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  • 【映画】「兄貴の恋人」(1968年) 若大将と内藤洋子

    【映画】「兄貴の恋人」(1968年) 若大将と内藤洋子

     「兄貴の恋人」は1968年9月7日に公開された映画。

     「兄貴」(加山雄三)とその「恋人」との関係に心が揺れる妹(内藤洋子)を描いた作品。

     2010年5月28日に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売されている。


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     この映画では、妹の兄に対する想いが描かれている。

     いつも兄にべたべたしているのではなく、「不潔」などと言っている。

     しかし兄に対する想いは強い。

     朝の満員電車で、揺れて兄の胸に抱かれるかたちになったところで、兄に髪を撫でられている時の表情は特徴的。

     予告編ではここに「私の恋人は兄貴/誰にも渡したくない」という文字が出て来る。

     兄に対してそれだけの想いを持っているので、兄と他の女性との関係が気になるのである。

     兄はすでに会社員。見合いなど、他の女性との結婚を周りから言われている。

     妹はまだ学生。子どもから大人になる途中である。

     その、子どもから大人になる途中が見どころ。

     小津安二郎監督の「晩春」は父と娘の関係は、「兄貴の恋人」の兄と妹の関係と似たところがある。


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     小津安二郎監督は、父と娘の関係を掘り下げたが、「兄貴の恋人」は兄と妹の関係を掘り下げたということができるかもしれない。

    内藤洋子

     映画「兄貴の恋人」で主役の「妹」を演じているのは内藤洋子。

     兄(加山雄三)から「デコすけ」と言われているように、おでこを出しているのが特徴。

     おでこ、頬など丸みを帯びた感じが、「妹」に合っている。―子どもから大人になる途中ということに合っている。

     長く艶やかな黒髪など、上品な感じはお嬢様の役に合っている。

     内藤洋子は映画デビューが「赤ひげ」(1965年)。「赤ひげ」ですでに加山雄三の相手役をやっている。


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     映画「お嫁においで」(1966年)では、加山雄三の妹役。

     「お嫁においで」では、「兄貴の恋人」のような兄に対する複雑な気持ちなどなかった。


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     加山雄三と内藤洋子は、実生活において親戚になっている。

     加山雄三著「若大将の履歴書」で、映画「赤ひげ」の結婚相手のまさえに内藤洋子が選ばれるところで次のように語られている。

    ~まさえの役を射止めたのはやがてアイドルスターになる新人の内藤洋子だった。「赤ひげ」でデビューし、映画「お嫁においで」や「兄貴の恋人」などで僕と共演した後、僕の従弟でランチャーズの喜多嶋修と結婚して喜多嶋洋子となった。つまり今では僕の親戚なのである。

    「若大将の履歴書」、163頁

    若大将の履歴書

     その長女が喜多嶋舞である。

     そうして時は流れても、映像では子どもから大人になる途中の姿を見ることができる。

    https://cinema.ne.jp/article/detail/37509

    http://www.ak-hb.jp/yokokitajima.html

    主人公の家

     主人公の兄妹は、両親の家で暮らしている。

     父は宮口精二、母は沢村貞子で、貧乏ではないが倦怠感のある夫婦を演じている。

     兄妹は、阿佐ヶ谷駅から中央線に乗って通勤通学している。そして新宿で別れて、兄はそのまま中央線、妹は山手線。

    鉄平の会社

     兄鉄平(加山雄三)の勤める会社には、和子という女性(酒井和歌子)がいて、親しくしていた。

     その会社は銀座にあるようである。

     和子は鉄平に思いを寄せていたが、会社を辞めて叔父のスナックで働くことになった。

    川崎のスナック

     和子(酒井和歌子)が働くことになった川崎の叔父のスナックは、ポルノ映画のポスターが貼られているようなところにあって、客層も下品。

     「伊勢佐木町ブルース」が流れている。


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     青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」が発売されたのは1968年1月5日。「兄貴の恋人」と同じ年である。

     同じ年の12月7日には、東映の映画「夜の歌謡シリーズ 伊勢佐木町ブルース」が公開されている。―梅宮辰夫がオープン屋で、農家の金持ち(伴淳三郎)を手玉に取るが、しっぺ返しを食らうという話。青江三奈は、歌うところだけ出ている。


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     銀座の会社員の生活と、川崎のやくざの生活とが対比されている。―東宝の若大将と東映の任侠映画の対比

     酒井和歌子の上品な姿と、下品な背景との対比。

     酒井和歌子のやくざな兄の役を「若大将」シリーズのマネージャー役の江原達怡がやっているのも面白い。

    新宿のバー

     新宿には、鉄平(加山雄三)が夜しばしば訪れるバーがある。

     そのバーのママ(白川由美)も、鉄平に思いを寄せている。

    様々な女性

     この映画で加山雄三の演ずる人物は様々な女性から思いを寄せられている。

     妹(内藤洋子)、職場の同僚(酒井和歌子)、バーのママ(白井由美)については既に書いた。

     その他にも、職場の同僚(岡田可愛)、街でたまたま救った女性(豊浦美子)、会社の専務の令嬢(中山麻理)…

     妹は「私の恋人は兄貴/誰にも渡したくない」と思っていたのに、これだけの女性が兄に思いを寄せていたわけである。

     この映画では、様々な女性を魅力的な恋愛対象として描くかたちになっているということもできる。

     加山雄三の演ずる人物に思いを寄せない女性で、悠木千帆、後の樹木希林が出ている。

    「若大将」シリーズとの関係

     「兄貴の恋人」が公開されたのは、「若大将」シリーズで言うと、「リオの若大将」(1968年7月13日公開)と「フレッシュマン若大将」(1969年1月1日公開)の間。

     「若大将」シリーズについては↓

    加山雄三

     「若大将」シリーズでは「フレッシュマン若大将」で若大将は就職する。

     「兄貴の恋人」ではその前に加山雄三は社会人の役になっている。(それより前の1966年公開の「お嫁においで」ですでに社会人の役になっている)

    酒井和歌子

     「兄貴の恋人」のヒロイン酒井和歌子は、「兄貴の恋人」の後の「フレッシュマン若大将」から「若大将」シリーズのヒロインになっている。

    内藤洋子

     「兄貴の恋人」の主役というべき内藤洋子は「若大将」シリーズに出ていない。

     「若大将」シリーズにはすでに妹輝子(中真千子)がいるからであろうか?

    「お嫁においで」との比較

     1966年11月20日に公開された映画「お嫁においで」は、「兄貴の恋人」と同じく2010年に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売された映画であるが、色々と「兄貴の恋人」と似たところがある。その似たところと、違うところとを明らかにすることによって、それぞれを明らかにしてみよう。

     「お嫁においで」について↓

    似たところ

     加山雄三の演ずる主人公は、どちらの映画でも、いいところの会社員。

     ヒロインは、どちらの映画でも、それより低い環境の人。そばには同じような環境でヒロインに好意を寄せる男がいる。

     内藤洋子の演ずる妹は、どちらの映画でも、兄のためにはたらく。

    違うところ

    結末

     結末が違う。

    ・「お嫁においで」では、ヒロインは主人公を振った。

    ・「兄貴の恋人」では、ヒロインは主人公を受け入れる。

    結末が違う理由
    ヒロインの設定

    ・「お嫁においで」のヒロインは、もともと加山雄三の演ずる人物が好きであったのではない。むしろ批判的であった。

    ・「兄貴の恋人」のヒロインは、もともと加山雄三の演ずる人物が好きであった。

    ・「お嫁においで」では、金持ちの世界に住む主人公と、貧しい世界に住むヒロインとの間に、世界が違うという壁があった。最終的にヒロインはその壁を主体的にとらえなおすのであるが、そのことによってヒロインは主人公を振るのである。

    ・「兄貴の恋人」では、主人公とヒロインとは、違う世界の住人ではない。ヒロインは、映画のはじめには主人公と同じ世界の住人だったのである。「お嫁においで」ほど主人公が金持ちの家に生まれたということは強調されていない。「兄貴の恋人」の壁は、ヒロインの家族にあって、ヒロイン自身にあることではない。それゆえにヒロインが決断することによって主人公と結ばれることができた。

     「兄貴の恋人」は、「お嫁においで」に対して、ヒロインが殻を破るところを描いている、ということができるかもしれない。

     「お嫁においで」からいうと、「兄貴の恋人」に対して、ヒロインの主体性を重んじた、ということができるかもしれない。

    ヒロインの近くにいる男

    ・「お嫁においで」では、ヒロインの近くにいる男(黒沢年男)がヒロインを愛していることが時間をかけて描かれていた。

    ・「兄貴の恋人」では、ヒロインの近くにいる男(清水綋治)のヒロインに対する思いはそれほど描かれていない。ヒロインの兄によって傷つけられて、就職に苦労したという経歴があって、そのことは引け目になることであった。ところが、加山雄三の演ずる人物がその男の代わりに殴られてアメリカ行きをふいにしたことによって、引け目はなくなった。

    加山雄三

    「お嫁においで」

     「お嫁においで」で加山雄三が演じた人物は、造船所の設計技師で、祖父、親の会社で働いている。そういうところは「兄貴の恋人」より「若大将」シリーズに近い。ただしそういう要素は、ヒロインとの関係でマイナスに働くこととして描かれている。「お嫁においで」は、そういうヒロインを中心とした映画である。そういうところは「若大将」シリーズから離れるところである。

     加山雄三が演じた人物は、はじめにヒロインに惚れ込んでから終盤まで一途であった。

    「兄貴の恋人」

     「兄貴の恋人」で加山雄三が演じた人物は、「お嫁においで」ほど金持ちではない。

     女にもてる男である。見合いには乗り気でなく、うまくいかないが、多くの女性に愛され、中途半端な関係になったりしている。

     女にもてるところは、「お嫁においで」より「若大将」シリーズに近いと思う。様々な美女が主人公に対して好意を抱くところを表現しているのである。―「お嫁においで」においては、主人公がヒロインに対して好意を抱いているのであって、ヒロインの方はそれほどではなかった。

     「兄貴の恋人」の主人公は、中盤までヒロイン(酒井和歌子)に対して特に好きということはない。しかし中盤に好きと自覚してからは、一途になる。

    内藤洋子

     内藤洋子演ずる妹は、「お嫁においで」においては、加山雄三の演ずる兄の側にいて、兄がヒロインと結ばれるために働く可愛い妹に過ぎなかった。

     「お嫁においで」の中心は、加山雄三の演ずる人物ではなく、ヒロイン(沢井桂子)であった。内藤洋子演ずる妹は、さらに中心から離れた存在であった。

     「兄貴の恋人」は、題名でも明らかなように、内藤洋子演ずる妹が作品の中心になっている。

  • 【映画】「お嫁においで」(1966年) 「若大将」シリーズに近い映画

    【映画】「お嫁においで」(1966年) 「若大将」シリーズに近い映画

     1966年11月20日に公開された映画「お嫁においで」は、加山雄三が「若大将」シリーズの間に出演した映画である。

     私は「若大将」シリーズに関心があってこの映画を観たのであるが、色々と「若大将」シリーズと似ているところがある。違うところもある。(敬称略)

    楽曲

     映画「お嫁においで」は、弾厚作(加山雄三)作曲の「お嫁においで」という楽曲(1966年6月15日発売)をもとにして作られたものである。

     パンフレットには「加山雄三のヒット曲のなかからはじめて映画化された」とある。

     「お嫁においで」という楽曲は、加山雄三の楽曲の中でも特に有名なものである。

    「若大将」シリーズとの関係

     映画「お嫁においで」が公開されたのは、「若大将」シリーズでは、「アルプスの若大将」(1966年5月28日公開)、「歌う若大将」(1966年9月10日公開)と「レッツゴー!若大将」(1967年1月1日公開)の間である。

     「若大将」シリーズが盛り上がっている時に、その勢いによって作られた映画と思われる。

     「若大将」シリーズと同じように、加山雄三演ずる人物の恋愛が作品の中心となっている。

     「お嫁においで」では、加山雄三は社会人を演じている。「若大将」シリーズで、加山雄三演ずる田沼雄一が社会人になるのは「フレッシュマン若大将」(1969年1月1日公開)からである。

     「若大将」シリーズで主人公の父役の有島一郎が「お嫁においで」ではホテルの支配人、主人公の祖母役の飯田蝶子がそのホテルに来る担ぎ屋のおばさんを演じていて、二人が言い合う場面があるが、「若大将」シリーズに似た感じがある。

     全体的にコミカルな感じは「若大将」シリーズに似ている。

     ただし「若大将」シリーズと違う感じのところもある。私はそのことが気になった。

    あらすじ

    Paul BrennanによるPixabayからの画像

     主人公はホテルのレストランのウェイトレス露木昌子(沢井桂子)。

     露木昌子(沢井桂子)は、造船所の設計技師須山保(加山雄三)と出会う。須山保は、造船所の会長の孫、社長の子である。須山保は露木昌子に惚れ込む。それに対して、保の父(笠間雪雄)、母(村田知榮子)は、保が釣り合った相手と結婚すべきだと考えていて、露木昌子は保と釣り合わないと言って反対する。妹(内藤洋子)は保を助けようとする。祖父(笠智衆)もはじめは釣り合わないと言って反対していたが、保を助けようとする。

     露木昌子(沢井桂子)は同時に、病気の友達(田村亮)の兄(黒沢年男)と親しくなる。

     主人公は、金持ち(加山雄三)に思いを寄せられると同時に、粗野なタクシー運転手(黒沢年男)に思いを寄せられて、どちらを選ぶか、という話になる。

     主人公自身は貧しい庶民であって、金持ちに対して批判的な考えを持っていた。

     ところが主人公は、須山保(加山雄三)と付き合っているうちに、金持ちの幸福をも知る。(48分あたり、ヨットで加山雄三が歌を歌い、主人公はそれを聞く、二人が水着姿で浜辺で抱き合うイメージ)

     しかし結局露木昌子(沢井桂子)は、須山保(加山雄三)に対して、シンデレラになりたくないからと断って、野呂高生(黒沢年男)を選ぶ。

    主人公

     映画「お嫁においで」は、加山雄三の楽曲をタイトルにした映画であって、劇中で加山雄三がその楽曲を歌っている。クレジット順では第一が加山雄三である。加山雄三の演ずる須山保が主人公であるように見える。

     ところが実際には、この映画の主人公は露木昌子(沢井桂子)である。この映画は、露木昌子(沢井桂子)から始まる。露木昌子(沢井桂子)の気持ちが、映画の中心になっている。

     これは奇妙なことではないか?

     「若大将」シリーズの勢いによって作られたと思われる映画で、何故に加山雄三を主人公にしないのか?

    パンフレット

     「お嫁においで」のパンフレットを見ると、次のように書いてあった。

    いままでの加山の役はほとんどが結ばれなくともハッピーエンドで終っているが、この作品では恋人の沢井を黒沢に奪われ、ヨットで失恋の旅に出るというもの。
     これも「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮からなったもので、「君といつまでも」「夜空の星」などで爆発的人気を呼んでいるだけにファンを大切にというわけ。

    東宝「お嫁においで」パンフレット

     加山雄三の演ずる人物が失恋することについて、「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮から、と説明しているのである。

     我らの問題は、何故に加山雄三の演ずる人物が失恋するのか、ということではなくて、何故に加山雄三の演ずる人物が主人公でないのか、ということであった。その説明では答えにならない。

     それはそれとして、「加山を結婚させたらファンにしかられるから」という配慮から失恋させることにした、ということもよくわからない。

     「お嫁においで」というタイトルであるから、最後に失恋しないかぎり、結婚せざるをえない、ということであろうか? そういうことで「ファンにしかられる」のであろうか?

    思想

     映画「お嫁においで」は、露木昌子(沢井桂子)の気持ちを中心としている。露木昌子(沢井桂子)の思想を中心としている。

     露木昌子(沢井桂子)は、自身貧しい庶民として、金持ちに対して批判的である。貧富の差について「世の中間違えている」と語っている。(38分)主人公の同僚は「革命が必要」と言っている。(31分)ただし主人公も同僚も革命を実際に企てているのではない。

     露木昌子(沢井桂子)は須山保(加山雄三)と付き合って金持ちの幸福を知る。須山保(加山雄三)も、「職業に貴賎なし」と言って主人公にほれ込む人である。

     しかし結局、露木昌子(沢井桂子)はシンデレラになりたくないからと、結婚を断った。

     映画「お嫁においで」においては、金持ちと庶民とが分けられている。主人公の勤めるホテルは、庶民が従業員として金持ちと出会う場所である。

     加山雄三の演ずる人物は、金持ちの側の人である。若大将より金持ちであることが強調されているが、豊かな家に生まれたこと、船を造っていることなど、若大将と同じように加山雄三自身に近いと思われるキャラクターである。

     「お嫁においで」は、その加山雄三の演ずる人物に対して、それと異なる主人公たちの貧しい庶民の生活を中心として、加山雄三の演ずる人物と結ばれることを選ばない、という作品である。

     いわば「若大将」シリーズと対立する思想を持っているということができるのではないか?

     パンフレットに「従来の”若大将”ものとは違った、題名は曲名そのままでも内容的には脚本を特に松山善三氏に依頼、その意欲がうかがわれる」とある。

     特に松山善三によって、映画「お嫁においで」に「若大将」シリーズと違う思想が持ち込まれたようである。

    その他のこと

    本多猪四郎監督

     映画「お嫁においで」の監督は本多猪四郎である。怪獣映画の間にこの映画を監督している。(「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」と「キングコングの逆襲」の間)

     パンフレットには「加山以上にうれしがっているのが、本多猪四郎監督」とある。

    なにしろ本多監督といえば怪獣ものの専門監督、恋愛ものを手がけるのは、「真紅の男」いらい五年振りというからよろこびようもわかる。「若い連中に囲まれて、仕事をするのは久しぶりだが、僕も若い気分になって楽しい作品を作りたい。加山君の魅力をじゅうぶん出しますよ」と張り切っている。

    東宝「お嫁においで」パンフレット

     「真紅の男」とは、1961年9月12日に公開された映画である。

    オーディオコメンタリー

     「若大将」シリーズの「海の若大将」のDVDのオーディオコメンタリーで沢井桂子が「お嫁においで」について語っているところがある。

     最後に露木昌子(沢井桂子)が須山保(加山雄三)をふるところについて、みんなにもったいないと言われたと言っている。

    「兄貴の恋人」

     映画「お嫁においで」の二年後に作られた映画「兄貴の恋人」は、2010年に加山雄三デビュー50周年記念でDVDが発売された作品であって、同じく加山雄三主演で、設定に似たところがあって、それぞれの違うところを考えると、それぞれの作品がよりよくわかる。

     「兄貴の恋人」について↓

    小津安二郎

     映画「お嫁においで」の24分あたりで、ヒロインたちが家から土手にいる笠智衆を見るところがある。そこで私は小津安二郎作品を思い出した。

     「東京物語」で、東山千栄子演ずる祖母が孫と土手で遊ぶのを家から見るところ。(29分)

     「お早よう」で、住宅地から土手を見るところ。(2分)

     手前に住宅地、奥に土手があるという構図が似ているのである。

     笠智衆は小津安二郎作品に多く出ている俳優である。それゆえに「お嫁においで」に出演している笠智衆を見て、小津安二郎作品が思い出される。「東京物語」では、笠智衆が土手を家から見る役になっていた。

  • 町山智浩氏の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論について

    町山智浩氏の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論について

     町山智浩氏の著書「最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)」(2016年、集英社)に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論が収められている。

     私はたまたまAMAZONの長いレビューが町山氏の議論を批判しているのをみた。

     そこで町山氏の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」論を読んでみた。

     読んでみると、町山氏のイデオロギー批評の問題となるところが出ていた。


    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)

    町山智浩氏の主張

    Photo by mentatdgt from Pexels

     まず町山智浩氏の主張をまとめる。

    歴史のねじ曲げ

     町山智浩氏は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は同じロバート・ゼメキス監督の「フォレスト・ガンプ」とともに「ねじ曲がったアメリカの戦後史を形成している」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、210頁)

     この2作品は「歴史の歪曲と捏造と虚偽に満ちている」という。(同、211頁)

    白人の気持ち

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」冒頭の主人公とその家族の「惨めな現実」は、「当時のアメリカ白人の気持ちを代弁している」と町山氏は語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、212頁)

     当時のアメリカ白人には、他の人種によって脅かされているという気持ちがあって、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそういう気持ちを代弁しているというのである。

    歴史との関係

     町山智浩氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と歴史との関係について次のように論じている。

     「アメリカン・ドリームが崩れた60年代に、アメリカン・ドリームをスクリーンで見せてきたハリウッド映画も観客を失った」

     そこで「経営難に陥った映画会社は70年代に入ると若い監督を起用して、セックス、ドラッグ、ロックンロール、バイオレンス、それに反体制的メッセージを盛り込んだ映画で若者を劇場に取り戻そうとした」

     それに対して「70年代末、スティーヴン・スピルバーグとジョージ・ルーカスの『JAWS/ジョーズ』(75年)、『スター・ウォーズ』(77年)、『未知との遭遇』(77年)は、セックスやドラッグを排し、現実ではなくSFXで作られた、明るく楽しい家族向けの娯楽を提供した。」

     80年代にロナルド・レーガンは「50年代の古き良きアメリカ、強いアメリカ、豊かなアメリカ、神を愛し、家族を愛するアメリカの復活を掲げて選挙に圧勝した」

     その時に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は「50年代の古き良きアメリカをスクリーンに蘇らせる」映画としてスピルバーグがプロデュースした作品である。(以上、最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、213~214頁)

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はレーガン政権と同じような歴史的な意義をもっていると町山智浩氏は語る。

    人種差別

     町山智浩氏によると、60年代以後、アメリカの伝統的な文化に対抗した文化は、人種差別に反対した文化であった。

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、そういう文化に反対するものと町山智浩氏は語る。そして人種差別に反対する運動に反対するものと語る。

    検討

    Michaił NowaによるPixabayからの画像

     町山氏の主張を一つ一つ検討してみよう。

    主人公の惨めな現実

     町山氏は、冒頭の主人公とその家族の惨めな現実は、「当時のアメリカ白人の気持ちを代弁している」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、212頁)

     2010年に行われたスティーブン・スピルバーグ(製作総指揮)、ロバート・ゼメキス(監督・脚本)、ボブ・ゲイル(製作・脚本)の3人による鼎談で映画の主人公の設定について、ボブ・ゲイルが次のように語っていることは、そのことと関係がある。

    はじめ彼は何もうまくいかず、人生に打ちひしがれていて、自殺まで考えているようなキャラだったんだ。
    (中略)
    そこで意見が一致した。「主人公が自殺したがっている設定だなんて、絶対に間違ってるぞ」と。

    スティーブン・スピルバーグ論」、フィルムアート社、2013年、104頁

    スティーブン・スピルバーグ論

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公は「何もうまくいかず、人生に打ちひしがれていて、自殺まで考えているようなキャラ」と考えられていた。

     ところが作り手はその考えを変えた。

     その結果として、主人公とその家族の「惨めな現実」は深刻に描かれていない。

    主役

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の作り手は、マイケル・J・フォックスを主役と考えていたが、他の番組のために断られたので、エリック・シュトルツを主役として撮影を始めた。しかし結局マイケル・J・フォックスを主役とした。

     なぜそこまでしてマイケル・J・フォックスを主役としたかったのか? 町山氏は当時マイケル・J・フォックスが「ファミリー・タイズ」(=家族の絆)というテレビコメディで人気スターになっていたことを指摘する。

     そのテレビコメディでマイケル・J・フォックスは、「60~70年代のカウンター・カルチャーの中で青春を送った元ヒッピー」の両親に対して、「80年代の新保守主義、レーガン大統領を支持した層を代表している」人物を演じていたというのである。( 最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル) 、222~223頁)

     しかしロバート・ゼメキス監督が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主役を「80年代の新保守主義、レーガン大統領を支持した層を代表している」人物にしたかったとしても、そのためにそういう役を演じていたマイケル・J・フォックスをどうしても起用したいということになるであろうか?

     ロバート・ゼメキス監督は、何故にエリック・シュトルツではいけないと考えたかについて、明らかにしている。―「彼のコメディ感覚が、ぼくがこの映画で思い描いていたものと違っていたということだ」というのである。(「スティーブン・スピルバーグ論」、108頁)


    スティーブン・スピルバーグ論

     ブルーレイの特典映像にエリック・シュトルツが主役を演じている映像が収められている。断片的なものであるが、タイムトラベルの衝撃を深刻に受け止める演技のように見える。マイケル・J・フォックスの明るいコミカルな演技と比べて暗いように見える。

     マイケル・J・フォックスの「コメディ感覚」こそロバート・ゼメキス監督が「この映画で思い描いていたもの」だったということではないか?

    レーガン政権との関係

     はじめに挙げたAMAZONのレビューは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にレーガン政権の思想があるという町山氏の主張に反対している。

     私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」には、同時代のレーガン政権と共通するところがあると思う。

     レーガン政権も「バック・トゥ・ザ・フューチャー」も、それ以前の「若者文化」による家族の解体に対して家族の再生を主題としているという町山氏の指摘には正しいところがあると思う。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、221~222頁)

     「俺たちに明日はない」とか「イージーライダー」のような社会からはみ出した人が殺されるという暗い話に対して、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は明るい話である。

     勿論、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がレーガン政権の思想を体現しているというのではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はレーガン政権から独立した娯楽作品である。

     ましてや「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に町山氏が言うような白人の黒人や日本人に対する差別的な気持ちが描かれているとは思えない。

    理由なき反抗

     私は今度「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見返して、「理由なき反抗 Rebel Without a Cause」をもとにして作られたところがあるのではないかと思った。

     「理由なき反抗」は、まさに1955年に制作され、公開された映画である。

     ロバート・ゼメキス監督は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で1955年を舞台にすることを考えた時に、「理由なき反抗」のことを考えたのではないか。

     「理由なき反抗」は、主人公の若者が、「親たちに反抗」するところを描いた作品である。まさに「若者文化」を代表する作品である。

     「理由なき反抗」において「父親の権威は失墜」している。主人公が、エプロン姿の父親を見て笑うところは特徴的である。

     「理由なき反抗」では、主人公は、同級生の不良集団と対立する。そのことも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公が不良集団と対立することと似ている。不良集団がオープンカーに乗っているところ、服装なども似ている。

     主人公が「チキン」と言われると興奮するところも同じである。


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    50年代の位置づけ

     町山智浩氏が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を「50年代の古き良きアメリカをスクリーンに蘇らせる」作品と語ることには疑問がある。

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、60年代から70年代にかけてのアメリカン・ニューシネマなどと言われる暗い映画に対して、50年代以前のアメリカ映画と同じように明るい映画に帰ったものということはできる。

     しかし「バック・トゥ・ザ・フューチャー」には、特に50年代をよしとする思想はない。

    発端

     脚本を担当したボブ・ゲイルは、自分の父の卒業アルバムを見て「自分がもし親父と同級生だったら、友だちにはなれそうにないな」と考えたことがこの映画の発端だったと語っている。(「スティーブン・スピルバーグ論」、103頁)


    スティーブン・スピルバーグ論

     「自分がもし親父と同級生だったら」という発想は、50年代をよしとする思想とは異なるものである。

     映画の中でも50年代が特にいいとされていないようである。

    主人公

     主人公は50年代を変わった世界として見ている。特にいい世界として見ていない。

     町山智浩氏は次のように書いている。

    マーティは、パステルカラーに彩られた美しいダウンタウンに圧倒される。聴こえてくるのはコーデッツの54年のヒット曲「ミスター・サンドマン」。眠りの砂を撒く妖精のことを歌っているが、マーティも夢心地だ。
     マーティは荒れ果てたダウンタウンしか見たことがなかった。

    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、214頁

    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)

     町山氏は私と違う映像を見ているのであろうか?

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主人公は、1985年の文化に生きている人物である。スケボーで移動し、バンドでヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの楽曲を演奏している。

    hueylewisofficial
    Huey Lewis & The News – The Power Of Love (Official Video)

     もともと1950年代の文化に対して特別な思い入れはない。1950年代に行きたくて行ったのではない。1950年代の文化に対する愛着から1950年代にとどまっていたいということもない。

    若者文化

     ロバート・ゼメキス監督は1955年を舞台とした理由の一つとして若者文化が誕生した年であることを挙げている。

     1955年には「理由なき反抗」とか、ロックンロールとかがあった。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそういう文化をとりいれている。

     そこで問題は複雑になっている。

     町山智浩氏は「50年代に生まれた若者文化は60年代の若者革命の起爆剤となり、アメリカン・ドリームを解体していく」と語っている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、217頁)

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、1950年代に行くことによって、「若者革命」が出て来る前に帰るのではなく、「若者革命」の出て来るもとの「若者文化」のところに行くのである。

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は、「若者文化」以後の流れにある作品である。

    歴史

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の歴史的意義について考える。

    母親

     町山智浩氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にとりいれられた「若者文化」について、なぜか第一に主人公の母親の男性に対する態度に認めている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、217頁)

     たしかにそういう描き方は、「若者文化」以後のものと思われる。

     たとえば「若草の頃 Meet me in St.Louis 」(1944年)は、「若者文化」以前に古き良きアメリカの家族を描いた作品で売れたものであるが、主人公の少女の男性に対する恋愛感情は上品に描かれている。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の母親のように露骨ではない。


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     そういう意味でも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はそれほど過去に回帰している作品ではないということができる。

     しかしまた、ロバート・ゼメキス監督がまわりの露骨な映画に比べて甘いと言われたと語っているように、それらの作品に比べて過去に近くなっていたということもできる。

    父親

     町山智浩氏は60年代からの「カウンター・カルチャー」を「父親殺し」として、それに対して「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は「父”生かし”」の物語であるという。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、220頁)

     たしかに主人公の父親は、はじめ頼りないが、主人公が過去に行って帰ってきたときには頼れる存在になっている。

     ただし「若者文化」以前の家族に帰ったのではなく、あくまでも若者が主人公の「若者文化」になっているということができる。

    人種差別

     町山氏が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を人種差別と関係づけていることについて考えよう。

    ロックンロール

     「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では、劇中の歴史改変によって、「ジョニー・B・グッド」の作者はチャック・ベリーではなく、この映画の主人公になってしまう。

     ロバート・ゼメキス監督は「ただのジョーク」のつもりであったが、「白人による、黒人の功績の横取りだと叩かれた」という。

     そのことについて町山氏は、「確かにジョークには違いない。しかし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』における黒人の描き方を見ると、軽いジョークとは言い切れなくなる」と言っている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、225頁)

     しかしロバート・ゼメキス監督の考えは、「ただのジョーク」のつもりであって、「白人による、黒人の功績の横取り」ではなかったと自ら語る通りである。

    黒人の地位

     町山氏は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で、1955年に食堂で掃除をしていた黒人男性が、1985年に市長になっていたという話をとりあげて、黒人の地位の歴史について次のように語っている。

    60~70年代は黒人にとって南北戦争と並ぶ解放と地位向上の時代だったのだが、『バック・トゥ~』では、マクフライ家が没落した時代として否定的に扱われている。マクフライ家が、レーガン大統領とその支持者が「あの頃はよかった」と言う50年代は黒人にとって暗黒の時代だった。けっして帰りたいなどとは願わないだろう。

    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、226~227頁

    最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)

     色々と気になるところがある。

     まず「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で60~70年代は「マクフライ家が没落した時代」であるかもしれないが、そのことは黒人の地位向上と関係ないのではないか?

     黒人が解放され地位向上したゆえにマクフライ家が没落したのではない。

     マクフライ家には、黒人の地位が低かった時代を「あの頃はよかった」という思想はない。

     主人公の母は過去を懐かしんでいるが、そのことは黒人の地位と関係ない。

     主人公は50年代を「よかった」と思っていない。

     1955年に食堂で掃除をしていた黒人男性が、1985年に市長になっていたという話はむしろ黒人の地位が向上した80年代をよしとしているように見える。

    白人の没落

     町山氏は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作は、「猿の惑星」と同じく「白人の没落を裏テーマにしている」という。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、227頁)

     しかし「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作のどれも、「白人の没落」をテーマとしているように見えない。

     第1作に関しては、すでに言ったように、「マクフライ家の没落」も、それに対する歴史改変も、黒人の地位向上と関係なく、「白人の没落」とも関係ない。


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     町山氏は「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズでアメリカを乗っ取るのは、日本だ。」と書いている。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、228頁)

     しかし第1作で主人公は日本製品をよろこんでいる。日本製品は「白人の没落」という意味で扱われていないのである。

     第2作で未来の主人公は、日本人社長にぺこぺこした挙句クビにされてしまうが、そのことは作品の主題というほどのこととは思えない。


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     町山氏は「「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズは一貫して、黒人や日本人を白人文化の破壊者として描いている」と語る。(最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル)、230頁)

     しかしそういうところは見当たらない。どこのことを言っているのであろうか?

     第3作で主人公が1885年の西部劇の世界に行くことについて、町山氏は、「アメリカの凋落は、もはや50年代の保守主義をもってしても救いようがない、ということなのか」とか、「アジア人がおとなしかった古き良き時代に見えるだろう」とか言っている。( 最も危険なアメリカ映画 『國民の創世』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで(集英社インターナショナル) 、230、231頁)


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     アジア人による抑圧に対して白人が満足するためには、1950年代では不十分で、西部劇の世界でなくてはならない、ということだろうか?

     しかしあの西部劇を見て、「アジア人がおとなしかった古き良き時代に見える」などという人は少ないのではないか? そのことは作品の主題から離れたことではないか?

     第3作の最後に主人公が「銃を撃つことなく勝利を収める」ことを、町山氏は、「結局、アメリカは経済と軍事のライバルたちに、一発の銃弾を撃つこともなく勝利した」ことと関係づけている。(同、231頁)

     しかし第三作の主人公の相手が、当時のアメリカの「経済と軍事のライバルたち」、日本とかソ連とかをあらわすものとして描かれているとは思えない。


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