東京オリンピック2020の時のマスメディアと専門家はおかしかったのではないか?

広告
政治
写真AC
広告

(※当サイトはアフィリエイト広告を利用しています)

 東京オリンピック2020の開催前、マスメディアは新型コロナウイルスの感染拡大による危険を強調して、五輪は中止しなくてはならないとまで言っていた。当時マスメディアが取り上げた「専門家」と言われる人々もそのようなことを言っていた。

 しかしほんとうに五輪は中止しなくてはならなかったのか? 五輪開催による利益と損害とは十分に考えられていたのか? 五輪を開催するか中止するか、東京都民、日本国民の自由な判断をマスメディアと専門家は奪わなかったか? 五輪開催前に不安を煽っていたマスメディアが開催後に五輪報道一色になっていたことは、倫理的に批判されなくてはならないことではないか? 五輪中止を求めていた専門家はその発言の責任をとったか?

 このように科学の問題、科学者と倫理の関係、報道機関と倫理の関係、民主主義の問題など、考えなくてはならないことが多くある。

広告

中止を求めた朝日新聞

 2020年初めからの新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、東京五輪は1年延期され2021年の7月から8月にかけて開催されることになった。ところが2021年に感染は終息せず、逆に拡大していた。そこでマスメディアは盛んに五輪開催は危険だとする論調を広めた。その中で朝日新聞は2021年5月26日「(社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」という社説で首相に五輪の中止の決断を求めるに至った。

 ここでは当時のマスメディアの論調の代表的なものとしてその朝日新聞の社説をとりあげる。そしてその議論のおかしいところを明らかにしよう。社説は次のように始まる。

 新型コロナウイルスの感染拡大は止まらず、東京都などに出されている緊急事態宣言の再延長は避けられない情勢だ。
 この夏にその東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない。人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む政府、都、五輪関係者らに対する不信と反発は広がるばかりだ。
 冷静に、客観的に周囲の状況を見極め、今夏の開催の中止を決断するよう菅首相に求める。

朝日新聞 (社説)夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める

 この社説には、第一に状況に対する考え方の問題、第二に責任の問題がある。

「客観的」か「主観的」か

 朝日新聞は菅首相(当時)に対して「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」ることを求めている。「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」るならば「今夏の開催の中止を決断する」ことになるというのである。

 しかし「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」ることを求めるこの社説自身「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」たものであろうか? この社説の主張は、緊急事態宣言の再延長が避けられない東京で「五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない」というものであるが、その主張は「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」たものであろうか?

 客観的な認識とは、開催による利益と損害を比較して考えることである。それに対してこの社説には、開催による利益はどのくらいか、損害はどのくらいか、という客観的な考察がなく、その考察をもとにして比較して考えるということがない。この社説は五輪について「社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典」というように利益を全く否定し、損害だけと決めつけているが、「社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典」という言葉は、「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」たものとは考えられない。主観的にきめつけたものと言わなくてはならないであろう。

 新型コロナウイルスの感染が拡大してからスポーツは制限されたが、東京五輪前には観客を入れることが再開されていた。たとえば2021年6月から7月にかけて欧州で行われたサッカーのUEFA EURO 2020では欧州各地のスタジアムでそれぞれ1万人以上の観客を入れていた。国内でも観客を入れることは再開されていた。それに対して朝日新聞の社説は「IOCや組織委員会は「検査と隔離」で対応するといい、この方式で多くの国際大会が開かれてきた実績を強調する。しかし五輪は規模がまるで違う」という。「五輪は規模がまるで違う」ということは当時盛んに言われていたことであるが、規模が大きい五輪に対してはそれだけの対応をすればいいのではないか? 「五輪は規模がまるで違う」ゆえにできないというのは主観的な考え方ではないか?

 朝日新聞が言うように「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」なくてはならない。しかし「冷静に、客観的に周囲の状況を見極め」とは、朝日新聞のように「この夏にその東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない」というような主観的な感情を真実と思い込むことではない。開催した場合、しない場合で利益・損害はどのくらいになるかを比較して考えることである。

 現実には開催されて特に大きな問題は起こらなかったことを考えると、五輪を開催した政府・都、五輪関係者らの方が朝日新聞より正しかったということになるのではないか?

国民

 朝日新聞の社説の第二の問題は、朝日新聞が勝手に対立構造をつくり出していることである。

 上に引用したところでも、一方に「当然の疑問や懸念」を抱く人々がいるのに、政府、都、五輪関係者らはそれに向き合おうとせずに「突き進む」ものとされている。その後のところでは「国民の声がどうあろうが、首相は開催する意向だと伝えられる」というように、国民は開催に同意していないのに首相等少数の者が開催に向かって突き進んでいるものとされている。

 国民は朝日新聞が語るように政府と対立していたのであろうか? 必ずしもそうではなかったのではないかと思われる。朝日新聞の同年8月9日「菅内閣支持28%で最低 五輪開催「よかった」56% 朝日新聞社世論調査」によると、朝日新聞が五輪開催後の7、8日に全国で実施した調査では「五輪開催は「よかった」が56%、「よくなかった」は32%だった」とある。五輪を開催して現実にその利益を知った結果、多くの人が開催はよかったと思ったのである。

 五輪開催前の朝日新聞の社説は「社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典を強行したとき、何を得て、何を失うのか。首相はよくよく考えねばならない」と語っていたが、五輪を「社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典」として中止を求めていた朝日新聞こそ「社会に分断を残し」たのではないか?

 そもそも2021年前半においては、東京五輪は日本国民の背負った重荷だったのではないか? 新型コロナウイルスが感染する中で日本国民がどうにかしなくてはならないことだったのではないか? その日本国民には朝日新聞も当然含まれる。ところが朝日新聞はその責任を政府、都、五輪関係者だけに負わせた。「五輪は政権を維持し、選挙に臨むための道具になりつつある」と言って、五輪を一部の人の私利によるものときめつけた。五輪に対して国民、朝日新聞はどう主体的に対処するか、という問題から多くの人の目をそらした。朝日新聞によって日本国民は、五輪開催前は五輪開催に反対しながら、開催後は五輪を開催してよかったという無責任な存在に仕立てられたわけである。

 感染が拡大する中で責任を他の人に負わせてただ反対を唱えることは楽なことである。勿論無責任なことである。朝日新聞は菅首相に対して「問題が起きたら、誰が責任をとるのか、とれるのか」と言っていたが、朝日新聞の言う通りに開催を中止していた場合、「誰が責任をとるのか、とれるのか」?

マスメディアの責任

 朝日新聞は五輪中止を求める社説を出したが、東京五輪の「オフィシャルパートナー」になっていた。筋が通らないのではないかと批判されて、次のように答えている。

 一方、2016年1月に大会組織委員会とオフィシャルパートナー契約を結んだことをお伝えした際、「オフィシャルパートナーとしての活動と言論機関としての報道は一線を画します」とお約束しました。朝日新聞が五輪に関わる事象を時々刻々、公正な視点で報じていくことに変わりありません。社説などの言論は常に是々非々の立場を貫いています。今後も引き続き紙面や朝日新聞デジタルで、多角的な視点からの議論や提言に努めます。

朝日新聞社 東京2020オフィシャルパートナーとして

 オフィシャルパートナーでありながら「公正な視点で報じていく」「常に是々非々の立場を貫いています」というのであるが、あまりに自分に甘いのではないか?

 社説で五輪は中止しなくてはならないと主張するのであれば、会社として五輪から手を引かなくては筋が通らない。

 そもそも五輪の報道・放送によって多大な利益を得るマスメディアが五輪の中止を求めるなどということは、筋が通らないことである。五輪は中止しなくてはならないというのであれば、五輪から手を引いて、あくまで中止を求めなくてはならない。五輪の報道・放送によって利益を得るのであれば、できるかぎり五輪を擁護しなくてはならない。

 2021年6月の記事でデーブ・スペクター氏が当時のテレビ局の内側に次のようなやりとりがあったと語っている。

盛り上げないといけないから面倒くさいですよ。今日もテレビ局でみんなと話したのだが、毎日、五輪開催について批判的な声を報じているのに、始まったら急に万歳しないといけなくなる、どうするんだよ、と。

NEWSWEEK デーブ・スペクター「日本は不思議なことに、オウンゴールで五輪に失敗した」

 テレビ局の無責任なやり方がよくわかる。しかし五輪が開催されると盛り上がることは開催前からわかっていたと思われるが、テレビ局の中の人はわかっていなかったのであろうか?

反政府運動の責任

 立憲民主党の議員が五輪開催に反対しながら五輪が開催されると選手を応援していたことも、筋が通らない。

 五輪には政府がやる大会という面と選手がやる大会という面という二つの面がある。朝日新聞も立憲民主党議員も政府がやる大会を非難していたわけである。しかし五輪は政府がやる大会であると同時に選手がやる大会である。選手がやる大会を非難していたことになる。

 蓮舫氏は政府は危機管理ができていないということを問題としている。しかし危機管理ができていないということは正しいのか? そのことのために蓮舫氏は選手のやる大会をやめさせようとしていたのである。

 五輪開催の中止を求める運動は、選手と対立することになる。藤崎剛人氏が「選手本人の気持ち、選手に対する市民の同情とは別個の問題として、選手と市民のあいだには構造的な敵対関係が存在する」という通りである。Newsweek日本版5月16日付「池江選手に五輪辞退をお願いするのは酷くない」という記事で藤崎剛人氏は、開催前の5月7日、オリンピック水泳日本代表の池江璃花子選手がTwitterでオリンピック辞退や反対の表明を求めるコメントがSNSなどに寄せられていることを明らかにした上で「頑張っている選手をどんな状況になっても暖かく見守っていてほしいなと思います」と綴ったことを取り上げてそう語っていた。

 反政府運動で五輪開催に反対していた人は、五輪開催に問題があるゆえに反対していたのではなくて、五輪開催に反対するという目的が先にあって理由はそのために付け加えられたのではないか? 新型コロナウイルスがなかったならば、高温を問題としていたであろう。新型コロナウイルスはそれより有力な理由になった。新型コロナウイルスの危険を強調することによって多くの人の感情を動かすことができたのである。そこで客観的にとらえてどう対処するかということは問題とされなかった。

 上野千鶴子氏が五輪閉幕前に五輪開催中止を訴えたことは、感染の危険性を問題としていなかったからと思われる。閉幕前に中止をしても、中止をせずに閉幕しても、危険性は変わらないであろう。危険性を問題としているのではなく、危険性を口実として開催中止しようとしていたのであろう。

マスメディアによる袋叩き

 東京五輪は開幕前マスメディアによって袋叩きにされていたという印象が強い。新型コロナウイルスの感染の恐怖は、そのための大きな題材であった。その他にも

・2021年2月3日の日本オリンピック委員会の臨時評議員会での組織委員会会長であった森喜朗氏の発言がたたかれて、森氏は辞任した。―「朝日新聞」2月3日「「女性がたくさん入っている会議は時間かかる」森喜朗氏」 何が悪いのかよくわからないことであった。森氏は女性登用に反対したのか?

・3月17日、渡辺直美氏を開会式で豚を演じさせるという演出の案が報じられてたたかれ、その案を出した開会式の演出の「総合統括」を担当する佐々木宏氏は辞任した。―「週刊文春」の3月17日の記事「「渡辺直美をブタ=オリンピッグに」東京五輪開会式「責任者」が差別的演出プラン」 これも何が悪いのかよくわからないことであった。渡辺直美氏が豚を演ずるという案は女性の容姿を侮辱することではないであろう。そもそも没になった案である。増田明美氏「スポーツジャーナリスト・増田明美 的外れな告げ口に対抗を

・7月14日に開会式の楽曲担当になった小山田圭吾氏が過去の雑誌での発言によって叩かれて19日に辞任した。―「朝日新聞」7月19日「小山田さん、組織委に辞任申し出 「配慮に欠けていた」

・7月22日には開閉会式の演出を担当する小林賢太郎氏が、過去のコントでナチス・ドイツが行ったホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)をネタにしたことが非難されて解任された。―朝日新聞7月22日「「国際問題になりかねない」 開閉会式演出の小林氏解任

 このように五輪は開催前、袋叩きにされていた。大きな問題があったというより、マスメディアが大きな問題にしたように見える。組織委員会の人選に問題があったと言われたが、それほど問題があったとは思えない。攻撃に対してそのまま受け入れてしまったことに問題はあったかもしれない。

専門家の問題

 五輪開催前、新型コロナウイルス感染対策の専門家とされる人々の五輪開催に対して否定的な発言をしていた。朝日新聞のように開催中止を求める論調は、そのことによって力を得ていたと思われる。ここでは五輪開催に対して否定的な発言をしていた「専門家」のことをも問題とする。

専門家有志の提言

 2021年6月18日、尾身茂氏等専門家有志は五輪・パラリンピックに伴う感染拡大に向けた提言を大会組織委員会の橋本聖子会長(当時)らに提出した。「無観客開催が望ましい」というものであった。―NHK「専門家有志が会見「リスクを十分認識し拡大しないよう対策を」

 この提言にはいくつか問題がある。

独裁

 尾身氏等は分科会としてではなく専門家有志として提言を出した。何故か? 分科会には尾身氏等と考えの違う経済や社会の専門家がいたからであった。尾身氏は「中央公論」2021年11月号で次のように語っている。

私は分科会としてやらないほうがいいと思っていました。
 医療の専門家だけだと感染症対策に軸足を置きがちになりますので、分科会には経済や社会の専門家もメンバーに入っています。五輪の話は、私の頭のなかでは、経済と感染拡大防止の両立ということではないと思っていました。感染拡大を抑えないと、両立を考える余裕はなくなる。これを経済の専門家と平場の会議で議論したら、絶対にまとまりません。つまり、分科会としてコンセンサスを得ることはできないと直感で思いました。

「中央公論」2021年11月号「菅政権がコロナに敗北した理由」、74頁

 分科会は尾身氏等「医療の専門家」と「経済や社会の専門家」からなる。尾身氏等は「経済の専門家と平場の会議で議論したら、絶対にまとまりません」と考えた結果、分科会としてではなく専門家有志として提言を出すことにした。その提言は分科会の「経済や社会の専門家」に反対されると思われたものであった。尾身氏は「感染拡大を抑えないと、両立を考える余裕はなくなる」と考えて、分科会としてではなく専門家有志として提言を出したという。尾身氏等が「感染拡大を抑えないと、両立を考える余裕はなくなる」と考えたとしても、「経済や社会の専門家」と議論をしなくてはならないのではないか?

 このように尾身氏等「専門家有志」の提言は、分科会の中でも「経済や社会の専門家」に反対されると思われたことを「医療の専門家」だけで出したものであった。ところが科学的真理であるかのようにマスメディアは報道した。政府・都・大会組織委員会に対して科学的真理をつきつけたもののように報道された。

 コロナ禍では、このように尾身氏等「医療の専門家」の言うことがそのまま科学的真理であるかのように報道されることが多かった。尾身氏等の言うことは必ずしも正しいことではない。経済の問題を「医療の専門家」が決めてしまうことができるのかという問題もある。そういう問題があるにもかかわらず、科学的真理そのものであるかのように報道されることが多かった。2022年1月の菅氏と橋下徹氏の対談はそのことを問題としている。

橋下:菅さんの考え方でバーンと決めて、専門家が“それは違う”と言うと、どうしても世間は専門家の意見を絶対視してしまう。
菅:圧倒的に専門家だった。

熾烈なワクチン獲得競争、オリパラ無観客開催、自民党総裁選と解散総選挙…菅前総理が語った裏側の攻防・決断

 五輪開催後の調査で、五輪は「よかった」という声が多かったのに対して菅内閣の支持率が低くなったのは専門家、マスメディアによるところもあったかもしれない。 ―「菅内閣の支持率は28%と昨年9月の発足以降、初めて3割を切った。

無観客ということについて

 無観客ということについて尾身氏は「観客を入れても、私は、会場内で感染爆発が起きるとは思っていませんでした」と語っている。(「中央公論」2021年11月号「菅政権がコロナに敗北した理由」、76頁)観客を入れても感染爆発が起きると思っていなかったのに「無観客開催が望ましい」と提言したのはおかしいのではないか?

 後のインタビュー「尾身茂氏に聞く、東京五輪・無観客開催の舞台裏…「尾身会長は政治家だ」批判に何を思った?」で尾身氏は「有観客で開催してもよかったのではないか」という批判に対して「有観客で開催してしまうと、そのころ国民に求めていた「人と人との接触機会を少なくしてほしい」というメッセージと矛盾してしまう。」と語っている。「中央公論」の「菅政権がコロナに敗北した理由」でも「観客を入れたら、テレワークなどによって人と人とが接触する機会を少なくしてほしいと国民に求めていることと矛盾したメッセージを送ることになります」(76頁)と言っていた。

 やはり尾身氏の主張はおかしいのではないか? 観客を入れることによって会場内で感染爆発が起きることはないと思っていたのであれば、観客を入れることにした上で「人と人とが接触する機会を少なくしてほしい」というメッセージを送ればいいのではないか? 尾身氏は広く多くの人に届くメッセージを考えているのであろうが、そのために、観客を入れることによって会場内で感染爆発が起きることはないと思っているにもかかわらず「無観客開催が望ましい」と提言することは理解に苦しむ。また「観客を入れたら、テレワークなどによって人と人とが接触する機会を少なくしてほしいと国民に求めていることと矛盾したメッセージを送ることになります」というようにメッセージの効果を決めてかかっていることも理解に苦しむ。尾身氏はどういう根拠によってそのようにメッセージの効果をきめつけることができるのか?

メッセージ

 五輪開催前に五輪開催は感染対策と矛盾したメッセージになるなどということがマスメディアで盛んに言われていた。しかしそういうことを聞くたびに奇妙に思った。現実には、五輪開催は感染対策と矛盾したメッセージになるという議論が盛んにマスメディアによって伝えられていたからである。そういう議論を盛んに流すひまがあるならば、五輪は開催するが感染対策はしっかりしようというメッセージを流した方が効果的だったのではないか?

 尾身氏はまた「菅政権がコロナに敗北した理由」において、「政治家が専門家と違った意見を持って、異なったことを実行したいという時には、国民に対して、しっかりと説明する必要があります」といい、菅首相は「メッセージ」を出さなくてはならなかったという。(「中央公論」2021年11月号、71~72頁)たしかに菅首相は雄弁ではなかった。しかし尾身氏等が自分たちの主張を科学的真理であるかのように菅首相に対してつきつけた後では、菅首相がそれに対して自分の考えを主張することは容易ではなかった。先に引用した橋下徹氏の言うように「菅さんの考え方でバーンと決めて、専門家が“それは違う”と言うと、どうしても世間は専門家の意見を絶対視してしまう」。尾身氏は自分の発言がどの効果をもたらしたか、考えていないのであろうか?

 ちなみに菅首相は6月17日の記者会見で次のように述べていた。

世界のおよそ40億人がテレビなどを通じて大会を観戦すると言われています。東日本大震災から復興を遂げた姿を世界に発信し、子供たちに夢や感動を伝える機会になります。57年前の東京大会では、パラリンピックの名称が初めて使われ、障害者の方々が社会で活躍していこうという契機になったと思います。再びこの東京の地で、頑張ることによって壁を乗り越える、そのことができることの大切さや、障害のある方もない方も、お年寄りも若者も、みんなが助け合って共に生きるという共生社会の実現に向けた、心のバリアフリー精神を、しっかりと大会を通じて伝えたいと思います。人類が新型コロナという大きな困難に直面する今だからこそ、世界が団結し、人々の努力と英知でこの難局を乗り越えていくことを日本から世界に発信したいと考えています。そのためには、東京大会は安全・安心に開催すること、そして大会期間中、日本国内の感染拡大を抑え、大会終了後の感染拡大防止にもつなげていくことが不可欠であると考えています。皆様には、家でのテレビ観戦などを通じ、アスリートを応援していただきたいと思います。

令和3年6月17日 菅内閣総理大臣記者会見

 「人類が新型コロナという大きな困難に直面する今だからこそ、世界が団結し、人々の努力と英知でこの難局を乗り越えていくことを日本から世界に発信したい」ということは、当時の日本の課題であった。東京五輪に対しては様々な考えがあるであろうが、2021年の日本にはそういう課題があった。菅首相に説明してもらわなくてはならないことではない。ところがマスメディアも尾身氏等「専門家」も菅首相等に責任を押し付けてしまった。

 そもそも五輪は開催後に多くの人がよかったというような催し物である。政府に説明してもらわなくてはならないことであろうか?

その他に目立った「専門家」の発言

 その他に目立った「専門家」の発言をとりあげる。

 BuzzFeedは2021年6月28日「「おもてなしどころか、国際的に恥をかく事態も」 医療崩壊も想定される東京五輪で考えておくべきこと」という京都大学大学院医学研究科教授の理論疫学者、西浦博氏のインタビュー記事を出した。五輪はとてもできないようなタイトルである。

 新型コロナウイルスの流行の中で専門家として有名になった手を洗う救急医Taka氏は2021年6月28日、西浦氏の記事を引用して次のようにツイートした。

 こちらも「地獄絵図」というような刺激的な表現を使っている。

 このように「専門家」が危険を煽る発言をして、それをマスメディアが広めた結果、五輪が始まる前の日本は不安に覆われているようであった。―東京新聞6月20日「五輪開催で「感染拡大が不安」は86% 無観客40%、中止は30%<共同世論調査>

 現実には西浦氏の予測とは違うことが起こった。

7月後半は2を超えていたので、当初、8月後半には万を超えるだろうとする予測値を出していました。明らかにそれは過大評価でした。でも、その予測を出した時は十分にあり得ると思っていました。

デルタ株にオリンピック、お盆や連休……それでもなぜ感染者は減った?西浦博さんが4つの仮説を検証

 西浦氏は感染拡大を過大に考えていたというのである。そういう予測をもとにしていた西浦氏の考えは正しくなかったようである。オリンピックとの関係を問われて次のように答えている。

接触とか夜間の繁華街でハイリスクの行動を取ることに関して言えば、オリンピックの影響はほぼなかった、つまり、明らかな増加も減少もなかった、と思います。

デルタ株にオリンピック、お盆や連休……それでもなぜ感染者は減った?西浦博さんが4つの仮説を検証

 尾身氏が問題としていた五輪開催が人と人との接触を少なくしてほしいというメッセージと矛盾したことになるということは起こらなかったというのである。

元からスタジアムの中での伝播の可能性は低いことはわかっていました。運営上は、全国民の移動率や接触率が急上昇せずに終わっていることは確かです。
だから主な影響として疑いなく言えるのは、心理的インパクトだと思います。心理的インパクトは数値化するのが困難ですが、他の点については、いくつかの分析はしていますので、より詳細な分析は今後研究として報告します。

デルタ株にオリンピック、お盆や連休……それでもなぜ感染者は減った?西浦博さんが4つの仮説を検証

 西浦氏も尾身氏と同じように観客を入れても会場内で感染爆発が起きると思っていなかったのであろうか? しかしその他の「心理的インパクト」とは何か?

 いずれにせよ、感染状況は西浦氏の予測と違って感染は8月中に減少していった。そして西浦氏は必ずしもその原因がわからなかった。そのくらいの認識で、西村氏は五輪の中止を科学的真理であるかのように訴え続けていたわけである。

 感染症専門内科医の岩田健太郎氏の「日刊ゲンダイ」の2021年7月3日の記事「私が東京五輪に断固反対する理由 岩田健太郎氏「万にひとつでも東京五輪が成功すると日本の感染症対策が死ぬ」をもとりあげておこう。「万にひとつでも東京五輪が成功したら、日本の進歩はありません」という理解しがたい主張である。政府・都・大会組織委は「安全・安心」を目標としたがそれでは「何が起きても「安心・安全だった」とされる」ことを問題としているらしい。しかし政府・都・大会組織委が何と言おうと客観的に論じればいい。専門家とされる人々の主張も客観的に論じればいいのではないか?

「専門家」に対する疑問

 五輪が開催される時にはデルタ株の感染が拡大していた。そのために緊迫感があったにちがない。しかし尾身氏やその他の専門家と言われる人々が感情的に危険を煽ることばかりを科学的真理であるかのように語っていたことは問題とされなくてはならないのではないか?

 国民が理性的に考えなくてはならなかったのに、「専門家」もマスメディアも煽情的であった。

 五輪が開催されて「専門家」の予測が間違っていたことが明らかになった。「専門家」もよくわかっていなかったことが明らかになった。ところがあれだけ五輪を中止させるために圧力をかけていたのに、責任をとることはない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました