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  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時の「アニメージュ」の投稿欄について

    「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時の「アニメージュ」の投稿欄について

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された時のアニメ雑誌「アニメージュ」の投稿欄についてしらべてみた。

     しらべた結果、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズについての投稿で、原作ファンによるもの、批判的なものは、番組が終わった1988年5月号までなかった。

     このことは、「アニメージュ」の読者の中に「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンが多くいたこと、他の作品についての投稿には原作ファンによる批判的な投稿が多かったことと比べると奇妙なことである。

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の場合

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの放映が始まったのは1987年4月。

     「アニメージュ」の投稿欄では1987年7月号の新番組特集から、TVシリーズの放映を受けた投稿が載せられた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの放映が終わったのは1988年3月。

     「アニメージュ」では1988年5月号に、番組が終わったことを受けた投稿が載せられた。

     その間に「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して原作と比較して批判する投稿は、番組が終わった後の1988年5月号の一本だけであった。逆に言うと、番組が終わるまでそういう投稿は一つもなかった。

     批判的な投稿はその一つだけであった。

     原作に対して好意的な立場からTVシリーズについて論ずる投稿もその一つだけであった。

     以上のことは、他の作品についての投稿と比較すると、異様である。

    他の作品

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された前後、1986年から1988年までの「アニメージュ」の投稿欄をみると、様々なアニメ番組、劇場作品、OVAに対して、その原作のファンが批判するという投稿が多く載せられていた。

    「聖闘士星矢」、「三銃士」

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の半年前に始まった「聖闘士星矢」、半年後に始まった「三銃士」は、いずれもその時期に始まった番組の中で人気のあったものであるが、いずれも原作ファンがアニメ版を批判する投稿が載せられていた。

    ・「聖闘士星矢」に関しては、1987年1月号の新番組特集でも、1987年5月号の「聖闘士星矢」特集でも、そういう投稿が載せられていた。

    ・「三銃士」に関しては、1987年12月号でもそういう投稿が載せられていたが、1988年2月号の「三銃士」特集では、原作との違いが主題とされていた。

    「アニメージュ」1987年1月号

     「アニメージュ」1987年1月号の投稿欄には、すでに言った「聖闘士星矢」についての投稿の他にも、その他の番組、作品にもそういう投稿が多く載せられている。

    ・「湘南爆走族」のOVAについて「あのビデオでは「湘爆」のよさが少しも伝わらなかった」という投稿(130頁)。

    ・「Oh!ファミリー」について、「どうか、原作の持つ独特のふんい気とキャラクターひとりひとりの個性をくずさない作品にしてほしいと思います。」とか、「原作のイメージがくずれにくずれていると思うんです。」とかいう投稿(131頁)。

    ・「那由他」のOVAについて「原作のイメージくずし」という投稿(135頁)。

    「めぞん一刻」

     この時期に、原作ファンがアニメ版を批判する投稿が特に多かったのは、「めぞん一刻」である。

     「めぞん一刻」のTVシリーズは、1986年3月26日に始まって、1988年3月2日に終っている。「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの1年前に始まって、2年続いて、その2年目に「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されたというかたちになっている。

     「めぞん一刻」に関しては、始まる前から、1986年3月号にアニメ化に反対するという投稿を載せ、1986年5月号でそれを受けてアニメ化に賛成するか反対するかという誌上討論を行っている。

     「アニメージュ」は番組が始まる前からわざわざアニメ化に反対する意見をとりあげていたのである。

     1986年7月号の投稿欄は「北斗の拳」の暴力描写について特集していて、始まったばかりの「めぞん一刻」についての投稿は一本しか載せられていないが、その一本は「原作に忠実であること」をもとめる投稿であった。

     投稿欄で「めぞん一刻」に関するものはその一本だけであったが、声優コーナーでは3頁にわたって、声優が合っているという投稿、合っていないという投稿を並べている。

     1986年9月号の投稿欄では「「めぞん一刻」改革案」と題して、「めぞん一刻」の改革を提案する投稿を特集している。

     そういう投稿は多かったかもしれないが、「アニメージュ」がわざわざそういう特集を組んでいるのでもある。

     1987年2月号から5月号までは特に批判的な投稿が続いていた。

    ・1987年2月号―「原作の忠実な味を‼」という投稿(147頁)

    ・3月号―「「めぞん一刻」わるいオリジナル」という投稿(180頁。その下に「「めぞん一刻」いいオリジナル」という投稿がある)

    ・4月号―「これ以上、原作のすばらしい話がつぶされていくのを黙って見ていることはできません」という投稿(171頁。同時に「暖かく見守らなければ」という投稿が載せられているが、これも「じつは、ぼくもアニメ版を見ると首をかしげてしまうほうなのです」とある)

    ・5月号―「「めぞん」がよくないのはおもしろくないから」という投稿(173頁)

     安濃高志氏が監督であった時であろうか?

     その後にも、この時期ほどではないが、批判的な投稿は続いていた。

    当時の「アニメージュ」の投稿欄

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映される前後の「アニメージュ」の投稿欄について次のように言うことができる。

     第一に、この時期の「アニメージュ」には、原作ファンがアニメ版を批判する投稿が多かった。

     第二に、この時期の「アニメージュ」のスタッフはそういう投稿を積極的にとりあげていた。

     そういう投稿が多くても、「アニメージュ」のスタッフはそういう投稿をとりあげないでいることもできたはずである。それにもかかわらず、「アニメージュ」のスタッフはそういう投稿を積極的にとりあげていた。

    考察

     投稿欄が投稿を正確に現わしているとすると、

    ・「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、他の作品と違って原作ファンによって批判されないような出来であった。

    ・「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンは、「めぞん一刻」などの原作ファンと違って、アニメ版を批判しない性質をもっていた。

     後者は、非合理的である。

     前者は、私には受け入れ難い。

    ・第一に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、私にとっては、原作漫画に思い入れがあるのに楽しむことができない初めての作品であった。

    ・客観的に考えても、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、オリジナル要素をはじめとして、原作ファンがひっかかるところは「めぞん一刻」以上に多いと私は思う。

    ・2010年代後半のインターネット上でも、原作ファンでTVシリーズを嫌う声は少なからずある。TVシリーズが放映された時には多かったと思われる。

    ・「アニメージュ」1987年6月号、7月号では、「アニメージュ」のスタッフからTVシリーズに対する批判が複数出ていた。「アニメージュ」のスタッフから批判が出ていたのに、在野のファンから批判が出ないというのは不自然である。

     二つの可能性が成立たないとすると、残るのは、「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンがTVシリーズを批判する投稿は他の作品と同じように多かったが、「アニメージュ」のスタッフがわざとそういう投稿をとりあげなかった、ということである。

    「きまぐれオレンジ☆ロード」についての投稿

     「アニメージュ」の投稿欄に載せられた「きまぐれオレンジ☆ロード」についての投稿について、詳しく考えてみよう。

    「アニメージュ」1987年3月号 アンケート結果

     投稿について考える前に、1987年3月号のアンケート結果について考える。

     「アニメージュ」1987年3月号では、「アニメージュ」の読者の総計1万7231通のアンケート(1986年11月号)から無作為に1000通を選んで集計した結果を発表している。

     その中に「好きなマンガ作品は?」という質問があった。結果は次の通り。(「アニメージュ」1987年3月号、93頁)

     1 めぞん一刻(153票)
     2 風の谷のナウシカ(128票)
     3 タッチ(91票)
     4 うる星やつら(73票)
     5 北斗の拳(64票)
     6 ドラゴンボール(50票)
     7 きまぐれオレンジロード(43票)
     8 究極超人あーる(37票)
     9 こちら葛飾区亀有公園前派出所(30票)
     9 シティハンター(30票)

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は7位になっている。

     記事には「ベスト5はすべてアニメ化された作品です」と書かれている。6位の「ドラゴンボール」も1986年2月からアニメ化されていた。

     すでにアニメ化された作品の原作漫画の人気は、アニメによるところがあるであろう。「アニメージュ」はアニメ雑誌であるから、その読者はアニメに親しんでいるものである。

     それに対して、「きまぐれオレンジ☆ロード」はまだアニメ化されていなかったのであるから、その人気はアニメによるものではない。アニメ雑誌「アニメージュ」の読者が、アニメによらずに支持していたのである。

     記事には「2年前の調査では、ベスト10すべてがアニメ化された作品だったのです。」ともある。

     アニメ化されていない「きまぐれオレンジ☆ロード」が7位になったことは、異例だったのである。アニメの勢いがそれだけなくなっていたということもできるが、「きまぐれオレンジ☆ロード」の人気がそれだけ高かったにちがいない。

     記事では、7位の「きまぐれオレンジ☆ロード」と9位の「シティハンター」が4月からアニメ化されることについて、「最近のAM読者は、マンガをアニメの後追いではなく、ちゃんと先取りしてみている」と論じている。「きまぐれオレンジ☆ロード」、「シティーハンター」は、マンガがアニメより先に行っているというかたちでとらえられているのである。

     要するに、「アニメージュ」の読者の中には、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが始まる前に、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」が好きだという人は異例なほど多くいた。ところがTVシリーズが始まってからの「アニメージュ」の投稿欄には、それだけ多くいたはずの原作ファンの投稿がない。おかしくないか?

     このアンケートでは、当時TVシリーズが始まっていた「聖闘士星矢」が入っていない。しかし「聖闘士星矢」の原作ファンがTVシリーズを批判する投稿は複数載せられていた。そのことを考えるとますます「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンがTVシリーズを批判する投稿が載せられなかったことが奇妙に思われる。

    「アニメージュ」1987年7月号 新番組特集

     これから投稿欄について考える。

     「アニメージュ」1987年7月号の投稿欄では新番組特集が行われている。―「今月の特集」は「新番組を総チェック。ここが“スキ、キライ”という意見を集めてみました」というものである。(「アニメージュ」1987年7月号、161頁)

     この特集の最後に選者「くみやん」が次のように語っている。

    作品の注目度としては、お手紙の数から察するに「きまぐれ」が高いみたいね。

    「アニメージュ」1987年7月号、161頁

     1987年4月に始まった新番組の中で、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿が最も数が多く、注目度が最も高かった、というのである。

     ところがこの特集では「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿が多くとりあげられることはなかった。

     三本の投稿がとりあげられている。―「「きまぐれ」のOPがイチバン‼」、「待ってました‼ 竜の子アクション」、「まだキワドイと思う「シティーハンター」」。

     第一の投稿は、題に「きまぐれ」と入っているが、新番組のOPを比較したものであって、「きまぐれオレンジ☆ロード」について論じたものとは言えない。

     第二の投稿は「ジリオン」について論じたもの。

     第三の投稿は「シティーハンター」について論じたもの。

     三本の投稿の中に「きまぐれオレンジ☆ロード」の本編について論じた投稿は一つもない。「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿が最も多いというのに、「ジリオン」、「シティーハンター」に関する投稿の方が多くなっている。

     この特集では、絵の投稿も多くとりあげられていた。その中に一つ「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿もあった。「陽あたり良好」、「ジリオン」、「超人機メタルダー」、「エスパー魔美」、「シティーハンター」もあった。

     絵の投稿を合わせても、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿は一つにすぎず、「ジリオン」、「シティーハンター」の二つより少ない。

     要するに、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿が最も多かったにもかかわらず、「アニメージュ」のスタッフはなぜか、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿を多く取り上げず、それより少なかったはずの「ジリオン」、「シティーハンター」を多く取り上げた。

     理由はわからないが、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿をわざと少なめに載せたのである。

     新番組特集には原作ファンがアニメ版を批判する投稿が多い。「きまぐれオレンジ☆ロード」にもそういう投稿が多かったのではないか? 「アニメージュ」のスタッフが「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿を載せなかったのは、そういう投稿を抑えるためではないか?

    「アニメージュ」1987年8月号 「めぞん一刻」の投稿

     「アニメージュ」1987年8月号の「めぞん一刻」についての投稿のはじめに「きまぐれオレンジ☆ロード」に触れているところがある。

    「オレンジ・ロード」が始まって以来、そのテンポのよさや原作のふんい気をうまく映像化する演出法を見るにつけ、新しさのみえない「めぞん」の欠点ばかりが目についていた。同じ原作ものなのにどうして…と、ファンとしては少々イライラしていたのだ。

    「アニメージュ」1987年8月号

     この投稿に対しては色々と違和感がある。

     まず、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズについて、「テンポのよさ」とか、「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」とかがそなわっているということを、定説であるかのように語っているが、いつ定説になったのか?

     私には、「テンポのよさ」も、「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」も、感じられない。

     「アニメージュ」1987年7月号で水品隆史氏は「「きまぐれ」の番組自体は、恭介のモノローグが多すぎて、物語のスピード感を殺しているって印象が、かなりあった。」と語っている。「物語のスピード感を殺している」というのは、「テンポのよさ」ということに反することではないか?

     7月号の投稿欄で、原作ファンがTVシリーズを批判する投稿を載せないでおいて、8月号の投稿欄で、TVシリーズは原作をうまく映像化したものだという投稿を載せるのは、原作ファンによる批判を排除した評価を人為的に作っているように見える。

     「めぞん一刻」のTVシリーズと比較してそう言っていることもどうかと思う。

    「アニメージュ」1987年9月号 「きまぐれオレンジ☆ロード」特集

     「アニメージュ」1987年9月号の投稿欄では「きまぐれオレンジ☆ロード」の特集が行われている。

     ところがこの投稿は、内容が奇妙である。

     投稿は三本。
     第一は、TVシリーズを称賛するもの。
     第二は、7月号でOPが良いと言った投稿に反対するもの。
     第三は、「「きまぐれ」CD研究」というもの。

     まず、多かったはずの原作ファンの投稿が一つもないことは奇妙。

     本編についての投稿は一つだけで、その他はOPについての投稿、CDについての投稿ということも奇妙。

     本編についての投稿がそれだけ少なかったのか? と思うような構成である。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の特集が行われたのは、それだけ「きまぐれオレンジ☆ロード」についての投稿、それも本編についての投稿が多かったからであろう。

     ところが本編についての投稿は一本だけで、OP、CDについての投稿を寄せ集めてやっと一頁の特集の体裁をなしているように見える。

     恐らく、原作ファンによる批判的な投稿が多かったのではないか? それゆえに「アニメージュ」は特集を組んだ。しかし「アニメージュ」は、なぜか、原作ファンによる批判的な投稿を載せなかった。その結果、OPの投稿とか、CDの投稿とかを寄せ集めなくてはならなかったのではないか?

    「アニメージュ」1988年1月号

     「アニメージュ」1988年1月号の投稿欄では「”あした”を感じる「オレンジロード」」という投稿がとりあげられている。TVシリーズを持ち上げて原作漫画より上に置く投稿である。

     私は初めてこの投稿を読んだ時、反発を感じた。しかし筆者の阿世賀浩一郎氏のことを知って少し考えを改めた。この人は原作ファンに対してアニメ版を擁護する立場をとっている人である。「めぞん一刻」でもアニメ版を支持する立場をとっていた。(「アニメージュ」1986年5月号)そういう立場をとっていることに異論はない。

     問題は、「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンがTVシリーズを批判する投稿を「アニメージュ」が載せないことにある。そういう投稿を載せずに、TVシリーズを持ち上げる投稿ばかり載せるのでは、偏ったことになる。

     阿世賀浩一郎氏はこの投稿において、「どうもアニメ誌で見かける意見の数が少ないような気がする」と語っている。

     多かったはずの原作ファンの投稿を載せない結果、投稿が少なくなったのではないか?

    「アニメージュ」1988年3月号

     「アニメGP」の予想をする投稿が集められている中で、「きまぐれオレンジ☆ロード」について「料理の仕方がウマイ」と言われている。

     8月号の投稿欄に「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」があるという投稿があったが、そのことがこのように定説のようになっているのである。

     このように原作ファンの声なしで一方的にアニメをよしとする評価が形成されているのである。

    「アニメージュ」1988年4月号

     1988年4月号には「原作つきアニメの傑作「きまぐれ」延長を!」という投稿がとりあげられている。「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを「原作付きアニメの傑作」とよぶものである。

     原作ファンによる投稿がこれまで全く載せられずに、こういう投稿ばかりが載せられていることに違和感があるのである。

    「アニメージュ」1988年5月号

     「アニメージュ」1988年5月号にはじめて「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを批判する投稿が載った。―「対照的だった「きまぐれ」と「ドラグナー」」と題する投稿である。

    ストーリーとしては、原作を十分に消化しきれず、無理の残るエピソードのつなぎ方・オリジナル部分のパロディーの古さなど、一部を除いては、あまり見るべきものがなかったようです。

    「アニメージュ」1988年5月号、167頁

     「一部を除いては、あまり見るべきものがなかった」というのは厳しい言葉である。

     「原作を十分に消化しきれず」というところは、これまで原作をうまく料理したという投稿に反対するものになっている。

     「無理の残るエピソードのつなぎ方・オリジナル部分のパロディーの古さなど」―こういうこともここで初めて出てきた。

     ここではじめてTVシリーズに対して批判的な投稿が載せられた。

     こういう批判がもっと早く載せられず、TVシリーズが終わった後に載せられていることに疑問があるのである。

     TVシリーズが放映されている間、そういう投稿は一つも載せられなかったのである。

     しかもこの投稿にはそのすぐ横に、1月号の阿世賀氏の投稿―TVシリーズを原作より上とする投稿―に同意するという投稿が置かれている。

     バランスをとったということかもしれないが、これまでTVシリーズを批判する投稿を一つもとりあげなかったことによって、バランスは逆の方向に傾いてしまっている。

     この投稿は、TVシリーズに対して批判的であるが、TVシリーズの43話をよしとしていることも特徴的である。そのことについて選者は次のようにコメントしている。

    一方「きまぐれ」のほうは噂の43話に茨城県のしおづかたつやクン・埼玉県の橙道の因クンから、絶賛のお便りが届きました。本誌140ページの誌上アンコールは見てくれたかな?

    「アニメージュ」1988年5月号、167頁

     43話はよかったと言っているゆえに採用したように見えるのである。

     同じ投稿欄の選者が「めぞん一刻」の投稿に対しては1988年1月号で「「まだおもしろくない」という意見があることもお伝えしておきます」とコメントしていることも気になる。

     「めぞん一刻」に関しては、投稿欄に採用しなかった批判的な投稿の存在にわざわざ言及しているのに、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関してはそういう批判的な投稿の存在に言及したことは一度もなかった。

    批判の意味

     「アニメージュ」の投稿欄で、原作ファンがアニメ版を批判する投稿をとりあげてきたことには、アニメ版をよりよくするという目的があると選者は語っていた。

     1986年11月号の投稿欄で、選者は、「アニメ向上のためにも討論は必要と思う」という投稿をとりあげて、次のようにコメントしている。

    千葉県のBES-141クン(18)からは「効果は薄くても、アニメを見殺しにはしたくありません」そのための論争だ、という意見がきています。みーんなわかってるんだよね。いいたくないことも、いわなきゃ通じないって。

    「アニメージュ」1986年11月号

     アニメをよくするために論争は必要だというのである。

     「アニメージュ」1987年10月号の投稿欄には、「音無竜之介バンザイ」氏が、「めぞん一刻」に関して、投稿によってよくなったという投稿を載せている。

    それはそうと「めぞん」は以前にくらべて、ずっとよくなっている。これが、原作ファン、そしてこのレタールームに出された手紙によって作り手にファンの気持ちが伝わっていったためだとしたら、こうやってコツコツと手紙を書いていたことはムダじゃなかったんだなあと思います。そして、これからは作り手と受け手が協力しあって(一体となって)作品ができるようになればアニメの未来も開けてゆくんじゃないかと思います。

    「アニメージュ」1987年10月号

     この投稿を載せた「アニメージュ」のスタッフにも同様の考えがあったと思われる。1986年9月号の投稿欄で「「めぞん一刻」改革案」をやっていたことと関係がある。

     このように、「アニメージュ」の投稿欄の選者は「めぞん一刻」に関しては、投稿によって作品を改善するという考えを持っていた。

     ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」に関しては、作品に対して批判的な声をわざと載せないようにしているように見える。

     番組が終わった後にはじめて番組を批判する投稿をとりあげることも、批判的な投稿によって改善することに反対することになっている。

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ 各話リスト

    「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ 各話リスト

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、1987年4月6日から1988年3月7日まで、毎週月曜日19時30分から20時まで放映された。(日本テレビ系列)

     全48話。

    各話リスト

    話数 サブタイトル 脚本 演出 絵コンテ 作画監督 放送日 備考

    1

    転校生! 恥ずかしながら初恋します 寺田憲史 小林和彦 小林治 重国勇二 1987年4月6日 原作第1話
    2 あの娘にちょっぴり レモンのキスを 須田裕美子 柳田義明 4月13日 原作第2話、第3話
    3 気分はゆれて ローリング初デート 郷満 杉山東夜美 4月20日 原作第4話
    4 ひかるちゃん! お騒がせのC体験 富田祐弘 玉野博美 池上和彦 大坂竹志 4月27日 原作第6話、第7話
    5 2人のひみつ、とまどいアルバイト 寺田憲史 松園公 八幡正 5月4日 原作第8話
    6 あいつがライバル、恋の中間試験 大橋志吉 中村孝一郎 重国勇二 5月11日 原作第9話、第15話、第16話
    7 まどかの私生活! 口づけスパーク色 富田祐弘 森川滋 高倉佳彦 5月18日 原作第12話、第13話
    8 君は笑顔! 渚のシャッターチャンス 寺田憲史 新林実 貴志夫美子 5月25日  
    9 くるみちゃん デートの仕方教えます 富田祐弘 須田裕美子 柳田義明 6月1日  
    10 予知夢! ひかるちゃんが 死んじゃう 寺田憲史 松園公 杉山東夜美 6月8日  
    11 鳴らさないで! ウエディングベル 静谷伊佐夫 森川滋 渡辺真由美 6月15日 原作第11話
    12 アメリカ留学! サヨナラまどか 寺田憲史 中村孝一郎 重国勇二 6月22日 原作第23話
    13 視線集中! ひかるちゃん大変身 大橋志吉 新林実 池上和彦 高倉佳彦 6月29日  
    14 予知夢! まどかと恭介ついに破局! 寺田憲史 松園公 貴志夫美子 7月6日 この回から美術監督は中村光毅(それまでは小林七郎)
    15 まどかの決心! 三角関係にピリオド 富田祐弘 佐々木和宏 石井文子 柳田義明 7月13日  
    16 信じる信じないUFOを見たまどか 大橋志吉 森川滋 後藤隆幸 7月20日 アニメオリジナル
    17 夏の誘惑! いきなりダブルデート 静谷伊佐夫 新林実 林隆文 7月27日  
    18 まどか挑戦! 幽霊海岸の大波伝 寺田憲史 須田裕美子 吉本桂子 8月3日  
    19 二人の体験! 禁じられた恋の島 安濃高志 高倉佳彦 8月10日 原作第21話
    20 ひかる目撃! 合宿は危険がいっぱい 富田祐弘 松園公 貴志夫美子 8月17日  
    21 恭介ピンチ! 嵐が丘の甘いささやき 中村孝一郎 柳田義明 8月24日 原作第31話
    22 大人の関係!? まどか秘密の朝帰り 寺田憲史 池上和彦 八幡正 8月31日 原作第25話、第26話
    23 恭介まどか大ゲンカ! 恋の二人三脚 大橋志吉 森川滋 林隆文 9月7日  
    24 一弥登場! パニックキッドにご用心 富田祐弘 飛羽たかゆき 林桂子 9月14日

    原作第35話、第39話

    美術監督に三浦智加わる

    25 あぶない自己暗示! 恭介くん変身す 静谷伊佐夫 新林実 高倉佳彦 9月21日 原作第34話
    26 子供になった恭介! まどかに大接近 寺田憲史  中村孝一郎 柳田義明 9月28日  
    27 ねらわれたまどか! 恭介男の証明 大橋志吉 松園公 貴志夫美子 10月5日 原作第28話
    28 危険な決心! まなみちゃんの大冒険 富田祐弘 飛羽たかゆき 林桂子 10月12日 原作第103話
    29 泣くなジンゴロ! 愛と青春の発情期 寺田憲史 森川滋 林隆文 10月19日 アニメオリジナル
    30 木の葉物語! くるみの初恋・地獄編 大橋志吉 中村孝一郎 柳田義明 10月26日 原作第99話
    31 まどかと勇作! 青春かけおち行進曲 富田祐弘 横山広行 貴志夫美子 11月2日 アニメオリジナル
    32 誕生日は二度来る!? 時をかける恭介 新林実 山本哲也 11月9日  
    33 妖しのまどか! キノコで本音120% 大橋志吉 小林和彦 飛羽たかゆき 林桂子 11月16日 原作第87話
    34 ルーツパニック 不思議の里のまどか 寺田憲史 安濃高志 林隆文 11月23日  
    35 カメラでエッチ! ロボット恭ちゃん 森川滋 貴志夫美子 11月30日  
    36 さらば恭介! ビデオに写った超能力

    静谷伊佐夫

    寺田憲史

    中村孝一郎 柳田義明 12月7日 原作第84話
    37 オレンジ任侠伝! まどか吹雪の対決 富田祐弘 松園公  渡辺真由美 12月14日 アニメオリジナル
    38 恭介時間旅行! 3度目のクリスマス 大橋志吉 須田裕美子 林桂子 12月21日 原作第40話
    39 まどかに催眠術! 恭介あぶない正月 寺田憲史 横山広行 山本哲也 1988年1月4日  
    40 初夢だよ! 大怪獣ジンゴロの逆襲 新林実 千明孝一 1月11日 アニメオリジナル
    41 動けないまどか! 恭介のフシギ時計 静谷伊佐夫 中村孝一郎 柳田義明 1月18日  
    42 モテモテのまどか! 恭介ついに告白 大橋志吉 鈴木吉男 上村修 林隆文 1月25日 原作第114話
    43 傷心のひかる! 追いかけて冬海岸 富田祐弘 森川滋 山本哲也 2月1日 アニメオリジナル
    44 恋のお味? 恭介地獄のバレンタイン 寺田憲史 松園公  貴志夫美子 2月8日  
    45 ひかる死す そして誰もいなくなった 大橋志吉 小林和彦 須田裕美子 林桂子 2月15日  
    46 白銀の一夜! 二人ぼっちでゴンドラ 富田祐弘 新林実 上村修 林隆文 2月22日 原作第44話、第45話、第46話
    47 さよならの予感 まどかの初恋を探せ 寺田憲史 森川滋 山本哲也 2月29日 原作第130話~第134話
    48 恋つかまえた そしてダ・カーポ 望月智充 後藤隆幸 3月7日

    スタッフ

    ■企画/布川ゆうじ、藤原正道

    ■制作デスク/本間道幸

    ■プロデューサー/堀越徹(日本テレビ)、河野秀雄(東宝)、深草礼子(ぴえろ)

    ■文芸/静谷伊佐夫

    ■シリーズ構成/寺田憲史

    ■監督/小林治

    ■キャラクターデザイン/高田明美

    ■総作画監督/後藤眞砂子

    ■撮影監督/金子仁

    ■編集/掛須編集室

    ■音楽/鷺巣詩郎

    オープニング、エンディング

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの楽曲は高く評価されている。

     原作ファンでも高く評価する人は多い。

    第1(第1話~第19話)

     第1オープニング「Night of Summerside」

     作詞 売野雅勇  作曲 NOBODY  編曲 新川博

     歌手 池田政典


    ZERO POINT~池田政典BEST COLLECTION

     第1エンディング「夏のミラージュ」

     作詞 湯川れい子 作曲 TSUKASA 編曲 鷺巣詩郎

     歌手 和田加奈子


    Esquisse(エスキース)

    第2(第20話~第36話)

     第2オープニング「オレンジ・ミステリー」

     作詞 売野雅勇  作曲 NOBODY 編曲 鷺巣詩郎

     歌手 長島秀幸


    きまぐれオレンジ☆ロード Loving Heart

     第2エンディング「悲しいハートは燃えている」

     作詞 松本一起 作曲 井上大輔 編曲 新川博

     歌手 和田加奈子


    KANA

    第3(第37話~第48話)

     第3オープニング「鏡の中のアクトレス」

     作詞・作曲 中原めいこ 編曲 西平彰

     歌手 中原めいこ


    鏡の中のアクトレス

     第3エンディング「Dance in the memories」

     作詞・作曲 中原めいこ 編曲 西平彰

     歌手 中原めいこ


    鏡の中のアクトレス

    サウンドトラック


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    DVD、Blu-ray

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  • 【考察】「いちご100%」の結末は読者の人気によって決まったのか?

    【考察】「いちご100%」の結末は読者の人気によって決まったのか?

     漫画「いちご100%」の結末は読者の人気によってきまった、としばしば言われている。

     そして、だからいいとか、だからよくないとか言われている。

     しかし「いちご100%」の結末は読者の人気によって決まったのであろうか?

     そうではないと私は考える。


    [まとめ買い] いちご100% カラー版(ジャンプコミックスDIGITAL)

    作者の言葉

     第一に手掛かりになるのは作者の言葉である。

     作者はジャンプコミックス19巻の巻末において次のように語っている。

    第1巻第1話目を読めば、ラスト真中と
    一緒になるのは東城に思えるんだろうなあ。
    あれを描いた頃は中学生編までしか
    ストーリー展開考えていなくて、
    確かに自分も真中と東城で
    ハッピーエンドを迎えるつもりでした。
    だけど時間は流れて3人が高校生になって
    どんどん事態が変わっていって。
    週刊連載マンガはよく生ものだと譬えられるけど
    ホントにそうで、それぞれがそれぞれに成長していき、
    その結果ああいう結末になったんだと思います。

    「いちご100%」19巻、176頁

    いちご100% モノクロ版 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     これによると、作者は「真中と東城で/ハッピーエンドを迎えるつもり」であった。

     ところが実際には「真中と東城で/ハッピーエンドを迎える」ことはなかった。

     どうしてそうなったのか?

    ・「時間は流れて3人が高校生になって」―初めに考えられていた「中学生編」を超えたからだと作者はいう。

    ・「どんどん事態が変わっていって」「それぞれがそれぞれに成長していき」「その結果ああいう結末になったんだと思います」―これによると、登場人物の成長によって、初めに考えられていたのと違う結末になったようである。

     JC19巻のそでに作者は次のように書いている。

    それぞれのキャラクター達が
    希望を抱いて未来へと歩いていける結末を
    選んで描いたつもりです。

    「いちご100%」19巻、表紙

    いちご100% モノクロ版 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     結末は作者が考えて選んだというのである。

     作者の言葉によると、結末が変わったのは、登場人物の成長によることであり、作者の選んだことであって、読者の人気によることではない。

    作品

     作品そのものについて考えてみよう。


    いちご100% コミック 全19巻 完結セット

     これから作品の内容に踏み込んでいく。

     各話については↓

    はじめの話

     「いちご100%」の第1巻を読むと、作者が語るように「真中と東城で/ハッピーエンドを迎える」話として作られたように見える。


    いちご100% モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     第1話で主人公の探し求める目標となった「いちごパンツの女の子」は、東城であった。

     真中はそのことがわからずに西野と付き合うことになったが、次第に東城と近づいて行った。

     その話は、二人が結ばれることによってかたがつくと思われる。

    路線変更

     「いちご100%」は「真中と東城で/ハッピーエンドを迎える」話として始まったが、「真中と東城で/ハッピーエンドを迎える」話ではなくなった。

     どうして変わったのか? ということが問題である。

     読者の人気によってか?

     作者によってか?

     そのことを考えるためには、いつどこで変わったか? ということから考えなくてはならない。

    「いちご100%」の時期区分

     いつどこで話が変わったのか?

     結末が確定したのは、真中が西野に2度目の告白をしたとき(JC17巻第145話)と思われる。


    いちご100% モノクロ版 17 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     西野に2度目の告白をすることは、その後にその告白を覆して他の相手と結ばれるとすると、余計なこと、ない方がいいことである。

     作品の中でも、真中が西野に2度目の告白をして、結末が確定したことになっている。

     その告白は、文化祭のイベント「ラブ・サンクチュアリ」のことと関係がある。

    「ラブ・サンクチュアリ」が話題として出てくるのは、JC16巻第139話からである。


    いちご100% モノクロ版 16 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     第139話においてすでに結末は確定していたのではないか、と思われる。

     第139話で結末が確定していたとすると、その前のいつどこで話は変わったのか?

     「いちご100%」を時期によって区分して考えよう。

    中学生編

     中学生時代は、作品のはじめから、中学卒業まで。(JC1~3巻)


    いちご100% モノクロ版 3 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     ただし「中学生編」は途中から変わっている。

     もともと「中学生編」で「真中と東城で/ハッピーエンドを迎えるつもり」であったのに、そうではなくなっている。

     中学生の間に話は変わっているのである。

    中間の第1期

     中学生の途中で話が変わってから、「ラブサンクチュアリ」で話が確定するまでを、3つの時期にわける。

     第1は、真中が桜海学園に潜入して西野との関係が再開するあたりまで。(~JC7巻)


    いちご100% モノクロ版 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    中間の第2期

     真中と西野との関係が再開した時期。(~JC12巻)


    いちご100% モノクロ版 12 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    中間の第3期

     進路が問題となってから、高3の合宿まで。(~JC16巻)


    いちご100% モノクロ版 16 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    終盤

     高3の合宿から家に帰った後。(第138話、または第139話以降)

     すでに言ったように、「ラブ・サンクチュアリ」が話題になった時には、結末は確定していたと思われる。


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    それぞれの時期と路線変更

     はじめの話から結末まで、どのように話が変わって行ったか、それぞれの時期について考えてみよう。

    中学生編

     「いちご100%」は、はじめは主人公真中が東城という真の相手を見つける話であった。

     したがって東城と結ばれることによってかたがつく話であった。

    中間の第1期<ハーレムの開始>

     中学生の途中で、はじめの話とは違う話になった。

     どういう話になったか?

     そのことを象徴するのが、JC4巻第34話の最後のページで、主人公真中が、北大路、西野、東城、三人の顔を思い浮かべて、「さつき、西野、東城・・・俺は一体誰とどうすればいいんだろう・・・」と独白しているところ。


    いちご100% モノクロ版 4 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     主人公は複数の魅力的な女性に囲まれて、選ぶことができないという話になったのである。

     はじめの話では、真中と結ばれる相手であった東城は、変わった話では、西野、北大路と同等とされ、真中はその中の誰も選ぶことができないということになっている。

     この時期に北大路が持ち上げられていることは重要。

    ・大草に「決めちゃえよ北大路に」と言われる(JC3巻第23話)とか、


    いちご100% モノクロ版 3 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    ・高1の合宿で、北大路がヒロインをやるとか、主人公と北大路が近づいて、東城との間に沈黙があるとか(JC4巻第33話)、

    ・大草に北大路が似合うと言われて、シャーペンも北大路に倒れる(JC4巻第35話)とか。


    いちご100% モノクロ版 4 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     一時的に、東城より西野より上に置かれているように見える。

     主人公が複数の魅力的な女性に囲まれて、選ぶことができないという話にするために、高校から出て来た北大路を、東城、西野と同等のものにしようとしたのではないかと思われる。

     その後に出て来る南戸も、北大路と同じように主人公の恋愛対象の選択肢の一つとして作られたと思われる。


    いちご100% モノクロ版 5 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    中間の第2期<西野と関係再開>

     真中はJC5巻第39話で西野に別れを告げられた。

     その後、JC7巻第59話で再会してから、真中と西野はまた近づいていく。

     そこで西野は、主人公にとって、他の女性キャラクターより高い存在として描かれている。

    ・真中の「今の方が/つきあってた頃より/西野のこと/考えてる―」(JC7巻148頁)という独白。

    ・真中は北大路に迫られて「ちがうよ!/東城じゃな…」(JC7巻152頁)と答えている。


    いちご100% モノクロ版 7 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     この時期には、他の女性キャラクターを踏み台にして西野が持ち上げられるという話が繰り返されている。

     具体的には次の通り。

    映研より西野

     真中は、東城、北大路のいる映研を早く切り上げて、西野に会いに行っている。(JC8巻第65話)


    いちご100% モノクロ版 8 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    高2の合宿

     合宿の肝試しで真中は、東城とでなく、西野と一緒になる。(JC8巻第70話)

     肝試しの前の夜に、東城は肝試しで真中に告白することをきめていた。

     それにもかかわらず、東城でなく、西野が真中と一緒になる「運命」が描かれている。


    いちご100% モノクロ版 8 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     合宿の前に、真中と東城の二人が山小屋で一夜を明かすという話がある。(JC8巻第67~68話)

     こういう話は、二人が近づくきっかけとなりそうであるが、実際には、二人が近づきにくくなるきっかけとなっている。

    高2の西野の誕生日

     真中は、9月16日に西野の誕生日を祝う約束をしていたが、西野に言われて15日に祝うことにした。15日には、東城との約束、北大路との約束があったが、それより西野を優先したのである。(JC9巻第78話)

     西野の誕生日を祝っていたカラオケ店で出火したときに、真中は、西野と二人きりになる。東城も北大路もいたのに、西野と二人きりになる。(JC9巻第79話)


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     その夜解散して、東城、北大路と別れた後に、真中は西野と二人きりになる。二人で夜の中学校に入る。(9巻第80話)そして…(JC10巻第81話)


    いちご100% モノクロ版 10 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    高2の修学旅行

     まず修学旅行前の屋上で、東城と真中が二人きりで、関係が進みそうなところで、映研メンバーが入ってきてしまう。(JC10巻第85話)

     修学旅行で、東城が一人で迷っていたところを真中が見つける。そして清水の舞台で二人がキスをしようとしたところを、たまたま来ていた西野がみて、ショックを受ける。(JC10巻第87話)

     真中は、東城とキスをせずに、西野と話すために力を尽くして、結局ホテルの外で会った。(JC10巻第88話)そして次の日、二人はデートをした。(JC10巻第89話)


    いちご100% モノクロ版 10 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     真中と東城の関係は進展せず、そのことによって真中と西野の関係が進展している。

    高3のバレンタイン

     真中は、ちなみ、さつき、東城、唯からそれぞれもらう。(JC11巻第94話)

     家に帰ると、近くの公園のブランコに西野がいて、チョコレートをもらう。(JC11巻95話)

     そして二人きりで夜の公園でイチャイチャする。(JC11巻第96話)


    いちご100% モノクロ版 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

    まとめ

     「中間の第1期」に、主人公は複数の女性に囲まれて、選ぶことができないという話になった。

     「中間の第2期」には、西野が他の女性キャラクターを踏み台として持ち上げられる話が繰り返されている。

     両者の関係はどのように考えることができるか?

    ・「中間の第1期」に北大路が一時的に持ち上げられたことと同じように、「中間の第2期」には西野が一時的に持ち上げられたようにも見える。―選ぶことのできない魅力的な女性の一人として。

    ・複数の女性から選ぶことができないという話から、西野が最も良いという話に変わっているようにも見える。

     前者の場合は、この時期にはまだ結末は決まっていなかったことになる。

     後者の場合は、この時期にすでに結末が決まっていたことになる。

     どちらが正しいか、わからない。

    中間の第3期<大学受験・合宿>

     私が問題とするのはこの時期である。

     この時期には、

    ・進路の問題がある。

    ・高3の合宿がある。

    進路の問題

     この時期は、主人公真中が進路の問題に直面するところから始まっている。(JC11巻第92話)

    ・そこで、東城は真中に「同じ大学に/行きたい」と言う。(JC11巻第95話、118頁)

    ・西野は「高校卒業したら/パリに留学する/つもりなの」と言う。(同、127頁)


    いちご100% モノクロ版 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     東城は真中と同じ目標を持ち、西野は違う目標を持つのである。

     真中もそのことを意識している。

    ・西野について「俺のもとから/去ろうとしてる/西野」といい、

    ・東城、北大路について「逆に/いつまでも/俺の近くに/いようと/してくれている/東城やさつき…」と独白している。(JC12巻第99話、21頁)

     真中が言うように、東城も北大路も真中の「近くに/いようと/してくれている」が、その中でも東城は真中と目標を共有している。

     しかしまた、真中は「結局三人に/差はつけられないん/だよな~」と、三人を同等とみなしてもいる。(同頁)


    いちご100% モノクロ版 12 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     ここでも「結局三人に/差はつけられない」という話は続いている。

     しかし進路が問題となるこの時期において、西野は真中から離れ、東城は真中に近づく。

     「中間の第1期」には北大路が持ち上げられ、「中間の第2期」には西野が持ち上げられた。

     「中間の第3期」は、東城にとって有利な条件があった。

     ところが実際には、この時期に真中と東城の関係はそれほど進まない。

    勉強会

     真中と東城は中学生の時には勉強会をやっていた。

     同じ大学に行くという目標を持ったこの時期に、また二人で勉強会をやることは、自然なことと思われる。

     逆に、二人で勉強会をやらないことは、不自然なことと思われる。

     ところがこの時期に、二人で勉強会をやることはなかった。

     東城は控えめな性格であるが、中学生の時には、東城から真中に勉強会を提案している。(JC1巻第2話、77頁)


    いちご100% モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     すでに真中に「同じ大学に/行きたい」とまで言ってもいる。

     同じ大学に行くために、中学生の時のように勉強会をやろうと提案することは、中学生の時より容易にできるはずである。

     真中は、東城に「同じ大学に/行きたい」と言われて、「また東城に/勉強教えて/もらわなきゃな…」と東城に言っている。(JC11巻第95話、119頁)


    いちご100% モノクロ版 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     「また」というのは、中学生の時と同じようにということにちがいない。

     そう言った真中も、そのことを聞いた東城も、同じ大学に行くために東城が真中に勉強を教える勉強会を考えていたにちがいない。

     真中はその前に、大学受験のことを考え始めたときに、中学生の時の東城との勉強会を思い出している。(JC11巻第92話、50頁)


    いちご100% モノクロ版 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     ところがその後、勉強会をすることはなく、東城も真中も勉強会を考えることもなくなる。

     それから長い時間がたった後に、二人は勉強会をやっている。

     高校2年の2月14日(バレンタインデー)に、大学受験のために中学生の時の勉強会のようなことをすることを話していたのに、高校3年の大学受験の直前に、初めて勉強会をやっているのである。

     JC11巻第95話で、二人の間で勉強会のことが話されていたのに、JC18巻第161話で初めて勉強会をやっているのである。

     その時に真中は「それにしても/やっぱり東城と/一緒の勉強会は/いいなあ…」「丁寧だし/優しいし/なんていうか/温かい…」「中学の時/東城のこと/どんどん好きになってったのも/勉強会で/だったかな…」と独白している。(JC19巻第162話、15頁)


    いちご100% モノクロ版 19 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     真中の独白にあるように、「中学の時/東城のこと/どんどん好きになってったのも/勉強会で/だった」。

     勉強会はそういう意味を持っていた。

     そして「それにしても/やっぱり東城と/一緒の勉強会は/いいなあ…」というものであった。

     勉強会は、真中と東城が近づく機会であった。

     二人には同じ大学に行くという目標があって、そのために中学生の時と同じように勉強会をすることは自然なことであった。

     ところが二人は長い間勉強会のことを考えなくなった。

     二人が勉強会をやったのは、真中がすでに西野に告白をした後のことであった。

     その間に勉強会がなかったのは、登場人物の自然な行動ではなく、作者による介入ではないか?

     真中と東城が近づく勉強会は、人為的に排除されたのではないか?

     二人は勉強会をせず、塾に行っている。

    塾のはじめ

     二人が勉強会を行わないことは不自然と思われるが、塾に行くところにも不自然と思われるところがある。

     塾がはじめて出てくるのは、真中がバレンタインのチョコの返しのために東城の後を追っていくと、東城が通っている塾に着いた、というところ。(JC12巻第99話)

     東城は真中に、「親に無理矢理/行けって/言われ」たので、毎晩遅く(10時ころ)まで塾に通っていたと語っている。(JC12巻第100話43頁)


    いちご100% モノクロ版 12 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     高校2年の3月(14日、ホワイトデー)に、成績優秀とされている東城が、大学受験のために毎晩遅くまで塾に通う、ということにも疑問がある。

     東城が塾に通っていたことを真中に言わずにいたことも、理解できない。

     東城は真中に「同じ大学に/行きたい」と言っていた。

     それに対して真中は東城に「また東城に/勉強教えて/もらわなきゃな…」と言っていた。

     東城は真中に同じ大学に行きたいと言って、そのためにどうするかという話までしていたのに、東城は一人で塾に通い始めて、そのことを真中に言わずにいたというのは、つながらないのではないか?

     そこで東城が真中に「で/真中くんって/どこの大学/行きたいの?」と妙によそよそしくなっているところも、前に「同じ大学に/行きたい」と言っていたことと、つながらないようである。

    学力の差

     この場面で、東城の中で、親の「行ってほしい大学」に行くか、真中と同じ大学に行くか、という問題が出て来ている。

     東城が真中と違う大学に行くということは、真中から遠ざかることである。

     「中間の第3期」は、東城が真中と同じ大学に行くということ、東城が真中に近づくことから始まっているのであるが、そこに、東城は真中と違う大学に行くべきではないか、東城は真中から離れるべきではないか、という問題が出て来るのである。

     ラブコメのヒロインとしてはマイナスのことである。

     ところでその問題は、なくてもいいことではないかと思われる。

     そもそも二人の目標は映画を作ることであった。

     その第一の目標に対して、同じ大学に行くということはそれほど重要なことではない。

     ところが東城がなぜか「同じ大学に/行きたい」と言い出して、その後に東城は東城に合った大学に行くべきではないかという問題が出て来ている。

     東城と真中を引き離すために、わざと問題が付け加えられているように見える。

    塾のクラス

     塾では、二人の学力の差によって、二人は違うクラスになる。

     学力によってクラスが分かれるという設定は、なくてもいい設定と思われる。

     二人を引き離すために付け加えられたと思われるのである。

    向井

     真中はそのクラスで向井と出会う。

     そして真中と向井は関係を深めていく。(JC12巻第102~106話、JC13巻第111話)


    いちご100% モノクロ版 12 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     向井は、「中間の第1期」の北大路、「中間の第2期」の西野のように、他の女性と並ぶようにするために持ち上げられているのかもしれない。

     しかし東城もいる場所で真中が向井と関係を深めると、それだけ真中と東城は遠ざかることになる。

     東城は真中と向井のデートをとりもったりもしている。(JC13巻第118~119話)


    いちご100% モノクロ版 13 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     これまた真中と東城が遠ざかるところ。

    天地

     東城の塾のクラスには、天地が入ってきて、東城に迫る。

     東城は、その天地に心を動かしたりしている。(JC13巻第108~110話、113話)


    いちご100% モノクロ版 13 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     東城が真中に心を動かすと、それだけ真中から遠ざかることになる。

    塾での東城と真中

     この時期に、東城と真中が近づく話もあるが、少なく、単発的なものにすぎない。(JC13巻第110話、115話、JC14巻第120話)


    いちご100% モノクロ版 13 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     塾で二人のクラスが分かれることも、真中は向井に、東城は天地に心を動かすことも、いずれもなくてもいいことではないか?

     なくてもいいことがわざと入れられて、真中と東城は遠ざかっているように見える。

    西野

     真中と同じ目標を持っているということで真中の近くにいた東城は、真中から遠ざかってばかりいた。

     それに対して真中と違う目標を持っているということで真中から離れていた西野は、回数は少ないが、東城より多く真中と二人きりの時間を過ごしている。

    ・JC12巻第107話で成績が悪くて落ち込んでいる真中を連れ出して落ち着かせる。

    ・JC13巻第111話で真中が夜家に帰ってくると、布団に西野が寝ていて、同じ部屋で夜を明かす。

    ・JC14巻第122話から第125話まで、西野は真中と二人きりで3日間の旅行に行く。


    いちご100% モノクロ版 14 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     西野の方が東城より真中に近づいているようである。

    高3の合宿

     「中間の第3期」の最後に、高3の合宿がある。

     高3の合宿も、真中と東城が近づく機会であった。

     そもそも映研の合宿には、真中と東城、二人の夢を実現するという意味がある。

     高3の合宿では、東城が主演女優となるということもある。

     高1の合宿では北大路、高2の合宿では西野が主演女優となった。―それぞれ「中間の第1期」に北大路が持ち上げられたこと、「中間の第2期」に西野が持ち上げられたことと関係がある。

     高3の合宿には、高校生活の集大成という意味もある。

     ところが実際には、東城と真中が近づくことは少なく、遠ざかることが多く描かれている。

    北大路

     北大路は真中に「友達宣言」をしていたが(JC13巻第114話)、合宿初日の夜、その「友達宣言」を放棄して、真中に「ずっとずっと/だいすき」と言っている。(JC15巻第129話、84頁)

     それに対して真中も「好き」だといって北大路を抱きしめている。(86頁)


    いちご100% モノクロ版 15 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     真中の心が北大路に向かうと、それだけ東城から遠ざかることになる。

     北大路はそのために、その前にした「友達宣言」を撤回する、というかっこわるいことをしている。

     そういうことは、北大路というキャラクターから自然に出て来たことではなく、人為的に付け加えられたことのように見える。

    向井

     向井は、合宿のはじめ(第127話)からおわり(第136話)まで参加している。


    いちご100% モノクロ版 15 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     そして出てくるたびに真中との関係を深めている。

     そもそも向井は部外者であるから合宿に参加しなくていいはずである。それにもかかわらず、作者はわざわざ参加させて、真中との関係を深めているのである。

     やはり真中と東城を遠ざけるためではないか? 少なくとも結果はそうなっている。

    女湯

     真中が女湯にまぎれこむという話で、真中は、東城とでなく、向井と関係を深めている。(第127~128話)

     向井が主役で、東城がわき役のようになっている。

    停電

     停電で暗い中、真中が東城と抱き合って唇が触れるという事件が起こる。(第131~132話)

     これは二人が近づくはずの事件である。

     しかし実際には、その事件に対して疑念を抱いた向井に対して、真中が「誤解」を解いて、結局、向井は真中を「信じていられる」ということで決着がつけられている。

     ここでも、真中と東城は近づかず、真中と向井が近づくことになっている。

    東城

     高3の合宿で真中と東城が関係を深める話は少ない。北大路、向井と比べても少ない。

    進学問題

     逆に、真中の心が東城から遠ざかることは描かれている。

     たとえば、合宿のクライマックスの映画の告白シーンの前に、東城は真中を部屋に呼んで、突然「真中くんと/同じ大学目指すの/やめる…かも…」と言うところ。(JC16巻、10頁)

     それを聞いて真中は「胸に穴があく」衝撃を受けている。(20頁)

     そのために二人は「全然呼吸が/合ってない」といわれる状態になっている。(19頁)


    いちご100% モノクロ版 16 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     このやりとりは奇妙である。

     同じ大学を目指すことをやめるということは、二人が遠ざかることである。

     しかしそのように遠ざかることがあっても、その上で近づくことはできる。

     東城が真中に近づきたいと思っているならば、大学は離れても、他のことで近づこうとするのではないか?

     ところが東城は、真中に近づこうとせず、突き放すだけのことになっている。

    映画の告白シーン

     高3の合宿のクライマックスは、映研の製作する映画で、主演女優の東城が告白する場面である。

     東城はその場面で、アドリブで、「あなたのことが/ずっとずっと/好き…!」という。(JC16巻、23~25頁)

     このセリフは真中に衝撃を与える。真中は「演技だと/思えない」という。(同、30頁)

     真中はまた「あれは東城が/ヒロインの言葉を借りて出た/本当の気持ち」ともいう。(同、42頁)

     そこで真中の心と東城の心は近づいている。

     しかしまた真中は、その演技の後に、東城が、同じ大学に行くのをやめるかもしれないと言ったことを思い出して、二人の関係の「最後/だったんだ」と考えてもいる。(同、34頁)

     逆に、距離を感じているのである。

     そもそも東城のセリフは、東城が真中に告白したものでもあるが、芝居のセリフにすぎないものでもある。

     真中からすると、更に進んで東城の真意をたしかめなくてはならないはずである。

     ところが真中はそれ以上進もうとしない。

     合宿の間でも、合宿からの帰りでも、東城の真意を確かめる機会はあったのではないか?

     合宿からの帰り道、真中と東城が二人で家の近くまで歩いているところが描かれている。(同、41頁)

     しかしその間、真中が東城の真意を探っていたようには見えない。

     東城も、もう一歩踏み出さなくてはならないはずであるが、それ以上進もうとしていない。

     そして真中は東城とそれほど近づくことなく、家に帰ってくると、西野が待っていた。(同、45頁)


    いちご100% モノクロ版 16 (ジャンプコミックスDIGITAL)

     真中と東城の関係は中断される。

    まとめ

     「中間の第3期」には、東城に有利な条件があった。

    ・東城は大学受験のために真中に近づくことができた。(西野、北大路はできない)

    ・高3の合宿は、東城が主役であった。

     しかしいずれも、真中と東城が遠ざかるところが描かれた。

     東城は真中の近くにいたにもかかわらず、遠ざかるところが描かれた。

     その後で二人が結ばれるところを盛り上げるために、その前に二人が遠ざかるところを描いたと考えることができるであろうか?

     そう考えることは難しい。

     というのは、二人が遠ざかるところが次々と描かれた結果、その後で二人が結ばれたとしても盛り上がらないほどになっているからである。

     この時期の後でも真中と東城が結ばれると思っていた人は多かったと思われるが、二人が結ばれるところが盛り上がると思っていた人は多くなかったと思われる。

     上で見て来たように、この時期には東城と真中が遠ざかることが次から次へと描かれてきた。

     そして東城は、それまでのことから考えると不自然に真中に近づかないでいる。

     「中間の第3期」は、真中と東城の関係が中心となっているにもかかわらず、二人は近づかず、遠ざかっている。

     「中間の第3期」はラブコメとしての魅力が少なくなっている。

     東城もラブコメのヒロインとしての魅力が少なくなっている。

     この時期に東城の人気は低下したと思われる。

     そのことはまさに作者によってなされたと思われる。

    結論

     「いちご100%」の結末は、読者の人気によってきまったのか?

     「中間の第3期」が終わるところで、西野の人気は上がっていて、東城の人気は下がっていたにちがいない。

     しかし「中間の第3期」に東城の人気が下がったのは、作者によることであった。

     「中間の第3期」には、東城の人気が上がる条件があった。

     ところがそれと反対の方向のことばかり描かれた。

     東城の人気を上げようとしてうまくいかない可能性はあったかもしれないが、実際にはそれと反対のことばかり描かれていたのである。

     「中間の第3期」にあのように東城を下げておいて、その後に東城を上げるつもりであったとは考え難い。

     「中間の第3期」で真中と東城が遠ざかるところが描かれた時には、「真中と東城で/ハッピーエンドを迎える」ことは考えられていなかったと思われる。

     「いちご100%」の結末は読者の人気によってきまったというのは、作者の考えではなく、読者の人気によって結末がきまったということである。

     しかし「中間の第3期」においてすでに作者は「真中と東城で/ハッピーエンドを迎える」のと違う結末を考えていた。そしてその結果として、「中間の第3期」が終わった時には、読者の人気は東城より西野に傾いていたと思われる。

     西野の人気は、「中間の第2期」、「中間の第3期」に西野が持ち上げられたことによると思われる。

     ただし「中間の第2期」において、作者が結末を決めていたかどうかはわからない。

  • 「いちご100%」という作品との出会い

    「いちご100%」という作品との出会い

     「いちご100%」は、2002年から2005年にかけて「週刊少年ジャンプ」で連載されていた「ラブコメ」漫画である。

     「いちご100%」が連載されていたころ、私は「週刊少年ジャンプ」から、というよりマンガから離れていたので、その存在すら知らなかった。

     数年前にたまたま「ラブコメ」というものに関心をもった。その時にはじめて、この作品の存在を知った。しかし、しばらく読む機会がなかった。

     2018年9月に、たまたま全巻を手に入れる機会があって、2、3日で読み通した。

    玉石混交

     この作品は「玉石混交」だと私は思う。非常にすぐれたところもある。しかし非常に悪いところもある。

     たとえば「エロ」が多すぎる。

     少年漫画の「ラブコメ」には「エロ」があってもいいと思う。しかしこの作品では必要のない「エロ」が多すぎると思うのである。

     はじめから「いちごパンツ」が出てきて、主人公はその「いちごパンツ」の女の子を追い求めるという話になる。私には、「いちごパンツ」が必要とは思えない。「いちごパンツ」がない方がいいと思う。

     たとえば、主人公が学校の屋上に来てみると、美少女が一人さびしげにたたずんでいた、とか。あるいは、主人公が屋上に行く途中で美少女とすれちがって、屋上に来てみるとノートが落ちていた、とか。

     そうした方が、作品の印象もよくなるし、読者も話についていきやすくなる、と私は思う。

     「いちご100%」のタイトル表↓

    終わり方

     「いちご100%」という作品は、その終わり方のために、私の心に刻まれた作品となった。

     それまでのところで、色々とどうかと思うところはあった。しかしそのくらいで終わっていたならば、それなりにいい作品として認めることができた。

     ところが、そのくらいで終わらずに、大きな傷をのこして終わった。

     私は「いちご100%」を読む前に、作品の結末に賛否両論があると聞いていたので、どういうことかと思いながら読んでいったが、その結末の衝撃は予想を超えた。

     主人公真中が最後に東城でなく西野を選んだことにはおどろいたが、それよりその選び方におどろいた。

     私は東城派でも西野派でもない。

     キャラクターの設定、それまでの話を考えると、主人公真中は東城と結ばれた方がいいとは思う。東城は、真中でなくてはならないが、西野は、そうではない。西野が真中から去って、真中と東城が結ばれれば、皆しあわせになることができる。

     しかし、真中が西野と結ばれる話でもいいと思う。読者を納得させることができればそれでいいと思う。

     実際には、読者を納得させる話にならなかった。無理な誤解によって結末が決まってしまった。(JC16巻第142話から)

     それではいけないという流れで、それから最後まで突っ走っていった。

     主人公が二人の女性についてどちらを選ぶべきか考えて、そのうちの一人を選ぶ、ということが当然あると私は思っていた。しかし実際には、そういうことはなかった。

     「ドラゴンボール」でたとえると、フリーザ(西野)が世界(真中)を征服しようとするのに対して悟空(東城)がどう戦うかと思っていると、キュイ(向井)に苦戦している間に、フリーザが世界を征服してしまった、という感じである。

     悟空が負けたことより、悟空が戦わずに終わったことが残念であった。

     終盤の流れについては下の記事で詳しく考えてみた↓

    考察

     「いちご100%」の終わり方に衝撃を受けて、インターネット上の他の人の考えをあさってみると、その終わり方でいいという人が少なからずいて、さらに衝撃を受けた。

     近年の「ハーレムラブコメ」論議では、「いちご100%」の終わり方が理想的であったかのように言う人を複数見た。

     「いちご100%」の終わり方は理想的であったのか?

     「いちご100%」の結末は読者の人気によってきまったといわれているが、そうであったのか?

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」の漫画とTVシリーズ、劇場版、小説版の関係

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の漫画とTVシリーズ、劇場版、小説版の関係

     1984年から連載開始した漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は人気作品となって、1987年から1988年までアニメ版のTVシリーズが放送された。

     その後に劇場版が2本公開された。

     小説版3冊が出版された。

     それぞれの関係について整理してみる。

    漫画、TVシリーズ、劇場版、小説版の時系列

    「きまぐれオレンジ☆ロード」原作、アニメ版、小説版の時系列
    • 1984年
      漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」連載開始

      「週刊少年ジャンプ」15号

    • 1987年4月
      「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ開始(4月6日)
    • 1987年9月
      漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」連載終了(「週刊少年ジャンプ」42号9月28日号)
    • 1988年3月
      TVシリーズ終了(3月7日)
    • 1988年7月
      「きまぐれオレンジ☆ロード」ジャンプコミックス第18巻発売(7月15日)45Pの加筆あり
    • 1988年10月
      劇場版「あの日にかえりたい」(10月1日公開)
    • 1989~1991年
      OVA(第1期、第2期、第3期)
    • 1994年
      小説版「新きまぐれオレンジ★ロード そしてあの夏のはじまり」(書き下ろし、7月9日)
    • 1995年
      小説版「新きまぐれオレンジ★ロードⅡ ピラミッド殺人ミステリー」(書き下ろし。「jump novel」vol.8(1995年4月1日号)に掲載。7月8日に単行本として出版)
    • 1996年
      劇場版「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」(11月2日)
    • 1997年
      小説版「新きまぐれオレンジ★ロードⅢ まどかのシークレット・メモリー」(4月29日。初出は「jump novel」で、「天使のアブナイ微笑」は1995年8月20日号、「まどかのシークレット・メモリー」は1996年3月30日号)

    それぞれの関係

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメは、原作漫画と別の作品と考えられる。

     アニメでもTVシリーズと劇場版との間に問題がある。

     さらに小説版との間でも問題がある。

    漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は1984年に「週刊少年ジャンプ」で連載開始。

     1987年に連載が終了するまで続いた。

     その間に休載期間もある。

    ジャンプコミックス

     1988年7月にジャンプコミックスの最終巻、18巻が発売された。

     絵、写真、コメント等が追加されている。

     最終話に45頁の加筆がある。


    きまぐれオレンジロード 全巻 全18巻 まつもと泉 1巻以外 17冊初版

    愛蔵版

     1991年から1992年にかけて愛蔵版全10巻が発売された。

     作者のコメントが付け加えられている。

     最終話にさらに加筆がある。


    きまぐれオレンジ☆ロード 愛蔵版 コミック 全10巻完結セット

    文庫版

     1998年から文庫版全10巻が発売された。

     1話追加されている。

     平井和正氏の解説、作者の言葉が追加されている。


    きまぐれオレンジロード 文庫版 全10巻 まつもと泉 完結全巻セット!

    コンビニ版

     2011年から2012年にかけてコンビニ版全6巻が発売された。


    「きまぐれオレンジロード まつもと泉 第6巻」コンビニ版 ジャンプ rimix レターパック520で送付いたします

    まとめ

     まつもと泉先生の漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は以上で完結している。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」はその終わりまでの話であって、その後はない。

     ただし、終わりは複数ある。

    ・「そしてダ・カーポ」(もともと終わりと考えられていた)

    ・「週刊少年ジャンプ」での最終話(「帰れないふたり」、「永遠の夏」)

    ・ジャンプコミックス第18巻

    ・愛蔵版

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」のタイトル表↓

     まつもと泉先生は2020年10月に亡くなった。

    https://cocoro-mi.com/orangeroad0/

    TVシリーズ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版のTVシリーズは、1987年4月から1988年3月まで放送された。

     TVシリーズでは、設定、登場人物の性格、話の展開など原作と違うものになっている。

     最終話は原作の「そしてダ・カーポ」を使っているが、ひかるとの関係を放置しているなど終わっていないところもある。

     Blu-rayが出ている。


    きまぐれオレンジ★ロードBlu-ray BOX(9枚組)

    劇場版「あの日に帰りたい」

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版劇場版「あの日に帰りたい」は1988年10月に公開された。

     「あの日に帰りたい」は「きまぐれオレンジ☆ロード」の終わりを描いたものである。

     問題になるのは、何の終わりか? ということ。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」だけで完結しているので、「あの日に帰りたい」は別の話だということができる。

     TVシリーズの話の続きかどうかということが問題になる。

     「あの日に帰りたい」の作り手は「あの日に帰りたい」をTVシリーズの終わりの話として作ったと語っている。

     TVシリーズは主人公が中学3年生で終わっている。「あの日に帰りたい」はその3年後の高校3年生の大学受験の時のことを描いているというのである。

     TVシリーズで解決されなかったひかるの問題を解決したものということもできる。

     ただしTVシリーズのファンの中には「あの日に帰りたい」を嫌って、TVシリーズと「あの日に帰りたい」を別物としたい人もいるようである。

     「あの日に帰りたい」は2021年10月に発売されたBlu-rayに収録されたという。


    きまぐれオレンジ★ロードBlu-ray BOX(9枚組)

     原作者が嫌っていた「あの日に帰りたい」を(2014年には理解するようになったとはいえ)、原作者が亡くなった後にBlu-rayで出すのか…。

     「あの日に帰りたい」についての私の考え。

    「新きまぐれオレンジ★ロード」

    小説版「新きまぐれオレンジ★ロード そしてあの夏のはじまり」

     1994年7月、「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」と題する小説が発表された。


    新きまぐれオレンジ・ロード そして、あの夏のはじまり (JUMP jBOOKS)

     漫画の小説版を作るという集英社の企画の一つとして発表されたのである。

     そのいきさつにはわかりにくいところがあって、下の記事で考察した。

     「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」は、劇場版「あの日に帰りたい」の後の話になっている。

     「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」は、TVシリーズのシリーズ構成、劇場版「あの日に帰りたい」の脚本を担当した寺田憲史氏の執筆したものであって、TVシリーズ、劇場版「あの日に帰りたい」に続く話として作られている。

    劇場版「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」

     1996年11月、劇場版「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」が公開された。

     小説版「新きまぐれオレンジ★ロード そして、あの夏のはじまり」をもとにして作られているが、違うところもある。

     劇場版「新きまぐれオレンジ★ロード あの夏のはじまり」も劇場版「あの日に帰りたい」の後の話になっている。


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    小説版「新きまぐれオレンジ★ロード ピラミッド殺人ミステリー」

     小説版の第2作「新きまぐれオレンジ★ロード ピラミッド殺人ミステリー」は、劇場版の前に、「jump novel」vol.8 1995年4月1日号で発表され、1995年7月8日にジャンプジェイブックスの一つとして出版された。

     小説版第1作の後の話。


    新きまぐれオレンジ・ロード 2 ピラミッド殺人ミステリー (JUMP jBOOKS)

    小説版「新きまぐれオレンジ★ロードⅢ まどかのシークレット・メモリー」

     小説版第3作「新きまぐれオレンジ★ロードⅢ まどかのシークレット・メモリー」は、その前に発表されていた二つの小説を合わせて1997年に出版された。

    ・「天使のアブナイ微笑」(「jump novel」vol.9 1995年8月20日号)

    ・「まどかのシークレット・メモリー」(「jump novel」vol.10 1996年3月30日号)

     過去に戻る話と、夢の話。

     いずれも「きまぐれオレンジ☆ロード」に思い入れある人には問題作。


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    まとめ

     寺田憲史氏などアニメ版の作り手は、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」をそのままアニメ化しなかった。

     設定を変え、話を変え、終わり方を変えた。

     それゆえに「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは原作漫画とは別物になっている。

     それでも多くは原作漫画の話をもとにしていて、最後も原作漫画の「そして、ダ・カーポ」に似た話で終わっていて、全体として原作漫画に近いところはあった。

     ところが劇場版「あの日に帰りたい」では、原作漫画とは大きく異なる話になった。

     その後の「そして、あの夏のはじまり」小説版、劇場版は原作者が挿絵を担当し、プロットも考えたと言われているが、「あの日に帰りたい」の後の話として寺田憲史氏が執筆したものである。

     その後の小説版「新きまぐれオレンジ☆ロード」2作も、原作漫画の世界の話ではなく、寺田憲史氏の作った世界の話である。

  • 町山智浩氏の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論について

    町山智浩氏の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論について

     町山智浩氏の著書「最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)」(2016年、集英社)に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論が収められている。

     私はたまたまAMAZONの長いレビューが町山氏の議論を批判しているのをみた。

     そこで町山氏の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論を読んでみた。

     読んでみると、町山氏のイデオロギー批評の問題となるところが出ていた。


    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)

    町山智浩氏の主張

    Photo by mentatdgt from Pexels

     まず町山智浩氏の主張をまとめる。

    歴史のねじ曲げ

     町山智浩氏は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は同じロバート・ゼメキス監督の「フォレスト・ガンプ」とともに「ねじ曲がったアメリカの戦後史を形成している」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、210頁)

     この2作品は「歴史の歪曲と捏造と虚偽に満ちている」という。(同、211頁)

    白人の気持ち

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」冒頭の主人公とその家族の「惨めな現実」は、「当時のアメリカ白人の気持ちを代弁している」と町山氏は語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、212頁)

     当時のアメリカ白人には、他の人種によって脅かされているという気持ちがあって、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそういう気持ちを代弁しているというのである。

    歴史との関係

     町山智浩氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と歴史との関係について次のように論じている。

     「アメリカン・ドリームが崩れた60年代に、アメリカン・ドリームをスクリーンで見せてきたハリウッド映画も観客を失った」

     そこで「経営難に陥った映画会社は70年代に入ると若い監督を起用して、セックス、ドラッグ、ロックンロール、バイオレンス、それに反体制的メッセージを盛り込んだ映画で若者を劇場に取り戻そうとした」

     それに対して「70年代末、スティーヴン・スピルバーグとジョージ・ルーカスの『JAWS/ジョーズ』(75年)、『スター・ウォーズ』(77年)、『未知との遭遇』(77年)は、セックスやドラッグを排し、現実ではなくSFXで作られた、明るく楽しい家族向けの娯楽を提供した。」

     80年代にロナルド・レーガンは「50年代の古き良きアメリカ、強いアメリカ、豊かなアメリカ、神を愛し、家族を愛するアメリカの復活を掲げて選挙に圧勝した」

     その時に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は「50年代の古き良きアメリカをスクリーンに蘇らせる」映画としてスピルバーグがプロデュースした作品である。(以上、最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、213~214頁)

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はレーガン政権と同じような歴史的な意義をもっていると町山智浩氏は語る。

    人種差別

     町山智浩氏によると、60年代以後、アメリカの伝統的な文化に対抗した文化は、人種差別に反対した文化であった。

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、そういう文化に反対するものと町山智浩氏は語る。そして人種差別に反対する運動に反対するものと語る。

    検討

    Michaił NowaによるPixabayからの画像

     町山氏の主張を一つ一つ検討してみよう。

    主人公の惨めな現実

     町山氏は、冒頭の主人公とその家族の惨めな現実は、「当時のアメリカ白人の気持ちを代弁している」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、212頁)

     2010年に行われたスティーブン・スピルバーグ(製作総指揮)、ロバート・ゼメキス(監督・脚本)、ボブ・ゲイル(製作・脚本)の3人による鼎談で映画の主人公の設定について、ボブ・ゲイルが次のように語っていることは、そのことと関係がある。

    はじめ彼は何もうまくいかず、人生に打ちひしがれていて、自殺まで考えているようなキャラだったんだ。
    (中略)
    そこで意見が一致した。「主人公が自殺したがっている設定だなんて、絶対に間違ってるぞ」と。

    スティーブン・スピルバーグ論」、フィルムアート社、2013年、104頁

    スティーブン・スピルバーグ論

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公は「何もうまくいかず、人生に打ちひしがれていて、自殺まで考えているようなキャラ」と考えられていた。

     ところが作り手はその考えを変えた。

     その結果として、主人公とその家族の「惨めな現実」は深刻に描かれていない。

    主役

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の作り手は、マイケル・J・フォックスを主役と考えていたが、他の番組のために断られたので、エリック・シュトルツを主役として撮影を始めた。しかし結局マイケル・J・フォックスを主役とした。

     なぜそこまでしてマイケル・J・フォックスを主役としたかったのか? 町山氏は当時マイケル・J・フォックスが「ファミリー・タイズ」(=家族の絆)というテレビコメディで人気スターになっていたことを指摘する。

     そのテレビコメディでマイケル・J・フォックスは、「60~70年代のカウンター・カルチャーの中で青春を送った元ヒッピー」の両親に対して、「80年代の新保守主義、レーガン大統領を支持した層を代表している」人物を演じていたというのである。( 最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル) 、222~223頁)

     しかしロバート・ゼメキス監督が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主役を「80年代の新保守主義、レーガン大統領を支持した層を代表している」人物にしたかったとしても、そのためにそういう役を演じていたマイケル・J・フォックスをどうしても起用したいということになるであろうか?

     ロバート・ゼメキス監督は、何故にエリック・シュトルツではいけないと考えたかについて、明らかにしている。―「彼のコメディ感覚が、ぼくがこの映画で思い描いていたものと違っていたということだ」というのである。(「スティーブン・スピルバーグ論」、108頁)


    スティーブン・スピルバーグ論

     ブルーレイの特典映像にエリック・シュトルツが主役を演じている映像が収められている。断片的なものであるが、タイムトラベルの衝撃を深刻に受け止める演技のように見える。マイケル・J・フォックスの明るいコミカルな演技と比べて暗いように見える。

     マイケル・J・フォックスの「コメディ感覚」こそロバート・ゼメキス監督が「この映画で思い描いていたもの」だったということではないか?

    レーガン政権との関係

     はじめに挙げたAMAZONのレビューは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にレーガン政権の思想があるという町山氏の主張に反対している。

     私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」には、同時代のレーガン政権と共通するところがあると思う。

     レーガン政権も「バック・トゥ・ザ・フューチャー」も、それ以前の「若者文化」による家族の解体に対して家族の再生を主題としているという町山氏の指摘には正しいところがあると思う。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、221~222頁)

     「俺たちに明日はない」とか「イージーライダー」のような社会からはみ出した人が殺されるという暗い話に対して、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は明るい話である。

     勿論、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がレーガン政権の思想を体現しているというのではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はレーガン政権から独立した娯楽作品である。

     ましてや「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に町山氏が言うような白人の黒人や日本人に対する差別的な気持ちが描かれているとは思えない。

    理由なき反抗

     私は今度「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見返して、「理由なき反抗 Rebel Without a Cause」をもとにして作られたところがあるのではないかと思った。

     「理由なき反抗」は、まさに1955年に制作され、公開された映画である。

     ロバート・ゼメキス監督は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で1955年を舞台にすることを考えた時に、「理由なき反抗」のことを考えたのではないか。

     「理由なき反抗」は、主人公の若者が、「親たちに反抗」するところを描いた作品である。まさに「若者文化」を代表する作品である。

     「理由なき反抗」において「父親の権威は失墜」している。主人公が、エプロン姿の父親を見て笑うところは特徴的である。

     「理由なき反抗」では、主人公は、同級生の不良集団と対立する。そのことも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公が不良集団と対立することと似ている。不良集団がオープンカーに乗っているところ、服装なども似ている。

     主人公が「チキン」と言われると興奮するところも同じである。


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    50年代の位置づけ

     町山智浩氏が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を「50年代の古き良きアメリカをスクリーンに蘇らせる」作品と語ることには疑問がある。

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、60年代から70年代にかけてのアメリカン・ニューシネマなどと言われる暗い映画に対して、50年代以前のアメリカ映画と同じように明るい映画に帰ったものということはできる。

     しかし「バック・トゥ・ザ・フューチャー」には、特に50年代をよしとする思想はない。

    発端

     脚本を担当したボブ・ゲイルは、自分の父の卒業アルバムを見て「自分がもし親父と同級生だったら、友だちにはなれそうにないな」と考えたことがこの映画の発端だったと語っている。(「スティーブン・スピルバーグ論」、103頁)


    スティーブン・スピルバーグ論

     「自分がもし親父と同級生だったら」という発想は、50年代をよしとする思想とは異なるものである。

     映画の中でも50年代が特にいいとされていないようである。

    主人公

     主人公は50年代を変わった世界として見ている。特にいい世界として見ていない。

     町山智浩氏は次のように書いている。

    マーティは、パステルカラーに彩られた美しいダウンタウンに圧倒される。聴こえてくるのはコーデッツの54年のヒット曲「ミスター・サンドマン」。眠りの砂を撒く妖精のことを歌っているが、マーティも夢心地だ。
     マーティは荒れ果てたダウンタウンしか見たことがなかった。

    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、214頁

    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)

     町山氏は私と違う映像を見ているのであろうか?

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公は、1985年の文化に生きている人物である。スケボーで移動し、バンドでヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの楽曲を演奏している。

    hueylewisofficial
    Huey Lewis & The News – The Power Of Love (Official Video)

     もともと1950年代の文化に対して特別な思い入れはない。1950年代に行きたくて行ったのではない。1950年代の文化に対する愛着から1950年代にとどまっていたいということもない。

    若者文化

     ロバート・ゼメキス監督は1955年を舞台とした理由の一つとして若者文化が誕生した年であることを挙げている。

     1955年には「理由なき反抗」とか、ロックンロールとかがあった。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそういう文化をとりいれている。

     そこで問題は複雑になっている。

     町山智浩氏は「50年代に生まれた若者文化は60年代の若者革命の起爆剤となり、アメリカン・ドリームを解体していく」と語っている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、217頁)

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、1950年代に行くことによって、「若者革命」が出て来る前に帰るのではなく、「若者革命」の出て来るもとの「若者文化」のところに行くのである。

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、「若者文化」以後の流れにある作品である。

    歴史

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の歴史的意義について考える。

    母親

     町山智浩氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にとりいれられた「若者文化」について、なぜか第一に主人公の母親の男性に対する態度に認めている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、217頁)

     たしかにそういう描き方は、「若者文化」以後のものと思われる。

     たとえば「若草の頃 Meet me in St.Louis 」(1944年)は、「若者文化」以前に古き良きアメリカの家族を描いた作品で売れたものであるが、主人公の少女の男性に対する恋愛感情は上品に描かれている。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の母親のように露骨ではない。


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     そういう意味でも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそれほど過去に回帰している作品ではないということができる。

     しかしまた、ロバート・ゼメキス監督がまわりの露骨な映画に比べて甘いと言われたと語っているように、それらの作品に比べて過去に近くなっていたということもできる。

    父親

     町山智浩氏は60年代からの「カウンター・カルチャー」を「父親殺し」として、それに対して「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は「父”生かし”」の物語であるという。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、220頁)

     たしかに主人公の父親は、はじめ頼りないが、主人公が過去に行って帰ってきたときには頼れる存在になっている。

     ただし「若者文化」以前の家族に帰ったのではなく、あくまでも若者が主人公の「若者文化」になっているということができる。

    人種差別

     町山氏が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を人種差別と関係づけていることについて考えよう。

    ロックンロール

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では、劇中の歴史改変によって、「ジョニー・B・グッド」の作者はチャック・ベリーではなく、この映画の主人公になってしまう。

     ロバート・ゼメキス監督は「ただのジョーク」のつもりであったが、「白人による、黒人の功績の横取りだと叩かれた」という。

     そのことについて町山氏は、「確かにジョークには違いない。しかし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』における黒人の描き方を見ると、軽いジョークとは言い切れなくなる」と言っている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、225頁)

     しかしロバート・ゼメキス監督の考えは、「ただのジョーク」のつもりであって、「白人による、黒人の功績の横取り」ではなかったと自ら語る通りである。

    黒人の地位

     町山氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、1955年に食堂で掃除をしていた黒人男性が、1985年に市長になっていたという話をとりあげて、黒人の地位の歴史について次のように語っている。

    60~70年代は黒人にとって南北戦争と並ぶ解放と地位向上の時代だったのだが、『バック・トゥ~』では、マクフライ家が没落した時代として否定的に扱われている。マクフライ家が、レーガン大統領とその支持者が「あの頃はよかった」と言う50年代は黒人にとって暗黒の時代だった。けっして帰りたいなどとは願わないだろう。

    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、226~227頁

    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)

     色々と気になるところがある。

     まず「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で60~70年代は「マクフライ家が没落した時代」であるかもしれないが、そのことは黒人の地位向上と関係ないのではないか?

     黒人が解放され地位向上したゆえにマクフライ家が没落したのではない。

     マクフライ家には、黒人の地位が低かった時代を「あの頃はよかった」という思想はない。

     主人公の母は過去を懐かしんでいるが、そのことは黒人の地位と関係ない。

     主人公は50年代を「よかった」と思っていない。

     1955年に食堂で掃除をしていた黒人男性が、1985年に市長になっていたという話はむしろ黒人の地位が向上した80年代をよしとしているように見える。

    白人の没落

     町山氏は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作は、「猿の惑星」と同じく「白人の没落を裏テーマにしている」という。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、227頁)

     しかし「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作のどれも、「白人の没落」をテーマとしているように見えない。

     第1作に関しては、すでに言ったように、「マクフライ家の没落」も、それに対する歴史改変も、黒人の地位向上と関係なく、「白人の没落」とも関係ない。


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     町山氏は「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズでアメリカを乗っ取るのは、日本だ。」と書いている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、228頁)

     しかし第1作で主人公は日本製品をよろこんでいる。日本製品は「白人の没落」という意味で扱われていないのである。

     第2作で未来の主人公は、日本人社長にぺこぺこした挙句クビにされてしまうが、そのことは作品の主題というほどのこととは思えない。


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     町山氏は「「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズは一貫して、黒人や日本人を白人文化の破壊者として描いている」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、230頁)

     しかしそういうところは見当たらない。どこのことを言っているのであろうか?

     第3作で主人公が1885年の西部劇の世界に行くことについて、町山氏は、「アメリカの凋落は、もはや50年代の保守主義をもってしても救いようがない、ということなのか」とか、「アジア人がおとなしかった古き良き時代に見えるだろう」とか言っている。( 最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル) 、230、231頁)


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     アジア人による抑圧に対して白人が満足するためには、1950年代では不十分で、西部劇の世界でなくてはならない、ということだろうか?

     しかしあの西部劇を見て、「アジア人がおとなしかった古き良き時代に見える」などという人は少ないのではないか? そのことは作品の主題から離れたことではないか?

     第3作の最後に主人公が「銃を撃つことなく勝利を収める」ことを、町山氏は、「結局、アメリカは経済と軍事のライバルたちに、一発の銃弾を撃つこともなく勝利した」ことと関係づけている。(同、231頁)

     しかし第三作の主人公の相手が、当時のアメリカの「経済と軍事のライバルたち」、日本とかソ連とかをあらわすものとして描かれているとは思えない。


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  • 伊藤詩織氏の事件に対する疑問

    伊藤詩織氏の事件に対する疑問

     2020年9月に、「TIME」誌が2020年世界で最も影響のある100人を発表した。その中に、台湾の蔡英文総統、香港のネーサン・ローが入っていることを知って、世界の多くの人の注目を集めてよかったと思っていると、伊藤詩織氏もその中に入っているという。

    https://time.com/collection/100-most-influential-people-2020/

     伊藤詩織氏が裁判所の前で勝訴と書いた紙を持っている写真が掲載されている。

     その記事を書いているChizuko Uenoというのは、あの上野千鶴子氏であろうか?

     伊藤詩織氏は、「TIME」誌が「世界で最も影響ある100人」のうちの1人に選ぶほど大きな存在である。

     そこで、控訴審に際して、私がこれまで伊藤詩織氏の事件について考えたことをまとめておこうと思った。

    一方的な報道

     2019年12月18日、裁判所の前で勝訴の紙を持ったコート姿の女性が一斉に報道された。

    https://news.yahoo.co.jp/articles/faf0c91f3ed776c3f64f31ef11df95a727aaad15

    https://news.yahoo.co.jp/byline/ogawatamaka/20191218-00155386/

    https://news.yahoo.co.jp/articles/cde22bfd70829f4d9a73f5e5c6b43af46c7dd4d9

     私はそれまでその事件について全く知らなかった。伊藤詩織氏の勝訴をよしとする報道ばかり並んでいるのをみて、それだけ事実関係が明らかになっているのだろうと思った。

     しかし相手の山口敬之氏は直ちに控訴するという。言い分があるということである。どういう言い分があるのか? 多くのメディアは伝えないので、自分でしらべてみた。

     しらべてみると、事実はそれほど明らかではない。山口敬之氏の主張は相当に筋が通っている。現状のように一方的に報道されるような事件ではないのではないのではないかと思った。

     左翼勢力が左翼運動として伊藤詩織氏を支持しているように見えることも気になった。事件に対する判断は、あくまでも事件そのものを検証することによってきまるべきであるのに、伊藤詩織氏を支持している人たちの中に政治的な党派性によってきめようとしている人が多いように見えた。

     ここでは、政治的な党派性と関係なく、事件そのものについて考える。

    資料

     伊藤詩織氏の主張は著書「Black Box ブラックボックス」(文藝春秋者、2017年)にある。


    Black Box

     山口敬之の主張は、「月刊HANADAプラス」にある。

    https://hanada-plus.jp/articles/250

    https://hanada-plus.jp/articles/260

    事件の概要

    伊藤詩織氏の主張

     2015年4月3日金曜日の夜、伊藤詩織氏は山口敬之氏と待ち合わせして、山口敬之氏のいきつけの串焼き屋、鮨屋で食事をした。(「ブラックボックス」45~48頁)

     山口敬之氏は伊藤詩織氏に、TBSが伊藤詩織氏をプロデューサーとして採用する話があると語った。二人が会ったのはそのことのためであった。(同、42~45頁)

     伊藤詩織氏は二軒目の鮨屋で二度目にトイレに入った時から「記憶はない」という。(同、49頁)

     伊藤詩織氏が目を覚ました時に、山口敬之氏に「のしかかられていた」。(同、49頁)

     伊藤詩織氏は「トイレに行きたい」といって、「トイレに駆け込んで鍵をかけた」。(同、50頁)しかしトイレから出ると、「再びベッドの引きずり倒された」。(同、50頁)それに対して伊藤詩織氏は「抵抗し続けた」。(同、51頁)そして英語で「罵倒」した。(同、51~52頁)山口敬之氏は「「ごめんね」と一言謝った」。(同、53頁)伊藤詩織氏は「服を急いで身にまとった」、そして「荷物をまとめて足早に部屋を出た」(同、54頁)

    山口敬之氏の主張

    手記

     山口敬之氏によると、伊藤詩織氏は「自分の酒量を過信して飲みすぎた」。(【独占手記】私を訴えた伊藤詩織さんへ「前編」)

     山口敬之氏は伊藤詩織氏をホテルの自分の部屋に連れて行ったことについて、「神奈川県に住んでいるあなたを送っていったら作業が時間内に終わらない。しかし、あなたは自力では帰れそうにない。私はやむなく、当時逗留していたホテルで休んで酔いを醒ましてもらい、自分の作業を終えてから送って帰るしかないと判断しました。」と説明している。(同)

     そして「私はあの日、あなたに薬物を飲ませたり、いやがるあなたを部屋に連れ込んだりしなかったのと同様に、部屋のなかでもあなたの意思に反する行動は一切していない」と語っている。(同)

     同意があったということである。

     伊藤詩織氏は「「朝まで意識がなかった」のでは決してなく、未明の時間に自ら起き、大人の女性として行動し、そしてまた眠った」という。(同)

     そしてその後のことについて、「1度未明に起きたあと、再び眠りに落ちたあなたは、朝になってもう1度起きた。そして、私とごく普通の会話をし、ごく普通にホテルの部屋を出ていった。」と語っている。(同)

    二段階の問題

     山口敬之氏の、伊藤詩織氏に対する反論は、二段階になっている。多くの人がそのことを知らないのではないかと思う。

     第一段階の問題は、性交に対して伊藤詩織氏の同意はあったか? という問題である。

     その第一段階の問題に対して、伊藤詩織氏は同意はなかったといい、山口敬之氏は同意はあったという。

     山口敬之氏によると、伊藤詩織氏が2015年に訴えて、2017年まで刑事事件として問題とされていたのは、性交に同意があったかどうか、というこの第一段階の問題であった。

     ところが2017年から伊藤詩織氏は、それまでと異なる主張をしだした、と山口敬之氏側は言う。それが第二段階の問題である。

     伊藤詩織氏が2017年から言い出したことは、著書「ブラックボックス」にまとめられている。

     伊藤詩織氏は「ブラックボックス」において次のように語っている。

     伊藤詩織氏は、前の夜の二軒目の鮨屋で気を失って、目を覚ますとレイプされていた。(「ブラックボックス」、49頁)しばらく犯された後に、一度トイレに逃れたが、出てきたところをベッドに押し付けられた。しばらく抵抗すると山口氏は動きを止めた。(同、51頁)そこで伊藤氏は着替えて「ホテルの前からタクシーに乗った」。それは「五時五十分頃」であった。(同、55頁)

     以上の記述を考えると、伊藤詩織氏が目を覚ましてから、ホテルを出てタクシーに乗った「五時五十分頃」まで、それほど時間はたっていなかったと思われる。伊藤詩織氏は「目覚めたのはホテルを出た時間から逆算して午前五時台であることは確かだった」と語っている。(同、92頁)

     それに対して山口敬之氏は次のように語っている。

     伊藤詩織氏は「未明の時間に自ら起き、大人の女性として行動し、そしてまた眠った」。そして再び眠って、起きた後に「ごく普通の会話をし、ごく普通にホテルの部屋を出ていった。」という。(同)

     山口敬之氏によると、山口敬之氏のホテルの部屋で、伊藤詩織氏はしばらく眠った、そして未明に起きた時に、性交は行われた。その後に二人は再び眠った。そして、朝起きて、会話して別れた。

     山口敬之氏側によると、はじめに問題とされたのは、未明に行われた性交に、同意があったかどうかということであった。

     ところが伊藤詩織氏は「ブラックボックス」において、性交は、伊藤氏がホテルを出る少し前の「五時台」に行われた、と言い出した。

     伊藤詩織氏は「五時台」に目が覚めた後の記憶はあると言っている。記憶がある時間帯に、「ブラックボックス」に書かれているような強姦、暴行、強姦未遂があった、というのである。

     それに対して山口敬之氏は、伊藤詩織氏が「ブラックボックス」に書いているような、「五時台」のことは、伊藤詩織氏が2017年から言い出したことであって、それまで言われておらず、問題とされていなかったという。

     要するに、第二段階の問題とは、伊藤詩織氏が「ブラックボックス」において語っているような、朝五時頃の強姦、暴行は、虚偽ではないか、という問題である。

    考察

    ブラックアウト

     まず第一段階の問題、性交に同意があったか、ということについて。

     山口敬之氏は捜査員から「ブラックアウト」ということによって説明できると言われたという。

     「ブラックアウト」とは「アルコールの影響で、記憶の一部または全部が欠落してしまう現象」である。(【独占手記】私を訴えた伊藤詩織さんへ「前編」)

     伊藤詩織氏はアルコールによって記憶がなくなった、とすると、伊藤詩織氏が未明のことについて記憶がないと言うことと、伊藤詩織氏は性交に同意していたと山口敬之氏が言うこととは、矛盾しない、というのである。

     山口敬之氏は伊藤詩織氏に対して「あなたは記憶がないからこそ、「ブラックアウトではなかった」と断言することは絶対にできない。」といっている。(【独占手記】私を訴えた伊藤詩織さんへ「後編」)

     たしかに伊藤詩織氏には記憶がなかったのであるから、その記憶のない時間帯において、山口敬之氏との性交に同意していた可能性を否定することはできない。

     伊藤詩織氏は「ブラックボックス」において、警察に「密室の中で起こったことは第三者にはわからない」、「ブラックボックス」と説明されたという。(「ブラックボックス」、172~173頁)

     しかし次のように反論している。

    しかし、意識の無い状態で部屋に引きずり込まれた人が、その後、どう「合意」するのだろうか? こんなことを克明に証明しなければならないなら、それは法律の方がおかしいと思う。

    「ブラックボックス」、173頁

     伊藤詩織氏は、「意識の無い状態で部屋に引きずり込まれた」ので、「合意」することができないというのである。

     しかし伊藤詩織氏は、他のことにおいて、その記憶の無い時間帯における自分の言動を、自分の意思によるものだと主張している。

     4月3日の夜、鮨屋からホテルまで二人がタクシーで行った時に、伊藤詩織氏が「近くの駅で降ろして下さい」と言ったというタクシー運転手の証言を聞いて、伊藤詩織氏は、「やはり、最後まで自分は家に帰ろうとしていたのだ」と書いている。(同、126~127頁)

     伊藤詩織氏が、記憶の無い時間帯に昏睡状態であったとすると、性交に同意しなかったということはできる。しかしそうでなかったことは、伊藤詩織氏自身が認めていることである。

     伊藤詩織氏は「法律の方がおかしいと思う」と言うが、伊藤詩織氏が性交に同意したかしなかったか、第三者にも、伊藤詩織氏自身にもわからないのに、強姦罪は成立すべきであろうか?

     まとめよう。

     伊藤詩織氏が記憶のない時間帯に性交が行われた。伊藤詩織氏がその性交に同意していたかどうかは、第三者にはわからない。伊藤詩織氏自身にもわからない。

    Tシャツ

     伊藤詩織氏が性交に同意していたかどうか、第三者にも、伊藤詩織氏自身にもわからない。

     そこで前後の状況から考えるほかない。

     伊藤詩織氏の「ブラックボックス」と、山口敬之氏の手記とを読み比べて、Tシャツのことは決定的ではないか、と私は思った。

    両者の主張

     伊藤詩織氏は、ホテルの山口敬之氏の部屋から出るときに、山口敬之氏のTシャツを身に着けていた。そのことは、山口敬之氏も、伊藤詩織氏も、認めていることである。

     山口敬之氏によると、伊藤詩織氏は「ブラウスが少し生乾きなんだけど、Tシャツみたいなものをお借りできませんか」といった。それに対して山口敬之氏は「別に断る理由もなかったので、パッキング途中のスーツケースを指し、「そのなかの、好きなものを選んで着ていっていいですよ」」といった。そこで伊藤詩織氏は山口敬之氏の「Tシャツのうちの1つを選び、その場で素肌に身に着け」た。(【独占手記】私を訴えた伊藤詩織さんへ「後編」)

     山口敬之氏はそのことに関して「レイプの被害に遭ったと思っている女性が、まさにレイプされた翌朝、レイプ犯のTシャツを地肌に進んで身に着けるようなことがあるのでしょうか?」と言っている。(同)

     レイプされた直後に、自分をレイプしていた人のTシャツを身に着けることに抵抗を感じない人は少ないのではないか、と私も思う。特にTシャツは肌に触れる面積の広いものである。

     伊藤詩織氏も部屋に帰るとすぐに「ゴミ箱に叩き込んだ」と語っている。(「ブラックボックス」、55頁)

     しかし伊藤詩織氏は、部屋に帰るとすぐに「ゴミ箱に叩き込んだ」という気持ちを持っていたのに、部屋に帰るまでそのTシャツを身に着けるという、その気持ちに反することをしていた。

     伊藤詩織氏はTシャツを身に着けたことについて次のように書いている。

    ようやく見つけたブラウスは、なぜかびしょ濡れだった。なぜ濡れているのか聞くと、山口氏は「これを着て」とTシャツを差し出した。
     他に着るものがなく、反射的にそれを身につけた。

    「ブラックボックス」、54頁

     これによると、伊藤詩織氏は自ら進んで山口敬之氏のTシャツを身に着けたのではない。ブラウスが「びしょ濡れ」で、他に着るものがなく、何か着るものをもとめていたところに、山口敬之氏がTシャツを差し出していたので、「反射的」に身に着けた、というのである。

     しかしよく考えてみるとおかしいようである。

    疑問一

     第一に、伊藤詩織氏は、少し前まで自分をレイプしていた人のTシャツを借りなくてはならないほどの状況にあったであろうか?

     そういう状況にあったとすると、Tシャツを借りてもしかたがないということになる。

     たしかにブラウスは「びしょ濡れ」であった。「びしょ濡れ」のブラウスは着心地のいいものではないであろう。しかしレイプされた直後である。着心地がよくなくても、部屋を出ることを優先するのではないか?

     ましてや自分のブラウスが「びしょ濡れ」であるからといって、その代わりに、少し前まで自分をレイプしていた人のTシャツをわざわざ借りて着る人がいるだろうか?

     その上に、伊藤詩織氏は当時コートを着ていた。(「ブラックボックス」、47~48頁)

     Tシャツを借りなくては人前に出ることができない状況であっただろうか?

    疑問二

     第二に、山口敬之氏がTシャツを差し出した、ということは、不自然ではないか?

     「ブラックボックス」では山口敬之氏がTシャツを差し出したと書かれている。山口敬之氏が差し出したのであって、伊藤詩織氏がもとめたのではないということである。

     しかし伊藤詩織氏がTシャツを山口敬之氏にもとめないのに、山口敬之氏が自分からTシャツを伊藤詩織氏に差し出すであろうか?

    疑問三

     第三に、伊藤詩織氏が山口敬之氏のTシャツを「反射的」に身に着けた、ということは、不自然ではないか?

     「反射的」に身に着けたということは、よく考えずにしたということである。伊藤詩織氏は、ほかに着るものがないことで頭がいっぱいになっていたので、少し前まで自分をレイプしていた人のTシャツを身に着ける、ということを考えていなかった、ということであろうか。

     しかしブラウスが「びしょ濡れ」だったからといって、今身に着けるTシャツは、少し前まで自分をレイプしていた人のものだ、ということを意識しないでいることができるであろうか?

     その上に、Tシャツは、身に着けるのにそれなりに手間がかかるものである。両手を通し、首を通さなくてはならない。そして広い範囲の肌と触れなくてはならない。上半身は、人が身近に感ずるところである。

     Tシャツを身に着ける間に、そのTシャツは少し前まで自分をレイプしていた人のものである、ということに思いを致さないでいられるであろうか?

    第二段階の問題との関係

     伊藤詩織氏が山口敬之氏のTシャツをわざわざ借りて、部屋に帰るまで身に着けていた事実は、伊藤詩織氏がその少し前まで山口敬之氏に強姦され、暴行されていたという「ブラックボックス」の記述とつじつまが合わないのではないか?

    早朝の出来事について

     伊藤詩織氏が「ブラックボックス」において、4月4日の早朝、ホテルの山口敬之氏の部屋で起こったこととして書いていることには、いろいろと気になるところがある。

     第一に、山口敬之氏は何故に伊藤詩織氏が目を覚ます時にレイプしたのか?

     伊藤詩織氏が語るように、山口敬之氏がデートレイプドラッグを使っていたとしても、伊藤詩織氏をアルコールで酔わせたとしても、伊藤詩織氏が目を覚ます前にするためではないか?

     第二に、伊藤詩織氏が目を覚ました後に、山口敬之氏は何故に事態をつくろおうとか、関係を修復しようとかいうことを全くしないのか?

     山口氏は社会的地位を持っていたゆえに、そういうことを気にしなかったと伊藤詩織氏は主張しているようである。

     しかし山口敬之氏はそれほどの地位をもっていただろうか? 現に伊藤詩織氏に訴えられているではないか? 伊藤詩織氏が語っているような山口敬之氏の言動の証拠を伊藤詩織氏が持っていたならば、山口敬之氏は追い詰められていたのではないか?

     第三に、伊藤詩織氏は山口敬之氏のレイプから一度トイレに逃げ込むことができたのに、そのトイレの中で得られる安全をすぐに捨てて、ドアを開けて自分を直前までレイプしていた人のところへ行った、というが、おかしくないか?

     第四に、伊藤詩織氏は山口敬之氏に対して必死の抵抗をし、英語で罵倒したと言っている。山口敬之氏に反対する意思をそれだけ明らかにしたというのである。

     ところが、伊藤詩織氏はその後にそういう意思を示さなくなっている。それどころか、山口敬之氏のTシャツをわざわざ身に着けている。不自然ではないか?

     山口敬之氏も、伊藤詩織氏が自分に反対するところをそれだけはっきりと見たのに、全く関係を修復しようとしていない。これまた不自然ではないか?

    カルテ

     第二段階の問題に関しては、カルテという証拠がある。

     判決直後の双方の記者会見で、カルテのことがとりあげられている。

    SankeiNews
    【ノーカット】ジャーナリストの伊藤詩織氏が日本外国特派員協会で会見 2019/12/18

     34分40秒あたりで伊藤詩織氏が語っている。

    「ブラックボックス」とカルテ

     「ブラックボックス」でも書かれているが、伊藤詩織氏は、そのことのあった4月4日土曜日、自分の部屋に帰った後に、産婦人科へ出かけた。(「ブラックボックス」、61頁)

     その産婦人科のカルテには「coitus(性交)AM2~3時頃、コンドームが破れた」と記されていた。―その時に伊藤詩織氏は医師に性交が行われた時間帯はAM2~3時頃であったと言った、ということである。

     「ブラックボックス」において伊藤詩織氏は、「五時台」に目を覚ました時にレイプされていた、と語っている。(「ブラックボックス」、92頁)

     当時のカルテに記載は、「ブラックボックス」の記述と合わないのである。

     それに対して山口敬之氏が、性交は未明に行われて、それから「五時台」に別れるまで二人は眠っていた、ということは、カルテの記載と合う。

     山口敬之氏側は、このことを証拠として、伊藤詩織氏が2017年から事実に反することを言い出したと主張している。第二段階の問題の証拠になると言うのである。

    伊藤詩織氏の説明

     伊藤詩織氏は、そのカルテの記載は正確でないと主張する。伊藤詩織氏はその時に医師にそういうことを言わなかったというのである。

     伊藤詩織氏は、その時に医師との間でなされたやりとりについて、記者会見で次のように説明している。

     医師は性交の時間帯を聞いただけであった。それに対して伊藤詩織氏は早朝とこたえた。それだけであった。コンドームのことなど一言も言わなかった。(All she said was, “what time did it fail?”, and I said “early morning”. That’s it. That was the only conversation. We never discussed about condome.)

     「ブラックボックス」には、「四十歳前後のショートカットの女医さん」が「いつ失敗されちゃった?」と「淡々と言い放ち、パソコンの画面から顔も上げずに処方箋を打ち込む姿は、取りつく島もなかった」とある。(「ブラックボックス」、62頁)

    疑問

     2019年の第一審の判決では、伊藤詩織氏の言う通りに、「カルテの記載内容の正確性には疑義がある」とされた。2019年の伊藤詩織氏の主張によって、2015年の当時のカルテの記載内容の正確性を否定したわけである。

     しかし伊藤詩織氏の言うことはおかしくないか?

     伊藤詩織氏によると、その医師は、カルテに性交の時刻を書くために、伊藤詩織氏に聞いた。それに対して伊藤詩織氏は「早朝」とだけ答えた。そこで医師はカルテに性交はAM2~3時に行われたと記した。そう伊藤詩織氏は語っている。

    疑問一

     第一に、医師はそういう場合、聞き返すのではないか? 聞き返さないということがあるであろうか?

     医師は、カルテに性交の時間帯を書くために、伊藤詩織氏にその時間帯を聞いた。聞く必要があった。

     それに対して、伊藤詩織氏は「早朝」とだけ答えた。医師が答えてほしいことを答えなかったのである。

     しかし医師はカルテに性交の時間帯を書かなくてはならない。そういう場合に、医師はまず聞き返すのではないか?

     伊藤詩織氏によると、伊藤詩織氏が「早朝」とだけ答えたのを聞いて、医師は聞き返すことがなかったようであるが、そういうことがあるであろうか?

    疑問二

     第二に、医師が自分で勝手に他人の性交の時間帯を捏造して記載するだろうか?

     伊藤詩織氏の説明によると、医師は、性交の時間帯について、伊藤詩織氏が「早朝」とだけ答えたことを受けて、勝手に自分で「AM2~3時頃」と書いた。

     医師は、目の前に伊藤詩織氏がいるのに、伊藤詩織氏に性交の時間帯を聞き返すこともせず、自分で勝手に性交の時間帯を考え出してカルテに記載したというのである。これはおかしなことではないか?

     まじめな医師であれば、捏造などしない。

     ふまじめな医師であれば、自分で勝手に他人の性交の時間帯を考え出すような面倒なことをしないのではないか?

    疑問三

     もう一つ。

     伊藤詩織氏は医師に「early morning(早朝)」と言ったというが、「早朝」という言葉は、どちらかというと、「2~3時頃」より、5時頃をさすのではないか?

     「早朝」と言われて、「2~3時頃」のことだと思うということは、不自然ではないか?

    証拠の重み

     2019年の判決では、2019年の伊藤詩織氏の主張によって、2015年の当時のカルテの記載内容の正確性を否定した。

     しかし2019年の伊藤詩織氏の主張は、2015年のカルテの記載と比べて、証拠としての価値は劣る。

  • 高田明美氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版のキャラクターデザインになったいきさつ

    高田明美氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版のキャラクターデザインになったいきさつ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の作者まつもと泉先生が亡くなって間もなく、たまたまYahooニュースで1月前に行われた高田明美氏のインタビューを読んで、違和感があった。

    https://animageplus.jp/articles/detail/33157

    高田明美氏の言葉

     違和感があったのは、高田明美氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版のキャラクターデザインになったいきさつを語るところ。

    高田 原作者のまつもと泉さんは『魔法の天使 クリィミーマミ』が好きで、アニメ化が決まった時に指名があって始まった感じですね。最初に絵を見た時は「私よりも、いのまた(むつみ)さんに頼んだほうがいいんじゃないか」ってちょっと思ったりもしたんですが。

    高田明美が明かす〝暇つぶし〟から始まった『パトレイバー』秘話

     これによると、

    ・原作者のまつもと泉先生が指名したことによって、高田明美氏はアニメ版のキャラクターデザインを担当することになった。

    ・高田明美氏自身は必ずしも適任ではないと思っていた。

     私はそれまで高田明美氏がアニメ版のキャラクターデザインを担当することになったことに、まつもと泉先生は関わっていないと思っていた。

     それゆえに違和感があった。

    違和感の理由

     高田明美氏がアニメ版のキャラクターデザインを担当することに、まつもと泉先生は関わっていないと私は何故に思ったか。

     第一に、まつもと泉先生の言葉と矛盾している。

     第二に、当時の状況を考えると、違うのではないかと思われる。

     第三に、まつもと泉先生が高田明美氏を指名する動機が理解できない。

    まつもと泉先生の言葉

     第一に、まつもと泉先生が生前に語っていたことは、高田明美氏が語ることと食い違っている。

     まつもと泉先生は、小説版「新きまぐれオレンジ★ロード そしてあの夏のはじまり」(1994年)の「postscript」において、自分が「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版にどのように関わってきたかを次のように説明している。

    今まで、アニメなどの原作のマンガ以外のオレンジロードは、絵に関しても、ストーリーに関しても所詮、他人の手で描かれるため、良いものになろうが、つまらなかろうが「オレンジロード風ガイドライン」からそう逸脱したものにならなければ、私はなるたけ関わる必要がないと決め込んでいた。だからアニメと私の原作とではストーリーが少しくらい違っていても、あまり注文など口は出さないようにしてきた。

    「新きまぐれオレンジ★ロード そしてあの夏のはじまり」集英社、1994年、242頁

     まつもと泉先生は、「アニメなどの原作のマンガ以外のオレンジロード」に対して「なるたけ関わる必要がないと決め込んでいた」と語っている。

     しかも、アニメの「きまぐれオレンジ☆ロード」の「絵に関しても」そうしていたと語っている。

    では何故、私がアニメに関わらないかといえば、あまりに原作者がああだ、こうだ、と口をだすアニメで今まで出来の良い物にお目にかかったことはなかったし、原作者が自分のマンガをアニメ化されて、一人はしゃぎして「声優は誰が良い」だの、「作監は誰が良い」だのと小躍りするのは、あまり見ていてかっこいいものじゃないと自分では思っていたからだ。

    「新きまぐれオレンジ★ロード そしてあの夏のはじまり」集英社、1994年、242頁

     まつもと泉先生は、原作者がアニメに対して「声優は誰が良い」とか、「作監は誰が良い」とかいうことは「あまり見ていてかっこいいものじゃないと自分では思っていた」という。

     そういう人にとっては、キャラクターデザインは高田明美氏が良いと指名することも「見ていてかっこいいものじゃない」ということになるのではないか?

     アニメ化の時にはキャラクターデザインを指名していたのに、小説版の時にはそういうことを「あまり見ていてかっこいいものじゃないと自分では思っていた」と書くとは考え難い。

    当時の状況

     第二に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版が作られた時の状況を考えると、キャラクターデザインが高田明美氏に決まったのは、まつもと泉先生によることではなく、他の要因によることと思われる。

    スタジオぴえろ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメの製作は、スタジオぴえろ(と東宝)である。

     スタジオぴえろは、1987年のTVシリーズの前に、1985年の「ジャンプ・スペシャルアニメ・大行進85」というイベントで、「きまぐれオレンジ☆ロード」が「こちら葛飾区亀有公園前派出所」とともにアニメ化された時にアニメーション制作を担当していた。

     布川郁司氏によると、スタジオぴえろは当時「ジャンプ作品をとるための作戦」をたてていた。(「クリィミーマミはなぜステッキで変身するのか?」日経BP社、2013年、92頁)

    それができた記念すべき作品が『きまぐれオレンジ★ロード』でした。これは当初、「ジャンプフェスタ」というイベントのために三十分のアニメ作品を作るという話でした。それでクリィミーマミと同じ高田明美さんにキャラクターデザインをお願いして制作したのです。

    「クリィミーマミはなぜステッキで変身するのか?」日経BP社、2013年、94頁

     ここで言われているように、1985年のアニメのキャラクターデザインは、布川氏の依頼によって、高田明美氏が担当することになった。

     まつもと泉先生の指名によってではない。

     その後に、スタジオぴえろは「オレンジ★ロードを、ジャンプフェスタだけでなく、テレビシリーズにしたい」と考えて、「東宝のテレビ事業部に話を持っていって、作品を製作してもらえないかと打診し」た。そうして1987年のTVシリーズはできることになったと布川郁司氏は語る。(同、95頁)

     1987年のTVシリーズのキャラクターデザインとして高田明美氏が選ばれたのは、1985年のアニメでキャラクターデザインを担当したいたからではないか?

     選んだのは、1985年のアニメと同じく、スタジオぴえろの布川氏ではないか?

     スタジオぴえろと高田明美氏との間には、それまでにタツノコプロ、「うる星やつら」、「クリィミーマミ」と深い関係があった。

    日本テレビ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの企画制作は日本テレビである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のテレビシリーズの日本テレビのプロデューサー堀越徹氏は、「クリィミーマミ」のプロデューサーでもあった。

     189頁で触れられているように、「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版のスタッフは、「クリィミーマミ」と「ほぼ同じ」であった。

     日本テレビは「きまぐれオレンジ☆ロード」をアニメ化するにあたって、前にヒットした「クリィミーマミ」のスタッフを起用したのである。

     高田明美氏は「クリィミーマミ」のキャラクターデザインを担当していた。

     高田明美氏はその流れで選ばれたと思われる。

    高田明美氏を指名する理由

     高田明美氏が語るように、まつもと泉先生が高田明美氏を指名したとすると、その理由がわからない。

     まつもと泉先生はそれほど高田明美氏の描く「きまぐれオレンジ☆ロード」を求めていたのか?

     高田明美氏の言い方では、まつもと泉先生は「魔法の天使 クリィミーマミ」が好きであったゆえに選んだようである。

     まつもと泉先生は「魔法の天使 クリィミーマミ」が好きであったかもしれない。

     しかし「きまぐれオレンジ☆ロード」の絵柄は「クリィミーマミ」の絵柄とは距離があるものである。

     高田明美氏も「最初に絵を見た時は「私よりも、いのまた(むつみ)さんに頼んだほうがいいんじゃないか」ってちょっと思ったりもした」と認めているように、まつもと泉先生の「きまぐれオレンジ☆ロード」の絵柄は、高田明美氏の絵柄とは距離があるものであって、いのまたむつみ先生の絵柄に近いものであった。

     それにもかかわらず、いのまたむつみをおいて、距離のある絵柄の高田明美氏をわざわざ求めるであろうか?

    まとめ

     高田明美氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版のキャラクターデザインに選ばれたのは、スタジオぴえろ、日本テレビによることと思われる。

     まつもと泉先生は、そのことを快諾したこかもしれないが、積極的に指名したとは考え難い。

     指名したとすると、小説版での発言と矛盾する。

     また、距離のある絵柄の高田明美氏をわざわざ指名する理由も理解できない。

    高田明美氏に対する不満

     高田明美氏の後半の発言も気になったので、書いて置こう。

    『うる星やつら』はあまりバリエーションのあるイラストを描く余裕がなかったんですけれど、けっこうお任せだった『オレンジロード』はどっちかというと芸能プロの社長みたいな感覚で、「預けてもらった大事なタレントをどう売っていこうかな」みたいな視点で描いていました。

    高田明美が明かす〝暇つぶし〟から始まった『パトレイバー』秘話

     こういうところは原作に思い入れある者には気になる。

     高田明美氏の原作と距離のある作風で原作のキャラクターを「預けてもらった」ものとみなして、「芸能プロの社長みたいな感覚」で描いていったのであるから、原作と違う方向に行ってしまったわけである。

     原作でいいと思っていた絵が、アニメ版でどのように表現されているかと期待していると、全く違う絵になっていたり、全く出てこなかったりして、がっかりすることが多かった。

    肉感的?

     もう一つ気になったところ。

     インタビュアーが、高田明美氏のキャラクターデザインは原作と比べて「肉感的」だと語っているところがある。

    まつもとさんはポップで軽い印象の絵でしたからね。一方、高田さんが再構築したキャラクターはかなり肉感的というか。

    高田明美が明かす〝暇つぶし〟から始まった『パトレイバー』秘話

     高田明美氏のキャラクターデザインは「肉感的」であろうか? 特に、原作と比べて「肉感的」であろうか?

     そもそも高田明美氏の絵柄は「肉感的」でなかったゆえに、「うる星やつら」のキャラクターデザインに起用されたのでなかったか?

     高田明美氏のキャラクターデザインは、顔を大きく、体を小さくデフォルメしたものであって、「肉感的」ということから遠ざかっているように見える。

    高田 CDを出していたユーメックスの女性担当の方がかなりイケイケな人で、「じゃあ今度はこういう路線を狙ってみようか!」と次々とそういうシチュエーションを注文してくるんですよ。「恥ずかしい!」って言いながら描いていました。

    高田明美が明かす〝暇つぶし〟から始まった『パトレイバー』秘話

     CDでは何故に高田明美氏の絵ばかり使われて原作の絵が使われなかったのであろうか?

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」の作者まつもと泉氏、死す

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の作者まつもと泉氏、死す

     2020年10月13日、漫画家のまつもと泉氏が亡くなったと伝えられた。

     ブログ「サイキンのまつもと」では次のように報告されている。

    まつもと泉は今月6日午前0時過ぎに、
    かねてより入院療養中の病院にて永眠いたしました。

    サイキンのまつもと◆2020年10月13日(Tue)◆

    http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2020&mm=10&dd=13

     1958年10月13日生まれで、62歳になる数日前に亡くなったということのようである。

     長く難病を訴えて、入院を繰り返してきたが、これほど早く亡くなるとは思われなかった。

     1年前、2019年10月に吾妻ひでお氏が69歳で亡くなった時も早いと思われた。

     その時にその「突然の早すぎる死には、言葉がありません」とブログに書いていた人にその1年後、それ以上に「突然の早すぎる死」が訪れるとは思われなかった。

    http://www.comic-on.co.jp/hidiary/hidiary.cgi?yyyy=2019&mm=10&dd=22

     まつもと泉氏は「文藝別冊[総特集]吾妻ひでお」(河出書房新社、2011年)で、「自分は自分がまだプロになる前から、ずっと吾妻先生のファンです」と 書いていた。(57頁)

     ブログでも「私が新人だった頃、大変影響を受けた漫画家が/吾妻ひでお先生でした。」と言い、「嬉しかったのは、吾妻先生からオレンジロードのファンです、と言って頂いた事です。」と言っている。


    [まとめ買い] きまぐれオレンジ★ロード

    関係ある人の悼む言葉

     突然の早すぎる死に対して、多くの人が言葉を寄せている。

    江口寿史

     まず江口寿史氏。

     まつもと泉氏が尊敬し、影響を受けていた人。

    よしまさこ

     まつもと泉氏は影響を受けた人として、よしまさこ氏を短編集「グラフィティ」で挙げていた。

     よしまさこ氏の著書「もう一度あいたい」には、近年のまつもと泉氏との対談が収められている。


    もう一度あいたい

     「もう一度あいたい」のはじめに収められている「潮風がいっぱい」という漫画は、「きまぐれオレンジ☆ロード」との関係で興味深い作品。

     発表されたのは「きまぐれオレンジ☆ロード」の連載より前であって、「きまぐれオレンジ☆ロード」に影響を与えた作品の一つとも思われる。

     興味深いのは、「きまぐれオレンジ☆ロード」の檜山ひかるのような位置にある人物が主人公になっているところ。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」を違う角度から見たようなかたちになっている。

    ゆでたまご嶋田

     「きまぐれオレンジ☆ロード」と同じ時期に「週刊少年ジャンプ」で「キン肉マン」を連載していたゆでたまご嶋田氏。

     まつもと泉氏がゆでたまご作品のアシスタントをしていたことを明らかにしている。

    萩原一至

    「きまぐれオレンジ☆ロード」にアシスタントとして参加していた萩原一至氏。

     絵。

    岡崎武士

     同じくアシスタントとして参加していた岡崎武士氏。

     数日後には絵。

    麻宮騎亜

     麻宮騎亜氏も接点があった。

    きたがわ翔

     萩原一至氏と親しいというきたがわ翔氏。

    上條淳士

     「To-y」の作者。

     「同じ時代を生きた」という言葉は重い。

    樹崎聖

     樹崎聖氏は近年のまつもと泉氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」のいろいろな裏話を語る動画をやっていた。

    藤田和日郎

     藤田和日郎氏の「きまぐれオレンジ☆ロード」に対する思い入れ。

    赤松健

     赤松健氏は近年まつもと泉氏と対談などしていた。

    翻訳

     イタリア語に翻訳した人。

     そのイタリア語版を読んでいたという人。

    望月智充

     問題作「あの日にかえりたい」の監督、望月智充氏。

     望月智充氏は2015年のブログ記事で、まつもと泉氏の「あの日にかえりたい」に対する「呪詛」に言及して「原作者の権力恐るべし」と語っていた。

     ここでは、原作者に対する扱いについて「とても気の毒に思った」と言っている。

    「きまぐれオレンジ☆ロード」

     まつもと泉といえばやはり「きまぐれオレンジ☆ロード」。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の各話のタイトルを表にしてまとめた。

    https://cocoro-mi.com/orangeroad-title-list/

     それぞれの話が、「週刊少年ジャンプ」、ジャンプコミックス、愛蔵版(文庫版)のどこに収められているかもまとめた。


    [まとめ買い] きまぐれオレンジ★ロード
  • 橋下徹氏、ついに百田尚樹氏に答える!

    橋下徹氏、ついに百田尚樹氏に答える!

     9月15日に、橋下徹氏が百田尚樹氏に答えるツイートをした。

     質問されてから何日経っているのか。はじめに思ったのはそのことであった。

     前に書いた記事をみると、質問は7月に出されていた。7月に聞かれたことを、9月15日に答えているわけである。

     何があったのか?

     私は橋下徹氏を追いかけているものではない。今回のこともたまたま気が付いたくらいである。

     それにしてもこのことをめぐる橋下氏の言葉はひっかかる。

     解きほぐさなくては気持ち悪いのである。

    橋下氏のツイート

    考察

     現在、日本の保守といわれる人の中でも対立がある。

     橋下徹氏も、維新も、保守ともいわれるが、保守でないともいわれる。保守に反対する親中派ではないかとして、保守派から批判されることがある。

     今度、百田尚樹氏という、保守派で影響力のある人が、橋下徹氏に対して、親中派でないかと、その核心をつく質問をした。そして答えをもとめた。そこで多くの保守派の人が橋下徹氏に答えをもとめた。

     そういう状況があった。

     それに対して橋下徹氏は、「直接答える」のは「100万年早い」と言ったり、「しゃあないから答えてやる」と言ったり、答えることをもったいぶっている。そもそも7月に聞かれたことを9月に「答えてやる」というのは、大変にもったいぶったことである。

     答えると都合の悪いことがあるのか? と思ってしまう。

     いずれにせよ、よほど緊張しているようである。

     もったいぶっておいて、答えは貧相である。橋下氏の思想が貧相なのか? 何かかくそうとしているのか?

     橋下徹氏は、百田尚樹氏を「オッサン」とよび、その人物に対して、その小説に対して罵倒を栗化している。それほど嫌なことをされたのであろうか? いずれにせよ橋下徹氏の言葉は見苦しい。橋下徹氏は親中派か、ということが問われているのに、問題は百田尚樹氏にあるということによって注意をそらせようとしているのではないか、とおもってしまう。

    私の意見

     橋下徹氏は、論客としてテレビ番組に出演して、中華人民共和国に対してどうすべきかという現在の日本の大きな問題について語っている人である。

     百田尚樹氏に聞かれようが聞かれまいが、そのことについて日本国民に説明しなくてはならない。説明しないならば、国家の戦略についての考えを説明することができない、そのくらいの論客だということになる。

     それとも「繋がりを持っておくことこそが外交安全保障の基礎や」というので説明できたと思っているのであろうか? 1ツイートで説明できるくらいのことだと思っているのであろうか?