月: 2021年4月

  • 【映画】嵐を呼ぶ男(1957年) 石原裕次郎のドラマー

    【映画】嵐を呼ぶ男(1957年) 石原裕次郎のドラマー

     石原裕次郎がドラムを叩くシーンが有名な作品。(敬称略)

    音楽の歴史

    No-longer-hereによるPixabayからの画像

     このごろ音楽の歴史を聞きかじったので、この映画に対して今までと違う見方ができるようになった。

    ジャズ

     「嵐を呼ぶ男」は、ジャズバンドのドラマーの話である。石原裕次郎の演ずる主人公がジャズバンドのドラマーになる話である。ジャズバンドの話であることは、はじめから明らかにされている。

     ところでこの映画が公開されたのは1957年である。

     「五〇年代の中ごろまではまだ、ジャズっていう洋楽がポピュラーの代名詞になってた時代」(大瀧詠一「分母分子論」、1983年)であった。

     それまでと同じようにジャズが「ポピュラーの代名詞」、流行音楽の代表であった。ジャズはアメリカで流行音楽の代表となった。そして、その影響を受けた日本でもそうなっていた。

     「嵐を呼ぶ男」で、石原裕次郎がジャズバンドのドラマーの役をやるのは、ジャズが「ポピュラーの代名詞」だったからであろう。

    ロックンロール

     ところで1957年には、アメリカの流行音楽に新しい流れが起こっていた。

     1950年代中ごろに、ロックンロールが流行音楽の代表になったのである。エルヴィス・プレスリーがその代表的な存在であった。

     1957年は、エルヴィス・プレスリーが映画「監獄ロック Jailhouse Rock」で、「監獄ロック」を歌い、踊った年である。

     つまりアメリカでエルヴィス・プレスリーが「監獄ロック」を歌っていた1957年に、日本で石原裕次郎はジャズのドラマーをやって、歌っていたのである。

     映画「嵐を呼ぶ男」にも、エルヴィス・プレスリーの影響は見られる。

     「嵐を呼ぶ男」はジャズバンドの話であるが、そのジャズバンドがはじめにやるのはエルヴィス・プレスリーの影響を受けたと思われる歌である。

     ジャズバンドの前に、リーゼントヘアで、ギターを弾きながら、エルヴィス・プレスリーのように下半身を動かしながら歌っている。歌詞に「ジャズ」という言葉が繰り返し入っている。

     ウィキペディアに「冒頭でロカビリーを歌っている歌手は平尾昌晃である」とある。平尾昌晃は日本のロカビリーの代表的人物である。

    若者文化

     石原裕次郎は、兄慎太郎とともに、1950年代中頃に、日本の「若者文化」を代表する存在として有名になった人である。

     映画「嵐を呼ぶ男」も、その「若者文化」を代表する石原裕次郎が演ずる若者を中心とした「若者文化」の作品ということができる。

     石原裕次郎等の「若者文化」は、同じ1950年代中頃のアメリカのジェームズ・ディーンやエルヴィス・プレスリーによって代表される「若者文化」と通ずるところがあると思う。

     しかしまた、違うところもある。

     たとえばエルヴィス・プレスリーはロックンロールをやって当時の「若者文化」を代表となっていたが、石原裕次郎は「嵐を呼ぶ男」において、ジャズをやっていたのである。

     村松友視は「裕さんの女房 もうひとりの石原裕次郎」(青志者、2012年)において、「衝撃のデビュー時の石原裕次郎は”ロック的”な受け取り方をされていた」が「石原裕次郎の芯にひそむ香りの源はジャズだったのではなかろうかという気がしてならない」と書いている。(12頁)

     私の思っていることと同じかどうかよくわからないが、私も、石原裕次郎はロックよりジャズではないかと思った。

    あらすじ

     ジャズバンドのプロモーター福島美弥子(北原三枝)は、人気ドラマ―・チャーリー(笈田敏夫)が自分の許から離れ始めていることに苛立っていた。

     ある日、チャーリーが突然休んだので、その代わりに、国分正一(石原裕次郎)を起用した。その少し前に正一の弟の英次(青山恭二)という学生から売り込まれていたのである。ところが国分正一は、喧嘩して留置場に入っていたような「荒い」青年であった。

     チャーリーは福島美弥子から離れて競合相手の持永(安倍徹)についた。それに対して福島美弥子は国分正一(石原裕次郎)と正式に契約した。そして福島家に住ませてドラムを上達させた。

     国分正一は母(小夜福子)に嫌われていた。それに対して正一は母に認められるためにドラムに力を注いだ。

     国分正一に、持永からチャーリーとのドラム合戦が申し込まれた。

     ドラム合戦の前夜、国分正一は、持永の子分と喧嘩して、左手をけがしてしまう。

     けがした左手でドラム合戦に出た国分正一は、途中でドラムを叩くことができなくなった。ところが、とっさにマイクをとって「嵐を呼ぶ男」を歌った。そして観客から拍手を受けた。

     国分正一は人気者になって、ついに投票で一位になった。しかし母はそういう正一を認めなかった。

     国分正一は福島美弥子と恋仲になった。

     評論家左京(金子信雄)は、福島美弥子に惚れていた。
     チャーリーを福島美弥子から引き離して持永に近づけたのは、そのためであった。
     左京は評論家として、国分正一を持ち上げて、チャーリーを貶めたが、それは国分正一が左京と福島の間をとりもつと言ったからであった。
     ところが国分正一は福島美弥子と恋仲になった。そこで左京は、国分正一と敵対する側になった。左京は国分正一に、弟英次のリサイタルを邪魔すると脅した。

     国分正一は、弟英次のために福島美弥子の家を出た。母の家に帰ってきて、みどり(芦川いづみ)と結婚しようと考えた。ところが、母に、みどりは弟英次と結婚することになっていると言われた。そして家から追い出された。

     国分正一は、一人で飲んだくれているところを、メリー(白木マリ)に救われて、メリーの家で寝ていた。
     その時にメリーは持永の情婦になっていた。
     持永は、左京によってそのことを知って、大勢の部下によって国分を痛めつけた。

     その時に、正一の弟英次のリサイタルが始まっていた。福島美弥子も正一の母も、そこに来たメリーによって、正一の真意を知った。そして二人はバーのラジオで、傷だらけで、弟英次のリサイタルを聞いていた正一を探し当てた。
     そこで母は正一に謝罪した。

    ドラム合戦

     有名なドラム合戦は、中盤にある。

     ドラム合戦で石原裕次郎演ずる国分正一がマイクを持って歌いだすところは、有名なところであるが、おかしいところでもある。

     ドラム合戦であるのに、歌を歌って勝つことができるのか?

     ドラム合戦の勝敗を決めるのは、ドラムではないか?

     私の思うに、この場面は、石原裕次郎の歌声の力によるところが大きい。心地よく包み込むような歌声がそれなりに長く続く。観客の多くはその歌声に満足して、ドラム合戦ということはどうでもよくなる。

     見返していて、ドラム合戦の後、テレビで左京(金子信雄)が「国分は手の負傷をものともせず、体全体でドラムを叩かんばかりの熱演ぶりで万雷の拍手を受けた」と言っているところが気になった。これはあのドラム合戦のことをどう伝えているのであろうか?

    若者

     この映画で石原裕次郎が演ずるのは、若者である。ドラムによって成功することを志す若者である。

     粗削りな、不良性のある主人公に石原裕次郎は合っている。

     母親が石原裕次郎演ずる長男を嫌って、次男を大事にしているというのは、「エデンの東」と関係あるのであろうか?

    左京

     この話を裏から動かしているのは、金子信雄演ずる評論家左京である。

     そもそも左京が福島美弥子(北原三枝)に惚れて、チャーリーを福島美弥子から引き離すために持永に近づけたゆえに、国分正一(石原裕次郎)が福島美弥子に起用されることはできた。

     左京が国分正一に福島美弥子との仲を取り持つと言われて、国分正一を持ち上げチャーリーを貶めたことによって、二人の浮き沈みは決まった。

     国分正一が福島美弥子と恋仲になったことを知った左京が、国分正一をやっつけるために持永と手を組んだことによって、国分正一はドラムを叩くことのできない体になった。

     このように、左京の福島美弥子に対する思いが、この話を動かしている。

  • 【映画】「兄貴の恋人」(1968年) 若大将と内藤洋子

    【映画】「兄貴の恋人」(1968年) 若大将と内藤洋子

     「兄貴の恋人」は1968年9月7日に公開された映画。

     「兄貴」(加山雄三)とその「恋人」との関係に心が揺れる妹(内藤洋子)を描いた作品。

     2010年5月28日に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売されている。


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     この映画では、妹の兄に対する想いが描かれている。

     いつも兄にべたべたしているのではなく、「不潔」などと言っている。

     しかし兄に対する想いは強い。

     朝の満員電車で、揺れて兄の胸に抱かれるかたちになったところで、兄に髪を撫でられている時の表情は特徴的。

     予告編ではここに「私の恋人は兄貴/誰にも渡したくない」という文字が出て来る。

     兄に対してそれだけの想いを持っているので、兄と他の女性との関係が気になるのである。

     兄はすでに会社員。見合いなど、他の女性との結婚を周りから言われている。

     妹はまだ学生。子どもから大人になる途中である。

     その、子どもから大人になる途中が見どころ。

     小津安二郎監督の「晩春」は父と娘の関係は、「兄貴の恋人」の兄と妹の関係と似たところがある。


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     小津安二郎監督は、父と娘の関係を掘り下げたが、「兄貴の恋人」は兄と妹の関係を掘り下げたということができるかもしれない。

    内藤洋子

     映画「兄貴の恋人」で主役の「妹」を演じているのは内藤洋子。

     兄(加山雄三)から「デコすけ」と言われているように、おでこを出しているのが特徴。

     おでこ、頬など丸みを帯びた感じが、「妹」に合っている。―子どもから大人になる途中ということに合っている。

     長く艶やかな黒髪など、上品な感じはお嬢様の役に合っている。

     内藤洋子は映画デビューが「赤ひげ」(1965年)。「赤ひげ」ですでに加山雄三の相手役をやっている。


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     映画「お嫁においで」(1966年)では、加山雄三の妹役。

     「お嫁においで」では、「兄貴の恋人」のような兄に対する複雑な気持ちなどなかった。


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     加山雄三と内藤洋子は、実生活において親戚になっている。

     加山雄三著「若大将の履歴書」で、映画「赤ひげ」の結婚相手のまさえに内藤洋子が選ばれるところで次のように語られている。

    ~まさえの役を射止めたのはやがてアイドルスターになる新人の内藤洋子だった。「赤ひげ」でデビューし、映画「お嫁においで」や「兄貴の恋人」などで僕と共演した後、僕の従弟でランチャーズの喜多嶋修と結婚して喜多嶋洋子となった。つまり今では僕の親戚なのである。

    「若大将の履歴書」、163頁

    若大将の履歴書

     その長女が喜多嶋舞である。

     そうして時は流れても、映像では子どもから大人になる途中の姿を見ることができる。

    https://cinema.ne.jp/article/detail/37509

    http://www.ak-hb.jp/yokokitajima.html

    主人公の家

     主人公の兄妹は、両親の家で暮らしている。

     父は宮口精二、母は沢村貞子で、貧乏ではないが倦怠感のある夫婦を演じている。

     兄妹は、阿佐ヶ谷駅から中央線に乗って通勤通学している。そして新宿で別れて、兄はそのまま中央線、妹は山手線。

    鉄平の会社

     兄鉄平(加山雄三)の勤める会社には、和子という女性(酒井和歌子)がいて、親しくしていた。

     その会社は銀座にあるようである。

     和子は鉄平に思いを寄せていたが、会社を辞めて叔父のスナックで働くことになった。

    川崎のスナック

     和子(酒井和歌子)が働くことになった川崎の叔父のスナックは、ポルノ映画のポスターが貼られているようなところにあって、客層も下品。

     「伊勢佐木町ブルース」が流れている。


    青江三奈 ベスト 恍惚のブルース 伊勢佐木町ブルース 池袋の夜 2CD-423

     青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」が発売されたのは1968年1月5日。「兄貴の恋人」と同じ年である。

     同じ年の12月7日には、東映の映画「夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース」が公開されている。―梅宮辰夫がオープン屋で、農家の金持ち(伴淳三郎)を手玉に取るが、しっぺ返しを食らうという話。青江三奈は、歌うところだけ出ている。


    夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース

     銀座の会社員の生活と、川崎のやくざの生活とが対比されている。―東宝の若大将と東映の任侠映画の対比

     酒井和歌子の上品な姿と、下品な背景との対比。

     酒井和歌子のやくざな兄の役を「若大将」シリーズのマネージャー役の江原達怡がやっているのも面白い。

    新宿のバー

     新宿には、鉄平(加山雄三)が夜しばしば訪れるバーがある。

     そのバーのママ(白川由美)も、鉄平に思いを寄せている。

    様々な女性

     この映画で加山雄三の演ずる人物は様々な女性から思いを寄せられている。

     妹(内藤洋子)、職場の同僚(酒井和歌子)、バーのママ(白井由美)については既に書いた。

     その他にも、職場の同僚(岡田可愛)、街でたまたま救った女性(豊浦美子)、会社の専務の令嬢(中山麻理)…

     妹は「私の恋人は兄貴/誰にも渡したくない」と思っていたのに、これだけの女性が兄に思いを寄せていたわけである。

     この映画では、様々な女性を魅力的な恋愛対象として描くかたちになっているということもできる。

     加山雄三の演ずる人物に思いを寄せない女性で、悠木千帆、後の樹木希林が出ている。

    「若大将」シリーズとの関係

     「兄貴の恋人」が公開されたのは、「若大将」シリーズで言うと、「リオの若大将」(1968年7月13日公開)と「フレッシュマン若大将」(1969年1月1日公開)の間。

     「若大将」シリーズについては↓

    加山雄三

     「若大将」シリーズでは「フレッシュマン若大将」で若大将は就職する。

     「兄貴の恋人」ではその前に加山雄三は社会人の役になっている。(それより前の1966年公開の「お嫁においで」ですでに社会人の役になっている)

    酒井和歌子

     「兄貴の恋人」のヒロイン酒井和歌子は、「兄貴の恋人」の後の「フレッシュマン若大将」から「若大将」シリーズのヒロインになっている。

    内藤洋子

     「兄貴の恋人」の主役というべき内藤洋子は「若大将」シリーズに出ていない。

     「若大将」シリーズにはすでに妹輝子(中真千子)がいるからであろうか?

    「お嫁においで」との比較

     1966年11月20日に公開された映画「お嫁においで」は、「兄貴の恋人」と同じく2010年に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売された映画であるが、色々と「兄貴の恋人」と似たところがある。その似たところと、違うところとを明らかにすることによって、それぞれを明らかにしてみよう。

     「お嫁においで」について↓

    似たところ

     加山雄三の演ずる主人公は、どちらの映画でも、いいところの会社員。

     ヒロインは、どちらの映画でも、それより低い環境の人。そばには同じような環境でヒロインに好意を寄せる男がいる。

     内藤洋子の演ずる妹は、どちらの映画でも、兄のためにはたらく。

    違うところ

    結末

     結末が違う。

    ・「お嫁においで」では、ヒロインは主人公を振った。

    ・「兄貴の恋人」では、ヒロインは主人公を受け入れる。

    結末が違う理由
    ヒロインの設定

    ・「お嫁においで」のヒロインは、もともと加山雄三の演ずる人物が好きであったのではない。むしろ批判的であった。

    ・「兄貴の恋人」のヒロインは、もともと加山雄三の演ずる人物が好きであった。

    ・「お嫁においで」では、金持ちの世界に住む主人公と、貧しい世界に住むヒロインとの間に、世界が違うという壁があった。最終的にヒロインはその壁を主体的にとらえなおすのであるが、そのことによってヒロインは主人公を振るのである。

    ・「兄貴の恋人」では、主人公とヒロインとは、違う世界の住人ではない。ヒロインは、映画のはじめには主人公と同じ世界の住人だったのである。「お嫁においで」ほど主人公が金持ちの家に生まれたということは強調されていない。「兄貴の恋人」の壁は、ヒロインの家族にあって、ヒロイン自身にあることではない。それゆえにヒロインが決断することによって主人公と結ばれることができた。

     「兄貴の恋人」は、「お嫁においで」に対して、ヒロインが殻を破るところを描いている、ということができるかもしれない。

     「お嫁においで」からいうと、「兄貴の恋人」に対して、ヒロインの主体性を重んじた、ということができるかもしれない。

    ヒロインの近くにいる男

    ・「お嫁においで」では、ヒロインの近くにいる男(黒沢年男)がヒロインを愛していることが時間をかけて描かれていた。

    ・「兄貴の恋人」では、ヒロインの近くにいる男(清水綋治)のヒロインに対する思いはそれほど描かれていない。ヒロインの兄によって傷つけられて、就職に苦労したという経歴があって、そのことは引け目になることであった。ところが、加山雄三の演ずる人物がその男の代わりに殴られてアメリカ行きをふいにしたことによって、引け目はなくなった。

    加山雄三

    「お嫁においで」

     「お嫁においで」で加山雄三が演じた人物は、造船所の設計技師で、祖父、親の会社で働いている。そういうところは「兄貴の恋人」より「若大将」シリーズに近い。ただしそういう要素は、ヒロインとの関係でマイナスに働くこととして描かれている。「お嫁においで」は、そういうヒロインを中心とした映画である。そういうところは「若大将」シリーズから離れるところである。

     加山雄三が演じた人物は、はじめにヒロインに惚れ込んでから終盤まで一途であった。

    「兄貴の恋人」

     「兄貴の恋人」で加山雄三が演じた人物は、「お嫁においで」ほど金持ちではない。

     女にもてる男である。見合いには乗り気でなく、うまくいかないが、多くの女性に愛され、中途半端な関係になったりしている。

     女にもてるところは、「お嫁においで」より「若大将」シリーズに近いと思う。様々な美女が主人公に対して好意を抱くところを表現しているのである。―「お嫁においで」においては、主人公がヒロインに対して好意を抱いているのであって、ヒロインの方はそれほどではなかった。

     「兄貴の恋人」の主人公は、中盤までヒロイン(酒井和歌子)に対して特に好きということはない。しかし中盤に好きと自覚してからは、一途になる。

    内藤洋子

     内藤洋子演ずる妹は、「お嫁においで」においては、加山雄三の演ずる兄の側にいて、兄がヒロインと結ばれるために働く可愛い妹に過ぎなかった。

     「お嫁においで」の中心は、加山雄三の演ずる人物ではなく、ヒロイン(沢井桂子)であった。内藤洋子演ずる妹は、さらに中心から離れた存在であった。

     「兄貴の恋人」は、題名でも明らかなように、内藤洋子演ずる妹が作品の中心になっている。

  • 【映画】「お嫁においで」(1966年) 「若大将」シリーズに近い映画

    【映画】「お嫁においで」(1966年) 「若大将」シリーズに近い映画

     1966年11月20日に公開された映画「お嫁においで」は、加山雄三が「若大将」シリーズの間に出演した映画である。

     私は「若大将」シリーズに関心があってこの映画を観たのであるが、色々と「若大将」シリーズと似ているところがある。違うところもある。(敬称略)

    楽曲

     映画「お嫁においで」は、弾厚作(加山雄三)作曲の「お嫁においで」という楽曲(1966年6月15日発売)をもとにして作られたものである。

     パンフレットには「加山雄三のヒット曲のなかからはじめて映画化された」とある。

     「お嫁においで」という楽曲は、加山雄三の楽曲の中でも特に有名なものである。

    「若大将」シリーズとの関係

     映画「お嫁においで」が公開されたのは、「若大将」シリーズでは、「アルプスの若大将」(1966年5月28日公開)、「歌う若大将」(1966年9月10日公開)と「レッツゴー!若大将」(1967年1月1日公開)の間である。

     「若大将」シリーズが盛り上がっている時に、その勢いによって作られた映画と思われる。

     「若大将」シリーズと同じように、加山雄三演ずる人物の恋愛が作品の中心となっている。

     「お嫁においで」では、加山雄三は社会人を演じている。「若大将」シリーズで、加山雄三演ずる田沼雄一が社会人になるのは「フレッシュマン若大将」(1969年1月1日公開)からである。

     「若大将」シリーズで主人公の父役の有島一郎が「お嫁においで」ではホテルの支配人、主人公の祖母役の飯田蝶子がそのホテルに来る担ぎ屋のおばさんを演じていて、二人が言い合う場面があるが、「若大将」シリーズに似た感じがある。

     全体的にコミカルな感じは「若大将」シリーズに似ている。

     ただし「若大将」シリーズと違う感じのところもある。私はそのことが気になった。

    あらすじ

    Paul BrennanによるPixabayからの画像

     主人公はホテルのレストランのウェイトレス露木昌子(沢井桂子)。

     露木昌子(沢井桂子)は、造船所の設計技師須山保(加山雄三)と出会う。須山保は、造船所の会長の孫、社長の子である。須山保は露木昌子に惚れ込む。それに対して、保の父(笠間雪雄)、母(村田知榮子)は、保が釣り合った相手と結婚すべきだと考えていて、露木昌子は保と釣り合わないと言って反対する。妹(内藤洋子)は保を助けようとする。祖父(笠智衆)もはじめは釣り合わないと言って反対していたが、保を助けようとする。

     露木昌子(沢井桂子)は同時に、病気の友達(田村亮)の兄(黒沢年男)と親しくなる。

     主人公は、金持ち(加山雄三)に思いを寄せられると同時に、粗野なタクシー運転手(黒沢年男)に思いを寄せられて、どちらを選ぶか、という話になる。

     主人公自身は貧しい庶民であって、金持ちに対して批判的な考えを持っていた。

     ところが主人公は、須山保(加山雄三)と付き合っているうちに、金持ちの幸福をも知る。(48分あたり、ヨットで加山雄三が歌を歌い、主人公はそれを聞く、二人が水着姿で浜辺で抱き合うイメージ)

     しかし結局露木昌子(沢井桂子)は、須山保(加山雄三)に対して、シンデレラになりたくないからと断って、野呂高生(黒沢年男)を選ぶ。

    主人公

     映画「お嫁においで」は、加山雄三の楽曲をタイトルにした映画であって、劇中で加山雄三がその楽曲を歌っている。クレジット順では第一が加山雄三である。加山雄三の演ずる須山保が主人公であるように見える。

     ところが実際には、この映画の主人公は露木昌子(沢井桂子)である。この映画は、露木昌子(沢井桂子)から始まる。露木昌子(沢井桂子)の気持ちが、映画の中心になっている。

     これは奇妙なことではないか?

     「若大将」シリーズの勢いによって作られたと思われる映画で、何故に加山雄三を主人公にしないのか?

    パンフレット

     「お嫁においで」のパンフレットを見ると、次のように書いてあった。

    いままでの加山の役はほとんどが結ばれなくともハッピーエンドで終っているが、この作品では恋人の沢井を黒沢に奪われ、ヨットで失恋の旅に出るというもの。
     これも「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮からなったもので、「君といつまでも」「夜空の星」などで爆発的人気を呼んでいるだけにファンを大切にというわけ。

    東宝「お嫁においで」パンフレット

     加山雄三の演ずる人物が失恋することについて、「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮から、と説明しているのである。

     我らの問題は、何故に加山雄三の演ずる人物が失恋するのか、ということではなくて、何故に加山雄三の演ずる人物が主人公でないのか、ということであった。その説明では答えにならない。

     それはそれとして、「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮から失恋させることにした、ということもよくわからない。

     「お嫁においで」というタイトルであるから、最後に失恋しないかぎり、結婚せざるをえない、ということであろうか? そういうことで「ファンにしかられる」のであろうか?

    思想

     映画「お嫁においで」は、露木昌子(沢井桂子)の気持ちを中心としている。露木昌子(沢井桂子)の思想を中心としている。

     露木昌子(沢井桂子)は、自身貧しい庶民として、金持ちに対して批判的である。貧富の差について「世の中間違えている」と語っている。(38分)主人公の同僚は「革命が必要」と言っている。(31分)ただし主人公も同僚も革命を実際に企てているのではない。

     露木昌子(沢井桂子)は須山保(加山雄三)と付き合って金持ちの幸福を知る。須山保(加山雄三)も、「職業に貴賎なし」と言って主人公にほれ込む人である。

     しかし結局、露木昌子(沢井桂子)はシンデレラになりたくないからと、結婚を断った。

     映画「お嫁においで」においては、金持ちと庶民とが分けられている。主人公の勤めるホテルは、庶民が従業員として金持ちと出会う場所である。

     加山雄三の演ずる人物は、金持ちの側の人である。若大将より金持ちであることが強調されているが、豊かな家に生まれたこと、船を造っていることなど、若大将と同じように加山雄三自身に近いと思われるキャラクターである。

     「お嫁においで」は、その加山雄三の演ずる人物に対して、それと異なる主人公たちの貧しい庶民の生活を中心として、加山雄三の演ずる人物と結ばれることを選ばない、という作品である。

     いわば「若大将」シリーズと対立する思想を持っているということができるのではないか?

     パンフレットに「従来の”若大将”ものとは違った、題名は曲名そのままでも内容的には脚本を特に松山善三氏に依頼、その意欲がうかがわれる」とある。

     特に松山善三によって、映画「お嫁においで」に「若大将」シリーズと違う思想が持ち込まれたようである。

    その他のこと

    本多猪四郎監督

     映画「お嫁においで」の監督は本多猪四郎である。怪獣映画の間にこの映画を監督している。(「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」と「キングコングの逆襲」の間)

     パンフレットには「加山以上にうれしがっているのが、本多猪四郎監督」とある。

    なにしろ本多監督といえば怪獣ものの専門監督、恋愛ものを手がけるのは、「真紅の男」いらい五年振りというからよろこびようもわかる。「若い連中に囲まれて、仕事をするのは久しぶりだが、僕も若い気分になって楽しい作品を作りたい。加山君の魅力をじゅうぶん出しますよ」と張り切っている。

    東宝「お嫁においで」パンフレット

     「真紅の男」とは、1961年9月12日に公開された映画である。

    オーディオコメンタリー

     「若大将」シリーズの「海の若大将」のDVDのオーディオコメンタリーで沢井桂子が「お嫁においで」について語っているところがある。

     最後に露木昌子(沢井桂子)が須山保(加山雄三)をふるところについて、みんなにもったいないと言われたと言っている。

    「兄貴の恋人」

     映画「お嫁においで」の二年後に作られた映画「兄貴の恋人」は、2010年に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売された作品であって、同じく加山雄三主演で、設定に似たところがあって、それぞれの違うところを考えると、それぞれの作品がよりよくわかる。

     「兄貴の恋人」について↓

    小津安二郎

     映画「お嫁においで」の24分あたりで、ヒロインたちが家から土手にいる笠智衆を見るところがある。そこで私は小津安二郎作品を思い出した。

     「東京物語」で、東山千栄子演ずる祖母が孫と土手で遊ぶのを家から見るところ。(29分)

     「お早よう」で、住宅地から土手を見るところ。(2分)

     手前に住宅地、奥に土手があるという構図が似ているのである。

     笠智衆は小津安二郎作品に多く出ている俳優である。それゆえに「お嫁においで」に出演している笠智衆を見て、小津安二郎作品が思い出される。「東京物語」では、笠智衆が土手を家から見る役になっていた。

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」 キャラクターの改変とストーリーの難点

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」 キャラクターの改変とストーリーの難点

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」においては、登場人物の性格が原作とは大きく違うものになっている。

     「あの日にかえりたい」は、登場人物の性格が原作と大きく違うことによって、話も原作と大きく違うものになっている。

     「あの日にかえりたい」の檜山ひかるの性格が原作と大きく違うものになっていることについては、前にも述べた。

    鮎川まどかの改変

     第一に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のヒロイン、鮎川まどかが、「あの日にかえりたい」においては、原作と大きく違うものにされている。

    冒頭

     「あの日にかえりたい」のはじめに、春日恭介、鮎川まどかの二人が大学の合格発表を見に行く途中、春日恭介の後を鮎川まどかがついていくところが描かれている。

     私はそこから違和感がある。

     鮎川まどかが春日恭介の後について二人で大学の合格発表を見に行く姿は、私の頭の中にある春日恭介、鮎川まどかと一致しない。

    キャラクターの容姿

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの性格が原作から大きく離れていることは、絵によっても現わされていると私は思う。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの絵は、容姿も衣装も、原作から離れている。原作と同じ精神を表現しようとしたとも思えない。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の鮎川まどかの絵は、その容姿、衣装によって、孤高の性格を表現している。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの絵は、原作から離れたことによって原作の精神からも離れている。原作の鮎川まどかのかっこよさが全くなくなっていると私は思う。―「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの顔は、原作に比べてかっこよさがなくなっている。「あの日にかえりたい」の鮎川まどかの髪型も衣装も、原作の鮎川まどかがしないと思われるものが多いが、いずれも原作に比べてかっこよさがなくなる方向に進んでいると思われる。

    キスのことを聞いて怒る

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、春日恭介が檜山ひかるとキスしたと聞いて、怒って春日恭介と会わなくなる。

     そのことについて、深草プロデューサーは「アニメディア」1988年10月号で次のように説明している。

    まどかにとっては、二人のキスは衝撃なんですね。「恭介は自分を愛してる」そんなまどかの自信は崩れ去り、ひかる、恭介との関係を本気で考え始めるんです。(深草P・D)

    「アニメディア」1988年10月号、119頁

     鮎川まどかは勝手に「恭介は自分を愛してる」という「自信」を持っていて、二人のキスを聞いて、その「自信」が崩れ去って、ひかる、恭介との関係を本気で考え始めるというのである。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、勝手に「恭介は自分を愛してる」という「自信」を持っているようなかっこわるいキャラクターになっている。二人のキスを聞いて、勝手に持っていた「自信」が崩れ去ったということもかっこわるい。

     原作の鮎川まどかは、そのようなかっこわるいことはしない。勝手に「自信」を持つこともなく、その「自信」が崩れ去って衝撃を受けることもない。

    内面

     望月智充監督は、「あの日にかえりたい」について次のように語っていた。

    ひかると恭介との間にはいって苦しむまどかの姿を中心に、少女ふたりの内面を心理ドラマとして見せたいと思っています。

    「アニメージュ」1988年8月号、25頁

     ところが「あの日にかえりたい」においては、鮎川まどかの「内面」は「心理ドラマ」として描かれていないようである。

     原作の鮎川まどかは、檜山ひかるのことを思いやっていた。そのことによってその「内面」は複雑になっていた。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、檜山ひかるのことを思いやらず、春日恭介を自分のものにすることばかり考えている。その「内面」は単純である。―春日恭介は自分のものだという「自信」を勝手に持っていた、しかしその「自信」が崩れ去って衝撃を受けた、それから「自信」を取り戻した。このように単純である。

     「ひかると恭介との間にはいって苦しむまどかの姿」は、原作にはあったが、「あの日にかえりたい」にはない。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、「ひかると恭介との間にはいって苦しむ」ことはない。

     「あの日にかえりたい」では、鮎川まどかが、自分の部屋でそのことを思って、ひとりで泣き出す場面があるが、自分のものだと思い込んでいたものがとられたことを悲しんでいるだけであって、幼児がおもちゃをとられて泣いているのと同じような精神性である。

     ついでに、「あの日にかえりたい」の鮎川まどかが春日恭介と予備校の授業中に痴話げんかをしているところが気になったので書いて置こう。
     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、ひかるが恭介とキスしたと聞いて、予備校で恭介を待って、そのことについて聞いて、けんか別れしているのであるが、予備校の授業中に、他の人が聞いているところで、そういう話をすることを、恥ずかしいと思わないのであろうか? たとえば予備校に行く前の電話で聞いて、そしてつき放すのでいいのではないか?

    夏祭りの夜の電話

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、春日恭介が檜山ひかるとキスをしたと聞いて、春日恭介に会わなくなる。

     ところが夏祭りの夜、突然春日恭介に鮎川まどかから電話がかかってきた。

     鮎川まどかは電話口で泣いていた。そして「あなたの気持ちわかってたつもりで安心してたから、その気持に甘えてた罰かもしれない。今回のひかるのこと」といった。

     それに対して春日恭介は「そんな・・・俺の方こそ、俺の方こそ・・・。俺、鮎川のこと・・・好きだよ」といった。

     鮎川まどかは「春日君、会いたい」と言い、「(すすり泣いて)馬鹿だね私。春日君、私、そんなに強くないよ」と言った。

     春日恭介は鮎川の家に駆けつけた。

     ところが春日恭介がキスをしようとすると、鮎川まどかは顔をそむけた。春日恭介が「あの、やっぱり、ひかるちゃんのことが?」と聞くと、鮎川まどかは「ううん。ひかるのことは別に。それよりも春日君の気持ちの問題なの」と答えた。それを聞いて春日恭介は「わかった」と言った。

     この場面を初めて見た時、私はびっくりした。原作の鮎川まどかと相いれないからである。

     この場面はこの映画の重要な転換点である。しかしどうも筋が通っていないのではないかと思われる。

    鮎川まどか

     まずこの場面の鮎川まどかの言動が原作の鮎川まどかと相容れないということについて。

     深草プロデューサーはこの場面について次のように語っている。

    三人の関係に思い悩むまどかは混乱し、どうしていいのかわからないまま、恭介に電話をしてしまいます。これはテレビシリーズではありえない、まどかの生身の姿ですね。

    「アニメディア」1988年10月号、120頁

     理性によって感情を制御することができないまま、そういう状態の自分を春日恭介にさらけ出したというのである。

     脚本を書いた寺田憲史氏はこの場面について次のように語っている。

     大人向けは別にして、漫画のヒーロー、ヒロインは、とかく「陽」の部分が前面に出ていて、「陰」の部分を丁寧に描くことが少ない。だがこの作品では、鮎川まどかというなんでも格好いいヒロインが、どこにでもいる一八歳の少女のようにボロボロと泣きながら、切ない自分の気持ちをしゃべるシーンが出てくる。
     ぼくはそういった彼女の「孤独」を描くことで、観客である若者たちに、今まで「強く、凛とした」少女が、じつは彼らと同様に、もろくはかない魂の持ち主であることを気づかせたかったのである。

    「ルーカスを超える」、194~195頁

     寺田憲史氏は、「なんでも格好いいヒロイン」の「陰」の部分を描いたという。

     私はこの場面で「なんでも格好いいヒロイン」の「陰」の部分が描かれているとは思わない。この場面の鮎川まどかの言動はあまりにかっこ悪い。

     そもそも「あの日にかえりたい」において鮎川まどかは「なんでも格好いいヒロイン」として描かれてはいない。いつでも自分の欲望を優先するという「陰」の部分だけが描かれたキャラクターである。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは春日恭介に「会いたい」と言いながら、駆け付けてきた春日恭介にキスを許さず、恭介の「気持ち」を問題としている。自分のものはなるべく人に与えず、人からそれより多くを受け取るというのである。自分の所有欲を第一とする考え方は揺るがない。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、ひかるのことを全く思いやらず、春日恭介に檜山ひかるをつき放させている。

    春日恭介

     鮎川まどかの電話は、春日恭介の気持ちを変えた。それまで檜山ひかるに傾いていたのに、それから鮎川まどかに傾いて、檜山ひかるをひたすらつき放している。この映画の重要な転換点である。

     しかし、そういう春日恭介の心の動きはおかしいのではないかと私は思う。

    関係の逆転

     この場面で鮎川まどかが電話をかけてきた時に、恋愛ゲームにおいて優位にあったのは春日恭介であった。

     関係の再開を求めているのは、鮎川まどかであって、春日恭介ではない。

     春日恭介は、鮎川まどかが春日恭介と会おうとしなくなった時に、鮎川まどかを追いかけて電話をかけたが、その後にいつしか追いかけることをやめている。そして、ひかるとの関係を進めている。

     春日恭介は鮎川まどかを追い求めていないところに、鮎川まどかが春日恭介を求めて電話してきたのである。

     ところがその電話の後に、春日恭介が鮎川まどかの家に行った時には、春日恭介は鮎川まどかに「気持ち」を求められて、そのまま従っている。そしてそれから檜山ひかるをつき放している。

     いつの間にか鮎川まどかが優位になっている。

    逆転の理由

     どうしてそのような逆転が起こったのか?

     深草プロデューサーは次のように説明している。

    三人の関係に思い悩むまどかは混乱し、どうしていいのかわからないまま、恭介に電話をしてしまいます。これはテレビシリーズではありえない、まどかの生身の姿ですね。そんなまどかを見せられることで、遅まきながら、恭介は決断をするわけです。「僕はまどかが好きなんだ」と。(深草P・D)

    「アニメディア」1988年10月号、120頁

     「まどかの生身の姿」を「見せられること」によって、「恭介は決断をする」というのである。

     しかし「まどかの生身の姿」とは、「混乱し、どうしていいのかわからないまま、恭介に電話をして」しまった姿である。そういう姿を見て、「まどかが好き」と決断するであろうか?

     まどか自身「どうしていいのかわからない」のであるから、恭介はそれにもまして「どうしていいのかわからない」であろう。それでは「好き」と思うより、煩わしいと思うのではないか?

     要するに、春日恭介の気持ちに大きな変化が起こらなくてはならないのに、その変化の原因になることがこの映画にはないのである。

    考察

     この場面は、この作品の重要なところであるにもかかわらず、脚本がおかしなことになっている。

     この場面では、鮎川まどかは、春日恭介の心を決定的に動かすだけのことをしなくてはならないはずである。

     それまでの話では春日恭介の心は檜山ひかるに傾いていたと描かれていたのであるから、その心を動かすだけのことがなくてはならない。

     この場面で鮎川まどかが浴衣を着ているところを見ると、その浴衣によって心を動かそうという考えがあったようにも見えるが、実際には全く役に立っていない。

     そしてあのわけのわからない泣き言によって「好き」と決断するといわれてもついていけない。

     それまでに春日恭介の本命は鮎川まどかだと描かれていれば、春日恭介の決断も受け入れやすい。ところが「あの日にかえりたい」においては、そういうことは描かれない。逆に、春日恭介が鮎川まどかを追いかけずにいるところが繰り返し描かれている。

    ・春日恭介は、鮎川まどかを追いかけるのをやめて、ひかるとデートして再びキスをする。

    ・予備校の講師に、鮎川まどかのプリントを届けるように言われて、鮎川の家にプリントを届けるが、本人に会おうともせず、言葉も残さない。

    ・鮎川まどかからの電話を受けた時も、受験勉強をしていたのか、休んでいたのか、よくわからないが、いずれにせよ、鮎川まどかのことを考えていなかったようである。

     このように、春日恭介は鮎川まどかを追い求めていなかったことにしておいて、その心が鮎川まどかのわけのわからない泣き言によってひっくり返ったと描いているので、ついていけないのである。

     そもそもこの映画の春日恭介は鮎川まどかと同じ大学に行くつもりで同じ予備校の夏期講習を受講していたはずである。その鮎川まどかが途中から予備校に行かなくなったことは、春日恭介の大学受験とかそのための予備校の夏期講習とかに影響を与えることと思われるが、春日恭介は何事もなかったかのように、そのまま受験勉強を続けて、予備校に通い続けている。

    予備校の授業中

     予備校の授業中、鮎川まどかは春日恭介に紙を渡して、ひかるをつき放すことをどれだけ進めたか、聞いている。

     鮎川まどかの性格が悪く描かれている。

     「あの日にかえりたい」の鮎川まどかは、妹分の檜山ひかるが傷つけながら、その傷を癒すために動くことは全くない。

    夜のアバカブ

     夜のアバカブにひかるが訪ねてきて、鮎川まどかと言葉を交わす。ここでもなぜか鮎川まどかの性格が悪く描かれている。

    謝罪

     鮎川まどかはそこで檜山ひかるに対して「わかったわ、ひかる。ごめんなさい」と言っている。

     ひかるが訪ねて来たことを受けてはじめてしかたなく謝罪する、というかたちになっているのである。

     妹分を傷つけたのに、自分から謝罪することもしない、悪い性格に描いているのである。

    別れ

     ひかるがアバカブから出て行こうとするときに、鮎川まどかは「ひかる、私たちもう、三人ではいられないんだね」と言っている。

     鮎川まどかがひかるに三人でいることを求めるのが自然ではないか?

     それに対してひかるが拒んでもしかたない。

     ところがこの場面の鮎川まどかは、なぜか自分から、「三人ではいられない」と言っている。

     三人でいる努力を全くせず、三人でいることを否定してしまっている。

    吹きすさぶ風

     春日恭介にひかるとの最後の別れのことを聞いた鮎川まどかは「こんなふうになっちゃったけど、私には信じさせてくれるよね、春日君の気持ち? 春日君のこと、責めないよ。私まで責めたら、春日君、気持ちのやり場がなくなっちゃうもんね。」と言う。

     この映画では、鮎川まどかが春日恭介にひかるとの関係を絶たせた、と我らは思っていたが、この映画の鮎川まどかは、春日恭介が責められるべきであって、鮎川まどかも春日恭介を責めることができる立場にいる、と考えているようである。

     わけがわからない。

    檜山ひかる

     「あの日にかえりたい」の後半の檜山ひかるに関してはすでに論じた。

     「あの日にかえりたい」の檜山ひかるは、その他にも原作と違うところが少なからずある。

    演劇

     「あの日にかえりたい」においては、檜山ひかるは演劇に打ち込んでいることになっている。

     春日恭介と鮎川まどかが大学受験のために予備校の夏期講習に行くことに対して、檜山ひかるは演劇に打ち込むことにしたのではないかと思われる。

     春日恭介と鮎川まどかは、大学受験のために同じ予備校に行くことによって、関係を深める。

     それに対して檜山ひかるは、春日恭介と離れて演劇に打ち込んで、春日恭介と別れることになる。

     そういうかたちになっている。

     しかし私の頭の中にある檜山ひかると、演劇に打ち込むということとは、どうにも調和しない。

     この後の小説版で、それぞれの登場人物のその後の姿が描かれているが、どれも私には木に竹を継いだように見える。全く自然に見えない。

    恋愛対象としての魅力

     「あの日にかえりたい」の檜山ひかるは、絵も、言動も、恋愛対象としての魅力がないように私には見える。

     私は「あの日にかえりたい」の檜山ひかるの絵に全く魅力を感じない。原作のひかるの絵には魅力を感ずることもある。

     原作では軽い感じのショートカットが、「あの日にかえりたい」では妙に重い感じになっているところなど好きになれない。

     あの甲高い猫なで声は、私にはどうにも耳障りである。

     ひかるが春日恭介の部屋で風鈴の音について「うるさいですか?」と聞くところがあるが、私は「ひかるも自分の声がうるさいとわかっているのか」と思ってしまった。

    口調①

     相手の顔を指さして「もやもやもや~ぱっぱっ」とか、「おちゃ~めさん」とか、「ダーリン! あは、ピンポンピンポン!」とかいう高校生の女の子は、私には恋愛対象として魅力的に見えない。

    口調②

     その一方で、「お名残り惜しい」など、いやに丁寧な言葉遣いをしているが、上のようなことを言う人の言葉としても、高校一年生の女の子が高校三年生の男の子に対してつかう言葉としても、どうも私には違和感がある。

    デート

     この映画で春日恭介と檜山ひかるが二人でデートしている場面は多い。

    ・はじめのアバカブで話している場面
    ・ひかるが春日家に来た場面
    ・ファーストフード店で二人で飲食している場面
    ・二人で飛行船を見上げている場面
    ・池端のベンチで会った場面

     どの場面を見ていても、ひかるとのデートはたのしいようには見えない。上に挙げたように、絵も声も口調も魅力ない上に、話している内容がちっとも恋愛感情を高めているように見えない。

     原作では、たとえば第55話「春=ショック!」のはじめに、3頁かけてひかるとのデートが描かれているが、そちらのデートはたのしそうに見える。

     「あの日に帰りたい」の前半では、春日恭介の心は檜山ひかるに傾くことになっている。

     ところが、「あの日にかえりたい」の檜山ひかるにそれだけの魅力があるように見えないので、話についていけない。

     それでも、春日恭介の心が檜山ひかるに傾いているところが描かれていたならば、そういう場面として受け取ることはできる。ところがなぜか春日恭介の心はほとんど描かれていない。何を見せられているのかと思ってしまう。

    キスの場面

     ひかるが春日恭介とキスをするところは、話が動く重要なところである。

     ところがそこでも、春日恭介がひかるとキスをしてしまうほど魅力的に描かれているとは思えない。

     春日恭介は檜山ひかるとキスをすることによって、それまでの人間関係を動かしてしまうことを知っているはずである。それにもかかわらず、ひかるとキスをしてしまうほどの魅力は、私にはちっとも感じられない。

     詳しく論じてみよう。

     キスの前に、ひかるがもってきた甘いものを春日恭介と二人で食べている時に、ひかるが「何だかこうしてると、あたしたち新婚さんみたいに思いません?」と言っているが、これがまずうまくないと思う。現在二股かけている男がそう言われても、気持ちが重くなるだけだと私は思う。

     問題のキスをするところについて、深草プロデューサーは「この時の恭介の気持ちは、ひかるの一途な心をいじらしく感じて飛びついちゃった・・・。そんなところでしょう。」と語っている。(「アニメディア」1988年10月号、118頁)

     しかし、高校3年生の男の子が、高校1年生の女の子に、大学受験に関して「何かもっとしてあげられることないかなって思って」とか、「大変さがわかってあげられない気がして」とか言われただけで、その「一途な心をいじらしく感じて」キスをしてしまうほど気持ちが高まるものであろうか?

     この場面では、「和田加奈子の歌」はたしかに気持ちを盛り上げることに役立っていると思う。しかしその歌を除くと、絵も話も十分でないと私は思う。

     和田加奈子の「鳥のように」は↓


    和田加奈子 ゴールデン☆ベスト

    まとめ

     私は「あの日にかえりたい」の檜山ひかるに全く恋愛対象としての魅力を感じない。それゆえに檜山ひかるに心惹かれる春日恭介の気持ちが全くわからない。

     他の人は「あの日にかえりたい」のひかるに、恋愛対象としての魅力があると思うのであろうか?

    春日恭介 

     「あの日にかえりたい」においては春日恭介も、原作と違うキャラクターになっている。

    前半

     「あの日にかえりたい」の春日恭介は、原作の春日恭介と違って、その時々に何を考えているか、よくわからない。

     すでに書いたように、春日恭介がひかるのキスを受け入れた気持ちはよくわからない。その後にそのことについてどう考えていたのかもよくわからない。

     深草プロデューサーは、その時に恭介はまだまどかにもひかるにも心を決めておらず、「一時的に、ひかるに心が傾いて」いる、と語っている。

    恭介はこの時、まどかにもひかるにも心を決めてません。ただ一時的に、ひかるに心が傾いてますね。(解説/深草礼子プロデューサー)

    「アニメディア」1988年10月号、118頁

     しかしどう心を決めていないのかも描かれていない。

     「あの日にかえりたい」の春日恭介は、原作と違って誰も本命としていなかったようである。

     まどかにひかるとのキスについて聞かれた時にも、決めることはできなかったという。

     ひかるとのキスをまどかに知られた恭介の胸中は、再びどっちつかずの思いでいっぱいです。

    「アニメディア」1988年10月号

     ここでもその恭介の気持ちは十分に描かれていない。

     その時に鮎川まどかにひかるとキスしていないと言っているところを見ると、嘘をついて二人とうまいことやろうと思っていたようである。

     「あの日にかえりたい」において春日恭介の気持ちが描かれることは少ない。描かれているところでも理解しがたいことは多い。そして原作より悪い性格にされている。それゆえについていけない。

    つき放す

     この作品の中盤以降、春日恭介はひたすら檜山ひかるをつき放している。

     別れた後にひかるが二度目に電話した時も、ひかるが春日の家に来て駅までついてきたときも、階段の上で二人が会った時も、夜、ひかるが春日の家に来て二人で外を歩いた時も、春日恭介は厳しい表情で、厳しい口調で、ひかるをつき放している。ひかるを憎んでいるのではないかと思われるような表情になっている。

     多くの人に批判されているところである。

     春日恭介のひかるに対する思いやりをちゃんと表現していれば、観客も同情することができたであろう。しかしそういうことはほとんど描かれない。最後に痛みをかみしめるような表情を見せているが、それだけでは弱い。ひかるを憎んでいるかのような表情で突き放すところが繰り返し描かれている。それでは、主人公は悪者のようである。

     深草プロデューサーはそのことについて次のように説明している。

    恋愛に不器用な恭介は、ひかるとの別れ方も不器用で、彼女をつき放すだけなんですよね。監督によれば、恭介がひかるを家に入れない場面は、ひかるを自分の心の中に入れない恭介の信念を意味するのだそうです。三角関係に決着をつける三人の姿に注目です。(深草P・D)

    「アニメディア」1988年10月号、121頁

     作り手は、春日恭介の「不器用」なところを表現しようと考えていたようである。

     しかし原作にない主人公の「不器用」さをぶちこんで、ラブコメをラブコメでなくしてしまうことはどうなのか、という問題がある。

     主人公の「不器用」さより性格の悪さが伝わるのでは、作り手が「不器用」だったということになるようである。

    まとめ

     劇場版「あの日にかえりたい」においては、登場人物の性格が一々原作より悪くされている。そして性格の悪い描写が繰り返されている。

     原作ファンの反発を買う作りになっているのである。

     登場人物の性格を変えて、筋が通らなくなっているところもある。

     主人公は、前半に檜山ひかるに傾き、後半に鮎川まどかに傾くが、いずれも、主人公の心がそのように傾くほど恋愛対象として魅力があるように描かれていないと私は思う。それゆえに筋が通らなくなっていると思う。若者の恋愛を中心とした映画であるのに、そういう映画の醍醐味と思われる恋愛感情の高まりが描かれていないと思うのである。