月: 2020年12月

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」のシリーズ構成 鮎川まどかというキャラクター

    「きまぐれオレンジ☆ロード」のシリーズ構成 鮎川まどかというキャラクター

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズのシリーズ構成は、原作と大きく違うものになっている。

     そのことと関連して、この作品のヒロイン、鮎川まどかの性格も、大きく違うものになっている。

     両者を比較して、それぞれを明らかにしてみよう。

    テレビシリーズの構造

     まず「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズのシリーズ構成について。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの大きな流れは、小黒祐一郎氏が次の記事でまとめている通りだと思う。

    http://style.fm/as/05_column/365/365_369.shtml

     TVシリーズは、第5話での鮎川まどかの発言を「まどかを描くキー」とする。第7話、第19話でその発言をもとにして話を進めて、小黒氏の言うように、「19話で終わっていた」というかたちになっている。

    テレビシリーズ第5話

     春日恭介は、たまたま入った店で鮎川まどかがアルバイトしているところに出会って、自身もその店でアルバイトすることになった。

     アルバイトの最終日、打ち上げでアルコールを飲んだ後、二人はバス停に来たが、すでにバスはなくなっていた。

     そこで鮎川まどかは春日恭介に「今晩泊めてくれない?」と言った。

     そこに迎えが来て、二人は別れた。

    テレビシリーズ第7話

     春日恭介は鮎川まどかと二人で夜の街へ行って酒を飲んだ。その帰りに、春日恭介は鮎川まどかにキスをしようとして、怒りを買ってしまう。

     次の日、春日恭介は鮎川まどかに、謝罪しようとするが、鮎川まどかから「私も同じ」と言われる。

    「お酒飲むのってよくないね。あたしだってバイトの帰り、酔って春日くんに。やっぱりよくないと。」
    「でも、あの時一度だけよ。もっと不良だと思っていたんでしょ。」

    「きまぐれオレンジ☆ロード」テレビシリーズ第7話

     鮎川まどかは、第5話で自分が「今晩泊めてくれない?」と言ったことをもちだして、それは春日恭介が第7話で酔って鮎川まどかにキスをしようとしたことと「同じ」ことであって「やっぱりよくない」ことであったという。「不良」のするようなことだったという。

    テレビシリーズ第19話

     春日恭介、鮎川まどかの二人は、無人島に行って帰るすべがなくなった。

     日も暮れて、二人で火を囲んでいる時に、鮎川まどかは「アバカブで最初に、一緒にバイトした帰りのこと」を言い出す。そこで第5話の「今晩泊めてくれない?」というセリフが映像とともに出て来る。

     鮎川まどかはそのセリフについて「聞かなかったことにしてくれない?」という。「今を大切にしたいってそうおもってるんだ」というのである。

    テレビシリーズまとめ

     ここまでをまとめる。

     第5話において、鮎川まどかは春日恭介に対して、不良のやり方で、酔って「今晩泊めてくれない?」と言った。

     しかし、第7話で、鮎川まどかは、第5話の自分の言動は、不良のやり方であって「よくない」ことであったと反省した。

     そして、第19話で、春日恭介に対して、第5話の自分の言動を撤回して、「今を大切にしたい」と言った。

     「今を大切にしたい」という言葉の意味は必ずしもよくわからない。小黒氏は「普通の女の子として恋をしたいという意味とも解釈できる」と言っている。

     その直前に、春日恭介から渡された食いかけのりんごの食いかけのところにわざわざ口をあてて(春日恭介の「それは「間接キス」というやつなわけで・・・」という独白がある)、春日恭介に対して色目を使っているところを見ても、鮎川まどかはここで春日恭介に対して好意を示しているようである。

     鮎川まどかはここで、かつて不良のやり方で春日恭介に求愛したことを撤回して、不良のやり方とは違う「今」のやり方で春日恭介に好意を示そうとしているようである。

     小黒祐一郎氏はそこで次のように語っている。

    この時点で、まどかにとっての物語は7割くらい終わっている印象だ。彼女の恋愛準備段階はここで終了。この後、ひかるの存在がなく、恭介と交際を続ければ、あっという間にでき上がってしまいそうだ。

    「WEBアニメスタイル」「アニメ様365日」「第369回 『オレンジ☆ロード』のまどかの告白」

     それゆえに「19話で終わっていた」というのである。

     たしかに、恋愛物語としては、鮎川まどかはここで、春日恭介に対する好意を、不良のやり方ではないやり方で、明らかにしていて、それに対して春日恭介に反対の意思はないのであるから、相思相愛となる。

    原作の構造

     原作の話は、TVシリーズの話と大きく異なる。

     TVシリーズ第5話、第7話、第19話は、いずれも原作の話をもとにしているが、それぞれもとの話とは違うものになっている。

    TVシリーズ第5話

     TVシリーズ第5話は、原作の第8話「秘密のアルバイト」をもとにしている。

     鮎川まどかのアルバイトしている店で春日恭介もアルバイトして、最終日に打ち上げで飲んだ後に、バス停で鮎川まどかが「今晩…とめてくれない?」という。ここまでは同じ。

     しかし色々なところが違う。

     私はTVシリーズ第5話を初めて見た時、演出がまずいと思った。さらに言うと、演出がダサいと思った。

    ダサいところ

     原作では、二人が向き合って立っているところで、鮎川まどかが「今晩泊めてくれない?」と言って春日恭介にもたれかかってきたが、見ると眠っていた、ということになっている。

     TVシリーズでは、鮎川まどかは、春日恭介の横に座って、春日恭介に色目を使って「今晩泊めてくれない?」と言って、横に座っている春日恭介に抱き着いている。

     原作では、鮎川まどかがどういうつもりで「今晩…とめてくれない?」と言ったのか、春日恭介にも、読者にも、わからない。春日恭介に対して気があることを示しているのか、からかっているのか、疲れてしまっただけなのか、わからないのである。

     それに対してTVシリーズでは、鮎川まどかは春日恭介に色目を使っている。春日恭介を求める気持ちをあらわにしている。

     原作では、鮎川まどかは春日恭介に対して優位にあるのに、TVシリーズでは、劣位にある。

     中学生の女の子が同級生の男の子に対してすることとしては、おかしいとも思われる。

     TVシリーズの第7話、第19話では、鮎川まどかの第5話の言動は悪いこととされている。TVシリーズの作り手は、第5話の鮎川まどかをわざとダサくしたようである。

     私は数年前に「きまぐれオレンジ☆ロード」を久しぶりに読み返した時に、この、鮎川まどかが「今晩…とめてくれない?」というところは「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品を象徴するところだと思った。

     気があるのかないのかわからないところに、鮎川まどかというキャラクターの本質はある。「きまぐれオレンジ☆ロード」の「きまぐれ」ということはある。そう思ったのである。

     ところがTVシリーズの作り手は、それをなくしてしまったのである。

    TVシリーズ第7話

     TVシリーズ第7話は、原作の第12話「アルコールぶるうす」、第13話「ちぐはく気分」をもとにしている。

     すでに言ったように、TVシリーズ第7話は、鮎川まどかが第5話の自分の言動を反省することで終わっている。

     原作では、春日恭介が、酒によってしたことを謝罪し、鮎川まどかに対する気持ちを伝えて、鮎川まどかがそれをうけいれることで終わっている。

    成長

     原作は、春日恭介の成長物語であるが、TVシリーズは、鮎川まどかの成長物語になっている。

     原作では、春日恭介が自分のしたことについて鮎川まどかに謝罪し、釈明することによって成長して、決着はついた。

     それに対してTVシリーズでは、鮎川まどかは、第5話の自分の言動について反省することによって成長して、決着はついたことになっているのである。

     私は原作を先に読んだからか、TVシリーズの終わり方では、すっきりしない。

     TVシリーズの作り手は鮎川まどかの成長物語に作り替えたつもりでも、もとの話にあった春日恭介の成長物語の要素は残っていると思うからである。春日恭介は成長しなくてはならないのに、成長しないで終わったことになっていると思うからである。

     その上に、春日恭介は、成長すべきところで成長しなかったにもかかわらず、ヒロインの好意を受けることになっていると思う。

     第7話の前半でも、原作で、春日恭介が鮎川まどかのために戦ったことによって、鮎川まどかから好意を受けているところを、TVシリーズでは、春日恭介が「些細なことでむきになっちゃった自分がひどくがきんちょのようにおもえたわけであり、鮎川の振る舞いの方が・・・。恥ずかしいです」と卑下して、反省する、と変えている。

     TVシリーズでは、原作にあった春日恭介の成長がなくされて、逆に子供っぽいことをしたことにされているのである。そしてそれにもかかわらず、ヒロインはそういう主人公に好意を寄せることになっているのである。

     ついでにいうと、TVシリーズには、このように、主人公に原作の主人公の言動を否定させるところが他にもある。そのことによって筋が通るのであればいいが、逆に筋が通らなくなっているように見える。原作ファンにとって気持ちよくないところだと思う。

    TVシリーズ第19話

     原作の第21話「禁じられた恋の島」がもとになっている。

     二人で無人島に行って帰るすべがなくなるというところまでは同じ。

     ただし、TVシリーズ第19話で鮎川まどかが「聞かなかったことにしてくれない?」と言い、「今を大切にしたいってそうおもってるんだ」というところは、アニメで付け加えられたところであって、原作にはないことである。

     TVシリーズ第19話で、鮎川まどかは第5話で自分が「今晩泊めてくれない?」と言ったことについて説明している。私はそれをみて、びっくりした。

     私は、鮎川まどかの「今晩…とめてくれない?」と言う言葉は、真意がわからないことがいいと思っていた。鮎川まどかは、ミステリアスであることに魅力があるキャラクターだと思っていた。そのことに「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品の核心はあると思っていた。ところがTVシリーズでそれを鮎川まどか本人に説明させてしまった。「きまぐれオレンジ☆ロード」の核心をぶちこわすことだと思った。

     ついでにいうと、この話は、二人が無人島に来て、帰るすべがないという状況があっての話であるが、TVシリーズでは、その状況と、鮎川まどかが「今を大切にしたい」と言うこととは、ちぐはぐになっていないか?

    変わったところ

     これまでのところで、TVシリーズが原作を変えたことについてまとめよう。

    成長物語

     成長物語という観点から見ると、原作は主人公春日恭介の成長物語であるが、TVシリーズは鮎川まどかの成長物語になっている、ということができる。

     そのために鮎川まどかは、まず成長する前の状態にあるものとされた。かっこわるいものとされた。それが成長する話とされた。

     鮎川まどかの成長物語とするために、春日恭介の成長はなくされた。もともと春日恭介の成長物語であったのに、春日恭介の成長がなくされたので、作品がいびつになっているように見える。原作を先に読んだからであろうか?

     恋愛物語としてみると、春日恭介が成長しないのに、鮎川まどかの好意を受けるという話になっている。

    鮎川まどかというキャラクター

     鮎川まどかというキャラクターは、「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品にとって重要な存在であるが、TVシリーズは原作から大きく変えている。

    「ちょろイン」

     私は「ちょろイン」という言葉を聞いて、TVシリーズの鮎川まどかのようだと思った。

     「ちょろイン」とは、「ニコニコ大百科(仮)」によると、「登場時の高圧的な態度から一見、攻略難関と思ったら、意外とちょろかったヒロイン」のことである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ第1話で、鮎川まどかがこわい顔をして主人公を殴ったこと、第2話で、主人公は原作でやったことをやっていないのに甘くなってしまっているところなど、まさにその通りではないか?

     概要に「主にラノベやエロゲのアニメ版において、主人公のどういうところに惚れたのかよくわからないヒロインや、主人公の些細な行動で胸をときめかせるようなヒロインを指すことが多い。」とある。

     アニメ化において起こるといわれている。

     「ラノベゲーム原作とするアニメは尺の都合上、様々な描写が省かれる傾向にある。特に物語の導入部分を省かれることが多く、その中にヒロイン主人公に惚れる過程が含まれていることも少なくない。そういった場合にデレる切っ掛けのエピソードが極端に簡素化されたり、全く別のものに置き換えられたりすることでチョロインと化してしまうのである。」

    「ニコニコ大百科(仮)」の「ちょろイン」の項

     「尺の都合」によると説明している。「アニヲタWiki(仮)」でも同様である。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの場合、「尺の都合」というより、作り手の考えでそうなったのではないかと思われるところがある。

    「きまぐれ」

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、原作の鮎川まどかのミステリアスなところをなくしてしまっている。「きまぐれオレンジ☆ロード」の「きまぐれ」をなくしてしまっている。

     原作の核心を変えてしまったのである。

     これは原作ファンに反発されることだと私は思う。

     客観的に考えても、そのことによって原作のもっていた可能性が生かされなかったということができる。

     近年、「からかい上手の高木さん」という漫画が話題になった。漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」にはその「からかい」の要素があったのに、TVシリーズはその要素を生かさなかった。

     鮎川まどかの性格を変えたことによって、話が原作より大幅に早く終わることにもなった。

    終わり急ぐ

     小黒祐一郎氏が言うように、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは「19話で終わっていた」。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は、主人公春日恭介とヒロイン鮎川まどかとの関係を中心とする話である。

     TVシリーズのように、鮎川まどかが春日恭介に対して明確に好意を示してしまうと、春日恭介の側に反対の意思はないのであるから、相思相愛となる。すでに話の中心は終わっている。その後に話を広げることはできない。

     小黒氏は「シリーズ後半の方がバラエティに富んでおり、それはそれで面白かったのだが、作品としての進む方向を半ば見失ってしまっているように感じていた。」と語っているが、すでに「19話で終わっていた」からではないか?

     原作では、鮎川まどかは、最後の第156話で「Like or Love?」と聞かれて、「Like!/限りなくLoveに近い…ね!」と答えている。最後まで「Love」とは言わないのである。それゆえに長く続いたということもできる。

     TVシリーズは、鮎川まどかの性格を原作と違うものにしたことによって、原作より早く話が終わるようになっているのである。

     小黒氏はそのことに関して次のように語っている。

    恭介は、『タッチ』の達也のように彼女を甲子園に連れて行く必要もなければ、『めぞん一刻』の五代のように彼女に釣り合うような男になるために大学を卒業し、就職する必要もない。ラブコメの主人公がスポーツなどでステップアップしなくてはいけないわけではないが、『オレンジ☆ロード』では、3人の関係がほぼ固定されたままであり、しかも、主人公のステップアップのような物語を支えるものがない。そのため途中からは、物語的に足踏みを続けているような状況が続く事になった。

    「WEBアニメスタイル」「アニメ様365日」第368回 『オレンジ☆ロード』の三角関係

     小黒氏はそのことを「きまぐれオレンジ☆ロード」という作品の問題にしている。しかしTVシリーズによるところがあるのではないか?

     「タッチ」の、どういう試合があって、どういう結果になった、ということとか、「めぞん一刻」の、主人公が教育実習にいったり、保父の試験を受けたりとかいうことは、TVシリーズも従わざるを得ない。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの作り手にはそういう制約はない。作り手によって、シリーズ構成を伸ばすことも縮めることもできるのである。そういう状況でTVシリーズのスタッフは、原作より早く終わらせることにしたのである。

     まつもと泉氏は2014年の「MANGA姉っくす」において、日本テレビのプロデューサーから5年やろうと言われたと語っている。

     しかし「19話で終わっていた」というTVシリーズでは5年も続けることはできない。

     たしかに原作者は、プロデューサーが5年続けるというのに対して、TVシリーズの途中で原作漫画を終わらせてしまった。とはいっても、TVシリーズが始まる前に、原作は14巻、120話以上出ていた。それだけのストックがあった。

     プロデューサーが長く続けることを望んでいて、原作のストックは大量にあったにもかかわらず、寺田憲史氏は、何故に、第19話で決着がついてしまうようなシリーズ構成をしたのであろうか?

     原作の多くを生かさなくても、それを超える作品ができると思ったのであろうか? よく考えないで早く終わらせてしまったのであろうか?

    終わり方

     TVシリーズの第47・48話は、原作の第130話から第134話までをもとにしたものである。

     ただしTVシリーズはここでも原作を大きく変えている。

    決着

    ・原作は、春日恭介が6年前の世界に行って、6年前の鮎川まどかと出会って、現在に帰ってくる、という話である。

    ・TVシリーズでも、春日恭介は6年前の世界に行って、6年前の鮎川まどかと出会う。ところが原作と違って、現在の鮎川まどかが6年前の世界に来て、春日恭介が超能力者であることを知って、二人で抱き合う。そして現在に帰ってきて、キスをする。

     違いは色々あるが、今問題とするのは、次のことである。

    ・TVシリーズでは、鮎川まどかは春日恭介が超能力者であることを知って、二人で抱き合っている。そして最後に二人でキスまでしている。

    ・原作では、春日恭介と鮎川まどかとの間にある特別な関係が描かれたにとどまっている。

     終わり方ということで両者を比較すると、次のように言うことができる。

    ・TVシリーズでは、春日恭介と鮎川まどかの関係の決着がつけられている。相思相愛に至ったのである。

    ・原作では、決着には至っていない。

     原作は、そこで終わることもできるし、それから続けることもできるように作られているということができる。「シティーハンター」は、無印が終わった後に、2を始めたが、そういうことがやすいようになっていた。現に原作はこの話の後も続いた。

     TVシリーズの作り手は、原作をわざわざ作り変えて、決着をつけてしまっている。

     TVシリーズの作り手は、その後に、決着がつく前の話をOVAとして出している。決着がつく前の話をアニメ化するつもりであったならば、その前に決着をつけしまう必要はなかったのではないか?

    三角関係の決着

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの最終話は、春日恭介と鮎川まどかの関係の決着をつけているが、三角関係の一角、檜山ひかるとの決着はつけていない。

     小黒祐一郎氏はそのことについて次のように語っている。

    最終回において、恭介とまどかの関係に進展はあるのだが、三角関係の解消には至っておらず、主軸であったはずの三角関係については、未消化なまま終わってしまった。

    「WEBアニメスタイル」「アニメ様365日」「第368回 『オレンジ☆ロード』の三角関係」

     小黒氏は、「アニメージュ」1988年5月号において次のように言っていた。

    最終回でひかるちゃんの存在はほとんど無視され、三角関係には決着がつかぬまま終ってしまった。こんなラブコメってないよ。「続きはオリジナルビデオでみてね」なんていったら怒るぜ。

    「アニメージュ」1988年5月号、139頁

     小黒氏の言うように、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの最終回は、最終回としておかしなかたちになっている。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズも、主人公春日恭介が、鮎川まどか、檜山ひかる、という二人の女性の間で優柔不断でいるという話であった。

     その最終回で、春日恭介は鮎川まどかと6年前の世界で抱き合った。ところが、檜山ひかるは現在の世界で待っていたのに、何の決着もつけずに終わった。三角関係の決着がつかないままで終わってしまったのである。

     どうしてそうなったのであろうか?

    鮎川まどかの成長物語

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、鮎川まどかの成長物語として作られている。鮎川まどかが成長することが第一の問題と考えられていて、その他のことはそれほど重視されなかったのではないか。

     シリーズ構成の寺田憲史氏は著書「ルーカスを超える」(小学館、2000年)において鮎川まどかについて次のように語っている。

    舎弟分のひかるが恭介にストレートに好意を示すのを横目に、素直になれない自分を持て余している。

    「ルーカスを超える」、107頁

     鮎川まどかの問題は「素直になれない」ことであるとすると、「素直」になればその問題は解決されることになる。

     原作の鮎川まどかは、檜山ひかるのことを思いやっているが、TVシリーズの鮎川まどかも、劇場版の鮎川まどかも、檜山ひかるのことを思いやらずに、春日恭介のもとへ突き進んでいる。

    劇場版との関係

     小黒祐一郎氏は「「続きはオリジナルビデオでみてね」なんていったら怒るぜ。」と言っているが、たしかにTVシリーズの最終回を中途半端にして、劇場版に誘導しているようにも見える。

     TVシリーズの最終回の演出を担当した望月智充氏は「アニメージュ」1988年8月号で次のように語っていた。

    ぼくが最終回をやったときに、これは失敗だった、と感じたのは現在の時点でのひかるの存在が忘れられていたこと。そのせいで、3角関係の部分を無視した形になってしまった。あの最終回はまどかと恭介だけの世界でした。

    「アニメージュ」1988年8月号、25頁

     望月智充氏は、最終回は「失敗だった、と感じた」。劇場版によってそれをやり直すというのである。

     望月智充氏がいつ「これは失敗だった、と感じた」のか、よくわからない。

     いずれにせよ、TVシリーズの最終回において「現在の時点でのひかるの存在が忘れられていたこと」、「そのせいで、3角関係の部分を無視した形になってしまった」こと、「あの最終回はまどかと恭介だけの世界で」あったこと、という問題は、脚本を見た時にわかったはずである。わからなかったということは考え難い。

     わざと最終回を失敗させたのではないかと思われるところもある。

     TVシリーズの最終回の中ほどに、主人公がパラレルワールドに行く話が入っている。そのパラレルワールドの話は、原作の10巻にある話をもとにしたものである。TVシリーズの最終回の話は、原作の15巻から16巻にかけての話をもとにしたものである。原作の15巻から16巻にかけての話は、10巻のパラレルワールドの話と関係ない。TVシリーズの作り手は、原作において関係のないパラレルワールドの話をわざわざ入れたのである。しかしそのパラレルワールドの話は、TVシリーズの最終回に有機的に組み込まれてはいない。原作において無関係であったように、TVシリーズにおいてもその前後と関係のない話になっている。そういう話が最終回の中で10分を占めている。

     TVシリーズの作り手は、最終回の中に10分も、最終回と関係のない話を入れているのである。
     その一方で、ひかるが現在の世界で待っている、という原作にはないことを入れながら、ひかるを放置して終わっている。

     TVシリーズの作り手は、もともと、原作と違うかたちにひかると決着をつける話を作っていたのではないか? ところが決着をつけないことに決めて、その代わりに関係のないパラレルワールドの話を入れたのではないか?

     わざわざ現在の世界でひかるが待っているという原作にないことを入れながら、そのひかるを放置して終わるとか、関係のないパラレルワールドの話に10分も費やすとかいうことは、考えがあってやったのでないとすると、あまりに愚かなことである。

    終わりに

     インターネット上で、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズのシリーズ構成について、原作より後に作られたので原作よりまとまっていると定説のように語られているのを何度か見た。

     しかし原作ファンで同意する人は少ないのではないか? 少なくとも私は同意できない。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は、1984年に連載が始まってから、1987年にTVシリーズが始まるまで、途中で変わったところもあった。それをTVシリーズの作り手が後から見直して、まとめなおすことはできたと思う。

     しかしTVシリーズの作り手は、そういうことをせず、原作とは違うようにまとめていったのである。

     前にも言ったように、原作のいいところが10あるとすると、TVシリーズはその中から3しか生かしていないように私は感ずる。

     上にも挙げたように、TVシリーズの作り手は、原作の話をもとにしても大きく改変する。そして原作で人気のある話をアニメ化せずに、終わってしまっている。

     キャラクターに関しても、よく言われるように、原作で人気のある「あかね」など、TVシリーズで生かされていない。

  • 1980年代後半の「アニメージュ」と「きまぐれオレンジ☆ロード」の関係

    1980年代後半の「アニメージュ」と「きまぐれオレンジ☆ロード」の関係

     アニメ雑誌「アニメージュ」と「きまぐれオレンジ☆ロード」との間の関係は、あまり話題にならない。

     1980年代後半の「アニメージュ」は、1985年にできたばかりのスタジオジブリに力を注いでいたように見える。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ(1987年4月から1988年3月)、劇場版「あの日にかえりたい」(1988年10月公開)の頃には、「となりのトトロ」、「火垂るの墓」が「アニメージュ」の表紙を飾り(1987年6、12月号、1988年1、5月号)、特集が組まれた(1987年6月号、1988年2、5月号)。

     それに対して「アニメージュ」と「きまぐれオレンジ☆ロード」との関係は、それほどではないにちがいない。

     しかしそれほどではないとしても、「アニメージュ」は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ、劇場版「あの日にかえりたい」を推していた。

    「アニメージュ」の論調

     「アニメージュ」のスタッフは「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを推し、劇場版を推していた。

     ただしはじめからではない。

     TVシリーズが始まって間もない、「アニメージュ」1987年6月号、7月号では、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して批判的な「アニメージュ」のスタッフの声が多く載せられていた。

     ところが1987年8月号で、小黒祐一郎氏がTVシリーズをよしとする記事を出してから、小黒氏を中心として、TVシリーズをよしとする論調になった。―原作と違うTVシリーズをよしとする論調である。

     その論調の変化は、それまで批判的であった人が肯定的になったことによるのではなくて、それまで批判的であった人は発言は載らなくなり、肯定的な人の発言が載るようになったことによると思われる。

     「アニメージュ」の論調について詳しくは下の記事↓

    「アニメージュ」の投稿欄

     その時期の投稿欄も、その論調によって構成されていたように見える。

     「アニメージュ」の投稿欄では、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ、劇場版「あの日にかえりたい」の前後の時期に、原作ファンが原作をもとにしたアニメを批判する投稿を多く採用していた。

     TVシリーズが始まる前の「アニメージュ」1987年3月号では、「アニメージュ」の読者の中に漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」が好きだという人が多くいることが明らかにされていた。

     ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが始まってから終わるまでの「アニメージュ」の投稿欄(1987年7月号~1988年5月号)では、原作ファンがTVシリーズについて論ずる投稿は、番組が終わった後の5月号の一つだけであった。

     「アニメージュ」1987年3月号で多くいるといわれていた原作漫画のファンの声を、TVシリーズの放映されている間、わざと取り上げなかったのではないかと思われる。

     そこに「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを推す「アニメージュ」の作為があったと思われるのである。

     投稿欄について詳しくは↓

    「シティーハンター」との比較

     当時の「アニメージュ」の小黒氏等が「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げただけでなく、同時に始まった「シティーハンター」以上に持ち上げていたことも気になる。

     作品としては、「シティーハンター」のアニメ版の方が「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版よりうまくいったように見えるからである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは1年で終わった。

     「シティーハンター」は次の年の4月から「シティーハンター2」を始めて1年と3カ月やっている。そしてその3か月後から3カ月「シティーハンター3」をやっている。1991年には「シティーハンター’91」をやっている。その後にも3本テレビスペシャルをやっている。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は劇場版が1本だけ(もう1本は小説版の映画化)であるが、「シティーハンター」は劇場版が3本、そして2019年にもう1本作られている。

     「シティーハンター」の方が長く続けやすい題材ではあるであろうが、「きまぐれオレンジ☆ロード」は原作の多くをアニメ化せずに終わったのでもある。

     TVシリーズ放映前には、「アニメージュ」の読者の中でも「きまぐれオレンジ☆ロード」のファンの方が「シティーハンター」のファンより多かった。(「アニメージュ」1987年3月号)

     「アニメージュ視聴率」というのがある。「アニメージュ」の読者の視聴率のようである。それによると、はじめの3カ月は「きまぐれオレンジ☆ロード」の方が高かった。

     ところが、1カ月目には35あった票差が3カ月目には1しかなくなって、7月10日以降は「シティーハンター」が上になっている。

     「シティーハンター」の方がうまくいったのに、「アニメージュ」がそれより「きまぐれオレンジ☆ロード」を推していたことは、偏ったことのように見える。

     「アニメージュ」1987年6月号の両作品第1話に対する批評で、小黒氏、原口氏が「シティーハンター」に対しては酷評しながら、「きまぐれオレンジ☆ロード」に対してはそこまで言っていないことも気になる。

     要するに、小黒氏等は放映の始まる前から「きまぐれオレンジ☆ロード」に偏っていたのではないか? 期待して推していたのではないか?

    1987年ころのTVアニメをめぐる状況

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された1987年ころ、アニメ雑誌では、アニメの衰退が問題とされていた。

     オリジナル作品が少なくなり、漫画を原作としたアニメが多くなっていた。

     そこでアニメの創造性を求める声は、オリジナル作品を求めるとともに、「うる星やつら」のように漫画を原作としたが原作を逸脱して「暴走」した作品を求めた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、「うる星やつら」を制作したスタジオぴえろによって制作された。

     それゆえに「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズも、「うる星やつら」のように原作を逸脱して「暴走」した作品になることが期待された。

     「アニメージュ」の小黒氏等もそう期待していたと思われる。

     「アニメージュ」1987年8月号で、小黒氏は原作から離れたTVシリーズをよしとしていた。

     「アニメージュ」1988年4月号の「NURSE圭のVIDEO研究室「ビデオラボ」」の「「きまぐれオレンジ☆ロード」LD発売記念・トークパーティー」で、小黒祐一郎氏の「仲間である完全防音AVルームを誇るAV田村」氏が第40話に関して「こういう原作からはみだした「きまオレ」が実はみたかった」と語っている。(「アニメージュ」1988年4月号、213頁)

     ただしそのことは「期待」であった。

    「アニメージュ」の「やり方」

     「アニメージュ」は、ただアニメを取り上げるにとどまらず、アニメに働きかけてきた。

     鈴木敏夫氏は「BEST OF アニメージュ アニメ20年史」(徳間書店、平成10年)において、編集長時代のやり方について語っている。

    ついでだから、この際言っちゃうけど、強力な作品のない時期、面白い誌面を作るための打開策はどうしていたか? 僕はある時期から、人気作を追いかけるな、人気作は『アニメージュ』で勝手に決めようって、みんなに言うんです。これも今だから明かせることだけど。
    (中略)
    人気作を追いかけていくのは大変でしょ。それより新番組が発表になると、事前に情報を手に入れて人気作はこれだと決めちゃうの。そうすれば、何が人気が出るのか予想しなくてすむから楽でしょ(笑)。このやり方は、ある時期からかなり意図的に採用しました。
    『ガンダム』にしても『マクロス』にしても結果的にうまくいって、その最たるものが『ナウシカ』の映画化でしょう。

    「BEST OF アニメージュ アニメ20年史」、127頁

     鈴木敏夫氏は「人気作を追いかけるな、人気作は『アニメージュ』で勝手に決めよう」というやり方を採用していたというのである。

     そしてそのやり方の例として「ガンダム」、「マクロス」、「ナウシカ」を挙げている。

     いずれもアニメの歴史において重要な作品になっている。

     2020年4月から5月にかけて松屋銀座で「アニメージュとジブリ展」が行われたが、そこではそのことが主題とされていた。

    https://mainichi.jp/articles/20210415/k00/00m/040/107000c


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    「きまぐれオレンジ☆ロード」の場合

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ、そして劇場版でも「アニメージュ」はその「やり方」を採用したのではないか?

     鈴木敏夫氏はその時にちょうど「アニメージュ」の編集長になっていた。

     鈴木敏夫氏は「アニメージュ」1986年10月1日付で「アニメージュ」の編集長になっていた。「アニメージュ」1987年1月号からのようである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放送されたのは1987年4月からであった。

     鈴木敏夫氏は「アニメージュ」1987年6月号の「AM編集部24時」というコーナーで、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの第1話を絶賛していた。

    あれが日活の青春映画の味なのだ。不良のみが知る純愛の世界。サックスも、冒頭の出会いのシーンもすべてよかった。黄金のパターンなのだよ。ふつうの男の子とつっぱって生きている少女とのラブストーリー。スケバンの純情。これはいける! 『きまぐれ』に比べると他はちょっと。

    「アニメージュ」1987年6月号、213頁

     1987年4月に始まった番組の中で「きまぐれオレンジ☆ロード」が最もよく、「他はちょっと」と評しているのである。

     「これはいける!」と言うのは人気作になるということであろう。

     鈴木敏夫氏は「人気作は『アニメージュ』で勝手に決めよう」とか「人気作はこれだと決めちゃう」とか語っているが、「これはいける!」と言うのはそういうことではないか?

     ただし鈴木敏夫氏は当時スタジオジブリの仕事に力を入れていて、「アニメージュ」の仕事をないがしろにしていると批判されたとも言われている。

     高橋望氏はその時のことを次のように語っている。

    「トトロ」と「火垂るの墓」のプロジェクトが始まったときには、当時編集長に昇格していた鈴木さんが何かというとジブリに行っていて編集部をないがしろにしている」と陰で批判の急先鋒になっていたくらいだ。

    「あの旗を撃て!」、オークラ出版、2004年、204頁

     「となりのトトロ」、「火垂るの墓」の企画は1986年末までに決まっていたようである。(「あの旗を撃て!」、252~254頁)

     鈴木敏夫氏はその他のことに手が回らない状態であったかもしれない。

     鈴木敏夫氏以外の人によって鈴木敏夫氏の「やり方」が採用されたのであろうか?

    劇場版「あの日にかえりたい」

     劇場版「あの日にかえりたい」も「アニメージュ」が特に推していたと思われる。

     そのことは投稿欄からもうかがうことができる。

     望月智充監督の「めぞん一刻 完結編」(1988年)と「海がきこえる」(1993年)の間の作品であるということからもうかがうことができる。

     「めぞん一刻 完結編」は「アニメージュ」で取り上げられており、「海がきこえる」はジブリ作品である。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の劇場版「あの日にかえりたい」はまさにその間に位置付けられている。

  • 【研究】「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズと「アニメージュ」②論調

    【研究】「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズと「アニメージュ」②論調

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズをめぐる言説が気になって、もとから探ろうと、TVシリーズが放送されていた時の雑誌「アニメージュ」をしらべると、奇妙なことがわかった。―「アニメージュ」において奇妙な偏りが生じていた。

     まず投稿欄が奇妙に偏っていた。

     ここでは、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時の「アニメージュ」のスタッフの論調が偏っていたことについて、考える。

    論調の変化

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの放映が始まった時に、「アニメージュ」のスタッフからTVシリーズに対して批判的な意見が複数出ていた。

     ところが、ほどなく「アニメージュ」ではTVシリーズをよしとする発言ばかりになっていった。

     詳しくは次の通り↓

    「アニメージュ」1987年6月号

     「アニメージュ」1987年6月号では、二つのコーナーで4月に始まった新番組についての品評会が行われた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズはその二つのコーナーで新番組の一つとしてとりあげられた。

    AM編集部24時 12春の新番品評会

     「AM編集部24時 12春の新番品評会」というコーナーでは、鈴木敏夫編集長(当時)も参加して、4月に始まった新番組の品評会を行った。(「アニメージュ」1987年6月号、213頁)

     次のように意見は分かれた。

     女性三人は「赤い光弾ジリオン」をよしとして、「きまぐれオレンジ☆ロード」はよくわからないという。

     鈴木敏夫氏、実氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」をよしとして、「赤い光弾ジリオン」に対して批判的。

     高橋望氏は「原作ファンとしてはいまの作り方にはちょっと疑問がある」という。

     要するに、 鈴木敏夫氏、実氏の二人以外は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して批判的であった。

    春の新番総チェック

     「アニメージュ」1987年6月号ではもう一つ、「新人類あにめ診断 春の新番総チェック」というコーナーで、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを取りあげている。

    小黒 (略)次は「気まぐれオレンジ☆ロード」なんだけど、これって「タッチ」っぽくないかな。
    原口 リアルなふんい気とかそうだし、美術なんか「タッチ」だね。
    小黒 あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった。
    原口 「タッチ」のまねというより、ああいう日常を大切にするっていうのが、青春もののスタイルとして確立されたってことじゃないかな。
    のつぎ あたしはなんかアナクロっぽいと思った。大映ドラマを見ているみたいじゃない。いまどきあんなやついないって。

    「アニメージュ」1987年6月号、126頁

     原口正宏氏は、「リアルなふんい気」とか、「日常を大切にする」とか「青春もののスタイル」とか、違うところに価値を認めているようである。

     小黒祐一郎氏の「あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった」という言葉は、残念な気持ちをあらわしているようでもある。

     のつぎめいる氏は、「いまどきあんなやついない」と強く批判している。

     このコーナーでも強い批判が出ている。

    「アニメージュ」1987年7月号

     「アニメージュ」1987年7月号の「水品隆史と山本元樹のレコード・レビュー」で水品隆史氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のアルバムについて語る中で、本編について次のように語っている。

    「きまぐれ」の番組自体は、恭介のモノローグが多すぎて、物語のスピード感を殺しているって印象が、かなりあった。だけど、このサントラ盤を聞くかぎりでは音楽スタッフのほうが「きまぐれ」のイメージを的確につかんでいるんじゃないかなあ。

    「アニメージュ」1987年7月号

     水品氏は、原作をよく知る者として、音楽は原作に合っているが、TVシリーズ本編はそうではないと論じているのである。

    「アニメージュ」1987年8月号

     「アニメージュ」1987年8月号の「TVアニメーションワールド」内の「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムにおいて、小黒祐一郎氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げた。

    「魔美」や「陽あたり」も相当うまく原作を消化していて、それはそれでスゴイのだけれど、それにも増して「きまぐれオレンジ☆ロード」はスルドイ、と思うのです。
     この作品は、原作の設定やエピソードを基本的には変えないで創っているにもかかわらず、その世界観が、原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋いと、かなりちがうわけで、これはもうアニメスタッフの”技”としかいいようがないわけです。(どっちがよいかは好みの問題)たとえば、原作でも毎回出てくる恭介のモノローグなど異常に使い方がうまくてあれのおかげで、相当感情移入がしやすくなっています。それから人物や学校生活などの描写がやたら芸が細かい。これも原作にもある学校で昼食時にカツサンドを買うのは大変だという設定を、実に渋く演出していたりして、これがやたらよかったりするんですね。
     そのうち、ある程度原作を切り離して、気がついたら全然別の作品になってたりするんじゃないのかしらん。

    「アニメージュ」1987年8月号、127頁

     この記事から「アニメージュ」はTVシリーズを持ち上げる方向に進むのである。

    TVアニメーションワールド

     「アニメージュ」1987年9月号から1988年3月号まで、「TVアニメーションワールド」では、小黒氏等によって「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが少なからずとりあげられている。

    ・「アニメージュ」1987年9月号の「TVアニメーションワールド」では、TVシリーズ第13話をとりあげている。(111頁)

    ・「アニメージュ」1988年1月号の「まにあおぐろのこれがスルドイ」では、小黒氏は檜山ひかるがいいといって(105頁)、「TVアニメーションワールド」の「今月の誌上アンコール②」で第29話をとりあげている。

    ・「アニメージュ」1988年2月号の「TVアニメーションワールド」の「まにあおぐろのこれがスルドイ」では、第32話をSFとして評価している。

    ・「アニメージュ」1988年3月号の「TVアニメーションワールドOPENING SELECTION」では第3OPをとりあげている。

    「アニメージュ」1988年4月号

     「アニメージュ」1988年4月号では、ファイナル特集があって、「きまぐれオレンジ☆ロード」は「めぞん一刻」など他の作品とともにまとめられていた。「きまぐれオレンジ☆ロード」はその第一に置かれていた。

     そこに次のような言葉がつけられている。

    原作があくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだったのに対し、アニメの「オレンジロード」はいまどき珍しいくらい、まっとうに青春していて、そこがとても新鮮で魅力的だった。恋愛なんて当人はどんなにまじめで一生懸命でも、他人から見れば、ぶざまでコッケイで喜劇以外のなに物でもない! そんな青春の愚かしさと、ほのかな甘酸っぱさがミックスした佳作でした!

    「アニメージュ」1988年4月号

     それまでの「アニメージュ」によるTVシリーズを持ち上げる言説の集大成のようである。

     私は遅ればせながらこれをみて、衝撃を受けた。

     これは原作漫画を馬鹿にするものではないか? 原作漫画について「あくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだった」というのは、馬鹿にしているのではないか? 原作漫画は「キャラクターの絵」にしか魅力がないものであるということも、原作漫画を「軽~~~い」という言葉で形容していることも、馬鹿にしているようである。

     評論家が個人の考えとして言うならば問題はない。アニメ雑誌の「ファイナル特集」で一個の漫画をこのように馬鹿にすることはおかしいのではないか?

     そうして原作漫画を馬鹿にして、TVシリーズを持ち上げていることも、おかしい。

     TVシリーズは原作漫画より軽い。たしかに原作にない「青春の愚かしさ」を描いたものもあるが、少数である。ヒロインを、原作と違って、荒唐無稽なスケバンキャラにしたことも、間に入るキャラクターを、小黒氏も言うように原作より「道化師的な役回り」にしたことも、原作より軽くすることである。

     そもそも「アニメージュ」のようなアニメ雑誌がアニメ作品をできるだけ持ち上げてもいいと思うが、そのために原作漫画をおとしめることはおかしいと思う。

     この時の「ファイナル特集」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」、「めぞん一刻」、「陽あたり良好!」、「北斗の拳」の4作品をまとめたものであるが、「きまぐれオレンジ☆ロード」の他には、原作漫画をおとしめる言葉はない。

     「めぞん一刻」では逆に、吉永尚之監督の「画面があまりに地味だったので、原作の明るさを出しきれなかったのでは、という思いが残っています」という、原作ファンに気を使った言葉が載っている。

     このように「めぞん一刻」では、TVシリーズの作り手も、「アニメージュ」も、原作ファンを尊重しようとしていたのに対して、「きまぐれオレンジ☆ロード」では、TVシリーズの作り手も、「アニメージュ」も、原作ファンを無視して、TVシリーズを持ち上げ、原作漫画をおとしめているのである。

    考察

     上に挙げた記事について考察してみよう。

    高橋望氏

     まず「アニメージュ」「AM編集部24時 12春の新番品評会」というコーナーで「原作ファン」の立場からTVシリーズに対して疑問を呈した高橋望氏について考える。

     高橋望氏は、この「品評会」の前の、「アニメージュ」1987年5月号の「AM編集部24時」において、「熱愛している「きまぐれオレンジロード」がスタートするのは個人的にはうれしいのですが・・・」と語っていた。(「アニメージュ」1987年5月号、215頁)

     しかしその後に高橋望氏から原作ファンとしての主張を聞くことはなくなった。

     そもそも高橋望氏が発言する場がなくなった。

     高橋望氏が漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」に対する「熱愛」を語って、TVシリーズに対する「疑問」をのべた「AM編集部24時」というコーナーは、その1987年6月号で終わってしまった。

     高橋望氏は「アニメージュ」1987年12月号を最後に、「アニメージュ」から離れている。―「アニメージュ」創刊編集長尾形英夫著「あの旗を撃て!」に、高橋望氏は「87年の秋に「4WDフリーク」といういまはなきクルマ雑誌に異動になり、「アニメージュ」とも尾形さんとも接点はいったんなくなった」と書いている。(「あの旗を撃て!」、オークラ出版、2004年、205頁)

     高橋望氏が担当していた「Dr.望のビデオラボ」というコーナーも、1987年12月号で終わっている。
     そしてその後に「NURSE圭のビデオ研究室」というコーナーが1988年1月号から始まっているが、このコーナーでは、2月号で、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズから3話ビデオ化されるに際してシリーズ構成寺田憲史氏のインタビュー記事を載せ、4月号で、番組終了記念として、小黒祐一郎氏等がTVシリーズのいいところを語る企画をやっている。

     高橋望氏はその後、1989年にジブリに出向するというかたちでアニメ業界に帰ってきて、ジブリの「海がきこえる」のプロデューサーになっている。

     高橋望氏がその時期に「アニメージュ」から離れたことは、「きまぐれオレンジ☆ロード」と関係なかったと思われるが、関係があったとも思われる。いずれにせよ、高橋望氏が「アニメージュ」から離れたことによって、「アニメージュ」から「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンの声が消えた。

     たとえば1988年4月号の小黒氏等がTVシリーズのいいところを語るという企画に、もし高橋望氏が参加していたならば、小黒氏等のようにひたすらTVシリーズを持ち上げることはなく、原作ファンの気持ちを述べたのではないかと思われる。

     ひょっとすると、高橋望氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対する考えを変えたかもしれないが、そうだったとしても、小黒氏のように手放しでTVシリーズを持ち上げることにはならなかったのではないかと思う。

    のつぎめいる氏

     のつぎめいる氏は、「アニメージュ」1987年6月号の「新人類あにめ診断 春の新番総チェック」というコーナーで、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して「いまどきあんなやついない」と強く批判していた。

     ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ放映中に、のつぎめいる氏は「アニメージュ」から去っている。

     のつぎめいる氏は、1985年8月号から「アニメージュ」誌上に連載をもっていた。しかしその連載は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズ放映中の1987年11月号で終わっている。それまで出ていた新春座談会などにそれから出なくなっている。

     そのことも、「きまぐれオレンジ☆ロード」と関係ないと思われるが、関係あるとも思われる。

     のつぎめいる氏が「アニメージュ」1987年6月号以降、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対してどう考えていたか、私は知らない。ひょっとすると、考えを改めていたかもしれない。

     しかし、のつぎめいる氏のそれまでの連載や発言をみると、まんが家であったからか、アニメの原作まんがに気を遣っていたように見える。「きまぐれオレンジ☆ロード」についても、原作まんがに気を遣った発言をしたのではないかと思われる。

    水品隆史氏

     水品隆史氏のコーナーはもともと音楽について論ずるコーナーであって、本編について論ずることは本旨ではない。

     実際に本編について論じているところは一文にすぎない。

     それにもかかわらず本編に対して強く批判していたことは、当時原作を知っていた人にとってそれだけTVシリーズは残念な出来と思われたことをあらわすことではないか?

    小黒祐一郎氏

     「アニメージュ」1987年8月号以降、「アニメージュ」で「きまぐれオレンジ☆ロード」TVシリーズを持ち上げて行ったのは、小黒祐一郎氏である。

    「アニメージュ」1987年6月号

     まず「アニメージュ」1987年6月号の「春の新番総チェック」での発言にも疑問がある。

     のつぎめいる氏が「いまどきあんなやついない」とまで強く批判しているのに、小黒氏も原口氏もそのことを問題としていない。小黒氏、原口氏は「「タッチ」っぽくないか」ということを問題としているが、だからどうなのか、よくわからない。小黒氏が「なんか渋くなってしまった」というのは、不満があるようであるが、批判に至っていない。

     小黒氏は「アニメージュ」1988年2月号で「不良絡みの話さえなければ「オレンジ☆ロード」はヨイ作品です。」と言っている。(121頁)

     TVシリーズ第1話はまさにその「不良絡みの話」である。

     小黒氏がよくないと思っていたとすると、6月号でその第1話について感想を言う立場にあったのに、何故に言わなかったのか? よくないと思っていたのに、何故に1988年2月号まで言わないでいたのか? 「不良絡みの話」は、ヒロインの設定に関わる重要なことでないか? アニメ版の「不良絡みの話」がよくないということは、そういう「不良絡みの話」のない原作の方がいいということにならないか?

     小黒氏が他の番組に対しても同じように評価を控えめにしていたならば問題はない。しかしそうではなかった。

     小黒氏も、原口氏も、同じ「春の新番組総チェック」で、「きまぐれオレンジ☆ロード」と同時に始まった「シティーハンター」のTVシリーズに対しては、酷評している。原口氏は「ほとんど原作どおりのエピソードなんだけど、犯人の描写のツメが甘い」と言い、「全体的に軽すぎるんじゃないかと思う」と言っている。小黒氏は「サンライズカラーがにじみでている(笑)。」と言っている。

     「シティーハンター」に対してはそこまで踏み込んでいるのに、「きまぐれオレンジ☆ロード」に対しては上に見たように奥歯に物が挟まったようである。

    「アニメージュ」1987年8月号

     小黒祐一郎氏は「アニメージュ」1987年8月号の「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムにおいて、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げた。これから小黒氏は「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げていく。

     このコラムはおかしいと私は思う。

    うまく原作を消化するということ

     小黒氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは原作をうまく消化した作品だと考えているようである。

     しかしその後に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは「原作の設定やエピソードを基本的には変えないで創っているにもかかわらず」、「その世界観」は「かなりちがう」ものになっているというところによると、原作と違うものになっているというのであって、原作をうまく消化したのではないということになるのではないか?

     同じ8月号の投稿欄には、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」について語る投稿が載せられている。

     それから「アニメージュ」では「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは原作をうまくアニメ化したものという言説が広まっている。

     実際には「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、小黒氏も言うように原作と「かなりちがう」ものになっている。原作をうまくアニメ化したということのできるものではない。

    原作から離れること

     小黒氏は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが原作と「かなりちがう」ことを認めた上で、そのTVシリーズを称賛して、「そのうち、ある程度原作を切り離して、気がついたら全然別の作品になってたりするんじゃないのかしらん」と言っている。原作から離れて全然別の作品になることを望んでいるようである。

     小黒氏はなぜか、原作を無視している。そして原作から離れたTVシリーズをよしとしている。おかしなことだと私は思う。

     原作から離れてすぐれたものができることを期待することには問題はない。原作をはなから無視していることに問題はある。なぜ原作を生かすことを考えないのか?

     これは8月号のコラムである。8月号の記事が書かれたのはその数カ月前である。TVシリーズが始まったのは4月である。TVシリーズはまだ始まって間もなく、原作の多くがまだアニメ化されていない時に、小黒氏は原作から離れたアニメを求めているのである。

     同じ月の「アニメディア」(1987年8月号)には「残念ながらこれまでのお色気シーンは、原作と比べてもまだ欲求不満!?だけど夏に向けてかなり期待できそうだ」と書かれていた。(131頁)

     「アニメディア」の方が自然ではないか?

     その上に「アニメージュ」は1987年3月号で、「アニメージュ」の読者の中に「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンが多くいることを明らかにしていた。原作ファンは、アニメに対して原作のいいところが生かされることを求めるものであろう。

     小黒氏のように原作から離れたアニメを期待することは、そういう「アニメージュ」の読者の多くと対立することである。何故に対立してまで原作から離れたアニメを期待したのか?

     そもそも「まにあおぐろのこれがスルドイ」というコラムは、番組の一部をとりあげるものだったのではないか? そのコラムで放映中の番組全体について称賛することは奇妙ではないか?

    TVシリーズに対する賞賛
    世界観

     小黒氏は、「原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋い」と語る。そして、それぞれ違うというにとどまらず、「アニメスタッフの”技”」と言っているので、アニメの方がすぐれているかのように聞こえる。しかし「世界観」が「アニメスタッフの”技”」だというのは意味がよくわからない。

     ところで「世界観」に関しては、小黒氏の評価は一定していないようである。

     小黒氏は6月号で「あの原作をそのままアニメにすると、もっとキャピキャピした感じになると思うんだけど、なんか渋くなってしまった」と言っていた。「渋くなってしまった」という言葉は、残念な気持ちをあらわすようでもある。

     小黒氏は「アニメージュ」1988年4月号の「NURSE圭のVIDEO研究室「ビデオラボ」「「きまぐれオレンジ☆ロード」LD発売記念・トークパーティー」」において、「本編ってけっこうシブい話が多いでしょ。」と言い、それゆえに「ああいうキャピキャピしたキャラたちをみると楽しくて」と言っている。
     これによると、「渋い」本編では楽しむことができず、「キャピキャピした」ものの方がよかったと思っているようでもある。

     私は、「原作は明るくキャピキャピ、アニメは生活感があって渋い」という言葉遣いに違和感がある。原作は80年代風で明るく、アニメ版は生活感があって薄暗いということだとすると、当たっていると思うが、「キャピキャピ」という言葉は、むしろアニメ版の檜山ひかるの描き方に当たると思うし、「渋い」という言葉は、どちらかというと原作の方ではないかと思う。

    恭介のモノローグ

     小黒氏は、主人公の「恭介のモノローグ」について「異常に使い方がうまくてあれのおかげで、相当感情移入がしやすくなっています」と語っている。

     しかしTVシリーズの「恭介のモノローグ」は、原作と比べて優柔不断を誇張した結果、感情移入しにくくなっていると私は思う。

     7月号の「レコード・レビュー」で水品氏が「「きまぐれ」の番組自体は、恭介のモノローグが多すぎて、物語のスピード感を殺しているって印象が、かなりあった。」と語っているが、私もその通りだと思う。

     このように、小黒氏がTVシリーズを持ち上げる言葉には、偏ったところがあると私は思う。

    高橋望氏との関係

     小黒祐一郎氏は「WEBアニメスタイル」の「アニメ様365日」の「第290回 マニア同人誌からアニメ雑誌に」において「「アニワル」では、僕達のアイデアがほとんど通った。担当の高橋望さんが、やりたい放題にやらせてくれたのだ。」と語っている。高橋望氏は小黒祐一郎氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを持ち上げることについて、どう考えていたのであろうか?

    まとめ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して、はじめは「アニメージュ」のスタッフからも批判的な声が出ていた。ところがすぐにそういう声はなくなり、原作から離れたTVシリーズをよしとする小黒祐一郎氏の主張ばかりになった。

     そのことによって、TVシリーズを持ち上げて原作をおとしめる偏った考えが広まったと思われる。

     「アニメージュ」は、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが始まる前の1987年3月号で、「アニメージュ」の読者の中に漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」が好きだという人が多いことを伝えて、「きまぐれオレンジ☆ロード」がアニメ化されることに関して、「最近のAM読者は、マンガをアニメの後追いではなく、ちゃんと先取りしてみている」と書いていた。漫画が先を行っていると書いていたのである。
     ところがその1年後の1988年4月号では、その漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」について「あくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだった」と馬鹿にしたようなことを書いている。
     その間に何があったのか?

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時の「アニメージュ」の投稿欄について

    「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されていた時の「アニメージュ」の投稿欄について

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された時のアニメ雑誌「アニメージュ」の投稿欄についてしらべてみた。

     しらべた結果、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズについての投稿で、原作ファンによるもの、批判的なものは、番組が終わった1988年5月号までなかった。

     このことは、「アニメージュ」の読者の中に「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンが多くいたこと、他の作品についての投稿には原作ファンによる批判的な投稿が多かったことと比べると奇妙なことである。

    「きまぐれオレンジ☆ロード」の場合

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの放映が始まったのは1987年4月。

     「アニメージュ」の投稿欄では1987年7月号の新番組特集から、TVシリーズの放映を受けた投稿が載せられた。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの放映が終わったのは1988年3月。

     「アニメージュ」では1988年5月号に、番組が終わったことを受けた投稿が載せられた。

     その間に「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズに対して原作と比較して批判する投稿は、番組が終わった後の1988年5月号の一本だけであった。逆に言うと、番組が終わるまでそういう投稿は一つもなかった。

     批判的な投稿はその一つだけであった。

     原作に対して好意的な立場からTVシリーズについて論ずる投稿もその一つだけであった。

     以上のことは、他の作品についての投稿と比較すると、異様である。

    他の作品

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映された前後、1986年から1988年までの「アニメージュ」の投稿欄をみると、様々なアニメ番組、劇場作品、OVAに対して、その原作のファンが批判するという投稿が多く載せられていた。

    「聖闘士星矢」、「三銃士」

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の半年前に始まった「聖闘士星矢」、半年後に始まった「三銃士」は、いずれもその時期に始まった番組の中で人気のあったものであるが、いずれも原作ファンがアニメ版を批判する投稿が載せられていた。

    ・「聖闘士星矢」に関しては、1987年1月号の新番組特集でも、1987年5月号の「聖闘士星矢」特集でも、そういう投稿が載せられていた。

    ・「三銃士」に関しては、1987年12月号でもそういう投稿が載せられていたが、1988年2月号の「三銃士」特集では、原作との違いが主題とされていた。

    「アニメージュ」1987年1月号

     「アニメージュ」1987年1月号の投稿欄には、すでに言った「聖闘士星矢」についての投稿の他にも、その他の番組、作品にもそういう投稿が多く載せられている。

    ・「湘南爆走族」のOVAについて「あのビデオでは「湘爆」のよさが少しも伝わらなかった」という投稿(130頁)。

    ・「Oh!ファミリー」について、「どうか、原作の持つ独特のふんい気とキャラクターひとりひとりの個性をくずさない作品にしてほしいと思います。」とか、「原作のイメージがくずれにくずれていると思うんです。」とかいう投稿(131頁)。

    ・「那由他」のOVAについて「原作のイメージくずし」という投稿(135頁)。

    「めぞん一刻」

     この時期に、原作ファンがアニメ版を批判する投稿が特に多かったのは、「めぞん一刻」である。

     「めぞん一刻」のTVシリーズは、1986年3月26日に始まって、1988年3月2日に終っている。「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの1年前に始まって、2年続いて、その2年目に「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映されたというかたちになっている。

     「めぞん一刻」に関しては、始まる前から、1986年3月号にアニメ化に反対するという投稿を載せ、1986年5月号でそれを受けてアニメ化に賛成するか反対するかという誌上討論を行っている。

     「アニメージュ」は番組が始まる前からわざわざアニメ化に反対する意見をとりあげていたのである。

     1986年7月号の投稿欄は「北斗の拳」の暴力描写について特集していて、始まったばかりの「めぞん一刻」についての投稿は一本しか載せられていないが、その一本は「原作に忠実であること」をもとめる投稿であった。

     投稿欄で「めぞん一刻」に関するものはその一本だけであったが、声優コーナーでは3頁にわたって、声優が合っているという投稿、合っていないという投稿を並べている。

     1986年9月号の投稿欄では「「めぞん一刻」改革案」と題して、「めぞん一刻」の改革を提案する投稿を特集している。

     そういう投稿は多かったかもしれないが、「アニメージュ」がわざわざそういう特集を組んでいるのでもある。

     1987年2月号から5月号までは特に批判的な投稿が続いていた。

    ・1987年2月号―「原作の忠実な味を‼」という投稿(147頁)

    ・3月号―「「めぞん一刻」わるいオリジナル」という投稿(180頁。その下に「「めぞん一刻」いいオリジナル」という投稿がある)

    ・4月号―「これ以上、原作のすばらしい話がつぶされていくのを黙って見ていることはできません」という投稿(171頁。同時に「暖かく見守らなければ」という投稿が載せられているが、これも「じつは、ぼくもアニメ版を見ると首をかしげてしまうほうなのです」とある)

    ・5月号―「「めぞん」がよくないのはおもしろくないから」という投稿(173頁)

     安濃高志氏が監督であった時であろうか?

     その後にも、この時期ほどではないが、批判的な投稿は続いていた。

    当時の「アニメージュ」の投稿欄

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが放映される前後の「アニメージュ」の投稿欄について次のように言うことができる。

     第一に、この時期の「アニメージュ」には、原作ファンがアニメ版を批判する投稿が多かった。

     第二に、この時期の「アニメージュ」のスタッフはそういう投稿を積極的にとりあげていた。

     そういう投稿が多くても、「アニメージュ」のスタッフはそういう投稿をとりあげないでいることもできたはずである。それにもかかわらず、「アニメージュ」のスタッフはそういう投稿を積極的にとりあげていた。

    考察

     投稿欄が投稿を正確に現わしているとすると、

    ・「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、他の作品と違って原作ファンによって批判されないような出来であった。

    ・「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンは、「めぞん一刻」などの原作ファンと違って、アニメ版を批判しない性質をもっていた。

     後者は、非合理的である。

     前者は、私には受け入れ難い。

    ・第一に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、私にとっては、原作漫画に思い入れがあるのに楽しむことができない初めての作品であった。

    ・客観的に考えても、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、オリジナル要素をはじめとして、原作ファンがひっかかるところは「めぞん一刻」以上に多いと私は思う。

    ・2010年代後半のインターネット上でも、原作ファンでTVシリーズを嫌う声は少なからずある。TVシリーズが放映された時には多かったと思われる。

    ・「アニメージュ」1987年6月号、7月号では、「アニメージュ」のスタッフからTVシリーズに対する批判が複数出ていた。「アニメージュ」のスタッフから批判が出ていたのに、在野のファンから批判が出ないというのは不自然である。

     二つの可能性が成立たないとすると、残るのは、「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンがTVシリーズを批判する投稿は他の作品と同じように多かったが、「アニメージュ」のスタッフがわざとそういう投稿をとりあげなかった、ということである。

    「きまぐれオレンジ☆ロード」についての投稿

     「アニメージュ」の投稿欄に載せられた「きまぐれオレンジ☆ロード」についての投稿について、詳しく考えてみよう。

    「アニメージュ」1987年3月号 アンケート結果

     投稿について考える前に、1987年3月号のアンケート結果について考える。

     「アニメージュ」1987年3月号では、「アニメージュ」の読者の総計1万7231通のアンケート(1986年11月号)から無作為に1000通を選んで集計した結果を発表している。

     その中に「好きなマンガ作品は?」という質問があった。結果は次の通り。(「アニメージュ」1987年3月号、93頁)

     1 めぞん一刻(153票)
     2 風の谷のナウシカ(128票)
     3 タッチ(91票)
     4 うる星やつら(73票)
     5 北斗の拳(64票)
     6 ドラゴンボール(50票)
     7 きまぐれオレンジロード(43票)
     8 究極超人あーる(37票)
     9 こちら葛飾区亀有公園前派出所(30票)
     9 シティハンター(30票)

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は7位になっている。

     記事には「ベスト5はすべてアニメ化された作品です」と書かれている。6位の「ドラゴンボール」も1986年2月からアニメ化されていた。

     すでにアニメ化された作品の原作漫画の人気は、アニメによるところがあるであろう。「アニメージュ」はアニメ雑誌であるから、その読者はアニメに親しんでいるものである。

     それに対して、「きまぐれオレンジ☆ロード」はまだアニメ化されていなかったのであるから、その人気はアニメによるものではない。アニメ雑誌「アニメージュ」の読者が、アニメによらずに支持していたのである。

     記事には「2年前の調査では、ベスト10すべてがアニメ化された作品だったのです。」ともある。

     アニメ化されていない「きまぐれオレンジ☆ロード」が7位になったことは、異例だったのである。アニメの勢いがそれだけなくなっていたということもできるが、「きまぐれオレンジ☆ロード」の人気がそれだけ高かったにちがいない。

     記事では、7位の「きまぐれオレンジ☆ロード」と9位の「シティハンター」が4月からアニメ化されることについて、「最近のAM読者は、マンガをアニメの後追いではなく、ちゃんと先取りしてみている」と論じている。「きまぐれオレンジ☆ロード」、「シティーハンター」は、マンガがアニメより先に行っているというかたちでとらえられているのである。

     要するに、「アニメージュ」の読者の中には、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズが始まる前に、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」が好きだという人は異例なほど多くいた。ところがTVシリーズが始まってからの「アニメージュ」の投稿欄には、それだけ多くいたはずの原作ファンの投稿がない。おかしくないか?

     このアンケートでは、当時TVシリーズが始まっていた「聖闘士星矢」が入っていない。しかし「聖闘士星矢」の原作ファンがTVシリーズを批判する投稿は複数載せられていた。そのことを考えるとますます「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンがTVシリーズを批判する投稿が載せられなかったことが奇妙に思われる。

    「アニメージュ」1987年7月号 新番組特集

     これから投稿欄について考える。

     「アニメージュ」1987年7月号の投稿欄では新番組特集が行われている。―「今月の特集」は「新番組を総チェック。ここが“スキ、キライ”という意見を集めてみました」というものである。(「アニメージュ」1987年7月号、161頁)

     この特集の最後に選者「くみやん」が次のように語っている。

    作品の注目度としては、お手紙の数から察するに「きまぐれ」が高いみたいね。

    「アニメージュ」1987年7月号、161頁

     1987年4月に始まった新番組の中で、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿が最も数が多く、注目度が最も高かった、というのである。

     ところがこの特集では「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿が多くとりあげられることはなかった。

     三本の投稿がとりあげられている。―「「きまぐれ」のOPがイチバン‼」、「待ってました‼ 竜の子アクション」、「まだキワドイと思う「シティーハンター」」。

     第一の投稿は、題に「きまぐれ」と入っているが、新番組のOPを比較したものであって、「きまぐれオレンジ☆ロード」について論じたものとは言えない。

     第二の投稿は「ジリオン」について論じたもの。

     第三の投稿は「シティーハンター」について論じたもの。

     三本の投稿の中に「きまぐれオレンジ☆ロード」の本編について論じた投稿は一つもない。「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿が最も多いというのに、「ジリオン」、「シティーハンター」に関する投稿の方が多くなっている。

     この特集では、絵の投稿も多くとりあげられていた。その中に一つ「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿もあった。「陽あたり良好」、「ジリオン」、「超人機メタルダー」、「エスパー魔美」、「シティーハンター」もあった。

     絵の投稿を合わせても、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿は一つにすぎず、「ジリオン」、「シティーハンター」の二つより少ない。

     要するに、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿が最も多かったにもかかわらず、「アニメージュ」のスタッフはなぜか、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿を多く取り上げず、それより少なかったはずの「ジリオン」、「シティーハンター」を多く取り上げた。

     理由はわからないが、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿をわざと少なめに載せたのである。

     新番組特集には原作ファンがアニメ版を批判する投稿が多い。「きまぐれオレンジ☆ロード」にもそういう投稿が多かったのではないか? 「アニメージュ」のスタッフが「きまぐれオレンジ☆ロード」に関する投稿を載せなかったのは、そういう投稿を抑えるためではないか?

    「アニメージュ」1987年8月号 「めぞん一刻」の投稿

     「アニメージュ」1987年8月号の「めぞん一刻」についての投稿のはじめに「きまぐれオレンジ☆ロード」に触れているところがある。

    「オレンジ・ロード」が始まって以来、そのテンポのよさや原作のふんい気をうまく映像化する演出法を見るにつけ、新しさのみえない「めぞん」の欠点ばかりが目についていた。同じ原作ものなのにどうして…と、ファンとしては少々イライラしていたのだ。

    「アニメージュ」1987年8月号

     この投稿に対しては色々と違和感がある。

     まず、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズについて、「テンポのよさ」とか、「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」とかがそなわっているということを、定説であるかのように語っているが、いつ定説になったのか?

     私には、「テンポのよさ」も、「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」も、感じられない。

     「アニメージュ」1987年7月号で水品隆史氏は「「きまぐれ」の番組自体は、恭介のモノローグが多すぎて、物語のスピード感を殺しているって印象が、かなりあった。」と語っている。「物語のスピード感を殺している」というのは、「テンポのよさ」ということに反することではないか?

     7月号の投稿欄で、原作ファンがTVシリーズを批判する投稿を載せないでおいて、8月号の投稿欄で、TVシリーズは原作をうまく映像化したものだという投稿を載せるのは、原作ファンによる批判を排除した評価を人為的に作っているように見える。

     「めぞん一刻」のTVシリーズと比較してそう言っていることもどうかと思う。

    「アニメージュ」1987年9月号 「きまぐれオレンジ☆ロード」特集

     「アニメージュ」1987年9月号の投稿欄では「きまぐれオレンジ☆ロード」の特集が行われている。

     ところがこの投稿は、内容が奇妙である。

     投稿は三本。
     第一は、TVシリーズを称賛するもの。
     第二は、7月号でOPが良いと言った投稿に反対するもの。
     第三は、「「きまぐれ」CD研究」というもの。

     まず、多かったはずの原作ファンの投稿が一つもないことは奇妙。

     本編についての投稿は一つだけで、その他はOPについての投稿、CDについての投稿ということも奇妙。

     本編についての投稿がそれだけ少なかったのか? と思うような構成である。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」の特集が行われたのは、それだけ「きまぐれオレンジ☆ロード」についての投稿、それも本編についての投稿が多かったからであろう。

     ところが本編についての投稿は一本だけで、OP、CDについての投稿を寄せ集めてやっと一頁の特集の体裁をなしているように見える。

     恐らく、原作ファンによる批判的な投稿が多かったのではないか? それゆえに「アニメージュ」は特集を組んだ。しかし「アニメージュ」は、なぜか、原作ファンによる批判的な投稿を載せなかった。その結果、OPの投稿とか、CDの投稿とかを寄せ集めなくてはならなかったのではないか?

    「アニメージュ」1988年1月号

     「アニメージュ」1988年1月号の投稿欄では「”あした”を感じる「オレンジロード」」という投稿がとりあげられている。TVシリーズを持ち上げて原作漫画より上に置く投稿である。

     私は初めてこの投稿を読んだ時、反発を感じた。しかし筆者の阿世賀浩一郎氏のことを知って少し考えを改めた。この人は原作ファンに対してアニメ版を擁護する立場をとっている人である。「めぞん一刻」でもアニメ版を支持する立場をとっていた。(「アニメージュ」1986年5月号)そういう立場をとっていることに異論はない。

     問題は、「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンがTVシリーズを批判する投稿を「アニメージュ」が載せないことにある。そういう投稿を載せずに、TVシリーズを持ち上げる投稿ばかり載せるのでは、偏ったことになる。

     阿世賀浩一郎氏はこの投稿において、「どうもアニメ誌で見かける意見の数が少ないような気がする」と語っている。

     多かったはずの原作ファンの投稿を載せない結果、投稿が少なくなったのではないか?

    「アニメージュ」1988年3月号

     「アニメGP」の予想をする投稿が集められている中で、「きまぐれオレンジ☆ロード」について「料理の仕方がウマイ」と言われている。

     8月号の投稿欄に「原作のふんい気をうまく映像化する演出法」があるという投稿があったが、そのことがこのように定説のようになっているのである。

     このように原作ファンの声なしで一方的にアニメをよしとする評価が形成されているのである。

    「アニメージュ」1988年4月号

     1988年4月号には「原作つきアニメの傑作「きまぐれ」延長を!」という投稿がとりあげられている。「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを「原作付きアニメの傑作」とよぶものである。

     原作ファンによる投稿がこれまで全く載せられずに、こういう投稿ばかりが載せられていることに違和感があるのである。

    「アニメージュ」1988年5月号

     「アニメージュ」1988年5月号にはじめて「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを批判する投稿が載った。―「対照的だった「きまぐれ」と「ドラグナー」」と題する投稿である。

    ストーリーとしては、原作を十分に消化しきれず、無理の残るエピソードのつなぎ方・オリジナル部分のパロディーの古さなど、一部を除いては、あまり見るべきものがなかったようです。

    「アニメージュ」1988年5月号、167頁

     「一部を除いては、あまり見るべきものがなかった」というのは厳しい言葉である。

     「原作を十分に消化しきれず」というところは、これまで原作をうまく料理したという投稿に反対するものになっている。

     「無理の残るエピソードのつなぎ方・オリジナル部分のパロディーの古さなど」―こういうこともここで初めて出てきた。

     ここではじめてTVシリーズに対して批判的な投稿が載せられた。

     こういう批判がもっと早く載せられず、TVシリーズが終わった後に載せられていることに疑問があるのである。

     TVシリーズが放映されている間、そういう投稿は一つも載せられなかったのである。

     しかもこの投稿にはそのすぐ横に、1月号の阿世賀氏の投稿―TVシリーズを原作より上とする投稿―に同意するという投稿が置かれている。

     バランスをとったということかもしれないが、これまでTVシリーズを批判する投稿を一つもとりあげなかったことによって、バランスは逆の方向に傾いてしまっている。

     この投稿は、TVシリーズに対して批判的であるが、TVシリーズの43話をよしとしていることも特徴的である。そのことについて選者は次のようにコメントしている。

    一方「きまぐれ」のほうは噂の43話に茨城県のしおづかたつやクン・埼玉県の橙道の因クンから、絶賛のお便りが届きました。本誌140ページの誌上アンコールは見てくれたかな?

    「アニメージュ」1988年5月号、167頁

     43話はよかったと言っているゆえに採用したように見えるのである。

     同じ投稿欄の選者が「めぞん一刻」の投稿に対しては1988年1月号で「「まだおもしろくない」という意見があることもお伝えしておきます」とコメントしていることも気になる。

     「めぞん一刻」に関しては、投稿欄に採用しなかった批判的な投稿の存在にわざわざ言及しているのに、「きまぐれオレンジ☆ロード」に関してはそういう批判的な投稿の存在に言及したことは一度もなかった。

    批判の意味

     「アニメージュ」の投稿欄で、原作ファンがアニメ版を批判する投稿をとりあげてきたことには、アニメ版をよりよくするという目的があると選者は語っていた。

     1986年11月号の投稿欄で、選者は、「アニメ向上のためにも討論は必要と思う」という投稿をとりあげて、次のようにコメントしている。

    千葉県のBES-141クン(18)からは「効果は薄くても、アニメを見殺しにはしたくありません」そのための論争だ、という意見がきています。みーんなわかってるんだよね。いいたくないことも、いわなきゃ通じないって。

    「アニメージュ」1986年11月号

     アニメをよくするために論争は必要だというのである。

     「アニメージュ」1987年10月号の投稿欄には、「音無竜之介バンザイ」氏が、「めぞん一刻」に関して、投稿によってよくなったという投稿を載せている。

    それはそうと「めぞん」は以前にくらべて、ずっとよくなっている。これが、原作ファン、そしてこのレタールームに出された手紙によって作り手にファンの気持ちが伝わっていったためだとしたら、こうやってコツコツと手紙を書いていたことはムダじゃなかったんだなあと思います。そして、これからは作り手と受け手が協力しあって(一体となって)作品ができるようになればアニメの未来も開けてゆくんじゃないかと思います。

    「アニメージュ」1987年10月号

     この投稿を載せた「アニメージュ」のスタッフにも同様の考えがあったと思われる。1986年9月号の投稿欄で「「めぞん一刻」改革案」をやっていたことと関係がある。

     このように、「アニメージュ」の投稿欄の選者は「めぞん一刻」に関しては、投稿によって作品を改善するという考えを持っていた。

     ところが「きまぐれオレンジ☆ロード」に関しては、作品に対して批判的な声をわざと載せないようにしているように見える。

     番組が終わった後にはじめて番組を批判する投稿をとりあげることも、批判的な投稿によって改善することに反対することになっている。