月: 2021年7月

  • 「ローマの休日」 オードリー・ヘプバーンの出世作

    「ローマの休日」 オードリー・ヘプバーンの出世作

     「ローマの休日 Roman Holiday 」は1953年に公開されたアメリカ映画。日本では1954年に公開された。

     この映画によってオードリー・ヘプバーンはスターになった。


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    あらすじ

    Photo by Mathew Schwartz on Unsplash

     ヨーロッパの王国の王女アン(オードリー・ヘプバーン)は、ロンドン、アムステルダム、パリ、そしてローマを訪問していた。

     ローマを訪れた夜、王女は公務に対する不満が爆発して、ひそかに町に抜け出した。

     ところがその前にうたれていた眠り薬のために道端で眠りかけていた。

     そこに新聞記者のブラッドリー(グレゴリー・ペック)が通りかかった。

     やりとりの末、ブラッドリーは相手をアン王女と知らないまま自分の部屋に連れて行った。

     翌朝、ブラッドリーが寝坊して職場に行って、自分の取材対象のアン王女の写真をみると、昨夜自分が部屋に連れて行った女性であった。

     ブラッドリーはアン王女の記事を書こうと考えた。

     アン王女は、この機会に自分のやりたいことをやろうと考えていた。

     ブラッドリーはアン王女のやりたいことを手伝うというかたちで、アン王女に気づかないふりをして一緒に過ごした。

     ローマの町で一日遊んで、追手から逃れるなどしている間に、2人の間に恋愛感情が生じた。

    おとぎばなし

    Photo by Zoltan Tasi on Unsplash

     「ローマの休日」の物語は全体的におとぎばなしのようである。

     王女という高貴な身分の人物の話。

     いつも暮らしているところとは異なるところを冒険する話。

    休日

    写真ACから

     「ローマの休日」は「休日」の話である。

    王女

     アン王女は公務を休んで遊ぶ。

     そういう意味で「休日」である。

     アン王女は公務によって疲労していた。

     そのために自分で「休日」をとったのである。

    新聞記者

     ブラッドリーも「休日」を装ってアン王女の「休日」に付き合っていた。

     しかし実は仕事のつもりであった。

     ところがブラッドリーはアン王女と遊んで、そのことを仕事とすべきか、悩むようになった。

    休むこと

     「休日」は、仕事をしない日である。

     仕事をせずに、休み、遊ぶ日である。

     「ローマの休日」は、「休日」に遊ぶところを描いた映画である。

     もともと観客は、「休日」に遊ぶために映画を観にきている。

     その映画で登場人物が「休日」に遊んでいるところを観て、共に遊ぶ気持ちになる。

     「休日」に人はいつもと異なるものになる。

     王女は王女でなくなる。新聞記者は新聞記者でなくなる。

     「ローマの休日」はその可能性を描いている。

    関係

    Moshe HaroshによるPixabayからの画像

    恋愛

     「ローマの休日」では、アン王女と新聞記者ブラッドリーの恋愛が描かれている。

    一緒に遊んでいるうちに

     2人にはそれぞれ他にやりたいことがあって、そのために「休日」を一緒に過ごしていた。

     アン王女はそれまでできなかったことをやろうと思っていた。

     そのためにブラッドリーと一緒にいた。

     ブラッドリーはアン王女の記事を書くために、アン王女と一緒にいた。

     ところがそうして2人で「休日」を遊んでいる間に、2人の間に恋愛感情が生じた。

    別れ

     しかし2人はそれぞれ元に戻っていった。

     王女は王女に。新聞記者は新聞記者に。

     恋愛感情がありながら、2人は結ばれることなく別れた。

    恋愛以外

     映画の最後に2人が別れることには、恋愛が成就しなかったということのほかの意味もある。

     元に戻ったアン王女は、目の前にブラッドリーが新聞記者として来ているのを見る。

     そこでブラッドリーがそれまで嘘をついていたことを知るのである。

     これからブラッドリーは自分の利益のために、「休日」のことを記事に書くかもしれない。

     ところがブラッドリーは「休日」の写真をアン王女に渡して、その記事を書かない気持ちを示した。

     そのことによって、ブラッドリーはアン王女に対して、裏切らないことを示したのである。

     「ローマの休日」の最後に描かれているのはそういうことである。

     そのことは「休日」の写真を撮っていたカメラマン(エディ・アルバート)も同じである。

     カメラマンも、写真を公にすることによって得られる利益を捨てて、アン王女に対して、裏切らないことを示しているのである。

    成長

     ブラッドリーはそれまで自分の利益のために、嘘をついてアン王女に近づいて記事を書こうとしていたが、アン王女と「休日」を過ごして、アン王女を裏切らないことを重んずるようになった。

     アン王女にとっては、それまで王女としての公務に対してただ不自由を感じていたが、庶民の生活を身をもって体験したことによって、庶民のことを知ったと同時に、王女としての公務に対してもまじめに取り組むようになった、ということがある。

    「楊貴妃」

     1955年に公開された溝口健二監督の映画「楊貴妃」で、主人公お楊貴妃が庶民の祭りを自ら楽しむところがある。

     設定は違うが、「ローマの休日」と似ていると私は思った。

    作劇

    athree23によるPixabayからの画像

     「ローマの休日」では、それぞれの登場人物の動機が巧みに組み合わされている。

     王女と新聞記者とそれぞれ異なる考えをもちながら一緒に遊ぶところなどそうである。

    都合

     王女が抜け出して新聞記者の男性の部屋に泊まるなどしながら、きれいなことだけですんでいるところは、都合のいいところであるが、気にならないように脚本が作られている。

     たとえば、新聞記者のブラッドリーが、道端に寝ているアン王女に近づいたのは、落ちそうになったからである。

     アン王女をタクシーに乗せたのに、寝ぼけていて行き先を言わないゆえに、ブラッドリーの部屋に行った。そしてタクシーの運転手に預けて行こうとしたが、タクシーの運転手が拒否したゆえに、ブラッドリーの部屋に連れて行った。

     このようにそれなりに根拠はつけている。

     しかし道端に寝ていた見知らぬ若い女性を、独身の男性が自分の部屋に連れて帰って寝させることは、奇妙なことではある。

    カメラマン

     「ローマの休日」の脚本で一つ私が気になることがある。

     ブラッドリーがカメラマンに対してやることが乱暴すぎるのではないかと思うのである。

     カフェにブラッドリーとアン王女がいるところにカメラマンが来る。

     カメラマンはアン王女に対してアン王女に似ていると言おうとする。また、ブラッドリーと自分の職業を言おうとする。

     ブラッドリーはアン王女に気づいていないふりをしてアン王女の記事をつくるつもりであるゆえに、カメラマンを突き飛ばしたり、飲み物をかけたりして妨害する。

     しかしそもそもカメラマンが来た時に、ブラッドリーからカメラマンに事情を伝えることはできたのではないかと思うのである。(2人で仕事の話をすると言って)

     嘘が知られそうになるという面白さがあることはわかるが、カメラマンが必要もなく傷つけられすぎているように思うのである。

     ブラッドリーが編集長にアン王女の記事はできなかったとうところにカメラマンが写真を持って来たときにも、同じようなことがある。

    オードリー・ヘプバーン

     この映画において第一に輝いているのはオードリー・ヘプバーンである。

      オードリー・ヘプバーンは、ヨーロッパの王女という役を納得させるような気品をそなえている。

      そして町に抜け出して遊ぶところも、魅力的である。

     監督のウィリアム・ワイラーはアン王女を演ずる女優を次のような条件で探していたという。

    「王女役にはアメリカ的アクセントの無い女性がほしい。王女として育ったことが信じられる女性が。それが一番の条件だ―演技と容姿と個性以外ではね」

    「オードリーの愛と真実」、日本文芸社、平成5年、118頁

    オードリーの愛と真実―映画より華麗でドラマチックなオードリー・ヘプバーンの生涯

     オードリー・ヘプバーンはその条件にあてはまっていたようである。

     オードリーの母はオランダの男爵の家系であった。

     その気品はそのことと関係があるようである。

     オードリーはそれまで、英国、オランダを行き来していた。

     「アメリカ的アクセント」がないのはそのためである。

     ウィリアム・ワイラーはラッシュを観た時のことを次のように語っている。

    オードリーはまさに王女だった―あの悠揚迫らぬ身のこなし…バレエの経験とおかあさんの貴族的家系を考えれば充分うなずけるがね。それだけじゃない、彼女は初めてローマに来て夢中になっている若い娘をみごとに体現していた。実に自然でのびやかにそんな情熱につき動かされている彼女を見ている内に、涙があふれてきた。

    「オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生」、近代映画社、1986年、81頁

    オードリー・ヘプバーン―映画に燃えた華麗な人生

    グレゴリー・ペック

     新聞記者のブラッドリーを演じたのはグレゴリー・ペック Gregory Peck である。

     映像特典によると、はじめにワイラーがオファーしたのはケーリー・グラントであった。

     しかしケーリー・グラントは脚本を読んで、新聞記者ブラッドリーより王女アンが中心になる作品だということで、出演を拒否した。

     そこで代わりにグレゴリー・ペックが選ばれたのである。

     グレゴリー・ペックは、ケーリー・グラントに断れた役がくることが多かったと語っている。

     ケーリー・グラントの代わりになると考えられていた俳優だったのである。

     「ローマの休日」は、ケーリー・グラントが考えたように、王女アンが輝く話になっている。

     グレゴリー・ペックが演じたブラッドリーはそれを支える役になっている。

    舞台

    Photo by Michele Bitetto on Unsplash

     「ローマの休日」は、ローマの町をそのまま背景に使っている。―コロッセオ、マルグッタ通り、スペイン広場、トレヴィの泉、ブランカッチョ宮殿などがそのまま背景になっている。

     それまでのハリウッド映画では、その場所に行かずに、スタジオで撮影してしまうことが多かった。

     ウィリアム・ワイラー監督がローマでのロケをもとめたと言われている。

    観光

     「ローマの休日」がローマの町をそのまま背景にしていることには次のような効果がある。

     第一に、観客が映画を観ている間にローマに行った気持ちを味わうということである。

     第二に、観客が映画を観た後に、映画で観たところに行こうと思うことである。

     その二つの意味で、「ローマの休日」は観光と関係がある。

     映画そのものが休日におけるローマの遊び方を示しているということもできる。

    精神

     スタジオで撮る方が、ロケで撮るより、作り手がコントロールすることができる。

     「ローマの休日」でも、交通を制限するとか、周囲の騒音を排除するとか、気温の高さに対処するとか、ストライキやデモに対処するとか、様々な問題があったようである。( 「オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生」、 76~78頁)


    オードリー・ヘプバーン―映画に燃えた華麗な人生

     ウィリアム・ワイラー監督は何故にローマでロケすることをもとめたのか?

     それまでウィリアム・ワイラー監督の助手をしていたレスター・コーニッグが共産主義者と判明してハリウッドから追放された。

     ところがウィリアム・ワイラー監督はそのコーニッグを「ローマの休日」のロケに同行させたという。(「ハリウッド「赤狩り」との闘い」、175~179頁)

     「赤狩り」にもかかわらずコーニッグに仕事をさせるためにローマでのロケを行ったようである。

     1977年のコーニッグの死に際してウィリアム・ワイラーが贈った讃辞には次の言葉があったという。

    我々はローマを解放した最初のアメリカ軍の部隊のひとつだった。

    「ハリウッド「赤狩り」との闘い」、 180頁

     これによると、ウィリアム・ワイラー監督とコーニッグとの間には、「ローマの休日」より前に、「ローマを解放した最初のアメリカ軍」ということがあったようである。

     以上のことは 「ハリウッド「赤狩り」との闘い」 による↓


    ハリウッド「赤狩り」との闘い:「ローマの休日」とチャップリン

     まとめるとこういうことであろうか。

     第2次世界大戦が終わるまでは、映画を撮るのに、米国からローマへ行くことは、政治的に容易でなかったのではないか。

     ところが米国を中心とした連合国がローマを「解放」したということになった。

     ウィリアム・ワイラー監督には自身その「解放」に加わったという自負があった。

     映画の歴史では、第2次世界大戦後に、イタリアでネオリアリズモとよばれる運動が起こった。

     その代表作「無防備都市 Roma città aperta 」などで、ローマの町が舞台として撮影された。(1945年公開)

     ウィリアム・ワイラー監督にも、その「解放」されたローマを、セットによってではなく、ロケによって撮影したいという考えがあったのかもしれない。

    英国王室

     「ローマの休日」が公開された時は、ちょうど英国王室が注目されている時でもあった。

     1952年2月6日にエリザベス2世が英国王に即位した。1953年6月2日に戴冠式が行われた。

     エリザベス2世の妹マーガレット王女はタウンゼント大佐と交際していたが、周囲に反対されて、1955年10月の出会いを最後に、別れることになった。

     マーガレット王女のことは、「ローマの休日」の話と似ている。

     オードリー・ヘプバーンが出演したその他の映画↓


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  • 映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 後半

    映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 後半

     新海誠監督の映画「君の名は。」の気になるところについて一つ一つとりあげて考えてみる。

     今回は後半。

     前半↓

     そして新海誠監督の意図について考えてみる。


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    探す旅

     瀧が三葉の住むところに行くところ。

    同行者

     瀧は一人で行くつもりであった。

     ところが東京駅には友人の司と奥寺先輩が待っていて、瀧について行くという。

     これもおかしいと思う。

     特に奥寺先輩がついていくというのはおかしくないか? すでに司と親しくなっていたということかもしれないが、それまでの奥寺先輩と違う性格になったように見える。

     瀧を心配しているということであろうが、そのために瀧の考えを無視して旅についていくのはどうなのか?

     そもそも瀧の考えを二人はどのくらい知っていたのであろうか?

     知っていたのでなくては、瀧のことを配慮することはできないであろう。

     しかし入れ替わりのことは二人には理解できないのではないか?

     しかしそうだとすると、瀧は二人に旅の目的をどう説明したのか? 二人はそのことを聞いてどう理解したのか?

     思うに、新海誠監督は瀧の旅を途中まで明るいものにするために、司と奥寺先輩がついてくることにしたのであろう。瀧一人では「秒速5センチメートル」のように暗くなったかもしれない。旅を途中まで明るいものにすることで、その後に起こることが際立つ。

     二人は旅を明るいものにするという目的のためにに生かされているが、その内面は作りこまれていないように見える。そのことは、旅の目的が共有しがたいものであることからも気になる。

     瀧はその旅に出るまでに、記憶の中にある三葉の住んでいた町の風景を絵に描いていて、その絵を持って行って、三葉の住んでいた町を探そうとしている。

     しかし飛騨と限定されていて、あれだけ珍しい地形であるのに、ラーメン屋に行くまでわからないということがあるだろうか?

     瀧は奥寺先輩とのデートの時に写真展の飛騨のところで何かを感じていたのに、その写真展に問い合わせないのか?

     景色の記憶のほかに、「糸守」という地名のような言葉の記憶はないのだろうか?

     飛騨のことを調べているのに、糸守のことにつきあたらなかったのか?

     ここでも、登場人物が自分で動いて話を進めるのではなくて、それぞれの場面のために登場人物は動かされていると考えることができる。

     「君の名は。」の作り手は、瀧が薄れた記憶をもとにして絵を描いて、その絵をもとにして飛騨で聞き込みをして、手がかりが得られず帰ろうとしたところではじめて3年前のことを知る、というかたちをとった。

     瀧が三葉の記憶に近づくということを、旅行での苦労というかたちで表現したかったのではないか。

     そして3年前のことを知った時の衝撃を強くしようとしたのではないか。

     瀧は技術的には、東京の自宅にいる間に衝撃の事実を知ることもできたであろう。

     しかしそういう話にしなかった。

     そのために瀧の記憶は景色だけとされて、言葉の記憶はラーメン屋の店主に言われるまで思い出さないことにされた。

    日記が消える

    Iván TamásによるPixabayからの画像

     瀧が三葉の住んでいた町に来てみると、町は隕石によって出来た湖に飲み込まれていた。

     そこで三葉の言葉が残っているはずの日記を見ると、言葉が残っていたが、みるみるうちに文字化けして消えて行った。

     ここは筋が通らないところである。

     その時まで日記は消えずにいて、その時に消えるということはどういう規則によるのか?

     ここまであると思っていたことが突然なかったと知った気持ちを、日記が消えるというかたちで表現しているのであろう。

    3年のずれ

    Photo by Brooke Campbell on Unsplash

     入れ替わりが3年を隔てた間で起こっていたと知るところは、起承転結の転にあたるところ。

     それまで明るく楽し気に進んでいた話が突然暗い断絶に直面して、作品に深みが加わり、観客の心をひく。

     しかしここは多くの人につっこまれるところでもある。

     瀧も三葉もそれまで入れ替わるたびにそれぞれ3年違う世界で一日過ごしていたにもかかわらず、互いにそのことに全く気付いていなかった。

     そういうことはありえないのではないか?

     3年違う世界で、もとの世界と3年違うことを意識せずに一日過ごすことができるであろうか?

     三葉の家でテレビを見ている場面が何度かあるが、3年違えばその内容も違うであろう。

     特にテレビで彗星のニュースが繰り返す出てくるが、瀧がそのことを全く気にしないのはおかしい。

     二人はそれぞれ高校生としてそれぞれの友人と会話しているが、その中で3年の違いに気づかずにいられるであろうか?

     「君の名は。」が公開されたころにはリオ五輪が開かれていて(2016年8月5日~21日)、高校生がオリンピックについて話さないはずがないと私は思っていた。

    (「君の名は。」では、糸守町に彗星が落ちたのは2013年10月4日とされている)

    救出作戦

    Photo by JESHOOTS.COM on Unsplash

     瀧が目を覚ますと、彗星が落ちる前の三葉に入れ替わっていた。

     そこで瀧は糸守の町の人を彗星から救うために走り出す。

     しかし町の人は瀧の言うことを聞かない。

    祖母

     瀧はまず、三葉の家にいる祖母に彗星が落ちるというが、祖母は信じない。

     三葉の祖母は、その前に瀧が三葉と入れ替わっていることに気づいたりしているが、彗星が落ちることは信じない。

     要するに祖母は一度入れ替わりを経験していて、しかし今では忘れているというのであるが、そうだとしても、彗星のことを全く信じないのはおかしいのではないか?

    同級生

     瀧は高校の教室に行って彗星が落ちるという。

     そこで突然画面が変わって、勅使河原、早耶香の二人が瀧とともに町の人を彗星から救うことを考えるという話になっている。

     つまりその二人の外はそのことを信じなかったということである。

     ここも気になる。

     同級生を説得することは容易でないと思うが、しかし二人を説得できたのであれば、その他の何人か説得できてもいいのではないか?

     おそらく、新海誠監督にとっては、瀧と三葉が重要であって、その二人を支える存在として、勅使河原、早耶香の二人がいればいいということであろう。

    三葉の父

     三葉の父の町長が、瀧が彗星が落ちると言っても受け入れないことは、しかたがないことではある。

     しかし全く受け入れない

     そして三葉に入れ替わった瀧に対して「お前は誰だ」と言った。

     ここで三葉の父が全く受け入れないことも、これまでのことと同じように違和感がある。

     「おまえは誰だ」と言って話を切っているところにも違和感がある。

    三葉の東京行き

    omaedaによるPixabayからの画像

     瀧が奥寺先輩とデートした日、三葉は東京に行っていた。

     三葉は妹の四葉に「ちょっと東京に行ってくる」と言って、新幹線で東京に行っている。

    金銭感覚

     高校生が「ちょっと東京に行ってくる」と言って新幹線で東京に行くということが気になる。

     高校生にとって、それもアルバイトをしていない高校生にとって、飛騨から東京まで新幹線で往復する費用は、「ちょっと」ではないのではないか?

     しかもこの場合、東京に行って何をするかよくわかっていないようである。

     また、そういうことができるのに、何故に今までしようとしなかったのか? ということも気になる。

     入れ替わりをどうすべきかという問題はそれだけ大きな問題だと私は思う。

     ここでは、三葉の瀧に対する気持ちがそれだけ高まっていたと受け取るべきなのであろう。

    出会い方

     三葉は東京に着いてから、電車に乗ったり、歩いたり、バスに乗ったりしている。

     そうして夕方に代々木駅に来た電車に乗っている瀧を見つけたということになっている。

     東京で人を探すことの苦労を描いているようである。

     しかしそのようにあてもなく探しまわっても見つかるはずがないと私は思ってしまう。

     飛騨にその日のうちに帰らなくてはならないことを考えると、時間がないと思ってしまう。

     その後で偶然瀧に出会えたことは都合がよすぎると思ってしまう。

     四谷の待ち合わせのことを考えてそのあたりに行くとか、記憶をたどって瀧の高校や瀧の家に行くとかすべきではないか?

    組紐

    イラストACから

     三葉が瀧に組紐を渡すところはこの映画の大事なところである。

     しかし相手から「誰? お前」と突き放すようなことを言われているのに、呼び止められたからといって、電車から降りながら組紐を渡そうと思うだろうか?

     相手は受け取らないかもしれないではないか。

     二人が離れる動きの中で組紐を渡す絵がいいということであろうか?

     まず、中学生の瀧が、まだ知らないとはいえ、三葉に話しかけられて、あのようにただつきはなしていることには違和感がある。

     瀧が電車から降りる三葉を突然呼び止める気持ちもわからない。

     あのように三葉から組紐を差し出されると、受け取らざるをえないとも思うが、それから3年、その組紐を手首に巻いていて、そうしながら誰からもらったか忘れたということはおかしい。

    出会い

    KanenoriによるPixabayからの画像

     三葉に入れ替わった瀧は、三葉に会うために山の上に行く。

     このあたりにも気になることが多い。

    三葉に会いに行くこと

     瀧は、三葉の父を説得することに失敗した後、「三葉なら説得できたのか?」と考え始める。

     そして山の上を見て、「そこにいるのか?」とつぶやいて、勅使河原の自転車でその方へ行っている。

     このあたりは映画館で観てついていけなかったところである。

     第一に、「三葉なら説得できたのか?」と考えることについていけない。

     町の人を彗星から救うという目的のために三葉の父の町長を説得しようとしている時に、「三葉なら説得できたのか?」と思うであろうか?

     第二に、瀧がどうして山の上を見て、「そこにいるのか?」と思うことができたのか、よくわからない。

     ここでの瀧には糸守の町の人を彗星から救うという大きな目的があるゆえに、その目的と関係がないように見えることが気になるのである。

    山の上

     3年前の三葉に入れ替わった瀧と、3年後の瀧に入れ替わった三葉は、山の上で出会う。

     このあたりは映画館で観た時に感動している人もいた。

     しかし私はどういう理屈で出会うことできているのか理解できず、話についていくことで精一杯で、感動どころではなかった。

     瀧は3年前(2013年)の三葉と入れ替わって3年前の山の上に来ているのに、そこでどうして3年後(2016年)の瀧と入れ替わって3年後の山の上に来た三葉と会うことができるのか?

     小説版では、はじめに声だけが聞こえた時に瀧が次のように独白している。

    この声が―俺の声が、三葉の声が、現実の空気を震わせているのか、それとも魂のような部分にだけ響いているのか、俺にはよく分からない。俺たちは同じ場所にいても、三年ずれているはずだから。

    「小説 君の名は。」、194~195頁

     瀧も理屈はわからないという。

     しかし瀧が山の上に来たのは、そこで三葉と出会うことができると考えたからにちがいない。

     どうして瀧はそう考えることができたのか?

     黄昏の時に、瀧と三葉は互いに相手の姿を見ることができるようになった。そしてそれぞれ元の体に戻っていた。

     そうなる理屈もわからない。

    時間の問題

    Tanja-Denise SchantzによるPixabayからの画像

     「君の名は。」では時間を超えた入れ替わり、そして時間を超えた出会いが起こる。

     それゆえに気になるところがある。

    三葉の死

     瀧が口嚙み酒を飲んで三葉と入れ替わったのは、彗星が糸守に落ちる前である。

     口嚙み酒のところで倒れていた瀧に入れ替わった三葉は、彗星が糸守に落ちる前の三葉である。

     ところが瀧に入れ替わった三葉は、彗星が糸守に落ちて、自身が死んだ記憶を持っている。

     どういうことであろうか?

     三葉が入れ替わった3年後の瀧の体は、彗星が糸守に落ちた後の体であって、彗星が落ちたという事実、そしてその中にあった三葉の死という事実が織り込まれていて、入れ替わった三葉もその記憶をもつことになった、ということであろうか?

    記憶

     はじめの話では、彗星が糸守に落ちて、三葉も町の人500人もそのために亡くなることになっていた。

     ところが入れ替わりが起こって、彗星のことを知っていた瀧が3年後の世界から来て、彗星が落ちる前の世界にはたらきかけた。

     そして一度3年後の瀧と入れ替わって彗星のことを知った三葉も、3年前の世界に帰ってはたらきかけた。

     その結果、彗星は糸守に落ちるが、三葉も町の人500人も亡くならないことになった。

     三葉にも、瀧にも、三葉を含めた500人の町の人が亡くなったという事実はなくなったのである。

     2人が彗星によって人が亡くなることを知って、そのことから町を救うために奔走したという記憶もなくなる。

     2人は別れて間もなくそれまで2人でやってきたことを忘れていく。

    名前

     「君の名は。」では、2人がそれまでの記憶をなくしていくことを、相手の名前の記憶をなくしていくというかたちに集約して表現している。

    気になる

     2人がそれまでの記憶がなくしていくことを、相手の名前の記憶をなくしていくというかたちに集約して表現していることは、理屈としては理解できる。

     しかし私は映画を観ていて気になった。

     2人は相手の名前をおぼえていること、おぼえていないことを問題としているが、2人にとっては相手の名前より、相手についての記憶が重要ではないか、と思ってしまうのである。

     三葉が糸守の町の人を救うために走っている途中で、瀧の名前を忘れたことを問題としているところをみると、脇道にそれているように見えてしまう。

    救う

     瀧と別れた三葉は、町の人を救うために山を下って行く。

     ここで、まず早耶香の防災無線乗っ取りが失敗し、次に勅使河原も親につかまってしまった後で、三葉が父のところへ行って正面から見据える、そして彗星が落ちて町が燃える、というところで途切れる。

     そして8年後の瀧の話で、偶然その日に町を挙げての避難訓練があって、町民は助かったということになっている。

    気になる

     映画を観ていて物足りなく感じたところ。

    過程が描かれていない

     どうして町民が助かったのかが描かれずに、素材と結果だけ並べられて助かったと言われても、物足りない。

     新海誠監督にとっては、どうでもいいところであったかもしれない。

     しかしどうやって彗星から町の人を救うかということで観客をひっぱってきたのに、その救うところが描かれていないのでは、物足りないと言われても仕方がない。

    バランス

     彗星のことを知った瀧は、もう一度三葉に入れ替わって、勅使河原、早耶香とともに、作戦を立てた。

     しかし瀧は三葉の父を説得できずに、なぜか三葉と出会うために山の上に行く。

     そして自分の体に戻った三葉は、勅使河原、早耶香とともに作戦を実行に移すが、早耶香も勅使河原も大人につかまってしまう。

     一方で、彗星が落ちる時が迫っているのに、他方で、町の人を救うための三葉等の作戦は成功から遠ざかっていく。

     緊迫感を強調するためにそのように描いたのかもしれないが、それだけ追い込まれた状況を見せられると、その状況からどうやって町の人を救うところまで持っていくことができたのか、見たくなるのである。

    いつも誰かを探している

    記憶を失う

     瀧は三葉と別れた後、記憶を失っていく。

     そのことは理解できるのであるが、細部が気になる。

     瀧は記憶を失って山の上で目を覚ましたというが、そのようなことがあって記憶を失っただけですませるだろうか?

     飛騨に司、奥寺先輩と旅して、別れて帰ってきたことまでおぼえているのに、その先のことはぼんやりとしかおぼえていないですませるだろうか?

    すれ違い

     記憶を失った瀧はいつも誰かを探している。

     そして同じく記憶を失った三葉もいつも誰かを探している。

     2人はすれ違いを繰り返す。

     このあたりは「秒速5センチメートル」を踏まえているようである。

     東京のビルに降る雪の下を瀧が歩くところ。女性とすれちがってハッとする。左手をポケットに入れている。そして振り返ってみる。

    「君の名は。」と「秒速5センチメートル」

     「秒速5センチメートル」では、振り返った先に相手の女性はいなかった。

     「君の名は。」では、互いに相手を求めていて、結局言葉を交わすことができた。

     新海誠監督は「君の名は。」について次のように語っている。

    人生には出会うべき相手がいるというテーマ、つまり「運命の人って、いるんだよ」ということですよね。それを、もう少し長い物語で描きたいと思ったのが最初のきっかけですね。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

    https://www.cinematoday.jp/page/A0005142

     両作品の違いはそのことにあるということができる。

     「君の名は。」においては、夢が重要な意味を持っている。

     新海誠監督は「君の名は。」のもとになったことについて次のように語っている。

    『君の名は。』は、昔話の構造ではなく「夢と知りせば」という和歌がインスピレーションを与えてくれました。夢から覚めてなぜかさみしいという感情は、小野小町のいた平安時代から、いやそれ以前から今にいたるまで人の持つ共通の感覚だろうと思ったのです。

    『君の名は。』大ヒットの理由を新海誠監督が自ら読み解く(上)

    https://diamond.jp/articles/-/102660?page=2

     瀧、三葉の2人が夢に対して同じように感じている。

     「君の名は。」において、夢は母胎のように現れている。

     小説版のはじめには、目が覚める前の状態について次のように言われている。

    私は大切なだれかと隙間なくぴったりとくっついている。分かちがたく結びついている。乳房に抱かれた乳呑み児の頃のように、不安や寂しさなんてかけらもない。

    「小説 君の名は。」、6頁

     映画中盤で瀧は口嚙み酒を飲んだ後に、彗星の映像が、へその緒を切る映像につながるところをみている。

     2人は同じように失われた夢を追い求めて、そうしてついに出会うのである。


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  • 映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 前半

    映画「君の名は。」の気になるところについて考えてみる 前半

     新海誠監督の映画「君の名は。」には気になるところが多くある。

     一つ一つ取り上げて考えてみる。

     まず前半。

    http://www.kiminona.com/


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    入れ替わり

    ElisaRivaによるPixabayからの画像

     まず、男子高校生立花瀧が目を覚ましてから、自分が女の姿になっていると気づくところ。

     瀧はまず自分の胸の形が変わっていることに気づくことになっている。

     しかし自分の胸の形は、自分の目から見て目立つものであろうか? 目覚めたばかりで、体が入れ替わっているとは思っていない時に、目立つものであろうか?

     その後に鏡の前で裸になった時に、自分の体が女性の体になっていたことに気づくことになっている。

     しかし、そういう時に突然鏡の前で裸になるであろうか?

     思春期の男女の入れ替わりの話で、思春期に気になるところに注意させるをとりあげることはいいと思う。

     しかしもっと自然な流れにできたのではないか?

    襖を閉める妹

     女子高校生に入れ替わった瀧に、その女子高校生の妹が「ご・は・ん! 早くない!」と言って「叩きつけるように襖を閉め」て行く。(小説版)

     その女の子はこの後にも何度か同じように「叩きつけるように襖を閉め」て行く。

     このように「叩きつけるように襖を閉め」て行くことは、その女の子のキャラクターと合っているし、映画をテンポよく進めることにもなっている。

     しかし、姉に部屋から出てくるよう言いながら、自分で「叩きつけるように襖を閉め」て行くことは、相反することである。

    「昨日はおかしかった」

     女子高校生三葉(本人)は朝起きてから会う人ごとに、昨日はおかしかったと言われる。―祖母、妹、友人、学校の教師にそう言われる。

     三葉はその前の日に瀧と入れ替わっていた。周りの人は瀧が中に入った三葉のことを言っているのである。

     三葉は周りの人に昨日おかしかったと言われて驚くが、それより夜の儀式のことに関心を移してしまう。

     三葉にとって夜の儀式のことは大きなことであるかもしれない。しかし昨日の自分はどうしていたかということを考えずにいられるのであろうか?

     三葉の家族も友人も、三葉の中身が一日変わっていたのに、その日だけおかしかったとすませることができるであろうか?

    町長

     三葉が学校に向かって歩いている途中で、広場で三葉の父親の現職町長が選挙のための演説をしていた。父親は通りかかった三葉をみて、「胸張って歩かんか」と言う。

     この場面では、三葉が田舎での暮らしに不満を感じるところが描かれていると思われる。

     そのことが、三葉が東京に行きたいと思う理由の一つになっている。

     しかし三葉の父からすると、現職町長であって再選を目指しているのに、現在別居していて、その日も違う家から出て来た娘を、人前で叱りつけることは、体裁のいいことではないのではないか?

    組紐

    写真ACから

     三葉の家の神社では「千年の歴史が刻まれとる」という組紐を作っている。

     三葉はその組紐で髪を結って学校に行っている。

     神社で作っている長い伝統のある組紐を、女子高校生がおしゃれをする感じで髪を結うために使っている、というところが気になった。

     それが新海誠流ということか。

    三葉の叫び

    写真ACから

     儀式の後、三葉は鳥居をくぐって叫ぶ。

    もうこんな町いやや! こんな人生いやや! 来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!

    「君の名は。」

     当時TVのCMで繰り返しこの叫びが流れていた。

     そのCMを見た時にも違和感があったが、映画を観てもやはり違和感があった。

     田舎の女子高校生が東京に行きたいというところまでは自然なことだと思うが、「イケメン男子」になりたいということは自然なこととは思えない。

     その前に女性として恥ずかしい儀式をやったことがきっかけになっているのであるが、それでも「イケメン男子」になりたいと願うだろうか? と思ってしまう。

     新海誠監督自身も気になっていたようである。

    劇中で「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫ぶんですが、「普通そんなこと叫ぶかな?」ってちょっと引っ掛かっていたんです。物語の都合に、キャラクターの芝居を合わせてしまったのではないかと。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

     ところが女優によって説得力あるものになったと新海誠監督はいう。

    でも、上白石さんに会った時、「この子だったらそんなこと叫んじゃうかもしれない」「勢いで、嫌なことを思い切り発散してしまうかもしれない」そんなことを感じさせてくれて。

    『君の名は。』新海誠監督インタビュー~運命の人はいる、ということを伝えたかった~

     新海誠監督はわざとこの叫びを重みのない、軽いものにしたようである。

    https://www.cinematoday.jp/page/A0005142

     この叫びに関してはもう一つ問題がある。

     この叫びは、鳥居をくぐるところでなされていることを考えても、その後に入れ替わりという超常現象が起こる原因になったことのように見える。

     三葉が「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」と叫んだことを原因として、三葉は東京の男子瀧と入れ替わった、ように見える。

     しかしこの叫びの前に三葉は入れ替わりをしている。

     この叫びは、例の儀式の後になされている。例の儀式は、三葉が学校で「サヤちん」と入れ替わりに関して話をした後である。

     入れ替わりが起こった後に、入れ替わりをもとめて叫んだことになっている。

    瀧の部屋

    Photo by Ryo Yoshitake on Unsplash

     三葉の叫びの後、場面は切り替わって、東京の瀧の部屋で、瀧に入れ替わった三葉が目を覚ますところになる。

     ここでも瀧と同じように、三葉は目を覚ましてすぐに、男性の体に入れ替わったことがわかるところにピンポイントで気づいている。

     そのことは瀧の場合と同じように気になる。

     しかしその後に瀧に入れ替わった三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行く流れは、それより気になった。

     ここで三葉には、瀧のふりをして瀧の学校に行く動機がないはずである。

     三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くという話にするためには、そのことが自然であるように話を作らなくてはならないと思われるが、そういうことはない。

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧の父親に呼ばれているので、父親をそのために使うとばかり思っていた。

     父親が瀧に入れ替わった三葉に学校に行くように急かすとか、途中まで一緒に行こうと言うとかすれば、瀧に入れ替わった三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くことも自然になる。

     ところが瀧の父親はそういうことをせずに、瀧に入れ替わった三葉を残して出て行ってしまった。

     そこに瀧の友人の司から学校に来いと言うメールが来たが、これも三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行かなくてはならないと思うには弱い。

     三葉は、容姿は瀧のようになっているが、心は三葉のままである。

     三葉は東京で制約のない状況に置かれた場合、やりたいことをやろうとするのではないか?

     ところが三葉はなぜか、強いる者もいないのに、やりたいことをやらずに、瀧のふりをして瀧の学校に行っている。

     三葉が瀧のふりをして瀧の学校に行くことは困難ばかりだと思われるが、なぜかその道を自ら選んでいる。

    東京のイメージ

    Photo by Laurentiu Morariu on Unsplash

     瀧に入れ替わった三葉は、新宿を歩いて「東京やあ!」と言って感動している。

     何ゆえに東京の中でも新宿なのか?

     新海誠監督はインタビューで、「僕の世代にとって東京といえば新宿だったんですよ。」と語っている。「シティハンター」や「機動警察パトレイバー」の影響があったという。そして「僕は未だにそのイメージを引きずっていて、東京といえば新宿だっていう気分がすごく大きいんです。」と言っている。

    https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1472453958

     新海誠監督の世代によることのようである。

     私は、女子高校生が東京の人と入れ替わる話だと聞いた時に、当然女子高校生は原宿に行くと思い込んでいた。

     そして新海誠監督がアニメでどのように原宿を描くのだろうかと思っていた。

     ところが「君の名は。」では、原宿は全く描かれなかった。

    カフェ

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧の友人の司、高木に誘われて三人でカフェに行く。

     三葉は田舎にいた時にカフェに行きたいと言っていた。そのことがかなった、というかたちになっている。

     しかし三葉が自分で来るのでなく、瀧の友人に連れられてくるということに違和感がある。

     男子高校生三人でカフェに行くということに対して違和感があるのである。

     ここでも作り手のやりたいことが先行して、そのために登場人物が動かされているように見える。

    イタリアンレストラン

     瀧に入れ替わった三葉は、瀧のアルバイト先のイタリア料理店で瀧の代わりにアルバイトをやることになる。

     しかしそれまでやったことのないアルバイトを突然やれと言われて、まごつきながらもできてしまう、ということは都合がよすぎると思う。

    入れ替わりの日常

     瀧、三葉二人が夢の中で入れ替わっていることを意識したところで、RADWIMPSの楽曲が流れて、それに乗せて瀧、三葉の入れ替わりの日常がダイジェストで描かれている。

     その中心にあるのは入れ替わりである。

     入れ替わりについて、瀧、三葉がわかってきたことは次の通り。

    ・瀧は、三葉と同じ年で、東京に住む男子高校生(と三葉はわかった)

    ・三葉は、「ど田舎暮らし」の高校生(と瀧はわかった)

    ・入れ替わりは不定期で、週に二、三度、ふいに訪れる。

    ・トリガーは眠ること。原因は不明。

    ・入れ替わっていた時の記憶は、目覚めると不鮮明になる。

     入れ替わりの対策として二人は、携帯電話に、入れ替わった時の注意点や禁止事項、入れ替わった時の出来事を書き残すというルールを作った。

     このあたりも気になる。

     二人は入れ替わりという状況を理解して、その対策をするために相互にコミュニケーションをとるに至っている。

     それにもかかわらず、電話で直接やり取りするとか、交通機関を使って会いに行くとかしないことは不自然でないか?

     小説版には次のように書いてある。

    メールや電話も試してみたが、なぜかどちらも通じなかった。

    「小説 君の名は。」、80頁

     映画でもすべきではなかったか?

     メールも電話も通じないとしても、もとの自分の家に行こうと思わないことは不自然ではないか?

     思うに、新海誠監督は、二人が入れ替わりという「夢」を二人の間だけで共有するという状況を作りたかった。

     それに対して私は、二人が与えられた状況で、相手のふりをするだけに終始する動機が十分にないと思ってしまうのである。

    奥寺先輩

     瀧のアルバイト先の奥寺先輩は「君の名は。」において重要な位置を占めている。

     しかし奥寺先輩という人物も、作り手のやりたいことのために動かされているように見える。

    好意

     奥寺先輩はまず、瀧に入れ替わった三葉が、切り裂かれたアルバイトの制服を刺繍でつくろったところをみて、「今日の君のほうがいいよ」と言っている。

     奥寺先輩は、刺繍のできる、「女子力高い」男性がいいと思ったのか? 三葉がいいと思ったのか? 恋愛感情なのか?

    デート

     瀧は奥寺先輩とデートをして、会話が続かないと言っている。うまくいかなかったようである。しかし何がうまくいかなかったのか、よくわからない。

     奥寺先輩は瀧にどういうことを望んでいたのか、瀧はどうして答えることができなかったのか、よくわからない。

     デートで寄った写真展で、瀧は思わず飛騨の写真に見入っていた。

     奥寺先輩は、写真に見入っている瀧を横から見て、表情を変えて、瀧に「今日は別人みたいだね」と言った。

     しかし、瀧がこの場面で写真展の写真に見入っていることから、瀧の奥寺先輩に対する気持ち、他の女性に対する気持ちを知ることはできないのではないか?

    帰り際

     帰り際に奥寺先輩は瀧に「昔私のことが好きだったでしょう」と言い、「今は他に好きな子がいるでしょう」と言った。

     この言葉もひっかかる。

     まず「昔私のことが好きだったでしょう」というのは、瀧が中身の時のことを言っているのか、三葉が中身の時のことを言っているのか、よくわからない。

     次に「今は他に好きな子がいるでしょう」と言うことについては、奥寺先輩がそういうことの根拠がわからない。

    三葉と奥寺先輩

     三葉が奥寺先輩に対してどう考えていたのか、ということも気になる。

     三葉は瀧のために奥寺先輩との関係を進めてあげているかのようなことを言っている。

     しかし瀧が奥寺先輩に好意を持っていたとしても、三葉がその関係を進めてはいけないのではないか?

     三葉のせいで瀧と奥寺先輩との関係は破綻している。(三葉なしでもうまくいかなかったかもしれないが、うまくいったかもしれない)

     思うに、奥寺先輩はこの映画で、瀧と三葉の二人が互いに相手のことを思うに至るまえの踏み台のような役割をしている。

     ただし登場人物それぞれが自然に動いて話を動かしているという感じにはなっていない。

     登場人物がその時々にどう考えて動いているのか、観客にはよくわからず、そもそもつじつまが合うように作られていないのではないかと思われる。

     そのことが私には気になる。

     たとえば、三葉が瀧と奥寺先輩のデートの日に突然涙を流すとか、

     また、突然奥寺先輩が瀧に「他に好きな子がいるでしょう」と言うとか、

     そこに至るまでの心の動きは十分に描かれていない。

     そういう場面が突然出てくるのである。

     しかしそうしてできた作品が歴史的な興行成績を上げたのであるから、多くの人の心に響いたわけである。

     前半はここまで。後半に続く↓


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