カテゴリー: 宮崎駿

  • 映画「君たちはどう生きるか」 宮崎駿監督のイメージあふれる映画

    映画「君たちはどう生きるか」 宮崎駿監督のイメージあふれる映画

     2023年7月14日、宮崎駿監督の映画「君たちはどう生きるか」が公開された。

     その前に「君たちはどう生きるか」という題は示されていた。しかしそれだけでは、どういう作品が出来るか見当がつかない。

     「君たちはどう生きるか」という題では倫理的求道的な作品のようでもある。エンターテインメントではないようである。

     前作「風立ちぬ」が公開された2013年7月20日から10年たっている。

     その間に宮崎駿監督はどういう方向へ向かったのか?

     どういう映画か明らかにされないまま、公開の日を迎えた。

    自由

     映画のはじめは前作「風立ちぬ」に近いようにも見えた。

     しかし次第に「風立ちぬ」と大きく異なる世界に進んで行った。

     「風立ちぬ」より前の宮崎駿監督の作品に近いところがある。

     宮崎駿監督がこれまでの作品で見せてきた想像力の集大成とも思われる。

     勿論新たな形になってはいる。

     「風立ちぬ」では、宮崎駿監督の想像力が素材に縛られて、自由になっていないのではないかと思ったところがあったが、「君たちはどう生きるか」では、何にも縛られることなくのびのびとしているように見えた。

     その他の作品でも、たとえば原作がある作品で、宮崎駿監督の想像力が原作と対立しているのではないかと思ったところがあったが、「君たちはどう生きるか」では、そういうことはない。

     そのことと関連して、構成は比較的にすっきりしている。

    命が伸びる気持ち

     前作で終わりかと思われた宮崎駿監督が、それから10年後にこのような作品を作ったことをみて、生きる力を受け取った。

     高畑勲監督、大塚康生さんなど、10年前には健在だった人々が、この10年の間に亡くなるということもあった。

     叶精二氏の記事。

    https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01161/

     昔からのスタッフも集まっている。

     「風立ちぬ」までは、宮崎駿監督は権威のように見えていたが、「君たちはどう生きるか」では違うことを感ずる。

  • 宮崎駿監督の映画「紅の豚」の「豚」ということにはどういう意味があるのか?

    宮崎駿監督の映画「紅の豚」の「豚」ということにはどういう意味があるのか?

     1992年に公開された宮崎駿監督の映画「紅の豚」。

     「紅の豚」の「豚」ということにはどういう意味があるのか?

     「紅の豚」の主人公が「豚」であることにはどういう意味があるのか?


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    「紅の豚」ができるまで

     映画「紅の豚」は、「飛行艇時代」という漫画をもとにしている。


    飛行艇時代―映画『紅の豚』原作

     「飛行艇時代」は宮崎駿監督が描いた漫画で、「月刊モデルグラフィックス」1990年3、4、5月号に掲載された。

     その「飛行艇時代」をもとにして映画「紅の豚」が企画された。

     はじめは「15分程度の短編映画」として企画されたが、作っていくうちに60分を超える長編映画になったという。(鈴木敏夫「ジブリの仲間たち」、60~61頁)


    ジブリの仲間たち(新潮新書)

     そうして1992年に公開された映画「紅の豚」には、はじめに考えられていたものと、その後に付け加わえられたものとが混ざっている。

     「紅の豚」の「豚」ということの意味にも、はじめに考えられていたものと、その後に付け加えられたものとが混ざっている。

     どのように混ざっているのか?

    はじめに考えられていた「紅の豚」

     宮崎駿監督がはじめに考えていた「紅の豚」は、

    ・漫画「飛行艇時代」(1990年)

    ・宮崎駿監督が書いた「紅の豚メモ―演出覚書」(1991年)

     によって知ることができる。

    疲れた中年男が楽しむための映画

     「紅の豚メモ―演出覚書」で宮崎駿監督は、「紅の豚」は疲れた中年男のための映画だと語っている。

    国際便の疲れきったビジネスマンたちの、酸欠で一段と鈍くなった頭でも楽しめる映画。少年少女たちや、おばさまたちにも楽しめる作品でなければならないが、まずもって、この作品が「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」であることを忘れてはならない。

    「出発点1979~1996」、徳間書店、1996年、413頁

    出発点―1979~1996

     「紅の豚」はそのように考えられた映画である。

     その映画の主人公の「豚」もそのために考えられたキャラクターである。

     疲れた「中年男」のヒーロー。―疲れた「中年男」が共感できる存在であり、疲れた「中年男」がやりたいことをやってみせる存在である。

     「紅の豚」の主人公が「豚」であることは、疲れた「中年男」が共感できるということと関わる。疲れた「中年男」が共感できるような体形を現している。

     そういう主人公が、疲れた「中年男」の望みをかなえる。

    こんな町に行ってみたい町。こんな空を飛んでみたいと思える空。自分も欲しい秘密のアジト。悩みなく、壮快に明るい世界。

    「出発点1979~1996」、415頁

    出発点―1979~1996

     女性キャラクターも、疲れた「中年男」のために描かれる。

     たとえば「飛行艇時代」のはじめに主人公が観光艇に出くわして、その乗客の多くの女性に「カッコイイー」と言われるところがある。(「紅の豚」のはじめにもある)

     主人公は「豚」であってかっこよくない。特にかっこいいことをして見せているのでもない。それにもかかわらず、「カッコイイー」と言われるのである。

     「飛行艇時代」の第一話は、悪者に捕らえられた少女を主人公が救い出すという、古くからある英雄の話のかたちであるが、変わっている。(「紅の豚」では多くの幼女を救い出す話になっている)

    ・主人公は悪者と戦って勝つかたちになっているが、主人公と悪者の間に、まじめな、生々しい戦いはない。(戦争はない)

    ・主人公はヒロインを救い出すかたちになっているが、主人公が救い出したというより、ヒロインが自分で出てきたように見える。それでもヒロインは主人公に好意を寄せている。

     いわば戦わずに勝っているようなかたちになっているのである。

     第二話、第三話のフィオをめぐる話は、少し複雑になっているが、同じような構造になっている。

     フィオという美少女はなぜか一方的に主人公に好意を持っている。

     そのフィオをめぐって悪漢米人と戦うことになる。

     そもそもフィオは主人公に対して一方的に好意を持っているのに、そのフィオをめぐって戦うことは、コメディであって、まじめな戦いではない。

     空中で決着をつけずに、海で殴り合いをするところも、コメディであって、まじめな戦いではない。かっこよく勝つということもない。

     宮崎駿監督は次のように書いていた。

    ダイナミックだが、破壊的ではない。
    愛はたっぷりあるが、肉慾はよけいだ。

    「出発点1979~1996」、414頁

    出発点―1979~1996

     「ダイナミックだが、破壊的ではない」というのは、生々しい戦いがない(戦争がない)ことを示すことのようである。

     「愛はたっぷりあるが、肉慾はよけいだ」というのは、主人公は女性にもてるが、生々しいことはないことを示すことのようである。

    その後に付け加えられたこと

     映画「紅の豚」には、ここまで語ってきたことのほかに、新たに付け加えられたことがある。

    マダム、リアリティ

     「飛行艇時代」にはなくて、新たに付け加えられたことは、「紅の豚メモ―演出覚書」にすでにあった。

     ポルコ、フィオ、ドナルド・カーチス、ピッコロ、ホテルのマダム、マンマユート団の面々、その他の空賊達、これ等主要な登場人物が、みな人生を刻んで来たリアリティを持つこと。

    「出発点1979~1996」、414頁

    出発点―1979~1996

     まず、「飛行艇時代」の登場人物には「人生を刻んで来たリアリティ」はなかったように見える。

     ここで「中年男」に深みを付け加える考えが出てきている。

     次に「ホテルのマダム」である。

     その他のキャラクターは、名前は必ずしも同じではないが、「飛行艇時代」に出ていた。

     「ホテルのマダム」は「飛行艇時代」には出ていなかった。

     「紅の豚」では、「ホテルのマダム」はジーナという名で出てくる。

     「紅の豚」のジーナは、亡くなった飛行艇乗りの仲間を、主人公と共有しているとされる。

     そういうかたちで「人生を刻んで来たリアリティ」を表現するキャラクターとなっている。

     主人公の「豚」ということには、そのことによって新たな意味が付け加えられる。

     それに対して「飛行艇時代」にも出ていた米人は、そういう深みがわからないキャラクターとされている。

    ファシズム

     「紅の豚」には、その上にファシズムということが付け加えられている。

     主人公が「豚」になっていることには、ファシズムに対して、国家から独立した個人となるという意味が付け加えられている。

     「豚」ということは、怠惰になることと解釈することができるが、「飛行艇時代」と「紅の豚」とでその意味が変わっている。

     「飛行艇時代」では、怠惰になることは、疲れた中年男を癒すためであった。

     「紅の豚」では、怠惰になることは、ファシズムから独立するという意味が付け加えられた。

    新旧の要素

     「紅の豚」には、はじめに考えていたことと、その後に付け加えられたこととが混ざっている。

     「紅の豚」の主人公は、

    ・はじめに考えていたように、疲れた「中年男」をいやす存在であるが、

    ・ファシズムと対立して、国家から独立した「豚」となっている存在でもある

     両面があるからいいということもできるかもしれない。

     しかしちぐはぐになっているということもできる。

     たとえば、ファシズムと対立して国家からも独立しているという主人公が、「中年男」をいやすことをやっていることは、筋が通っているのか?

     米人とフィオを取り合うところにジーナが来るのは、「飛行艇時代」のフィオの話と、後で付け加えられたジーナの話が混ざっているからである。しかしそれぞれで完結すべき話が、一つの話の中で鉢合わせして、奇妙なことになっている、ということもできる。


    飛行艇時代―映画『紅の豚』原作

    森山周一郎

     「紅の豚」の主人公の「豚」は森山周一郎のハードボイルド風味の低い声をもっている。

     「飛行艇時代」の主人公はそういう声を持っていなかった。

    https://www.asahi.com/articles/ASP296QN8P29UCLV00G.html

    「紅の豚」のDVD、Blu-ray

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  • 「千と千尋の神隠し」について

    「千と千尋の神隠し」について

     「千と千尋の神隠し」は2001年に公開された。

     当時記録的な興行収入を上げた。


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    「千と千尋の神隠し」と異世界

     「千と千尋の神隠し」は、異世界に行く話である。

     日本の古いものとそれ以外のものが入り混じった華美で俗悪な異世界に、観客は主人公とともに入っていく。

    「千と千尋の神隠し」と「労働」

     「千と千尋の神隠し」はまず子どもが労働者になるということを描いている。

     主人公の千尋はまだ子供であって労働する年齢ではないが、

    ・突然保護者としての親を失う。

    ・働かなくてはならないとされる。

     人は働かなくてはならないということを描いているようにも見える。

    「千と千尋の神隠し」の湯婆婆

     「千と千尋の神隠し」で千尋が働くのは、湯婆婆の下でである。

     千尋はただ労働するのでなく、湯婆婆の下で働くのである。

     湯婆婆の下での労働には、ただの労働とは違う意味がある。

    ・湯婆婆は千尋の両親を豚の姿にした者である。

     湯婆婆の下で働くことには、両親のために働くという意味がある。

    ・湯婆婆は名を奪う者である。―千尋の名を奪った。ハクの名を奪った。

     湯婆婆の下で働くことには、湯婆婆に隷属するという意味がある。

     その隷属に対して解放が求められることになる。

    「千と千尋の神隠し」の銭婆

     千尋はハクを救うために銭婆のところに行くことを決意する。

     銭婆のところに行くことは、行くことはできても帰ることができるかわからないことと言われている。

     日が暮れる水の上を走る鉄道に乗っていくところは、死の国に行くようにも見える。

     ところが銭婆のところに行ってみると、それまで言われていたような、帰ることができるかどうかわからないような障害はない。

     銭婆はひたすら千尋にやさしい。

     千尋は銭婆のところから帰る途中でハクを救う。そして湯婆婆のところに帰ってきて、両親を救う。

     いずれも千尋が簡単に解決してしまう。―湯婆婆との対決は簡単に決着がついてしまう。

    「千と千尋の神隠し」のハク

     「千と千尋の神隠し」は千尋がハクを救うという話になる。

     はじめに少女を救った少年を、次に少女が救うという話は、話として面白い。

     しかし湯婆婆に対して両親を救うという主題から考えると、とってつけたような話でもある。

     たしかにハクを救うことは、湯婆婆との対決という意味を持っている。

     また、千尋がハクを救うために湯婆婆の坊を連れて銭婆のところに行ったことによって、ハクが湯婆婆に坊を連れて来る代わりに千尋の両親を救うことを湯婆婆に申し出るという話になってもいる。

     千尋が両親を救うという話と、少年を救うという話と、二つの話が合わさっているということもできる。

     しかし二つの話を合わせるために、肝心の両親を救う話が映画の長い時間忘れられることになっていないか?

     二つの話を合わせるために、話が変に複雑になっていないか?

     ハクの正体もとってつけたもののように思われる。

    「千と千尋の神隠し」のカオナシ

     カオナシは「千と千尋の神隠し」の中でも印象深い存在である。

     ただし千尋と湯婆婆との対決という、「千と千尋の神隠し」のはじめからおわりまでを貫く主題と特に関係はない。

     くされ神の話のようなものではないか。

     ところが「千と千尋の神隠し」では、カオナシの部分が大きくなって、その一方で、千尋と湯婆婆との対決は小さくなってしまっている。

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  • 「風立ちぬ」―宮崎駿監督はどのように堀越二郎を作り変えたか

    「風立ちぬ」―宮崎駿監督はどのように堀越二郎を作り変えたか


    風立ちぬ [DVD]

     2013年に公開された宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」は、堀越二郎という実在の人物をもとにしているが、実在の人物とは違うものにしている。

     どう違うか?

     宮崎駿監督は何を考えてそうしたか?(敬称略)


    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

    rise-a-muiによるPixabayからの画像

    少年の夢

    映画「風立ちぬ」

     映画「風立ちぬ」は、主人公の少年が夢で飛行機に乗って空を飛んでいくところから始まる。


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    「零戦 その誕生と栄光の記録」

     堀越二郎は著書「零戦 その誕生と栄光の記録」で次のように語っている。

    自分が作った軽い小さい飛行機に乗り、野こえ、山こえ、低空飛行を楽しんでいる夢をよく見たものである。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫) 」、角川文庫、20頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

    考察

     映画「風立ちぬ」のはじめに少年の時の夢が描かれているのは、「零戦 その誕生と栄光の記録」の記述をもとにしているようである。

     違うと思われるところもある。

     堀越二郎は「零戦 その誕生と栄光の記録」において、少年時代の「飛行機への関心は、中学から高校に進むにつれ、いつしか私の心の表面からは消えていった」と言い、「大学進学にあたってコースを決めなければならなくなったとき、少年時代の記憶が心の底からよみがえってきた」と語っている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、21頁)

     映画「風立ちぬ」の堀越二郎は、少年時代から飛行機を設計するという夢を持っていて、その夢に向かって進んだ結果、大人になって飛行機を設計する仕事に就いたように見える。

     ここに両者の違いが現れている。

     夢は自分の内にあるものである。

     映画「風立ちぬ」の堀越二郎は、少年の時からひたすら自分の内にある夢に向かって進んでいる。そして、そのことによって外からも、社会的にも認められることになっている。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」の堀越二郎は、少年時代の夢から出発しているのではなく、「大学進学にあたってコースを決めなければならなくなった」という外との関係から出発している。

    技術者と芸術家

    芸術家

     映画「風立ちぬ」の中で主人公が繰り返し見る夢において、主人公の目的は美であることが明らかにされている。

     夢に出て来るメフィストフェレス役のカプローニは「飛行機は戦争の道具でも、商売の手立てでもない。飛行機は美しい夢だ。設計家は夢に形を与えるのだ」という。

     目的は美であって、「戦争の道具」でも「商売の手立て」でもないというのである。

    技術者

     現実の堀越二郎も、飛行機の美しさにも気を遣っていた。

     零戦に対して「美しい」とも叫んだ。

    私は一瞬、自分がこの飛行機の設計者であることも忘れて、
    「美しい!」
    と、咽喉の底で叫んでいた。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫) 」、110頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     しかしこれは自分が飛行機の設計者であることを忘れた一瞬のことであった。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」で堀越二郎は美以外の様々なことについて考えていたことを明らかにしている。

     堀越二郎は技術者と芸術家とを区別して、自分は技術者だとしている。

    技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とはちがって、いつもきびしい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事をなしとげるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破ってゆくだけの自由な発想が必要なこともまた事実である。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、226頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     技術者も、高い水準の仕事のためには、芸術家と同じように自由な発想が求められるが、芸術家と違って、いつも「きびしい現実的な条件や要請」という「枠の中で」仕事しなくてはならないというのである。

     堀越二郎自ら、自分は宮崎駿の語るような芸術家ではないと語っていたのである。

     「零戦」はまさにそういう技術者の仕事として作られたという。

    思えば零戦ほど、与えられた条件と、その条件から考えられるぎりぎりの成果の上に一歩をふみ出すための努力が、象徴的にあらわれているものはめったにないような気がする。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、226頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     堀越二郎はそう言う意味で「戦争の道具」として飛行機を作っていたのである。

    条件との関係

    いらすとや

     宮崎駿は堀越二郎の言葉を受けて、次のように語っている。

    いろんな意見が出てきて、それをすり合わせるのが大変だったって書いてあるけど、何を作るかっていうのは、はじめから彼の中に強烈にあったんだと思います。それに軍隊の要求を近寄せただけでね。

    「Cut」2013年9月号、20頁

     宮崎駿はこのように堀越二郎は軍隊の要求から超然とした理想を自分の内にもっていた人物とみなしている。

     これは堀越二郎が「零戦 その誕生と栄光の記録」において「きびしい現実的な条件や要請」という「枠の中で水準の高い仕事をなしとげる」ということと相容れない。

     堀越二郎の仕事は条件を前提としたものである。海軍の発注、外国との競争、日本の資源等という条件を前提としたものである。

    零戦ができるまで

     零戦ができるまでの堀越二郎の創造と与えられた条件との関係について大雑把にまとめる。

     堀越二郎は三菱内燃機株式会社(後の三菱重工業)の一員として、陸海軍の注文を受けて、戦闘機を設計していた。

    陸軍や海軍の第一線機については、何社かに競争試作させ、勝ったほうの試作機が、軍に採用されて量産の注文を受けるという習慣ができたばかりの時代であった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、27頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     ワシントン、ロンドンの軍縮会議で軍艦の保有率が大幅に制限された状況で、航空兵力に目が向けられた。

     そしてその技術について外国への依存を断ち切る政策として昭和6~7年に海軍によって「航空技術自立計画」が立案された。航空技術の研究機関の総合機関として「海軍航空廠」が設立された。

    七試

     昭和7年にその計画の第一弾「七試(昭和七年試作発令)」の五機種が発注された。

     堀越二郎はそのうちの一つ七試艦上戦闘機の設計主任を命ぜられた。

    私がはじめて設計主任を命じられたのは、このうちの一つである七試艦上戦闘機だったのである。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、28頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     結局この時にはうまくいかなかった。

    九試

     昭和九年に海軍は「九試」を発注した。

     堀越二郎はまた設計主任となった。

     この時には海軍が要求をゆるめていて「われわれの自由な創造意欲をかきたててくれるものがあった」と堀越二郎は語っている。

     また「まがりなりにも、七試という新しい戦闘機のはじめから終わりまでを体験し、設計チームのメンバーにも息がかよいあうようになっていた」と語っている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」 、34頁)

     堀越二郎の設計した九試単戦は、「速度で世界のトップをいきながら、格闘戦のチャンピオンでもあるという、世界の常識を破った」ものとなった。

     そして昭和十一年秋に、「九六式一号艦上戦闘機」として正式に採用された。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、41頁)

    十二試

     昭和十二年十月に「十二試」の艦上戦闘機の計画要求書が交付された。

     「この要求書は、当時の航空界の常識では、とても考えられないことを要求していた」と堀越二郎は言う。( 「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、10頁)

    当時の戦闘機がふつうもっていた航続力を大幅に二倍程度にまで伸ばし、しかも当時、空戦性能においては、世界にその右に出るもののなかった九六艦上戦闘機、略して九六艦戦の二号一型よりすぐれた空戦性能をもたなくてはならない。速度も、九六艦戦の最大速度四百五十キロを大幅に抜く五百キロを要求していた。これは当時活躍していたどの戦闘機にもまさるものであった。さらにその九六艦戦では七・七ミリ機銃二挺しかなかったものを、それより格段に重装備で、七・七ミリ機銃とはちがい、爆薬をしこんだ炸裂弾を発射する二十ミリ機銃を、二挺加えよといっている。(中略)一人乗りの戦闘機にこれを装備するのは、世界でもはじめてのことであった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、13頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     堀越二郎は昭和十三年一月の官民合同の研究会で、要求の一部を引き下げることをもとめた。

     しかし海軍側からは「引き下げられない」と言われた。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、51~53頁)

     そこで堀越二郎は様々な問題について考えて、その要求にかなうような戦闘機を設計した。

     昭和十五年七月末、十二試艦戦は制式機として採用され、日本紀元二六〇〇年の末尾の零をとって「零式艦上戦闘機・一一型」と名付けられた。「零戦」とはその略称である。

    まとめ

     このように「七試」でも「九試」でも「十二試」でも、堀越二郎の仕事は、海軍の発注に対して、艦上戦闘機を設計することにあった。

    海軍との関係

     映画「風立ちぬ」では、「注文主」の海軍の軍人の言うことを会議で堀越二郎が聞くところで、前に並んだ海軍の軍人複数が意味のないことをうるさく言っているような演出になっている。

     そのことについて宮崎駿は次のように語っている。

    軍人が偉そうなこと言ったってろくでもない奴らだから、ほんとに大局観も何もない、国を誤らせた連中に弁解させたり、しゃべらせたりする必要はない。だからああいうふうに描こうって、初めから決めてました。

    「Cut」2013年9月号、19頁

     宮崎駿は、国を誤らせた軍人の言葉を聞く必要がないと考えているようである。

     しかしすべての軍人が「国を誤らせた」のではない。

     特に堀越二郎は、海軍の注文を受けて海軍のために戦闘機を作るという条件があったからこそ零戦はできたと語っているように、零戦は海軍によってできたということもできる。

     堀越二郎も「指導層の思慮と責任感の不足にもとづく政治の貧困」を問題としている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、224頁)

     しかしそのことと、海軍が戦闘機を発注したこととは別のことである。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」で零戦について堀越二郎が海軍とやりとりしているところをとりあげてみよう。

    計画要求書

     まず昭和十二年十月六日に堀越二郎が受け取った計画要求書は、無理と思われるほどのものであった。

     そこで堀越二郎はその要求書がつくられた会議の様子を想像している。

    私には、この要求書がつくられた会議の雰囲気が、目に見えるようだった。要求する側の人間ばかりが集まって、あれもこれもと盛りこんでしまったのだ。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、15頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     しかし堀越二郎は相手を馬鹿にしていない。

     「その人たちは、それぞれの部門のベテランで、日本をとりまく世界の情勢を考えてのことにちがいない」と言い、「私は、この計画要求書に、日本の国のせっぱつまった要請を聞く思いがした」と言っている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、15、16頁)

     堀越二郎はその計画要求書に、日本を取り巻く世界の情勢に対する日本の要請を聞き取っていたのである。

     堀越二郎は、発注した海軍に同情している。

     零戦が出来たのも、そういう計画要求書があったからだと堀越二郎は考えている。

    官民合同の研究会

     昭和十三年一月十七日の研究会で堀越二郎は海軍側に要求の一部を引き下げることを求めたが、海軍は「引き下げられない」と言った。

     そこでも堀越二郎は海軍側を馬鹿にしていない。「この困難な要求に決意を新たにして立ち向かわねばならないことをひしひしと感じていた」と書いている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、53頁)

    審議会

     昭和十三年四月十三日に海軍航空廠で審議会が開かれた。

     そこで格闘力を優先させるべきだという源田少佐と、速度、航続力を優先させるべきだという柴田少佐とが対立した。

     そのことについて堀越二郎は次のように語っている。

    この二人の意見は、だれが見てもそれぞれ正しいことを言っているのであり、それゆえに議論へ永久に平行線をたどるだろう。この交わることのない議論にピリオドを打つには、設計者が現実に要求どおりの物を作ってみせる以外にはない。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、80頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     ここでも海軍側を馬鹿にしているのではない。

    海軍部内の動揺

     華中の第一線にある第十二航空隊から、堀越二郎の構想に対して反対が唱えられたことがあった。

     それに対して堀越二郎が航空本部の巖谷少佐に自分の見解を伝えると、「巖谷少佐はかなり同意してくれた」という。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、87頁)

     このように海軍が堀越二郎の見解に同意したからこそ零戦はできたのである。

    まとめ

     宮崎駿は次のように語っている。

    会議ではものが決まらないようにしようって、この映画を作る時に思ったんです。

    「Cut」2013年9月号、19頁

     しかし宮崎駿も「『零戦』っていう本も会議だらけですよ。誰がどんなことを言った、誰がどんなことを言ったとかね」と言っている。(「Cut」2013年9月号、19頁)

     「零戦 その誕生と栄光の記録」には多くの会議のことが書かれている。零戦は、多くの会議で様々な要求を受けた上で出来たのである。

     宮崎駿はそのことを知っていたのに、映画では「会議ではものが決まらないようにし」た。

     このように宮崎駿は映画「風立ちぬ」で、事実とは異なることをわざと描いているのである。

    外国との関係

     堀越二郎が設計していた戦闘機は、外国の軍隊と戦うためのものである。

     それゆえに堀越二郎は外国のことをいつも意識していた。

      映画「風立ちぬ」でも主人公が外国を意識するところが描かれている。

     しかし外国に対する考えが違うように見える。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」で堀越二郎は、いかにして零戦によって日本の技術で欧米に対して先に進むことができたかを語っているのに、 映画「風立ちぬ」の堀越二郎は、外国に圧倒されているように見える。

    ドイツ

     たとえば堀越二郎がドイツに視察に行ったところ。

     映画では、堀越二郎は欧米の重みにつぶされそうに見える。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」では、堀越二郎は次のように語っている。

    会社から派遣されて、ドイツとアメリカの飛行機工場にはいって、工場を視察し、設計者と討論をしたり、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカの工場見学、各国の航空技術に関する刊行物の調査などにも手をつけていた。それらの経験から、日本でも適当な方針と組織、規模があれば、小型機で彼らに追いつくことは、一足飛びには不可能だが、そう長い年月はかかるまいという考え方をしていた。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、28頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     このように堀越二郎は、日本が技術においても資源においても、欧米の先進国の後を追ってきたことを認めていると同時に、間もなく追いつくことができるとも考えていた。

    「九試」

     堀越二郎は「九試」をきっかけとして、日本の飛行機設計は欧米先進国に対抗することができるようになったと考えていた。

    この九六艦戦誕生をきっかけとして、日本の飛行機設計者のあいだに、自分の頭で考え、自分の足で歩くときがきたという自覚が広がった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、41頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

    悲恋

    Photo by Elly Johnson on Unsplash

      映画「風立ちぬ」では、主人公の堀越二郎は里見菜穂子と出会って結婚することになっている。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」には全く書かれていないことである。

     堀越二郎の話に堀辰雄の話を入れたと宮崎駿は語っている。

     映画「風立ちぬ」で何故に堀越二郎と里見菜穂子の恋愛がさしこまれたのか?

     映画「風立ちぬ」において、堀越二郎は超然としてひたすら美を追い求める人として描かれている。

     この映画の里見菜穂子は、そのように美を追い求める人の前に現れた美の一つである。

     美を追い求めて戦闘機を設計し、美を追い求めて美女と結婚するのである。

    しあわせ

     いずれの場合も、追い求めた目標が苦も無く手に入ってしまう。―映画「風立ちぬ」の主人公は、恵まれた、しあわせな人である。

    暗黒面

     ところで映画「風立ちぬ」は、そのように美を追い求める主人公が、そのことの暗黒面をも見るという話になっている。

     貧乏な子供を見て、恵まれた自分との違いについて考えるとか。

     里見菜穂子に関しても、その暗黒面が描かれる。―里見菜穂子を置いて飛行機設計に没頭するとか、里見菜穂子がいるのに煙草を吸うとか、里見菜穂子が悲しいことになってしまうとか。

    現実

     映画「風立ちぬ」で堀越二郎と里見菜穂子の恋愛がさしこまれたもう一つの理由として、堀越二郎が「零戦 その誕生と栄光の記録」で語ったような、零戦ができるまでの苦労を描かないようにするという意図があったのではないか?

     「零戦 その誕生と栄光の記録」では、堀越二郎は昭和十二年十月の海軍の計画要求書を受け取ってから零戦を作るまで、与えられた大変な問題を解決するために、全身全霊をかけていたように見える。

    会社にいるときは、ややもすると目先の仕事だけに追われてしまうことが多かった。だから、私のこの頭の中での作業は、通勤の満員電車の中でも、家に帰ってからも、続くことがあった。夜中に目がさめてしまい、暗闇を見つめながら考えたこともあったし、夜おそく床にはいっても、なかなか寝つけないこともあった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、56頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     こういうところを見ると、映画の堀越二郎のように軽井沢で遊んでいる暇はなかったのではないかと思ってしまう。

    その多忙の中で、私たちは昭和十三年の四月を迎えた。が、桜の花の咲くのも散るのも、気にとめている余裕などあろうはずがなかった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、76頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     そして昭和十四年。

    昭和十四年の正月が開けた。それは、私がこの半年のあいだに味わった、もっとも平和なひとときであった。一昨年の六月に生まれた長男とも、このところ仕事に追われて、ろくに顔を合わせるひますらなかった。やっといま、親子そろった家庭らしい生活が、ちょっとの間でも復活したのだ。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、90頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     昭和十四年の正月にはじめて「親子そろった家庭らしい生活が、ちょっとの間でも復活した」のである。

     それまでそういうことはできなかった。この時にも「ちょっとの間」しかできなかった。

     現実の堀越二郎がそれだけ苦労していた時に、映画「風立ちぬ」はそのことを描かず、堀越二郎は美女とメロドラマを演じていたことにしているのである。

     現実の堀越二郎の苦労の話を描きたくないという意図がなかったとは思えない。

     美女との恋物語が描かれる分だけ、零戦を生み出す話を描く時間はなくなる。恋物語が差し込まれることによって、関心は分散させられる。恋物語をしていられるほど余裕があった印象が与えられる。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」は、堀越二郎が難解な問題を苦労して解決していくところを描いた記録である。

     映画「風立ちぬ」では、堀越二郎は特に苦労もせずに問題を解決してしまう。

    堀越二郎を描くこと

    Alexander LesnitskyによるPixabayからの画像

     宮崎駿は、映画「風立ちぬ」によって堀越二郎を「取り戻した」と語っている。

    『風立ちぬ』で、僕は僕の堀越二郎を取り戻したんだと思ってるんです、60年かかって。

    「Cut」2013年9月号、15頁

     宮崎駿はそのことが映画「風立ちぬ」の目的であったという。

    僕は自分のことを描いたんじゃない、堀越二郎を描いたんだ。二郎を取り戻したんです。僕流に取り戻したんです。

    「Cut」2013年9月号、27頁

     宮崎駿は何から堀越二郎を「取り戻した」のか?

     「零戦神話」からである。

     宮崎駿は次のように語る。

     「コンプレックスの塊だった連中の一部が、『零戦はすごかったんだ』っていう話をしはじめた」が「ほとんどが嘘の塊」であったと言い、「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記をもとにして、零戦の物語を作ろうとしている」と言って、そういう「零戦神話」に対して、堀越二郎を「取り戻した」、と。(「Cut」2013年9月号、14~15頁)

     ところで宮崎駿は、堀越二郎が自ら語るのと異なる堀越二郎を作っている。そのことはこれまで示してきた通りである。

     宮崎駿は堀越二郎その人を「取り戻した」のではなくて、堀越二郎を別物にすることで「取り戻した」ことにしているのである。

     堀越二郎は零戦について次のように語っている。

    当時の世界の技術の潮流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本の血の通った飛行機」―それが零戦であった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、4頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     そして「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」を書いた意図について次のように書いている。

    これからの若い世代が、たんに技術界だけでなく、すべての分野で日本の将来をより立派に築いていくために、誇りと勇気と真心をもって努力されることを念願して、私はこの本を書いた。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、5頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     堀越二郎も零戦はすぐれたものだと語っている。堀越二郎が「零戦 その誕生と栄光の記録」を書いたのはそのためである。

     それに対して宮崎駿は零戦はすごかったという話をやっつけたいと思っていた。そのために堀越二郎を現実とは違うものにしてしまった。

     堀越二郎の遺族は 映画「風立ちぬ」を観て、いいと言ったと言う。

    堀越二郎のご子息とその奥さんが、スタジオを見たいって、訪ねてきてくれたんですよね。
    (中略)
    『フィクションでございますんで』というお話はしたんですけども、観終わってね、ほんとに喜んでくれたんです。それで実にほっとしましたね。

    「Cut」2013年9月号、24頁

     そう言われてもやはり私はおさまらない。

     堀越二郎に関する記事。

    https://www.jiji.com/jc/v4?id=201403horijiro0001

    こまかいところ

     その他に気になるところをいくつか取りあげる。

    大学の講義

     映画「風立ちぬ」で主人公が友人の本庄と大学の昼休みに食事に行った時に、堀越二郎がいつもサバをとることについて本庄が「マンネリズムだ。大学の講義と同じだ」というところ。

     「零戦 その誕生と栄光の記録」で堀越二郎が語るところと違う。

    航空に関する科学・技術は、その発祥地である欧米でもまだ歴史は浅く、体形づけられていなかった。だから、われわれの航空学科でも、講義の体系がなく、寄せ集めの感じだった。しかし、教室の雰囲気は、開拓時代にふさわしく、自由であり新鮮であり、所帯が小さいため、教官と学生のあいだも、学生同士もひじょうに親密だった。

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、24頁

    零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)

     「開拓時代にふさわしく、自由であり新鮮であり」というのは、「マンネリズム」と反対である。

     航空に関する科学・技術が欧米でもまだ歴史が浅かったということ、開拓時代であって講義の体系がなかったということは、歴史を論ずるときに重要なことではないか?

     三菱の名古屋の工場に牛がいて、戦闘機の試作機を岐阜の各務原飛行場まで牛車で運んでいくというところ。

     堀越二郎は「零戦 その誕生と栄光の記録」でそのことについて説明している。

     三菱の名古屋の工場は、岐阜県各務原飛行場から離れていた。

     日本には平野が少なかったゆえに、飛行場は工場から離れたところにしかできなかったのである。

     その離れた飛行場までの悪い道で飛行機に傷をつけないようにトラックではなく牛車で運んだのである。

     堀越二郎はそのことについて「日本的な、うまい状況適応策であった」と言っている。(「零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫)」、100~101頁)

     映画で本庄という人物がそのことについて「恐るべき後進性だよ」と言っているのは、堀越二郎の考えと違うのではないか。

     宮崎駿はそういうところでも、堀越二郎の語ることに反して、日本の「後進性」を強調しているようである。


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  • 「もののけ姫」についての批判的考察

    「もののけ姫」についての批判的考察


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     1997年に公開された宮崎駿監督の映画「もののけ姫」は、記録的な興行収入を上げた映画である。

     その映画に対して批判的考察を試みる。(敬称略)


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    批判的考察に至るまで

    veronica111886によるPixabayからの画像

     初めて「もののけ姫」を観た時には大変な作品だと思った。

     そのころ私は森の持つ力などということについて考えていた。

     「もののけ姫」は私の考えていたような森の持つ力を見事に描いていると思ったのである。

     ところが数年前に宮崎駿監督の作品を批判的に見返した時に、色々と疑問を感じた。

    たたり神

     アシタカの村にたたり神が襲ってくる、というところから始まる。

     見返すと、たたり神がそれほど恐ろしく描かれていないことが気になる。

     青空の下に全身を現わすより、夜中に全貌のわからない形で出て来た方が恐ろしい。

     イノシシがたたり神になったものであるのに、もとのイノシシの方が恐ろしい。

     「平成狸合戦ぽんぽこ」のように、人間と対立する動物の側がすでに劣勢になってしまっているということを現わしているのであろうか?

    エボシとサンの対決

     アシタカは、エボシのところに来る。

    エボシ

     エボシは、山を削って砂鉄をとることに成功した人である。

     それまではそうしようとしても山犬に抵抗されてできなかったが、エボシは石火矢によって山犬に対抗することができたのである。

     そこでアシタカの腕についた「たたり」がうずく。

     山犬などはまさにエボシを殺したいのである。

     しかしまた、エボシが、売られた娘を引き取るとか、病んだ人を引き取るとかしている人であることも明らかにされる。

     アシタカはそのことにも同情する。

     そこにもののけ姫が襲ってくる。

     しかしいかにもののけ姫の身体能力が高く、憎悪で燃えているとしても、多くの銃を持った人が構えているのに対して何もできるはずがない。

     登場人物が言っているように「追い詰められている」ようである。

     その前のエボシと山犬の戦いでも、銃を構えた人間に対して、二、三頭の少し大きめの山犬が襲い掛かったところで、対抗できるとは思えない。

     追い詰められたところを描いているのかもしれないが、それにしてももう少し有効な反撃はできるのではないか、とも思う。

    サン

     なぜかサンとエボシが戦っているところにアシタカが割って入って、サンを負ぶって、山犬のところへ連れて行く。

     一人でエボシたちに囲まれてしまったサンは、エボシたちにとらえられるほかないと思われる。

     アシタカが超人になることによって、サンを山犬のところへ連れて行くところは、強引である。

     サンがひとりでエボシたちに取り囲まれるところまで行った、ということに問題があるのではないか?

     たとえばエボシのところから出て、サンのところに行ったというかたちにした方がよかったのではないか?

     そうした方がサンの側に重みが加わる。

     逆に言うと、現状ではサンの側が軽くなっている。

     前にも言ったように、わざとそう描いているのであろうか?

     サンがアシタカに好意を持つ流れもいささかわかりにくい。

     アシタカはサンを救ったのであるから、それゆえに好意を持ったということでいいのではないか?

     突然アシタカとサンの立場が入れ替わるとか、サンがアシタカを殺そうとしていたのに突然アシタカを生かそうとするとかいうところは、気持ちの流れについていけない。

    疑問

     この映画では、エボシとサン、森を削るものと守るもの、の対決が主題だと私は思っていた。

     その思想の対決が主題だと思っていた。

     話の流れはそういう方向に進んでいるように見えた。

     そういう方向で進むと興味深いと思った。

     ところが、サンの描き方が軽い。なかなか対決にならない。

     その上に、サンや山犬と、猩々、イノシシなどの不一致が描かれる。エボシをめぐる複数の勢力の争いとか陰謀とかが描かれる。

     その結果、エボシとサンの対決ということからどんどん遠ざかっていく。

     どうも主題が複雑になったことによって、曖昧になっているように見える。

     「もののけ姫」が2021年に作られたならば、気温上昇とか、大雨による土砂崩れ、浸水とかが描かれていたのであろうか?


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