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  • フレッド・アステアの映画「ヨランダと盗賊」

    フレッド・アステアの映画「ヨランダと盗賊」

     「ヨランダと盗賊」(原題は “Yolanda and the Thief” )は、1945年に公開されたミュージカル映画。

     MGMで多くの傑作ミュージカル映画を作ったプロデューサー、アーサー・フリードがフレッド・アステアを迎えて作った力作。

     背景美術も見どころ。


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    映画「ヨランダと盗賊」のあらすじ

     架空の国の話。

     その国の大富豪の娘ヨランダ(ルシル・ブレマー)はその親の莫大な財産を相続していた。

     その国に来た泥棒(フレッド・アステア)は、ヨランダの財産を盗もうとヨランダに近づくが…。

    楽曲

     映画「ヨランダと盗賊」の音楽は、ハリー・ウォレン作曲、アーサー・フリード作詞。

     プロデューサーのアーサー・フリードはもともと作詞家として成功した人。

     映画「ヨランダと盗賊」では自ら作詞を担当するほど力を入れている。

    「ヨランダ」 “Yolanda”

     ヨランダの豪邸でフレッド・アステアがハープを弾きながらルシル・ブレマーに歌う。

     その間にフレッド・アステアは少し踊る。

    「コーヒー・タイム」 “Coffee Time”

     波打つ黒と白の床の上で、フレッド・アステアとルシル・ブレマーが踊り、大勢の男女が踊る。

    バレエ

     映画「ヨランダと盗賊」には大がかりなバレエがある。

     映画の中盤で、フレッド・アステアの演ずる人物がみる悪夢がバレエによって描かれるのである。

     監督ヴィンセント・ミネリによるシュールレアリスムの世界観、ユージーン・ローリングの振り付けによるフレッド・アステア等のバレエで悪夢が表現される。

     「ヨランダと盗賊」のバレエは、MGMのミュージカル映画の歴史の中で重要。

     後の映画「巴里のアメリカ人」(1951年)の終盤の大がかりなバレエ、映画「バンド・ワゴン」の終盤の「ガール・ハント」バレエの先駆けとなっている。

     いずれもヴィンセント・ミネリ監督作品ということでもつながっている。

     フレッド・アステアの作品としても、「ヨランダと盗賊」と「バンド・ワゴン」とでつながるところがある。

    映画「ヨランダと盗賊」と映画「ジーグフェルド・フォリーズ」

     映画「ヨランダと盗賊」には、映画「ジーグフェルド・フォリーズ」に通ずるところがある。


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     映画「ジーグフェルド・フォリーズ」は、公開されたのは「ヨランダと盗賊」の次の年であるが、撮影は「ヨランダと盗賊」の前の年に始まっていた。

     「ジーグフェルド・フォリーズ」の中で、いずれもフレッド・アステアとルシル・ブレマーが共演した”This Heart of Mine” と「ライムハウス・ブルース」 “Limehouse Blues” は、「ヨランダと盗賊」に通ずるところがある。

    “This Heart of Mine”

     まず”This Heart of Mine”。

     ”This Heart of Mine” は、フレッド・アステアが泥棒で、金持ちのルシル・ブレマーから財産を盗もうとするが、恋愛感情が芽生えて、…という話。

     「ヨランダと盗賊」の主題と同じ。

    「ライムハウス・ブルース」 “Limehouse Blues”

     「ライムハウス・ブルース」 “Limehouse Blues”では、フレッド・アステアの演ずる人物の夢がバレエによって表現されている。

     「ヨランダと盗賊」でも、フレッド・アステアの演ずる人物の夢がバレエによって表現されている。

    映画「ヨランダと盗賊」のDVD

     日本語版DVDが出ている。


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  • 映画「ジーグフェルド・フォリーズ」 レヴュー形式のMGMミュージカル映画

    映画「ジーグフェルド・フォリーズ」 レヴュー形式のMGMミュージカル映画

     「ジーグフェルド・フォリーズ」(原題は “Ziegfeld Follies” )は、1946年に公開された映画。

     MGMで多くのミュージカル映画の傑作を作ったプロデューサー、アーサー・フリードがブロードウェイのレヴューの形式で作った映画。

     MGMが力をかけた映画で、興行的に成功した。

     フレッド・アステア、ジーン・ケリー、ジュディ・ガーランドをはじめとするスターによる歌、踊り、寸劇等を観ることができる。

     豪華な背景、衣装も見どころ。


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    「ジーグフェルド・フォリーズ」とは

     「ジーグフェルド・フォリーズ」とは、フロレンツ・ジーグフェルド(1867~1932年)が製作したブロードウェイのレヴュー。

     1907年に第1弾が上演されてから、1年に1本製作された。

     映画「ジーグフェルド・フォリーズ」は、亡くなって天国にいるジーグフェルドが、新たにジーグフェルド・フォリーズを構想してできたものというかたちになっている。

     天国にいるジーグフェルドを演じているロバート・パウエルは、1936年に公開された伝記映画「巨星ジーグフェルド」でもジーグフェルドを演じていた。


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    映画「ジーグフェルド・フォリーズ」の構成

     映画「ジーグフェルド・フォリーズ」の構成は、映画としては特異な構成になっている。

     多くの映画は、一つの話を展開する。

     映画「ジーグフェルド・フォリーズ」は、それぞれ独立した歌、踊り、寸劇が次々と出て来る。

     天国にいるフロレンツ・ジーグフェルドが構想したということはあるが、フロレンツ・ジーグフェルドが出て来るのははじめだけ。

     多くの映画のように統一された作品を期待しても、満足することはできない。

     相互に独立した歌とか、踊りとか、寸劇とかが並んでいるものとみなくてはならない。

    “Here’s to the Girls”

     まずフレッド・アステアが出て来て、ジーグフェルドは女性を美しくしたと言って、歌い、少し踊ると、ジーグフェルド風の女性が次々と出て来る。

     そこで出て来たシド・チャリースとフレッド・アステアが少しからむ。

     ルシル・ボールの踊りなどもある。

    「水のバレエ」 “Water Ballet”

     エスター・ウィリアムズが水の中で踊る。


    ブロマイド写真★エスター・ウィリアムズ/プールサイドで水着

    「ナンバー・プリーズ」 “Number Please”

     キーナン・ウィン(Keenan Wynn)によるコメディー。

     電話をかけても、なぜかつながらない。

    「椿姫」 “Traviata”

     ヴェルディのオペラ「椿姫」の「乾杯の歌」を、ジェームズ・メルトンとマリオン・ベルが歌い、大勢で踊る。

     豪華な背景、豪華な衣装。

     振り付けはユージーン・ローリング。

    「2ドル払ってくれ」 “Pay the two dollars”

     ヴィクター・ムーアとエドワード・アーノルドによるコメディー。

     ヴィクター・ムーア演ずる人物は、電車の中につばを吐いたということで、警察から罰金2ドルを言い渡される。

     ところが、エドワード・アーノルド演ずる弁護士は自信満々で、2ドル払わなくてもいい、法廷で勝ってみせるという。

     しかし事態はどんどん悪くなっていく…

    “This Heart of Mine”

     フレッド・アステアとルシル・ブレマーのダンス。

     豪華なパーティに招かれた客のような顔をして入ってきたフレッド・アステアは泥棒。

     パーティ客の一人の女性ルシル・ブレマーに狙いを定めて、二人で外で踊る。

     フレッド・アステアとルシル・ブレマーの陶酔させるようなダンス。豪華な背景。

     作曲はハリー・ウォレン、作詞はプロデューサーのアーサー・フリード。

    宝くじの話 “A Sweepstakes Ticket”

     平凡な夫婦が買った宝くじが当たったが、大家に家賃の代わりに渡してしまっていたという話。

     主婦を演ずるファニー・ブライスは、ブロードウェイのジーグフェルド・フォリーズにも出ていた人。(バーブラ・ストライサンド主演のミュージカル「ファニー・ガール」のもとになった人でもある)

     監督はロイ・デル・ルース。

    「愛」 “Love”

     レナ・ホーンの歌。

     監督はレミュエル・レアーズ(Lemuel Ayers)

    「テレビの初期」 “When Television Comes”

     コメディアンのレッド・スケルトンによるコメディー。

     テレビでジンの宣伝をするが、どんどん酔っぱらって…

    「ライムハウス・ブルース」 “Limehouse Blues”

     フレッド・アステアとルシル・ブレマー。

     霧の立ち込める薄暗いチャイナタウンを歩いていた黒い服の中国人(フレッド・アステア)は、チャイナドレスを着た若い女性に目を奪われるが…

     D.W.グリフィス監督の映画「散りゆく花」( “Broken Blossom” )の世界観。


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     フレッド・アステアが演ずる中国人は、「散り行く花」でリチャード・バーセルメスが演じた中国人青年のよう。

     その青年の夢がバレエで表現される。

     その背景美術は凝っている。―赤と青、「陰影」

     フィリップ・ブレイアム作曲、ダグラス・ファーバー作詞。

    「偉大な女性のインタビュー」のA Great Lady Has “An Interview”

     大物女優が話を聞きに来た多くの記者に答える。

     その大物女優をジュディ・ガーランドが演じている。

     次の出演作は、安全ピンを発明した「偉人」クレマトン夫人の映画であるということから、クレマトン夫人の歌、踊りになる。

     作曲ロジャー・イーデンス、作詞ケイ・トンプソン。(いずれもアーサー・フリードユニットの重要人物であり、ジュディ・ガーランドを育て支えた人)

     おかしなことをまじめにやっているというような歌。

     振り付けはチャールズ・ウォルターズ。

    “The Babbitt and the Bromide”

     フレッド・アステアとジーン・ケリー、二人のダンス。

     二人のスターの数少ない共演。

     ベンチでフレッド・アステアとジーン・ケリーが出くわして、言葉を交わした後、二人でタップダンス。

    「美」 “Beauty”

     キャスリン・グレイソンの歌。

     ハリー・ウォレン作曲、アーサー・フリード作詞。

     泡に囲まれた異様な世界とか、背景が凝っている。

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     日本語版としては、DVDが出ている。


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     英語版ではBlu-rayが出ている。


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  • フレッド・アステアの映画「踊らん哉」 ガーシュウィンの楽曲によるミュージカルコメディー

    フレッド・アステアの映画「踊らん哉」 ガーシュウィンの楽曲によるミュージカルコメディー

     フレッド・アステアの映画「踊らん哉」の原題は “Shall We Dance” 。

     ”Shall We Dance? ” ではない。

     RKO制作で、フレッド・アステアがジンジャー・ロジャーズを相手役とした映画の一つ。

     1937年4月に公開された。

     ジョージ・ガーシュウィン作曲、アイラ・ガーシュウィン作詞の楽曲が豊富で、名曲が多い。

     その楽曲に合わせたフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャーズのダンスも創意に富んでいる。


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    映画「踊らん哉」のストーリー

     フレッド・アステアの演ずる人物が、ジンジャー・ロジャーズの演ずる人物に惚れ込んで近づこうとするが、

    ・誤解によってうまくいかない

    ・ダンスによって仲良くなる

     という流れはそれまでの映画と同様。

     今回は、フレッド・アステアは有名なバレエダンサーで、ジンジャー・ロジャーズは有名なタップダンサーになっている。

    豪華

     映画「踊らん哉」は、それまでのフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャーズの映画(「トップ・ハット」など)と同様に、背景や衣装が豪華。

     高級ホテルの広いスイートルーム、豪華客船などが舞台となる。

     ジンジャー・ロジャーズの白と黒があざやかな衣装が印象に残る。―ジンジャー・ロジャーズの衣装を担当したのはアイリーン(Irene、Irene Lentz)。

    楽曲、ダンス

     映画「踊らん哉」には、ガーシュウィン兄弟の名曲が多い。

    「ビギナーズ・ラック」”(I’ve Got) Beginner’s Luck”

     船の上でフレッド・アステアがジンジャー・ロジャーズに出会えてうれしいという気持ちを歌う。

     その前に、フレッド・アステアがレコードをかけてタップダンスをやるところ―レコードが・・・というところでも使われている。


    (I’ve Got) Beginner’s Luck

    “Slap That Bass”

     船の中で黒人たちがジャムセッションをしているところに、フレッド・アステアが入って、一人でタップダンスをやる。

     船のエンジンの音とからませたタップダンス。


    Slap That Bass (Remastered 2020)

    「みんな笑った」 “They All Laughed”

     ホテルの屋上のディナーで、オーケストラを背にしてジンジャー・ロジャーズが歌う。

     そしてフレッド・アステアと二人でタップダンス。


    They All Laughed

    “Let’s Call the Whole Thing Off”

     ニューヨークのセントラルパークで “either” を、フレッド・アステアは「アイザー」と発音し、ジンジャー・ロジャーズは「イーザー」と発音する、ということからフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャーズが交互に歌う。

     そして二人でローラースケートでタップダンス。


    Let’s Call the Whole Thing Off – The George Gershwin Songbook, Vol. 1 (Original Album)

    「誰も奪えぬこの想い」 “They Can’t Take Away from Me”

     マンハッタンへのフェリーで、夜の霧の中、フレッド・アステアがジンジャー・ロジャーズに想いを歌う。

     抒情的な歌。


    They Can’t Take That Away From Me

    “Shall We Dance”

     映画のタイトルとなっている楽曲「シャル・ウィ・ダンス」( “Shall We Dance” )。

     軽快な歌。

     映画の終盤で、フレッド・アステアが歌って、ジンジャー・ロジャーズのお面をつけた多くのダンサーと踊る。


    Shall We Dance – (Remastered)

    その他

     その他にも、バレエの音楽、豪華客船でフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが犬を連れて歩く時の音楽など、ガーシュウィン兄弟の楽曲は多い。

    タップダンスとバレエ

     映画「踊らん哉」には、タップダンスとバレエの融合という主題があった。

     そのことについては↓

    コミカル

     映画「踊らん哉」は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズの競演した作品の中でもコミカルなところが多いのではないかと思われる。

     終盤にジンジャー・ロジャーズのお面をつけた多くの女性が踊るようなことは、それまでなかったのではないか。

     それまでのフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズの映画によく出ていたエドワード・エヴェレット・ホートン、エリック・ブロアもこの映画では特にコミカルな方面で活躍しているように見える。

    映画「踊らん哉」

     Blu-ray。

     作品解説がついている。


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  • フレッド・アステアとバレエの因縁①RKO時代 「オン・ユア・トーズ」と「踊らん哉」

    フレッド・アステアとバレエの因縁①RKO時代 「オン・ユア・トーズ」と「踊らん哉」

     フレッド・アステアはその卓越したダンスによってアメリカのミュージカルのスターになった。

     1920年代にブロードウェイのスターとなり、1930年代にミュージカル映画のスターとなった。

     ところがそれから間もなく、ミュージカルに新たな方向が出てきた。―バレエが重要になっていったのである。

     そこでフレッド・アステアはバレエとどういう関係にあったのか?

     この問題は、フレッド・アステア個人の問題としても、ミュージカルの歴史の問題としても、興味深いものである。

    バレエ以前

     フレッド・アステアは、1930年代に映画デビューする前に、ブロードウェイのスターであった。

     1924年開幕の「レディー、ビー・グッド」(”Lady, Be Good” 、1924年)で、フレッド・アステアはガーシュウィン兄弟と組んで成功した。

     ミュージカルにジャズを使った軽快なサウンドを取り入れた作品で、それに合わせたフレッド・アステアと姉アデル・アステアのダンスが賞賛された。

     フレッド・アステアはその後映画に進出して、「ダンシング・レディ」(1933年)に出演。


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     同じ年の映画「空中レビュー時代」( “Flying Down to Rio” )でのジンジャー・ロジャーズとのダンスによってたちまちスターになった。


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     そしてフレッド・アステアがブロードウェイでやっていた「陽気な結婚」( “Gay Divorse” 、1932年)をもとにした映画「コンチネンタル」( “Gay Divorcee” 、1934年)でジンジャー・ロジャーズとともに主役として成功した。


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     フレッド・アステアがスターになったミュージカルは「軽快」という言葉で特徴づけることができる。

    ・軽快なストーリー

    ・軽快な音楽

    ・軽快なダンス

     フレッド・アステアがブロードウェイでスターになったのは、そういう1920年代風の「軽快」なミュージカルであった。

     フレッド・アステアが1930年代に出演した映画は、それまでのブロードウェイのミュージカルをもとにしていた。

     1935年に公開されたフレッド・アステアの代表作「トップ・ハット」も「軽快」なミュージカルであった。

     「トップ・ハット」はフレッド・アステアと、トップ・ハット、白の蝶ネクタイ、燕尾服という礼儀正しい姿を結びつけた。


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    「オン・ユア・トーズ」”On Your Toes”

    Photo by Sudan Ouyang on Unsplash

     映画に進出して成功したフレッド・アステアは、間もなくバレエと出会うことになる。

     その第一の出会いは、「オン・ユア・トーズ」(”On Your Toes”)と題するミュージカルである。

     映画スターとなったフレッド・アステアがその次に出演するミュージカル映画として、ブロードウェイでヒットを連発していたリチャード・ロジャーズ(作曲家)とロレンツ・ハート(作詞家)のコンビが作ったのが「オン・ユア・トーズ」であった。

     ところがフレッド・アステアは、それまでの映画でのトップハット、白のタイ、燕尾服の人物像に合わないということで、ことわった。

    バレエ

     「オン・ユア・トーズ」は、それまでの映画でのフレッド・アステアの人物像と違う人物像を出しただけではない。

     ミュージカルの新たな方向を切り開いた作品であった。

     バレエを重要な要素として取り入れたのである。

     劇中では、バレエとタップダンスの間の葛藤が描かれている。―バレエが物語の重要な要素になっているのである。

     そして終盤に「十番街の殺人」( “Slaughter on Tenth Avenue” )というドラマティックな音楽を伴うバレエがある。


    On Your Toes / Slaughter on Tenth Avenue

     振り付けは、ロシア出身のバレエ振付師ジョージ・バランチン。


    George Balanchine: The Ballet Maker (Eminent Lives) (English Edition)

     フレッド・アステアは、バレエを重要な要素として取り入れることによってミュージカルの新たな方向を切り開いたまさにその作品と出会っていたにもかかわらず、ことわってしまったのである。

    その後

     リチャード・ロジャーズとロレンツ・ハートは、フレッド・アステアのことわられたので、「オン・ユア・トーズ」を舞台用に作り直した。

     そうして1936年4月11日にブロードウェイで開幕した「オン・ユア・トーズ」は成功した。

     フレッド・アステアの代わりに主演をやったレイ・ボルジャ―はスターになった。

    「踊らん哉」 “Shall We Dance”

     「オン・ユア・トーズ」の成功を受けて、フレッド・アステアも「オン・ユア・トーズ」のようにバレエを取り入れたミュージカルをやることを考えたと言われている。

     1937年4月に公開されたフレッド・アステアの映画「踊らん哉」は、バレエを取り入れたミュージカル映画であった。

     遅ればせながら、「踊らん哉」でフレッド・アステアはバレエを取り入れたミュージカルをやることになったのである。

    「踊らん哉」の設定

     「踊らん哉」は、設定から考えると、バレエを重要な要素として取り入れたミュージカルのようである。

     バレエダンサーを演ずるフレッド・アステアが、タップダンサーを演ずるジンジャー・ロジャーズに惚れ込んで近づこうとする、という話になっている。

     主役がバレエダンサーであるということによって、バレエは物語の重要な要素となることができる。

     タップダンサーとの恋愛において、タップダンスとバレエを合わせることもできる。


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    「踊らん哉」におけるバレエの割合

     ところが「踊らん哉」においてバレエの占める割合はそれほど大きくない。

     第一に、フレッド・アステアの演ずるバレエダンサーは、映画のはじめからタップダンスを好んでやっていて、バレエはそれほどやらない。

    フレッド・アステアのソロ

     フレッド・アステアが一人で踊るのも、バレエではなくタップダンス。(冒頭の個室、”Slap That Face” )

    二人のダンス

     フレッド・アステアの演ずるバレエダンサーと、ジンジャー・ロジャーズの演ずるタップダンサーとが二人で踊るところでも、タップダンスが多く、バレエの割合は少ない。

    “They All Laughed”

     二人が初めて一緒に踊る “They All Laughed” では、フレッド・アステアのバレエから始まるが、バレエは間もなく終わって、二人はタップダンスを一緒に踊る。そして意気投合している。

    “Let’s Call the Whole Thing Off”

     その次に二人が一緒に踊る “Let’s Call the Whole Thing Off” は、ローラースケートによるタップダンス。

    “Shall We Dance”

     「踊らん哉」の終盤に、フレッド・アステアとハリエット・ホクター(Harriet Hoctor)と大勢のダンサーによるバレエがある。

     そのバレエの後に、楽曲 “Shall We Dance” に合わせたタップダンスがある。


    シャル・ウィ・ダンス(『踊らん哉』より)

     ここでは、たしかにバレエの分量は多くなっている。

     しかしやはりタップダンスに中心はある。

     前半のバレエと、後半のタップダンスとでは、明らかに後者の方が重要である。

     そのバレエにおいても、フレッド・アステアより、ストーリー上意味のないハリエット・ホクタ―の方が中心になっているように見える。

    映画「踊らん哉」の問題

     映画「踊らん哉」は、バレエを大きく取り入れたミュージカル映画の初期のものである。

     しかしそのバレエの入れ方には疑問がある。

     タップダンスとバレエとの融合が企てられているはずであるのに、バレエの割合が少ない。

     フレッド・アステアのバレエの割合が少ないことに問題はある。

     バレエダンサーを演ずるフレッド・アステアがバレエを担当し、タップダンサーを演ずるジンジャー・ロジャーズがタップダンスを担当して、両者がのダンスが合わさって恋愛が成就する、というかたちにすればいいと思われる。

     実際には、フレッド・アステアの演ずるバレエダンサーはそれほどバレエをやらず、タップダンスを好んでやっていて、ジンジャー・ロジャーズ演ずるタップダンサーはタップダンスをやっているので、全体としてタップダンスに偏って、バレエは少なくなっているのである。

     バレエを取り入れたミュージカル映画として問題があるのみならず、一本の映画として構造的に問題があるということもできる。

     タップダンスとバレエとの融合を主題としているにもかかわらず、バレエの割合が少なく、融合はできていない。

     もともとタップダンスとバレエとの融合などということを主題とせずに、タップダンサー同士の恋愛とした方がよかったのではないか?

     バレエの要素が、むしろマイナスになっているのではないか?

     「踊らん哉」は、全盛期のフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズのコンビのためにジョージ・ガーシュウィンが作曲を担当したという豪華な映画であるが、物足りないところがある。

     たとえば「トップ・ハット」「有頂天時代」に比べると、物足りないところがある。

     それはバレエを取り入れながら、そのバレエが余計になっているからではないか?

     映画「踊らん哉」の収入は前作の半分以下であったと言われている。


    誰も奪えぬこの想い(『踊らん哉』より)

     映画「踊らん哉」について↓

    つづき

  • 映画「月とキャベツ」―山崎まさよし主演映画

    映画「月とキャベツ」―山崎まさよし主演映画

     映画「月とキャベツ」は1996年に公開された映画。

     1996年度の文化庁優秀映画作品賞を受賞している。

     山崎まさよし主演で、劇中で “One more time, One more chance” が歌われる。


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    映画「月とキャベツ」は

     映画「月とキャベツ」は、若い男女のひと夏のやりとりを描いた作品。

     主人公の花火(山崎まさよし)は、東京で人気のあるバンドのヴォーカルであったが、そのバンドが解散してから一年、新曲を作らず、都会から離れたところ(群馬)で古い家屋に一人で住んで畑でキャベツを作って暮らしていた。

     ある日、草原ばかりで人のいないところで花火が車を停めていると、土手で踊っている少女(真田麻垂美)がいた。

     そこで二人は知り合った。

    映画「月とキャベツ」の主題

     映画「月とキャベツ」は、新曲を作らなくなった主人公がどうするか、という話である。

     ヒバナという少女(真田麻垂美)とのやりとりがそのことに関わってくる。

      “One more time, One more chance” もそのことと関わっている。

    「月」と「キャベツ」とは?

     キャベツは、主人公の花火が育てる作物として出て来る。

     キャベツは、花火という人物を象徴している。

     それに対して月は、ヒバナという人物を象徴している。

     ヒバナという人物は、月によって象徴されるような人物ということができる。

    絵画

     映画「月とキャベツ」では、絵画的な表現に気が遣われている。

     地平線によって画面の上下が区切られて、下は草原、上は空という構図で、その草原の中で、白のノースリーブのワンピースの少女が細い手足を動かして踊っている、というのはこの映画の特徴的な映像である。

     特にヒバナという、白くほそい、透明感のある少女の表現に気が遣われている。

     まさに、夢のような少女。

    音楽

     映画「月とキャベツ」は、主人公がミュージシャンであって、新曲をどうするかという話である。

     そこでミュージシャンである山崎まさよしの歌が、物語の重要な要素となっている。

      “One more time, One more chance” も物語の重要な要素として出て来る。

     ただし “One more time, One more chance” は映画「月とキャベツ」のために作られたのではなく、映画「月とキャベツ」と関係なく作られていた。


    One more time, One more chance

     映画と関係なく作られていたにもかかわらず、 “One more time, One more chance” の歌詞は、映画「月とキャベツ」に合っている。

     踏み切りとか、桜木町とかは、映画「月とキャベツ」とは関係がない。

    「月とキャベツ」のDVD

     映画「月とキャベツ」はDVDが出ている。

     特典映像は、劇場予告と監督インタビュー。

     監督インタビューでは、篠原哲雄監督が、脚本を選んだいきさつ、出演者を選んだいきさつなどについて語っている。


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  • 新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」という難解な作品について考えてみる~第一話・第二話~

    新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」という難解な作品について考えてみる~第一話・第二話~

     新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」は難解な作品である。その難解なところについて考えてみる。

     ここでは、「第一話 桜花抄」、「第二話 コスモナウト」について考える。


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    第一話 桜花抄

    アバンタイトル

     桜の花が散る中で、ランドセルを背負った小学生の男の子と女の子が会話するところから映画は始まる。

     二人の恋愛感情が描かれるのではないか、と予測される。

     ところが二人の恋愛感情はほとんど描かれない。

     二人の心が近づくところではなく、遠ざかるところが描かれている。

    ・「秒速5センチメートル」云々という女の子の言葉に対して、男の子は距離を感じている。

    ・女の子が突然駆けだして、男の子から離れて行く。

    ・女の子は踏切を渡ったのに、男の子は追いつくことができず、二人の間を電車が通る。

    仲良くなったいきさつ

     その男の子と女の子が仲良くなったいきさつは、その男の子・遠野貴樹とおのたかきの独白と、断片的な映像によって伝えられる。

    ・二人は「精神的にどこかよく似ていた」という

    ・貴樹が東京のその小学校に転校してきた一年後、小学四年生の時に、その女の子・篠原明里しのはらあかりは同じクラスに転校してきたという

    ・貴樹も明里も病気がちで図書館が好きであったという

     それで二人は「ごく自然に仲良く」なったというのである。

     二人が仲良くなるところは描かれず、二人の持っていた条件と、仲良くなったという結果だけが伝えられるのである。

     しかしその条件があれば必ずその結果が生ずるわけではない。

     小学四年生では、男女は分かれていくと思われる。その中で男女で仲良くなることは、自然にあることではなく、緊張対立を伴う出来事として起こることではないか?

     恋愛を描く作品の第一に描くべきことではないかと思われる。

     ここでも恋愛が描かれていないのである。

     二人がどういう関係であるのか、互いに相手をどう思っているのかも、わかりにくい。

     新海誠監督はクラスと、クラスに馴染めない二人が対立していたように描いている。

     小説版では「クラスに馴染むことのできなかった」二人が、「ふたりだけの世界に内向していっている」と書いてある。(14~15頁)


    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     クラスに対して「ふたりだけの世界に内向していっている」ところも、あまり描かれておらず、わかりにくい。

     漫画版では、映画の絵と言葉をもとにして、その間に言葉と表情を加えることによって、二人が仲良くなっていくところが描かれている。


    秒速5センチメートル(1) (アフタヌーンコミックス)

     漫画版を読むと、二人が仲良くなっていく気持ちが読者にもよく伝わる。

     新海誠監督が映画においてそういうことをしなかったことにはどういう意味があるのか?

    距離

     二人が一緒にいるところは、引きの絵で観客から遠くに描かれている。

     映画のはじめに二人が出て来るところなど、二人が隅に小さく描かれているので、見落としてしまいそうである。

     その後で小学生の二人が一緒にいるところが描かれるが、二人を遠くから見るかたちになっている。

     小説版では、はじめの桜の場面について次のように書かれている。

    古い記憶をたぐろうとする時、僕はあの頃の僕たちをフレームの外、すこし遠くから眺めている。

    「小説 秒速5センチメートル」、角川文庫、8頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     記憶をたぐる時に「すこし遠くから眺めている」ことを意識的に表現しているようである。

     幼い二人の気持ちが夢のようにぼんやりとしてわかりにくくなっていることは、そのことと関係があるようである。

    手紙

     貴樹と明里が小学校の卒業式で別れてから半年後、貴樹のもとに明里から手紙が来た。

     映画では、明里がその手紙を朗読する声と、貴樹の中学生活の映像が重ねられている。

    明里の意図

     明里の手紙に恋愛要素が少ないことが気になる。

     明里はその手紙において、近況を伝えるだけで、恋愛感情を伝えることもなく、そもそも何を伝えたいのか、よくわからない。

     小説版では次のように書かれている。

    僕と会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかったし、文面からは彼女が新しい生活が新しい生活に順調に馴染んでいるようにも感じられた。でも、明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだと、僕は感じた。そうでなければ、手紙なんて書くわけがないのだ。そしてそういう気持ちは、僕もまったく同じだったのだ。

    「小説 秒速5センチメートル」、21~22頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

    ・明里の手紙には貴樹と「会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかった」。

    ・ところが貴樹は明里の手紙を読んで、「明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだ」と「感じた」。

    ・貴樹が明里の手紙に読み取った気持ちは貴樹の気持ちと「まったく同じ」であった。

     貴樹ではない観客からすると、文面に書かれていない明里の気持ちを「感じ」ることは容易ではないのではないか?

    貴樹の反応

     観客からすると、明里の手紙を読んだ貴樹の気持ちを読み取ることも、容易ではないことではないか?

     映画では、明里の手紙に対する貴樹の反応はほとんど描かれていない。

     手紙をめぐる二人の気持ちはほとんど描かれていないのである。

     貴樹は明里の手紙に対して返事を書いたはずであるが、そのこともほとんど描かれていない。

    ・はじめの夏の手紙

    ・「もうすっかり秋」の手紙

    ・「寒い日が続く」時の手紙

    ・貴樹の転校を知った時の手紙

    ・貴樹が会いに行くと約束した後の手紙

     以上の明里の手紙に対して貴樹はその都度返事を出しているはずであるが、貴樹が手紙を書こうとするところが少し描かれているだけで、貴樹の返事はほとんど描かれていない。

    会うこと

     貴樹が東京から種子島に転校することがきまって、ふたりは会うことにする。

     気になるところが多い。

    何故にそれまで会おうとしなかったのか?

     明里が初めて貴樹に手紙を出したのは、小学校の卒業式から半年後の夏である。

     それから三月まで、会う時間はあったと思われるのに、何故に会とうとしなかったのか?

     会おうと思えば会うことはできると考えて急がずにいて、突然遠く離れることになって会うことが重要になったということであろうか?

     しかし小説版では、貴樹は明里の手紙を読んで貴樹に会いたいという思いを読み取っている。そして貴樹も「まったく同じ気持ち」気持ちをもっていたと語っている。

     二人とも会いたいという気持ちをもっていたのに、三月まで会おうとしなかったことは奇妙である。

    距離

     たしかに種子島は、東京と比べると栃木からはるかに離れている。

     しかし中学一年生にとっては、東京と栃木も離れているのではないか、とも思う。

    ・貴樹は東京から栃木へどう行くか知らなかった。

    ・貴樹は明里の手紙を受け取って、会いたいという気持ちを知り、自分でも持っていたのに、その夏から次の三月まで栃木に行っていない。

    ・実際に栃木へ行く時には大変な苦労をしている。

    その約束の内容

     貴樹は3月4日の放課後に豪徳寺から電車に乗って明里の住む栃木県岩舟駅まで行くという計画を立てた。

     豪徳寺を16時前に出て、岩舟で19時に待ち合わせるという計画である。

     つっこみどころがある。

    ・休日に会うことにすれば、余裕をもって会うことができたのではないか?

    ・ふたりが動いて中間地点で会うことにすれば電車に乗る時間が短くなって、会う時間が長くなるのでは?

     小説版には次のように書かれている。

    時刻表を調べて、僕たちは夜七時に明里の家の近くの駅で待ち合わせることに決めた。その時間ならば僕が放課後の部活動をさぼって授業後すぐに出発すれば間に合うし、二時間ほど明里と話した後に、最終電車で都内の家まで帰ってくることができる。とにかくその日のうちに家に帰ることができるなら、親へのいいわけもなんとでもなる。

    「小説 秒速5センチメートル」、24頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     19時に待ち合わせして、21時まで話して、それから最終電車で24時少し前に豪徳寺に帰ってくる計画のようである。

     やはり無理をしているように見える。

     休日は空いていなかったということであろうか?

     そうだとしても、やはり二人が動いて中間地点で会うことはできたのではないか?

     明里の家の近くの桜の木が重要であることはわかるが、中間地点にある桜の木でもよかったのでは?

    電車

     明里に会いに行くために貴樹が乗った電車は、雪で動かなくなる。

     幸せが外からの力によって妨げられ、主人公はそれに対して耐え忍ぶ、というのは話として盛り上がる。

     恋愛ものとしても盛り上がるところである。

    出会い

     十一時すぎに貴樹が岩舟駅に着いてみると、明里が一人で待っていた。

     二人は駅で明里が持って来たものを食べた。そして、二人で明里の家の近くの桜の木を見に行った後、納屋で一泊した。


    栃木市6(岩舟) 201910 (ゼンリン住宅地図)
    現実離れ

     以上のことは、現実離れしている。

    ・明里の親は、中学一年生の娘が雪の日に朝まで帰って来ないのに探し回らなかったとは考えられない。(第三話で少し出て来るが、異常な人とは思えない)

    ・駅員も、雪の日に中学一年生の女の子が一人で十一時すぎまで座って待っているのをそのままにして置かないのではないか?

    ・雪の夜を納屋で明かすことは、悲惨なことになるのではないか?

     この夜のことは、美化されて現実離れしたことのように見える。

    桜の木

     明里が桜の木を前にして「まるで雪みたいじゃない?」というところは、その場での言葉としてはおかしいことである。

     明里は、映画冒頭のやりとりを貴樹に思い出させているにちがいない。

     映画冒頭では、貴樹は明里の言葉に貴樹はついていくことができなかった。

     この場面では、貴樹は明里の言葉についていくことができる。

     二人の心の中に同じ桜がある。現実にはない桜。

     この場面で、二人は互いに相手に対する気持ちを恋愛と自覚する。

     それに対して雪は、二人を遠ざける厳しい現実を現わしている。

    難解な言葉

     キスをした後の貴樹の独白は難解である。

     そのキスによって人生の最高のことを知ったというようなことはわかるが、その後に感じたという気持ちはわかりにくい。

     別れる時の明里の「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」という言葉は、貴樹に大きな意味があったようであるが、私にはよくわからない。

    手紙

     貴樹は明里に会いに行く時に、明里に対して伝えたいことを書いたという手紙を持って行っている。

     小説版には「ラブレター」と書いてある。

    約束の日まではまだ二週間あったから、僕は時間をかけて明里に渡すための長い手紙を書いた。それは僕が生まれて初めて書いた、たぶん、ラブレターだった。自分が憧れている未来のこと、好きな本や音楽のこと、そして、明里が自分にとってどれほど大切な存在であるかを―それはまだ稚拙で幼い感情表現であったかもしれないけれど―なるべく正直に書き綴った。

    「小説 秒速5センチメートル」、24頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     その手紙は、貴樹が小山駅で電車を待っている時に、風に飛ばされてしまう。

     明里も手紙を書いていて、貴樹に渡さなかったということになっている。

     この手紙のことも、わかりにくい。

     手紙を渡すことは、会いに行くことと関係なくできることではないか?

     手紙で伝えたいことがあるならば、会う前に手紙で伝えればいいのではないか? それまで数カ月手紙をやりとりしている間に伝えることはできなかったのか?

     その前に会うことが必要だったのか?

     会うことがきまっているのであるから、伝えたいことは、会って直接に伝えればいいのではないか?

    第二話 コスモナウト

     はじめて第二話を観た時、第一話に出ていなかった澄田花苗という人物が主人公となっていたので、第一話と全く別の人物による別の話が始まったと思った。

     そして、澄田花苗な恋愛感情が話の中心となっているところは、恋愛ものとして第一話よりわかりやすいと思った。

     ところがその澄田花苗の恋愛感情が、第一話の主人公・遠野貴樹に向けられていることに気づいて、衝撃を受けた。

    もぞもぞ

     澄田花苗が第一話の主人公・遠野貴樹を卓越した人物とみて恋愛感情を寄せているところは、もぞもぞする。

     第一話でその内面を独白してきた人物を、そのように卓越した人物のように見なすことは、正しくないと思われる。

     そういう澄田花苗の独白が第二話の中心となっているので、もぞもぞするのである。

    第一話との関係

     第一話は遠野貴樹の独白によって導かれたのに、第二話は澄田花苗の独白によって導かれて、遠野貴樹は澄田花苗によって外からみられるというかたちで描かれていることは、奇妙である。

     第一話は遠野貴樹の内面を掘り下げるような話になっていた。ところが第二話では遠野貴樹は外からみられるというかたちで描かれて、その内面を掘り下げる方向に進まず、内面はわかりにくくなっている。

    ・草原で空のかなたを見つめているのは、どういうことか? 隣にいる女性は?

    ・メールの意味は?

    ・澄田花苗に対してどう考えているのか?

    ・現在何を考えているのか?

     一部独白があるが、わかりにくい。

    成長の話

     第二話は全体としての成長の話になっている。

    澄田花苗の成長

    ・澄田花苗は、遠野貴樹のことを思って、停滞していた。

    ・ところが、迷いがないと思い込んでいた遠野貴樹が「迷ってばかりなんだ」と言ったことを聞いて、自分も前に進んで行くことに決めた。

    ・そして遠野貴樹に愛を告白しようとしたが、その心が自分の方を向いていないことを知って、あきらめて前に進むことを決めた。

    ・ロケット―二人は同様に遠くを目指しているが、澄田は遠野を求めているのに、遠野は他を求めている。

    遠野貴樹の成長

     問題は遠野貴樹である。遠野貴樹は第二話で成長したのか?

     小説版では、第三話で過去を振り返るかたちで次のような独白がある。

    それは後悔に似た感情だったが、だからといって、当時の自分にはやはりあのように振る舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。

    「小説 秒速5センチメートル」、139~140頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     「あのように振る舞うことしかできなかった」ということは、悪いことをしたのではなく、できるだけのことをしたということのようである。

     何故に「あのように振る舞うことしかできなかった」のか、わかりにくい。

     遠野貴樹はメールについて次のように語っている。

    それは彼にとって準備期間のようなものだった。ひとりで世界に出ていくための助走のようなもの。
     しかし次第に、メールの文面は誰に宛てたのでもない、漠然とした独り言のようなものへと変わっていき、やがてその癖も消えた。そのことに気づいた時、もう準備期間は終わったのだと彼は思った。

    「小説 秒速5センチメートル」、141~142頁

    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

     「準備期間」と言う意味で成長であったようである。

     これは映画を観ただけではわかりにくいところである。

    問題

     第二話の澄田花苗と遠野貴樹の関係は、澄田花苗による一方的なことのようにも見える。

     また澄田花苗の頭の中だけで起こっていることが多いようにも見える。

     しかし二人の関係は、客観的にみてただの知り合いを超えていたようである。

     遠野のクラスメイトが澄田のことを「遠野の彼女じゃん」とよんでいる。遠野は反対しているが、そう言われるような関係であった。(第一話では、黒板の落書きでからかわれて、クラスと二人が対立した。第二話では、一人の同級生に軽く言われて、軽く返している)

     二人はしばしば二人きりで言葉を交わし、二人きりで夕方、学校から帰った。―小説版には、「運の良い時は週に一回、運のない時は二週に一回くらいの割合で一緒に帰ることができる」とある。(72頁)

     客観的に二人はただの知り合いを超えて恋愛に近い関係になっていた。

     遠野貴樹もそのことを意識していた。そしてそのことに積極的な言動をしてもいた。―澄田に「一緒に帰らない?」と言う等。

     澄田が「優しくしないで」と言ったように、遠野は澄田に「優しく」していた。そしてそうしながら、澄田がそれ以上の関係を求めることを許さなかった。

     小説版には、遠野は澄田の気持ちをすべてわかっていたと書いてある。

    ~当時の自分にはやはりあのように振舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。澄田が自分に惹かれた理由も、彼女が告白しようとした何度かの瞬間も。それを言わせなかった自分の気持ちも、打ち上げを見た時の一瞬の高揚の重なりも、その後の彼女の諦めも。すべてがくっきりと見えていて、それでもあの時の自分には何もできなかった。

    「小説 秒速5センチメートル」、139~140頁

     第二話の時に遠野貴樹には澄田花苗の気持ちのすべてがくっきりと見えていた、ということは、第二話は澄田の独白を中心としているが、それは遠野の内面でもあったということではないか。

    種子島

     第二話の舞台が種子島になったのは、ロケットを描きたいからではないか? とも思う。


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     映画「秒速5センチメートル」で描かれる種子島では、高校生も教師も皆標準語でしゃべっている。

     種子島にも標準語でしゃべっている人はいるかもしれないが、高校生も教師も皆標準語でしゃべっていることはありえないのではないか?

     澄田花苗は、種子島で生まれ育って、大学で東京に行くことなど初めから考えていないという設定ではなかったか?

     このことも、この映画に現実離れした夢のような印象を与えている。

     ロケットの打ち上げの日時は前から知らされていて、関心のある人は打ち上げをみようと待っているものではなかったか?


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  • 新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」

    新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」

     新海誠監督の映画「秒速5センチメートル」は2007年に公開された作品。

     新海誠監督が後に作った映画「君の名は。」ほど多くの人に知られていないと思うが、多くの人に衝撃を与えた。


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    映画「秒速5センチメートル」の構成

     映画「秒速5センチメートル」は、3本の短編作品からなっている。

     新海誠監督は公式サイトで次のように語っている。

    「秒速5センチメートル」は、ひとりの少年を軸にして描かれる、独立した3本の作品からなる連作短編アニメーションです。

    「秒速5センチメートル」公式サイト 「新海誠監督 本作に寄せて」

    https://www.cwfilms.jp/5cm/

    ・それぞれ独立した3本の作品からなる。

    ・「ひとりの少年」=遠野とおの貴樹たかきという少年が3本の作品の「軸」とされている。

    第一話「桜花抄」

     遠野貴樹(声:水橋研二)という少年の小学校中学年から中学一年三月までの話。

     舞台は東京。

     同級生の篠原しのはら明里あかり(声:近藤好美)という少女とのことが描かれている。

    第二話「コスモナウト」

     遠野貴樹(声:水橋研二)の高校三年生の時の話。

     舞台は種子島。

     同じ学年の澄田すみだ花苗かなえ(声:花村怜美)という少女とのことが描かれている。

    第三話「秒速5センチメートル」

     遠野貴樹(声:水橋研二)が社会人の時の話。

     舞台は東京。

     大人になった明里(声:尾上綾華)が出て来る。

    年代

     新海誠監督は映画で描かれる時代について次のように語っている。

    時代は1990年代前半から現代までの日本。

    「秒速5センチメートル」公式サイト 「新海誠監督 本作に寄せて」

    https://www.cwfilms.jp/5cm/director/

     第一話「桜花抄」は1990年代前半で、第三話は現代、すなわち映画が公開された2007年ということのようである。

    映画「秒速5センチメートル」の特徴

    背景

     新海誠監督の他の作品でもそうであるが、映画「秒速5センチメートル」も、背景の絵に力が注がれている。

     桜の花の散る美麗な絵をはじめとして、電車など、現実の風景をもとにした美しい絵が描かれている。

     新海誠監督はそのことに関して次のように語っている。

    徹底したロケハンを行い、今この現実をアニメーション表現の中にすくい取ろうと試みています。

    「秒速5センチメートル」公式サイト 「新海誠監督 本作に寄せて」

    https://www.cwfilms.jp/5cm/director/

    ・「徹底したロケハン」というように現実をもとにしている。

    ・しかしまた「見慣れた風景がいつもより輝いて見えるよう」にも描かれている。

    キャラクター

     背景の絵に力が注がれているのと比べると、人物の絵にはそれほどの力は注がれていないように見える。

     他のアニメでは、人物の絵の魅力によって観客を引っぱるということがあるが、映画「秒速5センチメートル」ではそういうことはない。

     絵だけではなく、全体として、映画「秒速5センチメートル」の登場人物の個性は、観客に特に強い印象を与えない。

    動き

     映画「秒速5センチメートル」では、人物の動きは少なく、背景がゆっくりと動くことが多い。

     他のアニメで人物の動きに力を入れた作品が多いことと対照的である。

    題材

     映画「秒速5センチメートル」に動きが少ないことは、題材と関係がある。

    我々の日常には波瀾(はらん)に満ちたドラマも劇的な変節も突然の天啓もほとんどありませんが、それでも結局のところ、世界は生き続けるに足る滋味や美しさをそこここに湛(たた)えています。

    「秒速5センチメートル」公式サイト 「新海誠監督 本作に寄せて」

    https://www.cwfilms.jp/5cm/director/

     映画「秒速5センチメートル」は「波瀾(はらん)に満ちたドラマも劇的な変節も突然の天啓もほとんど」ないという「我々の日常」を描いた作品である。

    独白

     映画「秒速5センチメートル」では、独白が多用されている。

     独白は、映像において描かれる人物の動き、やりとりの位相と違う位相にある。

    音楽

     映画「秒速5センチメートル」は全編にわたって天門氏による繊細な感じの音楽が流れている。

     人物の声、物の音なども、新海誠監督が気を遣っていることがわかる。

     そして、山崎まさよし氏の “One more time, One more chance” 。


    One more time, One more chance

     『秒速5センチメートル』 Special Edition。


    One more time,One more chance「秒速5センチメートル」Special Edition

    DVD、Blu-ray等

    Blu-ray

     映画「秒速5センチメートル」の見どころは映像美である。

    インターナショナル版Blu-ray

     英語の音声、日本語/英語/韓国語/中国語/タイ語/インドネシア語/イタリア語/スペイン語/ドイツ語/ポルトガル語/アラビア語の字幕が入っている。


    秒速5センチメートル Blu-ray インターナショナル版

     特典映像は次の通り。

    ・『監督インタビュー』(英語字幕あり)

    ・『ほしのこえ』(英語字幕あり)

    ・『彼女と彼女の猫』(5分Ver.)(英語字幕あり)

    DVD通常版

     特典映像として監督インタビューが入っている。Blu-rayには入っていない。


    秒速5センチメートル 通常版 [DVD]

    DVD特別限定生産版

     通常版に特典DVD、オリジナルサウンドトラックCDがついたかたち。


    秒速5センチメートル 特別限定生産版 DVD-BOX

     特典DVDの内容は次の通り。

    ・動画コンテ:約63分

    ・第一話「桜花抄」Yahoo! JAPAN先行配信バージョン:約29分

    ・「One more time, One more chance」PV

    ・「秒速5センチメートル」スペシャルエディション版:約6分

    ・キャストインタビュー:約36分(水橋研二、近藤好美、花村怜美、尾上綾華)

    ・制作の軌跡フォトムービー:約5分

    「小説 秒速5センチメートル」

     「小説 秒速5センチメートル」は、映画「秒速5センチメートル」が公開されたころから新海誠監督が書いた小説。

     映画「秒速5センチメートル」を作った新海誠監督自身が書いた小説は、「秒速5センチメートル」という作品を理解するために重要。


    小説 秒速5センチメートル (角川文庫)

    漫画「秒速5センチメートル」

     映画「秒速5センチメートル」も「小説 秒速5センチメートル」も新海誠監督の作品である。

     それに対して漫画「秒速5センチメートル」は、漫画家清家雪子先生が映画「秒速5センチメートル」、「小説 秒速5センチメートル」を踏まえてその隙間を補うなどした作品。

     全2巻。


    秒速5センチメートル(1) (アフタヌーンコミックス)

     第2巻。


    秒速5センチメートル(2) (アフタヌーンコミックス)

     「秒速5センチメートル」はキャラクターの力の強くない作品であるが、それにもかかわらず、メディアミックスが行われている。小池一夫。

    「秒速5センチメートル」の難解なところの考察

     「秒速5センチメートル」は難解な作品だと私は思う。

     「第一話 桜花抄」、「第二話 コスモナウト」について考えてみた。

  • 手を洗う救急医Taka氏が「地獄絵図」と語ったことについて 第6波での死亡者数の問題

    手を洗う救急医Taka氏が「地獄絵図」と語ったことについて 第6波での死亡者数の問題

     2021年6月28日、手を洗う救急医Taka氏は「地獄絵図になる可能性も十分ある」と語った。

     東京オリンピック2020は2021年7月21日から始まった。

     その1カ月前に、新型コロナウイルスの感染拡大によって、「地獄絵図になる可能性も十分にある」ゆえに「専門家」からは「五輪中止という意見」が出ていた、と手を洗う救急医Taka氏は語ったのである。

    気になるところ

     手を洗う救急医Taka氏の言葉には気になるところがある。

    「地獄」と言う言葉

     「地獄」というのは宗教的な言葉である。

     「専門家」とは科学者だと思われるが、科学者は、宗教的な言葉ではなく、科学的な言葉を使うべきではないか?

     「専門家」はあくまでも客観的な可能性を示して、それを受けて国民が判断すべきではないか?

     手を洗う救急医Taka氏のように、「地獄絵図」という言葉を使って「専門家」からは「五輪中止という意見」が出ているということは、「専門家」の判断を科学的真理であるかのように見せて、国民に押し付けることではないか?

     国民の自由な判断を抑圧することではないか?

     手を洗う救急医Taka氏の『「専門家からは五輪中止という意見は出ていない」とかよく言えたもんだなと思いますね』という言い方も、あくまでも「専門家」の意見は正しいと意地になっているようである。

    「地獄絵図」という言葉と現実

     手を洗う救急医Taka氏は第5波に関して「地獄絵図」になる可能性があると語った。

     実際はどうであったか?

    第5波

     第5波では、重症者数が多かった。

     第4波では、5月26日に日本国内の重症者が1413人になったのが最高であった。

     第5波では、8月14日から9月18日まで1日1500人を超えていた。8月27日から9月13日までは1日2000人を超えていた。

     第6波では、1日1500人を超えたのは2月22日、25日、26日くらいであった。

     手を洗う救急医Taka氏はその「地獄絵図」というところで、西浦博氏の「おもてなしどころか、国際的に恥をかく事態も」というBuzzFeedの記事を引用している。

    https://www.buzzfeed.com/amphtml/naokoiwanaga/covid-19-nishiura-20210625-2?__twitter_impression=true

     西浦博氏はその記事で「医療崩壊」ということを問題としている。

    死者数

     ところで第5波での新型コロナウイルスによる死者は、その前の第4波、その後の第6波と比べて多くない。

    2020年
    1月

    2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
    0人 5人 61人 391人 441人 76人 39人 287人 275人 195人 382人 1340人
    2021年
    1月
    2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
    2261人 2144人 1279人 1067人 2817人 1724人 410人 874人 1584人 616人 93人 32人
    2022年
    1月
    2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
    422人 4856人 4453人 1447 1052              

    https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data-all/

     第5波は2021年7月から10月くらいまで。

     第5波以前の2021年1月から6月までは、毎月1000人以上亡くなっていて、第5波より死者数は多い。

     第5波で最も死者数が多いのは2021年9月の1584人であるが、同年1月、2月、5月、6月にそれより多くの人が亡くなっている。

     第5波の後、2022年1月から始まった第6波ではさらに多くの人が亡くなっている。

     第5波の間に五輪が開催されたにもかかわらず、第3波、第4波、第6波より死亡者数は少なかった。

     新型コロナウイルス感染者の死亡以外の死亡が増えたという報道もある。

    1~3月に国内の死亡数が急増したことが厚生労働省の人口動態調査(速報値)で分かった。前年同期に比べ3万8630人(10.1%)多い、42万2037人に上った。同期間に新型コロナウイルス感染者の死亡は9704人で、増加分を大きく下回る。コロナ以外の要因があるとみられるが詳しい原因は不明だ。

    日本経済新聞 国内死亡数が急増、1~3月3.8万人増 コロナ感染死の4倍

     厚生労働省の資料↓

    https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1a.html

     人口動態統計速報(令和4年3月分)

     当月分及び当月を含む過去1年間(12ヶ月)の動向

     死亡者数の推移

    2020年
    1月

    2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
    13万2622 11万7010 11万9161 11万3362 10万8380 10万423 10万4849 11万1591 10万7468 11万8038 11万8455 13万3185
    2021年
    1月
    2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
    14万844 11万8984 12万3579 11万8169 11万8634 10万8734 11万2222 11万7804 11万5706 12万781 12万2806 13万4026
    2022年
    1月
    2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
    14万3992 13万8474 13万9571                  

    疑問

     手を洗う救急医Taka氏は第5波について、「地獄絵図になる可能性も十分ある」とまで語っていた。

     たしかに第5波では重症者数がその前後より多かった。

     第5波の時には「医療崩壊」ということが問題とされていた。

     しかし第3波、第4波、第6波では第5波より死者数が多かった。

     手を洗う救急医Taka氏は、2022年2月9日付けの記事で、第6波に関して「逃げきれる」と予測していた。

    木下「感染対策をしたり、集団の中で免疫を持つ人が増えたりすると、実効再生産数が落ちてきて、実効再生産数が1を切った瞬間から収束に向かいます。オミクロンの場合、世代時間が短いので、実効再生産数が0.5になると10日間で32分の1まで感染者が減ります。倍々で増えていくし、倍々で減っていくということです」

    まいどなニュース 専門医、オミクロンからは「逃げきれる」 基本的な感染対策の継続が条件

     「倍々で減っていく」ゆえに「逃げきれる」というのである。

     そして「デルタに比べて恐ろしく強いということもないようです。」と語っている。

     しかし2月以降、オミクロン株による死者はそれまでにないほど多くなっている。

     その上に新型コロナウイルス以外の死者が多くなっているという。

     手を洗う救急医Taka氏が「地獄絵図になる可能性も十分ある」と語った第5波より多くの人が亡くなった第6波に関して、手を洗う救急医Taka氏は「デルタに比べて恐ろしく強いということもないようです。」とか、「逃げきれる」とか語っていたのである。

     予測は外れることもある。しかしそういう予測を国民に科学的真理であるかのようにおしつけることには疑問がある。

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」―原作の絵と高田明美氏の絵

    「きまぐれオレンジ☆ロード」―原作の絵と高田明美氏の絵

     数年前、久しぶりに「きまぐれオレンジ☆ロード」を読んで、また関心をもつようになった。

     その時に、私の知っている「きまぐれオレンジ☆ロード」とは違う絵が「きまぐれオレンジ☆ロード」の絵として出回っていることが気になった。

     それはアニメ版の絵であった。

     私はそれまでアニメ版のことを全く知らず、アニメ版の絵も見たことがなかったのである。

     アニメ版のキャラクターデザインは高田明美氏による。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の絵と高田明美氏の絵との関係について考えてみた。


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    違い

     アニメ版の絵は、原作の絵とは違うものになっている。

    高田明美氏の言葉

     もともと高田明美氏の画風は、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の画風とは距離のあるものであった。

     高田明美氏自身そのことを認めている。

    最初に絵を見た時は「私よりも、いのまた(むつみ)さんに頼んだほうがいいんじゃないか」ってちょっと思ったりもしたんですが。

    高田明美が明かす〝暇つぶし〟から始まった『パトレイバー』秘話

     そういう高田明美氏がアニメ版のキャラクターデザインを担当した。

     そしてもともと距離のある高田明美氏の画風をさらに推し進めていったようである。

    『うる星やつら』はあまりバリエーションのあるイラストを描く余裕がなかったんですけれど、けっこうお任せだった『オレンジロード』はどっちかというと芸能プロの社長みたいな感覚で、「預けてもらった大事なタレントをどう売っていこうかな」みたいな視点で描いていました。

    高田明美が明かす〝暇つぶし〟から始まった『パトレイバー』秘話

     「お任せだった」から、「預けてもらった」から、高田明美氏は自分の思うようにしたということのようである。

     原作の絵をアニメで再現しようとは考えていなかったようである。

     アニメ版に関しては、自分のものとして、自分の思うようにやっていこうと考えていたようである。

     以上の発言は下のインタビューから↓

    https://animageplus.jp/articles/detail/33157

    違和感

     アニメ版のキャラクターデザインは、もともと原作とは距離のある画風の高田明美氏が、自分の思うように描いたものであるから、それだけ原作の絵と離れたものになったのである。

     アニメ版の鮎川まどかは、原作の鮎川まどかとは性格が違うように見える。着るものも違う。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のようにキャラクターの絵が特に重要な作品で、アニメ版のキャラクターデザインを担当する人が「芸能プロの社長みたいな感覚で」自分の思うように売っていくということは、どうなのか、と思わないでもない。

    原作者の言葉

     114分あたり。

     寄せられた質問に答えるコーナーで、

     アニメ化された時にキャラクターデザインの高田明美さんの絵に刺激を受けたのでは?

    という質問があった。それに対して、

    「それはないです。高田明美さんじゃなくて、いのまたむつみさんの影響が結構強いんじゃないかなと思います」と答えている。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の絵はいのまたむつみさんの絵の影響を受けている。原作者が自ら認めている。

     高田明美氏も認めている通りである。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」はアニメの絵の影響を受けていると言われるが、いのまたむつみさんの絵の影響を受けているのである。

     高田明美氏の絵の影響を受けたのではない。

     アニメ版が始まった後の漫画の絵はアニメ版の絵に近くなっていない。

     原作の絵は高田明美氏の絵の影響を受けたということは、他でも聞いたことがあるが、どこから出て来たのであろうか?

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の絵はいのまたむつみさんの影響を受けていることを考えると、いのまたむつみさんがアニメ版のキャラクターデザインをやることが正解だったのではないかと思われる。


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    「アニメージュ」1987年5月号

     「アニメージュ」1987年5月号には、TVシリーズのキャラクターデザインについての高田明美氏の言葉がある。(98頁)

    『ジャンプ』のイベント用アニメでもキャラデザを担当した高田明美さんのことばです。
    「今回は、より原作に近ずけたつもりです。~」

    「アニメージュ」1987年5月号、98頁

     1985年の『ジャンプ』のイベント用アニメでも高田明美氏はキャラクターデザインを担当していた。

     TVシリーズでは、その前回のキャラクターデザインより原作に近づけたというのである。

     どういうことか?

     見出しは「これなら原作ファンもナットク! 可憐さと色気を見事に調和させた高田”まどか”」となっている。

     前回のキャラクターデザインでは、原作ファンは納得しなかったということであろう。

     今回は、前回より原作に近づけたゆえに原作ファンも納得する、ということであろう。

     この記事には色々と興味深いところがある。

    原作ファンに気を遣っている

     TVシリーズの放映開始後に「アニメージュ」は「きまぐれオレンジ☆ロード」の原作ファンの声をかえりみなくなっていくが、この時には原作ファンに気を遣っていた。

    比較的

     「今回は、より原作に近ずけた」というのは前回と比べてのことである。前回より比較的に原作に近いということである。

     実際には、原作から離れている

     高田明美氏は具体的に次のようにしたと語っている。

    「~単行本の8~9巻あたりを参考に、等身を少し伸ばし、ちょっぴりおとなっぽい感じにしました」

    「アニメージュ」1987年5月号、98頁

     「単行本の8~9巻あたりを参考に」したというが、そこに描かれている高田明美氏の絵と、その参考にしたという「単行本の8~9巻あたり」の絵とは距離がある。


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    頭と体

     「等身を少し伸ばし」というのは、頭の大きさに対して、首から下の体の大きさを伸ばしたということではないかと思われる。

     「少し伸ばし」というのは、1985年の『ジャンプ』のイベント用アニメと比較して「少し伸ばし」たということであって、原作と同じようにしたということではない。

     アニメ版では、顔は大きく、体は小さくデフォルメされているが、原作漫画では、顔はそれほど大きくなく、体はそれほど小さくない。

     JC5巻あたりから、いのまたむつみさんの影響を受けて絵柄が変わって、頭は大きく、顔は小さくなっているが、体は小さくなっておらず、むしろさらにリアル寄りになっている。


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     アニメ版の絵では、首から下が小さくデフォルメされていることと関連して、原作ほど力を入れて描かれていないように見える。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」では、首から下の線が力を入れて描かれていて、美しいところが多い。そういうところがアニメ版ではなくなっている。

     アニメ版で顔が大きく体が小さくデフォルメされていることと関連してか、原作と構図が違うところが多い。

     TVシリーズの多くは原作の話をもとにしているのに、原作と同じような絵は少ないようである。

    太さ

     アニメ版では、顔が大きく、体が小さくデフォルメされている上に、その顔がまるっこい。

     原作はシュッとしているのに、アニメ版はまるっこくなっている。

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の「スタア誕生!の巻」でTVに映った自分たちをみて、くるみが「ぎゃーっ/あたし/こんなに/ふとって/ないよーっ」といい、まなみが「テレビって/ふとって/うつるんだって」というところがある。(JC17巻、41頁)


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     初めて読んだ時には、一般論を言っているのかと思っていた。

     ある時、TVシリーズの絵のことを言っているのではないかと思った。

     たとえばその頁のひかるがステージ上で歌っている絵のような細く美しい四肢の絵はTVシリーズにはないのではないか?

     この一連の話には、TVシリーズのことを扱っているところがある。(「春はアイドル!」では、春日恭介が独白で「わけで」を連発するとか、くるみが「ナイト・オブ・サマーサイド」を歌うとか)


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    対立

     高田明美氏によって「きまぐれオレンジ☆ロード」のアニメ版の絵は、原作の絵から離れたものとなった。

     アニメ版の絵のファンも少なくないようであるが、原作ファンで違和感を感じた人は多かったと思われる。

    「アニメージュ」

     雑誌「アニメージュ」は、アニメ版を持ち上げて原作を下げていたが、絵に関しては原作を評価していた。

     「アニメージュ」1988年4月号の「TVファイナル特集」で、「原作があくまでもキャラクターの絵が魅力の、軽~~~いノリのラブコメだった」と書いている。

     後半は原作を下げているが、前半は、原作の「キャラクターの絵が魅力」であることを認めている。

     1988年6月号の「スタッフ版アニメグランプリ」の「アニメーター部門」で、小黒祐一郎氏が「きまぐれオレンジ☆ロード」TVシリーズの総作画監督の後藤眞砂子氏の仕事を称賛しているが、高田明美氏のことは触れられていない。

    「BASTARD‼」

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の絵は連載後も人気があったと思われる。

     たとえば「きまぐれオレンジ☆ロード」の連載が終わった後に、「きまぐれオレンジ☆ロード」のアシスタントをやっていた萩原一至先生の「BASTARD‼」の連載が始まっているが、その「BASTARD‼」の人気はそのことと関係があると思われる。


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     大塚英志氏は「新文化」1988年11月17日号の「究極のおたくコミック」という文で、「BASTARD‼」の第一巻が「発売当日に都内の書店で瞬時に売り切れ、この種の出版物は必ず手に入れるぼくの周囲のマニア上がりのまんが家や編集者たちでさえ誰一人買えなかったというありさまであった」ことについて、二つの理由によって説明されていたという。

    「BASTARD‼」の人気の背景については既にいくつかの<解説>がされている。すなわち、ファミコンブームによって読者にポピュラーとなった「ドラクエ」的な<剣と魔法モノ>を少年誌で初めて手がけたこと、加えて作者は「きまぐれオレンジ☆ロード」の作者であるまつもと泉の元アシスタントであり、とにかく美少女キャラが可愛い。とりあえずこの二点がヒットの理由だとされている。

    「定本 物語消費論」、角川書店、平成13年、98頁

     「BASTARD‼」の異例の売り上げの二つの理由の一つは「きまぐれオレンジ☆ロード」に近い美少女キャラの絵だったというのである。

     それだけ「きまぐれオレンジ☆ロード」の絵は力があったということではないか?

    キャラクターグッズ

    「きまぐれオレンジ☆ロード」に関しては、アニメ版の絵によるキャラクターグッズが多く、原作の絵によるものは少ないように見える。

     同時代のあだち充作品、高橋留美子作品と比べても原作の絵によるものが少ないようである。

     上に述べたように原作の絵に力があったとすると、奇妙なことのようでもある。

     

  • 「きまぐれオレンジ☆ロード」―漫画とTVシリーズの違いについて

    「きまぐれオレンジ☆ロード」―漫画とTVシリーズの違いについて

     漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」と、漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を原作として作られたアニメ版TVシリーズとの間には色々と違うところがある。


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    漫画とアニメ版TVシリーズ

     「きまぐれオレンジ☆ロード」は「週刊少年ジャンプ」で1984年15号(3月26日号)から連載を開始した漫画。

     その漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を原作としたアニメ「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは1987年4月6日から放映された。

     そのTVシリーズが放映されている間に、「週刊少年ジャンプ」1987年42号(9月28日号)で漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」は終わった。

     TVシリーズは1988年3月7日に終わった。

    私の経験

     私は前に漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を読んでいた。

     数年前、たまたま漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」を読んで、関心をもって調べている時にはじめてTVシリーズの存在を知った。

     それまでTVシリーズの存在を知らなかったのである。

     そこでTVシリーズを取り寄せてみた。

     しかしどうにも楽しむことができない。


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    何故にTVシリーズを楽しむことができなかったか?

     私は漫画、アニメのことに詳しくなくて、何故にTVシリーズを楽しむことができないか、よくわからなかった。

     そのうちにわかってきた。

    一般論

     漫画、アニメに詳しくないと、漫画を原作としたアニメは漫画をアニメのかたちにしただけのものと思ってしまう。

     実際には、漫画の作者と違う人がアニメを作る。

     その人によって絵も話も原作と違うものになる。

    1980年代の漫画原作アニメ

     1980年代の漫画原作アニメでは、アニメの作り手が原作の通りに作らずに、原作と違うように作ることが広く行われていた。

     「うる星やつら」のアニメ版(1981~1986年)はそのことで有名であった。

     「うる星やつら」のアニメ版では、アニメの作り手が「暴走」して原作と違うものにしてしまうことが多かったが、そのことで評判になって、大ヒットした。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズを制作したスタジオぴえろは、その「うる星やつら」を制作したところである。

     「きまぐれオレンジ☆ロード」でも、「うる星やつら」と同じように、アニメの作り手に「暴走」させることを考えていたと思われる。

    「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの作り手の言葉

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの作り手の言葉をとりあげてみる。

    監督 小林治氏

     TVシリーズの監督小林治氏は次のように語っていたと言われている。

    小林治が監督を務めた『きまぐれオレンジ☆ロード』について取材した際に、それに関する話をうかがった。小林監督は「どう思われているか分からないけれど、自分はこういった作品でも、たとえば世界名作劇場と同じような作りにしたいと思っている」と話してくれた。

    WEBアニメスタイル アニメ様365日 第169回 カメラで撮られた世界としての『クリィミーマミ』

     必ずしも明らかでないが、原作の漫画「きまぐれオレンジ☆ロード」の感じをそのままアニメにするのではなく、それとは異なるような、「たとえば世界名作劇場と同じような作り」にしたいということのようである。

    キャラクターデザイン 高田明美氏

     キャラクターデザインを担当した高田明美氏は次のように語っている。

    『うる星やつら』はあまりバリエーションのあるイラストを描く余裕がなかったんですけれど、けっこうお任せだった『オレンジロード』はどっちかというと芸能プロの社長みたいな感覚で、「預けてもらった大事なタレントをどう売っていこうかな」みたいな視点で描いていました。

    高田明美が明かす〝暇つぶし〟から始まった『パトレイバー』秘話

     「預けてもらった大事なタレントをどう売っていこうかな」というのは、原作漫画の感じをどうやってアニメにするかということではなく、高田明美氏のやり方でやっていくということであろう。

    シリーズ構成、脚本 寺田憲史氏

     寺田憲史氏が原作の感じをアニメ化しようと考えいなかったことは、様々なところからうかがうことができるが、ここでは小説版のあとがきの中の言葉を挙げておこう。

    自由な雰囲気で物作りができたのも、まつもとさんが、われわれ映像スタッフを信じて任せてくれたからだと思う。

    「新きまぐれオレンジ☆ロード そしてあの夏のはじまり」

     「自由な雰囲気で物作りができた」というのは、原作にとらわれることなくやりたいことをやったということであろう。

    文芸 静谷伊佐夫氏

     文芸担当の静谷伊佐夫氏の言葉もとりあげておこう。

     TVシリーズの放映開始前に「アニメージュ」1987年4月号の新番組紹介で語っているもの。

     ある日、制作部長から「こんどウチでやる『きまぐれオレンジロード』の文芸をやるように」といわれた。喜んだと同時に、ちょっとアセった。
     というのも、マンガ週刊誌は毎週欠かさず読んでいるが、このページだけは毎週欠かさず飛ばしていたからだ。それはべつにこの作品がきらいというわけではなくて、ボクは”青春もの”全般がきらいなのだ。なぜかというと”ウソ”が多いからだ。
     だって、中・高校生のころって、みんなすごくドロドロ、ウジウジしてなかったか⁉ いっぺんだてスカッとしたことなんてなかったんじゃないのか⁉ ボクはそうだった…。
    (中略)
     ボクも何本かおきにシナリオを書かせてもらえる。(中略)ボクが書く1本1本のシナリオに、ボク自身が体験した脂ぎった体臭をはらんだ「青春」を描いていきたい。―それが喜んだ理由。
     そんな気持ちで「きまぐれオレンジロード」に立ち向かっているんだ。

    「アニメージュ」1987年4月号、94頁

     静谷氏も原作の感じをアニメにしようとは考えておらず、原作と異なる自分の「青春」を描くと語っている。

     それにしてもこの発言は、原作ファンにとって衝撃的である。

     「マンガ週刊誌は毎週欠かさず読んでいるが、このページだけは毎週欠かさず飛ばしていた」という人がTVシリーズの文芸を担当するということも、原作ファンにとって残念なことである。

     その人が「ボク自身が体験した脂ぎった体臭をはらんだ「青春」を描いていきたい」と述べていることも、原作ファンにとって残念なことである。

     当時の原作ファンはこれを読んでがっかりしたのではないか?

     静谷氏の言葉と同じ頁には、「陽あたり良好!」のTVシリーズの制作担当の金正廣氏の「スタッフは前作「タッチ」とほぼ同じメンバー。全員あだち作品のよき理解者ばかり」と言う言葉もある。

     「陽あたり良好!」のTVシリーズの作り手は「全員あだち作品のよき理解者ばかり」であるというのに対して、「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの作り手は原作を無視して「ボクの青春」を描いていきたいと言っているのをみると、さらにがっかりする。

    まとめ

     このように「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズの作り手の主要な人物は、原作をどうアニメにするかということを考えておらず、どうやって原作と異なる自分の作品を作るかを考えていた。

     作る人が異なるゆえに出来たものも違うものになっただけではない。

     それぞれが原作と異なる自分の方向に向かっていたのである。

    原作ファンの反応

     「きまぐれオレンジ☆ロード」のTVシリーズは、絵も話も演出も原作と違うものになった。

     しかもTVシリーズは原作と違うだけでなく、原作と違う方向に向かっている。

     原作を読んでから、そのアニメ版としてTVシリーズをみると、違和感がある。

     原作に思い入れある人ほどその違和感は強く不満を感ずるであろう。

     原作のあの絵、あの話、あの場面をアニメの形でみようと思っても、絵も話も演出も変わっているので満足することはできない。

     原作ファンでTVシリーズをみて楽しむことができなかった人は少なくなかったのではないか?


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