファッション雑誌のモデルになってパリで撮影をするという映画。

     パリの様々な名所を背景として、ジバンシイの様々な衣装を着たオードリー・ヘプバーンがファッション雑誌のための写真を撮っていく。

     ガーシュウィン兄弟の名曲を、オードリー、フレッド・アステアが歌い、踊る。


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    「パリの恋人」

    エッフェル塔
    Photo by Andrea Maschio on Unsplash

     「パリの恋人」の原題は “Funny Face”(=ファニー・フェイス)。

     「ファニー・フェイス」は1927年のブロードウェイ・ミュージカルで、フレッド・アステアが姉のアデルとともに主演、ガーシュウィン兄弟が楽曲を作った。

     「パリの恋人」は1927年の「ファニー・フェイス」からガーシュウィン兄弟の楽曲を使って、話は変えたもの。

     ガーシュウィン兄弟の名曲の他に新たに曲が付け加えられた。


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    映画「パリの恋人」とファッション雑誌

    Photo by Joyce McCown on Unsplash

     映画「パリの恋人」はファッション雑誌をもとにして作られている。

    リチャード・アヴェドン

     「パリの恋人」は、ファッション写真家リチャード・アヴェドン(Richard Avedon)の話をもとにしている。

     リチャード・アヴェドンはモデルを発見し、育てて、愛し合うようになったということがあった。

     映画でフレッド・アステアが演ずるカメラマンのディックは、リチャード・アヴェドンをもとにして作られた人物である。

    https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Avedon

     リチャード・アヴェドン は「視覚コンサルタント」( Special Visual Consultant )として映画に参加している。

     「パリの恋人」には、リチャード・アヴェドンによってファッション雑誌のような映像になっているところが多い。


    Funny Face

    ダイアナ・ヴリーランド

     「パリの恋人」に出て来るファッション雑誌の編集長マギーは、ダイアナ・ヴリーランド( Diana Vreeland )をもとにしていると言われている。

     ダイアナ・ヴリーランドは、「ハーパーズ・バザー」で1939年からファッションエディターを務めて、1963年から「ヴォーグ」の編集長に就任した人である。

    https://en.wikipedia.org/wiki/Diana_Vreeland

    カーメル・スノウ

     またカーメル・スノウ Carmel Snow をもとにしているとも言われている。

     カーメル・スノウは、1934年に「ハーパーズ・バザー」の編集長に就任していて、ダイアナ・ヴリーランドを見出した人である。

     「パリの恋人」の初めにカーメル・スノウと「ハーパーズ・バザー」誌に対する感謝の意がのべられている。

    https://en.wikipedia.org/wiki/Carmel_Snow

    「パリの恋人」のDVD、Blu-ray

     「パリの恋人」のように凝った映像は高画質で観たい。


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     ただしBlu-rayには映像特典がついてない。

     DVDにはドキュメンタリー「パラマウント1950’s」という映像特典がついている。(フォトギャラリー、オリジナル劇場予告編も)


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  • 「ローマの休日」 オードリー・ヘプバーンの出世作

    「ローマの休日」 オードリー・ヘプバーンの出世作

     「ローマの休日 Roman Holiday 」は1953年に公開されたアメリカ映画。日本では1954年に公開された。

     この映画によってオードリー・ヘプバーンはスターになった。


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    あらすじ

    Photo by Mathew Schwartz on Unsplash

     ヨーロッパの王国の王女アン(オードリー・ヘプバーン)は、ロンドン、アムステルダム、パリ、そしてローマを訪問していた。

     ローマを訪れた夜、王女は公務に対する不満が爆発して、ひそかに町に抜け出した。

     ところがその前にうたれていた眠り薬のために道端で眠りかけていた。

     そこに新聞記者のブラッドリー(グレゴリー・ペック)が通りかかった。

     やりとりの末、ブラッドリーは相手をアン王女と知らないまま自分の部屋に連れて行った。

     翌朝、ブラッドリーが寝坊して職場に行って、自分の取材対象のアン王女の写真をみると、昨夜自分が部屋に連れて行った女性であった。

     ブラッドリーはアン王女の記事を書こうと考えた。

     アン王女は、この機会に自分のやりたいことをやろうと考えていた。

     ブラッドリーはアン王女のやりたいことを手伝うというかたちで、アン王女に気づかないふりをして一緒に過ごした。

     ローマの町で一日遊んで、追手から逃れるなどしている間に、2人の間に恋愛感情が生じた。

    おとぎばなし

    Photo by Zoltan Tasi on Unsplash

     「ローマの休日」の物語は全体的におとぎばなしのようである。

     王女という高貴な身分の人物の話。

     いつも暮らしているところとは異なるところを冒険する話。

    休日

    写真ACから

     「ローマの休日」は「休日」の話である。

    王女

     アン王女は公務を休んで遊ぶ。

     そういう意味で「休日」である。

     アン王女は公務によって疲労していた。

     そのために自分で「休日」をとったのである。

    新聞記者

     ブラッドリーも「休日」を装ってアン王女の「休日」に付き合っていた。

     しかし実は仕事のつもりであった。

     ところがブラッドリーはアン王女と遊んで、そのことを仕事とすべきか、悩むようになった。

    休むこと

     「休日」は、仕事をしない日である。

     仕事をせずに、休み、遊ぶ日である。

     「ローマの休日」は、「休日」に遊ぶところを描いた映画である。

     もともと観客は、「休日」に遊ぶために映画を観にきている。

     その映画で登場人物が「休日」に遊んでいるところを観て、共に遊ぶ気持ちになる。

     「休日」に人はいつもと異なるものになる。

     王女は王女でなくなる。新聞記者は新聞記者でなくなる。

     「ローマの休日」はその可能性を描いている。

    関係

    Moshe HaroshによるPixabayからの画像

    恋愛

     「ローマの休日」では、アン王女と新聞記者ブラッドリーの恋愛が描かれている。

    一緒に遊んでいるうちに

     2人にはそれぞれ他にやりたいことがあって、そのために「休日」を一緒に過ごしていた。

     アン王女はそれまでできなかったことをやろうと思っていた。

     そのためにブラッドリーと一緒にいた。

     ブラッドリーはアン王女の記事を書くために、アン王女と一緒にいた。

     ところがそうして2人で「休日」を遊んでいる間に、2人の間に恋愛感情が生じた。

    別れ

     しかし2人はそれぞれ元に戻っていった。

     王女は王女に。新聞記者は新聞記者に。

     恋愛感情がありながら、2人は結ばれることなく別れた。

    恋愛以外

     映画の最後に2人が別れることには、恋愛が成就しなかったということのほかの意味もある。

     元に戻ったアン王女は、目の前にブラッドリーが新聞記者として来ているのを見る。

     そこでブラッドリーがそれまで嘘をついていたことを知るのである。

     これからブラッドリーは自分の利益のために、「休日」のことを記事に書くかもしれない。

     ところがブラッドリーは「休日」の写真をアン王女に渡して、その記事を書かない気持ちを示した。

     そのことによって、ブラッドリーはアン王女に対して、裏切らないことを示したのである。

     「ローマの休日」の最後に描かれているのはそういうことである。

     そのことは「休日」の写真を撮っていたカメラマン(エディ・アルバート)も同じである。

     カメラマンも、写真を公にすることによって得られる利益を捨てて、アン王女に対して、裏切らないことを示しているのである。

    成長

     ブラッドリーはそれまで自分の利益のために、嘘をついてアン王女に近づいて記事を書こうとしていたが、アン王女と「休日」を過ごして、アン王女を裏切らないことを重んずるようになった。

     アン王女にとっては、それまで王女としての公務に対してただ不自由を感じていたが、庶民の生活を身をもって体験したことによって、庶民のことを知ったと同時に、王女としての公務に対してもまじめに取り組むようになった、ということがある。

    「楊貴妃」

     1955年に公開された溝口健二監督の映画「楊貴妃」で、主人公お楊貴妃が庶民の祭りを自ら楽しむところがある。

     設定は違うが、「ローマの休日」と似ていると私は思った。

    作劇

    athree23によるPixabayからの画像

     「ローマの休日」では、それぞれの登場人物の動機が巧みに組み合わされている。

     王女と新聞記者とそれぞれ異なる考えをもちながら一緒に遊ぶところなどそうである。

    都合

     王女が抜け出して新聞記者の男性の部屋に泊まるなどしながら、きれいなことだけですんでいるところは、都合のいいところであるが、気にならないように脚本が作られている。

     たとえば、新聞記者のブラッドリーが、道端に寝ているアン王女に近づいたのは、落ちそうになったからである。

     アン王女をタクシーに乗せたのに、寝ぼけていて行き先を言わないゆえに、ブラッドリーの部屋に行った。そしてタクシーの運転手に預けて行こうとしたが、タクシーの運転手が拒否したゆえに、ブラッドリーの部屋に連れて行った。

     このようにそれなりに根拠はつけている。

     しかし道端に寝ていた見知らぬ若い女性を、独身の男性が自分の部屋に連れて帰って寝させることは、奇妙なことではある。

    カメラマン

     「ローマの休日」の脚本で一つ私が気になることがある。

     ブラッドリーがカメラマンに対してやることが乱暴すぎるのではないかと思うのである。

     カフェにブラッドリーとアン王女がいるところにカメラマンが来る。

     カメラマンはアン王女に対してアン王女に似ていると言おうとする。また、ブラッドリーと自分の職業を言おうとする。

     ブラッドリーはアン王女に気づいていないふりをしてアン王女の記事をつくるつもりであるゆえに、カメラマンを突き飛ばしたり、飲み物をかけたりして妨害する。

     しかしそもそもカメラマンが来た時に、ブラッドリーからカメラマンに事情を伝えることはできたのではないかと思うのである。(2人で仕事の話をすると言って)

     嘘が知られそうになるという面白さがあることはわかるが、カメラマンが必要もなく傷つけられすぎているように思うのである。

     ブラッドリーが編集長にアン王女の記事はできなかったとうところにカメラマンが写真を持って来たときにも、同じようなことがある。

    オードリー・ヘプバーン

     この映画において第一に輝いているのはオードリー・ヘプバーンである。

      オードリー・ヘプバーンは、ヨーロッパの王女という役を納得させるような気品をそなえている。

      そして町に抜け出して遊ぶところも、魅力的である。

     監督のウィリアム・ワイラーはアン王女を演ずる女優を次のような条件で探していたという。

    「王女役にはアメリカ的アクセントの無い女性がほしい。王女として育ったことが信じられる女性が。それが一番の条件だ―演技と容姿と個性以外ではね」

    「オードリーの愛と真実」、日本文芸社、平成5年、118頁

    オードリーの愛と真実―映画より華麗でドラマチックなオードリー・ヘプバーンの生涯

     オードリー・ヘプバーンはその条件にあてはまっていたようである。

     オードリーの母はオランダの男爵の家系であった。

     その気品はそのことと関係があるようである。

     オードリーはそれまで、英国、オランダを行き来していた。

     「アメリカ的アクセント」がないのはそのためである。

     ウィリアム・ワイラーはラッシュを観た時のことを次のように語っている。

    オードリーはまさに王女だった―あの悠揚迫らぬ身のこなし…バレエの経験とおかあさんの貴族的家系を考えれば充分うなずけるがね。それだけじゃない、彼女は初めてローマに来て夢中になっている若い娘をみごとに体現していた。実に自然でのびやかにそんな情熱につき動かされている彼女を見ている内に、涙があふれてきた。

    「オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生」、近代映画社、1986年、81頁

    オードリー・ヘプバーン―映画に燃えた華麗な人生

    グレゴリー・ペック

     新聞記者のブラッドリーを演じたのはグレゴリー・ペック Gregory Peck である。

     映像特典によると、はじめにワイラーがオファーしたのはケーリー・グラントであった。

     しかしケーリー・グラントは脚本を読んで、新聞記者ブラッドリーより王女アンが中心になる作品だということで、出演を拒否した。

     そこで代わりにグレゴリー・ペックが選ばれたのである。

     グレゴリー・ペックは、ケーリー・グラントに断れた役がくることが多かったと語っている。

     ケーリー・グラントの代わりになると考えられていた俳優だったのである。

     「ローマの休日」は、ケーリー・グラントが考えたように、王女アンが輝く話になっている。

     グレゴリー・ペックが演じたブラッドリーはそれを支える役になっている。

    舞台

    Photo by Michele Bitetto on Unsplash

     「ローマの休日」は、ローマの町をそのまま背景に使っている。―コロッセオ、マルグッタ通り、スペイン広場、トレヴィの泉、ブランカッチョ宮殿などがそのまま背景になっている。

     それまでのハリウッド映画では、その場所に行かずに、スタジオで撮影してしまうことが多かった。

     ウィリアム・ワイラー監督がローマでのロケをもとめたと言われている。

    観光

     「ローマの休日」がローマの町をそのまま背景にしていることには次のような効果がある。

     第一に、観客が映画を観ている間にローマに行った気持ちを味わうということである。

     第二に、観客が映画を観た後に、映画で観たところに行こうと思うことである。

     その二つの意味で、「ローマの休日」は観光と関係がある。

     映画そのものが休日におけるローマの遊び方を示しているということもできる。

    精神

     スタジオで撮る方が、ロケで撮るより、作り手がコントロールすることができる。

     「ローマの休日」でも、交通を制限するとか、周囲の騒音を排除するとか、気温の高さに対処するとか、ストライキやデモに対処するとか、様々な問題があったようである。( 「オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生」、 76~78頁)


    オードリー・ヘプバーン―映画に燃えた華麗な人生

     ウィリアム・ワイラー監督は何故にローマでロケすることをもとめたのか?

     それまでウィリアム・ワイラー監督の助手をしていたレスター・コーニッグが共産主義者と判明してハリウッドから追放された。

     ところがウィリアム・ワイラー監督はそのコーニッグを「ローマの休日」のロケに同行させたという。(「ハリウッド「赤狩り」との闘い」、175~179頁)

     「赤狩り」にもかかわらずコーニッグに仕事をさせるためにローマでのロケを行ったようである。

     1977年のコーニッグの死に際してウィリアム・ワイラーが贈った讃辞には次の言葉があったという。

    我々はローマを解放した最初のアメリカ軍の部隊のひとつだった。

    「ハリウッド「赤狩り」との闘い」、 180頁

     これによると、ウィリアム・ワイラー監督とコーニッグとの間には、「ローマの休日」より前に、「ローマを解放した最初のアメリカ軍」ということがあったようである。

     以上のことは 「ハリウッド「赤狩り」との闘い」 による↓


    ハリウッド「赤狩り」との闘い:「ローマの休日」とチャップリン

     まとめるとこういうことであろうか。

     第2次世界大戦が終わるまでは、映画を撮るのに、米国からローマへ行くことは、政治的に容易でなかったのではないか。

     ところが米国を中心とした連合国がローマを「解放」したということになった。

     ウィリアム・ワイラー監督には自身その「解放」に加わったという自負があった。

     映画の歴史では、第2次世界大戦後に、イタリアでネオリアリズモとよばれる運動が起こった。

     その代表作「無防備都市 Roma città aperta 」などで、ローマの町が舞台として撮影された。(1945年公開)

     ウィリアム・ワイラー監督にも、その「解放」されたローマを、セットによってではなく、ロケによって撮影したいという考えがあったのかもしれない。

    英国王室

     「ローマの休日」が公開された時は、ちょうど英国王室が注目されている時でもあった。

     1952年2月6日にエリザベス2世が英国王に即位した。1953年6月2日に戴冠式が行われた。

     エリザベス2世の妹マーガレット王女はタウンゼント大佐と交際していたが、周囲に反対されて、1955年10月の出会いを最後に、別れることになった。

     マーガレット王女のことは、「ローマの休日」の話と似ている。

     オードリー・ヘプバーンが出演したその他の映画↓


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