月: 2021年6月

  • 【映画】若大将シリーズ ~1960年代の日本の青春~

    【映画】若大将シリーズ ~1960年代の日本の青春~

     1961年に公開された映画「大学の若大将」をはじめとして次々と作られた「若大将」の映画は、1960年代の東宝を代表するものとなった。

     「若大将」シリーズでは、1960年代の大学生の明るく楽しい生活や恋愛が、リゾート地などを背景として描かれている。ビートルズなど、当時の流行の最先端がとりいれられている。(敬称略)


    大学の若大将

    若大将シリーズの映画

    PIRO4DによるPixabayからの画像

     「若大将」シリーズは、1961年に公開された映画「大学の若大将」から始まった。

     それから1971年に公開された映画「若大将対青大将」まで16本作られた。

     「歌う若大将」も入れると17本。―「歌う若大将」は日劇での「加山雄三ショー」。

     その後、1970年代中頃に草刈正雄主演で2本作られた。

     1981年には加山雄三主演で1本作られた。

    大学の若大将

     第1作。

     1961年7月8日公開。

     題名の通り大学の話であるが、芦ノ湖も舞台になる。

     若大将は大学の水泳の選手。


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    銀座の若大将

     1962年2月10日公開。

     前作同様大学生の話であるが、題名の通り銀座も舞台になる。

     この映画で若大将がやるのは拳闘。


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    日本一の若大将

     1962年7月14日公開。

     若大将は大学のマラソンの選手。


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    ハワイの若大将

     1963年8月11日公開。

     題名の通りハワイが舞台。


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    海の若大将

     1965年8月8日公開。

     若大将は大学の水泳の選手。

     映画の中ほどで八丈島に行こうとして遭難する。


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    エレキの若大将

     1965年12月19日公開。

     若大将は大学のアメリカンフットボールの選手。

     エレキ合戦に出場する。


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    アルプスの若大将

     1965年5月28日公開。

     題名の通りアルプスから始まる。

     若大将は大学のスキーの選手。


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    歌う若大将

     1966年9月10日公開。

     日劇での「加山雄三ショー」。


    歌う若大将

    レッツゴー!若大将

     1967年1月1日公開。

     若大将は大学のサッカーの選手。


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    南太平洋の若大将

     1968年7月1日公開。

     ハワイから始まる。

     若大将は大学の柔道の選手。


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    ゴー!ゴー!若大将

     1967年12月31日公開。

     若大将は大学の駅伝の選手。

     カーレースも。


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    リオの若大将

     1968年7月13日公開。

     題名の通りブラジルが舞台になる。

     若大将は大学のフェンシングの選手。


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    フレッシュマン若大将

     1969年1月1日公開。

     若大将が就職する。

     ヒロインは酒井和歌子。


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    ニュージーランドの若大将

     1969年7月12日公開。

     オーストラリアで始まって、日本に帰ってきて、ニュージーランドに行く。

     若大将は会社員で、ヒロインは酒井和歌子。


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    ブラボー!若大将

     1970年1月1日公開。

     若大将は会社員で、ヒロインは酒井和歌子。

     大学の後輩(大矢茂)が登場。


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    俺の空だぜ!若大将

     1970年8月14日公開。

     若大将の指導を受けて後輩(大矢茂)がスカイダイビング。


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    若大将対青大将

     1971年1月9日公開。

     青大将が大学を卒業して就職。

     若大将は加山雄三から大矢茂へ。

     オートバイ。


    若大将対青大将 <東宝DVD名作セレクション>

    がんばれ!若大将

     1975年7月12日公開。

     草刈正雄主演。

     アメリカンフットボール。


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    激突!若大将

     1976年5月29日公開。

     草刈正雄主演。

     アイスホッケー。


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    帰ってきた若大将

     1981年2月11日公開。

     加山雄三主演。


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    「若大将」シリーズの特徴

    キャンパス

     主人公の田沼雄一(加山雄三)は大学生である。

     主人公の家はすきやき屋「田能久」をやっている。祖母(飯田蝶子)、父(有島一郎)、妹(中真千子)がいる。

     主人公は大学でスポーツをやっている。優秀な選手である。

     大学には主人公と対立する青大将(田中邦衛)がいる。

     主人公は、働く女性澄子(星由里子)と出会う。

     田沼雄一と澄子は、互いに好意を持つが、思いはすれ違う。どうなるか? という話である。

     「若大将」シリーズのそれぞれの話は連続していない。

     話によって、主人公が大学でやるスポーツ、澄子(節子)との関係、青大将との関係、その他の人間関係が違う。舞台も違う。

     主人公の田沼雄一はそれぞれの話において初めてヒロインの澄子(節子)と出会うのである。

     ただし連続しているところもある。


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    配役

     「若大将」シリーズは、配役がいいと言われている。

     第一に主役の若大将。加山雄三に合わせて作られたと言われているように、その育ちの良さとか、正義感とか、スポーツの技量とか、音楽の才能とか、個性が生かされている。

     若大将と対立する青大将役の田中邦衛のコミカルな演技はこのシリーズの見どころである。田中邦衛の幅広い芸歴の中でコミカルな演技の代表的なものである。若大将や澄子とのやりとりも面白い。

     ヒロインの星由里子は、髪型も服装も60年代の明るい都会的な女性を代表しているようである。(星由里子はその後に東映の任侠映画のヒロインも演じているが、対照的)


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     若大将の家族も印象的である。

     孫の若大将に優しい、感じのいいおばあさん(飯田蝶子)

     息子の若大将に対して厳しいがコミカルでもある父親(有島一郎)

     可愛い妹(中真千子)

     若大将の大学のマネージャー江口(江原達怡)のわがままだが憎めない感じ。

     その他にもそれぞれの作品に出て来る人がいる。

    恋愛

     「若大将」シリーズは、恋愛が中心にある。

     若大将は澄子と出会って、互いに好意を持つが、すれ違ってうまくいかない、という話が映画の中心にある。

     「若大将」シリーズの恋愛は、深入りしない。

     脚本家の田波靖男によると、5作目の「海の若大将」でベッド・シーンを入れようとしたが、プロデューサーの藤本真澄が反対したので、「若大将と澄ちゃんの仲はプラトニックな恋に戻った」という。(「映画が夢を語れたとき」、101~104頁)

     その時に藤本真澄は次のように言ったという。

    これはシンキくさい文芸作品じゃないんだ。スカッといかなきゃ。若大将にはハートの悩みがあってもよいが、下半身の悩みはいらん

    「映画が夢を語れたとき」、102頁

    映画が夢を語れたとき―みんな「若大将」だった。「クレージー」だった。

    親子

     「若大将」シリーズでは、もう一つ、親子の対立が描かれている。

     若大将はいつも誤解によって父親から勘当される、という話になっている。

     親子の対立、世代の対立が描かれているのであるが、コミカルに描かれているのでもある。

    海外ロケ

     「若大将」シリーズでは「ハワイの若大将」以降、海外ロケが多い。


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     プロデューサーの藤本真澄に次のような考えがあったと脚本の田波靖男は語っている。

    第三作『日本一の若大将』のヒットに自信を深めた藤本は『ハワイの若大将』をB級の娯楽映画から、ハワイ・ロケを行うことにより、A級の娯楽大作にしようともくろんでいた。

    「映画が夢を語れたとき」、広美、1997年、79頁

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    黒澤明監督の「赤ひげ」

     「若大将」シリーズは、4作目の「ハワイの若大将」と5作目の「海の若大将」の間が空いている。1964年に一本も公開されていない。

     1965年に公開された黒澤明監督の映画「赤ひげ」で加山雄三が重要な役を演ずることになって、そのために「若大将」シリーズはできなくなったのである。


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    社会人編

     1969年の「フレッシュマン若大将」で主人公田沼雄一は社会人になっている。


    フレッシュマン若大将

     主人公を演じた加山雄三の年齢が30を超えて大学生の役ができなくなったことによるという。

     ヒロインも酒井和歌子にかわっている。


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    1970年代中頃

     「若大将」シリーズは、1971年の「若大将対青大将」で一度途切れている。

     ところが1970年代中頃にまた人気になったと言われている。

     「ムービーマガジン」1976年6号にも「「若大将シリーズ」の五本立オールナイトが、若い観客で満員だという」とある。(同、30頁)

     草刈正雄主演の「若大将」シリーズは、それゆえに作られたようである。

     がんばれ! 若大将。


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     激突! 若大将。


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    「若大将」シリーズに近い作品

     「若大将」シリーズの間に、加山雄三主演で「若大将」シリーズに近い作品が作られている。

    お嫁においで

     1966年に公開された映画「お嫁においで」は、加山雄三主演で、加山雄三作曲の「お嫁においで」という楽曲をもとにした作品である。ヒロインは「海の若大将」に登場した沢井桂子。


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    兄貴の恋人

     1968年に公開された映画「兄貴の恋人」は、加山雄三主演で、ヒロインは「フレッシュマン若大将」と同じ酒井和歌子。この作品では「若大将」シリーズに出ていない内藤洋子が重要な役になっている。


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    「若大将」シリーズと「若者文化」

    Photo by Mick Haupt on Unsplash

     「若大将」シリーズには、第二次世界大戦後の「若者文化」がとりいれられているということができる。

     「若者文化」とは、1950年代のアメリカで、ジェームズ・ディーンの映画、エルヴィス・プレスリーの音楽など、若者を代表するものとして出てきたものである。

     日本でも1950年代中頃に、石原慎太郎の小説、石原裕次郎の映画などが出てきた。

     「若大将」シリーズは、1960年代に「若者文化」をとりいれたものとして作られていたということができる。

    親との対立

     まず形式からいうと、「若大将」シリーズでは毎回、大学生の主人公田沼雄一(加山雄三)と父親(有島一郎)の対立が描かれている。主人公はいつも父親に勘当されている。

     脚本を担当した田波靖男によると、「世代間の対立」はプロデューサーの藤本真澄が提案したことであった。

    藤本が提起した、世代間の葛藤というテーマは、若大将シリーズを通して、ドラマを生み出す起爆力となった。

    「映画が夢を語れたとき」、18頁

     このように親子の対立、「世代間の対立」を描くことは、「若者文化」に共通することである。

    批判

     ただし「若大将」シリーズで描かれている「対立」は、「若者文化」としては弱いと批判されることもある。

    ・もともと「若大将」シリーズはコミカルな作品であるから、そこで描かれる「対立」はそれほど深刻なものではない。

    ・はじめから、おばあちゃんが「自分の息子より、孫の方をひいきにしていて、若大将が親父と対立すると、いつでも味方をしてくれる」というように考えられていた。(「映画が夢を語れたとき」、18頁)

     脚本を担当した田波靖男は「若大将」の「絵に描いたように立派な人物像のゆえに、そのキャラクターは体制派が期待する、模範青年だったと揶揄する向きもあった」と語っている。(「映画が夢を語れたとき」、100頁)

     1965年正月に中教審が発表した「期待される人間像」と関係づけて批判されたともいう。

     田波靖男は「ムービーマガジン」1976年6号では次のように言っている。

    当時(今でもそうだが)批評家連中の好みの青年像は、ジェームス・ディーンや石原裕次郎に代表される反抗する若者であった。だから若大将のようなキャラクターは、青春映画の主人公としては、古くさく、むしろ反主流派だったのである。

    「ムービーマガジン」1976年6号、30~31頁

     若大将は、「ジェームス・ディーンや石原裕次郎に代表される反抗する若者」と比較されて、批判されたというのである。

    二つの類型

     青春ものの二つの類型を考えることができる。

     一つは、「ジェームス・ディーンや石原裕次郎に代表される反抗する若者」である。

     もう一つは、「若大将」のように、反抗を深刻にしない若者である。

     前者は1950年代に流行し、後者は1960年代に流行した。

     そのことはそれぞれの時代を現わしているかもしれない。

    楽しむ若者

     「若大将」シリーズは、生活を楽しむ若者を描いている。

     主人公の若大将は音楽を楽しみ、スポーツを楽しみ、恋愛を楽しみ、家族関係を楽しんでいる。

    加山雄三の個性

     「若大将」シリーズは、主人公の加山雄三に合わせて作られていた。

     プロデューサーの藤本真澄は脚本家の笠原良三と田波靖男に「加山の魅力を充分売り出せるような映画にしたいんだ」と言って、「今日は加山を呼んであるから、彼の話を聞いて、人物のイメージをつかんでくれ」と言ったという。(「映画が夢を語れたとき」、14~16頁)

     それゆえに、「若大将」シリーズの中にとりいれられた「若者文化」は、加山雄三という人物の個性によるところが大きいのである。

    性格

     「若大将」シリーズの脚本を担当した田波靖男は、「若大将」シリーズの主人公田沼雄一の性格について次のように語っている。

    青年らしい正義感、育ちのよい坊ちゃん気質、人の好い純情さ、スポーツマンライクなひたむきさ、自らの唄に酔うナルシズム、そして茶目っ気のある謀反気などが、主人公のかかえている性格として、彼の劇中における価値観や行動原理を支えることになった

    「ムービーマガジン」1976年6号、30頁

     このような主人公の性格は、加山雄三をもとにして作られたものである。

     そしてそのことによって「ジェームス・ディーンや石原裕次郎に代表される反抗する若者」とは異なる「若者」像になったのである。

    音楽

     「若大将」シリーズの主人公は、加山雄三をもとにして、ギターを弾いて歌を歌うものとされた。そしてそういうかたちで「若者文化」がとりいれられた。

     「エレキの若大将」では、ビートルズが流行している時に行われたエレキ合戦が描かれている。

     ところで加山雄三は、自ら歌を作る人でもあった。

     加山雄三は「若大将の履歴書」において、「僕が音楽面で影響を受けたのはエルビス・プレスリー、ベンチャーズ、ビートルズ」と語っている。(「若大将の履歴書」、116頁)
     そういう「若者文化」の影響を受けて歌を作る人であった。


    若大将の履歴書

     そういう加山雄三(弾厚作)の作曲した楽曲が、「ハワイの若大将」から「若大将」シリーズにとりいれられた。そしてその歌が大変に売れた。

     「若大将の履歴書」では、それまで「新人歌手は専属作家の作品を歌うことになっていた」が、「僕が自作自演の歌手としてレコードデビューし、成功したことは、歌謡界の慣習を打ち破るきっかけになったともいわれる」と語っている。(「若大将の履歴書」、101頁)


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    文化功労章

     令和三年、加山雄三は文化功労者に選ばれた。

    https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/2021/attach/1422025_00002.htm

    http://www.kayamayuzo.com/news/detail.php?id=1635154431

    https://www.fnn.jp/articles/-/264706

    歴史

    1930年代

     若大将シリーズは、1930年代の若旦那ものを時代に合うようにするという考えから始まっている。

     1933年の「大学の若旦那」。


    大学の若旦那 [VHS]

     1930年代の松竹の都会風コメディである。

    1980年代

    Photo by Clint Adair on Unsplash

     「若大将」シリーズはその後の時代に影響を与えている。

    私をスキーに連れてって

     1987年に公開された映画「私をスキーに連れてって」は1980年代を代表する作品であるが、「若大将」シリーズに影響を受けている。特に「アルプスの若大将」の影響を受けているようである。

     そのことは、「私をスキーに連れてって」のオーディオコメンタリーでも言われている。

     「私をスキーに連れてって」の馬場康夫監督は「若大将」シリーズのオーディオコメンタリーで「若大将」シリーズに対する思い入れを語っている。


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    共通するところ

     スキー場のようなリゾート地での若者の恋愛を軽く明るく描くところは共通している。

     いずれも、明るく楽しい生活を描いている。

     そういうことでは、「私をスキーに連れてって」の後に出来た「トレンディドラマ」もその系統にあるということができるかもしれない。

    異なるところ

     「私をスキーに連れてって」の主人公の性格は、「若大将」シリーズの主人公の性格と違う。

    ・「若大将」シリーズの主人公には、抜けたところもあるが、「理想的なヒーロー」であり、「スーパーマン」である。―正義感があって、その正義感によって人を助けることができるだけの腕力を持っている。女性にもてている。スポーツの能力は抜群、音楽の才能も抜群である。

    ・「私をスキーに連れてって」の主人公は、スキーの腕は優れているが、仕事は必ずしもうまくいっておらず、女性にもててもいない。

     このように主人公の性格が違うことは、それぞれの時代の違いを現わすことと思われる。

     また、「若大将」シリーズのオーディオコメンタリーで言われているように、後の時代では青大将の方がもてるのではないか、ということも、両者の違いをあらわすことと思われる。

    時代

     「私をスキーに連れてって」の脚本を担当した一色伸幸は、「私をスキーに連れてって」はその前の世代へのアンチテーゼとして作られたと語っている。

     「私をスキーに連れてって」の前には、「キレ」る「青春ドラマ」があった。「私をスキーに連れてって」の「いつも楽しんでいる」青春は、それに対するアンチテーゼであった。

     私の考えでは、1970年前後に「団塊の世代」の文化があった。「私をスキーに連れてって」に代表される1980年代の文化はそれに対するアンチテーゼであった。そしてそれは1960年代の「若大将」シリーズに影響を受けたものであった。

     1970年前後の「団塊の世代」の文化の前に、それと異なる「若大将」シリーズのような文化があったのである。

     1960年代の「若大将」シリーズもまた、田波靖男が言うように、1950年代の「若者文化」と対立するものとして批判されていた。

    訃報

    2021年

     2021年春に「若大将」シリーズ出演者の訃報が相次いだ。

    田中邦衛

     2021年4月2日、「若大将」シリーズで青大将を演じた田中邦衛さんが亡くなった。88歳であった。

    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210402/k10012953271000.html

     加山雄三さんはオフィシャルサイトにそのことについてのコメントを出している。

    http://www.kayamayuzo.com/news/detail.php?id=1617357399

     その中に「不思議なことに、2 日前若大将の DVD で邦さんの姿を見たばかりだったんだよ。」という言葉があって、田中邦衛さんに対する加山雄三さんの想いを知るとともに、私が「若大将」シリーズをDVDで観たのと同じ時に加山雄三さんが「若大将」シリーズをDVDで観ていたことを知って、ほっこりした。

    江原達怡

     2021年5月1日、「若大将」シリーズでマネージャー江口を演じてきた江原達怡さんが亡くなった。84歳であった。

    https://www.asahi.com/articles/ASP5D54Z3P5DULZU006.html

    寺内タケシ

     2021年6月18日、「エレキの若大将」に出演していた寺内タケシさんが亡くなった。82歳であった。

    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210619/k10013093571000.html

     加山雄三さんのメッセージ。

    http://www.kayamayuzo.com/news/detail.php?id=1624094694

     加山さんが言うように「また一人、若大将の仲間が亡くなってしまった。

    それ以前

    飯田蝶子

     主人公の祖母を演じた飯田蝶子さんは1972年12月26日に75歳で亡くなった。戦前の小津安二郎監督作品などで重要な役を演じた俳優であった。

    有島一郎

     主人公の父田沼久太郎を演じた有島一郎さんは1987年7月20日に71歳で亡くなった。

    星由里子

     ヒロインの澄子を演じた星由里子さんは2018年5月16日74歳で亡くなった。


    ハワイの若大将
  • 【考察】新海誠監督と「天気の子」と「セカイ系」

    【考察】新海誠監督と「天気の子」と「セカイ系」

     「天気の子」は「セカイ系」ということとの関係で論じられることがある。

     「セカイ系」とは何か? 「天気の子」はその「セカイ系」とどういう関係にあるのか?


    「天気の子」Blu-rayスタンダード・エディション

    新海誠監督の考え

     新海誠監督はインタビューにおいて、自ら「天気の子」と「セカイ系」ということとの関係について語っている↓

    https://kai-you.net/article/66490

     新海誠監督自ら語ることをもとにして考えてみよう。

    セカイ系の定義

    Photo by Daniil Silantev on Unsplash

     新海誠監督はインタビューで、2000年代初頭に「セカイ系」が「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」ものと言われたことをとりあげている。

     新海誠監督がそこで「僕も『ほしのこえ』などでそういう作品をつくってきました」と語っているように、2002年に公開された新海誠監督の作品「ほしのこえ」は、そういう作品であった。「ほしのこえ」は「セカイ系」の代表とされた作品であった。

    考察

    「セカイ系」のもと

     セカイ系という言葉の定義の代表的なものとして、波状言論臨時増刊号「美少女ゲームの臨界点」に収められた「美少女ゲームの起源」の注69が挙げられている。

    ★69 セカイ系 主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。代表作は『ほしのこえ』『最終兵器彼女』(高橋しん、小学館)『イリヤの空、UFOの夏』(秋山瑞人、電撃文庫)など。

    「美少女ゲームの臨界点」、波状言論、2004年、64頁

    美少女ゲームの臨界点 波状言論 臨時増刊号

     2000年代初頭に「セカイ系」は「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」ものと言われたと新海誠監督が言うのは、このような定義のことをさしていると思われる。

     ところで、この定義は「セカイ系」の代表とされている新海誠監督自身の「ほしのこえ」にあてはまらない。―「ほしのこえ」では「世界の危機」とか「この世の終わり」とかいうことは問題とならない。

     「セカイ系」の代表とされた「ほしのこえ」にあてはまらない定義では役に立たない。特に新海誠監督の作品を考えるのに役に立たない。

     「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」(ソフトバンク新書、2010年)において前島賢氏は、「セカイ系」という言葉を提唱したウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の管理人による定義に戻ることを主張している。


    セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

     「ぷるにえブックマーク」の管理人による定義では、「セカイ系」とは「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」であって、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向」があるものとされていた。(同書、28頁)

     「一人語りの激しい」作品とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいうことは、「ほしのこえ」にあてはまる。

     そのように考えると、新海誠監督の作品のもとにあることを理解することができる。

     新海誠監督は「ほしのこえ」の後に「世界の運命を変えてしまう」という作品をも作る。しかし「ほしのこえ」から一貫して、「一人語りの激しい」とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいう作品を作ってきたということができるのである。

     「小説 天気の子」で須賀が主人公に次のように言っているところは、まさにそのことに関わることである。

    若い奴は勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めててもそこにはなんにもねえの。大事なことはぜんぶ外側にあるの。自分を見ねえで人を見ろよ。どんだけ自分が特別だと思ってんだよ

    「小説 天気の子」、284~285頁

     主人公が「自分の内側」に「大事なこと」があると考えること。そのことが新海誠監督の「セカイ系」のもとにあると考えることができる。

    社会

     「セカイ系」において社会が存在しない、ということもそのことから考えることができる。

     作品に社会が存在するということ、社会が描かれているということは、「外側」が描かれているということである。

     「セカイ系」は主人公の「内側」に「大事なこと」はあるとするものである。主人公の「内側」に「世界」はあるとするものである。そしてそのために「外側」を描かないのである。

    「天気の子」の場合

     「天気の子」も、「ほしのこえ」と同じように「一人語りの激しい」とか、「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる」とかいう作品である。

     「天気の子」のはじめの「これは僕と彼女だけが知っている世界の秘密についての物語だ」というのはまさにそのことをあらわすものである。「秘密」という「内側」のことであるが、「世界の秘密」とされる。

     小説版で須賀が言うように、「天気の子」の主人公は「自分の内側」に「大事なこと」はあると考えて「だらだら眺め」ている。

     「天気の子」においては、ヒロインが犠牲になったという夢を信じて、それに対してヒロインを取り戻して「世界の形」を変えた、という主人公の「内側」のことが主題となっている。

    設定

    Photo by Athena from Pexels

     前島賢氏は、「セカイ系」において排除されているのは「社会や中間領域ではない」と言い、「これらの作品で排除されたのは「 世界設定」なのである」と語っている。(「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、101頁)

     新海誠監督の「ほしのこえ」は、「トップをねらえ!」と似ていると言われるが、前島賢氏は、設定に関して違うと言う。

    『トップをねらえ!』がまるで、それ自体が自己目的化したように、膨大な設定や引用、科学的考証を積み重ねた上で、物語を展開しているのに対し、『ほしのこえ』は「ふたりの遠距離恋愛」という主題のためだけに、ありとあらゆる要素が配置され、それ以外は潔く排除されているのである。

    「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、91~92頁

    設定の歴史

     前島賢氏は「セカイ系」において「世界設定」が排除されたことについて次のように歴史的に説明している。

     「新世紀エヴァンゲリオン」は、設定に関して画期的な作品であったという。

     「新世紀エヴァンゲリオン」の前半は、「世界設定」の謎が提示されて、解き明かされていく作品と思われた。

     ところが終盤、登場人物の「内面のみが描かれ」、「世界設定」は「一切、明かされないまま終わる」。

     そのことによって、前の世代のオタクには「欠落」のある作品と思われた。

     しかしその後に「新世紀エヴァンゲリオン」の後半のように、「内面のみが描かれ」、「世界設定」が明かされない作品が流行した。後の世代にはそういう作品が流行したのである。そしてそういう作品が「セカイ系」とよばれた、という。(「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」、106~107頁)

     前島賢氏は、「新世紀エヴァンゲリオン」の前半まではオタクの間で流行していた、岡田斗司夫氏の「暗号を読み解く態度」とか大塚英志氏の「物語消費」とかいう「作品需要の態度」は「極めて奇形化していた」ものであって、それに対して「ほしのこえ」などは「素朴な物語への回帰」であったが、「かえって奇異なものとして捉えられた」という。(同書、109頁)

     そして「オタクたちの文化が「物語消費」から「データベース消費」に移行した」という東浩紀氏の分析をとりあげて、「『エヴァ』以前の作品=物語消費が、一個の作品の世界観をもとに、それらと整合性を保った上で一個の物語を作ろうとしていた(中略)のに対し、データベース消費においては、すべての作品が瞬時に要素要素に解体され、別の作品として出力されてくる」として、「ほしのこえ」をその代表として挙げている。(同書、110頁)

    設定と社会

     私の考えは前島賢氏の考えと違う。

     私は作品の「世界設定」ということを、社会との関係で考える。

     作品の「世界設定」が作り込まれているということは、他者が作り込まれているということだと考えるのである。他者も主人公と同じように尊重されるということだと考えるのである。他者も主人公と同じように尊重されるということは、社会が描かれているということである。

     たとえば「機動戦士ガンダム」は設定が作り込まれた作品であるが、そのことは他者も主人公と同じように尊重されることと関係があると考えるのである。

     それに対して「新世紀エヴァンゲリオン」の後半で、「世界設定」が明かされず、登場人物の「内面」だけが描かれたことは、他者が主人公と同じように尊重されていないことだということができる。

     「新世紀エヴァンゲリオン」の後半の影響を受けた「セカイ系」においても、主人公の「内面」を重んじて、その「外側」にいる他者を重んじないゆえに「世界設定」も作り込まれないということができる。

     このように考えると、前島賢氏がそれまでの「作品需要の態度」は「極めて奇形化していた」ものであって、それに対して「ほしのこえ」などは「素朴な物語への回帰」であったというのと逆に、「ほしのこえ」などの「セカイ系」の作品は、他者を尊重せず、「世界設定」を作り込まないという一種の「奇形化」した作品だということができる。

    「天気の子」の場合

     「天気の子」の場合、「晴れ女」をめぐる設定が作り込まれていないところが代表的である。

     そのことは下の記事で指摘した↓

     上の記事で指摘した様々な「つっこみどころ」は、「天気の子」が社会を軽んじ、設定を軽んじていることから出て来ているということもできる。

     「天気の子」は「内側」を重んじて社会を軽んずる。それゆえに、主人公を取り囲む人々も、その観点からゆがんだかたちで描かれる。ヒロインもそうである。主人公も、その過去が描かれないように、ゆがんだかたちで描かれる。

    「天気の子」で描かれた「社会」

     「天気の子」には、それまでの新海誠監督の作品とは異なることがあるとは、新海誠監督自ら語るところである。

     「天気の子」では社会が描かれていると新海誠監督は自ら語っている。

    主人公と「社会」の対立

     第一に、主人公と対立するものとして「社会」は描かれているという。

    僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。

    新海誠『天気の子』インタビュー後編 ”運命”への価値観「どこかに別の自分がいるような」

     「デフォルメされたものであったとしても「警察」がずっと出て来る」ということはそのことと関係あることであろう。

     新海誠監督は「天気の子」で主人公と社会の対立を描いた理由を聞かれて、「『君の名は。』がすごく批判を受けた」ことを挙げている。そこで「全く僕が思っていたことと違う届き方をしてしまう」と思ったという。そして「むしろ「もっと叱られる映画にしたい」」、「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」と思ったという。

    https://news.yahoo.co.jp/feature/1389

     どういうことであろうか?

     「君の名は。」は、「内側」に「大事なこと」はあるという「セカイ系」の作品であった。そしてそのために批判を受けた。

     そこで新海誠監督は、「天気の子」の中に「内側」に「大事なこと」はあるという主人公と、そういう主人公を批判する「大人」と、その両者を出して、対立するところを描いた。

     「小説 天気の子」で須賀が「大事なことはぜんぶ外側にある」というのは、「内側」に「大事なこと」はあるという「セカイ系」と対立することである。ただし須賀自身は両者の中間にある存在である。主人公と対立するのは「警察」である。

     「セカイ系」と対立するものが作品の中に取り入れられたということでは、これまでの「セカイ系」と違うということができるが、それにもかかわらず「セカイ系」を貫いたということもできる。

     また「主人公たちは「お天気ビジネス」を通して様々な人と出会い、働いてお金を得ようとする」ということでも「社会」は描かれているという。

    時代の変化

     「天気の子」で「社会」が描かれていることは、時代の変化と関係があると新海誠監督はいう。

     新海誠監督は自身の「ほしのこえ」などの作品に「社会」が存在しないことについて、「2000年代初頭は「社会」の存在感が薄い時期で、それを意識する必要がなかったからだと思う」と語っている。

     「リーマンショックや3.11よりも以前」には「このまま終わりなき日常が続く」という気分が「みんなの中にあったと思う」というのである。そういう「空気感」があったというのである。

     ところが「リーマンショックや3.11」以後に「僕がどうこうというよりもみんなにとって「かつてのように社会が無条件に存在し続けると思えなくなってきている」「社会そのものが危うくなってきている」という感覚がある」ゆえに、「天気の子」では「社会」が描かれるようになったというのである。

     「社会」が問題として感じられるようになってきたということには二つあるようである。

    不自由

     一つは「世の中がだんだん不自由になってきている感覚」である。これは上でとりあげた「セカイ系」と対立するものと関係があるのではないか。

    天候の変化

     もう一つは「季節の感覚が昔と変わってきてしまった」という感じである。「猛暑が続いたりゲリラ豪雨が当たり前になったりする」ことである。

     これに対しては「そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました。」と新海誠監督は語っている。

     ただし「「最悪の開き直り」「最悪の現状肯定」のように思われる危険がある映画だというのは思っていました」とも言っている。


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  • 【考察】「いちご100%」の終盤 作者の意図についての考察

    【考察】「いちご100%」の終盤 作者の意図についての考察

     「いちご100%」という漫画は2002年から2005年にかけて「週刊少年ジャンプ」で連載されていた作品である。

     私はその連載が終わってから十年以上たった時に読んだ。そのことは下の記事に書いた↓

     上の記事でも書いたように、「いちご100%」という作品は、私の心に刻まれた作品である。何よりもその終盤の流れによって心に刻まれた。

     その「いちご100%」の終盤について考えてみようと思う。

    衝撃

    Photo by Timo Volz on Unsplash

     私が衝撃を受けたのは、東城につきあっている男がいるのではないかという話から、真中が西野に好きだと言ってキスをするまでの流れである。第142話の終わりから第145話までである。

     「いちご100%」のタイトル表参照↓

    流れ

     その流れは次の通り。

     真中が教室に来ると、東城が文化祭のイベントに天地、真中以外の男と参加するということについて天地が問いただしていた。

     天地はそこに来た真中を外に連れて行って、二人はふられたという。

     真中は部室で東城にそのことをたしかめようとした。ところが東城は濡れた服を脱いでいるところであったので、真中から逃げるかたちになった。

     真中が窓の外を見ると、ちょうど東城が見知らぬ男の胸にとびこむところであった。実はその男はたまたま来ていた東城の弟であった。しかし真中には「東城が選んだ男」に見えて、衝撃を受けた。

     真中はそのことが気になって、東城が来ていると思われる塾に行った。ところが東城はまだ来ていなかった。そこで真中は模試の順位が「塾内ビリ」と聞いてまた衝撃を受けた。

     真中が思わず西野のアルバイト先まで歩いてくると、たまたま出て来た西野と出会った。

     西野との帰り道で真中は自分は西野に似合わないダメな人間だと言った。それに対して西野は「甘えてよ」と言った。そこで真中は西野を抱きしめた。そして西野に「好きだ」と言って、公園のベンチでキスをした。

    決着

     上の流れで真中は西野を選んだ。

     ここで真中が西野を選ぶことは、この「いちご100%」という作品の決着をつけることである。それだけ重要なことである。

     しかし上の流れは納得しがたい。

    決断

     第一に、真中が西野を選ぶという決断は、理性的、主体的なものではない。

     真中が西野を選ぶという決断は、真中が東城のことと勉強のことでへこんでいる時に、西野に「好き」と言われ、「甘えてよ」と言われたことによるものである。言わば、病理的、受動的な決断である。

     真中自ら次のように言っている。

    こんなに頭の中
    ぐちゃぐちゃの状態で
    西野に会っちゃ
    ダメだったんだ

    JC17巻、23頁

     真中自ら「西野に会っちゃ/ダメ」と思うような「頭の中/ぐちゃぐちゃの状態」であった。

     そういう状態で決着をつけたのであるから、納得できないのである。

    比較

     第二に、他の選択肢との比較が十分になされていない。

     真中が西野を選んだということは、東城、北大路、向井などを選ばなかったということである。ところが真中は西野を東城、北大路、向井などと十分に比較した上で西野を選んだのではない。

     それどころか、真中は東城が他の男を選んだと誤解してへこんでいる時に西野を選んでいる。比較のために重大な欠陥がある状態で西野を選んでいるのである。

     十分に比較した上で選んだのでなくては納得できない。

    作者の言葉

     作者はそのことに関して、JC19巻の巻末に次のように書いている。

    お互い好きあってても事情やタイミングなんかで
    一緒になれなかったりする、
    そういった恋の不条理な部分ってあるじゃないですか。

    「いちご100%」JC19巻、176頁

     真中が西野を選ぶ流れは、作者自ら語るように「お互い好きあってても事情やタイミングなんかで/一緒になれなかったりする」かたちになっている。

     一般論として「お互い好きあってても事情やタイミングなんかで/一緒になれなかったりする」という恋愛物語がいけないとは私は思わない。

     しかし「いちご100%」のような作品でそういうかたちで決着をつけることは、どうかと思う。

     「いちご100%」は、それまで3年の連載、140話、JC16巻をかけて、主人公が複数の女性にとりかこまれて、その中から一人を選ぶことができないという話を繰り返してきた作品である。

     それだけ長い間、時間の制約なしに、主人公は複数の女性と関係してきたのである。

     そういう作品が「事情やタイミング」によって―時間の制約によって―決着がつけられるても、納得できない。

    細かいところ

     細かいところが色々と気になる。

    天地

     まず、天地がおかしい。

     天地は、東城が文化祭のイベントに天地、真中以外の男性と参加すると聞いただけで、東城にふられたと思い込んでいる。

     しかし東城が文化祭のイベントに天地、真中以外の男性と参加するということだけでは、東城に天地、真中以外につきあっている男がいるということの証拠にならない。東城自身、つきあっているのではないと言っている。

     天地は東城とつきあうためにそれまで周りにいた多くの女性との関係を捨てた人である。それだけ東城にかけていた人である。
     東城が他の男とつきあっているかどうかということについては、確かな証拠をつかむまで追及しなくてはならないのではないか?
     そもそも天地は、東城にとって真中が重要な存在であることを知った上で東城に迫っていた。そういう人が、東城が他の男とつきあっているかもしれないという疑惑だけで、確かな証拠もないのに、ふられたと思い込んで落ち込むであろうか?

     天地は東城にふられたと思い込んだ時に、真中を連れて教室の外に出て行っているが、何のためにそうしたのか、理解できない。
     天地の行動としては理解できないが、作者が、真中が東城に直接話を聞く機会を奪ったとすると、理解できる。

    真中と東城

     そもそも東城につきあっている男がいるかどうかということは、真中と東城が二人で少し話せば容易に明らかになることである。

     東城は、天地とのやりとりを真中に聞かれたと気づいた時に、困った表情をしている。真中に説明しなくてはならないと考えたのではないかと思われる。
     真中は天地のようにそのことを信じておらず、それから東城に聞こうとしている。

     ところが真中と東城がそのことについて直接話すことは妨げられる。―真中は天地によって教室の外に連れ出される。部室で二人きりになった時には、東城が下着のことで真中から離れている。

     そして東城につきあっている男がいるのではないかと真中に思わせるようなことが続く。―東城は真中から離れた。そして見知らぬ男の胸に飛び込んだ。

     このように、なくてもいいことによって、二人が話し合うことができなくなっているところは、作者がわざとそうしたと思われる。

    その後

    Michael SchwarzenbergerによるPixabayからの画像

     上に書いたように、決着がついたのは第145話である。

     ところが最終話は第167話である。「いちご100%」は、決着がついた後に長く続いているのである。ジャンプコミックスでいうと、17巻のはじめに決着がついたが、最終話は19巻である。

     私が初めて読んだ時には、決着がついた流れに衝撃を受けたまま最終話まで読んだ。それゆえにその後に描かれたことについて特に考えることはなかった。

     今度読み返して、その後のことについて理解できたところがあったので、そのことについて書いてみよう。

     タイトル表参照↓

    北大路

     まず真中が西野に告白してキスをした次の日に、北大路に西野とまたつきあい始めたということを告げるという話がある。(第146話から第147話にかけて)

    東城に告げる

     その次に、真中が東城に、西野とまたつきあっているということを告げるという話がある。(第149話)

     ただし東城の場合は、北大路の場合より複雑な話になっている。

     次のように美鈴が関わっている。

    「今は秘密に」

     第147話で、真中がまた西野とつきあうことにしたと映研のメンバーが知った時に、美鈴は「今はまだ/東城先輩には/秘密に―」と言っている。(JC17巻79頁)

    「あのセリフ」

     第149話で、文化祭の前日に、美鈴は真中と東城の「主演のお二人の/ための試写会」を開催している。そして東城に「先輩!/勇気出して/もう一度映画の/あのセリフ…」と言い(同、118頁)、一人で「映画のヒロインの/セリフそのまま/言えばそれで…」と独白している。(同、125頁)

     そこで真中は東城に、また西野とつきあっていると言った。それを聞いて東城は涙を流した。

    責める

     第150話、文化祭当日に美鈴は真中に対して真中の鈍さに怒っていると言い、「東城先輩は/真中先輩のこと/好きなんですよ」という。

    美鈴の言動について

     以上の美鈴の言動はおかしい。

    秘密

     真中が西野とつきあい始めたことを美鈴が東城に知らせないようにしたことは、おかしい。

     東城のためを思ってのことのようでもあるが、そのことによって東城はその間、真中が西野とつきあい始めたことを踏まえた上での行動をとることができなくなっている。

    試写会

     真中が誰ともつきあっていない時であれば、「映画のヒロインの/セリフそのまま/言えばそれで…」と考えても問題はない。

     しかしこの場合には、真中はすでに西野とつきあっている。すでに西野を選んでしまっている。そういう状況では「映画のヒロインの/セリフそのまま/言えばそれで…」ということにはならない。

     東城と真中が結ばれるためには、真中がすでに西野を選んでしまっている状況を踏まえた上で、どうすべきかを考えなくてはならない。

     結果はどうであっても、東城に告白させるということであるならばそれでいいが、それでは東城のためにならない。

    責める

     西野とつきあっている真中に対して、東城の気持ちがわからない真中の鈍さを責めることは、おかしい。

    考察

     作者は何故にこういう話を作ったのか?

     真中が西野とつきあっていることを東城に告げることは、北大路に告げることと同じく、決着をつけた後を片づけることである。しかし東城の場合は、北大路の場合と違うものになっている。

     以下、推測。

     東城の真中に対する想いは大きく、重い。それを西野に対して巻き返す方向に向かわせるのではなく、他の方向に(後に述べる方向に)向かわせることを作者は考えた。そのために東城は、もはや巻き返すことができないほど遅れた状況に置かれた。

     美鈴によって秘密にされたこともそのためであった。天地の誤解とか、下着のこととか、その他のことによって真中に誤解されたこともそのためであった。

     そのことによって東城は、すでに真中が西野とつきあってしまって、巻き返すことが難しくなった後に、そのことを聞くことになった。

     悲劇のヒロインとして描かれることになった。

     高3の文化祭で公開する映画は、それまでの真中と東城のやってきたことの集大成という意味があるゆえに、その試写会で、真中が西野とつきあっていると東城がはじめて聞かされることは、悲劇的になる。

    文化祭

     文化祭の当日にまた劇的な場面がある。

    流れ

     文化祭で西野と歩いていた真中は、見知らぬ男と一緒に歩いていた東城と出会う。その見知らぬ男は東城の弟だとわかって真中はホッとした。

     西野は真中のそういう表情を見て、帰って行った。(第151話)

     高3の文化祭は、真中にとっても、東城にとっても、部活の最後の日である。真中も東城も、それまで高校1年から部活でやってきたことを思い返して、互いに会いたいと思った。(第152話)

     真中が一人でいる部室に来た東城は、ドア越しに真中に告白した。それに対して真中は土下座して、「今は西野を/大切にして/いきたいんだ」と言った。(第153話)

     真中はそのまま西野の家に行って、西野を抱いた。(第154話)

    考察

     ここで遅ればせながら東城の真中に対する告白がある。

     前にも言ったように、東城の真中に対する想いは大きく、重い。真中が東城を選ばないとしても、東城がその想いを真中に伝えるところがなくてはならない。
     しかし作者はそのことによって話をひっくり返すつもりもなかった。

     そのために遅れた時に告白することにしたのではないか。

     ここで東城が告白して、それを受けて真中がことわったことによって、女性側の意思表示が出そろった上で、それに対して真中がその女性の中から一人を選ぶというかたちができた。

     外的な状況によって東城の告白が遅れたことを考えると公平とは言えないが、恋愛物語としての決着がついたかたちになっている。

     恋愛の決着が一応ついた後に、真中、東城、二人の夢の話になる。

    流れ

     「文化祭が/終わって」「「楽しい高校生活」も/もうおしまい」で、「地獄の/受験モード/突入」となった。(第155話。JC18巻48頁)

     そういう時に、真中のところに映像コンクールの審査員が来て、コンクールに出した真中の映画がよかったと言って、真中にチャンスを与えた。

     同じ時に東城は文学賞を受賞して、次の作品をもとめられていた。

     二人は屋上で出会ってそのことについて言い合った。そしてそれぞれ「自分一人だけの力」でやっていこうとした。(第156話)

     ところが東城は、真中なしでは小説が書けない。

     真中は、それまで東城が担当していた脚本部分のレベルが低いと批評された。(第157話)

     道で出会った二人は、互いにそのことを打ち明け合った。そして互いに力を合わせることになった。(第158話~第159話)

    考察

     「いちご100%」という作品では、主人公の恋愛をめぐる話と同時に主人公の夢をめぐる話が描かれてきた。

     ここでは、主人公の恋愛をめぐる話の決着がついた後に、夢をめぐる話が描かれている。

     真中が東城と結ばれる場合、主人公の恋愛と主人公の夢とは一つになる。

     真中が西野と結ばれると、主人公の恋愛と主人公の夢とは分れる。

     作者はそのことを次のように描いている。

     真中、東城はそれぞれの夢のためのチャンスを与えられて、その夢に向かう。
     二人は恋愛に関して別れているので、夢に関してもそれぞれ「自分一人だけの力」でやろうとした。
     しかし二人とも互いに相手の力が必要だと考えるようになった。
     そこで、恋愛と別に、夢に関して二人が力を合わせることになった。

     もともと恋愛と夢とは一つであった。真中が西野を選んだ結果、両者は分かれることになった。そこで恋愛と別に、夢に関して二人が力を合わせるというかたちで、夢を生かすようにしたようである。

     ただし東城にはまだ恋愛感情が残っていた。そのことが次の話につながる。

    前進

     東城に残っていた恋愛感情にけりをつける。

    流れ

     大学受験直前に落ち込んでいる真中のために、南戸が東城を家庭教師としてよんできた。家庭教師の途中で、真中が眠りに落ちた。そこで東城は眠っている真中にキスをした。(第161話)

     東城が真中にキスをした後に、まだ目が覚めていなかった真中が東城と抱き合うかたちになった。それを見た南戸は、真中の受験の前日に、西野とつきあっているのに二股をかけてそういうことをしていることを責めた。(第162話)

     受験から帰ってきて、真中は待っていた西野をおいて、東城に家庭教師の時のことを聞いた。東城は自分からキスをしたと言った。これで「やっと/前に進める気が/する」と言った。そして東城は去って行った。真中は後を追わなかった。(第163話)

    考察

     東城の独白、真中に対するセリフをたどっていくと、上の流れで東城が真中に対する恋愛感情にけりをつけていったことがわかる。

     東城は家庭教師に来て「あとちょっとで/二人きりの時間も/終わりね…」と独白しているように、その家庭教師の仕事を最後の「二人きりの時間」と考えていたようである。

     東城が眠っている真中にキスをしたことも、「それ以上/もう何も/望まないから」というように恋愛感情にけりをつけるつもりでしたようである。
     「初めての/人は/真中くんが/いい」というように「初めての人」にすることだけが目的だったようである。
     真中の受験の後に公園で真中に言ったように、そのことによって東城は「前に進める」ようになったようである。

    気になるところ

     しかし色々と気になるところはある。

    東城

     東城は自分の気持ちに整理をつけた。そのことは東城にとっていいことであったようである。

     しかしそのことは真中に対しても西野に対しても悪い行為である。真中に対しては、その行為そのものだけでなく、その行為が真中の大学受験に影響を与えたという意味でも悪い行為である。

     ところが東城はそのことについて十分に謝罪していないようである。真中に対して「勝手なことして/怒ってたら/ごめんなさい…」と言うだけである。

    南戸

     南戸が真中の受験前日に、真中の受験を失敗させるつもりで真中を責めているところはモヤモヤする。

     真中のこれまでしてきたことについて、大学受験を失敗するくらいの罰が当たってしかるべきだ、という多くの読者の気持ちにこたえているということができるかもしれない。

     しかし南戸が責めていることに関しては、真中はそれほど悪くない。大学受験の後に謝罪している通りである。

     また南戸自身、真中が西野とつきあっていることを知っていながら、真中を東城と二人きりにしたことは、「二股」のためにはたらいたということができるのではないか?

    西野

     真中は受験が終わって帰って来て、待っていた西野にほとんど説明せずに、東城と話しに行っている。

     東城との話をすますまでは、西野と話すことができないということかもしれないが、そうだとしてももう少し西野が傷つかないようにすることはできたのではないか?

    白紙

     「いちご100%」の終わり。

    流れ

     真中は東城と別れた後、西野に対して「俺たちの関係/…白紙に/戻せないかな」と言った。
     真中は東城の小説を読んで、「真剣に映画の道/目指したい」と考えた。そのために西野に「甘えっぱなし」ではいけないと考えたというのである。

     西野は真中の申し出を受け入れて、フランスに留学に行った。(第165話)

     真中、東城も高校を卒業する。(第166話)

     そして時が経って、小説家の東城と、賞をとった真中とが出会って、東城の小説を映画化する話をする。
     真中は、フランスから帰ってきた西野とまた関係を再開する。

    考察

     「いちご100%」という作品には、恋愛と夢という二つの軸があった。

     真中と東城が結ばれる場合には、その二つはそのまま一つになる。

     真中と西野が結ばれるとすると、その二つは分かれる。
     そこで恋愛は西野と、夢は東城と、と分けられた。
     東城にはなおも真中に対する恋愛感情が、片づけることができた。
     真中は東城の小説を読んで真剣に映画の道に進むことを考えた。そして西野に対して甘えずに成長するために「白紙」にすることをもとめた。

     「いちご100%」にもともとあった夢にまつわる成長の主題が、ここでは西野との恋愛関係に持ち込まれて生かされているようである。

    終わりに

     「いちご100%」の終盤を通してみると、作者は長い見通しをもって、描くべきことを考えて描いたと思われる。

     しかしまた「いちご100%」の終盤には、真中が西野を選んだ決断をはじめとして、おかしいところが多い。